「もの(物=鬼)」について
民俗学的には「物」という言葉は「鬼」を示す。
この件はすでに何度か触れてきましたが、あらためてどういう理屈でそうなっているのかを一通り確認しようと思います。
日本における「物(鬼)」の歴史について改めて軽く調べてみようかと。
主な参考文献は下記2冊です。
『鬼と天皇』
著者:大和岩雄 発行年:2012年(平成24) 出版者:白水社
(1992年に発行された本の新装版)
『鬼の研究』
著者:馬場あき子 発行年:1971年(昭和46) 出版者:三一書房
「物」=「鬼」の歴史に関しては正直この2冊を直接読んでもらった方が早いです。
どちらもおそらく普通に図書館に置いてあるタイプの本ですし、今なら新装版も買えます。
本命のとうらぶ考察の前に、「物(鬼)」に関するざっくりとした内容だけリストアップしたいと思います。
「鬼」と「物」、言葉の出発点から
『日本書紀』は「鬼」と書いて「もの」と訓ませる
『日本書紀』の文章には「鬼」という字が出てくるが、これは「もの」と訓むとされる。
「山に邪(あ)しき神あり、郊(のら)に姦(かだま)しき鬼(もの)あり。衢(ちまた)に遮り径(みち)を塞ぐ。多(さは)に人を苦(くるし)びしむ。其の東の夷(ひな)の中(うち)に、蝦夷(えみし)は是はなはだ強(こわ)し。」
(景行紀)
『鬼と天皇』によると、上代(奈良時代)の「鬼」の字は「もの」あるいは「しこ」と読まれており、『万葉集』でもその二つの訓み方だけがあって、「おに」という訓はまだ使われていないという。
このように「もの」と言う言葉は、かつては「鬼」を指し示すものであった。
『古事記』は『日本書紀』にいう「鬼」を人と書く
『日本書紀』が「まつろわぬ鬼(もの)」と書いている部分を、『古事記』は「まつろわぬ人」と書く。
『日本書紀』が「まつろわぬ人」を「鬼(もの)」と書いたのは、辺境の蝦夷らを正史の立場で蔑視したためだとされる。
神・人で物に近いものが「鬼(もの)」だから、『日本書紀』の編者は葦原中国の「蛍火の光(かがや)く神」や「蠅声(さばへな)す邪しき神」を「葦原中国の邪しき鬼(もの)」といい、蝦夷らのような異人を、「姦(かだま)しき鬼(もの)」としているのであるという。
『鬼と天皇』では、このように、日本の「鬼」表記は、正史『日本書紀』の編者の視点から生まれたものであることを、確認しておく必要があるという。
「鬼」はまた「しこ(醜)」とも読む
『日本書紀』に登場する「黄泉醜女(よもつしこめ)」は、黄泉の鬼だとされる。
本居宣長などは、『万葉集』が「鬼」の字を「しこ」と読んでいるのをヒントに
醜女=鬼女
と考えたという。
細かい説明は省くが、『鬼と天皇』によれば、「醜(しこ)」は魔性・鬼類を表す言葉だという。
大国主の別名が「葦原醜男」なのも不細工という意味ではなく、「しこ」という言葉が死に関わっているので、魔性・鬼類であることを示す名だという。
この発想は、中国の「鬼」が「死者」「死人の魂」など死と関わる言葉であることから来ているという。
「霊魂」と「物象」、両方の意味を持つ「物」という言葉
『万葉集』では「しこ」より「もの」の訓が多いので、「鬼」はおもに「もの」と訓まれていた。
民俗学者の折口信夫氏は「もの」を霊魂とし、「もの=精霊=鬼」と見る考え方を示した。
この折口説に関してはそれなりに批判もある。
「もの」という言葉はすべてが「精霊」の意味で使われているわけではなく、「物体」を意味している例が『万葉集』の時点であるという。
「もの」は「霊魂」か? それとも「物象」か?
『鬼と天皇』では様々な先行研究を引用して検討しながら、最終的には「もの」には物象と得体のしれない霊的存在を示す両方の意味、すなわち両義性があるという見解を採っている。
「もの」が「おに」と呼ばれるようになったのは平安時代以降
「鬼」が「もの」ではなく「鬼」と呼ばれるようになったのは平安時代に入ってから。
しかし「鬼」を「おに」と訓んでいる『和名抄』(931~937)や『日本霊異記』(810~824)の中でも、まだ「鬼」を「もの」と訓む例は残っていた。
「おに」の語源は陰陽道の概念「陰」と「隠」から
『和名抄』では「おに」の語源を「隠」としている。
「鬼物」は形が顕れるのを欲しないので、俗に「隠(おん)」といい、それから「鬼(おに)」というようになったという。
しかし、『日本釈名』(貝原益軒、1699)や『東雅』(新井白石、1719)は語源「陰(おん)」説を主張する。
この「陰」は「陰陽」の「陰」からだとする。
『鬼と天皇』では、「隠」「陰」のどちらの漢字も、光に対して影のイメージがあるから、どちらの漢字の転であれ、影のイメージとしての「おん」から「おに」と言う言葉が生まれたと考えられるとしている。
陰陽と鬼
陰陽師にとって重要な「物忌」は「もの」つまり「もののけ」に襲われる危険があるときに一定期間家に籠って「もののけ」を避ける行為である。
陰陽道ではこの「もののけ」を「鬼」と考える。
また安倍晴明が恐ろしい鬼が前からやってくるのを見つけたとき、その師の賀茂忠行は「隠形の術」で自分と供の身を隠したというエピソードがある。
『鬼と天皇』ではこうした陰陽師とかかわる「おん(陰・隠)」の「鬼(もの)」が、表記で「物・者」と区別されただけでなく、言葉でも区別され、「もの(物・者)」に対して「おん―おに(鬼)」と言われるようになったのだろうと見ている。
「物」と「鬼」と「付喪神」、日本とヨーロッパの差
「付喪神」の概念に対して、『鬼と天皇』では海外のポルターガイストの例を挙げて説明している。
日本では年経た器物に魂が宿り動き出したと考えることがあり、これが百鬼夜行に描かれる「付喪神」である。
この発想自体は中国の俗信、兵士や牛馬の血が百年たって鬼火・蛍火(燐火)になることの影響だろうと考えられる。
しかし中国の場合は「血の変化」であって、日本のように人口物が百年たって動き出すという考えではない。
ヨーロッパ人は「物」と「霊」をはっきり区別しているため人工の「物」は妖怪にはならないと考えている。だから「物」がひとりでに動き出す現象を、他の零体が「物」を動かすポルタ―ガイスト現象として考える。
これらからすると、人工物が魂を得て動き出すという「付喪神」の考えは日本独特のものと言える。
「天皇」と「鬼」、夜明け前の神事に見る両義性
朝倉山の鬼
『日本書紀』に、天智天皇、天武天皇の実母である斉明天皇の葬儀を朝倉山から鬼が見ていたと言う話がある。
「鬼有りて、大笠を着て、喪の儀を臨み視る。衆(ひとびと)、皆嗟怪(みなおかし)ぶ。」
また、『鬼と天皇』によれば『日本書紀』の斉明天皇の記述には他にも即位の年に竜に乗ったものが空を飛んでいたなど、不思議な記述があるという。
この朝倉山の大笠を着ていた鬼に関しては、民俗学者の柳田国男氏は「山人の類であろうか」と述べているらしい。
『鬼と天皇』によると、『日本書紀』には朝倉山の木を切り倒して宮を作ったときに雷が落ち、鬼火が現れたという記述もあり、このことから『日本書紀』の編者は斉明天皇が鬼に殺されたとみているのだろうという。
「鬼」と「雷(いかづち)」
『日本書紀』の編者も、「雷」を「鬼」とみている。
朝倉山の神木を伐って宮殿を作った後、雷により宮殿が壊れ、宮中に鬼火が現れ近侍が病死した。
ここでは「神忿(いか)りて殿(おおとの)を壊(こは)つ。亦(また)、宮の中に鬼(もの)火あらわれ」となっている。
『鬼と天皇』では、この文章通りに神の怒りと解釈すれば落雷と鬼火は結びつくとしている。
『日本書紀』の神代紀にはイザナキがイザナミの死体を見た時に雷がそばにいたことも書かれている。
鬼と雷は重なっており、斉明紀の編者も、鬼火と同じく落雷を鬼神(朝倉山の神)の仕業とみたのであろう、という。
天皇と「まつろわぬ鬼(もの)」たち
上述したように『古事記』が「まつろわぬ人」と書いているところを『日本書紀』が「まつろわぬ鬼」と書いていることは、その「まつろわぬ鬼」たちが当時天皇に恭順しなかった蝦夷であることを示している。
その鬼の中でも、天皇に討たれる存在として描かれるものと、天皇に祟る存在として描かれるものがあるという。
雷を鬼とする(後述)以外の『日本書紀』の鬼関係の記事(「鬼神」「鬼魅」を含む)は三つに大別できるという。
1.天皇の神話上の源郷「高天原」の神に討たれるべき、「葦原中国」の「邪(あ)しき鬼(もの)」と「諸(もろもろ)の順(まつろ)はぬ鬼神(かみ)」の記事
2.天皇権力に反抗した蝦夷(景行紀)や、異人種の粛慎人(みしはせびと)(欽明紀)などを鬼(鬼魅)と書く記事
3.神木を天皇権力に伐られた朝倉山の神が落雷・鬼火となって祟り、宮殿を壊し、天皇や近侍の者を急死させ、天皇の葬儀に鬼となって現れたという記事(上述の斉明天皇の葬儀を視る朝倉山の鬼)
「土蜘蛛」の抵抗、「大人(オホビト)」
『日本書紀』では大和政権に従わなかった勢力を「まつろわぬ鬼神」としている。
また、能や歌舞伎では巨大な妖怪として知られる「土蜘蛛」という言葉も、民俗学的には先住土着民の力の強大なものを指しているという。
民俗学者の折口信夫氏は「オニ」とは「大人(おおひと)」のことであり征服された先住民のことではないかと語っているらしい。
「土蜘蛛」に関しては『常陸国風土記』『豊後国風土記』『肥前国風土記』『逸文風土記』などの『風土記』に記載が多いという。
「土蜘蛛」と呼ばれる人々の名には末尾が「媛(ひめ)」「女(め)」とつくものも多く、つまり卑弥呼のような女性の巫女が支配者であった様子を偲ばせる。
ヤマト政権はそうした先住民との争いに勝つことにより王権を掴んだと言える。
「土蜘蛛」と「羽白熊鷲」と「宿儺」
『鬼の研究』では『日本書紀』の「土蜘蛛」に関する記述で「羽白熊鷲」、「宿儺」のように『山海経』に出てくるような特異な怪人として描かれていることに触れている。これはヤマトタケルが東征の道々体験し出会った多くの神や、主(ぬし)の変身に似ていると言う。
「能登に服(まつろ)はぬ羽白熊鷲あり、人となり強(こわ)く、健くて、翼をもち翔る」
(『日本書紀』神功皇后)
「飛騨国に一人の人あり。宿儺(すくな)といふ。それひととなり体(むくろ)を一にして両の面あり。面おのおの相背(そむ)けり。頂合ひて頂きなし。各手足あり。其れ膝ありて 膕(よぼろ)、くびすなし」
(『日本書紀』仁徳天皇)
夜明け前の神事、天皇と鬼の両義性
『鬼と天皇』のあとがきでは、大笠を被った鬼の「隠」と「顕」の両義性を指摘している。
そして中国の正史の『隋書』の推古天皇8年の時代に、長安へ来た倭王の使者に倭国の風俗を尋ねた記事が載っていることに着目する。
「倭王は夜明け前にまつりごとをおこない、日が出れば仕事を弟にまかせてしまう」
天皇は「まつりごと」を夜おこない、日が出れば退場してしまうというのは、「暁に鳥など鳴きぬれば、鬼ども帰りぬ」と同じであるという。
「鬼道」を行う卑弥呼も普段は身を隠しており、男弟が国を治めるのを助けた。
倭王や天皇は「隠れもの」である一方、「日の御子」とも呼ばれる。
「隠」と「顕」の両義性を持つのは鬼だけでなく、天皇も同じである。
『鬼と天皇』の著者・大和岩雄氏は、「天皇も鬼であり鬼は天皇の影である」という視点に立って、鬼の問題を考えてみたという。
人を食う鬼
金工に関係する「目一つの鬼」
『出雲国風土記』に、「目一つの鬼(おの)」が農民を食った記述があるという。
「昔、或人、此処に山田を佃(つく)りて守りき。その時、目一つの鬼(もの)来りて、佃(たつく)る人の男を食(くら)ひき。」
民俗学では山神や山人は「目一つ」だという。
民俗学者の柳田国男氏が山に住む神が目一つであった記録が大量にあることを述べているという。
『日本書紀』の天孫降臨の条には
「天目一箇神(あまのまひとつのかみ)を作金者とす」
とある。
金工と一つ目の鬼の関係については以前から研究がされているらしく、山童とよばれる山の異形が目一つであるのは「作金者」が山と関わるからとされる。
炉の火力を穴から片目で見る金工は、長い年月の間に片方の目をやられる人が多い。
そのため金工に関わる山の神は目一つとされる。
食われる生贄「佃る人」
山の神とみられる妖怪・鬼は「正月事」にあらわれるという。
そして山の神は歳神でもある。
『古語拾遺』(807)に大地主が田人に牛肉を食わせたことを、山の神(歳神)が怒ると言う記事があるらしい。
その後、怒って祟った歳神に猪などを献じている。
『鬼と天皇』では、『古語拾遺』のこうした歳神への動物供儀から推察すると、『出雲国風土記』の「佃る人」が「目一つの鬼(もの)に食われたのは、供儀の生贄とみられるとしている。
また、動物供儀、人身供儀に関する諸例を挙げた上で、『出雲国風土記』の話は死と再生の死体化生神話が、鬼に食われる話に変わったものといえる。
食う鬼食われる鬼、鬼の「両義性」
説明が煩雑になるので思い切って割愛するが、供儀に関する全国各地の様々な祭儀の情報をまとめると、鬼と生贄の構図には、「食う側」だけでなく「食われる側」「追われる側」「殺される側」も鬼と見られているという。
『鬼と天皇』によれば、「佃る人」を食う「目一つの鬼」の山の神と、山の神の生贄にされた「佃る人」が一体になっている妖怪が「泥田坊」だという。
「目一つの鬼」や生贄の片目をつぶす風習やそこに「竹」が関連してくるなどの要素を突き詰めていくと、食うほうも食われるほうも、同じ神(鬼)だと言えるらしい。
オナリと生贄と鍛冶神
田植神事に登場する「オナリ」と言う役職(山神の巫女とも)がある。
スサノヲらに殺される穀神が各地の「嫁殺し田」の伝承のもとになったとみる考えがあるという。
八岐大蛇の生贄になった稲田媛を稲田のオナリ姫とみる。
この場合、稲田媛は「佃る人」にあたり、八岐大蛇は「目一つの鬼(もの)」と重なる。
「タタラオナリ」と言う存在があり、これも生贄となって殺されたのではないかと考えられる事例があるという。
「タタラオナリ」の存在、「鑪(たたら)の守護神」の「山神さま」が田の神になることからも、「佃る人」を食った「目一つの鬼(もの)」は山の神であると共に鍛冶神(天目一箇神・金山彦神)であるという。
鬼に食われる女、人身御供と神婚
823年前後に成立した『日本霊異記』に、聖武天皇時代に大和国の鏡作造の娘が初夜の床で鬼に食い殺されたという話が載っているという。
また、『日本書紀』には三輪山の神(蛇)が娘のところへ美しい男に化身して通ったが、男が蛇であることを知った娘が死ぬという話がある。
女が鬼に食われる話は神婚の要素を含みながらも、同時に人身供儀の生贄という要素を有している。
『鬼と天皇』では、『日本霊異記』の話も三輪山伝説も、女性は神妻であると共に生贄である、としている。
この件に関して、人によってはこの「人身供儀」「人身御供」の解釈を山人・山賊などの鬼と呼ばれる人々に略奪結婚をされるのを防ぐためにあらかじめ嫁がされた娘のことを「人身御供」と言ったのだと解釈がある。
(食われるは比喩で、実際には無理矢理結婚させられたことを人身御供と言ったのだとする説)
しかし『鬼と天皇』では、数々の生贄話は結婚の比喩には留まらず、明らかに食うことに主眼が置かれている話があることから、やはり人身御供は食われるための生贄の話、人身供儀はあったとみている。
酒呑童子譚の違い、攫った娘を食い殺す話とそうでない話
酒呑童子と言う名の鬼の話はいくつもの種類があるが、その中の『御伽草子』の渋川版では、鬼たちは都の姫君たちをさらってきて、犯したあとで食ったとあるらしい。
生贄としての人身御供譚と神婚譚の二つの要素がミックスした伝承のうち、本質的意味が忘れられ、怪異譚として語られるようになった。
ただし後述するが、酒呑童子に関する話は作者によって内容が違い、鬼として書かれた酒呑童子たちは姫君を食い殺していない話も存在する。
門と鬼、鬼が人を食うと信じられていたのは何故か
『日本三代実録』『今昔物語集』『古今著聞集』などには鬼が人を殺したという記事がある。
正史である『日本三大実録』には当時の世相も記され、災害による不安が怪異譚を流布させる理由だったとされる。
『日本紀略』の天徳2年(958)には一狂女が待賢門の前で死人の頭を食っていたという記述があるらしい。
しばしば「諸門」に臥していた病者が生きながら湌(くら)われた。。世間ではこれを「女鬼」の仕業とみなしていたとあるらしい。
病者が生きながら食われたのは、待賢門など内外の諸門に病者や死者が遺棄されていたからという。
さらに捨子も生きながら犬などに食われている。
『鬼と天皇』では、こうした世相であったから、生贄・人身御供譚を基底とする怪異譚とは別に、当時の人々は人を食う鬼が現実に居ると信じていたのである、としている。
討つものも鬼、討たれるものも鬼
「土も木もわが大君の国なれば、いづくか鬼の宿りなるらん」
『鬼と天皇』によると、謡曲や御伽草子の中にこのようなフレーズがたびたび登場すると言う。
「土も木もわが大君の国なれば、いづくか鬼の宿りなるらん」
(「草モ木モ我ガ大君ノ国ナレバイヅクカ鬼ノ棲(すみか)ナルベキ」)
『日本書紀』では景行天皇が息子のヤマトタケルに向かって「この天下(あまのした)は汝(いまし)の天下なり。……武(たけきこと)を振ひて姦(かだま)しき鬼(もの)を攘(はら)へ」と言っている。
この文言も「土も木も我が大君の国なれば」と同じ発想であり、「天皇の国には鬼の住むところはない」ということである、としている。
『伊勢物語』の鬼再考、権力者と言う鬼
『伊勢物語』の「芥川」に関しては「蔵」をアラヤと考える仏教的解釈について以前やりましたが、民俗学方面の知識を入れるとあの物語はこういう解釈になるようです。
『鬼と天皇』によると、
鬼は天皇と対極の存在だが、人を食う鬼と食われる鬼に両義性があるように、天皇および藤原摂関政治権力も鬼とみられていた。
古代の死と再生儀礼としての人身供儀から生まれた、人を食う「鬼(もの)」は、「まつろわぬ鬼(もの)」とみられていたが、一方では、まつろわせようとさせる時の権力も、人を食う「鬼(おに)」とみられていたのである。
『伊勢物語』の第六段で、女が二条后だと説明する後文には、女の兄の「堀河の大臣」(太政大臣藤原基経)と「太郎国経の大納言」(大納言藤原国経)が、まだ官位が低かったとき、女を蔵から「とりかへし」たので、「それをかく鬼といふなりけり」とあり、女を食ったとある鬼を藤原基経・国経のこととしている。
『鬼と天皇』では女を食った鬼に関し「権力機構としての天皇」だという。
天皇権力に祟る鬼、菅原道真
あしずりして嘆き悲しむだけだった在原業平と違い、無実の罪で非業の死を遂げた菅原道真は、鬼になって最大の鬼、天皇機構に祟っているという。
『鬼と天皇』では、『天満宮託宣記』に「雷神鬼」という言葉が登場することに着目する。
菅原道真が左遷先の大宰府で憤死した年から毎年のように天変地異が起こり、讒言をした張本人や関係者が次々に亡くなった。
朝廷は道真左遷の文書を破棄し、正二位を追贈し、年号も改めたがそれでも異変は収まらなかった。
醍醐天皇の死まで道真の怨霊によるとみた朝廷は、道真の霊を鎮めるため神社を北野に創始した。
京都の上御霊神社・下御霊神社にも菅原道真と同じような死に方をした人々を祀っている。
天皇と鬼の関係
幽閉・流刑・左遷された人々にとって権力は鬼であった。
『鬼と天皇』では天皇と鬼の関係を三種に分類している。
1.天皇に対立する存在、「まつろわぬもの」としての蝦夷や酒呑童子のような鬼
権力に対する鬼で、中心に対して周辺・辺境の存在。
2.鬼を討つ側の天皇権力としての鬼
権力としての見える鬼。
3.天皇権力の側に居たものが権力から追放されてなる鬼
権力から追放され、周辺・辺境の存在になった者が、死後、見えない鬼(怨霊)となって2の鬼に祟るもの
天皇と鬼は、一見対立的関係にあるように見えるが、一つの実体の表と裏の関係にあるという。
討つ鬼と討たれる鬼
天皇の命で大江山の鬼退治をする源頼光と、討たれる鬼(酒呑童子)もまた、表(頼光)と裏(酒呑童子)の関係にあるという。
頼光を「雷公」という例があり、ライコウ(雷公=頼光)の語呂合わせだが、人々が頼光に雷神的性格を見ていたからでもあろう、という。
頼光の四天王で酒呑童子を討ちに行く坂田金時は古浄瑠璃「清原右大将」に、足柄山の鬼女の子と書かれている。
『前太平記』では、足柄山の中で出会った老媼が雷鳴下に赤竜と交わって生まれた子としている。
この伝承から後の金太郎像が形成され、金太郎は雷神の子で、鬼とみられていたという。
金太郎の鉞と酒呑童子の鉄杖、長野県の金時伝説では生まれたばかりの金時は酒で育てたことから顔が赤いとあり、『御伽草子』の酒呑童子も常に酒を呑んでいて顔が赤い。
これらの共通項から、鬼を討つ側である坂田金時も山姥に育てられた鬼という存在である。
討つ側も鬼、討たれる側も鬼。
そして『鬼と天皇』ではこれらの鬼と権力の関係について面白い分析をしている。
権力に従うものは鬼にならない。権力に逆らうものか、権力を行使あるいは代行するものが鬼とみられたのは、権力に従う従順な良民の目には、どちらの側も、普通以上の力(マナ)をもつものと映ったからである、という。
討たれる鬼の視点、「鬼神に横道なきものを」
謡曲「大江山」は世阿弥か宮増の作といわれ、どちらにしても室町時代の作品である。
謡曲「大江山」には『御伽草子』以上に酒呑童子への作者の思い入れが伺えると言う。
謡曲「大江山」では攫われてきた女たちも召使にされているだけで、『御伽草子』のように食われてはいない。
ただし『御伽草子』も「大江山」と同じく酒呑童子への思い入れは継承している。
「情けなしとよ客僧達、偽りあらじといひつるに、鬼神に横道なきものを」
「大江山」にはこのような酒呑童子の台詞があり、『御伽草子』もそれを継承している。
山に隠れ住んでいた酒呑童子たちは、山伏だと嘘の名乗りをした頼光たちを信じて歓待したが、頼光たちが鬼たちを騙して斬ろうとしていたことが判明した時の台詞である。
この台詞に対する頼光側の返答が、上述の「これは勅なれば、土も木も、わが大君の国なれば、いづくか鬼の宿りなるらん」の台詞である。
鬼は横道(道に外れたこと)をせず、鬼を「勅なれば」といって討つ側が横道をするという発想が、酒呑童子譚の根底にあるという。
『鬼と天皇』では、「大江山」の作者(世阿弥または宮増)らは、室町幕府御用の芸能者だが、彼は漂泊芸能民の頂点にいた存在で、同類の多くは、天皇の「オオミタカラ」といわれる定着農耕民から差別されていた。彼らは、謡曲で「山育ち」といわれる酒呑童子と、五十歩百歩の存在であった。その彼らが作った話だから、平地の公民たちによる桃太郎譚と比べて、鬼への思いが違うのである、と言っている。
そして「大江山」の鬼に対する思い入れを継承している『御伽草子』の作者の方も、どうやら散所民や歩き比丘尼など、定着農耕民から蔑視される能役者・猿楽などの芸能民に近い存在であったらしい。
創作の中の鬼の描写については、こうした作者の立場による鬼への思い入れが反映されている。
鬼と童子(禿)、鬼と盗賊
大人になっても童子(禿)姿、酒呑童子
『善家秘記』によると、染殿の后を犯した鬼は「禿(かむろ)」という髪形であったという。
これは今でいうおかっぱ頭で、本来は子どもの髪形である。
そのため、「酒呑童子」と言う名の鬼もまた、数々の本で禿だったと書かれているらしい。
『鬼と天皇』によると、検非違使別当藤原宗忠の日記に「童鬼丸」と呼ばれる下人の話があり、「童」と「鬼」の重なりを示していると言う。
また、こうした「禿」と呼ばれる大人たちの統制からはずれ今で言う暴走族のような存在である童子を、『平家物語』で平清盛が利用していたことにも触れている。
鬼の子孫を名乗る「八瀬童子」の人々
八瀬村の人々、「八瀬童子」という人々は自分たちを「鬼の子孫」だと名乗っていたらしい。
もとは比叡山延暦寺の寺院権力の被支配者だったが、のちに天皇に仕えるようになったという。
巫女は髪を結わず長髪のまま、しかし長髪は古代の鬼神のイメージ
禿姿の童子が「鬼」とされるのに対し、長髪は巫女・神人の髪形である。
八瀬童子という人々はその長髪であった。
能でも神の示現を長髪で現わすという。
一方で、長髪はまた古代の鬼神のイメージでもあるという。
坂上田村麻呂と鈴鹿御前立烏帽子
大江山の酒呑童子のような存在は、山に住む盗賊を鬼と呼んだのではないかと考えられることがある。
鬼と呼ばれる盗賊退治としては、坂上田村麻呂が鈴鹿御前(女盗賊の立烏帽子)を倒したものが知られるというが、この鈴鹿御前は奥州の悪路王(阿黒王)とも関係があると言われる。
坂上田村麻呂の鬼退治に関しては様々な伝承と創作があり、史実としてはよくわからないのだが、創作はまぁなんかいっぱいある。
その創作の大元となった伝承である「鈴鹿御前」と「女盗賊・立烏帽子」の話は本来は別系統の民間伝承であったとも言われる。
さらに、坂上田村麻呂の鈴鹿の鬼退治は、その時坂上田村麻呂を援助した清水寺観音そのものが実は滅ぼされるべき鈴鹿御前の本身だったという複雑な説まである。
もう何がなんだか(坂上田村麻呂関係は創作と伝承含めかなり色々な説がある)。
『紅葉狩』の「紅葉」の盗賊への変容
『紅葉狩』の考察の時にやったが、「紅葉」ものちに盗賊的な活動をする鬼女と考えられるようになった。
この辺りは今回調べた鬼と盗賊のかかわりが関係あるのかもしれない。
『鬼の研究』では戸隠の鬼女「紅葉」について女装して旅人を誘い、夜叉の面をつけて脅し、鬼の名において殺害したものという説を紹介している。
盗賊と仮面の組み合わせには考えさせられるものがあるが、以前やった通り紅葉伝説はそもそも謡曲・能の『紅葉狩』が逆に生み出した伝説の可能性があるので、この部分に関しての記述は保留としたい。
女盗人の物語
『鬼の研究』では他に、いくつか興味深い女盗賊の物語を紹介している。
女が盗賊として活動しているという話であり、それも男を捕らえて盗賊として仕立て上げ、男は女が消えた後に自分の属する盗賊の首領こそがその女であったと気づく話や、検非違使の女房が実は盗賊の首領であったと判明する話である。
『今昔物語』「人に知られざる女盗人のものがたり」
『古今著聞集』「検非違使の別当隆房家の女房強盗の事露見して禁獄の事」
鈴鹿御前と女盗賊・立烏帽子の結びつきは実際に平安時代、このような女盗賊がそこそこ存在したことの影響があると考えられる。
鬼と女性
女が食われる話
823年前後に成立した『日本霊異記』に、聖武天皇時代に大和国の鏡作造の娘が初夜の床で鬼に食い殺されたという話が載っているという。
女性が鬼に食われる話は様々なものがあるがこれは代表的な一例で、この件から人身御供の伝統につなげる考えもある。
鬼と女が関わる話の中には、「人身御供」と「一夜妻」の概念で繋がれるものがある。
ただし人身御供の存在に関しては様々な学者による様々な説があらゆる観点から述べられていてあまり一定しない。
女が凌辱される話
女が鬼に凌辱される話は上の『日本霊異記』の話や御伽草子系の酒呑童子の話なども実はそうなのだが(犯したうえで食らっている)、『今昔物語集』には愛欲の心から鬼となった僧が天皇の后を犯す話がある。
この話の場合は、もともと霊障を解決するために呼ばれた僧が、染殿の后と呼ばれる女性の薄着姿をふと目にしてしまったことから愛欲の心を起こし、彼女を手に入れるためにこそ鬼となり、鬼となって染殿の后を犯したというあらすじである。
この話はモデルになった僧がいるらしく、別の資料にはその僧が「青き鬼」「紺青鬼」になったという話もあるらしい。ただし史実をモデルとしたというよりも断片を拾った際に話がどんどん変化して最終的に后に愛欲の心を抱いた話になったようだ。
女が鬼になる話、「能」などの創作世界に見る鬼の印象
『鬼の研究』は能や謡曲など創作の世界における様々な鬼の描写から、当時の人々が鬼に向けるまなざしに見られる鬼の性質を考察している。
『平家物語』の鉄輪の女(宇治の橋姫)
『源氏物語』の生霊、六条御息所
「道成寺」
「現在七面」
「黒塚」
他にも女性が登場する能の作品などの話題があったがあまりに多すぎるので割愛。興味のある方は以下略。
般若と蛇
『鬼の研究』では能面の般若と蛇に関し興味深い説を紹介している。
能面の「般若」とは「半蛇」であるという説である。
「道成寺」を「本成(ほんなり)」とし、「葵上」を「中成(ちゅうなり)」、「鉄輪」を「生成(なまなり)」と考えているが、その尺度は「蛇」であると言う。
「蛇」とは「邪」にも通じる音を持つ。
説話時代以降、女性の邪悪や嫉妬・邪淫の思いなどが凝って兇暴な蛇体となることが考えられた。
「本成」とはそうした「蛇」の極致にいたった状態をいったもので、比較の上から後半得脱する「葵上」を「中成」、自力では鬼と成れず貴船の助けを得た「鉄輪」を「生成」と認識したもの。
「般若」は従って「半蛇」で、「葵上」に相当する面とされた。
また、この「葵上」の主人公・六条御息所に関しては「白練」という成仏得脱する女人の浄衣にたとえられる扮装をしており、そこに関する考察もされている。
「鬼」と「女」は目に見えない
『鬼の研究』の著者・馬場あき子氏は「虫めづる姫君」のこのような一節に着目している。
「鬼と女とは人に見えぬぞよき」
変わり者として有名な「虫めづる姫君」の考えとはされているが、この頃には「鬼」も「女」も両方あまり表に出てこないもの、人に見えないものであったと伺わせる。
「ぬし」の系譜、家霊としての鬼や呪術の世界
土地神としての「ぬし」
『鬼の研究』によると、「ぬし」とは民俗学の上からも大切な問題を含む土地神の呼称だという。
『古語辞典』によれば今日の常識としてはおよそ7種類の意味がある。
1.主人の尊称
2.所有者
3.山川池沼などに居住を持つ魔力あるもの
4.夫
5.尊称
6.代名詞として敬称、多くは遊女語
7.遊女語として対称、客に用いた
古くは大きな土地神の尊称であり、天御中主や大国主、一言主などの神々の名前にも使われる。
古代においては太陽神に対する地霊の代表であるとも言う。
家霊としての鬼である「ぬし」
かつて大きな住宅はそれそのものが一族の繁栄を示すものであった。
そのため、その家や土地の所有権を死後も主張する「家霊」としての鬼、すなわち「ぬし」という概念があった。
『江談抄』、『古本説話集』、『今昔物語』、『宇治拾遺集』、『古事談』に収録されている話に、河原左大臣融の霊鬼と話をした宇多院の話が載っているという。
鬼への対抗者
上の話で、宇多院は河原左大臣融の霊と対面したが、自身の力で退けている。
融の子孫らが邸を献上したからこそ自分は住んでいる、お前は礼儀知らずにも何を恨んでいるのか、と高らかに答えて撃退したらしい。うわ宇多院ツヨイ。
ただし、『鬼の研究』ではそもそも融の霊がこうして出現したこと自体を当時の宇多院を廻る情勢の面から考察している。
一喝して家霊を退けた宇多天皇は強かったのか。
そもそも家霊という存在をの登場を許したこと自体が精神の脆さなのか。
「ぬし」や精霊
『鬼の研究』では「ぬし」やその場所に住む精霊に類される鬼の話としてこのような話を紹介している。
「東国より上る人鬼にあふものがたり」
「正親大分□若き時鬼にあふものがたり」
「東の人川原院に宿りて妻を取り吸はるるものがたり」
「幼児護りのために枕上に蒔きける米に血を付くるものがたり」
「三善清行宰相家渡りのものがたり」
「冷泉院の水の精人の形となり捕へらるるものがたり」
同じように鬼と呼ばれるものであっても、「ぬし」と呼ばれる家霊、精霊のたぐいはそれほど強くなく人の手で撃退される事例が結構多い。
鬼と天狗、山伏
「鬼」の「あはれ」、「天狗」の「をかし」
『鬼の研究』では鬼と天狗について興味深いことを言っている。
「鬼」は生活にまみれ、現実に血の通った怒りや怨みをてことして存在したが、「天狗」はその存在自体に生活性がなく、その行為も焦点があいまいで、激しさがない。
したがって「鬼」の抒情傾向は、時に「あはれ」につながるが、「天狗」はむしろ「をかし」の世界を多く持っているという。
天狗と幻術
『十訓抄』を典拠とした天狗の「大会」の話があるという。
ちょっとした油断から鳶の姿のまま子どもたちにつかまってしまった天狗は、通りかかった老僧に助けられ、その礼として「霊山の説法の場」の幻を見せて信心深い老僧を感激させる。
しかしそのことによって、天狗は宗教に対する欺瞞の罪により帝釈天の杖に打たれることになってしまうという。
『鬼の研究』によると、初期天狗説話の「幻術」は、仏教の権威とその代弁者たる僧侶への揶揄と侮蔑にみちており、末流の僧はしばしば幻術に誑かされ、酷い時は命まで失っているという。
しかし霊山の大会の話のように、時代が進むと天狗像も変化する。
『今昔物語』のニ十巻などは天狗の話が多いらしい。
天狗の星
「天狗」と言う言葉が記録に現れるのは『日本書紀』からであり、この時の天狗は流星のことである。
大きな星が落ちて雷に似た音がした。
それを「流星に非ず、是天狗(あまぎつね)なり。その吠ゆる声雷に似たらくのみ」と言ったらしい。
天狗はこのように流星と繋げて考えられる存在であり、宇宙や飛行と言った概念と近い。
天狗と神仙
『鬼の研究』によると、天狗の飛行の術の母体となるものに神仙思想があるという。
山の中で修行する、「仙」の道を学ぶという考えは道教のものである。
道教は山間修業者の論理的母胎の一つとなったものであり、修験道のなかに老荘の世界を持ち込み、脱俗の憧憬と人間を超える克苦の修業を正当化させる一要素となったという。
謡曲「花月」の少年と天狗
天狗の絡む謡曲に「花月」がある。
七歳の息子を天狗に攫われた男が出家し、諸国修行の旅の末、辿り着いた清水寺で曲舞を披露する花月という少年に出会い、自分の息子だと確信して親子の名乗りを上げる。
花月は天狗に攫われてからの旅路を振り返る舞を見せた後、父親の僧と共に仏道修行へ出るという話らしい。
この「花月」と言う名の由来について天狗・鬼研究の本が着目しているようなので書き留めておく。
「月は常住にして取り分き申すに及ばず、さて花(くわ)の字はと問へば、春は花(はな)、夏は瓜(うり)、秋は果(このみ)、冬は火(ひ)因果の果(くわ)をば末期まで一句の為に残す」
「花」「瓜」「果」「火」はいずれも「か」と発音し、因果の「果」とも結びつく。
無道の智者としての天狗
天狗は知恵や知識を相当持っている存在として描かれる。
その一方で、『源平盛衰記』などでは「無道心の智者」が死後に生まれ変わる生が天狗であるとしている。
天狗は仏法繁栄と共に台頭しながら、その繁栄の埒外で生きることを自らに課した智識者だという。
天狗の祖を猿田彦に求める俗説
天狗の祖を猿田彦に求める俗説があるという。
里神楽の猿田彦が天狗の面をつけるのもその根拠の一つとされる。
『鬼の研究』では猿田彦と能面の「ベシミ」の関係について触れている。
天狗と山伏
天狗の風貌は山伏に近い。
これは両者が共に山で生活する修行者であるというだけでなく、山伏人口が増えるとともに修験道の世界もまた少しずつ変化していったことが関係あるらしい。
山伏姿の天狗の話が残るのは『太平記』や能・謡曲などの創作の世界だが、その中の天狗の基本思想は「仁」の王道だともいう。
ただこのような変化を遂げたことによって、この頃の天狗はそれ以前よりも空間的な広さを失ったということもできる。
天狗説話の生長と展開、流星から迫害されるものへ
1.幻術や験力をもって体制の攪乱をねらうが高僧の威力に圧倒されて失敗され、迫害される。
鳶の本身をもち、術を失った時は飛行の力もなくして正体を衆目にさらす
2.次の時代、天狗は仏界権威の末端である僧侶の誑かしに成功し始める。
この時代の天狗は結果だけあって姿はどこへともなく消去しさっている。
人々は不可解な現象を天狗と山伏に託して説明しようとしている。
3.山伏姿の天狗が生まれ、乱世の様相を呈した中世社会に叛乱助力者として現れる
4.体制攪乱に成功し、人心に動揺をまきおこすようになる
5.非業の反乱者はすべて天狗として位置づけられ、ふたたび天界に君臨する。
それはもはや流星のような正体の曖昧なものではなく、崇徳院が黄金の鳶となって天帝のように君臨し、耀く非業の死者に囲まれて過去未来の世などを語る様子が想像されている。
鬼と山姥
山姥とは山の鬼女なり
「山姥」という存在については以前の考察で大分やったので割愛したい。
東南アジアにおけるハイヌウェレ神話との比較、山姥とは殺害されることによって豊饒をもたらすと言う性質。
そのため記紀神話の死して新たな神や食物を生み出す女神、イザナミやオオゲツヒメと関連付けて考えられること。
民話に登場する山姥は、こうした殺されることによって豊饒をもたらす山の女神の零落した姿だと考えられること。
また、山の神は多産という性質から、コノハナサクヤビメとの関係も挙げられること。
山姥という言葉の始まりは謡曲の「山姥」だと言われていること。
その謡曲「山姥」に「山姥とは山の鬼女なり」とあることから、山姥は「鬼女」と考えられること。
「瓜子姫」の民話のように、殺される側が「山姥」と「瓜子姫」で入れ替わるパターンが同じ民話として扱われること。
などの前提知識を頭に入れておきたい。
山姥と一言主
『鬼の研究』では、記紀神話の国つ神の一柱、「一言主」を女神として描いた能の「葛城」に着目し、全国的な散布を見る山姥伝説はこうした国つ神系の棄民の姿の一つと考えている。
山姥と遊女
『鬼の研究』では『更級日記』を例に挙げ、山姥と山に棲む遊女の関係を考察している。
牛方山姥
「牛方山姥」という山姥に関する有名な民話がある。
牛方が塩鯖を積んで売りに行くところ山姥と行き会ってしまい荷と牛を全て食べられてしまった。
牛方は一軒の家に逃げ込むがそこは山姥の家であった。
山姥の居眠り中に牛方は餅や甘酒を食す。
山姥が目を覚まして餅や甘酒を食ったのは誰かと問うと牛方は「火の神」だと答える。
山姥は「火の神」ならば仕方ないとあきらめる。
最終的に山姥は家の中で焼き殺されるという。
また「食わず女房」の話や、少女に「かくれみの」を与えて幸福にした山姥の話などもあり、山姥が山で生活をする女であること、稀に慈悲深い面を見せることなどが知られている。
鬼と境界、蓑笠と影
鬼と境界、「ミサキ」と「猿田彦」
鬼の子孫の八瀬童子について、八瀬村の『谷北文書』には、「天皇の御駕籠本陣へ御出入り時には必ず先棒の一人が右手を頭上にあげ前指ししつつ進行す。これを魔除けと称す」とあるらしい。
柳田国男氏は、「ミサキ」の語意について、「行列の前に立つこと、漢語で先鋒などと書くのがそれに相当し、無論軍陣の場合だけに限っていない。ミサキのミは多分敬語であろうから、その後に続くのは従者でなく、必ず尊き方々と解せられたことと思う」と書いているらしい。
猿田彦神を先導神・ミサキ神とみる説があり、猿田彦は天孫ニニギを先導しており、天皇を先導する八瀬童子と同じだという。
『日本書紀』は猿田彦を「衢神(ちまたのかみ)」と書くが、衢神は、辻、村堺、峠、坂、橋のたもとなどで疫神・悪霊を防障・防塞する神だから、「塞の神」ともいわれる。
さらに、中国の行路・旅の神である道祖神の信仰が入ってくると、猿田彦は道祖神にもなっているが、道祖神に付会されたのは、衢神が先導神だからであるという。
柳田国男氏は「石神問答」で、「サカ」「サキ」は同義で、「限境の義」と書くという。
猿田彦はこの境に居るが、鬼もこうした境界にあらわれる。
境界人(マージナルマン)としての異人的性格は、天皇の「魔除け」としての「ミサキ」の役を担った。
これは鬼が鬼を討つ発想による。
まれびとなる鬼の蓑笠、春来る鬼
災厄をもたらす鬼もいるが、その鬼を討つ辟邪の鬼もいる。
辟邪という行為を挟まずストレートに幸福をもたらす鬼もいる。
折口信夫氏は「まれびとなる鬼」は幸福をもたらす鬼であると、「鬼の話」で書いているという。
また「春立つ鬼」と題する文章では、幸福をもたらす鬼の例として、狂言の「節分」を挙げている。
この中で「隠れ笠」「隠れ蓑」は鬼が着ていると姿が見えなくなる呪具として扱われている。
『鬼と天皇』によると、蓑笠を着た鬼は、大寺院で行われる追儺の鬼とは違う。追儺の鬼は、仏教的鬼神観によるものだから、蓑笠を着ていないという。
日本ではまれな人(者)や神は海の彼方から蓑笠を着て訪れ、歓待すれば幸福をもたらすが、歓待しなければ災厄をもたらすと考えていた。
この訪れるものを「鬼(もの)」と表記したことによって、折口信夫氏の言う「まれびとなる鬼」が生まれたのであるという。
折口信夫氏はこうした鬼を、「春来る鬼」「春立つ鬼」と言っている。
昔話の中の「隠れ蓑」「隠れ笠」
昔話の隠れ蓑笠伝説は、蓑笠が目に見えるものを見えないものにする呪具であることを明確に示しているという。
『枕草子』『拾遺集』『夜の寝覚』『保元物語』狂言の『隠笠』などの例がある。
また、隠れ蓑・隠れ笠は鬼が島、蓬莱の島の宝物ともされている。
蓑笠は「かくれる」「あらわれる」の両義性を持っている。
鬼が隠れ蓑・隠れ笠をもつのも、「もの」が「おん(隠・陰)」「おに」に転じたように、隠れる存在だからであるという。
隠れていて突然あらわれるのが鬼である。
「かくれる」と「あらわれる」の両義性を持っている点で、鬼と蓑笠はイコールであるという。
蓑笠は葬送儀礼などにも使われ、この世からあの世への境界を越えて行くための呪着だが、あの世からこの世へ境界を越えてくるための服装でもある。
この蓑笠が鬼の持ち物なのは、鬼が境界的存在であることを明示しているという。
蓑笠と隼人
折口信夫氏は、隼人も外を歩く時は蓑笠をつけているが、日本の古い信仰で蓑笠を着ているのは鬼であり、『隼人は鬼である』、また『百姓が蓑笠を着るのは、わけのあることで、本当は田植えのときだけである』などと指摘している。
境界的存在である鬼とその「影」
折口信夫氏は「魂が遊離した状態にある人を、かげのわづらひと言っていますが、つまり古代人が考えた離魂病です」と言っているらしい。
「かげのわづらひ」は主として江戸時代の文芸に記されているという。
『芦屋道満大内鑑』(1734)は、離魂病について、「俗に影の煩ひといひ、形を二つに分る」「時々形を合す」と書き、体から魂が離れたり一緒になったりする病気とみている。
『和名抄』は「霊」を「美太萬(ミタマ)、一云美加介(ミカゲ)」と書いており、御魂・御影を同義としている。
古代人は影を魂の現れと信じており、影を呑まれるか取られるかすると考えている。
各地にある影取池の伝説がこれを物語っているという。
影法師は影の擬人化
「影法師」という言葉にはいくつかの意味がある。
しかし「法師」の「影」を「影法師」とする言い方は見当たらず、「影を擬人化した言い方」であるという。
そうなると何故影の擬人化を「影法師」というかが問題になる。
俗人の法体をしたものなどは「荒法師」「法師武者」とも言われ、中世には法外の乱暴者とみられていた。
そうした法師と共に、男の子の童も乱暴者と見られていた。
彼ら「童子」も「法師」と言われたのは一般大衆にとって「法師」といわれる存在が普通人ではなかったからだという。
「法師」は「聖」と「俗」の境界人(マージナルマン)とみられていたのだという。
境界的存在である鬼と天皇
童子・小さ子は境界人であり、鬼が童子名なのは鬼も境界人だからである。
一寸法師も鬼である。一寸法師は鬼が鬼を討つ話であり、酒呑童子譚やその他の話も同じである。
ただし、鬼退治の話には「土も木もわが大君の国なれば、いづくか鬼の宿りなるらん」という歌が登場する。
天皇は聖と俗の境界人、神と人の境界の現人神である。
天皇権力も『伊勢物語』や「大江山」のように鬼と見られている。
天皇の命令で鬼を討つ源頼光や坂田金時に鬼のイメージがあるのは、彼らが天皇の影法師だからであろう、という。
『鬼と天皇』では、天皇と鬼はイコールだと言う。
ただし、高祖神アマテラスの影としてのスサノヲに鬼神のイメージがあるように、鬼は天皇の影のイメージを持つともいう。
仏教の鬼
『鬼の研究』では仏教由来の鬼に関し、牛頭鬼、羅刹女、地獄卒などの話題があるという。
牛頭鬼の話
『今昔物語』 「但馬の古寺に於いて毘沙門牛頭鬼を伏し僧を助くるものがたり」
羅刹の話
『今昔物語』に羅刹の話が2,3載っているという。
「肥後国の書生羅刹の難を免るるものがたり」
「下野の僧古仙洞に住むものがたり」
「鞍馬寺に籠りて羅刹鬼の難を遁るる僧のものがたり」
仏教由来の鬼に襲われる話は、仏教を称揚するための役割や境涯がきちんと決められてしまっている。
『鬼の研究』ではこれをして「野性味が乏しい」と評している。
また、仏教上の羅刹の役割は広く認識されていなかったともいう。
鳩槃荼鬼の話
日蔵上人の師の上人が鳩槃荼鬼に助けられたという話があるという。
地獄卒の話
仏教系の役鬼は霊験譚と結びついたものよりも、死後の世界への庶民的空想が生んだ役鬼が独創的であるという。
『今昔物語集』 「讃岐国女、冥土に行きその魂還りて他の身に付くものがたり」
この話は、大病で死ぬ女を迎えに来た役鬼が疫神への御馳走を食べてしまったことから、その恩を返すために別の土地の同姓同名の女を代わりに差し出すというものらしい。
それが露見して大病の女が死ぬことになったとき、先に連れて行った女は体がすでに火葬されていて魂の還る体がない。
そこで改めて死ぬことになったまだ体の残っている女の体に入ることになったらしい。なんだこの話。
しかも大病で娘を亡くしたほうの女の両親も、身代わりで一度死ぬ羽目になって火葬された女の両親も娘の面影をこの女に感銘したため、女は二家の財産を得ることになったらしい。なんだこの話。
地獄卒の話は他にもあるが、このような軽率で人の好い地獄鬼は、後年狂言の舞台で多く活躍することになるという。
仏教系の鬼の話はもう少し調査が必要かもしれない
今回の調査はどちらかというと民俗学寄りの内容で、『鬼と天皇』では仏教由来の鬼に関してあまり着目せず、『鬼の研究』も『今昔物語』などに出てくる例について触れるくらいであった。
ただ、仏教における鬼の概念は調べれば調べるほど色々出てくるものなので、この部分は機会があったらもう少し調べたほうがいいかもしれない。
仏教由来の鬼にも色々あって、インド神話から「鬼神」とされていた種族が護法善神になる場合もあれば、祖霊・死者の魂が死後地獄に堕ちて餓鬼となるパターンなどもある。
まとめ
大和岩雄氏の『鬼と天皇』、馬場あき子氏の『鬼と研究』を主な参考文献として、とりあえず鬼に関してわかったことの中からこれはメモっておいた方がいいだろうなというものを書き留めてみました。
見ればわかると思いますがかなりざっくり雑な本当にただのメモです。
何かを調べる際にはまず話題の捜索範囲を推定する情報が必要で、その詳細はきちんと専門的な文献に当たる方がよいので、今回のコンセプトは「物(鬼)」について知るにはまずどんな情報があるのか、どんな本のどんな性質の情報に向かえばいいのかをリストアップすることがメインです。
詳しく知りたい方は『鬼と天皇』などを直接お読みください……と言うか、私ももちろんこの本の内容が全部頭に入ったわけではないので今回作ったリストを頼りに何度も読み返す羽目になりそうです。
『鬼と天皇』も『鬼の研究』も多分図書館に普通に置いてあるような本で、ネット通販で新装版とかも買えるのでアクセスはしやすい情報源です。
この2冊で共通する内容も結構ありますが、例えば天狗の話は『鬼の研究』にしかなかったりします。
鬼に関する他の本も機会があったら読んでみたいと言いますか、この2冊であまり触れられていなかった情報も欲しいので何を読もうかなと。
仏教系の鬼の話だと荼枳尼天が鬼であり狐でもあるのでこの辺の情報も欲しいところですよね。
やはりまだまだ調べられることは色々ありそうだ。
内容そのもののまとめとしては、「物」を「鬼」とする話の根幹がわかったというか、むしろ「鬼(おに)」の方が新しい読み方で最初は「鬼(もの)」だった、すなわち「もの(物=鬼)」が始まりだったとわかって時系列的な概念がすっきりしました。
物の怪の物、物忌の物。だから「物」は「鬼」。
そして同時に「隠・陰(おん)」が転じて「鬼(おに)」となった存在でもある。
もともとの使われ方としては『日本書紀』の編者が「まつろわぬ人」を蔑視して「まつろわぬ鬼(もの)」と言ったところから始まった。
一方で、『伊勢物語』の頃には権力者もまた「鬼」と見なされている。それも人を食う鬼だと。
在原業平は「東下り」で自らを都に「用なき者」としている。
この在原業平や、大江山の酒呑童子のような山賊たちのようなものをまとめて「無頼」と『鬼の研究』で呼んでいたと思います。
無法者やごろつきを意味する無頼漢の無頼はやはり根源的には「頼みにするところのないこと」であり、それはこういう権力の場から外れた人、もともと被差別民であった人々などを民俗学的にまとめてそう呼べるようです。
この辺なるほどねーって感じですね。
討たれるものは鬼。
けれど、討つものも鬼。
どちらも本質的に違いはなく、結局どちらも自分たちの敵をただ「鬼」と呼んでいるだけなのかもしれない。
「物(鬼)」と言う言葉に、もともと「霊魂」と「物象」の両義性が存在し、人は自分の理解の及ばない存在への恐れや畏れ、蔑視などからそう呼ぶようになった。
しかもそこで話は終わらず、最初は同じ人間を敵視して使い始めた言葉がいずれ怪異として形を持ち始める。
諸門に病者や捨子が捨てられ、生きながら犬などの獣に食い殺された死体がごろごろしていた時代には、それらの状況次第で人を食う鬼の仕業という発想が広まっていったのかもしれない。
次第に仏教的な鬼の概念と融合して謡曲や御伽草子などの創作の中であらためて、最初から恐ろしい姿の怪物として描かれるようになったと。
「鬼(もの=物)」もその辺りまで来ると随分と様変わりしましたね、と。
その一方で、恐ろしい姿の鬼が人を食い殺しているという創作世界を、人は愛し、時には討つ側よりも討たれる側に感情移入していく。
おどろおどろしい化け物の情念にも理解を示し、作り物の世界を愛し、そして現代では民俗学として、そのような創作の中の眼差しから、定着農耕民から蔑視された漂泊芸能民たちの姿を浮かび上がらせる。
『古事記』も『日本書紀』もまとめて記紀神話と呼ばれ、これは神話であり正確な史実など伝えていないと思う人もいるかもしれない。
しかし『古事記』と『日本書紀』の差、「まつろわぬ人」と「まつろわぬ鬼」というたった一つの言葉から、人は遠い過去の事情を掬い上げる。
また酒呑童子をはじめとした退治される鬼の姿がさまざまな媒体で異なること、その作者の事情から、そこに込められた思いを浮かび上がらせる。
歴史なんて所詮物語だから史実がわからない、ではなく
物語は、れっきとした歴史の一部である。
だから物語に向き合えばその中に別の角度から見た当時の真実を見つけることもできるのだろうと。
「物」という言葉の歴史、「鬼(もの)」の物語一つに、日本の歴史が込められている。
その辺りを今回のまとめとしたいと思います。
言葉の意味を調べ、その歴史を知るってマジ大事だよね~というところで今回のかんたん調査は終了。
今後はこの知識をもって本命のとうらぶ考察に活かしたいところです。