本歌と写しの逆転考

本歌と写しの逆転考

唯識の理解、一人一宇宙

前回の静形薙刀から見る刀剣男士の存在分析の話題から引き続きますが、仏教は唯識、つまり認識による世界が全てなので、世界の真理について我々が抱いている印象とは事実関係がまるっと逆転すると思います。

前回は仏教の思想を基準にこういう説明をしました。

刀剣男士は不確かな資料の上にしか存在しないから曖昧な存在なのではなく、その認識の在り方を突き詰めていくと究極的に刀剣男士の存在は認識の問題において我々人間と同じ、と考えられます。

人間である我々よりも認識の中にしか存在しない刀剣男士は曖昧な存在、ではなく、刀剣男士をいかにして我々は認識しているかという問題を突き詰めてたどり着く先が、そもそも「我々人間はみな縁起によって成り立つ存在である」という哲学です。

一見曖昧で他者との関係性に依存しているように見える存在は、むしろその存在形態こそが、我々に自分の存在含むこの世のあらゆる物事はすべて縁起で成り立っていることを教えてくれるようです。

仏教では、なにもかも「縁起によって成り立っている」とまずお釈迦様が唱えました。
後になるほど何やら難しい話になっていくように見えますが、基本は全部これのようです。

縁起によって成り立つ世界とは、その世界を成り立たせる条件を引っこ抜くと成り立たなくなる、ということになります。

そして後の仏教の研究者(インド哲学者)たちがたどり着いた思想が「唯識論」であり、これが今の仏教のベースにあります。

唯(ただ)、識(心)だけがある。

という発想です。心と言ってもこの心に関してはその字の通り「認識」という意味が強いと思われます。

ブッダは様々な説法をしましたがその当時の対象を救うことを主眼に置かれていたので理論を自ら紙に書いてまとめることはなく、後世の研究者たちが残された記録を頼りに哲学的思想として整理していきました。

派閥同士の論戦などいろいろ経た上で唯識という考えに一応たどり着いたと言えます。

人間は自分の認識を通して自分の世界を作り上げるのだから、全てを正しく認識すればあらゆる苦しみから逃れられる……悟りを開けることになります。

なんかめちゃくちゃ説明が雑な気がしますが素人から素人へそもそも仏教の話題じゃなく仏教要素のある作品をどう解釈するかの話なんでこんなもんでいいでしょう。ダメだという方はご自分でお調べください。むしろしっかり学んだらぜひ考察を出して教えてください。

愛は苦であり輪廻を廻す

御前曰く刀剣男士を強くするのは愛らしいですが、この愛たぶん、西洋的なアガペーじゃなくて仏教的な煩悩の方の愛なんだろうなと思いますね。認識をゆがめ、自らを苦しめる。だから最終的には捨てなければいけない。

ただ仏教の難しいというか面倒なところは、愛はくだらないものだ捨てろ、じゃなくて、愛を徹底的に理解してこそようやく愛が苦しみを生むという真理に気づける、という意味であるところです。

皮肉、諧謔、逆説の哲学的宗教である仏教は言い回しが常にややこしくなります。

厳密にいうと愛別離苦の説明らしいですが、この譬え話なんか愛が苦しみの源であることがわかりやすいのではないかと思います。

キサーゴータミーの説話です。

キサーゴータミーという女性は、夫と死に別れ、また生まれてきた我が子もすぐに死んでしまいます。
「どうして自分だけこんな目にあわなければならないのか」
彼女は現実を受け入れることができず、愛する我が子を生き返らせる薬を探し始めます。

そんな薬あるはずもなく、キサーゴータミーはさまよい続けますが、ある人から「お釈迦様ならきっと良い方法を教えてくれるでしょう」と教えられ、お釈迦様に子どもを生き返らせる薬について尋ねます。

お釈迦様は「今までに死者を出したことのない家から芥子の実をもらえば、薬が作れる」とキサーゴータミーに教えます。

芥子の実はインドでは一般的に使われる香辛料なのでどの家にも置いてある。
けれど、死者を出したことのない家だけが見つかりません。

キサーゴータミーは来る日も来る日も死者を出したことがない家を探しますが、やがてハッと気づきます。

この世に死者を出したことのない家はない。
人間は誰しも、愛する人との別れを経験している。

それで彼女は、自分だけが不幸というわけではないことに気づき、子どもを生き返らせたいという願いを捨てることができ、お釈迦様の元で信仰に生きることになりました。

……と、言う話です。

キサーゴータミーで検索かければすぐに話自体は読めますしデジコレにも収録している本はありますが、原典から全文を訳したものは意外にもなく論文にならあります。
仏教説話としては有名な話なので出典の話はこれくらいにして。

キサーゴータミーは愛する我が子のためと死者を生き返らせる薬を追い求めた。
けれど追い求めて追い求めて追い求めて、だからこそ気づいた。

この世に一度も死者を出したことのない家はない。
不幸なのは自分だけではない。
自分と幸せそうな他人の何が違うのか?

――それは、自分自身の煩悩なのだ。

愛という名の煩悩が、苦しみを生み出し、私に我が子の亡骸を抱えて永遠に歩かせ続ける。

それに気づいたことによって、キサーゴータミーはようやく我が子への妄執を手放せた、と。

真理は理解をすることで自分を苦しみから解き放ってくれる力がある。

でも、そこに到達するまでに我々は何をしなければいけないのか。

自分だけが不幸だと思っていたキサーゴータミーは、けれど我が子を生き返らせるために来る日も来る日も死者を出したことのない家を探し求めてさまよい続けた。
その懸命な努力は決して軽いものではないはず。
そこまでした人でなければ、本当の意味で「愛が苦しみとなる」真理に気づけない。

だからこそ、そのことを悟ったあとの彼女はブッダに弟子入りして阿羅漢となったとも言われます。

愛は苦であると悟ることができるのは、愛なんてくだらないと斜に構えたり馬鹿にしている人間ではない。
愛を追いかけて追いかけて、追いかけて、我が身を顧みずただ追いかけ続けたもの、その果てに自分の妄執だけでなく、他の人はどうして自分と違うのかと目を向けることができるものなのです。

そうして辿り着いた「愛は苦」という結論は、だから愛そのものを捨てよという話ではなく、愛だと言いながら自分の願いを相手に乗せていた自分自身の真実に気づき、その自分を苦しめる行き過ぎた「執着」こそを手放せ、という話になります。

執着を手放したその時にこそ、真実の世界が見えてくる、と。

とうらぶの「愛」はこれだろうな、と。

「愛」であることは間違いない。
でも真実の「愛」であるからこそ、そこに己の妄執が絡みついて「苦」ともなるのだと。

西洋のアガペーとは違う、でも完全に違うわけではない。

むしろ西洋のアガペー的な愛、我が子を生き返らせるためにその亡骸を抱えて来る日も来る日も、死者を出したことのない家を探してただひたすら努力できるほどの愛がなければ気づかない。それだけの愛を持った者こそが辿りつける境涯こそが「愛は苦」という認識で、そこで否定されるものは愛そのものではなく自らの「執着」である。

本当に愛したものでなければ、愛が苦であるということにすら気づけない。

例えキサーゴータミーと同じ状況に直面したとしても、抱えた愛が我が身可愛さだけで自分の執着を捨てられず言い訳だけを連ねて他者を無駄に敵視するようなものでは、「愛は苦」という境涯には到達しない。

……と、言いますかね。

結局みんなこれなんじゃないか。あえてこの説話を例に出したのは、我々こそまさにこのキサーゴータミーの心理状態だと思うからですよ……。

この文章書いてる私が長義推しの姿勢を明確にしているので継続して考察を読んでくださっている方は長義推しや伯仲推しが多いと思います。最近は私もひたすら一人でしゃべってますが考察の最初の方に(主に寒山先生は写しを決して侮っていたわけではない証拠を出したあたりで)頂いた感想だとそうでした。

そういう我々が、基本的な研究史を頭に叩き込みながらも何故まだ他者の考察を探して探して、とうらぶの真理を探してしまうかと言えばこれ。

実装時の例の問題のせいで、長義くんだけが不幸だと、この子は可哀想だと思いこんでしまっているからではないか。

それはまさしく愛だけど、それ故に周りが見えなくなっている人もいる。

延々と冷遇作品書いて他人のスタイルを批判している人はまぁわかりやすいんですが、そうでなく、落ち着いて次の展開を待つのではなくただひたすら情報を求めてネットの海を彷徨う我々も結局は同類なのです。

死者のない家を探し求めてさまようキサーゴータミーと……。

長義推しでも長義くんの刀本体の研究史のことなどまったく気にも留めずに楽しんでいる人もいるはず。

その人たちと我々と何が違うのかと言えば、結局自分自身の心の問題でしかない。

物に、心などないのだから。

そこに心を描くのは結局その物を見ている我々だ。
そしてそれゆえに、それが真理だ。唯、識だけがある。

けれどそれは、見ている世界が結局自分の認識に左右されるという自覚がなければ始まらない。その自覚をしてこそ執着を離れられる。

長義くんの名前が否定されるのが悲しいなと思うのは自分なら、
長義くんの正しい歴史が否定されるのが哀しいなと思うのも自分。

そういう問題に目を背けて研究史も物語解釈もまったく努力せずキャラじゃなくて自分に都合のいいことしか考えない頭お花畑な厄介ファンを心底疎ましいと思うのも自分です。ムキーッ(おい煩悩消せてねーぞ)

現実に納得が行かないなら、行動を起こして変えるのはそこに執着を持っている自分でしかない。
逆にその覚悟が決まっている人は、ただ現状に苦しんで愚痴を言うだけではなく、自ら行動を起こしている人が多いと思います。

二次創作しながら刀の情報も正しいものを出そうと何か動きがあるたびに研究史の話題に触れる創作者なんかはそのはずです。

この時に、え、でも私は小説も漫画も描けないし……と思って情報を発信することを尻込みしてしまうなら、それはやっぱり我が身可愛さであって、本当の愛ではないと言われてしまう。
それを認められないから苦しむ、というのが仏教の理屈です。

別に全員が全員理想的なことをしろと言うわけじゃなく、自分がどういう想いを抱いているのか理解しないと不満は消えない、という話です。自分が救われたならそれでいい。

いややっぱ長義くんの研究史が全然蔑ろにされてるじゃんそれじゃダメだよ……! という煩悩が消えないなら、それを広める行動は自分自身でする。それでようやく感情が昇華されます。
自分の行動は、誰かのためではなく、常に自分のためにやるもの。

我々を救うものは、自分自身がどういう人間であるかの自覚である。理解がそこに到達したら自然と救われる。

人間である我々は基本的に、この理屈を何かしらの行動から大体学んでいると思います。

で、愛の話はここからが本題ですが、結局は刀剣男士もそうである、というのがとうらぶの解釈ではないか?

愛は鎖、刀剣男士はそれ故に愛に縛られる。

けれど派生の舞台などを見ていると、あの世界の人間自身も、刀剣男士の愛に縛られているのではないか。
だからこそ結いの目は発生するし、鵺も鬼も生まれる。

・愛は苦である、キサーゴータミーはわが子を生き返らせたがったが結局それは自分のためである
・けれどそのくらい愛が強くなければ、そもそも愛は苦であることに気づけない
・我々を救うものは、自分自身がどういう人間であるかの自覚である
・理解がそこに到達したら自然と救われる

そして、

・情報を発信するのに対して、え、でも私は小説も漫画も描けないし……と思って尻込みしてしまうなら、それはやっぱり我が身可愛さであって、本当の愛ではない

この内容を、要は「コンプレックス(劣等感)」と言います。

ブログやツイッターで情報を出すのに難解な資格や立場なんてまったく必要ない。

面倒くさいからそれをしないと言う人はある意味すがすがしく自分を知っていますが、自分の発言が何の力も持っていないと思っているなら、それはただのコンプレックスです。
作品のファンは誰だって平等なはずでしょう。

まぁたまに実際に実力ないのに無駄に自信ありすぎる人とかもいるし他者を無駄に攻撃する人なんかはこのタイプでしょうから良かれ悪しかれではあるんですが。私も基本こっちのタイプですし。

しかしこれが「コンプレックス」「劣等感」と言われるとなんとなく全体像がつかめてくると思います。

人は「コンプレックス」を抱えたままでは本当の意味では問題を解決できない。
前に進みたいなら、欺瞞ではなく本当の意味で「コンプレックス」から抜け出す必要がある。

――山姥切問題は、そもそも山姥切国広の「コンプレックス」から始まっている。

原作ゲームの修行手紙から垣間見える国広の長義への感情は、自身が写しであるという「コンプレックス」と絡み合ってしまっている。

だから国広がその「コンプレックス」を乗り越えない限り、国広も長義も、我々もこの問題から真の意味で開放される日は来ないと思います。

語るものと語られるもの

唯識には「一人一宇宙」という言葉があります。それはどういうことか。

仏教的には「自分の中に宇宙がある」ということだそうです。なんだそりゃ。

正直この単語だけ聞いてもまったく意味わかんねー! と思ったんですが恐ろしいことにとうらぶの考察をしていると逆にこれがなんとなく理解できてしまう。

俺たちはとうらぶに何をやらされているんだ……?

原作ゲーム考察の結論として、私は最終的に「語るものと語られるものは逆転する」という答を出しました。

刀剣男士と審神者は逆転する。
人と神(鬼)は逆転する。

我々は刀の研究史を聞いて聞いて聞いて、行き着いた先にその話を全て理解したら、今度はその物語を、自分自身が語ることができるようになるからです。

最近派生、特に舞台でころころそれぞれの立場が入れ替わっている逆転の構造を見ていたらやはりこの解釈であっているような気がします。

ポジションはいくらでも入れ替わる。けれどそれ自体は悪いことではない。

わかりやすい例でいえば、弟子は必ず師匠から学ぶが、成長しきったら自分が今度は誰かの師匠になるようなものだと思います。

一つの道を辿って行き着く先は、立場の逆転です。

そしてその逆転自体は、今まで誰かの弟子であったという自分の歴史を否定するものではなく、その過去の上に積み重ねられるものです。

山姥切長義の研究史を理解する。
これは事実誤認であると気づく。

けれどその事実誤認についてあらゆる角度から説明できるくらいに研究史を理解したなら、なぜその「山姥切長義」の物語が素晴らしいのか、そのことも説明できるはずです。

研究史の事実誤認を追うことは、決して「山姥切長義」を否定する行為ではない。

むしろ、その歴史を理解することで、我々は本当の意味で「山姥切長義」を手に入れることが出来るようになる。

目の前にインターネットという、世界につながる電子の海がある。
けれど私たちはもう、この中から「山姥切長義」と名乗っていない長義くんを見つけ出せる。

徳美が紹介する本作長義(以下、五十八字略)の刀が「山姥切長義」だと。
『刀剣談』が長義の傑作として紹介する、「尾州の長義」が「山姥切長義」だと。
『新刀名作集』で、「北条家の長義」と呼ばれているのが「山姥切長義」だと。

山姥切国広の本歌は、「山姥切長義」だと。

名前のない長義くんを見つけ出し、その話を聞く相手の心の中に、「山姥切長義」を生み出すことが出来る。

ものを理解するということは、唯識の世界で対象を生み出すことが出来る能力です。

これが「一人一宇宙」、物語を生み出すデータはすべて自分自身の中にあり、電子の海からそのデータと同じ内容を完璧にサルベージできるということだと思います。

仏教書だと宇宙レベルで考えるから意味がわかんなくなるだけで、ピンポイントなデータの一つと考えれば、理解はそれを自分の中に取り込み、無限に「完全なる複製」を可能とすることだと実感できます。

一度暗記した文章を延々と別の紙に書き写す行為と同じです。

知りたいのが内容という「認識」そのものであった場合、本に書かれた物語と私が紙に書き写した、「複製」である物語の内容そのものに差はない。

この場合コピーはオリジナルと同一である。

物語というデータは理解によって失われたのではなく、その逆です。
むしろ自分自身の中に取り込まれた。

水に映る月をこの手のひらに掬うように、涅槃という電子の海から認識のデータを取り出せる。

イメージしやすいようもう少し別のものでも考えてみたいと思います。

一つのプラモデルを完全に分解して構造を完全に把握することと同じです。

元の材料と同じものを用意して完全に同じプラモデルを造れるのなら、自分はそのプラモデルの構成要素(存在分析)を完璧に行ってデータを取り込み、複製できる状態になったということになります。

今なら3Dプリンターによる複製とか考えるとわかりやすいかもしれません。

そしてこの作業は、対象の構造が複雑になればなるほど難易度が上がりますが、決してどれも不可能性ではない、というのが「一人一宇宙」という考えだと思います。

そんなこと言っても、一度死んだ人間を複製するのはさすがに無理っていうかそれはどんなに努力しても別物では? と当然なるはずですが。

ここが仏教思想の肝というか、仏教はアートマンと呼ばれる転生の主体たる自我を否定する以上、データ面で完全な複製が可能なら物質としてかつて過去に存在したそのものではなくとも、組成が同じなので同一、と判断するんだと思います。

「唯識」という「認識」が全ての世界なので、認識の構成要素が完全に同じなら同一。

和歌を複製するとき肝心なのはその文字や意味であって、その和歌が書かれた本そのものではない。別の紙であっても同じ、っていう考え方かと。

魂など存在しない。我々が自我(魂)だと思っているものはみな縁起でできている、つまり最終的に全部ばらばらのパーツに分解できる要素でしかないから、また集めて構成しなおすことも可能……と。

文章の複製とか認識しやすいものはともかく、人間の複製はやはり現代的な価値観だと異論を差しはさみたくなるような気がしますが、仏教的な考え方としては一貫しているのだと思います。

逆にその同一性の捉え方に異論がある、和歌を書いた紙そのものも過去に存在した物質と完全に同一物であることを求めるのなら……それは、過去に戻るくらいしか取り戻す手段がありません。

その時、我々は決断を迫られる。

「空(くう)」という悟りを否定して過去の歴史の改変という穢れた煩悩に走るか。

その同一性に拘る思考こそ愛であることを認め、執着だけを手放して過去に過ぎ去ったものへの愛、穢れのない煩悩と共に再び輪廻を繰り返すか。

「一人一宇宙」、完全なる対象の理解から対象の本質を複製する「認識の超越」へと到達するか。

こんな感じかなと思います。

なお仏教用語の使い方自体は間違っている可能性があります。
正しい知識を得たい方は何度も言いますが自分で調べてくれ。

本歌と写しが逆転する時

語るものと語られるものは最後に立場が逆転する。

輪廻の円環の中では、神と人、師匠と弟子、その立場が逆転した時こそ物語が完全に理解された証である。

一人一宇宙という唯識の最奥を理解すれば、人はその手で世界、宇宙だって生み出せる。

愛は苦である。

それを理解するのは、ただ必死に愛を探して探して、探し続けた人こそである。

己の中の執着を理解した時に、ようやく愛を苦とする鎖から離れられる。

けれど、それには己の「コンプレックス」を乗り越える必要がある。

己の中の愛という名の執着を理解すること。
己の中の「コンプレックス」を乗り越えること。

すべてから解き放たれて円環を抜け出すにはこの両方が必要となる。

……長義も国広も自分は呪われてないって言うんだけどさぁ、

むしろ君ら、私らの方に呪いかけてません?

仏教は言う。愛は苦であると。
御前は言う。愛は鎖であると。

我々は何故いつまでたっても、この執着を手放せないのか。

愛こそが、最大の呪いである。

“写しの俺が、本科の存在感を食ってしまったようなものだ。”
“どう、受け止めていいかわからない。”

“案外、どちらも山姥を斬ったりなんかしていないのかもな。ははは。”
“人間の語る伝説というものは、そのくらい曖昧なものだ。”

「ふたつの山姥切」という物語は、結局、山姥切国広からすべてが始まったのではないか。

我々に呪いをかけているのは長義くんよりはむしろ先にいた国広の方である。

事実誤認の発覚で「山姥切長義」の名が失われることを受け止めきれず、己のコンプレックスにより自分の逸話は曖昧、堀川国広の傑作であればそれいいと結論してしまった。

これが全ての根本にある。

長義くん側もある意味名前という呪いをかけているというかかけるはずだったのだがいや長義に関してはどう見ても自分がかけた呪いより実装時のごたごたの方がもはや呪い状態の被害甚大でなんとも言えねえ――!

というか、長義くん側が国広を「偽物くん」呼ばわりする事情は早ければ極で解決しそうな気配がある。もちろんしない可能性もあるが。

もともと長義が「偽物」という言葉を持ち出した時点でこの問題は研究史の話だなと理解させる力があったが、派生である舞台などを見てもやはりこの「偽物」呼びは特別な意味がある。

……山姥切長義を肯定するためと言って、山姥切国広側の号や逸話を否定する人が出るのは正直普通の感性からすれば頭が痛い問題である。

根拠もなしに一つの論文内容を感情的に否定したり間違った情報を流布させる行為を正当化する人間が大量に生み出されるなど正直狂気でしかない。

ただこの現状に関しては、そもそも誤解を生みようなシナリオを書いた刀剣乱舞そのものの責任でもある。

ではとうらぶはこの事態をどう収集つけるつもりなのか、この反応を予想していなかったのか、と考えるとそうでもないと思う。制作側は大なり小なり出した情報が相手にどう受け止められるか計算して情報を出すはずである。

ちなみに舞台の戯曲本で末満氏の後書などを読むと、おそらくとうらぶが観客、プレイヤーに要求するシナリオの読解レベルはめちゃくちゃ高いと思われる。

とうらぶとしては、刀剣の研究史の理解に対して、最初から刀剣男士自身の成長という形で決着をつけるつもりだったのではないか?

だから国広が極で事実誤認を明らかにしてきたように、長義側も極で新しい真実を掴んでくるはずである。

刀剣の研究史に対する我々の理解の基礎作るのは、実際の研究史そのものよりそれを理解する刀剣男士の態度だという人が多いはずである。

そうでなければ、そもそも最初からかなり評価が高い山姥切国広にコンプレックス設定をつけることを納得する層が多いはずもない。名刀になにマイナス要素つけてんだとニトロにクレーマーが押し掛ける方が普通かもしれない。

しかし多くのプレイヤーは、国広自身がそう言うからこそ、そのマイナス要素を受け入れて来たのではないか?

とうらぶというフィルターを通してみる限り、我々は実際の研究史にバイアスをかける行為から逃れられない。

それこそを愛、そして呪いと呼ぶ。

だからこそ、そのバイアスを消すのにも、最初に我々に呪いをかけた刀剣男士自身の言葉が必要になる。

まぁ正直私は長義くんの名前はともかく国広のことは知らねというスタンスなのでここであっさり国広を否定しようと思う(オイ)。

コンプレックスは向き合うことから逃げても解決しない。
逆に、コンプレックスそのものをきちんと昇華できれば文字通り世界は変わる。

山姥切国広のコンプレックスを解消するにはどうするか。

そこで、「立場の逆転」というさんざん繰り返された要素が重要になる。

私のような長義推しが長義が本歌、国広はその写しという構図に拘るのはもちろん長義くんがそれを重要視しているからだが、この二振りに関してはある条件でその関係が逆転する。

号においては、国広が本歌、長義の号は国広の号から生まれたもの。

刀剣本体の本歌・写し関係はともかく、逸話と号に関しては最終的に理解が逆転する関係である。

長義推しの特に強情な人がそれを認めず国広を強硬に偽物呼ばわりするのは頭が痛いが、そうでない人でもなかなか長義が本歌で国広が写しという構図を逆転させることは躊躇うと思われる。

だが、

名刀の写しであることが本当に何にも代えがたい誉であると言うのなら、

それを国広に言い聞かせる、私たち自身がまずそれを証明しなければならない。

写しであることに何のマイナスもない。だから、最後の執着を手放そう。

――「本歌」と「写し」を逆転させる。

そうすると、何が起きるだろうか。

我々は語るものと語られるものの立場で、最終的に立場が逆転することを経験した。
理解が完全になれば、それは全てを、宇宙を己の中に取り込んだということ。

だから。

国広は「写しであることのコンプレックス」を離れた時、「号の本歌としての立場」を取り戻す。

そしてその時こそ、本当の意味でその「写し」としての「山姥切長義」という名を、誰もが愛せるのではないか……?

長義の号は本歌としてのものでなくてはいやだと、それは長義推しの私の気持ちでもあるのだが、多分この世で一番最初にそう言ったのは国広の極修行である。

だから誰もが、その名が失われることは二振りにとって不幸なのだと思い込んで、本歌と写しの立場を絶対的なものとして見ようとする。

けれどおそらく、その名を追って追って、追い求めた果てに「本歌」と「写し」の立場が逆転することこそ、この物語の目指すところなのではないか?

何故ならその時こそ、「山姥切国広」は本当の「山姥切長義」を取り戻せるからだ。

それができることは、電子の海から「山姥切長義」を的確に見つけ出せるようになった我々自身が語るものと語られるものの立場の逆転から証明できるだろう。

……正直、原作ゲームだけだと国広は長義への執着を離れるのが早いか写しとしてのコンプレックスを乗り越えるのが早いのかわかんないんだけど。

舞台の構成が失った三日月を取り戻すというシナリオである以上、「取り戻す」ことに主眼が置かれているので、一言でテーマをまとめるなら「コンプレックスを乗り越えて相手を取り戻す物語」なのではないかと思います。

刀剣男士がもともと認識依存の存在であることを考えると、取り戻すことそのものを諦める方向性はあまり考えにくい。その方向ならその方向で別にプラスの意図が追加されるはずである。

そもそも、舞台なんて山姥切国広を主人公にしておいてこの問題をガンスルーしていたら逆におかしいくらいである。灯台下暗し。

国広を中心としたシナリオなら、そりゃ国広が持っているテーマが主題になるのではないか。

すなわち、写しであることのコンプレックスの克服。

その最終到達点は、己が物語の「本歌」であることを思い出すこと。

それが出来た時、ようやく本来の自分も、本当に愛する相手も取り戻せる。

そして我々自身も、物語が失われる恐れや悲しみという呪いから解放されるのだろう。

……到達点の話だけなら今までもしてきた気はするんですが、結局長義くんのイメージ回復担うのも全部国広の役目かーい! っていう。ぐぎぎ。

山姥切長義にかけられた呪いを解くのは、最初からその呪いをかけた国広の役目だったと。
いややっぱ腹立つわ国広(オイ)。

どんな研究者が、どんなに調査に熱を上げたカリスマ審神者が現れようと、結局刀剣男士自身の言葉を超えることはできないだろう。

でもだからこそ、きちんと原作ゲームからこの問題をしっかり解決する気が初めからあるのではないかと思います。

己の中の山姥を救うのも。
己の中の鬼女を斬るのも。

刀剣男士自身の役目である。

それが出来た時こそ自分が物語の「本歌」「写し」であったことを思い出し、無意識に焦がれ続けた「写し」「本歌」に出会える……否、最初から相手は自分にとって最も大事な存在であったことに気づけるのだろうと。

まぁ舞台の方は一番重要な対象として想定されているのが三日月と長義どっちよこれというのはともかく。

というか誰だって自分のコンプレックスは自分で乗り越えるんだよという、至って健全な思考で全員助け合いながら自分で自分を取り戻す戦いなのかもしれん。そっちの方が自然かな……。

我々が山姥切問題に関して気をもみ続けたのは結局現状の混沌やマイナス要素の出口が見えないからであったからだが、おそらくそれらもすべて国広と長義自身が解決してくれるはずさ、その効果は我々自身が研究史を完全に理解することを目標に努力すれば実感できるよ、という話。

認識の理解の段階に関してはすでに仏教(東洋哲学)が紀元前から道を示してくれていますしね。
唯識思想の成立は4世紀頃だけど。

個人的にはこれで考察として最低限考えねばならないことは全て考え切った感があります。

幸せな道が見えないと延々悩み続けますが、研究史の問題は物語が進んで長義と国広自身が自分の言葉でそれが幸せな物語であることを広めれば自然と解決すると思います。

とうらぶは楽しいけどとうらぶのせいで永遠に二振りとも誤解されるんだ……みたいな恐れはたぶん持たなくて平気だろう。
最初からそんなこと考えない人には必要ない考察かもしれませんが、そのせいで胃が痛い同志に向けてここに一意見を置いておきます。

もちろんそれまでに一つでも建設的な資料や意見を積み上げるのは大事でしょうから、出したい人は出せばいいと思います。あくまで己自身の執着と理解した上で。それこそが、愛という名の苦を離れる唯一の道だから。

では、我々の渇愛と無明が廻す輪廻の円環に帰りましょう。

お読みいただきありがとうございました。