「偽物」考――言葉遊び編――

とうらぶにおける偽「物」考

光と影の情動
山姥切長義の欠点
物(鬼)について

考察のシリーズもすでに長くなりすぎて一見さんの一読は無理な感じになってきております。
それでも今回のネタ的にどうしても踏まえておいた方がいいものを上げるとしたらたぶん上3つ。
「物(鬼)について」はもともと今回と同じページにする予定ですが長すぎて断念しました。

あ、あと研究史調査「刀の事情」から「福島光忠」の研究史に関して目を通しておいた方がいいと思います。

1.「偽物」ってやっぱ「人」の「為」の「物」じゃないの?

そういえば慈伝考察の時点で「偽物」は言葉遊びで「人」の「為」の「物」じゃないの? って話はしたし、「似せ物」(写し)と音が同じことが大事なんじゃないの? という話はしたんですが。

特命調査名とかここ最近「言葉遊び」要素の考察に本腰を入れた感じ更に、これ、もしかして長義・国広の問題だけじゃなくとうらぶのストーリー全体の中核要素では……? となりました。

花丸映画の考察で、あの映画3本の中だけでも兄弟仲良好なのに何故か弟の名を呼べない髭切と、自分の名を主張できるけど自分には鬼を斬った逸話はないと言い張る膝丸や、贋作だから元の刀工である清麿に自分の名を堂々と名乗れない長曽祢虎徹などの流れで、「名前」「鬼斬り」「真偽(真贋)問題」という要素がかなり近接していることがわかりました。

更に、次の舞台の慶応甲府のタイトルが「心伝 つけたり奇譚の走馬灯」と発表されたことで舞台側の情報が飛躍的に増えました。

心伝(しでん)。

すでに糸がねぇえええええ!!

毎度予想しては外していく赤っ恥スタイルですが、そのおかげで想定ラインをどれだけずれて何が重要なのかはやっぱりわかりやすくなりますよね、ということでこのタイトル「心」の問題。

舞台タイトルの頭の文字は、悲伝で小烏丸が本丸を裏切った三日月の挙動について仲間たちに「虚ろだったか? 義はなかったか?」のようにこれらの性質から尋ねていたので、一番の要素は話の主役の内面や性質を表していると見て良さそうです。

以前はこの性質が話の一区切りを迎えるまで一定という前提のもとで慶応甲府は「絆伝」になるのでは? と予想したんですが、すでに「糸」がない。

「心伝」

基本のキャストに本丸側の国広がいないので、「心」にあたるのはおそらく綺伝の「朧」のような国広の影その2が登場すると考えられます。
三日月が悲伝で「鵺」を、无伝で鬼丸さん(鬼のメタファー)らしきものをと2体生み出している以上、国広側の分身も最低2体は登場する可能性大だと思われます。

三日月退場の「悲伝」の「悲」は、「心」と「非ず」と書く。
「心伝」は逆に「心」だけが存在している。

悲伝の「鵺」は研究史的には三日月と同一存在としか言いようがないので、その「鵺」が三日月本体から抜けたから「心」「非ず」だと考えるなら。

今度の慶応甲府の「心」は、国広の影その2であり、維伝や綺伝の「朧」とは違う存在だと言える。

では影2は何が「朧」と違うのか。

それがおそらく

「糸」を「分」けし「物」――「紛い物」。

縁を示す「糸」の「隹(鳥)」とも、「奇」しき「糸」を持っているものとも違う。

「心」

タイトル的には「し」と一字で読み、心の読み方として珍しいものは「うら」とかあるしと気になるところですが、その辺はちょっと確たる答えが出なかったので今回は置いといて。

特命調査 慶応甲府 其の19『古府中攻防戦 打破』

監査官「さあ、戦え」
加州「言われなくても」
監査官「気がすすまんか」
加州清光「いいや。まがいものをそのままにはできない。それだけ」
監査官「そうか。では戦え、坊主」

慶応甲府の敵は極加州曰く、もともと「まがいもの」。

漢字に直すなら、この時点ではおそらく「紛い物」。「糸」を「分」けし「物」。

「糸」が影と本体を繋ぐ縁だとしたら、それを分けてしまった「紛い物」だからこそ「心」一字で表されるのではないか?

そんな感じで今回は

「偽物」「紛い物」

そして「本物」。

この辺りの「物(鬼)」について、言葉遊び的観点から考察していきたいと思います。

2.「物」という「鬼」

私の興味は基本的に長義くん(最近はごっちんも)にしかないので、どちらかというと慈伝の長義くんの台詞からもともと言葉遊び的解釈を試みていた途中だったんですよね。
そこに次の舞台のタイトルが飛び込んできたというか。

前回、「物」は「鬼」であるという調査を一記事にまとめました。(「物(鬼)について」)

「物」が「鬼」であるのは、もともと上代以前は「鬼」の字は「もの」と呼んでいたところ、平安時代に陰陽道の影響で「鬼」は「隠」もしくは「陰」からの影響で「おん(おに)」と読むようになったと。

「もの」に関してはもともと霊魂と物象の両義性を有していたもので、「鬼」の字を「もの」ではなく「おに」と読むようになったあとも、「物の怪」や「物忌」という言葉に「物」がもともと霊的なものを言い表す言葉だった名残がある、と。

そう、「物」は「霊魂」や「精霊」、そして「鬼」などを言い表す言葉だった。

民俗学者として名高い折口信夫氏はもともと魂の語源としての「たま(魂)」があり、その性質が良いものが「かみ(神)」、悪いものが「もの(物)」に分化したという。

えー、この説に関しては今回『鬼と天皇』を読んだら大和岩雄氏は逆じゃないか? 「たま」から「かみ」「もの」が分化したのではなく「たま」こそが「かみ」「もの」から分離したとしています。ややこしいね。

とりあえずなんか霊魂として「魂(たま)」「神(かみ)」「鬼(もの)」があるっていうくらいのざっくり具合でいきましょう。

そしてあるにはあるけど、結局「神」にも良い面悪い面があるみたいでここはそんなはっきり「神」って書いてあったら良い存在! とは言い切れないのが実際のところのようです。
「神」だろうが「物(鬼)」だろうが、それだけでは性質ははかりきれない。

「物」は「霊魂」、「物」は「鬼」。

でも結局、どの陣営にいようと人間は自分が畏れたり恐れたりしているものを「鬼」と呼ぶだけ。

民俗学のややこしさはともかく、一応『万葉集』時代から「もの」を「霊魂」の意味で使っている歌と「物象」の意味で使っている歌があるというので、「もの」と言う言葉に「霊的存在」と「物象」の両義性があるというのがとうらぶ的には一番重要かと思われます。

日本語で「物」というのはこの一語だけで「霊的存在」と「物体」の両方を意味する。

それを知っていれば、「刀剣男士」という「付喪神」が「物」であり「神(鬼)」であるという大前提が違和感なく理解できるのです。

刀剣男士は「物」である故に、「物体」であり「物(鬼・神)」。

……ということは、とうらぶに登場する「物(もの・モノ)」は、言葉遊び的に全部この前提で考える必要があるのではないか?

「物」は根源的には「霊魂」や「精霊」、ただし『日本書紀』以降はストレートに「物(鬼)」で考えたほうが早い。

だとしたら。

長義「やあ、偽物くん」
国広「……写しは、偽物とは違う」

我々はそもそもふたつの山姥切の争いの根幹となる、ここからまず考え直さねばならないのではないだろうか。

3.「人」の「為」の「物(鬼)」とは何か

「偽」の字を部首ごとに分解してその成り立ちを確認すると当然、「人」の「為」は「人のせいで」という意味になります。

そこをあえて「誰かのために」という意味で読ませる言葉遊び要素だと考えられます。

そして「人のための鬼」というフレーズになると、その印象で真っ先に思い当たるのは派生作品の大和守安定ではないかと思います。

元主の沖田総司という、愛するもののために歴史を変えようとする「物(鬼)」。

花丸の考察でたびたび書きましたが、花丸は安定自身が自分たちが歴史を変えてしまったらどうなるのか疑問を口にしているので、それをそのまま描いている。
プレイヤーとしての我々がイメージする時間遡行軍の本丸に一番近いのが花丸本丸だと考えられます。

もう一つ、今回ようやくミュージカル2作目の戯曲本を読んで内容だけざっくり確認してきたんですが、ミュージカルの安定も沖田総司を助けるかどうかを迷っています。

ミュージカルの安定は最終的には自分自身でその誘惑を振り払いますし、ミュージカルの本丸やミュージカルの安定自身も花丸とは基本ラインが違うと感じましたが、どちらの安定も「沖田くんのために行動する」という根本的な部分は共通しています。

そしてその要素の種自体は、原作ゲームの安定にもあるもの、原作ゲームからの設定だと考えられます。

沖田くんが倒れた。僕の知っているように。
そして彼は、この後戦場に出ることなく死ぬ。僕を置いて。
思えば僕は、沖田くんと一緒に歴史の闇に消えるか、
彼より先に折れてしまいたかったのかもしれない。

(大和守安定 修行手紙2通目)

愛するものを守ろうとする物たちは、原作ゲームの安定にしろ、ガラシャ様を喪った後、自分も斬れと言った舞台の地蔵くんにしろ、愛するものと一緒に滅びたがっている。

愛するものと一緒に死にたがっている。

この印象は、正直原作ゲームの山姥切国広の修行手紙を読んだときにも感じたものです。

事実誤認の逸話を否定しない国広は、逆に自分が山姥を斬った逸話という正史を否定していると言えるのではないか。
それが本当なら、そんな誤魔化しがいつまでも通用するはずもない。
結局は本歌と共倒れの道を選んでるだけではないか。

安定や地蔵くんの物語から考えると、むしろ最初の印象がそのまま正しかったんだなと思います。

愛するものを守れないなら、せめて一緒に滅びたい。
それが刀の気持ちなのだと。

国広は舞台側の主役の片割れで、安定は花丸の主役の片割れ。
配置的には逆かもしれませんが、性質が共通して比較しやすくなっているのは最初からそういう互換できる立場だからと考えられます。

国広の持っている物語と、安定の持っている物語の根幹が同じ。

つまり、己の守りたいものを守れないなら共に滅ぶことを選ぶ、正史さえも捨てようとする、

「人」の「為」の「物(鬼)」

これが異なる派生作品の主人公同士の相似要素だと思います。

4.敵と味方は基本的に同じ行動をとっている

花丸考察の方でやりましたが、雪の巻で安定は初っ端から長義くんの言うことをまったく聞かずに否定するという態度をとります。

一方、江戸への出陣で長義くんは敵の目的をこう予測しています。

「後に老中となる田沼意次を生まれる前に亡き者にしようとしている」

この行動、安定がやったことと敵の狙いは同じことを意味してると思います。

「物語が生まれる前に殺す」

雪・月・華の映画版花丸は雪の巻で長義登場と同時に南泉も出て、「猫の呪い」に言及します。
そして最後の華の巻で、審神者が「玉鋼」を通して「犬神の呪い」にかかる。

刀剣男士の材料となる「玉鋼」。
「猫」の対は「犬」。それも犬神という、飢えた犬の呪い。

生まれる前と言う要素と、猫と犬の呪い要素。

刀剣男士が敵を斬ることは、物語を食うことと同義であることは遅くとも舞台の无伝辺りで確定します。
(泛塵が大千鳥に真田十勇士を食らわせようとしている)

資源は刀剣男士のもと、生まれる前の刀剣男士の欠片と考えてもいいと思います。
そして斬る事で物語を食うなら、斬らせないことは物語を食わせず、飢えさせること。

花丸審神者の行動はそこに引っかかったために、華の巻で「犬神」の呪いにかけられたのだと考えられます。

そしてこの場合、要は味方である本丸側も、敵である時間遡行軍や検非違使も、根本的に同じ行動を取っているという図式が判明します。

花丸からはこんなところですが、舞台の方を見ても、最初の区切りとなる慈伝の時点で、それまでの話で主題として来た要素(紅白戦、修行に行くのを悩む小夜、黒田長政が父・勘兵衛に自分を認めさせる、三日月と国広の決闘と約束)を踏襲しつつひっくり返す構造であり、その後の各話も敵側の行動がそのまま本丸の本質のメタファーとなる構造であることを考えると、同じだと考えられます。

敵の行動(狙い)のロジックは、本丸側と同じである。
敵と味方は、常に同じ意味の行動をしている。

敵側の動きが原作ゲームより明確な派生作品を参考にすると、このような結論が得られます。

5.宝物の欠片

資源を生まれる前の刀剣男士と捉え、合戦場で資源を拾えることと刀剣男士がドロップすることを考えると、新たなる戦場・異去の「宝物の断片」は突入時のキャプションで示された戦鬼の「乾いた肌」だと思います。

戦うモノたちよ お前たちに名を与えよう

戦鬼

お前たちの乾いた肌では、
いとも容易く剥がれ落ちるだろう。

何度も、何度も――

けれども繰り返し、繰り返し、
草木で布を染め抜くように重ねよ。

(2024年1月16日、「異去」突入時キャプション

つまり――「宝物」の正体は「戦鬼」そのもの。

「物」は「鬼」ならば、「宝物」は「宝」の「鬼」。

合戦場で拾える断片は、戦鬼からいとも容易く剥がれ落ちると言われる「乾いた肌」。

その断片を結合剤によって自分の意志で繋ぎ合わせた時、刀剣男士を強化する「宝物」として装備できるようになり、長い間使い続ければそこに新たな名をつけることができる。

どうでもいいけど「ドロップ」もゲーム用語としては「落ちる」という意味で我々は大体使っていますが、「しずく(雫・滴)」という意味の英単語でもありますね。歴史の大河から滴り落ちたそのひとしずく。

そして合戦場と異去の比較によるドロップの分析から問題になってくるのが、文久土佐の敵の「残骸」です。

ぶんとさの「残骸」に関してはすでに誰かが出している考察が興味深い。

南海先生が敵の残骸から罠を作るのは、刀剣男士が普段から資源を使って刀装を作っているのと同じではないか? と。

見たところが掲示板レスとかなんで最初の発言者が誰かは知らないんですけど。

異去の宝物の件も加えれば、その方向の推理で合っているように思います。

通常の合戦場(過去)からは生まれる前の刀剣男士である「資源」を拾い、刀剣男士そのものがドロップする。
異なった世界(異去)からは、資源マスには何も存在しない代わりに、戦鬼の肌と察せられる宝物の断片がドロップする。
文久土佐(放棄された世界)では時間遡行軍の「残骸」が残り、そこから「罠」を作ることができる。

並べてみると、時間遡行軍の存在する通常の合戦場というストレートな「過去」からは「資源」にしろ依り代にしろ、廻り廻って「刀剣男士」となる存在そのものを得ています。

長く見つめていると何かまずいらしい異なった世界こと「異去」には「戦鬼」だけが存在し、我々はそこで「宝物の断片」だけを得ることができます。

放棄された世界である文久土佐には「偽物」である坂本龍馬をはじめとする「幻影」の土佐勤皇党が存在し、その世界では時間遡行軍の死体は「残骸」となり、「罠」に転用することができ、その世界のボスたちを倒すことによってようやく「刀剣男士」を得ることができます。

三つの世界を並べて比べると、正史と刀剣男士の存在はストレートに地続きですが、別の世界二つで獲得するものはその世界の性質と密接に関係していることがわかります。

異去は名前からして、ストレートに正史と違うことが後から判明したので去った世界だと考えられると思います。
ただ一度は正史と信じたものだからこそ、その世界にはかつて正史と呼ばれていた大切な「宝物(戦鬼)」が存在している。

「放棄された世界」の一つでは、時間遡行軍の「残骸」、廻り廻って「罠」となる存在が残る。
原作ゲームだけだと判定が難しいですが、派生作品を含めると放棄された世界の住人たちはただ生き延びるためだけに改変を狙っていることが多い様に思いますので、間違った物語・認識、正史ではない歴史を望んでしまう心が罠となって足をとらえるように感じます。

「放棄された世界」では刀剣男士が生まれるための「資源」は得られず、あくまでその世界の核を倒すなどの条件を満たしてからでなければ、報酬となる刀剣男士を得られない。

それはやはり、放棄された世界が「間違った歴史」と言われ、何とか対処しなければならないことの理由に繋がっていると思います。

花丸の描写から「資源」が生まれる前の刀剣男士であることを意識し、「物」が「鬼」であるという前提を踏まえて考察するとこのようになります。

6.文久土佐の「幻影」と「偽物」

原作ゲームで「偽物」という言葉を使っているのは今のところ三振りです。

山姥切国広、山姥切長義、そして南海太郎朝尊。

特命調査 文久土佐藩 其の44『任務達成』

南海太郎朝尊「強敵も強敵だったようだね」
肥前忠広「そりゃあ、あの姿……」
南海太郎朝尊「……だが偽物だ」

文久土佐の最終ボスは坂本龍馬。

だが、「偽物」である。

山姥切の本歌と写しの問題は、この二振りだけの問題のように思われてる節がある気がするんですが、原作ゲームでもこのように同じ単語を南海先生が口にし、また派生作品のいくつもで「名前」にまつわる話がいくつも描かれていることを考えると、長義・国広だけの問題ではなくむしろ「刀剣乱舞」全体のテーマの一つと見るべきだと思います。

コミュニケーションの基本として、同じ言葉は同じ意味で使うものです。

我々は日常的にその前の段階でつまずくことが多い、同じ言葉なのに他人同士が違う意味で使っている例を山ほど実感しているので長義・国広の言う「偽物」は意味が違うと解釈する旨もありますが、やはり文法的にというか、文学的には「言葉は正しく使いましょう」の一言で終わるかなと。

作中で登場人物たちの認識が揃っていない物語を描く場合は、その状況や理由まで明示しないとお話になりませんし、よほどそのギミックを重視する物語(それこそアンジャッシュのコントみたいな)でない場合、やはり認識が揃わない理由を差し込む必要性が生じます。

一つの物語を創るのに登場人物たちがそれぞれ同じ言葉で別のものを呼んでいるなどという状況は面倒なだけで、普通の作者は理由もなく導入しないはずです。

ただでさえ原作ゲームのとうらぶはシナリオとしての情報が多くないのに、そんなややこしいすれ違いを挟んでいる文字数はありません。
むしろあの情報の出し方の渋り方は、最小限のその情報が常にその時点で完成である、という発想の上のものだと思われます。

なので、とうらぶの作中で使われているメタファーはすべて、一つの言葉がそれぞれ同じ意味を持っていると考えられます。

花はどの作品でも花、月はどの作品でも月。

今回はあくまでも「偽物」に着目して、この南海先生の発言の意味を考えます。

国広、長義、そして南海が口にする「偽物」はすべて同じ意味であるとして成立する解釈を探す必要があります。

文久土佐の龍馬が「偽物」だということは、当然真っ先に「本物ではない」という意味が浮かびます。

それだけでなく言葉遊びを多用するとうらぶのスタイルからすると、「人」の「為」の「物(鬼)」の意味でも通ると思います。

放棄された世界の龍馬が消えた後に残った壊れた銃は、その龍馬が実は「陸奥守吉行」であったことを示すのではないかと考えます。

我々が戦っている敵は基本的に敵側の刀剣で、特にこの文久土佐では歴史を守るのは刀の本能という話をし、むっちゃんがやつらの本能はどうなっていると気にしていることからも、相手が刀であることが示されています。

文久土佐の敵には原作ゲーム時点でも役職からおそらく武市半平太と岡田以蔵らしきものが存在しますが、そこには言及されません。

ただ、派生である舞台の維伝などでははっきりとこの二人が登場します。
しかしそれも全部の派生ではなく、花丸では武市半平太や岡田以蔵どころか、原作ゲームで登場するはずの吉田東洋も登場せずに「偽物」の坂本龍馬とだけ対峙します。

むっちゃんは派生の登場数は多いのですが、性格はかなり差が激しく、考えていることを紐解くのは難しい気がします。

ただそれでも、どの作品でもやはり根幹にあたる元主・坂本龍馬への思いには変わりないと思われます。

舞台は歴史の改変を許さない、そのためなら龍馬を討つことも信念をもって行うという、意志のはっきりした性格に感じましたが、活撃などでは人命にこだわり情にもろい面も大きいように思えます。

そもそも文久土佐の話は、「幻影」の土佐勤皇党は一体何と戦っていたのだろうか?

「陸奥守吉行」が龍馬へ見せる態度は派生作品ごとにばらつきがあるかもしれませんが、原作ゲームの修行手紙を見ても、根本にある龍馬への想い自体には大きな違いはないと思います。

ならばその方向性次第では、むっちゃんが龍馬のために自分を犠牲にする世界線もあり得るのかもしれない。

「人」の「為」の「物(鬼)」とは、やはりそういう性質だろうと。

また、文久土佐の敵が全体的に頭に「幻影」を冠する集団であることも考えたほうがいいと思います。

「影」の性質に関しては以前の考察でさんざんやりましたが、原作ゲームの治金丸が兄である千代金丸の影として自ら積極的に行動しているように、「影」はおのれの本体に尽くす性質を持っているようです。

舞台では、文久土佐回である維伝から「山姥切国広の影」「朧なる山姥切国広」が登場しています。
この「朧」もやはり、国広の本心を映している存在だと考えられます。

「幻影」と名がつく放棄された世界の土佐勤皇党も、似たような性質を有しているのではないか?

「影」は自ら望んで本体のために動く。すなわち「人のための物(鬼)」なのではないか?

そういうわけで、文久土佐の南海先生が言う「偽物」の意味を、「本物ではない」という意味だけでなく「人のための物(鬼)」として読んでも意味は通ると考えられます。

7.「偽物」と「本物」

文久土佐はそれでいいとして、肝心の長義・国広の言う「偽物」は毎回毎回どんな意味で使われているか。
言葉遊び的意味で通るか? そっちも確認したいところです。

結論から言ってしまうと、言葉遊びにした方がむしろ納得行くのでは? というポイントがいくつかある。

「だから。俺のことは好きに呼べばいい。例え偽物と呼ばれようと、俺は俺だ」
「偽物のくせに」

慈伝でこういう台詞が多分あったと思いますが(※慈伝のメモ不完全なので細かいところはわからん)、国広の「俺は俺だ」に対する、ここの長義くんの言う「偽物のくせに」は「人の為の物」で意味とった方が納得が行くかなと思います。

「偽物と呼ばれようと俺は俺だ」って言ってる相手に対して「偽物のくせに」は罵り言葉としてはあまりにも長義くんボキャブラリーなくない? って感じなので(そこ?)

国広はこの台詞の時点で偽物と呼ばれることに納得しているのだから、語彙のない負け惜しみとかいうしょうもない解釈ではなくここの会話を成立させるためには、長義くんの「偽物のくせに」は国広の台詞を明確に否定していると言える内容でなければならないと思います。

これに関して、「山姥切長義の欠点」で長義くんの性格について一度がっつり結論出した後だと、「自利と利他」の問題ではないかと考えられます。

国広の言う「俺は俺だ」という台詞は一見自分のために生きている、「自利」を主張しているように見える。

しかし、実際には、国広がそういう結論を出したのは長義のためです。自分ではない他者のためという「利他」です。

(長義くん自身は国広の結論は三日月のためとか本丸のためとか自分以外の相手のためだと思っていそうだけど)

それに対して長義くんが「(自利ではなく)人の為の物のくせに(お前のそれは利他だろ)」と批判したと考えるとすっきりするな、と。

前々回の考察で自利と利他の差に関して長義と国広はそれぞれ、自身の主張と本心がずれていることをやりました。

国広は基本的に「利他」を主張するが本質は「自利」。
長義はその逆で「自利」を主張するが本質は「利他」。

ここの会話では国広は「自利」だと主張したが、長義に「利他」だと批判を受けた個所かと。

ややこしいことに、基本的性質は国広「利他(実際は自利)」、長義「自利(本質は利他)」だろうと考えられるものの、二振りとも表面上の見解では「利他を否定すべき」で一致している。

だから国広は「人の為の物」であることを否定し、長義はそういう国広を言行不一致の「偽物」だというのだと考えられる。

より正確に言うと、国広は最初は「利他」を否定(俺は偽物じゃない)する立場だったものが、長義が来たことで「俺のことは好きに呼べばいい」という「利他」側に動いたように思われます。

(改めて考えてみても長義以外に国広が自分を偽物と呼ぶことを許すとも思えないし……)

そして長義は長義で、「自利」を主張するものの、その「自利」が言葉だけのものだと許せないという性格だと思われます。とにかく徹底的に本質を貫かねばならぬと考える性格だと。

己のために己を誇るのが「自利」であって、他者のために自分を偽るのは「偽物」……「人の為の物」ではないか、と。

長義のこの主張自体は正しいものの、一方で長義は長義で自分の弱みを国広に見せてはおらず、その点に関する国広の批判は同田貫が途中で代弁しているこれかなと。

「あんたは『飲めない』じゃなくて『飲まない』と言った」
「微妙な言葉の違いだが、『飲まない』のと『飲めない』のでは意味合いが違うんじゃないか?」
「山姥切長義、あんたはどうも弱味を見せたくないようだが、まんばに対してもそう見える」
「あんたの言う通り、まんばは確かに写しだ だがこの本丸で過ごした時間は誰の写しでもねぇ」

以前から慈伝関係の考察で繰り返していますが、ここの同田貫の発言はほぼ国広の内心の代弁だと考えられます。

長義は国広には実力を示せと言うが、長義自身は自分の弱みを決して見せてはくれない。
心を打ち明けてくれない相手に、こちらも心を打ち明けられるわけがない。
そういう非難かと。

後半の「この本丸で過ごした時間は誰の写しでもない」云々は、原作ゲームの修行手紙にもある「誰よりも強くなれば、俺は山姥切の写しとしての評価じゃなく、俺としての評価で独り立ちできる。」絡みではないかと。

国広はやはり極修行前の状態ではある程度本歌である長義から離れたいと考えている、写し要素を否定していると考えられます。

その結論が変わるのが原作ゲームだと極修行ですが、舞台だとその前にこの慈伝のすったもんだがあるわけで。

一対一での手合せの結果、国広側は己の名を主張して長義との縁を否定するより、己の名を否定して長義をここ(本丸)に留めたいという結論になった、というのがこれまでに書いてきた考察です。

同田貫の台詞に代弁される「この本丸で過ごした時間は誰の写しでもない」というのもまあ変な主張です。
どこにいて何をしていたって自分を構成する要素というものは、人間の主観的には普通欠けませんからね。
欠けると言うのならば、それは己が他者の認識でしか構成されていない、中身というか魂、心に類するものの欠けた状態でしか存在しないということであり、まぁ実際とうらぶの世界は「そう」であるとも言えます。

それが綺伝の有馬晴信の「俺は武士として死んだのか キリシタンとして死んだのか 当の俺すらわからない」に繋がってきます。そこに自分がいない。他者の認識にしか自己が存在しない。なら自己とは何なのか。

この問い自体は繰り返されるとして、とりあえず長義くんの言い分的にはだからといってそこで他者の為に生きる「偽物(人の為の物)」になるなきっちり己を保て、というのが国広に対し一番言いたいことのようです。
これも他の考察でさんざんやったので割愛するとして。

前々回の分析的におそらく「自利」を主張する「利他」の刀である長義くんの主張の核はここ。

「そうか! ここは『可哀想な本丸』だったんだな! 『偽物』が近侍となり、『偽物』に率いられてきた!」
「どうしてそんなことになった! それは、誰も『本物』を知らないからだ!」
「どうして俺がこの本丸に配属されたのか、その理由がよーくわかった! 『偽物』しか知らない君たちに、『本物』を教えるために俺は遣わされたんだ!」

「偽物」の対義語としての「本物」で、「偽物」が「人の為の物(利他)」ならば「本(おおもとの、正しい、真実の、自分の)物」は「自利」を示すと思われます。

ただここで今回の本題に戻りたいと思います。

「物」が「鬼」という知識を前提に、とうらぶの「物」について考える。

「偽物」が「利他の鬼」ならば、「本物」は「自利の鬼」という意味になってしまうのでは?

……この解釈、これまでも舞台はこうなるだろうと予想してきた流れからするとここで長義くんがそういうのも通じてしまいそうなんですよね。

三日月から分離した「鵺」が黒甲冑に利用されたとはいえ本丸を襲撃したならば。

次のターニングポイントである対大侵寇相当話で次に何か仕掛けてくる敵は長義・国広由来だと考えられるからです。

「本物(自利の鬼)」と「偽物(利他の鬼)」は「鵺」と同じように、次の転機となる敵の性質を示しているのでは?

「物」が「鬼」を指し示す言葉でもあることを重視すると、この「本物」「偽物」論争は流してはいけない話題のように思います。だからこそ文久土佐にも繋がってくる。

「自利」と「利他」の姿勢に関しては、おおっぴらに作品内でこの言葉が使われているわけではありませんが、やはりテーマの中核としてどの派生にも組み込まれていると思います。

舞台はおもな敵が信長を生き返らせたい弥助であり、敵側の主目的がいつも誰かを守りたい、死なせたくない、生き返らせたいという「利他」であることは隠されていません。

花丸に関してはなんか途中で安定がいきなり自分にとっては主が重要! みたいにいきなり何かに目覚めますが、この部分の唐突さもやはり主に対しての「利他」のテーマに入ったと考えられます。

全ての根源である原作ゲームでは、刀剣男士個々の成長にとって最大の転機となりうる極修行があります、これを終えると刀たちは「主のために」とやたら「利他」要素を打ち出してくるようになります。

「自利」と「利他」の問題は、仏教要素のある作品ではやはり言葉として使っていなくても根本的なテーマの一つとしてがっつり話に組み込まれている、とうらぶもこの要素はかなり重視している、と見たほうが自然かと思います。

8.天狼傳の蜂須賀も「偽物」という言葉を使っている

「偽物」と言う言葉を考えるにあたって、今回新たにミュージカル2作目「幕末天狼傳」を見たのでこっちの情報も加えて行きたいと思います。

あれだな、前から蜂須賀はゲーム内では「偽物」って言葉一度も使ってないのに、まったく別の問題である虎徹の贋作問題と山姥切のどちらが斬ったか問題混ぜる人いるな……と思ってたらミュージカルで「偽物」って言葉使ってんのかい。

(本丸ボイスはあくまでボイスなので「偽物」の字であるかどうかの確証がない……と思ってたけどミュージカルで「偽物」の字を使ってるし掛詞的に考えればそこも「偽物」で確定で良さそうですね)

それならちゃんと出典:ミュージカルって書いて役目でしょ(机べしべし)。

それは置いといて、この話それこそ「原作ゲームの文久土佐」「舞台の慈伝」「舞台の維伝」「花丸映画」辺りと明確に比較分析しなきゃダメな内容――!!

舞台とミュージカルって結構片方しか見てない人も多いみたいだけど両方見てる人どれくらいいるんだろうな。両方見てる人の話を案外聞かない。何故だ。

こっちを先に見てたら慈伝見た時についに「本物」「偽物」論争が明確化した時点で大典太さんが五虎退、つまり「虎」から「壁」って呼ばれてるとことかむっ! ここは……!! ってなるポイントだらけやんけ!!

ミュージカルの蜂須賀も長曽祢さんとの関係を上手く築けないことに関して「壁」がどうのこうの歌っています。

「虎」と「壁」のメタファーがここで近接していますね。

原作ゲーム勢としては幕末天狼傳のシナリオは、一言で言うなら「文久土佐」だこれ。

蜂須賀が自分は「飾られていた」みたいなことを繰り返すんですけど、蜂須賀多分そんな来歴ないでしょ。
多分史実に反してる、多分。

だからあの部分で重要なのはたぶん「飾る」というメタファーの方。

蜂須賀の来歴に関しては私も直接蜂須賀の話が載ってる本ほとんど目にできてないのであんまり断言はできないんですが、現在実装されてる刀剣男士110振り分の研究史調べた感じから言うと、蜂須賀は多分、蜂須賀家で飾られてたなんていう立派な来歴はないと思います。

今のところ実装されている刀の中でぶっちぎりマイナーなのが蜂須賀で、これ以上マイナーな刀が今後実装されるとも思えないレベルで情報ないので。

(知名度が低いだけで、昭和名物なので価値そのものははっきりしている。マイナーであることと価値ある名刀であることは普通に両立します)

断言できないとはいえ、様々な刀剣の研究史を調べた感じ、本当に蜂須賀家で「飾られていた」刀なら普通はもうちょっと情報あると思う。

それに蜂須賀家の名刀と言えば蜂須賀正恒と呼ばれる国宝や、享保名物の順慶左文字(重要美術品)があるので、それらを差し置いて新刀を飾るとは考えにくい。

「蜂須賀家が所有していた」ことは確定だけど、「蜂須賀家で飾られていた」という情報は多分ないと思います。
まぁもしかしたら私がまだ見れていない2冊にその情報がある可能性もゼロではないんですが、多分ないんじゃないかなー。

そしてその情報があるにせよないにせよ、重要なのが「飾る」というメタファーの方であるという結論は動きません。

原作ゲームの「飾る」要素はこれ。

文久土佐の「文」という漢字の意味が「飾る」です。

それと「文」の字じゃなく意味の「飾る」が強調されたことで繋がるのは、長義・国広のキャラソン「離れ灯篭、道すがら」の歌詞にも「飾」の字が出てきているところです。

離れ灯篭が出た時はその次の「尤」に気を取られたけど、その前の「飾」の字から重要なメタファーだったと。

「飾る」というメタファーが重要だったから蜂須賀にそう言わせてるだけで、蜂須賀自体は蜂須賀家で飾られていたわけではないと思います。

と、いうわけで幕末天狼傳は文久土佐、というか特命調査の始まりである聚楽第に続く2番手の物語が文久土佐で、幕末天狼傳もミュージカルの2作目であることを考えると、これの裏側が文久土佐という関係だと思います。

とうらぶの構造は同じ物語を繰り返して反転し、反転して踏襲するようなので、入れ子式二部構成の円環が一区切りを迎えた次のターンではその裏側が描かれていると思います。

んー、私がまだミュージカルはこの後の話を見ていないのでそっちとは今ちょっと比べられないんですけど、構造的に近いだろう舞台の維伝の方を思い返せば、いくつか対の概念が存在します。

幕末天狼傳では「猫」。維伝では「犬」。
幕末天狼傳では「菊(秋)」。維伝では「梅(春)」。

あと会話のやりとりなんかはある程度、慈伝や花丸の方の雪の巻、つまり長義くん登場時期と被ります。同じ話をしています。
「酒」に関しても両方で取り扱っていて、長義くんは固辞しますが蜂須賀は呑んでいますね。
ただ「酒」に関しては舞台では慈伝以降ほぼノルマ的に毎回出てくるって感じなのでそこは置いておく必要がある。

聚楽第の国広と文久土佐のむっちゃん、この二振りに関わるメタファーが近接していることは以前もやりました。
花丸の買い物回で他が縁刀同士で出かけている中、全然来歴関係ない何の縁もないこの二振りは一緒に出掛けている。

また、花丸でとくに陸奥守吉行に与えられているメタファーとして「写真」、つまり「写し」があります。

今回着目した文久土佐の「偽物」も、本来は特に国広が強調しているメタファーです。

猫と犬に関しては、花丸の映画版は雪の巻で南泉が「全部猫の呪い」と口にしたところから長義が登場し、映画のラストを飾る話は犬神の呪いを掛けられた審神者を主人公である加州・安定の二振りが助けて終わります。

猫と犬はセット。
そして秋の菊と春の梅も対になっている。

猫は南泉に近いメタファー、犬は五月雨・村雲辺り。
菊は一文字則宗。梅は後家兼光。

今後も担当は増えると思いますが、今のところなんだかやっぱり長義くん関係が多い気がしますね。梅にごっちんが来たのが大きい……。

そういう図式になるのも、メタファーの近接が理由で、その中に身内要素が含まれる関係からだと考えられます。

気になるのは幕末天狼傳の黒猫と菊の関係ですが、ここを即御前こと「菊一文字」とつなげていいのかは今の段階だと計りかねます。

幕末天狼傳の黒猫は、歴史からの付会という意味では子母澤寛氏の『新選組始末記』に沖田総司絡みのエピソードとして黒猫が横切ろうと云々が出てくるのでそこからでしょうが、とうらぶのギミックとしてこれの正体がなんなのかはまだわからない。

ただ、この黒猫と比較すべきはミュージカル2作目に対し、舞台の2作目義伝に出てくる「黒甲冑」ではないかと思います。

そもそも「黒甲冑」が何なのかが正直まだよくわからんくてな……。

「鵺」は刀剣男士側の分離ですが、「黒甲冑」は言動的に伊達政宗の妄執として扱われているので伊達政宗側の分離だと考えられる。

一方、その次? というか戯曲本では同じ巻に収録されてるけど舞台としては4作目? ぐらいで出てくる「山姥」という存在もいて、そっちは長尾顕長に能面を介して取りつくけど長尾顕長本人の感情というよりは外から被せられた状態であり、外伝で悩みを抱いているのはむしろ北条氏直の方なので、「山姥」に関しては外から被せられる他者の感情のような印象になります。

……舞台の三日月と国広の性格と描写について考えると、三日月側は「黒甲冑」(己の妄執の分離)、国広側は「山姥」(他者に被せられた仮面)そのままとも言えますが、間に「人間」を介しているのがポイントかなと。

刀の対極が人間のようなので、そこから幕末天狼傳の黒猫について考えると確かに「沖田総司」にとりついている悪霊のようなあの黒猫の描写は刀側を表すっぽいので「菊一文字」とも考えられますが……。

その場合その「菊一文字」は沖田組の対極である「一文字則宗」から考えるのか、むしろこの黒猫に一番近い存在は安定なのでその対極の「加州清光」を想定するのか。

そもそも舞台側だと三日月と伊達政宗なんも関係ねえ(根本的なツッコミ)。

……ただし、伊達政宗は三日月とは無関係ですが、三日月の対があの黒甲冑にとり憑かれる「鶴丸国永」だと考えると意味がある。

自分の対の存在の対極と考えるとやはり菊に変化する黒猫で想定すべきは加州なのか。

とはいえここで別に結論急がんでも本格的な分析は残りのミュージカル見て花丸の猫・犬の呪いと合わせてから考えればいいかなと。

今重要なのは「偽物」。そして、

幕末天狼傳で一番肝心なのは、最後のオチだと思われます。

近藤勇が介錯を頼んだのは長曽祢虎徹。
しかし、蜂須賀虎徹が長曽祢虎徹を気絶させて自分が近藤勇の首を落とす。

そこまでは普通に戯曲本読み進めてたのにこのオチで「は?」ってなったんですけどぉ……。

え、いやそこはシナリオとしては蜂須賀がやっちゃダメだろ、と話の筋立てにはツッコミたいところなんですが、これ、脚本の腕というより要はこの部分がとうらぶ最大のギミックということでしょう。

舞台が「朧」という「偽物」の物語なら。

ミュージカルの蜂須賀はこれ、「なりかわり」だわ……!

「なりかわり」とは一般的には「成り代わり」と言う字を書きますが、こういう表記もあるらしい。

「為り変わり」

偽物と同じく「為」の字。

誰かの「為」に「変わる」。

だから幕末天狼傳で明確に蜂須賀から「偽物」と呼ばれたのが長曽祢さんなら、その対であり対極に当たる蜂須賀自身は「為り変わり」。

「偽物」の対が「為り変わり」。

それで幕末天狼傳中にも挿入されていたこの回想の意味がわかった。

回想其の15 『池田屋事件 市中』

長曽祢虎徹「……和泉守兼定に言っておけ。暴れるのはいいが、うっかり橋に刀傷付けたりするなと」
堀川国広「ああ……僕らがそれをやっちゃったら歴史が狂いますよね……」

三条大橋はどうせ傷がつくなら一つや二つ増えても同じじゃない、と思うんですが、ここでそれを警戒するということは、正史で誰かが取ったのと同じ行動をすると、その人物に強制的に「なりかわり」が発生するんじゃないでしょうかね。

今生で即、というよりは輪廻の中での次の生が、という可能性はありますけど。
そして舞台の方で言うなら少なくとも大千鳥による真田信繁の代役は見破られたりしていたんですけどね。

舞台では自分の元主やその親しい人物を斬るのは刀剣男士自身が己の役目と心得、まず誰かに代わってもらうことはできない定めとなっております。

ミュージカルはこんなにもあっさりと長曽祢さんの役目を蜂須賀が奪ってしまう。近藤さん自身が長曽祢さんを選んでわざわざ首を落としてほしいと頼んだにも関わらず。

ただその時の蜂須賀の言い分は、舞台の慈伝の中のやりとりと近い。

蜂須賀は長曽祢さんに対し、何もかもひとりで抱え込もうとするところが嫌いといい、ずっとひとりで抱え、苦しんできたのだからもう見なくたっていいと言う。

そして長曽祢さんは気絶し、長曽祢さんに代わって蜂須賀が近藤さんの首を落とすことになる……。

……いやこの言い分さ、前半は慈伝で鶯丸が長義くんに言い聞かせてた国広の姿勢そのものなんよ。

「でも彼は自分一人で何もかもを背負い過ぎている」
「もう少し俺たちを頼ってくれたらいいんだけどな」

ミュージカルの蜂須賀と舞台の長義が違うのは、それでもおそらく長義はひとりで抱え込むなとは、もう見なくていいとは言わないだろうところ。

代わりに舞台の長義が慈伝で出した結論はこれなわけで。

「お前がどう言おうと、あの勝負は俺の負けだ!」
「だが俺は強くなる。この本丸で俺は強くなるんだ!」

誰も誰かの運命を代わってやることなどできない。
けれどその代わりに、傍に――ここ(この本丸)にいてやるから、と。

……この言い分、ひっくり返したらもう傍にいてあげられない状態になったら運命を代わ――くぁwせdrftgyふじこlp。

それはいったん置いておこう。

舞台に関しては慈伝で南泉の荷物を大典太さんが厚意で取り上げたときも南泉が横取り云々と批判的だったことや、天伝で加州が国広に近侍を代わってやろうかと思ったけどやめた話、无伝で高台院を斬らねばならない三日月を骨喰くんは心配したが数珠丸さんは三日月を信じて任せきったこと、原作とも共通するが、特命調査は基本的にむっちゃんや歌仙、加州たちが自分の元主や縁者を斬らねばならないこと、その他もろもろを考えると、自分の役目は自分のもので、誰も変わることはできない、してはならないこととして一貫して描かれている。

こうしてみると、舞台とミュージカルは綺麗に正反対のスタンスの本丸として描かれています。

話の位置・時期はちょっと違うけれど、舞台に関しては外伝で山姥を斬っているのも国広ですし、伊達政宗関連も伊達組が解決しているのでこのスタンスの件は本丸ごとに一貫させていると思われます。

蜂須賀の言い分からすれば、やはりミュージカルの長曽根さんも「人の為の物」という意味での「偽物」と考えていいと思います。

9.嫉妬の在処に関する分析

ミュージカルの蜂須賀関連で、沖田組と山姥切の本歌と写しを絡めてもう少し。

三毒の一つ「癡」として最重要クラスのメタファーの一つ、「嫉妬」をそれぞれの派生作品がどう取り扱っているかについて考えたいと思います。

ミュージカルの蜂須賀は長曽祢さんに憧れているだけでなく、「羨望」も歌っていますから、これは花丸の国広と同じく「嫉妬」と同一の感情として整理していいかなと思います。

花丸の長義の「妬ましい」と花丸の国広の「羨ましい」は狭義には別の感情のようですが、広義にはどちらも「嫉妬」でいいと思います。

そしてミュージカルだと、安定が「お前らは選ばれたじゃないか」と口にしているので、「妬み」のメタファーを担当するのは安定です。

花丸長義の互換はミュージカル安定。
花丸国広の互換はミュージカル蜂須賀。

さらに、花丸長義はそもそも花丸の主役の片割れである安定自身の嫉妬のメタファーだと考えられます。

ということは、やはり長義と安定はメタファー的にそもそも何らかの理由で互換関係があるんだと思います。

後でやりますが、実際、花丸の第2期の冒頭が源氏兄弟顕現の話からなので、おそらく安定自身のメタファーの裏に「鬼斬り」が存在して、花丸ではその部分を長義が担っているので花丸長義は安定の嫉妬のメタファーとして描かれているのだと考えられます。

種類と配置は少しずつ違いますが、花丸とミュージカルに関してはどちらも同じ本丸の刀剣男士同士の関係で相手に「嫉妬」を抱く描写があります。

ではこれはそれぞれのキャラクターのスタンダードかと言えば、それは違うと思います。

舞台は「嫉妬」というメタファーの配置が花丸やミュージカルとは明らかに違うと思います。
長義・国広自体がお互いに向ける嫉妬のメタファーを持っているとすると慈伝から二振りは相手を妬みあっているとなるんですが、慈伝はむしろタイトル通り「慈しみ」の物語であって、あの二振りにそんなものはないと思います。

代わりにどこに嫉妬が在るかといえば、慈伝以後の話の中に、メタファーである敵の人間の中に出てきています。

父である秀吉に焦がれ戦によって己の物語を得ようとする豊臣秀頼(羨望)。
妻であるガラシャに庭師が見惚れることを許さず、庭師を殺し、めった刺しにする細川忠興(嫉妬)。

舞台による嫉妬や羨望というメタファーはこうして敵である人間サイドにあり、豊臣の親子関係も細川の夫婦関係のどちらも長義・国広自身の関係のメタファーとして機能していると考えられます。

羨望、憧れはすでにこの世に亡き父に。
嫉妬は、己の妻でありながら他者の心を夢中にさせ、夫よりも信仰を愛する妻へ。

戦に駆り立てる破滅の羨望。
花を育てるもの・庭師を殺しそれでも許せず死体を切り刻む狂気のような嫉妬。

どちらも非常に重要なメタファーであり、特徴としてこの羨望や嫉妬の矛先は現在本丸に存在する刀剣男士とは違う場所にいる相手を対象にしていると考えられます。

要するにそれが「鵺」であり、「朧」。
そのものというよりはそれに類するもの。
「朧」は綺伝で長義くんが倒してしまったので、2体目が登場すると考えられます。

舞台の細川忠興にとって「花」である妻・ガラシャには愛憎を抱くがあくまでも執着の対象であり、殺すほどの妬みを抱いたのは「庭師」。
それも実際に浮気したわけでもなく、ただ「花」であるガラシャ様に見惚れていただけ。
一方この時、ガラシャ様自身も「ただ庭に咲く花を眺めていただけ」と答えている。

庭師と妻はそれぞれ別の「花」を眺め、夫は己の「花」に見とれる庭師を斬り殺す。

ここに強烈な「嫉妬」のメタファーを置いている以上、舞台の長義・国広はもともと相手自体に羨望や嫉妬は抱いておらず、ただしどちらも別の「花」を眺めてしまうし、己のものだと思っている「花」に見とれる別の男が文字通り殺すほど許せない関係として描かれるのだと思います。

舞台の忠興・ガラシャの描写からすると舞台の長義・国広のメタファーは「憎しみ」。三毒だと「瞋」。

というわけで、山姥切の本歌と写しのメタファーが派生同士で「癡」と「瞋」で食い違うため、派生作品の三毒要素はあくまで作品ごとの付加であって原作からは「存在しない」メタファーだと見たほうがいいと思います。

各キャラが原作から持っていくメタファーは名前や刀自体の特徴や来歴に由来する・付会されるものだけであって、三毒系メタファーは原作とは違う、派生作品として成立させるにあたって付加されるタイプのメタファーと見ていいと思います。

ちなみに少なくとも長義くんが原作ゲームから「花(桜)」のメタファーを担っていることは最近になって後家兼光との回想141「無頼の桜梅」が実装されたことにより、推測から確定になりました。

この辺から考えると、ミュージカルの蜂須賀の羨望も、ミュージカル独自の設定になります。
ただし、蜂須賀に関してはもともと長曽祢さんに惹かれていることは原作ゲームでも公式Twitterの紹介にありますので、ミュージカルの蜂須賀像は比較的原作ゲームに近いと言えます。

一方、花丸で「羨望」という煩悩を付与されている国広ですが、こちらは原作ゲームに近いかというとそうでもない。

国広は常々本歌と比べられたくないといい、修行手紙一通目で独り立ちしたいという考えですので、本歌に憧れるどころかむしろ離れたがっている状態から、極修行を経て自分の逸話をある意味犠牲にしても本歌である長義の逸話を守ることを選んでくるのが原作ゲームでの姿です。

国広に関しては舞台の方がまだ原作ゲームと要素が近くて、花丸国広は原作ゲームの国広とは全然別の性格とも言えます。

これはまだ極が来ておらず内面の情報が不明瞭な長義も同じだと思われます。

舞台の長義は原作ゲームとそれなりに近いが、花丸はまったく違う。

問題は、花丸でもミュージカルでも嫉妬キャラになっている安定の扱いです。

結論から言ってしまうと基本のキャラ自体は原作ゲームの安定と花丸・ミュージカルの安定はどちらも違う性格だと思います。

ただし、そのどちらの性格のもとにもなる「種」自体は原作ゲームからあると思います。

それが修行手紙で「沖田くんと一緒に歴史の闇に消えるか、彼より先に折れてしまいたかったのかもしれない」と吐露した部分です。

ここに、目的である「沖田くんと一緒に歴史の闇に消える」ことを重視してそれを実行する手段として他者の物語を奪う筋道まで考えてしまうと、後半の「彼より先に折れてしま」ったという物語そのものを持つ加州との関係を考えざるを得ないことになります。

安定が目的のために何でもすると考えるとその心に清光への嫉妬を浮かべてしまう。
安定が清光への嫉妬を持っているからこの言葉が出てきたと考えると、安定は時間遡行軍になると考えてしまう。

それはどちらもそのように見る私たち自身、審神者自身の心の闇の投影であり、実際の原作ゲームの安定は直截的には清光への嫉妬も口にしていないし、本丸を裏切ってもいないことを考えると、その煩悩の種は育てない、何の花も咲かせない、つまり「存在しない」として扱うのが正しい解釈に思えます。

ただしその正しい解釈では、何の物語も生まれない、何の花も咲かない。

だから派生作品それぞれはその煩悩の種を育てて花を咲かせる。それが嫉妬という物語。

国広・長義や蜂須賀に関しても似たような「種」自体は持っていて、見つめる審神者がそこに己の煩悩を投影して育てるかどうかが各作品のその男士像に影響していると思われます。

安定に関してはこれから舞台にも登場することが確定していますので、相方である清光への嫉妬を打ち出した花丸ともミュージカルとも違う安定像になることが考えられます。

舞台は花丸と逆で安定が長義・国広のメタファーになるので、舞台の安定はどちらかに近い感じの性格になるんじゃないだろうか。
相方の加州がすでに天伝で国広と対極の性格を描かれているので、安定は国広側に近くなるんじゃないか?
研究史的にもたぶん、加州、長義、三日月は同ラインだから似たような性格になりやすく、国広と安定の方がスタンス的に近い性格に感じる。

10.円環する十二か月、花丸の構成から判明する無限入れ子式構造

ここで一度、派生作品から判明したとうらぶのシナリオ全体の流れに対する整理をば。

割とてきとーな流し見ってか作業用BGM程度だったんですけど花丸の1期2期を改めて通して見た結果、これは1期は1期で一つの円環、2期は2期で一つの円環を構成している2部構成だと思いました。

映画版花丸は長義くん登場、つまり特命調査開始という一つのターニングポイントから始まりますので、それまでのタイミングで同じことを2回繰り返す2部構成の連続です。

特命調査開始前までを第一節前半、特命調査開始後を第一節後半とすると、それぞれが2部構成になってそれが組み合わさって4部消化したところで対大侵寇を迎える構成だと考えられます。

こうなってくると、花丸映画は特命調査を二つ消化して、三つ目の天保江戸組も顕現しているところで犬神の呪いという規模の大きい事件を迎えていますので、ここまでは第一節後半の前半(ややこしい)だと考えられます。

もしも続きをやるとしたら、残りの特命調査・慶長熊本と慶応甲府相当の話をしてから改めて対大侵寇もやりそうですね。
ただ花丸は9周年配信によるとここで一度完結らしいので続きが作られるかどうかもプレイヤーの目からは定かではないんですが。

犬神の呪いのような対大侵寇に相当する大きな事件は一節の半分のタイミングで入れようと思えば入れられるって構成ですね。
舞台ではこれが特命調査の前の悲伝にあたり、花丸では映画のラストの犬神の呪い戦でしたが、花丸の続きが作られるなら慶応甲府までやった後改めて対大侵寇相当の話がまた来るだろうと考えられます。舞台は慶応甲府まで話が進んだのでその次に対大侵寇相当事件が起きるのはほぼ確。ただしいつも言ってますが原作ゲーム通りの対大侵寇ではなく、あくまでそれ相当の事件。

花丸は常に1話の中で前半と後半のテーマが違う2部構成で、更に安定が顕現したところから始まる第1話睦月と、織田信長への想いを織田組が口に出さない第2話如月がテーマ的に対になっている2部構成でもあります。

舞台やミュージカルも1話の中で前半後半を分ける2部構成ですし、派生作品がことごとくそのようになっているということは、原作ゲームからすでに対の話をひっくり返しながら並べていき、2部構成の中にさらに2部構成が入っている構造だと言えます。

一言で簡単に定義してみるなら「無限入れ子式2部構成」ぐらいの表現にしておきましょうか。

原作ゲームからの読み取りは難しいですが、派生作品はどこ見ても2部2部2部2部……の基本2部構成です。そしてそれを組み合わせて4部にして一区切りになっていることが多いです。

完全に同じ話を繰り返すというより、一部に反転要素を入れることで、同じ構造を踏襲しながら次のターンではその反対側の要素が強調するという構成により、無限に繰り返すループ構造の物語になっています。

たぶんABBAAB BAABBAみたいな感じ。

舞台やミュージカルは話の区切りが悲伝のような大きな事件を迎えるまで微妙にわかりにくいんですが、花丸は1クール12話というアニメの基本形式のおかげでこの部分が他よりわかりやすくなってるので、花丸を基準として見ていくと比較的整理しやすいです。

花丸で長義くん初登場の雪の巻では、長義くんがのっけから国広に喧嘩を売っていくのは原作ゲーム通りなんですが、花丸ではその長義くんにのっけから喧嘩を売るのが安定、という構図です。

今回改めて1期2期と連続して見てみたところ、安定が顕現した1期1話に対応する2期の1話で登場するのが髭切と膝丸、すなわち「鬼斬り」という長義くんと同じメタファーの刀たちです。

つまり大元の構造が「大和守安定」の物語の裏側に「鬼斬り」の物語があると見るべきで、更にABBA……的な並び、反転しながら繰り返す構造から次の映画版の頭は再び2期1話と同じ「大和守安定」の裏の「鬼斬り」話が繰り返されるので、その雪の巻の「鬼斬り」メタファー担当こそが、花丸の長義くんです。

また、1期の10話ラストで長曽祢さんが顕現し、11話、12話は安定の物語の始まりである池田屋出陣に戻る円環の構造です。

贋作である長曽祢さんの登場を考えると、原作ゲームで言うなら慶応甲府で「まがいもの」「なりかわり」というテーマを踏まえたあとに対大侵寇という三日月と始まりの五振り(初期刀)の話が来る構成と同じだと思います。

メタファーとして比較的意味がはっきりしていて注目しやすいポイントとして、花丸内の国広や長曽祢さんの位置はかなり重要だと考えられます。

花丸一期に見られる構造に、原作ゲームの特命調査から対大侵寇までの最初の並び順と同じ構造みたいなものを感じ取るということは、おそらく、

「刀剣乱舞」の原作ゲームと派生作品のシナリオは全て同じ構造である

ということだと思います。

特命調査は派生作品では描かれるものと描かれないものがありますが、少なくとも舞台が天保江戸以外をほぼ順番通りに網羅した上に、ミュージカルの幕末天狼傳と舞台の維伝に文久土佐関連のメタファーの反転した繋がりがあるので、もうシンプルに「全部同じ」と見る方が自然だと思います。

原作ゲームが話の区切りにほとんど名前を付けずに第一節が長いので呼称が大分ややこしくなりますが、大体こんな感じ。

◇◇◇◇◇◇

◆ 第一節前半の前半

原作ゲーム ?
花丸 第1期
(舞台 義伝まで?)

◆ 第一節前半の後半

原作ゲーム ~南泉一文字、千代金丸登場あたりまで
花丸 第2期(九曜の竹雀まで)
舞台 悲伝・慈伝まで

◆ 第一節後半の前半

原作ゲーム 山姥切長義登場、特命調査開始~天保江戸辺りまで
花丸 映画 雪・月・華の巻
舞台 慈伝~夢語(花丸ラストと同じく審神者が悪夢に囚われる)までか?

◆ 第一節後半の後半

原作ゲーム 特命調査・慶長熊本~対大侵寇・七星剣登場辺り
(ここまでが原作ゲームの「第一節 朔」)
花丸 今のところなし
舞台 夢語・単独行~(舞台版の対大侵寇相当話とそのエピローグ回まで)?

◇◇◇ ここまでが 「第一節 朔」 ◇◇◇

◆ 第二節前半の前半

原作ゲーム 七星剣、稲葉江登場~八丁念仏、石田正宗辺りまで?
(石田正宗登場と大型アップデートが同時だったのでここが転機か?)

◆ 第二節前半の後半

原作ゲーム 京極正宗~火車切、次の実装男士辺りまで?
(特命調査別順復刻、異去実装、ちよこ大作戦開始などつまり現在がターニングポイント真っただ中)

◆ 第二節後半の前半

原作ゲーム おそらくこの次の次に実装される男士辺りから

(珍しいメタファーを追うと南泉・火車切の「猫斬」刀はそれほどいないはずなのでここは確実に踏襲した構造になっている、もしも南泉あたりの時期に実装された刀剣男士の順番そのままに再び実装されるなら次の次に実装される男士のタイミングというのは、第一節で山姥切長義登場・特命調査開始のタイミングということになる。
ただし本当に一振り一メタファー踏襲構造かどうかはわからない)

◇◇◇◇◇◇

原作ゲームの第二節に関しては今が転機の真っただ中なので、この一年あたりに実装される男士の情報を分析するのが大事かなーと。2024年は考察勝負ターニングポイント!

静形と後家(女性名)、南泉と火車切(猫斬)でストレートに特定のメタファーを踏襲しているとなれば、次は千代金丸に対応するメタファーの男士が来るはずで、その次は山姥切長義を踏襲する再び「鬼斬」のメタファーを強く持つ男士が実装されると考えられる。話的にはそこでおそらく第二節後半に入るのではないか?

「ちよこ大作戦」が、チョコレートの当て字の一つである「千代古令糖」からとって「千代古」ならば、9枚のパネルを開いて刀剣男士の「シルエット(影)」から正体を当てる「ちよこ大作戦」のシステムに則って、次の男士は「九」かもしれない。

今年実装される男士が基本的に前とは別の順番で復刻されている特命調査と関連してくるなら、歌仙の関係者として兼定に九の字を持つ「九字兼定」がいるので、慶長熊本復刻と同時に来る可能性を予想する。

また、陸奥守吉行とそこに相当する火車切自体には来歴上の関係はないという組み合わせもあることと、舞台などの派生作品で「酒」のメタファーをかなり重視していること、天保江戸は誰が来るかと考える前に、水心子関連でイマジナリー男士として登場が予告されている「大慶直胤」以外の可能性が考えにくいことを合わせると……

慶長熊本(九字兼定)→聚楽第(童子切安綱)→天保江戸(大慶直胤)

……の順番で予想してみる。

ただこの予想、舞台が長義くんの属性に唐突に「俺は酒は呑まない(下戸)」をつけて鬼女斬り刀と「酒呑」に関連を持たせてきたのに引きずられていると言われればまぁその通り。

花丸なんか見てると安定・長義に表裏の意味合いがあるようなので、「大」と「鬼斬」が表裏なのだとすると長義くん実装を踏襲するタイミングで天保江戸が始まり「大」のメタファーを持つ「大慶直胤」実装、聚楽第が復刻最後の順番になり、国広の縁者として加藤国広や布袋国広が登場する可能性もある。

ただ後者の場合はあの……みんな自分の縁者来てるのにぶんとさのむっちゃんだけ……みたいになるので実装のバランスはよくない気がする。

とはいえこれもてんえどで大慶来たら蜂須賀じゃなくて水心子くんの方の身内じゃね? とか聚楽第で長義くんの身内が来てもいいということを考えると大阪長義は「大」のメタファーがあるし、八文字長義は八丁くんと対応する「八」のメタファーがあるなとか可能性無限大!(思考放棄)

「大」のメタファーは正直多すぎて意味が絞り切れないんだ。花丸で静ちゃんが解説してる観念が一つの理由だろうけどそれだけじゃまだ絞り切れん。

八文字や六股長義などの長義の兄弟刀はどちらかというと「足」に関するメタファーが強調され始めたら登場しそうだとは思う。

あと国広絡みだと舞台だと天伝で国広と加州の組み合わせをやったので、加州のメタファーが「加」であり国広と対構造がある場合、国広の縁者として加藤国広の重要性が増す。

一方、堀川国広の刀で言えば布袋国広も「梅」「学習」要素がありこの辺長義くんと対の一つである後家兼光との関係性に類似するのでこっちも重要。もう全部重要(思考放棄)。

この時点ですでに穴空きまくりのガバガバ予想であって

・本当に一振り一メタファー踏襲方式とは限らない

たとえ千代の裏側が九だとしても、九鬼正宗が来れば千代と鬼両方のメタファーを一振りで達成可能。

・特命調査に関連して男士が実装されるとは限らない

運営は別にイベントと関係なく突然鍛刀キャンペーンをぶっこんでも良いんだ。

・この順番で来るとなると、童子切が2024年内の特に何もない時期にぶち込まれることになるんですが

天下五剣はこれまで特殊な扱いで実装されてきたらしいので、時期的に盛り上がるタイミングは外しているような気はする。

・この予想は刀剣男士の実装順のみでメタファー踏襲を考えるが、そうでない可能性も

刀剣男士の実装とイベントの実施が複雑に組み合わさっている場合、千代金丸相当のメタファーは「ちよこ大作戦」で、長義くん踏襲のメタファーはまさに長義くん極そのものの可能性などもあります。

・世の中には俺の知らん刀がいっぱいあるぜよ

メタファーについてよく読み解いたな、ところでそのメタファーはこの刀で達成できる! ってなるパターン。

・そもそも俺の読解力がヘボ

全然メタファー読み解けてなかった!!(予想を当てたことなんてないぜ!)

一応イベントと実装男士の関連に関しては最近の流れでなんとなくイベントはイベントの円環、実装男士は実装男士の円環があるような気がするんですがもちろん気がするだけで根拠は弱い。

童子切の実装に関してはそれこそ特別イベントをぶっこんでこのタイミングでばーんと実装することもできる。もちろんしないこともできる。鬼斬りじゃなく化け物斬りに範囲を広げるとたぶんもっといっぱい候補が増える。

長義くんの鬼斬り属性は強烈な要素なんだが、その次の豊前江相当のメタファーが難しい。

豊は実った穀物で、前は刀と進。
だから稲葉は確実にこれを踏襲してると思うんだけど、そのひっくり返しはなんだと思う? というと難しい。

花丸は何話から何話までで一応区切れるけれど、原作ゲームは何のどこまでが一区切りなのかマジでわからん。

メタファー読み解けないのもあるけど、単純に私は2021年6月開始のプレイヤーでそれまで何がどういう順番で起きたかが頭に入っていなくてですね……。

上の情報も「~~辺りまで?」と不明瞭な表現を多用しているので明らかなとおり、原作ゲームの区切りにかんしてはざっくり多分この辺りじゃね? ぐらいの認識。

それに舞台も話数で区切ろうにも慈伝見る限り、あの話は悲伝までのエピローグと次の章のプロローグの両方を兼ねているように見える。
慈伝がそうだとすると舞台も対大侵寇相当話までに同じような構造の話が一つ必要。
花丸が犬神の呪いで審神者が悪夢に囚われる、舞台が審神者の夢に悪夢が侵入するだったので、夢語かな? とは思いますが。

実装男士予想に関しては他にもいろいろな予想があるんですが、今考えてもあんまり意味ないと言うか、やっぱ派生作品の今の流れがどこにどう落ち着くかと、今年一年の実装男士が第一節の転機で実装された南泉・千代金丸・長義・豊前辺りの流れを踏襲するかどうかを見てからしっかり原作から派生までのメタファーをチェックしたほうがいいと思います。

11.「名もなき」名刀の物語へ、「福島光忠」の研究史

原作ゲームから派生まで全部構造同じじゃね? の話をやったところでここを一つ確認しておきたいと思います。福ちゃんの研究史の話です。

花丸は1期の終盤に「贋作」である長曽祢さんが登場し、1期最後の事件、再びの池田屋に突入します。

円環の終わりの合図として、贋作、偽物、紛い物などに類する要素の強い刀が登場する構造があります。
これは対大侵寇の話の前の話が「まがいもの」や「なりかわり」の真偽判定をしていく慶応甲府である構造と同じだと考えられます。

……ん? でも原作ゲーム第一節後半最後の刀剣男士、「福島光忠」は贋作や偽物じゃなくない?

この問題について重要になるのが、福島光忠の研究史と、とうらぶの価値観だと真偽・真贋判定の基準として「名前があるかないか」という問題が繋がっているという事情があります。

これまでも何度かやりましたが、とうらぶのシナリオは表面上では「名前のあるものを歴史」「名前のないものを創作」扱いしています。

名前があっても史実ではないのが事実なら、創作である今剣は顕現できないはず。
事実誤認の逸話、山姥切長義も写しの国広と号の問題で衝突する以上ぎりぎりです。

逆に号がなくてもよく知られた名刀がもっと増えてもいいはずで、そもそも長義くんも本作長義以下58字略で来ればいいだけの話ですが、とうらぶの実装刀は号のある刀が多めの上に、完全に史実ではなくとも名前のある刀を優先しています。

悲伝の「鵺」の例をとっても、史実かどうかの判定・存在の確立に「名前があること」が一つの基準となっています。

実際の刀剣の価値からするといや号がねえ国宝いっぱいあっから! ということで実情と合っていませんが、とうらぶのシナリオはそうなっているという作品側のルールを把握した上で話を進めます。

その場合、「福島光忠」は現在「名前がない刀」に分類されます。

福島光忠は「享保名物」でむしろ江戸時代からしっかりその名を轟かせていたはずの名刀の一振りで現に我々もこうして「福島光忠」と呼んでいるのに「名前がない」とは??

福島光忠の研究史のややこしいところで、現在「福島光忠だと思われる刀」は存在するんですが、その刀が完全に福島光忠だという証拠はないというか。

端的に言うと、「福島光忠」を所有していた藩が当時の藩主が天狗党の乱に関わったことを不祥事として、その不祥事に関わった藩主の刀を手放したくて売り払った。

その刀が享保名物の「福島光忠」だと思われるが、こういう経緯のせいか、その刀が福島光忠であると堂々とお墨付きで売り買いされたわけではないようで、来歴的にどう考えても「福島光忠」だと思われて刀剣の研究者もこれは「福島光忠」だと思うって言われている刀が今、正式には「福島光忠」とは呼ばれていない状況ですね……。

そういうわけで、「福島光忠」は現在「名前のない刀」に分類されると思います。一行で矛盾!

話の区切りである対大侵寇の直前、区切りとしての七星剣の一つ前の刀がこういう特殊な来歴を持つ「福島光忠」であることは正直よく考えられた配置だと思います。

ちなみにそんな感じで今福ちゃんらしき刀は「福島光忠」扱いされているとは言えない感じですが、むしろ買い取った愛刀家たちがめちゃくちゃ大切にしているというエピソードのある刀(所有者の葬儀の時に息子が捧げて歩いたとか)なので、これに関しては福島光忠の研究史のページも一読していただければと思います。

12.「糸」から「分」かたれし「紛い物」

花丸をざっくり見たらやっぱり1月~12月までで円環を作って最初の流れを踏襲しつつひっくり返す構成だなと確認したところで、言葉遊び的に考える敵の性質の話に戻ります。

「偽物」は「人」の「為」の「物(鬼)」。

「紛い物」は「糸」から「分」かたれし「物(鬼)」

「物」が「鬼」であることを重視すると、敵が「偽物」「まがいもの」と呼ばれていることはやはり重要。
その性質を、むしろ本丸で同じように呼ばれる国広たちの事情から探っていかねばならない。

この時、大きなヒントになるのが花丸映画、月の巻の長曽祢さんだと思います。

花丸の映画版は雪の巻で長義・国広の、月の巻で源氏兄弟と長曽祢・清麿の呼称問題を入れています。

特に長曽祢さんに関しては、贋作だから元の刀工・清麿の刀に対して堂々と名乗れないという状態になっています。

原作ゲームの長曽祢さんは躊躇いつつも自分で名乗っていますが、花丸では蜂須賀に発破をかけられている形になります。

これもやはり長曽祢さんのキャラとしては原作と大分違うと見るべきでしょうが、長曽祢さんがここでそういう心情を描写されることは、真偽問題と呼称問題に絡むすべての刀にとって重要です。

贋作だと名乗れないというのは、贋作は完全に完成された「にせもの」だからではないのか。

長義・国広の「偽物」問題に関してはある意味決着がついていないグレー状態(研究書でその問題が整理されていない)ですが、近藤勇の虎徹が贋作であるという物語に関してはほぼ動きようがなく、一つの物語として完成されていると思います。

言ってしまえば、長曽祢さんは最初からすでに「糸」から「分」かたれし「物」だと思います。

自分の名前は「長曽祢虎徹」だと完全に定義して、「源清麿」を名乗ることはない。
だから本来同じものであったはずの「源清麿」に、心情的に名乗ることができない。

名前を名乗るか名乗らないかの決断に、本体との縁を断ち切るかどうかの要素が絡んでいます。

これが要するに慶応甲府の「紛い物」の性質なのではないでしょうか。

「偽物」と「紛い物」はほぼ同じ存在だが、本体との縁(糸)を維持しているか、断ち切ってしまったかという大きな違いもある。

その中間として「影」という存在がおり、この「影」はこれまでさんざん考察した感じ、基本的には千代金丸に対する治金丸のように、本体を慕うあまりにその身代わりをこなす存在として描かれる。

しかし、舞台の方ではその「影」が執着の対象を優先した結果、本体との縁を断ち切る選択をした物語も存在する。

悲伝の「鵺」は最初は本体である三日月にお前も義輝さまの刀だ共に行こうと誘いかけていたのに、何度もその誘いを断られた結果、最終的に三日月も骨喰も大般若も「いらない」と口にし、「時鳥」の名を得て足利義輝のための刀剣男士として存在することを選びます。

「影」の「本体」への反逆。

「本体」と完全に分離し、「本体」にとって最も大切な物語を奪いに来る。

「紛い物」……「糸」から「分」かたれし「物(鬼)」にはそういう性質があると言える。

こう考えると、蜂須賀の長曽祢さんへの態度にも納得が行くと思います。

清麿を名乗らず虎徹を名乗る長曽祢さんは「紛い物」(≒偽物)に性質が近いために、虎徹の物語を奪われる側の蜂須賀の拒絶は他の刀剣男士側よりかなり深刻なものになる。

長義・国広の関係と蜂須賀・長曽祢の関係で比較するのはそういう意味ではちゃんと意味があるようです。

原作ゲームにおけるそれぞれの態度の話だと、長義くんの「偽物」呼びより蜂須賀の「贋作」呼びの方が深刻な気がするんですが、その差は「紛い物」としての物語が完成しているか否かの違いではないかと思います。

「偽物」と「紛い物」は普通の読解として意味が近いのは当然ですが、言葉遊び的にここはイコールになるかと言われれば、なるんじゃないでしょうか?

刀剣の実態としては完全なる同一視に異論が出ましょうが、言葉遊び的には「偽物」と「贋物」、「紛い物」の意味が普通に「偽物」とどんどん繋がっていきますので、同じだと思います。

更にここを同じにすることで、「偽物」が登場する文久土佐と「紛い物」が登場する慶応甲府が表裏の関係になります。

と、いうことで「紛い物」はやはり重要な概念であり、舞台の慶応甲府のタイトルがこれまでの特命調査の「維伝」や「綺伝」と違って「糸」が消えた「心伝」となったことは「影(朧)」の状況の進化、国広の状態の悪化を感じます。

13.「手」を「疑」う「擬い物」

「まがいもの」は「紛い物」表記の方が一般的だと思いますが、検索すると並列して「擬い物」という表記も出てきます。

「擬い物」……「手」を「疑」う「物(鬼)」

「手」に関しては舞台の天伝で阿吽のどちらかが(区別つかない)「物は手から生まれる」と発言していたので、これが「手」のメタファーの解釈そのままだと思われます。

「物(鬼)」を生み出すのは「手」。

その「手」を、「疑」う。

以前に「影」の考察をしたとき、離れ灯篭から明確に国広は「影」のメタファーを持つとして、対極である「光」を担当する長義くんはその歌詞から「疑わない」ことを強調されていることに触れました。

それも、対象に気づかないから疑わないというのではなく、疑いがあってもその疑いを斬り伏せる方向ですから、むしろ疑わないことこそを強いられているようにも見える。

疑わないことを課せられているということは、あるいは疑うと破滅する道の真っただ中にいることと同義なのではないか。

事実誤認・創作系の逸話を持つ男士がその逸話を疑うというのは方向性としては「自壊」に近いと思いますが、それがこの「擬い物」なのではないでしょうか。

己を作った「手」を「疑」う。
己が生まれた歴史そのものの否定。

だから「擬い物」は当然時間遡行軍であり、音が同じ「紛い物」はやはりこの存在に近い。

舞台の心伝はこれまでの流れからすると「糸」要素が消えたことを重視して「糸」から「分」かたれし「物(鬼)」として登場すると思うのですが、一応こちらの「手」を「疑」う「物(鬼)」の存在も頭に入れておいた方がいいかなと。

14.「刀身御供」は「偽物」あるいは「似せ物」ではないか?

ごっちんと姫鶴の回想140によって突然ぶっこまれた「刀身御供」という言葉について考えているのですが、ごっちんの台詞的に「刀身御供」の引き金は「模倣」要素であることを考えると、これはもしかして「偽物」あるいは「似せ物」の物語と同義なのではないかと。

回想其の140 『葦辺の鶴雀』

姫鶴「ごっちん、あんまし暇とか言わない方がいいよ」
後家「うん? どうした?」
姫鶴「上杉ではそれでいいけど、ごっちんは長船ぶらざーずでしょ。しゃきっとしな」
後家「どーした、おつう。そーゆうなにらしくーとかべきとか、一番だるいって口だろ?」
姫鶴「……は? だから、一言多いんだわ」
後家「直江の癖、みたいなものだよね。仕方ない」
姫鶴「……うざ、反面教師にしな。っても、刀が人を教師にするってうけるけど」
後家「そーかな。現に刀剣男士はこうやって人の形を模している訳だから、人に倣い、習ってるってことになるんじゃない?」
姫鶴「それこそ、人身御供代わりの、刀身御供ってこと」
後家「笑えねー」
姫鶴「笑うとこじゃないし」
後家「……」
姫鶴「……」
後家「……ふ」
姫鶴「……はは」
後家「慣れた?」
姫鶴「そーゆーこと、聞く?」
後家「ごめん」
姫鶴「……ん」

人の形を模し、人に倣い、習う。

これは模倣要素、ストレートに「写し」と同じ要素だと考えていいと思います。
(当たり前だが後家兼光が写しだという話ではない)

その行き着く先が「刀身御供」だと姫鶴は警戒し、後家に元主・直江兼続の真似をやめ、むしろ直江を反面教師にしろと言う。

実際、姫鶴が危惧する通り、ごっちんは刀である自分と人である直江との境界が曖昧でちょっと危ない姿勢だと思います。

刀帳説明で「やっぱりボクたち上杉最推しの愛の戦士かもしれない」と言っていますが、直江の刀ってたぶん、この後家兼光以外の名前を聞かないので他に刀剣男士として実装される刀はないと思います。

他に直江家の刀が実装される可能性がほぼない以上、文脈からいくとこの「ボクたち」は自分と「直江兼続」とその正室「お船の方」を指していると考えていいと思います。

ここで他の上杉家の家臣の家の名刀とかそんな遠い話題は持ってこないだろうし、上杉家の刀を含んでいるわけでもないと思います。「ボクたち」の「たち」は直江とその奥方。

自分と元主たちが同列なわけですね。

それを姫鶴一文字は「刀身御供」と呼び、山姥切長義は「難儀」と評する。

蜂須賀の「為り変わり」の話題でもやりましたが、特定対象の代替をこなせるほどに模倣要素を深めると素直にやばいんだと思われます。

ごっちんに関しては単に元主を好ましく想っているというだけの話っぽいので姫鶴の忠告を聞き入れればすぐにその要素からは離れられそうな気はしますが、模倣要素が刀身御供と密接に繋がっているとなるとそこでは終われない刀もいます。

それが、存在そのものが「写し」という模倣要素で出来上がっている山姥切国広。

何故国広は「偽物」と呼ばれるのか。
ゲーム開始時から「俺は偽物じゃない」と言っているのだから、国広がそう思う理由はその後で顕現した長義からの呼び名とは無関係。

根本的に国広は「偽物」なのだ。何故か。

……「似せ物(写し)」だからではないか?

「まがいもの」に「紛い物」と「擬い物」という二つの表記があり、「なりかわり」も「成り代わり」と「為り変わり」と二つの表記がある。

そして「にせもの」は「偽物(本物ではない)」であり、「贋物(贋作)」であり、そして「似せ物(写し)」でもある。

う~~~~ん。

「無頼の桜梅」の「無頼」は現在では「ならず者」の意味で使われることが多いですが、もともとは「頼みにするところのないこと」という意味です。

で、「無頼」と言う言葉はどういう使われ方をしてきたかを考えると、例えば先日の「物(鬼)」の研究書では、酒呑童子の山賊集団のようなものも、東下りの在原業平もまとめて「無頼のもの」と呼ばれるんですよ。

山賊・盗賊と政争に敗れて都落ちする貴族は人間的には大分違うような気がするんですが、言葉の上では同じなんですよ。どちらも権力の場から弾き出された生活をするしかない、「頼みにするところのない」ものなんです。

言葉の正しい使い方と言うなら、きちんとその言葉が作られ、どう使われてきたかの歴史を踏まえ、同じ意味のものは包括する方が恐らく正しい。

現代的にはむしろ使い分けを細分化したほうが間違いが減って良いんですが、古典を読む場合には現代の用例だけで考えていたら読めません。
辞書的な用例を把握して使い分けしつつ、その単語が根本的にはこういう意味だからこそこう使われる、と言うことを覚えておかなければならない。

そして「言葉」の力が強い、「名前」の力が強いとうらぶのロジックの中では、刀剣男士の存在はそうした「名前」に関わる「言葉」要素に引きずられることになります。

「にせもの」は漢字で「偽物(本物ではない)」と書こうが、「贋物(贋作)」と書こうが、「似せ物(写し)」と書こうが、おそらく根本的に「真似たもの、模倣したもの」という意味が内在するのが主軸の単語ということなのだと思います。

「偽物」と「贋物(贋作)」がどう違うのかを言葉で細かく説明するのはクソ大変ですが、「偽物」と「贋物」と「似せ物」の何が同じかは一言で済みます。

音が同じです。どれも「にせもの」と読(訓)みます。

そして掛詞(言葉遊び)の世界なら、音が同じならそれで構造的に重なるんです。

「写し」のことは「似せ物」とも書く。そのために音から「偽物」と重なる。

舞台だと長谷部くんが「どうしてわざわざ写しの刀などを」(ジョ伝)みたいに言っている写し差別主義者なんですが、その理由はここなんじゃないですかね。

刀剣男士の台詞は全部、言葉遊び要素でできていて、「似せ物(写し)」はその音で「偽物」と存在が重なるためにどうしてもその性質から逃れることはできない。

そしてその見方は、現代人的には死ぬほど紛らわしいんだけど、古典の読み方、日本語を読み解く実力を持つ者的にはたぶん、正しい読み方であると。

……いや、日本語の根幹的にいくら正しくてもそのせいで実際の刀剣・山姥切国広に風評被害をつけたりそのせいでめぐりめぐってゲーム中だと一部の阿呆に長義くんが折られる羽目になってるんだからこれ放置するのどうよって感じですが。

しかし、やはりここしばらく、おもに民俗学と仏教の研究書を読んだ感じだと日本語の正しい理解の仕方はこっちなんですよね。単語の意味はちゃんと成り立ちを理解して根源から行く。

本当に言葉を理解するというのは、現代使われている意味の一部を表面だけ掬い取っただけではダメなんだと。

それを考えると、模倣要素、真似ること、似せることを根幹とした概念の「似せ物」と「偽物」はすべて繋ぐのが正しく、さらに模倣要素を姫鶴・後家コンビが「刀身御供」という単語で繋いだ以上、「刀身御供」はもしかしたら即「似せ物」「偽物」かもしれません。

15.掛詞の世界、仏教の一例「常不軽菩薩」の名について

実際、掛詞の世界ってどういうものなの? の凄さを仏教の「常不軽菩薩」の名に関する研究からご紹介しておきます。

「常不軽菩薩」の名はサンスクリット語だと四つの意味を持つ掛詞になっています。

常に+軽んじられた
常に+軽んじられなかった

という正反対の意味を二つ合わせた掛詞で、これは「常不軽菩薩」が人々に「私はあなたを軽んじない」と言っては逆に「軽んじた」と思われて民衆に腹を立てられ「軽んじられ」迫害され、しかし後に法華経を解いて民衆を正しい信仰に目覚めさせたことによって、決して「軽んじられない」人になったという、『法華経』常不軽菩薩品のストーリーそのままの流れになっています。

1.常に軽んじない(と主張した)
2.常に軽んじた(相手からそう思われた)
3.常に軽んじられた(相手から迫害された)
4.常に軽んじられなかった(最終的に常に軽んじられないものになった)

一つの名前の中に、その名の意味を説明するストーリーが全て組み込まれている四重の掛詞です。

ダブルミーニングどころか、クアドラプルミーニング~~!?

仏教くん、どんだけ掛詞(言葉遊び)に全力なんだよ!? と言いたくなるけど昔の言葉って割と意味そのものより形式や韻律を重視したりそういうところあるよね。

インドの神話や仏教関係の話もかなり詩歌・詩文が登場しますし、形式には拘っています。
その中でもこの「常不軽菩薩」のネーミングに関してはめちゃくちゃ凝っていると。

ちなみにこの訳、植木雅俊氏がサンスクリット語から『法華経』を丁寧に訳しなおしてようやく判明した事実らしく、それまでは日本人は「常不軽菩薩」のサンスクリット語がどうしてこういう漢訳になるかよくわかっていなかったようです。

原典から丁寧に訳せる人が現れて初めて漢訳が適切だったことも判明したと。奥が深いね。

とうらぶは仏教思想が頻繁に描かれているのは特に舞台で顕著かなと思いますが、そうして仏教思想を土台にしているとなると、こういう掛詞の精神も当たり前に出てくることになると思われます。

一つの名前に四つの意味があり、名前がそのままその人の物語を説明する言葉になっている。

「名前」に比重を置く作品世界がこういう現実に存在する思想に支えられて存在するというのは、やはり奥深い。

参考文献
『サンスクリット版 縮訳 法華経 現代語訳』(電子書籍)
著者:植木雅俊 発行年:2018年(平成30) 出版者:角川ソフィア文庫

私が持っている本は気軽に読める電子書籍ですが、内容の初出はもっと早くて同じ著者の2008年頃の本から解説されているようですね。

16.「主」という「比喩(メタファー)」

原作ゲームから派生作品まで全作品の構造が同一ということは、舞台が三日月・国広、花丸が安定・加州と主人公が明確であるように、他の話もこのポジションは決まっていると考えられる。

活撃は多分、兼さんとむっちゃんかな、と。

話の進捗が同じだと考えると1クールしかない活撃は今の時点で第一節前半の半分しか進んでいない、花丸と同じ話数でそのまま計算していいんじゃないだろうか。

活撃で気になるのは一時期ティザービジュアルが和泉守兼定、陸奥守吉行の組み合わせだったという情報で、活撃本編の内容から考えてもむっちゃんが舞台で言うなら国広ポジションの主人公その2だろうと考えられるだろう。
主人公その1が兼さんで、その半身たる堀川くんは舞台で言うところの「鵺」だと思われる。

活撃ラストの土方さんのために本丸を離れる堀川くんの行動は言われてみれば舞台の『鵺』そのままである。兼さんを誘いに来るところまで含めて。

そして主人公その2がむっちゃんだとすると、その裏側は元主の「坂本龍馬」だと思う。

舞台

三日月―「鵺」
国広―「長義」

花丸

安定―「沖田総司」(元主)
加州―「審神者」(現主)

活撃

和泉守―「堀川」
陸奥守―「坂本龍馬」

龍馬がこの位置だと考えるとわかりやすくなるのは、長義くんや安定に派生作品で「嫉妬」や「憎しみ」を描かれる理由が「竜(三毒の瞋・怒り、憎しみの象徴)」と「馬(日本語の馬鹿はサンスクリット語のモーハ・三毒の癡、妬みから来ている説)」がこの位置に配置される構造だからで済む。

これに加えてミュージカルの主人公も想定したいのだが、ミュージカルはそもそも固定主人公の話をとんと聞かない。

阿津賀志山異聞と幕末天狼傳を読んだ感じだと、ミュージカルの主人公の話をとんと聞かないのは、主人公が「人間」サイドで毎回変わるからだと思う。
刀剣男士は全員「鵺」ポジション。

戯曲本の後書読んだ感じでも、ミュージカルは先に人間役から決めてる。刀剣男士の登場人物は後から考えてる。

だから幕末天狼傳は蜂須賀の話でもなければ新選組刀の話ですらなく、あれは「新選組」の話で、近藤勇、土方歳三、沖田総司の方が主役。蜂須賀は「鵺」に近い役回りになる。やってることは逆だけど。義伝対応で考えるなら鶴丸の立場かな。

舞台に関しては国広の話を書くのに長尾顕長を調べるって感じだったから明確に国広が主人公、元主が脇役。

それと、ミュージカルの感想がTwitterとかでたまに流れてくるの見ると、ミュージカルは人間が「花」だって考察をよく見かけるんだけど、舞台は明らかに長義くんなんだよね「花」のメタファーとしての役割が大きいの。
広げても長義・国広の二振りが「花」だからこそ、メタファーとして慶長熊本の「桜」であるガラシャ様の重要性が上がる、となる。

それもミュージカル側は本当に「花」のメタファーを人間に割り当てていると考えれば自然な結論となる。

さらに花丸に戻ると、花丸は安定が元主・沖田総司、加州が現主の審神者に対応した配置に見える。
花丸に関してはタイトルにも花が入る通り、本丸の物語自体が「花」としての比重が高い。

……と、いうことは。

人間も主人公位置に来ると言うのはつまり、人間も刀剣男士と同じく「比喩(メタファー)」で判断する必要があるということになる。名前から来るメタファー。

しかし源義経や沖田総司はともかく、本丸の主こと審神者の名前は基本的にどの作品でも発表されていない。となると。

よし、そのまま「主」って漢字調べるか!

ということで漢字ペディアさんを見てみるとふむふむ……ふむ?

「主」という漢字のなりたちは「神壇に供えた燭台に火が燃えている形」「神火を守る者」。

「燭台」に火が燃えている形?

ああああ~~これか! 悲伝で三日月に斬られるのがみっちゃんじゃなきゃいけなかった理由!

考えてみれば、悲伝は三日月とその分身「鵺」と、二振りが誰よりも守りたい元主・足利義輝の話である一方で、三日月が決して裏切れない今生の主・審神者との話でもある。

足利義輝の反対側として現主もきっちりメタファーとして配置されてたんだな。
燭台切を斬ったのは、主との関係の意味だ。

ところでこれ

「燭台を切ったから主との決別を示す」
「燭台切を切ったから本心は主への忠誠を示す」

……どっちで解釈するべきだと思います?(わからん)

どっちと捉えても混乱するというかここで完全に逆の意味を両方含む名前で四つの掛詞になってる常不軽菩薩の例を思い返して、考えるのは無駄かな! って思い始める俺。

今回の収穫としては悲伝で燭台切が斬られたのは「主」のメタファーである、というのが一番重要なところかなと。

あと全体的に「火」のメタファー持ってる子たちの配置もちょっとこの意味で注意する必要出て来たなと。

「審神者」の方は

「審」 ウ冠と釆(わける)から成り、「おおわれているものを区別して明らかにする」「つまびらかにする」の意
「神」 示と、申(シン)(いなびかり)とから成り、「空中をただよう『かみ』」「人間わざを超えたはたらき」の意
「者」 台の上でまきを重ねて火をたくさまにかたどり、「焼く」、「にる」、「あつい」の意

おおわれているものを明らかにするのはいいとして、申が「いなびかり」ってのは驚いたところですね。

「物(鬼)について」でやりましたが、「雷」は「鬼」に関係してきて、雷即神(鬼)って感じで認識されています。

昔の文章だと雷が発生していることは「神さへいといみじう鳴り」(『伊勢物語』芥川)のようにそのまま神と書かれるようです。

そしてその「申」の字はどう見ても十二支の「申(さる)」なんですけど。
あ、本当だ「申」で調べてもそうなってるなこれ。

申(猿)=雷じゃん。雷=鬼なので猿=鬼じゃん。禺伝の禺(オナガザル)じゃん。
維伝では雷が背景でゴロゴロ鳴ってた(龍馬の正体が判明するところとか)けど、そうすると天伝はこの位置が太閤くんになるな。ふむふむ。

刀剣男士は基本「主」って呼ぶ子が多いけど、花丸はこんのすけが「審神者」って呼んでることもあるんですよね。

細かいことはともかく、こうしてみるとやはり「主」「審神者」も主に「燭台・火・雷・明らかにする」などの言葉をメタファーとして持っていると考えられます。

17.長船派という主人(ホスト)

言葉遊びは日本語のみに限らず。誰もが知ってるわかりやすい言葉で唸らせるのは掛詞の基本。

ということで、長船派が「ホスト」なのは英語の意味が「主人」だからでは? と。

留学先のホストファミリーがどうのだの、パソコンでホストの設定がどうなのでたびたび聞くと思いますが、「ホスト」という英単語の意味は「主人」です。

だからこれも結局、「主」のメタファーなんじゃないでしょうか。

これが「長船派」の属性なのは、上でやった通り「主(=神火を守る者)」であり、「審神者」の要素もまとめると「燭台・火・雷・明らかにする」であるのと同じことだと思います。

つまり、仏教の般若(智慧)だと思います。

般若(智慧)は基本的には真理を見通す「光」として扱われ、悟りを得た状態である涅槃が川・海などの水に喩えられることが多い関係で、その涅槃に渡るための般若(智慧)を「船」に喩えることがあります。

「般若の船」っていうそのままの用語もあるようです。

さらに前回の「物(鬼)について」にもまとめましたが、巫女や神人は「長髪(神を結わない)」という性質があります。

「長」の字は、「髪の長い人」の形をかたどっています。

この辺の仏教・神道両方の面から「長船派」は審神者である「主」と同じく「神官」属性であるため「ホスト(主人)」っぽいキャラ付けだと思われます。

花丸が男性従業員接客飲食店ネタ(1期皐月)で思いっきりホストやってますから、普通にホストでいいんだと思います。プレイヤーがそう呼んでるだけとかではなく。

そして「長船派」に関しては、実際の刀剣の研究書では「長船物」として紹介されることも多い我らが長義くんが入っていないという事情があります。

しかも不思議なことに刀派としては決して長船扱いしないのにジャージデザインといい舞台の慈伝で思いっきり大般若さんとの身内関係が強調されていたことといい、今回のごっちんとの回想141といい、扱いはどう見ても「長船派」です。

この理由も「言葉遊び」的な理由なんでは?

長船派の言葉遊び的な特徴は光忠、長光、景光、兼光と全員「光」の字がつくことだと思います。

ここまで含めてようやく長船派は「般若(智慧)」のメタファーとしての刀派なんだと思われます。

長義くんは刀工の名前に「光」の字がなく、しかし長船派に分類されずとも自前で「長」の字を持っている。

言葉遊び的には別物に分類したいのかなと。

他の刀派もそれぞれ言葉遊び的理由で属性を明確にしたいところですが正直まだ考えがいたっておりませぬ。

一文字なんかは仏教だと「家」がめちゃくちゃ重要なメタファーなので「一家」という言葉が先にあってそれはもうヤクザなんでは? という方向に行った気がします。

ただ一文字の言葉遊びは「一」をどう捉えるかが難しいので今のところは保留で。

18.「鬼」の字と死者の面

ここまで来たら「鬼」の字も言葉遊び的に見る必要があると思うんですが、なまじ「鬼」に関する本を読んじゃったものでこの感じの成り立ちに関する説いっぱいある!! って感じになっちゃって絞れない罠。

ただあくまでとうらぶに関する部分を重視していくと、割と一般的な意味であるこれが琴線に触れた説です。

「鬼」の字は、顔に大きな面を着けた人の形にかたどる。

昔、死人の顔に面を被らせてその人が生きているようにまつったとかなんとか。
この手の情報は何とか辞典(主に漢和辞典)各種の記述を『鬼と天皇』のような研究書が引きくらべて詳しく検討してくれています。

「鬼」の字は中国だとシンプルに「死者」を示すし、日本にも死者を示す「鬼籍」と言う言葉があります。

また、中国では死者の血が百日かかって鬼火になるという伝説があるようです。それに影響を受けた日本では生霊も鬼火になります。

「鬼」の字が死者に関わるのはいいとして、その字が「顔に大きな面をつけた人」というのは気になるところです。

舞台の外伝では、飛んできた「能面」が生きている長尾顕長にとりつき、「山姥」へと変貌させます。

活撃では、死んだ足利義輝にやはりその場に在った「能面」が飛んできて貼りつき、鬼っぽい存在に変貌させます。

変貌に関わるアイテムは「面」です。

このギミック自体が、「鬼」の字が「顔に大きな面をつけた人の形にかたどる」という鬼の字の成り立ちから作ったネタじゃないんですかね?

とうらぶがそれぞれのライターにどういう情報を渡して話を構築してもらっているのかはわかりませんが、「鬼」字の成り立ちとしてこれを重視するなら、舞台と活撃でまったく打ち合わせしていなくともギミックが被る可能性すらあります。

この辺は原作側で設定していてもどちらでもありえるのでどうでもいいんですが、この「面が自ら飛んできてはりつき対象を鬼(山姥)に変える」といいギミックが「鬼」字の成り立ちそのものから取っているように見えることには今後も着目したいと思います。

19.土蜘蛛に禿、河原者に天狗、様々な鬼の姿

前回「物(鬼)について」でまとめた中に、ちょこちょこ気になる単語がありましたね。

「鬼」と関連付けて語られる存在は、「土蜘蛛」「天狗」「禿」に「河原者」などまあ色々です。えーとあと食われる農民もまた鬼だし金工も鬼だし猿田彦もだぁあああキリがない!!

創作の中に存在する怪物としての鬼も登場しますが、それらはもともとは『風土記』に描かれた「土蜘蛛」のように、大和政権に従わなかった土着の民を指し示す。

また、そうして権力に従わないもの、「まつろわぬ人」や、被差別民などをまとめて鬼として扱ったので、いわゆる「河原者」なども「鬼」である。

その一方で、被差別者側から見た権力者もまた鬼である。

もうみんな自分の敵を「鬼」って言ってるだけなのでは?(真理)

土蜘蛛なんかはもともと膝丸が「蜘蛛切」と呼ばれる切っ掛けの怪物として有名ですが、抜丸くんの言う「禿」なんかもここが理由かなあと思います。

平家絡みの刀を擬人化します! モデルは禿です! って多分ストレートな思考じゃない気がしますからね。
蜂須賀の「飾る」が不自然なように、鬼絡みで「禿」の方に比重を置いているのではないかと思います。

天狗も鬼。そして天狗は鳥の羽を持ち鼻の高い山伏姿なんですよね。

被差別者に「河原者」と呼ばれる人々がいる。

加州の「川の下の子、河原の子」もこっちの鬼とされる被差別民の「河原者」の方がまだ非人清光から来ていると考えるよりは自然かなと。

非人清光は確かに貧乏っちゃ貧乏ですが、加賀の非人小屋(お救い小屋)に入った人を河原の子とは多分呼ばないと思うんですよね。

加州のこのキャッチコピー(?)も多分川に関する何かの言葉遊びだと思われます。

加州に関しては考察でも始まりの五振り・特命調査関係でかなり情報が必要になるんですが、そうやって調べるとやはりこの「川の下の子、河原の子」のフレーズは非人清光関係と考えるのは不自然だという意見が結構見つかるんですよね。

刀剣男士の情報も一振り二振り程度しか調べないと平均的な意見がわかりませんが、やはり調べる数が増えるほど、この子のこの要素何? って多くの審神者が首をかしげているものが結構ありました。

やはり「刀剣乱舞」の要素は、元の刀の属性にぴったり当てはまる刀もたまにはありますが、多くの刀はむしろあまりストレートな発想とは言えないものを言葉遊びを成立させるために「付会」していると捉えていいと思います。

元の刀剣の要素を調べ、元の所有者たちの来歴を調べ。

けれどそこでぴったり当てはまらずに、むしろ言葉遊びの方がすっと納得できてしまう部分が結構あります。

歴史を守る話なんだから歴史だけ調べればわかるかと思えば意外とそうではない。

むしろ一度派生作品相互間の構築論理に目を向けると、そこの法則性を探る方がいろいろと見えてきそうであると。

最優先は原作ゲームを軸に、派生作品を参考にして言葉遊びから「メタファー」を読み解くことだと考えます。

が。

それはそれで難しい。

花丸で安定の裏に「鬼斬」のメタファーがやっぱりあるんだろうなということがわかったのでしばらく「大」について考えていたんですが、やっぱりこういう汎用的な漢字のメタファーは適用範囲が広すぎてうまくいきません。

「大」に関しては刀剣の方でも大包平大倶利伽羅大千鳥大典太大般若大和守、「大阪城」に「大阪の陣」、はたまた「大名」に「大砲」「ちよこ大作戦」から、クソは言ってみれば「大便」なのでこんなところにも「大」のメタファーが……!

と考えると本当に限りがなくて……(遠い目)

「大和」か? と考えてもこちらもまだちょっとピンと来ない。
強いて言うなら「和」は「のぎへん」に「口」、加州の「加」は「力」に「口」なので「和」まで含めると沖田組のメタファーは「口」がよく出てきます。

花丸で加州が本歌と写しに話し合えと言っていたのはこの「口」要素の重視かなと思うとまだわかるんですが、安定の「大和守」はまだピンと来ませんね。

ちなみに「加」の字自体の意味はむしろ「ことばを重ねてひとをそしる」、なので悪口を言うことになる。あれ?

「大」のメタファーのとうらぶ的な意味は花丸で静ちゃんが解説した話でいいかな、とは思うんですが作中のメタファーとして何が核なのかはもうちょっと考える必要がある。

民俗学的な方向に話を戻すなら、いつもの折口信夫先生が「大人(オホビト)」を「鬼」としているので、「大」も「鬼」かな? と思うんですが。

ただ「大」が「鬼」なら「小」は違うのかと言えば、「小」は「小」で一寸法師が鬼退治する鬼扱いなので「小」も「鬼」です。もう全部「鬼」!

民俗学的な鬼の話は興味深いものが多く、例えばもともと「鬼」の字は「もの」だけでなく「しこ」とも訓まれていてこれは「醜」だと。

記紀神話で大国主が葦原醜男と呼ばれたのは不細工だからではなく「醜」という要素が死の世界である黄泉の国に関係していたから魔性・霊的な要素でそう呼んだのだと言われます。

「醜」が鬼ならじゃあその対極の神は「美」……と置きたくなることはなりますが、そんな短絡的な消去法でいいのかな? という気もします。

民俗学的な知識は総じて重要だと感じるものが多いのですが、同時にこれだけだと解釈完成しない感もあります。

慈伝を見た時に「あ!」ってなったようにやはり仏教的な知識の方が、探すのは大変なんですが、いざこれはという情報に辿り着いたときはしっくり来る感があります。

20.サンスクリット語の「竹」が示すもの

と、いうわけで最後に仏教方面の言葉遊び解釈を一つ。

花丸2期最後の話、舞台で言うなら悲伝に相当する大きな区切りの話は原作ゲームの回想32~43「九曜と竹雀のえにし」シリーズでした。

この回想名を考えると数字の「九」はやっぱり重要なんじゃないかと思います。

曜日の「曜」は意味としては「日が輝く」ですが、「九曜」のように使う場合は「星(天体)」として扱われます。

「雀」は「小」さい「鳥」なので舞台の「鵺」「不如帰」に始まり「鳥」がずっと重要なとうらぶでは最重要ワードの一つです。

えにしは「縁」としか書かないのかな。
「織物」の「ふち」の意味だそうですが、そもそも「縁」の時点で死ぬほど重要です。

こう考えると最後の不明ワードは「竹」ですね。

「竹」に関しては以前の特命調査の考察言葉遊び編で「竹」がわからなくて聚楽第の「第」のその部分がいまいち不明な結果となりました。一応「第」だけでも邸(家)という意味にはなりますが。

「弟」の方は象形文字で、「矛になめし皮を順序良く螺旋形に巻き付けた形」ということなので、縁の糸と結びつく矛、つまり刀そのものを指すとみていいのかなと思います。

「兄」の象形は「神を祀る人」と説明しているサイトもあるので、「兄弟」は兄が審神者、弟が刀の関係のメタファーなんじゃないか? ってことを以前どこかでやった気がします(どこに書いたっけかな……)。

「弟」に関しては「弟子」や「徒弟」などにも使う通り、目下のものに使う言葉でもありますね。日本ではわりと男子を指す一般的な言葉ですが、他の国だと兄弟の上下をわざわざ区別つけないこともあるのでちょっと置いといて。

いまだにさっぱりわからないのは「竹」なんですよね。

聚楽第に関しては「聚」の字も「集める」という意味ですからとうらぶの話の始まりとして、とにかく敵と戦って戦力を強化する、ひたすら物語を集めるということは特命調査の頭にきていることはこれだけでもなんとなく納得が行くといえば行くんですが……。

「聚」の字は本当にほぼ「集」で、これは多くの「鳥(隹)」が「木」に止まることから集まるの意味になったそうです。

今回、ひょんなところからその「集」が仏教用語だと「生じる」という意味だという説明を見かけてポンッ! と。

そうか仏教の「集」って「生じる」って意味なんだ。
だから「集諦」の意味が欲望の生起を知ることになるのか。いや難しいてこれ。

「常不軽菩薩」の名前の件でもなんとなく察せられましたが、サンスクリット語の漢訳をさらに日本語にするのが難しいらしいんですよ。

漢訳の方が元の意味からイメージ変わってしまうことあるので、できるならサンスクリット語の意味を直接聞いた方が早いくらいに。

ということは、「聚楽第」の「聚楽」の「楽」は「安楽」とか「幸福」とかそういう意味なので、

「幸福が生じる」

でいいんじゃないか?

仏教の「楽」が「幸福」だというのは慈伝の考察でもさんざんやったあれです。

問題は最後の一文字だよな。「竹」と「弟」からなる「第」。

「邸」は家の意で、住居は阿頼耶識の阿頼耶だから幸福が生じる家でもいいんですが、この際だから「九曜と竹雀のえにし」にも関わる「竹」そのものの意味も調べよう。

「竹」の漢字はそのまんま竹が2本並んだ字で、それだけだと意味もへったくれもねぇ。
一応管楽器の笛の意もあるとはいえ、それだけじゃ弱い。

念のためサンスクリット語の方でも検索をかけてみるか!

サンスクリット語の「竹」、は……

――「竹」のサンスクリット名はヴァンシャ。「血統」「家族」をも意味する。

え?

じゃあ「聚楽第」の仏教的な意味は……

「生じる」「幸福」「家族」

(慈伝の「慈」の意味は仏教の「与楽」)

(だったら、)

(慈伝で登場する「山姥切長義」こそが、山姥切国広の「幸福」そのものではないか?)

そうだよ。慈伝を初めて見た時の考察で、さんざん、さんざんやったところじゃないか。

これ、そのままだ……舞台がどうとかいうより、原作ゲームの「聚楽第」自体が、最初からそういう意味だったんだな!

「人の為の物」から「糸から分かたれし物」の流れの通り、とうらぶのシナリオは特命調査の流れをほぼそのまま何度も繰り返していると言っていい。

仲間の刀が増えることが幸福なのは誰にとっても同じ。そこが物語の始まりだというのはわかる。
けれどそこに、「血統」「家族」を示す一言がつくのなら。

「聚楽第」は、「山姥切国広の特命調査」。

全体的なシナリオも踏襲しているけれど、あれはやはり「山姥切国広」のための物語なのだ。
その中で新たに得られる刀剣男士はたった一振りだけ。
国広の本歌である「山姥切長義」を得るための物語。
その意味が「家族の生じる幸福」……。

あああああああ(膝から崩れ落ちる音)

これが……言葉遊びの恐ろしさだよ!

そうだよな。舞台の末満氏はあくまで原作尊重するスタイルらしいんだよ。
戯曲本の後書を読んでも末満氏に関しては作品のことも、歴史的人物のことも、真実を歪めずに書かなければといつも気を使っている様子が伺える。

最初から、原作ゲームの時点から、長義は国広にとっての「楽(幸福)」。

そのままだったんだな、これ。
誰にでも当てはまる物語ではあるけれど、「家族」という一語、「第」の中にある「竹」が、その物語を汎用的なものだけではなく、他でもない山姥切国広ただ一振りの為の物語にしている。

「九曜と竹雀のえにし」もそうか。この「竹」の意味は「家族」か……。

だからその部分は舞台で言うなら「悲伝」と同じタイミングで、その次の花丸映画の雪の巻で、「慈伝」と同じように長義くんが登場する。星と家族の縁。それはやっぱり幸福なものだと。

ま、まさかこれだけ考察してまだ国広にこんなにも驚かされることがあるとは……。

……でも、そうなんだよな。

たぶん最初から全部、完璧に美しく、幸福な物語。

困難も苦難も幾度となく襲い来るだろうけど、
最初から愛がある物語。

常に軽んじられ、だから最終的に軽んじられないものになった菩薩の名のように、その名の中に、最初から最後までの物語がきっとどの子にも込められている。

あとは我々審神者がその言葉を聞いて、我々自身も闇を照らす灯明となる「燭台」、全ての意味を「明らかに」「つまびらか」にする者のように、その意味を紐解いていけばいいだけなんだな。

現代的な先入観による意味に囚われず、「物(鬼)」の単語の歴史的な変遷と合わせて一つの言葉に込められたいくつもの意味を探すことで、おそらく最初から必要なものは全部語られているのだと、わかるようになるのだと。

まだまだ細部は色々と掴めないことも多いのですが、原作ゲームと派生作品の関連要素やその構造の共通要素、特命調査のシナリオ状況は一定ではなくあの5つと対大侵寇で話が進む6章構成の一つの物語であること、なにより「偽物」の意味。

最低限知りたかったことはようやくこれで一度、整理がついた感じです。

あとの細かい話に関しては派生をいくつか追いながらのんびりやることにします。

ここまでお読みいただきまして、ありがとうございました。