「偽物」とは何か、そして「名」とは何か、そして
前半は極長義・国広の手合わせ台詞からそれぞれのスタンスを考察したツイートのログ。
後半はそれを受けて、やはりそれぞれにとっての「偽物」とは何かを改めて考察した文章です。
1.手合せ台詞の変化から見えてくるもの
長義と国広の関係について、手合せ台詞の変化から考える。
極国広へ対しては、初でも極でも終了時点での台詞はほぼ変化なし、極同士だと開始台詞がまるっと変更。
極長義から初国広への台詞はかなり変わっている。偽物くんと呼ばなくなったせいで逆に国広側が言われてもないのにそれを否定する形に。
初国広の「……折る気か」に対する返答が初だと「実践さながらの訓練って大事だろう?」から、極で「構わないだろう? 見劣りする写しなんて偽物以下だよ」に変化する理由を色々と総合的に、国広側の反応も含めて考えると。
この流れで大事なのは「折りたい理由」
……やっぱ物語の食い合いの話では?
本物偽物論争の終着点は、やはりどちらかの排除と言うのが前提にあったんじゃないだろうか。
だからまず初時代の国広は「偽物」とは違うことを主張しているし、「折る気か」と問いかける。
長義の返答は初時代の「実践」が大事か。
実践は雑にまとめると「理想のために自分で行うこと」という意味だから、
物語同士、存在を食い合うのを定めとしつつ、国広は多分初時代からそれだけは避けたい。
長義は意図はともかく姿勢としてはむしろ積極的に食い合いを仕掛けていく。
これが極で「構わないだろう? 見劣りする写しなんて偽物以下だよ」になったから、逆に言えば見劣りしなければ折る必要もないと言うのが本心なのだと思われる。
開始台詞がこれまで自分が本物だという暗黙の煽り台詞だったのに対し、極同士だと「力比べといこうか。なまくらならば、折るだけだ」に変化したのは、極後は極国広に対し積極的に「偽物」という言葉で煽っていく必要性を感じなくなったけど、やっぱ初相手と同じく「見劣りする写しなら折るぞ」という意味合いじゃないかと
つまり長義くんは国広を否定したいというより、国広に常に理想の状態で在れと求めているように見える。
修行手紙含めて初時代の二振りの態度をまとめると
国広 両方とも「偽物」であることを否定したい(闘争の否定)
長義 両方とも「本物」であることを証明したい(闘争の肯定)
やはり、根幹は「偽物」にまつわる設定部分に見える。
多分、「偽物」は食われる側、否定されるべき側という扱いなのでは?
そして本物の対義であることも確かなので長義は口では煽っていくけど、話の実態・目的としてはどちらかが本物でどちらかが偽物という二元論自体の否定による並立と考えられる。
二振りは正反対の姿勢だけど、目的自体は正直同じだと思う。
共に存在したい。そのためには「本物」と「偽物」の間柄だという認識を、「どちらも偽物ではない」「どちらも本物だ」に塗り替えたい。
初国広にはまだまだ圧かける必要あるけど極国広は自己肯定感高まってるから煽りの必要性薄い訳か。
原作ゲームからメディアミックスまでそれぞれの普段の行動と極修行で垣間見せる本音と見事に一貫した結論を得られて、ようやく理解が落ち着いた感じ。話はしていなさそうだけど。
他の方の感想で「対等を求めてるんじゃないか?」ってものを見たけどその通りだと思う。
……毎度拘っているけど、「ギミックとしての『偽物』の意味」を考えないとわかりにくい部分なんじゃないだろうか。
メディアミックスの方を見ると長義くんは「相手を奮起させるために煽る」という性格が割と明確で、これは原作ゲームの聚楽第の台詞からも一貫しているから全作品共通設定だと思われます。
正反対の性格に見えて実際そうとも言えるんだけど、やってることに着目するとコインの裏表みたいなもので本当の願いは二振りとも最初から同じ、「共に存在していたい」ではないかと。
初時代はそう願いつつもその両立を得られなかったのが、両方極めると一気に条件が満たされて安定した感じがあります
初時代は国広が極めて自己肯定感上げてても、開始台詞で本物を主張する長義の方が、まだ己を本物と主張するための闘争に拘っている感がある。
極めてそれがなくなったということは主と言う存在を軸にした安定感だろうけど、主とはそもそも何か。本物偽物にしろ主にしろギミック方面の意味が知りたい。
これ、話の構造だけ整理したらお互いが厳密に「本物」と「偽物」に分類しているものの意味は色々解釈できそうだから、結局その「本物(偽物)」が指すものが「山姥切の名」だろうが「傑作としての評価」だろうがそう大きな違いはない気がするな。
一番大事なのはどちらかが本物・偽物という二元論の否定。
二振りどちらも大切にするのだけが絶対条件で、彼らが何を大切にしているのかは審神者それぞれで解釈してもなんかもう別にいいんじゃない、って気がしてきました。
どちらかが真ならばその逆は偽というわけではない。
そう考えるだけで、二振りの刀も、その号も傑作としての評価も、何もかも認められる。
……あれか、
初時代の国広の願いは「否定されたくない」で、
初時代の長義の願いは「証明したい」。
両方とも登場時点の初時代はそう感じているから、自分がそれができないと感じているとそれぞれ動揺を見せるけれど、極で俺は主に「否定されない」「証明できてる」と確信できたから安定した感じ。
2.「偽物」再考、名とは何か?
改めて、「偽物」とは何なのだろうか。
おそらくそれは折る必要がある、あるいは折られても仕方のないものだと長義も国広も考えているからこそ、手合せ台詞でお互いに言及し、二振りそれぞれのやり方で「偽物」を否定したいのではないかと考える。
しかし、割とどこでも言われていて、この考察でもそういう結論ですが、まず長義と国広では「偽物」の意味が一致していないように見えることが謎を深めている。
改めてこの、長義、国広、それぞれが言う「偽物」の意味について考えてみよう。
これまで「刀剣乱舞」内でおもに「偽物」という言葉が使われてきた場面は
1.山姥切長義と山姥切国広の物語
2.「特命調査 文久土佐」のボス、坂本龍馬
3.回想10『藤四郎だらけなのは』、粟田口藤四郎吉光の偽物の話
4.贋作である長曽祢虎徹、また、蜂須賀虎徹は回想131『栄誉と名声の狭間で』も「偽物」という言葉を使っている
この4つを並べて思ったんですが……
単純に、「偽物」とはまず「名を否定するもの」なのでは?
原作ゲームだけだとピンと来ないが、ここに舞台の情報として、維伝の坂本龍馬の存在を加えるとそれが真っ先に思い浮かぶ。
名無しの世が欲しいと願った、「偽物」の坂本龍馬。
友人である武市半平太と岡田以蔵をただ救いたくて、いつの間にか放棄された世界にいたという。
維伝が慈伝の次の話で、国広が長義との一対一の後で「だから。俺のことは好きに呼べばいい。例え偽物と呼ばれようと、俺は俺だ」と名を否定した話と表裏の関係になっていることから考えても、おそらく「名の否定」は「偽物」の一つの要件ではないかと思う。
そう考えると、他の「偽物」にも納得がいくのではないか。
3と4は要するに藤四郎吉光の偽物も、虎徹の偽物も、打った刀工の名という、己と己の本当の親の名を偽り、別の名を名乗っている物、ということだと思います。
名の否定と、本来のものとは別の名を名乗っていること。これがまず「偽物」の要件の一つ目。
長義くんの主張に関しては、もともとこっちで考えていたと思いますし、それで良いんだと思います。
斬った斬らないに拘泥するのも、己の武器としての価値、よく斬れる刀で在ることにこだわる姿勢として、一貫していると思います。
実際には山姥を斬った記憶自体はなかったようですが、この辺はちょっと世界観や設定の方に踏み込んで考える必要があるので、今はあまり細かい答えは出せそうにありませんね。
名の否定は、例えば悲伝の三日月周りの物語を考えても、歴史を変えるものの要件と一致してそうなので、これが「偽物」であり「折られるべき存在」だと言うのにはあまり違和感はありません。
三日月は三日月宗近であるからこそ、鵺のように足利義輝を救うことを選べはしなかった。
だからと言って三日月宗近であることをやめてしまえば、その名を捨ててしまえば、それはもう敵――時間遡行軍でしかない。
刀の名、歴史を守る本能。
そうしたものの関連性から言うと、「名の否定」はある意味「偽物」の条件だと思います。
ただし、贋作の長曽祢さんは今はちょっと置いといて、最初から堂々と「偽物」という言葉と共に語られる肝心の「山姥切国広」が微妙にこの定義に当てはまらないんですよね。
「偽物」じゃないと否定しながらも、そう誰かに指摘されているかのようなセリフを常としていた初時代の国広。
そして極修行である意味逸話の大切さを否定し、回想57で名よりももっと大切なものがあるという。
国広に関しては、まず確実に「名」と「偽物」が直接結びついていないと思います。
じゃあ、国広にとっての「偽物」って何さ。
これがずっと謎だったんですが……今回長義くんのあまりにも長義くんらしい極の方を見ながら、改めて国広らしさとはなんだろうかと考え直して思いました。
私が考えるに、「山姥切国広」を最も象徴する台詞は……
「俺は、俺だ」
(「だから。俺のことは好きに呼べばいい。例え偽物と呼ばれようと、俺は俺だ」)
もしかして、「名」とは――「自分」?
国広がもともと拘っていたもの、極修行で欲したもの、その修行の答。
長義と相対して選んだもの、一見名を軽視しているかのような態度でも、むしろ「偽物」という言葉に惑わなく、堂々と立てるようになった理由。
「偽物」とはある意味歴史の否定者、生みの親である刀工と、己の名の否定者。
そして、己自身の否定者。
逆に言えば、「偽物ではない」ということは、「己は己である」ということに、確固とした自信を持たなければならないということなのではないか。
名、即、己。
長義の言う「名」にあたるものは、国広にとっては「自分が自分であること」、なのではないだろうか。
これを考えると長曽祢さんもこっちに当てはまると思います。
生みの親である刀工・清麿の名を偽っていようと、近藤勇の虎徹を名乗るものこそ「自分」なのだと。
初時代の国広は、MVPボイスで「俺は俺だ」と主張しながらも、結局そこに自信を持てなかったのではないだろうか。
上で手合せを見た感じ、初時代の長義くんも考え方自体ははっきりしていても、やはり極国広との手合せでは「……」分の不満を滲ませるように、己の主張を己自身が、どこかで信じていなかった。
それを、表面上の言葉だけではなく、本当の意味で己のものとして確固たる軸を持ってきたのが極修行だったのではないかと。
んー、こう考えるとですね、山姥切長義・山姥切国広の二振りの刀剣に関して研究史と物語の筋のレベルできっちり一体感のある解釈になるかなと。
長義にしろ、国広にしろ、
結局主、というか人間に対する最初の主張は「本当の自分を見て欲しい(人は本当の自分を見てくれない)」というものだったのではないだろうか。
本作長義(以下58字略)は、己が山姥を斬ったわけでもないのに「山姥切」と呼ばれたことで、
山姥切国広は、己の号と逸話を否定され本歌のものとされたことで、
どちらにとっても、「今までの、このままの自分ではいけないのか?」という思いが生まれる結果になったのではないかと思います。
だから――本当に「名」を否定したかったのは「山姥切長義」の方で、
本当は「名」を肯定することで己も肯定したかったのは、「山姥切国広」の方なのではないか。
しかし、それは山姥切国広が山姥を斬った逸話が一度喪われたことや、本作長義(以下58字略)が誕生したこと自体も否定してしまう。
これらの物語もまた歴史の一部なのだから、そこに拘泥してその死を、その誕生を、否定すればすなわちそれは歴史の否定者ではないか。
だから「山姥切長義」は己の名を肯定しなければならない。
そのためには、逆に名に寄らない己を見てくれる人物を探し、名に寄らない己を肯定した上で、だからその後に生まれた「山姥切長義」の名を肯定しなければならない。
号のない本作長義(以下58字略)が否定されたから、「山姥切長義」という号が生まれたわけではない。
傑作の刀があり、その刀に心を寄せる人間がいて、その写しを作った。
前提となるその歴史があったからこそ「山姥切長義」が後にその名を得る土台を得たわけで、「山姥切」でなければいけなかった訳でも、「山姥切」以外の部分が蔑ろにされたわけでもない。
頭でわかっていても実感として受け止め難かったその事実を受け止め、「山姥切長義」を名乗り続ける決意を主の姿勢と絡めて新たに得てきたのが長義くんの極修行ではないかと思います。
では、「山姥切国広」の修行とは。
国広は一度何もかも失った刀だからこそ、本当は名を認められることが一番己を肯定するための近道だったのではないか。
けれど、その道を選んでしまえば、本当の意味で「自分」を認められなくなるのも国広の置かれた状態ではないのか。
名だけ見ても仕方がない。それでは本当の自分を見てもらえたとは言わない。
写しがただの本歌の影となってしまう。
そうではなく、ちゃんと自分自身を見てもらえていたと、見てくれる人がいると確信したい。
山姥切国広は、本当に山姥を斬った逸話を持っている刀だからこそ、その名への執着を捨てることが必要だったのではないか?
だから一見自分で自分の逸話を蔑ろにしているかのような修行手紙三通目の部分も、国広がいちど名にまつわる全てを振り切る必要があったと考えれば、あれで良かったのではないだろうか。
長義の修行が、名のない傑作である己を見てもらえなかったという拘りを捨て、改めて「山姥切」の名を受け入れてくることだとしたら。
国広の修行は、名を取り上げられたということは己を見てもらえなかったという恨みを捨て、名がなくても自分は自分だと、名に寄らない己を確立してくることだったのではないか。
「偽物」とは何か。
それは、「名」すなわち「己」を否定するもの。
歴史を守る刀の本能を無視し、「自分自身」を否定してしまうものなのではないだろうか。
だから長義と国広は一見同じ物語を共有しているように見えても、「偽物」と言う言葉に対する認識が違う。
長義にとって「偽物」とは己の名を否定するもののことであり、それはある意味長義自身の奥底の願いでもある。
国広にとっての「偽物」とは自分自身を否定してしまうもののことであり、写しであることに拘っていた初時代の国広はある意味そういう存在だった。けれど極で、本当に「名」に寄らない「自分自分」を認められるようになった。己の歴史をこれまでよりも、本当の意味で認められるようになったのではないか。
……ただ、気をつけなくてはいけないのは長義はまだしも国広は山姥を斬った記憶がないということから、山姥を斬った逸話があるはずの焼失扱い前の山姥切国広とストレートにイコールではなさそうなところである。
これに関してはゲームの設定的なものの方が関係ありそうなので、今考えても無駄かなと。
とうらぶ自体に関しては割と前世と言うか、今の認識の生より前の段階を示唆するらしき表現がふんだんに鏤められているので、記憶がないだけで同一であると言っていい可能性も高いと思う。
長義が何故そこまでお互いの実力と名の証明に拘ったのか。
国広は何故山姥を斬った記憶がないのか(極修行先の世界と認識が違うのか)。
この辺りは設定的な回答を待つしかないと思われます。
とりあえず、長義と国広の言う「偽物」の意味に関して、やっとそれらしい答らしきものが出たので個人的には割とすっきりしました。
よく考えたら長義くんの内面より遥かに、国広の内面の、国広の言う「偽物」の意味が読めていなかった辺り、私やっぱり国広の方にはそんな興味がないから考えが追い付かないんでしょうね。
3.これからの二振り
さて、長義くん実装時から謎に特別扱いだった極回想。長義くん極が追加されたらここも更に追加されるのではないかと思ったらなかった。
と、いうわけで山姥切の本歌と写しに関する考察は今のところ情報が出きった状態ですのでこれで完全に終了ですね。
完全終結! お疲れ様でしたー!
……うーん。
長義と国広の物語に関して、原作ゲームの解釈に関しては今回の上の記事で正直充分かなって思うんですよね。
二振りとも本当の願いは「自分自身を見てほしい」で、それが今の主である審神者によって叶えられたから極である程度安定した。
つまり我々の愛情の勝利ですね! やったー!!
……とは、単純にはいかなさそうなのがメディアミックスでの二振りの描写。
花丸で付け加えられた「妬ましい」「羨ましい」という嫉妬の物語。
舞台に時折垣間見える、お互いへの「怒り」。
そして、とうらぶの物語全体を通して重要なギミック、物語同士の食い合いと言う要素。
原作ゲームは「主」というメタファーの要素が強くてむしろこの辺りに目隠しされているのではないかと思います。
特に舞台の方は、慈伝で思い切り衝突し、ある程度綺麗に着地した分、国広が修行で長義との物語の食い合いを完全スルーしているらしいですね(諸事情あって単独行まだ見れてません)。
今回の山姥切長義・極、その後の手合わせ台詞の件を見ても、慈伝はやはりあれ自体が「聚楽第」であり、「山姥切国広の極修行」だったのではないかなと思います。
……え? じゃあ対大侵寇どうなんの?
対大侵寇防人作戦。人を防るのか、それとも防ぐのか。
どちらにしろ重要な「人」メタファーで、舞台の国広が日本刀を通して人の歴史を見に行っているのもこの互換ではないかと思うんですよね。
そしてその「人」メタファーは、ジョ伝で言えば三英傑が三つら星に例えられたように「星」メタファー、すなわち七星剣との互換でもある。
さて、舞台の「山姥切」にまつわる物語は、一体どうなるのか。
気になるのが、今度の山姥切長義中心オムニバスで、長義くんが極めてくる可能性があることです。
ここで極めたら長義くんの内面部分が変わるので、そこに関して推測して慈伝の時に出した予想が全て吹っ飛びますねアッハッハ。
まぁもともと、物語の外枠の大きさを完全に読めていなかった部分でめっちゃ敗北しているので今更でしょう。
長義くんが極めたら、今度はそれを計算に入れて、他のメディアミックスとの構造的相似や共通メタファーを整理して予想を……出すには一年や二年じゃちょっと時間足りないかなーと。
原作ゲームの進み具合の方で自然とわかったら考える日が来るかもしれませんが、舞台を中心にやりすぎても原作ゲームの方の解釈がぶれるかなあ、ということで普通に間に合わないと思います。
むしろとうらぶの物語全体を考えるなら第一節と第二節で比較が入れられる段階にならないと無理かなーと。
と、いうわけでやはり、山姥切長義と山姥切国広の関係に着目した考察はここで終わり。
舞台の結末は予想とか小難しいこと考えずに見て終わりで。
一応第一節の結論として最初の回答を踏襲するのではないか、舞台なら虚伝、ミュージカルなら阿津賀志山を踏襲した答になるのではないかという予想を立てているのでそれくらいですね。
ただまあ、正直そのくらいの情報量ならなんとでも言えるわい、と。
とはいえ、メタファー関連では時期的に「舞台で山姥切長義主役」「ミュージカルに後家兼光初登場」とまた個人的に無視できない重要メタファーをこのタイミングでぶつけやがって……という感じなので気になりはしています。
さらに心伝が「つけたり奇譚の走馬灯」だったのに対し今回のミュージカルは「坂龍飛騰」。
坂とか龍も重要なんですけどね、最後の「騰」の字の中に「月」と「馬」があるんですけど??? ということで気になっております……。舞台とミュージカルのメタファーは完全一致よりは相互補完に見えるからその辺もちょっとそのうち整理したいんだよな……。
メディアミックスだと謎に「嫉妬」「怒り」要素があるなと思っていた本歌と写しも、今回、大慶追加で清麿の嫉妬、丙子椒林剣が七星剣に八つ当たりとそのメタファーを持って来て、その後に対百鬼夜行迎撃作戦が実施。
そして今年も山姥切長義の極実装に、鬼が出なかったフラグで再び夏のレイド戦が想定される上、そこで童子切安綱剥落が実装。
「嫉妬」だの「酒」だの、メディアミックスで山姥切の本歌と写しに付与されるメタファーにはやはり原作ゲームとがっつり相関があるな、というところまでは言っていいと思います。
なんか末満氏が舞台は大団円って言ったとか言わないとかいうツイートを見かけたのですが、わたくし今回長義くんの極が予定表に記載なくて全く準備のできない状態で来たために(発表自体はあるかなと思ったけど最速でも2月だと思ってた、2日後はさすがに急すぎぃ!)、極考察に必死でガチで桜ステージ見忘れました。裏取れない(笑)。
原作ゲームではお互いの間の感情をあまり明確化しない本歌と写しですが、メディアミックスではいちいちそれなりに情のあるらしき描写がほぼ全てで入っている以上、それを無視するのもおかしいとは思うんですよね。
おかしいけれど、原作ゲームでその辺を直接的に示されなかった以上、原作ゲーム考察ではこれ以上追求しようがない要素です。メディアミックスそのものの答を待つしかない。
長義・国広の物語に関して世界観絡みのギミック、物語の食い合いを含んだ一定のスタンダードな描写がされそうなのはやはり舞台だと思うので、ここに結論が出たらまたちょっと解釈が変わる可能性があるわけで。
原作ゲームだと二振りとも極めたら主の存在を軸にある程度安定した感じですが、舞台ではどうなるかさっぱりぽん。
ただまぁ、どうにもこうにも物語の円環の構築規模が大きすぎて先が読めない感じがしている以上、無理して予想出そうとかはせずにここで終わりでいいかなあって。