映画(継承、黎明)のノベライズの話とか

映画(継承、黎明)のノベライズの話とか

1.審神者の「継承」と「黎明」の話

まだ漫画と小説版でしか読んでないんですが大筋を知った感じ、映画版、あれ話の中核審神者の存在だな……。

無双は本丸襲撃、審神者行方不明後に伯仲の章から始まるから原作ゲームの第一節後半、舞台だったら慈伝以降っぽい構成なんだけど、映画は「審神者」と2作目の「鬼」の組み合わせから原作ゲームの第二節っぽい構成だと思いました。

舞台とミュージカルが要素要素対応してるっぽいし、ここまで来たらメディアミックスも含めて「刀剣乱舞」は全部構成同じじゃないかなーとは思うんですが、フォーカスされてる要素の近いもの同士を比べた方がわかりやすいかなと。

1作目の「継承」ってサブタイの意味を一瞬考えてしまったんですが、このタイトルでこの内容なら、「審神者の代替わり(継承)」が一番重要ってことだと思います。

1作目で審神者の代替わりの話をやって、2作目で仮の主の話をやって。

審神者というギミックに着目させる作りだから各話の審神者の存在、動向なんかと敵側の対応で見ていく感じかと。

うーん。1作目がおもに審神者の代替わりと三日月と信長の関係性でできてるところから考察詰めてく感じですね。

三日月・国広中心の舞台の第1作がいきなり織田信長(※来歴的には三日月にも国広にも何一つ関係ない)なのいつも不思議だったんですが、映画の1作目からすると多分「三日月」と「信長」メタファー上の要件が何か同じなんだろうなこれ。

だから舞台では三日月を追う国広の修行で信長に会うんだろうな……。

 

2.「葬られた歴史」の話

映画は第1作目が「継承」、第2作目が「黎明」。

で、これはどちらもおもに審神者を中心に考える話かなと思います。

1作目で「継承」という言葉が明確に指しているのは「審神者の代替わり」だと考えます。

更に、「継承」では本能寺の変を生き延びた織田信長を殺すのは豊臣秀吉の行動というように改変した史実が描かれていて、これも形式としては略奪・簒奪に近いものの天下人に向かう権力機構の一つの継承と言えなくもありません。

無双の第1章の考察で本丸側と人間側が結局同じようなことをやっていると確認しなおしましたが、そういう感じで映画版のストーリーを見ていくと、こちらも結局本丸と人間、そして敵側で大体同じようなことをやっているのではないかと思います。

映画に関してはまだちょっと話が自分の中に定着していないので細かいところまで意識が行っていないのですが、主軸である本丸の審神者側、その話の中心となる人間側、刀剣男士側、敵となる遡行軍側などでそれぞれ広義に見れば同じことをやっているような気がしないでもない。

審神者は代替わりし、信長は秀吉に権力を奪われ、敵側に関してはちょっとはっきりしませんが、「無銘」と呼ばれていた遡行軍が刀剣男士「倶利伽羅江」としての自我を取り戻す部分が重要なんじゃないでしょうか。

この先原作ゲームに実装される倶利伽羅江がどんな感じになるかにもよるかもしれませんが、在銘品が皆無で「江とお化けは見たことがない」と言われる中で倶利伽羅江は「在銘」であったとも言われることを考えると、本来銘のある刀が「無銘」として行動を縛られた遡行軍になっていたというのはちょっと考えないといけないなと。

今年の秋に倶利伽羅江が原作ゲームに実装されてからが映画版の考察本番になるかもしれない。

2作目の「黎明」もタイトル通り審神者や敵側である「鬼」という存在の始まり、夜明け前を示す物語だと思います。

ただ細かくばらばらとちりばめられている要素が多くて1作目より読み取りが難しい気がします。

一番重要なのは「仮の主」という存在と、酒呑童子の呪い、鬼の誕生みたいな部分でしょうか。

この「鬼」の存在に関しては、1作目と共通要素として「葬られた歴史」という考えが重要ではないかと思います。

民俗学的に伝えられる「鬼」とはそもそも時の権力者に迫害された人々であったりすることが多く、「黎明」でも都人を不安にさせる疫病などの世の乱れの原因を、権力者たちは大江山の酒呑童子たちに背負わせて殺すところから物語は始まります。

信長の死に場所を本能寺ではなく安土城としてそれを「葬られた歴史」と評した第1作目のように、人々が事実と受け止めている内容と実際の出来事が違うという物語を1作目でも2作目でも描いています。

1作目は葬られた歴史通りの死を信長に受け入れさせる内容ですが、2作目は時の権力者に「鬼」とされた者の運命への抗い、千年の呪いから始まる物語となっています。

「黎明」の中心は現代という時間軸で、三日月の仮の主である少女・琴音と、なんかこう鬼関連で大変なことになってる山姥切国広が協力している鬼関連の少年・伊吹の二人だと思われます。

この話は「鬼」が重要だけどそのせいで鬼関連の表記がちょっとややこしいことに。

「鬼」であるもの、「鬼」にされたもの、「鬼」に操られるもの、「鬼」を生み出すもの、「鬼」を視るものとまあ色々。

三日月の仮の主・琴音はもとから物の声を聞ける人間だったようで、その琴音が弟を亡くした少年・伊吹の事情に寄り添おうとする部分が物語のハイライトだと思われます。

「鬼」の始まりの物語であり、「審神者」の始まりの物語、けれどその多くはまだ明ける前の闇に包まれし「黎明」。

まだノベライズ版だけで映画本編を見てないからかもしれませんが、この話は登場する刀剣男士たちがそれぞれ別の本丸所属だったり政府刀としてばらばらに登場してばらばらに行動しているので正直読み取りが難しい。
気にかかることを掲げておくなら、こうした陣営がばらばらでまとまりがない描写って、これまではどちらかというと敵側の描かれ方だった気がするところですかね。

「鈍(なまくら)」という字は「金」に「屯す」と書く。

つまりまだ価値が確立していない存在とは、物語の寄せ集め(屯す金)なのではないか?

という考察をちょっと別件で進めていたんですが、映画版のこの刀剣男士たちのまとまりがない感じは、他のメディアミックスが大体敵側に置きがちな行動のばらけ具合をここはメインとなる刀剣男士側で描いているということなのかも。

「黎明」というのは物の声を聞く審神者、弟の死を背負い鬼に呪われた少年だけでなく、ばらばらの寄せ集めとして独自に行動している刀剣男士側の「黎明」でもあるように思われる。

「葬られた歴史」って、映画以外のメディアミックスだとどちらかというと敵側に置かれることが多い属性だったと思うんですよね。

影打ちとか名もなき人々の死とか。最後が伝わっていない弥助だとか史実で滅びた人物だとか。

しかし映画版は、1作目の信長にしろ2作目の伊吹にしろ、「葬られた歴史」の中心にいる者に対して三日月なり国広が寄り添って行動している物語が主軸です。

・審神者という存在
・葬られた歴史

映画の主軸はざっと見た感じこの二つ。

ストーリーをしっかり頭に叩き込んで他のメディアミックスともっと細かくメタファーを照合したら考察が進むかもしれませんが、今の私の脳みそだとここまでまとめるのが限界です。