無双の漫画版の話とか

無双の漫画版の話とか

1.無双の山姥切長義らしさ

とうらぶ無双の漫画版が最高に良い。

ゲームとしての無双は刀剣男士を直接動かせるのが新鮮で今のところ唯一無二だけど、操作に気を取られる私のようなタイプは物語に集中できない部分もあったから、こうして漫画でストーリーを丁寧にやってくれるの凄いありがたい。
絵もめちゃくちゃ綺麗で格好いい。

正直二次元で長義くんがこんなに動いてるの見るの初めて! 単純に嬉しいっす。

一口にとうらぶと言ってもメディアミックスごとに話が違う上に一振り一振りの出番は少ないから、漫画でがっつり活躍してるのそうか、これが初めてか。これの次は今のところ「あやかし譚」くらいか……。

無双の良いところを本当にがっつり丁寧に描写してくれるコミカライズですね。
媒体が違うおかげでゲームより逆に重要ポイントに気づきやすかったりしてありがたやありがたや。

1巻で伯仲の章が終わらずに引き続くぐらいなんで、今のところいい感じのペース配分だなと。どこまでやってくれるんだろう。

ところで私はとうらぶのメディアミックスは無双から入って他の媒体(舞台花丸ミュージカルその他)と進んだので無双を最初にやった時は比較対象がないためシナリオに関してあまり深く思うところはなかったんですが、改めて漫画で見直してみると思った以上に他のメディアミックスと根幹・構造一緒ですね。

長義くんの発言として無双の描写が妥当かどうかその時は判断できなかった。

今だと他のメディアミックスや極などの考察から、無双の台詞のあちこちにも、他の作品でお出しされた山姥切長義らしさがしっかり盛り込まれているんだなと思いました。

無双で描かれている、山姥切長義らしさは今見ると「慈伝」での国広への態度や、「花影ゆれる研水」での長谷部への対応と同じものだと思います。

「自分を見失うな」

5話始まってすぐのこの台詞に象徴されますが、ここ最近ここの考察でずっと言ってる常に「お前はお前であれ」の精神ですね。

他の会話とかを見ても、台詞の大部分が相手(おもに国広)の反応を引き出すための挑発であることが、漫画だとかなりわかりやすくなっております。

舞台やミュージカルの山姥切長義像と中核がきちんと一致していると言っていいと思います。

山姥切長義は自分に自信がある、つまり常に「俺は俺だ」というスタンスが揺らがないので、元主である長尾顕長が出てこようがその態度に変化は見せない。

一方、写しである国広は自分をこの世に誕生させた始まりの元主・長尾顕長と対面することに動揺を見せている。

その国広に対し、本歌である長義は「自分を見失うな お前は……」との言葉をかける。
なお肝心の「お前は……」の後の台詞は無理矢理「馬鹿なのかな」と誤魔化している感じ。

ここの「お前は……」の後、本心はどう思っているのか凄く聞きたかった……!(血涙)

2.「自分を見失う」ものたちの物語

それはともかく、ここで長義くんの長義くんらしさが発揮されているだけでなく、無双の第1章「伯仲の章」はある意味、「自分を見失っている山姥切国広」の話であることが示唆されます。

長義と国広は上記のやりとりの後、任務のための行動を開始するわけですが、そこで小田原征伐時の豊臣秀吉の様子を見た長義はこのように評します。

「自分を見失っている者がどうやらここにもひとり」

黒田官兵衛の策に乗せられている秀吉は、わしはいったいなんなんだ、天下人になったとしてもわしの力ではなかろうにと苦悩しています。

つまり無双の第1章は主役である刀剣男士側は国広、敵の策に踊らされる人間側の秀吉、どちらも「自分を見失っている」ものたちの話であると考えられます。

そして国広は長義に発破をかけられ、また元主・長尾顕長とのやりとりを通じて自分を取り戻す。

一方で豊臣秀吉もまた自分を取り戻した結果、黒田官兵衛の口出しを禁じ、どんな道であろうと我が足で進んでみたいと決意します。

伯仲の章は自分を見失っている者たちの話、彼らが自分を取り戻す話。

そして改めて漫画でこのストーリーを見てみると、黒田官兵衛が敵に操られているとはいえ、不思議なことを言っているんですよね。

秀吉の甥・秀次への処遇が非道すぎると、
「あなたには心を取り戻してもらわなければ」

プレイヤー目線だと完全にお前が言うか、状態です(官兵衛のせいで敵に襲われている聚楽第を見ながら)。

これが「ひとつめの願い」というのはちょっとよくわからんので置いといて、国広や秀吉、伯仲の章がそれぞれの「自分を見失う」物語であったと同時に、黒田官兵衛によれば秀吉が心を失っているそうです。

しかし、その黒田官兵衛もまた、国広にこう言われます。

「あんたも心を取り戻せ」

自分を見失い、自分を取り戻す国広、秀吉。
心を失ったと言われる秀吉、官兵衛。

無双の第1章、「伯仲の章」は、「自分」と「心」を失い、取り戻す、そういう話のようです。

今は大雑把にこの辺の流れを確認してみましたが、「自分」や「心」の一部が明らかに分離している例は他のメディアミックスでも舞台の「朧」関連がありますし、現在原作ゲームの方でも三日月から分離しているっぽい「朧月」が登場したので、注目しどころだと思われます。

無双の「伯仲の章」も長義・国広の二振り舞台である第五部隊を中心として繰り広げられる物語ですが、舞台がこの二振りの出会いを描いた「慈伝」のEDタイトルにもなっているテーマは「心茲に在り」で、やはりあちらも「自分を見失う」「心を取り戻す」と、似たような題材になっています。
長義・国広の物語自体がメディアミックスで何度もこの辺りを強調されるので、やはりこの二振りのテーマはここに近接するものと見ていいと考えられます。