否定者の述懐
長い考察は読む方も大変だろうしできるだけいつもまとめようとは思っているんですよ……。
しかし人間の脳と言うのはきっちり文章にして言語化することで整理される面があって、何が言いたいかというと一度考察を出すとその部分の思考が整理して見落としに気づいたり新しい発想が出たりして結局長くなるんすよ……。
と、いう訳で山姥切長義・極についてもう少し考えよう。
今回も容赦なくネタバレして行きます。
メディアミックスの情報をふんだんに持ち込みます。
1.その一人は誰か
うーん、二通目の心当たりの「一人」についてちょっと再考してみようかと。
研究史的にはわざわざ「一人」と言われると逆に当てはまらないんですが……。
この情報量だとメディアミックスなどで補完されている要素に頼らなければならないかな、と。
修行手紙、以前の記事では三通それぞれ区切って引用しましたけど、いっそ全部まとめて読んでみましょうか。
山姥切長義 修行手紙
送り出されてしまったのだから、致し方ない。
この際、山姥でも斬りに行こうか。
君はどう思う?どこに行っても正当な評価を得ることができる気がしない。
……いや、一人、心当たりがあるか。長義が打った唯一無二の傑作、それが俺だ。
まず傑作の刀があり、それに心を寄せた人間がいて、その傑作を写した。
それだけのこと。本丸に来て以来、俺は君の動向を観察していた。
君は、果たして歴史の守り手として、
刀剣男士を振るうものとして、足る人間なのかと。
評定は終わった。主へ
ひとつ頼みがある。
もしも、俺がなまくらになり下がることがあれば、すぐにでも折ってくれ。
君に総てを与える刀は、俺でなくてはならないからね。
以前の考察でも二通目から三通目の頭を続けて引用してみたりしましたが、他の子の手紙を何通か読み返しても、やはり三通目の頭は二通目の結果を受けた話題であることが多いです。
三通目の二行目に写しの話題が出ているのでここで「堀川国広」と考えてもあまり不自然はないのですが……。
以前の考察で書いた通り、写しを打った刀工・堀川国広と、それを依頼した長尾顕長の二人に、長義くんの立場から見てそんなに差があるとは考えにくいと思います。
ただ、ミュージカルの情報を踏まえると、「花影ゆれる砥水」で長義くんが自分に刻まれた銘について考えるソロ曲があるので、その辺りから「銘を刻んだ人物は特別」だと考えるなら堀川国広でも通じると思います。
あとは逆に、長義くんを打った刀工・長義などでも通じるような気はしますが……。
どちらにしろ問題は三通目冒頭三行が、決してポジティブなニュアンスではないことですね。
長義が打った唯一無二の傑作、それが俺だ。
まず傑作の刀があり、それに心を寄せた人間がいて、その傑作を写した。
それだけのこと。
この口振りは淡々と事実を時系列に並べて確認しているだけで、その結果に何の感慨も覚えている様子はない。
二通目の「心当たり」の一人が堀川国広であったと仮定すると、その結果に失望しているかもしれないとすら思わせる程に無味乾燥です。逆に堀川国広ではないような気がします。
二通目のニュアンスを、自分を正当に評価してくれる存在を希求していて、その唯一の心当たりに会いに行ったと解釈し、その結果に何か肯定的なものを覚えたならば、おそらくこの部分はもっと明るい文面になると思います。
長義くんはそれこそ「花影ゆれる砥水」でも「それだけ」という言葉を使っていますし、そんなこと言っておいてその後に長谷部を奮起させるための手合わせを申し込んだりしているので「それだけ」が本心かと言うと悩ましい面もありますが。
少なくとも、そうやって口にしている内容は彼が正しいと信じる認識に則っている気はします。
文脈を考えるとむしろ、そもそも二通目の「どこに行っても正当な評価を得ることができる気がしない」の部分は覆せない諦念と共にあり、実際にその一人の許へ行っても結果は変わらなかった、と考えた方が自然な気がします。
自分が傑作であるという当然の事実を当たり前のように確認してきただけだし、むしろ刀工・長義の方に行ったのか……? その方が堀川国広より自然な気もしてきたな。
どこに行っても正当な評価を得ることができる気がしない。
この「正当な評価」や「得ることができる気がしない」のニュアンスを分析しないと、その「一人」の心当たりには辿りつけはしない。
ただ……ここで確認した通り、それが誰であったとしても、結局三通目冒頭は事実確認をしてきただけのネガティヴなニュアンスだと思います。
2.彼の求める評価
「正当な評価」とはどんなもので、何故「得ることができる気がしない」のか。
そもそも山姥切長義は公式に「自分に自信があり、他に臆する事がない」と説明されている。
そんな男士がこのように吐露するということは、どういう背景事情が考えられるか。
研究史を調べた限り前提として言えるのは、まず今現在確認できる長義くんの評価で、低いものは決してないということです。
北条氏から長尾顕長に下賜される時点でそれなりの価値があるから渡されたのだろうし、その長尾顕長はこの刀の写しを作るほどの入れ込みようだった。
更に写しを作った刀工・堀川国広の作風はその前後で一転したため、新刀の祖の転機を生むほどの影響を与えた。
尾張徳川家には確かに物吉くんを始め山ほど名刀が存在するとはいえ、徳美の論文によれば当時の買い取り額が安いということもなく、折紙もきちんとついている。
明治には尾州の長義は六股長義と並ぶ傑作扱いされ、徳川美術館に重要文化財として登録されている。
これらの来歴のどこを取っても、評価が低い時代がありません。
山姥切の号について混乱が起きていることは確かですが、それらが原因なら、逆に号に関わりのない時代の人々の評価は受け入れられるということになります。
しかし、実際には二通目で「どこに行っても正当な評価を得ることができる気がしない」と言っている。
ここからすると、来歴の特定の一部に不満があるというよりは、むしろ来歴という表層上の評価全てに、まず長義くん自身が価値を置いていないのだと考えられます。
その考え方の前例として似たところを持っているのが、つい先月道誉一文字の実装に伴って回想が追加された亀甲貞宗です。
道誉叔父に対する亀甲くんの言い分を読むと、今回の長義くんの価値観に近しいものを感じると思います。
回想其の165 『目に見えぬ束縛』
道誉「ハッハァ! 亀甲貞宗か」
亀甲「君は……、一文字の?」
道誉「失礼。俺は道誉一文字。金二百枚分の相方との縁は、君がくれたものだ。と言えばわかるかな」
亀甲「ぼくが贈った縁……。フフフ、縛られる相手がいるということは幸せなことだよ」
道誉「フンー、こちらは二振りで金二百枚、君は一振りで金二百枚。貞宗さんは余裕っぷりが違う」
道誉「ただし、アーヤがいたら今頃君は海に沈んでいる」
亀甲「金二百枚か……。君はそういうことを気にする性質なのかい?」
道誉「当然。ブランドにとってバリューは大事さ」
亀甲「ぼくに付いた折紙は武器としての価値ではなく、ただの演出だよ」
亀甲「人の儀礼というものは実に理解不能だけれど、人を縛るものとして目に見えないところに存在してる。折紙は便宜上統一された価値観にすぎない」
道誉「刀は権力者にとって実に都合のいい演出道具。長い年月をかけて武器からシンボルだけを取り出したとも言えるからな」
亀甲「そうだね、ぼくら貞宗は天下三作の一つ正宗の系譜で、正宗に類する評価を受けることもあって、支配と被支配の関係を誇示する品としての適性が高い……」
亀甲「見栄っ張りな演出家の、ちょうどいい立役さ。明かりが真正面から当たるね」
道誉「ハッハァ! 実にドライだ」
亀甲「ぼくは、ぼく自身の世間的な価値というものには興味がないし、無銘のぼくを縛り付けてくれるものは他にある
亀甲「貞宗は、一振り一振りが思う貞宗であればいいんだよ」
道誉「今の主にはだいぶご執心のようだが」
亀甲「ああ。ぼくは、ぼくが愛するものに縛られることで強くなる」
亀甲「けれどそれは、ぼくだけではないはずだ。悔しいけれど。それは君も感じ取っているんじゃないかな?」
道誉「さて、どうかねえ……」
亀甲くんは、金二百枚という金額にも、己が貞宗であることにもそれほど重きを置いていない様子です。
貞宗は一振り一振りが思う貞宗であればいいと言っているので、刀派への愛情がないわけではないようですが、それでも、誰の作だからどう振る舞わねばならないだとか、徳川将軍家という最高の名家の宝刀として扱われたことだとかに、執着しない。
その亀甲くんが逆にここだけは気にしているというポイントが二つ。
「ぼくに付いた折紙は武器としての価値ではなく、ただの演出だよ」
「ぼくは、ぼくが愛するものに縛られることで強くなる」
演出よりも「武器としての価値」が重要。
愛するものに「縛られることで強くなる」のが重要。
上の回想を分析すると、亀甲貞宗の主張の主軸はここだと思われます。
そして、山姥切長義の極修行手紙における価値観も、これと同じではないかと思います。
折紙も、主君と臣下の間での贈答も、重要文化財のような評価も、そういった世間的な価値には興味がない。
重要なのは、「武器としての価値」であり、愛するものに「縛られることで強くなる」こと。
後者の「縛られることで強くなる」に関する考察はすでに出しましたので、今回の注目ポイントは「武器としての価値」ですね。
3.ところで突然ですがずっと言いたかった愚痴を挟みます
長義くんが評価の低い刀ならばまだしも、他の刀と比較するとむしろ来歴や都度の評価はかなり固い方の刀だと思います。
この来歴で意味もなく卑屈になることは考えづらく、むしろ「自分に自信があり、他に臆する事がない」という公式設定から考えると、単に自分の求める評価とすでに与えられている世間的な価値が合致しないという意味合いだと考えられます。割と贅沢な考え方ですね。
ついでにここでいきなり他の人間の考察を全否定するという暴挙に出てみますが、こうした「山姥切長義」の価値について「先に山姥切国広が実装されていたので、長義は後から来たから」みたいな理由を挙げる人は、正直言って全員間違っていると思います。
何故ならまだプレイ歴3年半目くらいの後発審神者である私が、そもそも長義くんだけ死ぬほど好きで長義くん絡みで色々面倒くさい火種の元となる山姥切国広を蛇蝎の如く嫌っており、長義くんについて考える時に国広のことなどまったく考えもしないし、長義くんより先に国広が本丸にいたということを、まったく重要視しないからです。
国広の方が先に本丸にいたことを気にする、そこに特別な意味があると考える。
それははっきり言って、そう考えている人が、単純に長義くんより国広の方が好きというだけです。
それ自体は別にいいけれど、そういう自分の国広贔屓を自覚していない人間の偏った考察はまったく当てになりません。
刀の価値を無視して古参刀だけが偉いなんてするなら、メディアミックス等でもその辺りは説明されているはずです。
しかし、実際には花丸で後から来た和泉守兼定が沖田組に稽古をつけてやるというようなやりとりが発生しています。
多くの本丸で先に見た目幼い弟たちが顕現している一期一振も、だからと言って弟の大半から舐められているようなシーンはありません。
顕現の順番に、刀の価値を左右するような意味はない。
むしろそんな、山姥切国広というキャラクターに人気が出るかもわからない段階ではシナリオにならないような不確定要素を、普通に考えて組み込むはずがありません。
ここの考察をいくつか読んでいる方は薄っすら察しているかもしれませんが、私は割とちょこちょこ国広の存在を忘れます。
自分が興味のない対象なんて正直そんなもんです。
嫌いだからあえて貶めようとまでは考えずとも、本当にわりとスコーンと抜けちゃいけない場面で頭から抜けているのが、正直興味ないということなのです……(そして後から気づいて原稿を練り直す)。
割と昔からプレイしている審神者でかつ国広が好きなプレイヤーは、自分が国広を贔屓しているということが頭からすっかり抜け落ちてるよな、とこちらからすれば毎回思っています。
4.全てを否定するもの
しかし、実際に山姥切長義を考える上で山姥切国広の存在が大きいのは周知の通り。
今回の極は最初に手紙を全部読んだ時に不完全燃焼感がありましたが、その理由は国広の存在感の薄さに起因すると思います。
更に考察を重ねて、別に長義くんのスタンスと国広が無関係であるわけではないのだなと考え直しましたが、まだ不明点があります。
本丸に降り立った当初、山姥切長義は何故、あれほどまでに山姥切国広に堂々と宣戦布告するような真似を行ったのか?
今回の極修行手紙に、それに対する直接的な答はありませんでした。
ですので、メディアミックスの描写を主軸に何故ああいう態度になったのかを一応考えてみたいと思います。
原作ゲームの描写を考えるのに、主軸をメディアミックスに置きすぎると考察としての精度はかなり落ちますが、この場合は致し方ありません。
以前にメディアミックス側の考察は出しましたが、舞台やミュージカルの山姥切長義像の一貫する特徴は、相手を奮起させるためにむしろ挑発して喧嘩を売るタイプだということです。
この演出が長義くん自身の狙い通りハマったのが「花影ゆれる砥水」で、長谷部に手合せで勝ったら隊長職を譲れと言いますが、実際にはそれは長谷部自身のやる気を引き出す行為だったというやりとりが挟まれます。
なお、長谷部の方がそういう本心に気づいてくれただけであり、長義くん自身は自分の行為が相手のためだとは決して肯定しません。
一見喧嘩を売ってきているようでも、むしろ相手のためだというのがメディアミックスの特に舞台・ミュージカルに共通する山姥切長義像です。
「花影ゆれる砥水」には、もう一つ長義くんの認識について明らかにする場面があります。
それは鬼丸国綱相手に、「鬼なんて伝説上の生き物だろう」と言い放つシーンです。
続く鬼丸さんの返答で自分が失礼なことを言ったのに気づき即座に謝罪していますが、割と長義くん無神経だなと感じると同時に、山姥切長義が自分だけでなく他者の逸話に対してもどう考えているかさりげなく明らかにしたシーンです。
山姥切長義は、そもそも自分が山姥を斬ったとは思っていない。
今回の修行手紙一通目でそれを知って驚いている審神者も何人か見かけましたが、実はミュージカルを見ていると割とあからさまですし、舞台の方も言動の理由を追って行けば薄々察せられるくらいには情報が明かされていました。
今回はここのシーンについてもうちょっと考えてみたいと思います。
長義くんの無神経さと言えば、原作ゲームの回想141でも初対面の後家兼光相手に「難儀」と言い放つシーンがあります。直江兼続の刀だと知った直後の台詞なので、後家兼光と主との繋がりを思い切り否定した形になります。
これもすぐに謝っていますのでミュージカルの鬼丸さん相手の時と似たような印象になりますが、今回の極修行手紙の情報と、これまで原作ゲームの少ない手がかりと、メディアミックスで一貫性を持たせているシーンから、ようやくなんとなくわかってきた気がします。
山姥切長義は――全てを否定したいのではないか?
修行手紙の一通目でこちらに問いかけてきたように、自分に対して「山姥切であってくれ」という願いを向けられているのを理解している。
けれど本当は、長義くん自身は……そうした自分の興味のない、世間的な価値の全てを、何もかも否定してしまいたいのではないか?
山姥切の名も、長義の傑作であることも、北条氏から長尾顕長に下賜された背景も、総て。
総てを振り払って、武器としての刀の価値だけでぶつかり合いたい。ただ斬れる刀で在りたい。
相手のために喧嘩を仕掛けるというのは、相手を挑発して怒らせることが前提。
その奮起で己の心の悩みを振り払うことができる。
本当は誰よりもそうしてほしいのは、長義くん自身なのでは?
人が誰かに向けている言葉は、ある意味自分自身が欲している言葉。
人ではないけれど、鶯丸の修行手紙などでも似たような事を言っています。
鶯丸 修行手紙三通目
他人がなんて言うかなんか、どうでもいい。
そう言われたかったのは、俺だったのか。
長義と国広は性格が違う。国広は自分が偽物だとは言われたくはない。
けれど、長義くん自身はどうなのか?
回想141の後家兼光にも、ミュージカルの鬼丸国綱にも、普通に考えれば失礼なセリフが時折飛び出すのは、長義くん自身はそれを失礼どころか、むしろ当然のものとしたい考えがあるのでは?
鬼丸さんやごっちんは、長義くんの言葉に驚いたり逆に「ならば俺は何を斬ったんだろうな」と暗に否定で反応した。
だからその時の長義くんは、相手が自分とは違う価値観の持ち主であることをすぐに察して謝罪するという対応をした。
長義くんが求めているのは、そこで彼に同意して逸話も元主の存在も号も全て投げ出し、ただ武器としての価値だけで話ができる存在なのかもしれない。
そう考えると、今までの回想やメディアミックス総ての反応に納得が行かないか?
後家兼光は回想141で、かなりはっきりと刀工・長義の作としての山姥切長義を褒める。
まだ名を聞き出す前ということもあり、その言葉は号や逸話や持ち主に寄らず、ただ純粋に長義の作であることを褒めたたえた。
しかし、その言葉を受けた長義自身の反応は淡々としていて、丁寧な言葉は社交辞令のようである。
長義の傑作であるというただの事実に対する賞賛には、心動かされることはないと言う対応ではないか?
一方で、山姥切長義と最も親しい南泉一文字とのやりとりはどうか。
南泉は、自分の逸話を大切に想ってはいない。
別に逸話を捨てたいとまでは考えていないだろうが、逸話によってもたらせる猫の呪いを疎ましく思っており、それを否定するのが南泉一文字である。
逸話を大切にする刀たちとはかなり雰囲気が違い、それ故に逸話のことで雑なからかいをする長義とも仲良くできるのではないか?
南泉と長義のやりとりは、本当に逸話を大切にする刀同士のやりとりではない。
逸話のもたらす負の側面を雑に扱えるもの同士のやりとりではないか?
――山姥切長義は、総てを否定したいのだろう。
号も逸話も元主も傑作としての評価も何も関係なく、ただ、よく斬れる刀であるために。
5.狂犬の首輪
回想57、山姥切長義と極国広の回想は、国広の口振りこそ長義の本音と同じ主張であるものの、そこで選んだ態度があまりにも違い過ぎる故に起きた意見衝突のように思う。
「……名は、俺たちの物語のひとつでしかない」
極国広の主張は、ある意味では長義の元々の考えと同じだったのではないか。
しかし、あの二振りはおそらくそこから先が違う。
国広は、名は物語のひとつでしかないと言い、それを受け止めて落ち着いて生きている。
一方で、長義はおそらく、名は物語のひとつでしかないというところまでは国広と同意見なのだが、だからこそその名の証明に逆に全てを振り払って戦いたい、勝負したいという考えなのではないか。
続く国広の台詞に対する「……なにを偉そうに語ってるんだよ」の台詞は、自分も当然知っていることを相手が口にしたときに返したくなる言葉だと思う。
国広の主張自体は、長義はとっくに理解しているのだろう。
しかし長義は、それを知っていても国広と同じようには考えない。それ故のすれ違いではないか。
物語のひとつにしか過ぎない名でも、きっちり白黒つけたい。
長義くんの性格からすると、そう考えるのがしっくりくる。
国広は自ら首輪をつけることを選んだ飼い犬。
長義くんはできるならばその鎖を引きちぎってしまいたい狂犬。
刀剣男士は「物(鬼)」だと考えられることは何度か考察で説明したが、その彼らがさらに狂犬の性質を持つのは孫六兼元・肥前忠広の回想139辺りが参考になると思われる。
回想其の139 『咆哮、遠く』
孫六兼元「戦場で見るとよりいい刀だな、あんた」
肥前忠広「……あ?」
孫六兼元「天誅の天才、岡田以蔵といえば、人斬りの中では格別だ。その刀が大業物、肥前忠広」
肥前忠広「最上大業物で人斬りの先輩様が、何の用だよ」
孫六兼元「用? 用かあ……、あるにはあるが、知っての通り、私闘(ケンカ)は上から厳しく取り締まられている」
肥前忠広「……ちっ」
孫六兼元「ふむ。敵を倒せとほっぽり出されたはいいが、あんなものをいくら斬ったところで満たされることはない。……俺も、あんたも、そうだろう?」
肥前忠広「ごちゃごちゃうるせえ」
孫六兼元「いいねえ、いいねえ。自分に求められていることを理解している目だ。憐憫で泣いてしまうな」
肥前忠広「……なんだって?」
孫六兼元「飼い慣らされた犬の刀を折ったところで、全く面白くもない」
肥前忠広「……はあ?」
孫六兼元「殺気が足らないんだよ、殺気がさあ、なあ。範疇から外れればいいのか、なあ。ああ、それなら孫六兼元にはこんな話がある。慶応三年、冬の京都だ。土佐脱藩、坂本龍馬の……」
肥前忠広「……!」
肥前忠広「首輪してんのはどっちだ、ええ!?」
孫六兼元「ははっ! いいじゃないか、そうだ、その目だ」
肥前忠広「てめえ、わざとか……!」
孫六兼元「……無心、決まっただろう?」
肥前忠広「……狂犬が」
孫六兼元「どうとでも。ここで紡がれる物語は、それなりに楽しみたいからな」
孫六兼元「だから、さっさと敵を倒して、俺に付き合え」
肥前忠広「……ああ? なんの義理で」
孫六兼元「巡り会ってしまった義理、かな。ははっ」
肥前忠広「おい! …………、……ちっ」
今まであまり重要視していなかったんだが、物語同士の食い合いが特徴で「人」メタファーがかなり関わってくる長義・国広の関係性と人斬り刀の肥前忠広、回想138で「持てるものこそ与えなくては」の話題が持ち出された孫六兼元のこの回想は、重要なのではないか。
メディアミックスなどを参考にすると、刀剣男士は元々敵性存在だったような描写がちょこちょこ入っている。中にははっきりと刀剣男士が敵対している作品もある。
本丸に集う刀は登場が遅くなればなるほど、もともとは別世界の敵と同一の存在だったと考えられる。
直接的に我々の本丸が倒した敵そのものか、どこかで色々と生まれ変わっているのかはまだ不明だが、倒した敵とそのおかげで手に入れる刀に関連性が何かあるらしき展開が続いている。
一番わかりやすいのは九鬼正宗が取り込まれていた対百鬼夜行迎撃作戦。
そして敵が七星剣らしき刀を持っていた、対大侵寇防人作戦などである。
そうなると彼らは本当は、審神者に課せられた軛を引きちぎりたいのではないか?
物語は愛故に作り話を付け加えられる。愛は鎖だと一文字則宗は言う。
愛故にそれを欲する男士も多く存在するが、全員がそうだとは限らない。
むしろ山姥切長義は、本心では愛を否定したいのではないか。
それでも彼は愛を認め、受け入れ、回想165の亀甲貞宗の主張のように、自ら愛に縛られることで強くなる選択をしたのが今回の極修行なのではないか?
しかし大元が審神者の性質を見定めるまでは従わないと決意していた狂犬であるため、何かあれば――「歴史を守らなかったら」、その時こそ愛と言う名の鎖から解き放たれた存在は、これまで自分を主だと思っていたものの喉笛を食い破るのではないか。
ちなみに鎖に繋いだ犬を極限まで飢えさせて、目の前に食べ物を置いたところで首を斬ると、首だけになって食らいつく。それを利用した呪いが「犬神」で、これをシナリオに取り入れていたのが花丸の華の巻となる。
審神者と刀剣男士の関係は、決して物語当初の比較的穏やかな関係が続くものではなく、むしろシナリオ進捗によって変化していく。
「監査官」は、本丸を見定める。しかも別にこれが仕事だったからと言うより、どうやら山姥切長義に関してはもともとああいう性質の持ち主らしいことが判明したのも今回の極修行手紙である。
我々はただなんとなく歴史を守れば刀剣男士が従ってくれるターンから、自らの意思で相手の手綱を握らなければ、その状況を維持できない局面への変化を迎えたのではないか。
君が歴史を守ろうとする限り、俺は山姥切を名乗り、実力を以て敵を斬る。俺の主の刀として。
長義くんの正確な心情がとりにくいという悩みはあるものの、物語自体は面白い展開になってきたと思います。