山姥切長義・極、再考

山姥切長義極再考(2025年6月)

2025年6月頃には考えていたんですが、ちょっと色々(ごにょごにょ……)していた間にまとめ時期を逸したもの。

以前の考察の前提をもとに、山姥切長義の極修行に関して、とあるポイントから再考して、一番客観性があると思われる推測をある程度形にしたいと思います。

手紙全文引用のネタバレですので実装から半年以上経っているとはいえ手紙本文を見たくない人はここで回れ右ですよ。

メディアミックスの情報も踏まえて考察しています。

 

1.銘から考える山姥切長義極再考

山姥切の二振りにとっての銘文という観点から少し考えた山姥切長義極再考。

長義・国広の関係を銘文周辺から考えるとき、もしかして重要なのは長義くんの特徴的な銘文より、国広の何の変哲もない普通の銘文の方なのでは?

それを刻んだ刀工・堀川国広の方から追うと。

長義の銘文は拝領経緯が書いてあるかなり特殊なものですが、山姥切国広の銘文はごく普通の年紀銘&所持銘。

「刀 銘 九州日向住国広作 天正十八年庚寅弐月吉日平顕長」

そしてあの二振りの本歌・写し関係を考える時、銘文に長尾顕長の名があることは考慮されるけれど、銘文だけでは本歌・写し関係は断定できない。

銘文自体には本歌である長義に繋がるような情報はなにもなく、長義と国広の本歌・写し関係は国広を見て長義に似ていることに気づかないと、まずそのように発想できない。
あくまで二振りが似ているからこそ、同じ長尾顕長の所有であったことが銘文から明らかであるこの二振りに本歌・写し関係を見出せる。

この辺色々合わせて考えるとどういう結論になるかというと、

刀工・堀川国広にとって、のちに山姥切国広と呼ばれる刀を「写し」として強調する意図は別になかったんじゃないの? ってことですかね……。

刀工・堀川国広としては単に長尾顕長の依頼で打ったというだけで、その刀に願うものは他と一緒かと。

つまり、他の刀工が普通に自分の作品に願うように、ただ「良き刀であれ」と。

そして刀工・堀川国広に関しては、長義の方も普通に「良き刀だ」と思っていたと思われます。そうでないとその写しは名作にはならない。

……銘から考えたこの疑問こそが、長義くんの修行手紙三通目の答なのではないか?

山姥切長義と銘について考える時、メディアミックスの方にその参考になる描写があります。
ミュージカル「花影ゆれる研水」では刀工が刀を打っている様子を見て長義が自分に刻まれた銘のことに想いを馳せるソロ曲があるので、原作と共通設定なら自分に銘を刻んだ人物、刀工・堀川国広に関して何か思うところがあってもおかしくないと考えられます。

とはいえそれがどういう方向性の感情なのかまでは描写がないので今のところは一応参考程度です。

刀工・堀川国広は刀工・長義の刀自体には特別な思い入れや拘りはないからこそ、依頼で打った刀の良さをあるがまま写した。

伯仲推しの人などはたまに刀工・堀川国広が特に長義の刀に敬意を持って写したことを、堀川国広にとってのちの山姥切長義が特別なのだと強調する主張がありますが、

新刀の祖・堀川国広は一般的には日本一の名工である正宗を目指していたとされ、その途中で多大な影響を受けたとはいえ、長義の刀そのものをそこまで特別視していたかどうかはわかりません。

少なくとも刀工・堀川国広自身が正宗ではなく刀工・長義そのものを目指していたとは聞きません。
あくまで人生の途中でその作風に多大な影響を受けた、転機を与えた刀という感じになります。

刀工・堀川国広自身が写し物に特に思い入れがあったかも不明です。

大体写し刀に本歌の名が銘文として刻まれているパターンは写すことや本歌の情報を後世に残すことに意味がある作品だけど、山姥切国広ってそういうタイプの写しではないよな、と。

山姥切国広の銘文には本歌の情報は一切含まれていない。
制作年紀、作者と所持者。ただそれだけが刻まれている。

長義・国広の本歌・写し関係に浪漫を覚えるのって後世の人間の視点なんですよね。

当時の状況や刀工・堀川国広の遍歴や長尾顕長に関して断片的に伺える性格などからすると、彼らは単にただ良い刀を求め、その手段が写しだっただけで、写しそのものに思い入れがあるというわけではないのではないか。

長義の修行手紙、二通目の心当たりの「一人」が不明であり、そこから何故三通目冒頭の結論に繋がるのかがわからないので一番重要なところを保留扱いにしていましたが……

「銘文」の問題を手掛かりとし、二通目の状況から三通目の結論を成立させる考え方が一つだけある。

根底からひっくり返そう。

二通目の「一人」を銘の問題に絡めて刀工・堀川国広で確定させたいなら、補うべき欠落は、主語ではないか。

どこに行っても(俺たち二振りは)正当な評価を得ることができる気がしない。

国広の手紙が二通目で本歌の存在感を食う結論を受け入れなかったように、長義側も同じことをしてるのでは?

長義を基準に考えた場合、その中で刀工・堀川国広と長尾顕長の評価に差が出るというのはやはり考えにくい。

でも国広を基準に考えると、その二人には明確な差が出る。
刀工・堀川国広に関しては、作者であるが故に、写しであると誰よりも知りながら、それとは関係なく山姥切国広にただ良き刀であれと誰より純粋に願える人物ではないか。

だから長義の三通目の結論は「それだけのこと」といいつつ、それこそが最も求めていたことになるのではないか。

国広側の辿った動きを、ほとんど言葉にしないだけで長義も同じことをやっているのではないか。

そしてそれはメディアミックスの長義の描写とも多分一致する。

散々わからんと頭を悩ませたんですが、蓋を開けてみれば極修行手紙はメディアミックスでよく見るいつもの山姥切長義では……?

口ではなんだかんだ優劣をつけたがるようなことを言いながら、本当は自分と国広に差があるなんて思ってない。
だからただ一人の心当たりとは、同じように自分と写しを両方とも一振りの刀として見てくれる相手、すなわち写しの制作者である刀工その人なのでは?

今のところこれが一番しっくり来る考えの気がします。

長義くんを基準に二通目を考えると「一人」が誰だかわからない。
我々第三者の感覚からすると、山姥切長義を重要視しているという点だけでは、刀工・堀川国広と長尾顕長に優劣はつけられない。
でも国広を基準に、かつ銘文関係を中心に見るなら刀工・堀川国広しかいないだろう。

長義くんの極修行も、国広の修行手紙の二通目から三通目とまったく同じことをやっていると考えれば全ての違和感は消えると思います。

 

2.山姥切長義にとっての「人」と「主」

2-1.修行手紙一通目の考察

送り出されてしまったのだから、致し方ない。
この際、山姥でも斬りに行こうか。
君はどう思う?

(山姥切長義 修行手紙一通目)

長義くんの極修行手紙、ようやく話の流れが掴めそうなんで、一通目と三通目の主関連を考える。

ああいう構成になっている意味がなんとなくわかってきたというか。

要するに長義くんは、主の刀になりたいけどなりたくないという矛盾こそが本音なのでは。
それが大抵他の刀が一通目で書く修行の目的部分で、だからそれしか書いていない。

自分に山姥を斬ってほしいのかという長義くんからの問いは、裏を返すと長義くん自身は山姥を斬って主の刀になる気が在るのかを明確にしていない。

むしろそれを、「主が俺に山姥を斬ることを望んだから」という理由で理由付けしたいということ自体が本音なのではないか。

逆に言えば、「主が俺に山姥切たることを望まないのであれば、俺も望まない(主の刀にはならないし、山姥切も名乗らない)」。

と、いうことかと。

主に望まれるからこそ「山姥切」を名乗って協力してもいいと思う。
主が望まないのであれば、「山姥切」も名乗らないし、人間に協力もしない。

持てるものこそ与えなくては。けれどそもそも望まれないのに与える必要はないと。

その望むという基準が「人間は刀をきちんと見ているのか?」という問いに集約されるのが二通目なのではないかと思います。

2-2.修行手紙三通目の考察

長義が打った唯一無二の傑作、それが俺だ。
まず傑作の刀があり、それに心を寄せた人間がいて、その傑作を写した。
それだけのこと。

本丸に来て以来、俺は君の動向を観察していた。
君は、果たして歴史の守り手として、
刀剣男士を振るうものとして、足る人間なのかと。

評定は終わった。

主へ
ひとつ頼みがある。
もしも、俺がなまくらになり下がることがあれば、すぐにでも折ってくれ。
君に総てを与える刀は、俺でなくてはならないからね。

(山姥切長義 修行手紙三通目)

 

二通目の話をする前に、先に三通目の解釈に入りたいと思います。

注目すべきは三通目の真ん中の「観察」「評定」に関わる部分。

何故ここで観察や評定の話を持ち出したのかについて考えます。

主の刀になるための極修行手紙で主の動向を観察していたことを告げる。
帰還台詞では、その結果として主が「歴史を守る限り」自分も「山姥切」を名乗ることを告げる。

一通目の内容の解釈を上記通り「主が山姥切たることを望まないのであれば、自分も主に望まない」ととれば、この三通目への流れは、これこそが山姥切長義にとって、人間に、主に対して望む愛そのものではないかと思われます。

山姥切長義が持ち出す「観察」や「評定」、相手を見極める行為そのものが、おそらく愛なんでしょう。

望まれなければ、望まない。
山姥切であることも、歴史を守ることも。

修行手紙の一通目と三通目からすると、長義が主に求めたものは、歴史を守るための強い意志を持っているかであり、その判断材料の一つが自分が「山姥切」であることを望むか、という要素なんでしょうね。

三通目最後の「俺がなまくらになり下がることがあれば、すぐにでも折ってくれ」は、長義側が相手である主に求められたい自分の基準がそれだけ高いことを示します。
逆に言えば、自分への要求を高く見積もる性格だからこそ、長義自身が我々に望む要求も高く、帰還台詞の「君が歴史を守ろうとする限り、俺は山姥切を名乗り」に繋がります。
主が望むからこそ自分がこうある、という主張は裏を返せば自分がこうある以上は主もそうであるべきである、ということ。

つまり自分がなまくらになったら折れと頼む山姥切長義にしてみれば、主側が歴史を守らなかったら殺すのもまあ当然だと。ふえぇ……。

この部分は最初からこの方向でしか考えられないと思いましたが、やはり話を整理して見てもこうなりますね。

まぁ歴史を守り切るという完璧を要求される目標ではなく、あくまで「守ろうとする限り」であって、実力不足でも意志の方がきちんとしていればいいという意味では甘いとも言えるのですが。

ただこの判断のベクトルが研究史解釈としてどちらを向いているのかは、ある意味わざと曖昧にして複数の考え方ができるよう制作側が計算した文章構成だと思います。

山姥を斬ってほしいのかという問いに我々は答える術はありませんが、長義くん自身も主が自分に山姥を斬った刀で在ってほしいのか、逸話がなくてもその名であってほしいのかを厳密に規定した言い方ではないと思います。

文章読解としては帰還台詞の「俺は山姥切を名乗り」と合わせて、どちらであっても最終的に審神者側の意志は「歴史を守る」=「長義が山姥切を名乗っている状態を望む」という辺りまでが確定し、それ以上の研究史解釈に関わる詳細は原作ゲームではやや曖昧となります。

(メディミアミックスなどを踏まえて考えると、例えば舞台の「十口伝」では少なくとも北条氏時代には山姥切と呼ばれていないことが確定します)

研究史理解の話は一度置いておいて、とりあえず三通目は一通目や帰還台詞との兼ね合いから、観察して評定すること、その結果相手に厳しく高い実力を求めることこそが、山姥切長義の愛であるという結論をもって、二通目を振り返ります。

 

2-3.修行手紙二通目の解釈

山姥切長義にとって、相手を見極め信用し、命を預けるに足る存在かを計るにはその相手をしっかり観察しなければならないという思考が三通目から伺えました。

長義くんのそういう性格を踏まえて、二通目を考えます。

どこに行っても正当な評価を得ることができる気がしない。
……いや、一人、心当たりがあるか。

(山姥切長義 修行手紙二通目)

山姥切長義の言う「正当な評価」とは何か。

研究史方面の話はさんざん突っ込みましたが、今回は特に修行手紙一通目三通目の主への対応と連動している部分から考えると。

長義が人に求めるのは、長義自身が人に求められたい行為。

なので、三通目で「観察」という言葉を持ち出した長義くんの性格からすると、「正当な評価」とは相手の力を見極めようとよく観察していることではないかと考えられます。

山姥切長義自身が考える、彼という刀を最もよく観察していた人物。

それは刀工・堀川国広ではないかと考えます。

この部分を考えるのに重要なのが、ここでの「一人」を推測する場合には希望的観測を持ち込まないことです。

原文に回答がない以上、思い込みを持ち込めば考察の公平性はあっという間に破綻する。
なので客観的に情報を整理しますが。

まず、単に山姥切長義を大切にしている、褒めたたえている、刀剣として評価している、ぐらいだと該当者がいすぎて候補が絞れません。

修行手紙一通目で山姥の話題を持ち出した以上、この極修行は根本的には「山姥切の逸話」に関する旅と捉え、話の出発点を写しの国広が打たれた天正十八年と仮定したとしても、それだけではまだ二振りの所持者の長尾顕長という候補が消えません。

他の候補者は大体この時点で振り落とされます。

修行の旅路の結論が「山姥切」の名を否定するものではない以上、山姥切の名に関わらない刀工の傑作であることを求めて刀工長義のところに行った説や、尾張徳川家説は否定。

かといって、絶対に山姥切であることを確定させたい様子でもないので、昭和に逸話を唱えた寒山先生のところに行ったなどの説も最初から可能性が低いと言えます。

三通目冒頭の文脈から見ても素直に考えると写しが打たれた辺りの様子を見に行ったと考えられるので、候補はほぼ刀工・堀川国広か所有者・長尾顕長に絞られ、そのうちのどちらか考える必要があります。

正当な評価に「観察」という要素が加わるなら、最終的に刀工・堀川国広が一番可能性が高いと思われます。

そして刀工堀川国広による長義の観察とは、他でもない写しの国広を打つための観察となるため、そうした行為の性質が関わってきます。

写しを打つために本歌をよく観察する。
本歌をよく観察した結果、その成果として最高の写しを打つ。

刀工・堀川国広は刀工であり、山姥切国広の制作者であるが故に、ある意味最初から本歌と写しに優劣をつけない。

作者である刀工が、自分の作品である刀に「良き刀」であれと願うのは当然のことだからです。

刀工・堀川国広は誰よりも長義の刀を観察してその本質を見極めようとした人物であると同時に、刀工故に本歌と写しに優劣をつけず、ある意味どちらの刀にも良き刀であれという願いしかもたなかったと考えられる。

本歌を意識した銘が切ってある他の刀工の写し(越前康継の写し物のように、本歌の名が写しの銘文に入っているものが顕著)と違って、現存する山姥切国広の銘文に本歌につながる情報がまったくないことを考えると、刀工・堀川国広にとっては山姥切国広は写しであってもそこに一番の意味を持たせたい刀だったわけではなく、写しとして打つように言われた一振りの刀、それ以外の意味はないように思われます。

もちろんこれ自体も推測ではありますが。

長義くんが修行手紙二通目で心当たりのある一人として刀工・堀川国広のところへ向かったのならば、そこで彼がみたものはただ一振りの良き刀を作るために本歌を熱心に観察している刀工の、その姿だったのではないかと思います。

2-4.山姥切長義の道行

一度話の流れを頭から整理すると

〇 一通目

主に山姥を斬ってこようかと書き綴る長義くんは、主側が強く歴史を守ること、すなわち自分が山姥切であることを望むならその想いに応えてもいいが、そうでないならば主に力を貸す理由もないと考えているように思えます。

〇 二通目

正当な評価が得られないというのは、長義くん自身の望むハードルが高すぎて表層しか見ていない意見を全部振り払っている方向性だと考えられます。

三通目のように相手を観察して見極めることに主眼を置いている長義くん自身の望みもまた、人間が自分を観察している、自分のことを見ているという確信を得たいという話だと考えるとしっくりきます。

〇 三通目

冒頭は二通目で刀工・堀川国広のところに行き、二振りの逸話の混在の根源である山姥切国広の誕生にまつわる状況を確認してきたと考えられます。

国広の存在は長義の逸話や号といった話をややこしくさせるものではありますが、しかしこの写しを打たれた時ほど、刀工が一振りの長義の刀を真剣に観察した時もない。
長義と国広の物語の始まりの本質は、長義の刀に心を寄せた刀工・堀川国広がそれ故、己の心技を込めて一振りの写しを打ったということ。
それをそのまま受け止めればいい。

写しがいることで話がややこしくなりお互いに本質をみてもらえないのではなく、
一振りの刀である自分をよく観察して一振りの刀が打たれた。その写しもまた良き刀となった。
それだけのことが全てで、人が山姥切長義を求める理由であり、長義自身もまた「山姥切」を名乗ってでも歴史を守るに足り理由になりえるのだと。

ここで過去を見てきて、自分が「山姥切」として人に望まれてきた歴史の根幹がただの憶測や幻想だけではなく、名刀としての自分を誰よりも観察した人がいて、だからこそ写しが打たれ後に山姥切の物語も生まれるのだと納得したことで、「歴史を守る主の刀として山姥切を名乗る」決意が固まったのだと考えられます。

極修行で主の刀になるとは言っても、主にただ誉めそやされればいいなどという軽い話ではなく、表層ではない本質的な自分という存在が「人に望まれて歴史を守る」に至る確信が必要だったという主旨の修行に見えます。

確信を得たからこそ、今度はそれを実践するために主との契約、信頼関係をきっちり確認するのが修行手紙最後から帰還台詞へ繋がる流れだと思います。

歴史を守るという行為、すなわち「山姥切長義」を名乗り続けるに足る行為のためには、それができなくなったら命を捨てるほどの真剣さがお互いに必要だと。

見てきた過去によって己の歴史がそれだけのものだと確信を得て、更に主にも長義から人間への最大の愛情表現として同じことを求める。

そういう内容の極修行だと考えられます。

 

2-5.まとめ

極修行での長義くんは、山姥切長義として人間に力を貸すにあたって、人間がその価値ある存在という根拠を、直接主に求めず過去の歴史の中にいる人物に求めているのではないか。

それが二通目で示唆されたおそらく刀工・堀川国広で、彼を選んだ基準を考えると、おそらく自分と写しを対等に評価することが絶対条件なのだと思われる。

二通目の彼の許へ行ったことにより、ようやく後の世でどんな名をつけられようと、始まりはただ良き刀として見つめられていたことに確信を得て、人間を信じ、事実誤認だろうが何だろうが与えられた名を名乗ることを受け入れてもいいと思えたんだろう。

ただし、それも無条件とはいかないのが三通目。

今の主たる審神者が自分の力を貸してもいい主であるかをずっと観察し計っていた。

一方で、一度力を貸すと決めたからには徹底的にやるし、それが果たせないなら意味がないから折ってくれという。

しかもその条件は、帰還台詞を考えるとおそらく主たるこちら側もその心意気で望むことを当然のように求められている。

本人の性質とは異なる物語を冠せられて、ある意味それに沿って生きなきゃいきないのは人間も同じ。けれど、だからと言ってその理想を演じようとする姿がまるっきり嘘というわけでもないのが人生。

最初に何かそれを想起させる話があったから異名を得る。冠せられた審神者の名と役割を主は果たすので、帰還台詞の「君が歴史を守ろうとする限り、俺は山姥切を名乗り、実力を以て敵を斬る」に繋がるのではないだろうか。

主の刀になってもいいけれど、そのために主を含む人間を信用するには、人が彼を正しく見つめていたという過去の事実が必要。

それがあって初めて歴史が守るべき価値があるもの足りえる。

山姥切長義自身が監査官として、他者に「正当な評価」を下す役目を務め、本丸に来てからも審神者をそうやって評価していたからこそ、自分も同じようにされることを望む。

過不足ない「正当な評価」を与えるものだからこそ、自らも「正当な評価」を求めるのだと。その基準が酷く厳しいことを示したのが二通目の内容ではないか。

そして「正当な評価」を下し続けること、与えられた名を背負い役割を果たし続けることを、自分だけでなく相手にも求める。

これはある意味、登場当初から一貫した山姥切長義のスタイルではないだろうか。
ただこれまではおもにその要求をされているのは、我々主ではなく写しの国広だった。

「正当な評価」を下すこと、相手に同じスタイルを求めること。

山姥切長義がそういう刀剣男士であることは、むしろそれが彼の歴史そのものであり、それが彼を構成しているものである、ということが明らかになったのがこの極修行ではないか。

そういう歴史があるからこそ、今の山姥切長義がいる。
だから過去に求めるべき答、つまり長義くんの歴史の中に答があると、それをしっかり見届けて自分の歴史への感情に整理をつけてきた。

この辺は他の刀と同じだと思います。

修行手紙全体の議題は何かをまとめると、やはり主の刀になるためには、自分が他者を観察するように「相手もきちんと自分を見てくれている」という確信が必要だったというのが大筋ではないだろうか。

言い方は異なれど長義も国広も主の刀になるためには、人が自分のことをきちんと見てくれているという確証を得たくて旅してきたのではないだろうか。

ただし彼ら基準の「正当な評価」には、「本歌と写しの平等・対等」と言う前提条件が含まれているものと思われる。

修行手紙一通目の願いは割とどの男士も自分の歴史を否定気味な見解から始まるが、山姥切の二振りにとっては

「自分たちは正当な評価を得られておらず物語で判断される。それでは主の刀になろうとは思えない。きちんと正当な評価をされて初めて主の刀になれる」

という構造で、ある意味同じではないか

どちらも修行手紙からもお互いを対等に扱ってほしいという願いが見えるものの、その先には、彼らの評価はそこからようやく始まるという事実がある。

それを得たから歴史を信じ、歴史を守る主の刀であることを決断できる……と。

長義くんの修行手紙の主に絡む要素は、そういう話ではないだろうか。

本丸で主を観察し、自分がなまくらになったら折れといい、主が歴史を守る限り山姥切を名乗るという。

山姥切長義は、自分にも相手にも厳しい。

でもその厳しさこそが相手への本当の愛情であり、だからこそ自分もそのように扱ってほしいというのが要は本音なのではないだろうか。

歴史を守る限りという条件付きで山姥切長義を名乗る(主が歴史を守れなくなったら殺すと同義とも受け取れる)というのは、長義くん自身にとっては何よりも強い愛情を示す行動なのではないか。

こうあるべき、という理想のために努力し続けるのが前提で、それが出来なくなったら殺せと。

プライドの高い山姥切長義らしい意見であり、だからこそ相手にもそれを求める。

その相手はこれまでの山姥切国広であり、これからの主たる我々審神者なのだろう。

そういう刀だからこそ、人間相手にも同じものを求める。口先だけで良い刀だと褒めるくらいでは、長義くんは正当な評価だとは受け取らない、ということではないか。
その写し刀が後に刀工の最高傑作と謳われる写しを作れるぐらい真剣に長義の刀を見つめなければ、信ずるに足る理由はないと。

……こう言ってはなんだが、

結局、毎回自分が「写し」であることを持ち出す山姥切国広も、
口では己こそ本歌、「持てるものこそ与えなくては」と振る舞う山姥切長義も、

「自分自身を見てほしい」

という願いを持つのは同じではないだろうか。

二振りとも最終的には逸話が真実であるかどうかよりも、自分にとっての人間とは何か(人間が自分たちをどう見ていたか)、主にとっての自分は何か(主は自分を見てくれるか)に答を得て帰って来るところは同じだと思われる。

話を一見難しくしているのは、この二振りは自分を見てほしいと主や人間に対して願っているが、だからといって相手を追い落としたいわけではないところである。

むしろ片方を持ち上げるために片方を貶めるという不公平は論外であり、そういう見方をするために長義と国広、どちらかを不自然に下げたり持ち上げたり、その前提のために他の要素を蔑ろにすると話の主旨がわからなくなる。

相手を公平に見るのは大前提で、その上でなお、一振り一振り真剣に見る。

ある意味そういう当たり前のことをしなければ、自分の欲に惑わされて話の解釈が見えて来なくなると。

実装時は「なんだこりゃ?」だった山姥切長義・極の内容も、これでだいぶしっくりくる推測ができた気がします。

 

3.そうは言っても全て推測

山姥切長義の極修行について、ようやく自分的に納得の行く解釈が得られました。

とはいえ、実際の修行手紙の文面が極少であり、普通に読んだだけでは二通目の「一人」が誰であるかを断定する要素は、相変わらず我々の手元にはありません。

それでも今回はできるだけ長義くんの内面を知るために、可能な限り公平かつ客観的な要素になるよう二通目の一人を仮定して、具体的に極修行でどういう思考の変遷があったかを推測してみました。

こういう形式である以上、推測に推測を重ねるしかなく、土台が不安定すぎてこの考察もそういう意味ではほとんど意味を持ちません。

ただ、他でもない山姥切長義の極修行だからこそ、己の願望などは排してできるだけ冷静な思考をしたい、読んだ側の思い込みの投影ではなくあくまで手紙の文面を客観的な事象から推測したい、となるとこの路線で突き詰めるしかないかなと。

二通目の一人を公式が断定してくれれば一気に考察も進みますが、今までのとうらぶのスタンスからするとそれは望みが薄いです。

この一人は永遠に不明な可能性もかなりあり、この一人を刀工国広でも長尾顕長でも他の誰かでも、安易な印象で自分に都合の良い人物だと仮定するとその考察はまったく意味がありません。

正直考察者としての私は長義くんの極修行手紙を見て、この作品にとっては考察など何の意味も持たない、と判断しました。

あるいは今後この部分の答が明確になるとしても、ゲーム3、4年目に実装されたキャラの内面に関する回答がその後6年以上経っても明確にならない作品は、あまりにも労力をかけて考察するものとしてはコスパが悪いので、結局考察屋としてはこの作品は切るしかないと思います。

しかしまあ、それでもそのキャラが好きだと言うのなら、人は正解があるとかないとかコスパがどうとか言わずに追い求めてしまうもの。

考えることにあまり意味はないような気がしますが、山姥切長義というキャラクターを愛するならば考え続けずにはいられないでしょうね。

今回の考察もあくまでそうした性質の一環であり、答というものは永遠に出ません。

読者様につきましては、この文章はあまりにも虚しく無意味なものであることを念頭に置きまして、上記の考察をお読みください。