刀剣乱舞「第一節」の物語に関する考察

各本丸のはじまり(朔)の物語について

原作ゲームのシナリオとして想定されている物語を導き出すために派生で一番話が進んでいてそろそろ佳境を迎える舞台とミュージカルの構造比較から見ていきます。

もう言うまでもなく初見の人には無理だろう考察群。強いて言えば
斬って食って呪ったのでもう常に舞台の最悪を想定をしていく(蛇足)
「偽物」考――言葉遊び編――
ミュージカルの山姥切長義・山姥切国広に関する考察
あたりを読んでおくと今までの話の流れがなんとなくわかるかもしれません。

1.ミュージカル本丸の第一節の結論

Twitterでちょっと書いたやつのまとめ&加筆修正。

1-1 舞台とミュージカルの対応構造

舞台と歌劇の対応構造を見ておきたいと思います。
(初出は「天国までのシミュレート」でまとめたやつ)

01.「虚伝 燃ゆる本能寺」⇔「阿津賀志山異聞」
02.「義伝 暁の独眼竜」⇔「幕末天狼傳」
03.「ジョ伝 三つら星刀語り」⇔「三百年の子守唄」
04.「悲伝 結の目の不如帰」⇔「つはものどもがゆめのあと」
05.「慈伝 日日の葉よ散るらむ」⇔「結びの響き、始まりの音」

06.「維伝 朧の志士たち」⇔「葵咲本紀」
07.「天伝 大阪冬の陣 蒼空の兵」⇔「静かの海のパライソ」
08.「无伝 大阪夏の陣 夕紅の士」⇔「東京心覚」
09.「綺伝 いくさ世の徒花」⇔「江水散花雪」
10.「禺伝 矛盾源氏物語」⇔「江おんすていじ~新編里見八犬伝~」
(入れるならここで「夢語刀宴會」⇔「すえひろがり」)
11.「山姥切国広単独行―日本刀史―」⇔「花影ゆれる砥水」
12.「心伝 つけたり奇譚の走馬灯」⇔「陸奥一蓮」

舞台の外伝は戯曲本の構成から「ジョ伝」の中に突っ込む形にしておきます。

1-2 逆転していく世界の構造図

ミュージカルは、葵咲で永見貞愛が御手杵にお前が覚えてろ、俺もお前のこと覚えててやっからと言う辺りから始まって陸奥一蓮になると今度は大包平たち刀剣男士側が坂上田村麻呂の苦悩葛藤を覚えている側になってと舞台と同じように見事に話の構図が逆転していく。

ミュージカルの今の話の肝は結局、死んだり折れたりしたら存在は消えてしまうのか? という問いと、その答の決して消えはしないという辺りだよな雑にまとめると。

ミュージカルのテーマは要はずっとそれで、根底に折れた初期刀の存在があると。

死んでしまったら、歴史から消されてしまったら、名前が残らなかったら可哀想だという同情は、結局あの本丸の刀剣男士がそう思っているだけという話でもあって、ミュージカルは割と最初からそれを隠していない。

男士がどうしてそう思うのかの答が折れた初期刀の存在に関わっていて、死んだり折れたり、目の前からいなくなってしまった人の存在を「過去」として「歴史」としてどう受け止めるのか。

その答がとっくに示されている貞愛や将門の答そのものであり、ミュージカル本丸が折れた刀に関して出す答だと。で、三日月の探し物もこれだよなと。

1-3 「花影ゆれる砥水」という結論

花影のシナリオ、初見からあまりにもとうらぶとはどういう物語か? の回答として完璧すぎる、とうらぶの派生作品を見たいならもはやあれ一作だけ見れば大体満足できるだろうというレベルですごいなと思ってたんだけど理由なんとなく見当ついた。

あれ、構造的にミュージカル第一節の結論になる話だ多分。

ミュージカルだけじゃなく舞台の構造で考えると察しがつくんだけど、舞台は特命調査開始と国広の修行出発が同時でまだ国広が帰ってきてないわけで、かといって初期刀不在で慶応甲府の次の話つまり大侵寇相当の話をやるのも考え辛い。

となると、国広帰還を大侵寇のタイミングにぶつける構成だと思われる。

その構造で何が描けるかというと、舞台の第一節の結論がそのまま国広の修行の結論と合致するタイプの話になる。

だから多分舞台は単独行で国広がどういう結論を得ているかが重要。

で、ここまで派生ざっくり見回した感じ、原作ゲームと派生全部構造は同じだと思われるので、ミュージカルも単独行と同じ時期(話数)の公演である「花影ゆれる砥水」が最重要。

ミュージカル本丸の大侵寇相当話は、初期刀の歌仙が折れた話をして、それに対して初期刀を失った本丸の面々がどうすべきかを考える話になるだろうけど、結論としては一期の極修行だと言われる花影と同じところに着地すると予想される。

「きっと何をしても埋まることはない」
「それが私なのです」

仲間を庇って死んだ初期刀、その喪失を受け入れ、乗り越えること。
それがミュージカル本丸の物語かと。

それができて初めて、葵咲の永見貞愛や心覚の将門が、自分たちは不幸でもないし、死のうが歴史から消えようが存在はなくならないと主張した意味が理解できる。

存在する、とはどういうことか。

最初の阿津賀志山のここに繋がる円環だと思う。

回想其の8 『義経の話』

今剣「れきしをかえてはなぜいけないの?」
岩融「……悲しいことはあっても、その次に我らがいるからだ」

大切な人が死んでしまうとわかっていたら歴史を変えたくなるのは当然の思い。

それでも何故歴史を守らなければいけないのか。
存在とは何か。歴史の敗者とは何か。覚えているとはどういうことか。

全ての答えはそれまでの話の中にある。

これは最初に舞台の「慈伝」の考察出した時と同じ印象です。
とうらぶは「歴史」の話だからこそ、答は自分たちが通ってきた過去の中にちゃんとある。

ミュージカルも舞台もここまでの話で本丸側と人間側で最初の立場から立ち位置がどんどん逆転してきてるって話は上で書いたんですが、そうすると最後に到達するのは自分たちの歴史、つまり本丸の物語を否定される側になるということ。

要は原作ゲームから派生まで、「大侵寇」の本質はそれなのだと思います。

ミュージカル本丸は初期刀が折れてる。
でもそれを憐れまれ否定されたときに受け入れられるかと言えば、やはり否だろう。

その時ようやく気付く。
自分たちがしてきたことの意味も、将門や阿弖流為たちが三日月の差し伸べる手を拒絶した時の想いも。

それでようやく自分たちの物語、「初期刀の喪失」を受け入れる。

ミュージカル本丸が刀剣の顕現ごとに植えている桜の数はこの先もずっと、本丸にいる刀の数と一致することはない。でもそれでいい。

それが例え死んでも折れても、この世に存在したということだから、と。

あの本丸の結論は喪失を受け入れる方面だろうから、結論的には花影の一期と同じだろうなと思います。

テーマ的に一番落としどころを考えやすいのはミュージカルで、これできっちり結論出てるだろうと思うのと、舞台が国広の極修行をかなり強調していることを考えると、そもそも原作の第一節の肝が極修行なんだろうなって感じですね。

とりあえずミュージカルは作風考えると一番すっきり描かれそうだ。

2.舞台本丸の第一節の構図に関する推測

2-1 舞台とミュージカルの構造比較

すでに上で書いたように、舞台とミュージカルの構造を比較してどちらも同じ構造だと仮定した場合、舞台側もミュージカル側もその焦点は「極修行」であり、第一節の結論の骨格は舞台でストレートに山姥切国広の極修行を銘打って描かれた「山姥切国広単独行――日本刀史――」と、ミュージカル側で同じタイミングで公演をした「花影ゆれる砥水」だと思われる。

舞台とミュージカルの構造比較はもうちょっと別の形でやる予定だったんですが、その仮定を置いて試しにミュージカル側を考えたら割と綺麗に疑問点や今まで空白だった項目が埋まった感じになるので、やっぱこの方向で考察を突き進めたいなと。

舞台とミュージカルは両方を見るとそれぞれがいい感じにもう片方を補完してくれている。

とうらぶの原作から派生まで、話のターニングポイントを主眼に置いた構造の整理をすると以前「どうでもいい予想と感想」の記事で出したこれ。

1.第一節 前半1

舞台は「虚伝」「義伝」
ミュージカルは「阿津賀志山異聞」「幕末天狼傳」
花丸は1期

2.第一節 前半2

舞台は「ジョ伝」「悲伝」
ミュージカルは「三百年の子守唄」「つはものどもがゆめのあと」
花丸は2期

3.第一節 後半1 ここから原作ゲームでは特命調査開始、「聚楽第」「文久土佐」「天保江戸」

舞台は「慈伝」「維伝」「天伝」「无伝」「綺伝」
ミュージカルは「結びの響き、始まりの音」「葵咲本紀」「静かの海のパライソ」「東京心覚」「江水散花雪」
花丸は映画「雪の巻」「月の巻」「華の巻」

4.第一節 後半2 「慶長熊本」「慶応甲府」そして「対大侵寇防人作戦」終了で「第一節 朔」のテロップ

舞台は「禺伝」「夢語」「単独行」「心伝」、その次の回まで
ミュージカルは「江おんすいていじ」「すえひろがり」「花影ゆれる砥水」「陸奥一蓮」、次回作まで

自分でまとめておいて前半1とか後半2とかなんなんだよちゃんと通し番号振れ! ってなるけど俺だって振りたいわでも原作でその部分名前がついてないからまとめるとこうなるんだよ!(怒)の表です。

ちなみに書いといて何ですがこの考察を書いている時点で私はまだミュージカルの「すえひろがり」と舞台の「禺伝」「単独行」見てないぜ!(はよ見ろ)

単独行どうやって見ようかなと思ってましたが先日ついにDMMTVに配信来たのでまあ多分次回作までには見るでしょう。

それはさておき構造比較。

とうらぶは特命調査のシナリオが入る第一節後半戦からようやく話が比較的わかりやすくなる感じで、前半はむしろさっぱりぽんです。

ただ花丸のアニメが一期二期に分かれていてそれぞれで1~12月の円環になっている構造と、舞台とミュージカルは内容的に「綺伝」「江水散花雪」がこれもある程度区切りの話になっているように見えることを考えると、上のまとめになります。

特に「綺伝」で山姥切長義が「朧なる山姥切国広」を撃破しているというのは大きなポイントかと。

舞台における長義と国広の戦いはまず「慈伝」で表向き山姥切の号を巡る手合せが行われています。
「綺伝」ではその時の勝敗とは逆に、長義が国広(朧)に勝利している。

舞台やミュージカルは逆転の構図を多用しているので(原作もそうだと思われるが派生の方がその辺がはっきりわかるのでこういう書き方で行く)、物語の始まりと終わりは一部の構図が綺麗に逆転する構造となっている。

「慈伝」では当然、舞台の主人公格のキャラである山姥切国広と、その本歌である長義との戦いが重要。
そしてその戦いは結局、「悲伝」の三日月の件で色々と落ち込んでいる国広が極修行に歩み出すための一歩だったということを考えると、「義伝」で国広自身が小夜左文字の悩みに付き合って、小夜が自分で修行に歩み出せるように手伝い支えていた立場との逆転だと言えます。

上のまとめで見ると話数・内容的に舞台の一番最初の区切りは多分この「義伝」なんでしょうね。
だから小夜左文字が己と向き合って修行に歩み出すための手合わせ、三日月が想いを込めたどんぐりなどが「慈伝」でも大きなキーワードとなってくる。

ミュージカル側も二作目は新選組中心の「幕末天狼傳」で、「慈伝」にあたる「結びの響き、始まりの音」はやはり新選組の土方さんを中心としつつ、巴形の目から名前のない刀が名前のある存在に出会いたかったということ、みんな何かが欠けているという話をします。

舞台の綺伝に相当するミュージカルの「江水散花雪」ではこの出会いに関する感動をひっくり返して、史実で出会わなかったはずの吉田松陰と井伊直弼が出会ってよい関係を築いてしまったことがあの世界を放棄された世界という破滅に繋げます。

また、同時に「江水散花雪」では山姥切国広の言動から、ミュージカル本丸の初期刀がどうやら折れているらしきことが判明します。

・舞台のキーワード配置

「義伝」 極修行に続く手合せ、どんぐり
「慈伝」 極修行に続く手合せ、どんぐりに込めた帰りたいという想い、長義VS国広
「綺伝」 長義VS国広

・ミュージカルのキーワード配置

「幕末天狼傳」 新選組、蜂須賀が長曽祢の役割を代わる「なりかわり」要素
「結びの響き、始まりの音」 新選組、名前のない刀が土方歳三と共に死ぬ出会いの要素、みんな何かが欠けている欠落要素
「江水散花雪」 吉田松陰と井伊直弼の出会い、ミュージカル本丸初期刀が折れている欠落要素

あれですねいつもまとめながら思っているんですがミュージカルの方はテーマが茫洋として話が複雑に見えますが実は構造的にはシンプルで、舞台は感情描写が激しいので一見ストレートに見えて実は構造がめちゃくちゃ複雑なので舞台側の穴埋めが不完全になりますね……。

「綺伝」で着目すべき要素は多分ガラシャ様周りの忠興との双方向の愛憎関係と地蔵くんによる命を捨ててもガラシャ様を守りたいという想いの要素だと思いますがミュージカルみたいに確実に来ると断言できるほど埋まらねーな。

いや個人的にはずっと前からここだろうと思ってるけど。舞台の「心伝」はミュージカルの過去回想突入みたいな前振りがないから一度保留なんですよねこれ。

舞台は特命調査を差し引いても大体敵側が歴史を変えたい理由が「誰かのために」で共通するので、最重要ポイントはその辺りになると考えられます。

敵は敵で弥助のように誰かのために自分を犠牲にし、
舞台本丸は舞台本丸で誰かのために自分を犠牲にする。
その要素が中核です。

どちらにしろ、上でまとめた原作ゲームと照らし合わせた進捗でのポイントとなる話同士が連動・踏襲している構造ははっきり見られると思います。

ミュージカル側は次の話、第一節のまとめに入る対大侵寇相当の話(ミュージカル本丸の過去回想)においてやはり初期刀が折れているという欠落要素との向き合い方をやると考えられます。
ミュージカル側はさすがに「陸奥一蓮」の終わり方から考えてそれ以外の展開を予想するのはちょっとロック過ぎる。

舞台側はそういう導入はありませんが、「心伝」で特命調査が慶応甲府まで行ったので、次は順当に対大侵寇相当の話というのが一番ストレートな予想です。

「心伝」で舞台本丸は天保江戸をきちんと終えていることに言及されたので過去回想でそっちをやるという可能性の話ですが、舞台とミュージカルはシナリオの表面構造をずらしているので、ミュージカルで過去回想やるのに舞台も過去回想にあたる天保江戸をやる可能性は低いと見ます。

ミュージカルと舞台の構造の共通性は、同時に過去時系列をやるというような表面上のものよりも、一見全く別の話をしているように見えて実際には話のテーマを根本的に等しくしているという本質的な構造の同一性にあると考えます。

また、舞台とミュージカルで第一節後半戦から共通する重要要素として「名前」の問題があります。

舞台側は「慈伝」から山姥切長義が登場し、国広と長義の名を巡る戦いが主軸にあると言えます。だからこの章の結末をそれを中核として第一節をまとめあげると考えられます。

ミュージカル側は刀剣男士が名前について強調するようなところはないんですが、逆にミュージカル本丸はちょこちょこ偽名を使って全然別の名前を名乗っていることが多くあります。

特に南泉は「江水散花雪」で「猫丸」と呼ばれていますが、これは実際にそういう名前の刀があるので全然別の存在になっているとも言える、舞台とは別方向からの名前の重要性に関するアプローチです。

舞台とミュージカルの全体のざっくりとした構造比較に関しては大体こんなところです。

本当は序盤の比較考察はもっと丁寧にやるべきなんですがそろそろ戯曲本でしか読んでいない話の記憶が薄れ(オイ)。
二大演劇の対大侵寇相当話までの間にその辺ちょっと見返して整理しないとですね。

2-2 国広の極修行を第一節の結論とする構造

すでにミュージカルの項目で舞台の構造について考えられることについて触れました。

舞台は第一節後半(特命調査)開始の「慈伝」において、山姥切国広が極修行に旅立つ。

その気になれば綺伝の歌仙のようにその話内で行って帰ってきました! ということもできる極修行ですが、国広の奴は何故か本丸に帰ってきません。

かと言ってこのままずっと国広不在で慶応甲府の次の物語、原作ゲーム的に言うと対大侵寇を迎えるとはあまり考えにくいので、おそらく大侵寇と国広の帰還が重なる構造だと考えられます。

本丸襲撃の真っただ中に帰ってくる構成は、すでに「悲伝」で長谷部・不動が本丸襲撃の最中に帰ってきて審神者を救うという展開をやっております。ここの踏襲になると思われます。

そしてこの構造で一番重要なのは、そうなると舞台本丸が対大侵寇を超えた最後の結論、「第一節」の締めが国広の極修行からの帰還と成長に主眼が置かれるため、国広の答が舞台本丸の第一節の物語の答そのものになります。

舞台本丸の国広の極修行は「山姥切国広単独行――日本刀史――」。
これと同じ話数でミュージカル側は「花影ゆれる砥水」をやっており、そこでの一期一振の結論は原作ゲームの極修行後の結論と同じであるため、「花影ゆれる砥水」は一期の極修行だと思われます。

第一節の要は極修行。

ただしミュージカルの内容が一期の極修行ほぼそのままであるのに対し、舞台側は「単独行」という形で、本来の山姥切国広の極修行と大分内容を変えているはずです。

(まだ私「単独行」見ていませんが、原作ゲームと同じだったら舞台で一作使う必要ないので)

舞台とミュージカルの構造比較、国広の修行帰還が対大侵寇にぶつかるだろう構成から、舞台の第一節の結論はこの「単独行」で国広が得た結論に落ち着くと考えられます。

そうなると、一つ問題がありますよね。

山姥切国広本来の「原作ゲームの極修行」の物語を舞台はどこでやるのか?

単独行で本歌と写しの研究史の問題をやらなかったということは、舞台は原作ゲームで山姥切国広にとって最も重要であるその問題を無視し、放り投げてしまうのか?

――いや、違う。

これはまた「逆」だ。

「単独行」は「日本刀史」という副題からおそらく刀と人間との関わりについて着目する内容のはず。

しかし、そもそも原作ゲームの山姥切国広は、人間にあまり期待をしていない。

原作ゲームの国広が心を許す人間らしき存在はほぼ本丸の審神者のみであり、その審神者と同等、むしろそれ以上に大切な存在として設定されているのはおそらく本歌の長義のみ。

原作ゲームの国広は、自分の名と逸話を否定してでも「山姥切長義」の逸話を維持する答を極修行で選び、その結果自分の逸話に関する人間たちの反応を「人間の語る伝説というものは、そのくらい曖昧なものだ。写しがどうの、山姥斬りの伝説がどうので悩んでいたのが、馬鹿馬鹿しくなった」で済ませてしまう男士である。

この結論からは国広が到底、自分の逸話を語る人間たちに何かしらの深い期待や信頼を置いているようには考えられない。修行帰還後の国広が強調するのは最初から持っている「堀川国広の傑作」という要素のみである。それだけでいいなどと言う。

つまり、舞台の国広が原作ゲームの極修行と同じように人間に対して諦観を持って自分の物語を否定しないと言うならば、舞台の国広の極修行は原作ゲームと「逆」の結果と構造になると言えるのではないか?

原作ゲームの国広は、極修行でおもに本歌である長義と自分の関係・物語について向き合ってくる。

だがおそらく舞台の国広は「日本刀史」を見に行っている関係上、人間との物語を優先して、この段階で長義との名と逸話の関係については向き合わない。

では舞台では、原作ゲームと逆の結論と構造にした本来の極修行をどこでやるのか?
答は一つしか考えられないだろう。

その物語は 本 丸 で や る ん だ ろ。

過去の歴史の中の山姥切長義の逸話と向き合うのではなく、本丸に顕現した山姥切長義と直接、名と逸話を巡る物語を繰り広げるんだろう。

「慈伝」で聚楽第に行かなかった代わりに、本丸で長義に手合せを申し込まれその力を見せなければならなかったように。

あの手合せはやはり本来原作ゲームで本歌と写しが繰り広げるはずだった聚楽第の回想の代替行為。
それなら極修行も同じではないか?
国広の本当の意味での極修行は、本丸の長義との間でこそ行われる。

「慈伝」の繰り返し、踏襲、けれどその反転。
「綺伝」の踏襲、反転、逆転。

――写しの俺が、本科の存在感を食ってしまったようなものだ。

本丸で長義と国広が殺し合う。
国広が長義を物語として食い殺す(斬る)。

「綺伝」で国広の「影」である朧を撃破したのは長義。けれど今度はおそらくその立場が逆転する。
「慈伝」と同じように長義が負ける。そして今度は物語として統合されるための最後のトドメを止めることはおそらく誰にもできない。

……正史を取り戻すためには、事実誤認の逸話は否定されねばならないから。

原作ゲームの山姥切国広が極修行でどうしても避けたかった本歌との全面対決。
例え本当は山姥を斬った逸話を持つのは自分だと知っても、あえて無視して選ばなかった答。

原作ゲームの「逆」を行く舞台の対大侵寇相当の話として、山姥切国広の修行の真の完成として、極修行で見た「正史の肯定」を完遂するために。

舞台の国広は、長義を食い殺さねばならない。

2-3 山姥切国広と「怒り」の感情

(山姥切国広 修行手紙)

一通目

主へ

……強くなりたいと思った。
修行の理由なんてのはそれだけで十分だろう。
誰よりも強くなれば、俺は山姥切の写しとしての評価じゃなく、
俺としての評価で独り立ちできる。

だというのに。
人々が話す内容が、俺の記憶と違うのは、どういうことだ?

二通目

主へ

……すまんな。この間は動転して、要領を得ない手紙だった。
正直なところ、俺もまだ混乱しているんだ。
俺は、山姥を斬った伝説を持つ刀、山姥切の写しであって、
山姥を斬ったのは俺じゃないと記憶している。
だが、俺が会った人々は、俺が山姥を斬ったから、
そのもとになった長義の刀が山姥切と呼ばれるようになったという。
これでは、話が全く逆だ。
写しの俺が、本科の存在感を食ってしまったようなものだ。
どう、受け止めていいかわからない。

三通目

主へ

前の手紙のあと、長い年月、多くの人々の話を聞いて、わかったことがある。
俺が山姥を斬ったという伝説、本科が山姥を斬ったという伝説、
そのどちらも存在しているんだ。
案外、どちらも山姥を斬ったりなんかしていないのかもな。ははは。
人間の語る伝説というものは、そのくらい曖昧なものだ。
写しがどうの、山姥斬りの伝説がどうので悩んでいたのが、馬鹿馬鹿しくなった。
俺は堀川国広が打った傑作で、今はあんたに見出されてここにいる。
本当に大事なことなんて、それくらいなんだな。

迷いは晴れた。俺は本丸に帰る。

舞台では「慈伝」や「夢語」を見る限り、国広には長義に対する「怒り」の感情があるようである。

これはおそらく現時点で原作ゲームの国広には「ない」。

堂々と偽物呼ばわりをされているのだからいくらでもあって良さそうなものだが、実は原作においてそう言えるシーンは意外なことにないのである。

そして同じように他の派生を見回した時にあるかと問われると、花丸は明確になく、ミュージカルもおそらくない。

花丸国広は長義が「羨ましい」とは言うが、そうした羨望以外の「怒り」は別段見せない。むしろ畑当番の際に気遣うなど、長義に対してはひたすら親切にしているとさえ言ってもいい。

ミュージカルもまだ二振りの接触はないので断定までは行かないが、長義の内面を気にする台詞が一言あるのでおそらく違う。

長義に対して「怒り」を抱いている山姥切国広を描いているのは私が知っている範囲だと舞台だけのようである。

(確か映画もこの本歌と写しが出ていたような気がするがそっちは未見)

「写しがどうとか考えるのはもうやめようと思った 俺は主の刀だ それだけで十分だったんだ だがあいつは俺を偽物と呼んだ」

「あいつを前にしたとき、あいつに偽物と呼ばれたとき、俺は昔の自分を思い出してしまった。俺が写しであることにまだ囚われているせいなのかもしれない。そうでなければ心が揺れるはずない」

「慈伝」の上の台詞の前半「だがあいつは俺を偽物と呼んだ」のあたりや、手合せ最後の南泉が止めに入る瞬間の様子を見る限り、舞台の国広は若干長義の態度に苛立ち・怒りに近いものを持っているように感じる。

ついでに「夢語」でもいきなり長義に対して険しく詰め寄る(しかしこの時の姿は三日月)シーンがあるのであれも怒りだろう。

舞台の国広だけが長義に対してわずかに見せる、この「怒り」の正体は何なのか?

ずっと疑問だったのだが、これ、舞台の構造が原作ゲームと逆、「国広と人間との関係」「国広と長義との関係」のトレードだと言うのが一番納得が行くのではないか?

舞台の国広が向ける怒りの矛先は本来は長義ではなく、原作ゲームの極修行で国広の逸話を一度見失い、山姥切の号と逸話の問題を曖昧にし、本歌と写しの間に食い合いの関係を作ってしまった、

――人間に対する怒り。

これが、本来原作ゲームにもないが、状況から言えばあってもおかしくない、山姥切国広が持つ「怒り」のメタファーなのではないか?

「ない」のに「ある」とどうして言えるのかの答が、要は舞台における分裂・分身ではないか。

三日月は「鵺」を、国広は「影」である「朧なる山姥切国広」を生み出した。

これらの「影」は本体が歴史を守る使命に徹するためには本来捨てるべき、持っていてはいけない感情を抱えているように見える。

刀剣男士は、歴史を守るために不要な感情を捨て、それが敵として独立して動き出す。

このギミックが別に舞台専用というわけではなく原作ゲームでも同じこと、原作ゲームに登場する時間遡行軍の正体だと言うのなら、極修行で刀剣男士自身が己の感情を捨てることによって己の半身を敵として生み出してしまっていても別段おかしくはない。

むしろそう考えた方が、国広の極修行手紙の解釈に納得がいくのではないか?

逸話を忘れられ、焼失してしないのに焼失したことにされた。
ようやく再発見されたら、人に自分の号と逸話を本歌のものにされてしまった。
それを否定して自分が本物であると主張するためには、本歌を殺すしかない。

この状況に傷つかず、誰も恨まず、その結果をただ受け入れることができるのだろうか?

怒り、悲しむのが普通ではないだろうか。

それを抑え込み、捨てることができたとして、ではその捨ててしまった感情はどこへ行くのだろうか。

舞台の「影」なる存在たちこそが、その答ではないのか?

2-4 始まりの忿怒

舞台の展開に関しては「慈伝」を見た時点で、この話はそれまでの物語の結論を全部詰め込んで踏襲と反転を繰り返す入れ子式構造を形成しているので、もしかしてその中の要素だけでやろうと思えば全部予想できるのでは? と仮定して先を推測してみました。

まぁ、そんな予想を本当にぴたりと当てられるのは末満氏の脚本を何もかも理解できるという一握りの人だけでしょうが、原作ゲームですでに一番重要な情報に触れているはずのプレイヤーなら細かいことはよくわからなくても、一番重要な話の中核、つまり「とうらぶとはどういう話か?」というただ一点に着目した結論くらいなら出せるのではないかと。

で、「慈伝」時点で次の一区切りとなる部分について予想した結論が「長義が死んで国広発狂」なんですが……。

(改めて見ても救いがなさすぎるんだけどなんだこの予想)

「慈伝」だけだとやはり先を予想するのは難しい。じゃあ続編の情報も入れようか、と「綺伝」まで見た情報でまとめ直したところ「長義を殺した国広が発狂」になったわけですが……。

(悪化してるじゃねーか)

舞台の配置だとこうなるはずだよな。原作ゲームと違って、国広が結果的にとはいえ「偽物」になることを選んでしまったわけだから(「だから。俺のことは好きに呼べばいい。例え偽物と呼ばれようと、俺は俺だ」)。

徳美の論文通り、正しくは「山姥切長義の号と逸話は事実誤認」、それを否定したら創作の方に飲み込まれてしまうわけで、それを防ぐなら史実を否定して肥大化した創作を破壊するしかない。

まさしく特命調査そのもの。舞台で言うなら「心伝」の「つけたり」によって変質した放棄された世界の中核となる存在を斬るしかない。

原作ゲームと異なる結果になる。あれもこれも逆になる。今までずっとそう言ってきたわけですが、あれもこれも逆になるというよりは、舞台の脚本は究極的には原作ゲームと逆なのは一か所だけなんでしょう。

山姥切国広の物語に関する、「刀との関係」と「人間との関係」が、「逆」。

原作ゲームで極修行に出た刀剣男士たちが、主である我々審神者に決して見せない激情を描く。
そのために「人」と「刀」の位置を逆にしたものが舞台のシナリオでしょう。

舞台の第一節の話そのものが、刀剣男士の「極修行」とその結果の物語。
舞台の第一節の話そのものが、山姥切国広の「特命調査・聚楽第」の本質そのもの。

だから舞台国広が舞台長義に向ける感情というのは、本来は己を否定する「人間」へ向ける感情の表出。

上で引用した原作ゲームの国広の修行手紙、最後の三通目の結論を出すために、原作ゲームで国広が自身の抱える物語とどう向き合ったのかを、舞台国広の舞台長義への感情を通して見せる、と。

あの三通目の手紙、国広は自分の逸話を語る人間に対して「写しがどうの、山姥斬りの伝説がどうので悩んでいたのが、馬鹿馬鹿しくなった。」と言う。

この台詞からは自分の逸話に対する愛情は見受けられない。

けれど……この結論すらも、本当はもっと大きな感情の荒波を、己の歴史に対する怒りと嫌悪、絶望と慟哭をある程度処理して、やっとこのぐらいの本音なら主にだけは明かしてもいいと心を落ち着けてようやく書き綴った気持ちなのではないか?

写しだから所詮本歌の影だと息苦しい生を押し付けておきながら、それは間違いだったよお前は本歌を殺して本物になれと、そういう言動をする相手に対して全面的に肯定する気になれるか? 守護する気になれるか? と言えばなれない方が普通だろう。当たり前だろう。

でもその無責任な相手こそが、主である審神者と同じ人間である。

その感情をどう処理するか。

――分けたのだろう。

国広の中でも、我々人間を「大切な今の主(審神者)」と「国広の逸話などどうでもよいと蔑ろにした人間」に分けた。

全ての人間、全ての歴史を守るべき対象にしたのではなく、守りたいものとそうでないもので分けた。

我々は極修行を刀剣男士側の反転や分裂で考えがちだけど、それは刀剣男士ばかりの話ではない。

人間だって、反転も分裂もするんだ。そういうことなのではないか。
だから極修行に行った刀は、主への愛が重くなる。
それは主が特別であるというより、もしかして特別でない相手を作った結果の相対的な持ち上げではないのか?

我々人間は勝手な認識で刀剣男士の存在を分けてしまう。
そして刀剣男士の方でも、我々人間を分裂させてしまう。

一方で、刀剣男士が任務のために、そういう自分を否定する人々も守らなければいけないものであると考えるためには別の部分を動かす必要がある。

「俺たちが何によって形作られたのか。それを知ることで強くもなれる。けれど、もっと大切なことがあるのだと思う……」(回想57)

名の問題を受け入れるためには、それが最も大切だと思っていた今までの考えを捨てる。捨てないと、新たな概念を受け入れられない。

そういう感情的な処理をして来るまで、修行先で見てきた、自分を否定する存在を受け入れるために別の角度の視点を得て来るまでが原作ゲームの極修行ではないのか。

それを、国広にとっての人と刀の関係を逆転させた舞台のシナリオに落とし込んだ場合、一体どういう筋書きになり、どういう結論が得られるか。

国広の逸話を与え、逸話を否定した人間の役目を担うのが長義。
本歌として山姥切国広という刀の大元となる存在でありながら、一見して名前の件で国広を否定する。

山姥切長義という存在は、国広視点では何を考えているのか読めない、ただただ自分を否定するだけの存在だが、我々プレイヤーという第三者視点では明らかに国広を大事に思っている存在でもある。

この、我々人間と国広の立場による視点の違いが最も重要ではないのか。

国広の視点からすると、話を整理しても整理しても本歌である長義の本心は本当に見えないのだ。

我々プレイヤーが長義の内面をある程度推測できるのは第三者的に多角的な情報を整理できるからであって、作品の中の当事者である国広には長義の本心を探る手掛かりがない。

そして国広は、その心情のまま、心の準備もなしにいきなり長義と殺し合えという状況に放り込まれる。
舞台本丸など特に、「慈伝」で手合せしたほんの一瞬しか接触がないくらいの状態で。

……これまで考察してきた派生作品の構造的に、ターニングポイントとなる話は、一つ前のターニングポイントを一番強く踏襲する作りになっていると言える。

「慈伝」は「義伝」の極修行に踏み出す刀を見送る要素が一番強く、「綺伝」も「慈伝」の長義VS国広を反転踏襲するが故に、朧国広を斬るのは長義になる。

またミュージカルの方でも「結びの響き、始まりの音」は「幕末天狼傳」と同じく新選組の刀とその主との話を踏襲して出会いの愛おしさについて触れ、一方で「江水散花雪」はそれが逆になり、出会ったことにより放棄された世界が生まれる破滅を描いて、ミュージカル本丸の折れた初期刀という欠落の話を始める。

ここからすると、舞台の対大侵寇編とその決着編となるエピローグは、一つ前のターニングポイントである「綺伝」を一番強く反映し、極修行をベースにした物語構造上、「単独行」の結論に落ち着くと考えられる。

「俺はお前が憎くて憎くてたまらん どうしてこんなに憎い」
「俺は お前が愛おしくて愛おしくてたまらんからじゃ 愛おしいから憎い 憎いから愛おしい」

「綺伝」の細川夫妻の会話は初見でも直感的にここが一番重要だなと思いましたが、後から構造を整理するとむしろその直感が補強されていく恐怖。

忠興はガラシャが裏切ったと言う。でもその一番の理由は信仰だと。浮気と言う概念には触れても本当はそんなこと思っていない。ただガラシャ様の一番大事なものは信仰だと思っていて、それが憎いという。

舞台の国広の「怒り」はやはりこの忠興の感情に収束するんだろう。

国広を「偽物」と呼ぶ長義は、舞台国広が舞台本丸で築き上げた近侍としての物語を否定するものだと国広は考えている。

お前が一番大事にしているものは「名」であって、俺のことなんてどうでもいいんだ!

「慈伝」にしろ「夢語」にしろ、舞台国広の長義に対して垣間見せる「怒り」はこれだよなと。

2-5 始まりの慟哭

話の筋立てまで予想するなら、「綺伝」は忠興がガラシャ様を殺そうとして右近に止められて死んだところから、忠興の刀二振り、つまり歌仙兼定と地蔵行平が正反対の立ち回りをする構造に繋がる(より正確に言うと地蔵くんはその前から動いてるが)というところまで考えないといけないんですが、今回はその辺は割愛で。

自分で言ってて対大侵寇編とエピローグが「綺伝」反転踏襲で辿り着くのが「単独行」ってことは、もしかして対大侵寇そのものの素体は「禺伝」か? という可能性が出てきたのでちょっと割愛。やっぱ今度「禺伝」見てからこの辺まで考察また練り直さないとね。

わかりやすいところから行こう。わかりやすいところ、それはつまりミュージカルである。
舞台は構造が難しすぎるが、ミュージカルはそんなトリッキーなことしないで普通に上で考察した「欠落を受け入れる」結論で、それを以って「阿津賀志山異聞」の今剣・岩融の「れきしをかえてはなぜいけないの?」「……悲しいことはあっても、その次に我らがいるからだ」に繋げる円環だと考えられる。

同じように考えると、舞台ではどうなるか。

「俺はダメ刀だ。俺は、愛された分を主に返すことができなかった」

……「虚伝」は織田信長を巡る不動行光中心の物語だから、不動くんのこの結論に還ることになるな。

最愛の人である信長を救う願いを諦め、信長の死を、他者の信長像を、受け入れ、歴史を守る刀剣男士として成長する。

己と意志を同じくする花・蘭丸の死を見届け、元は蘭丸と同じく信長の臣下であったはずの般若(智慧)・光秀が、信長を裏切り殺しに行くのを受け入れる。鬼女はやはり光だな……。

舞台の予想についてはたしか最初に「慈伝」を見たときにばーっとメタファーの図面を仮引きして考えたものがあって、その時に「慈伝」の逆だから今度は国広だけが長義を受け入れられないんじゃないかとか、長義のすでにいない本丸で、死んだあとにその本心を知る展開じゃないかとかまあ色々言いましたが。

これ長義くん死んで国広発狂するやつですよね、に関しては「綺伝」ベースの「慈伝」踏襲で考えるとまあイメージができてきましたね。

国広の感情の整理には、少なくとも「悲伝」のあとの「慈伝」のように、舞台1話分の内容が必要。

あの時はここでケリをつけるかつけないかわからなかったのでどういうオチになるか微妙に予想つかなかったんですが、原作やミュージカルはじめとするほかの派生と連動している展開でかつ対大侵寇相当の話ですから、エピローグである程度きっちりケリをつけると思います。

……だとすると、あれだ。うん、国広はやっぱり長義くんいなくなってからその本心を知らされる感じ。

しかも今回は「慈伝」の時と状況が違うから、いなくなった三日月の本心を知りたがった「慈伝」とは逆に長義の本心なんて知りたくない! どうせあいつにとって大事なのは名前だけなんだ、俺のことなんかどうでもいいんだ! ってどんなに耳を塞いでも横っ面ひっぱたかれて無理矢理聞かせられるよねって。

舞台本丸で一番長義と付き合いが浅いのは国広。長義が来るのと入れ違いで極修行に出たから、本歌と写しであるにも関わらず、国広が一番長義のことを知らない。

一方で舞台の長義くんは監査官であることを隠してても本丸中にバレてる(「心伝」の兼元にすらバレてる)ポンコツっぷりなので、おそらく本丸のみんなはある程度、山姥切長義を理解している。

だから「慈伝」で色々な刀が長義に国広のことを教えようとしたのと同じように、今度は長義のことを国広に伝えようとすると考えられる。あるいは本丸の刀はそれを伝えないかもしれないが、代わりにそれをするものが現れる。

でもまぁ、国広の立場からは正直本気で知りたくないんだよね、長義くんの内面なんて。

国広が長義を食い殺すのは「正史」。
変えられないし、変えてはいけない過去。

どうせ殺し合うことを避けられない間柄なのだから、相手を憎んでいる方が、心情的には楽じゃないか。

あいつが悪くて、俺は憎まれてる、だから殺すんだ、殺したんだ、俺だってあいつを憎んでる! と自分を誤魔化す方がラク。

そしてそんな、自分の感情と言う名の真実から目を背けた逃避を許してくれるわけはないと。

国広が知りたくない、長義の本心はすでに描かれている。

――山姥切国広 お前が帰るまであの本丸は俺が守ってやる。

本丸は長義くんにとっても現在でのホームであろうが、「綺伝」でわざわざ国広の名前を口に出したっていうのは、結局それが答なんよね。

国広が本丸の近侍としての物語を大事にしているから、長義はそれを守る。
一見、国広の本丸での立場を、それまでの物語を否定しているようにも見える長義は、けれど本当は誰よりも、国広の大事にしているものを、大事にしている。

だから国広も、「虚伝」の不動くんの立場に還らなければならない。

「俺はダメ刀だ。俺は、愛された分を主に返すことができなかった」

「虚伝」と順番が逆で、やるための決意じゃなく全部終わったあとの感情の整理として辿り着くのがここだと思われる。

行動や結果に合わせて自分の心に嘘をつくのではなく、行動や結果が自分の望みを裏切っていく残酷な現実を受け入れて歴史を守る。

不動くんの場合は、信長を愛する自分の気持ちは知っていたから光秀の信長像を受け入れるための諦めだった。

国広の場合は、長義が事実誤認からなる創作の逸話という現実を先に押し付けられて長義と敵対しなければいけない、それでも本当は写しとして本歌を愛している自分の気持ちを受け入れるところがゴールではないか?

立場が綺麗に逆転し物語は円環を一周する。
あの日、あまりにも自虐的でクセの強い相手だと思っていた不動行光を困惑しながら迎えていた山姥切国広自身が、その不動行光の立場になる。

魔王の刀であり、ホトトギスを殺す刀。
三日月の半身たる「時鳥(鵺)」を斬って、相手もまた自分と同じだと悟る刀。

その慟哭に還らねばならない。

……舞台の第一節のテーマと構造にして予想を大部分に含む考察は今のところこんな感じです。

山姥切問題に関してはいろんな人がこの問題について考えて二次創作なんかでも100点満点中120点! みたいなものは色々書かれてると思うんですけどね、多分それは所詮二次創作という模作であって、末満氏は例え原作でなくてもこれが公式だってことで100億点ぐらいの作品で我々を横殴りにしていくと思うのですよ。これが本歌の力だ!

我々にできるのは多分胃薬とハンカチの準備だけ!

舞台もミュージカルもごくざっくりとまとめると相手の気持ちを知るには相手と本当に同じ立場にならなければならない、みたいな感じですけどね。

だから国広は三日月になるし、我々は歴史を守っているつもりで、いつの間にか歴史を改変する歴史修正主義者と時間遡行軍になっていると。

多分原作の極修行から、手紙内容は一見ごくあっさりしているように見えるけれど、実際はその結論にたどり着くまで相当の葛藤があるんでしょう。派生作品それぞれはある程度そのタイプ別に分かれていると思います。

舞台の第一節の筋道は山姥切国広の極修行と同じ、だからほぼそのまま山姥切国広を主人公にして描く。

ミュージカルは特定の刀剣を主人公にはしないものの、理屈自体は一期一振が近いからこそ「花影ゆれる砥水」だと思われます。

同じように花丸も安定辺りかなと。

現時点で物語の構造・理屈から考えると大体この辺りの結論になりました。

ただ…………長義推しとしては正直、「慈伝」見てからずっと、これ長義くん死ぬやつですよね。は??? みたいな感じだったので、予想しておいてなんですがハズレていいわこれ。と思いながらずっと書いています。

3.原作ゲームの「第一節 朔」の物語に関する考察

3-1 原作ゲームと派生作品展開の時期的連動

原作ゲームで誰の目にもわかる大きな転機は二つ。

1.特命調査開始
2.対大侵寇防人作戦

さらに舞台ではその特命調査開始一つ前の話である「悲伝」が結いの目としての三日月退場回であり、ここでの出来事が次の「慈伝」(特命調査開始)以後の展開の基盤となっています。

ミュージカルでは最初の「阿津賀志山異聞」と四作目の「つはものどもがゆめのあと」が源義経・源氏刀関係の話として対応する構造になっています。

ここだけ見ても時期的に特命調査開始前と後で第一節は二つに分けることができますが、更に花丸のアニメが二期構成で、それぞれ1月(睦月)から師走(12月)までの物語であること、さらにその続きである映画版では天保江戸こそなかったものの水心子正秀・源清麿の二振りが登場していたことを考えると、花丸は時期的には天保江戸まで終わっていると考えていいと思われます。

また、特命調査以後の舞台では維伝で登場した「山姥切国広の影(朧なる山姥切国広)」を「綺伝」で長義が撃破しているという重要ポイントがあり、「綺伝」と同じ話数と考えられるミュージカルの「江水散花雪」もここから放棄された世界とミュージカル本丸の折れた初期刀の話に内容がシフトする転機の一つです。

これらの内容から、上でやった構造と話数の対応関係を導き出したわけですが、これらにはもう一つ時期の連動がみられます。

ミュージカルで「江水散花雪」、舞台で「綺伝」をやっていた時期は、原作ゲームの「対大侵寇防人作戦」と同時期のようです。

それぞれ期間のずれは多少ありますが、次の作品公開までを1スパンと考えるならこの対応になるようです。

となると、原作ゲームと派生作品のそれぞれ、特に演劇作品二つは話のターニングポイントの時期まで含めて全て連動していると考えられます。恐ろしいことに。

ターニングポイントが一緒というより全ての話で同じ内容を描いている、同じメタファーを中心に組み立てている、のかもしれませんが、今のところそこまでがっつり証明するのは難しいですね。

更に今年・来年で考えるとミュージカルは最新作「陸奥一蓮」のラストが回想の導入だったので次回作は折れた初期刀の話というあの本丸の最大のターニングポイントにあたる話が繰り広げられると考えられ、舞台はまだ「心伝」が公演中ですので前振りゼロですが、話の進捗から言って慶応甲府が終了したので、次は順当に対大侵寇に相当する話が来ると考えられます。

舞台・ミュージカルの次回作はおそらく年末かあるいは年明けて来年になると考えられます。

舞台の方はとりあえず10~11月に末満氏が書いてる別の脚本の舞台がある(TRUMPがやるってネットニュースに出てました)らしいので早くともそれ以降になりますよね。年明けかなあ? 演劇よくわからないのでこの辺のスパンはわかりませんが。

舞台・ミュージカルの次回作が年末以降・来年頭になると、原作ゲームの10周年(来年1月)という特別な時期に重なります。

原作ゲームでは現在特命調査が実装順とは別の順番で復刻中ですが、それもあと二つなので今年中には終わる可能性が高く、今年の頭には異去も実装され、一方2月には節分イベがなかったことに対して「今年は鬼が出なかった」と言う謎のフラグが立っている状態です。

ここまでくると、舞台とミュージカルで対大侵寇相当の重要話をするタイミングと、原作ゲームで10周年に合わせてくる何かの要素と重なる可能性が高いと考えられます。

私は原作ゲームのプレイヤーとしては2021年から、派生作品を見始めたのは2023年からのにわかなのでそれ以前の時期の情報はまだほとんど整理できていないのですが、ここまで大きなポイントが重なっている、重なりそう、となっているなら他にも原作ゲームと派生作品は足並みを揃えて展開しているとみていいと思います。

3-2 刀剣男士の実装順は物語そのもの

これまでの考察で見てきた感じ、原作ゲームの刀剣男士の実装順はこれ自体が一つの物語として展開していると考えていいと思います。

全てに意味はあるのでしょうが、全部見るのは大変なので、というか正直私がよくわかんねーわなのでわかりやすいところから行きたいのですが、「影」あたりが多分一番重要度高いと思います。

舞台では「慈伝」で山姥切国広が修行に出た後、次の「維伝」から国広の姿をした敵が登場します。

「綺伝」で「朧なる山姥切国広」「山姥切国広の影」と呼ばれたこの敵は当然国広に関わる存在でしょうから、その目的や発生理由は重要です。

そして、原作ゲームにはそれ以外にも「影」と呼ばれる敵がいます。

特命調査・天保江戸の「窪田清音」や「鳥居耀蔵」が「影」と呼ばれています。

ミュージカルの方でも、「花影ゆれる砥水」にはっきりと「カゲ」と呼ばれる影打が登場したりします。ただミュージカルはそれ以前からも何度も「光と影」のようなテーマは取り扱っています。

「刀剣乱舞」というジャンル全体で使われる一つの言葉は原作からそれぞれの派生作品まで、同じ意味で使われているか? 違う意味で使われているか? という根本的な問いに対し、考察の結論としては「同じ意味で使われている」と判断します。

原作ゲームの一番わかりやすい転機は特命調査の開始。

他の点を考慮するとそれ以前にも恐らく比較的大きめのターニングポイントがあったと思われますが、私がその頃まだゲームやっていなかったのでどこだかわからん(オイ)。

今から当時の情報を調べて一番はっきりわかる転機はやはり特命調査ですね。ここからとうらぶに特命調査という形で比較的わかりやすいシナリオが入ってくる。

その特命調査開始と共に実装された刀は、当然のことながら聚楽第と共に来た山姥切長義です。

じゃあその前は? というと、琉球三宝の一振り、千代金丸です。

その千代ちゃんに「影」がいます。

それは弟の治金丸。回想93、94で自らを千代金丸の「影」と称します。

ちがちゃんは舞台のように敵と行動をしているわけではありませんが、そもそも舞台にしろミュージカルにしろ「影」と言う存在は最初から遡行軍として現れるというとちょっと語弊のある存在であり、何らかの理由で発生して、本体に深く関連し、ある程度本体の性質と連動して行動しているようです。

つまり、原作ゲームの第一節の目に見える転機の周辺で起きた出来事とは、千代金丸の実装と、後の影こと治金丸の存在の示唆に、続けて特命調査が始まり、山姥切長義と山姥切国広、本歌と写しがその名をかけて存在を食い合うというストーリーの暗示です。

「影」というキーワードを頼りに要素を拾っていくと、原作ゲームから読み取れることと舞台のシナリオから読み取れる大筋は酷似しています。

また、「水」「江」辺りの周辺をみると、こちらも特命調査・天保江戸で実装される水心子正秀を中心に「友」という存在との関係性に着目したストーリーが展開されています。

ミュージカルは、表立った歴史改変には当たらないものの、史実で死ぬはずの人物を秘かに逃がすというはっきりした歴史改竄行動を取る三日月が、相手に「友」と名乗っています。

「水」と「友」というメタファーに強い関連があることが、原作ゲームとミュージカルで同様に説明されていると見ていいと思います。

そんでもって今年、4月にまさかの新刀剣男士二振り実装という状況があり、そのうちの富田江は「光」と「影」や「闇」、「天下」「夢」、そして「化け物」などに関する回想を同じ江の刀たちの間で展開しています(回想145~148)。

また、大慶直胤は水心子正秀に対し、源清麿と「友」の価値観について対立しています。

水心子正秀という一振りの刀剣男士について、同じように「友」を名乗りながらも、清麿と大慶はそれぞれとるスタンスが違う、水心子のアイデンティティのうち、支持する面が違うことが明らかになっています。

清麿と大慶に関しては回想155で最終的に穏やかな関係に落ち着きますが、一振りの男士の二面性とそのどちらの側面を支持するか、という問題はある意味、山姥切の名を肯定・否定する長義と国広の問題とも同列の話です。

と、いうわけで。

最近原作ゲームに実装された刀剣男士の回想は、舞台やミュージカルの展開にはっきり連動していると考えていいと思います。

原作ゲームだけで考えると難しく、舞台だけ、ミュージカルだけ見てもわかりにくいですが、原作ゲームやりながら両方の派生演劇作品を見ると大体同じテーマでやっていると見ることができます。

「光」や「影」、「夢」や「天下」、「花」に「歌」、「水」と「友」などどちらかと言えばメタファー(比喩)にあたる言葉の扱いが原作と派生間で共通し、その並びによって展開される物語の理屈自体は同じものと考えられます。

原作ゲームの刀剣男士の実装順は、これ自体がその名や性質にまつわるメタファーを繋いだ一つの物語であり、そこにその派生独自の要素を肉付けしたものが舞台やミュージカルの話であると思われます。

これに関しては今までの考察(偽物考とか)によるメタファー、言葉遊び関連の理解と同時進行しないと意味なさそうですが、とりあえず原作ゲームの第一節の理解としてまず、「刀剣男士の実装順は一つの物語である」ことを言語化して明確な結論として頭に入れておいた方がいいと思われます。

3-3 「第一節 朔」の物語は「極修行」を中核とする構造か

原作ゲームの「第一節 朔」の物語は「極修行」を中核とする構造だと考えられます。

……というか、ぶっちゃけると原作ゲームだけで考えるならむしろそれくらいしか情報がありません(きっぱり)。

だから原作ゲームのシナリオなきシナリオの話を考察するなら、もともと極修行の話をするしかなかったんですが。

今回の考察、ミュージカルと舞台という二つの派生演劇作品も中核は極修行の内容、舞台に至っては国広の極修行をそのまま「第一節」全体の結論として落とし込む構造だと結論が出たので、こう言えます。

「刀剣乱舞」の「第一節」は「極修行」の話。

そのまんまの舞台、一見そうは見えないミュージカルも全部、共通してそういうことになると考えられます。

花丸は9周年配信でいったん完結と言われているのでそもそも続きが作られるかどうかはわかりませんが、あるとしたらこちらも同じだと考えられます。
花丸は一応表立って描かないだけで聚楽第にも国広をきちんと出陣させている程度には特命調査を真面目に攻略はしているはずなので。

派生作品、特に舞台で明確になっているのは、三日月の「鵺」や国広の「朧」のように、刀剣男士自身も制御できない理由で歴史改変を行う存在を生み出してしまうことや、三日月の結いの目のように世界を歪ませる根源になってしまうことがあるということです。

ギミック自体は各脚本家に任せている可能性はありますが、その奥の原理は原作ゲームから存在しているものだと考えられます。

その原理というのも、舞台の考察で国広の心理から、刀剣男士側が認識整理のために我々主(審神者)とそうでない人間を「分けた」のだろうと結論したように、物凄い難しい何かの法則というよりは、むしろ我々自身もごく日常的に行っている自我としてのラベリングによる対象への愛着確認だと思われます。

Aというものが大切だから、Bはそうではない。
だからAというものに「〇〇」という名をつける。

単にそれだけの話でしょう。そしてそれが全て。

この考え方自体はおそらく誰もが知ることが出来、誰もが感覚的に実感できるレベルの話ですが、あえて難しいことを言うならとうらぶがモデルにしているのはおそらく仏教(東洋哲学)の「空(くう)の原理」だと思われます。

※難しい(まず俺がわからない)。

特に舞台の話に仏教的な考え方っぽいものが散見されるので一応仏教方面から調べ上げてはいますがまだ一貫して人に綺麗に語れる自信がないので今回は割愛で。

理屈としては誰もが納得できるものでも、派生の作者がみんな適当にやったら話のテーマがばらけてしまいますが、脚本の奥の本当の教本として仏教的思想を配置することで話の内容をどの作品でもきちんと一貫性のあるものにしていると考えられます。

これは、良い意味では我々が例えば花丸のEDとして「離れ灯篭、道すがら」を出されたときに原作尊重していると感じられる理由でもあり、悪い意味だと「どの話も結局同じこと言ってね?」とマンネリ感を覚える理由でもあります。

これまでの考察により、原作から派生まで根幹の論理構造は全て同じものだと考えられます。

表層の物語で読み取っている人と根幹の構造で読み取っている人、あるいはその両方を部分的に読み取っている人で感想が変わります。

ただ、その内容を原作ゲームの表現に合わせて整理すると、「刀剣乱舞」の「第一節(に相当するスパンの話)」は(舞台もミュージカルもそれ以外の作品も)「極修行(の理屈)」を描いた物語と言えると考えます。

原作ゲームにおいて出陣をするのを決めるのは大体審神者である我々プレイヤーですが、極修行は刀剣男士自身の申し出があってから行われるもので、ここで初めて刀剣男士自身が能動的に歴史を解釈してきて、自身の存在に対する認識を変化させます。

五つの特命調査は極修行の結果の反映に近いものではないかと考えられます。
そして最後に乗り越えなければならない試練が、大侵寇。

我々を否定するものはおそらく我々自身で、自分で過去の自分を乗り越えることが第一節最後の試練、そこが始まり。

……くらいが「第一節 朔」の内容ではないかなーと思います。

表層の現象を支える根幹の論理から考えると舞台とミュージカルが結局そういう「同じ話」になりそうで、実際に起きる出来事としては「自分の最も大切なものへの執着の否定」のようです。

舞台もミュージカルもこれまでの展開から予想される対大侵寇相当のターニングポイントの内容は、それぞれの話の中心となる刀剣男士と本丸の歴史を反映して一見まるで別の物語に見えるように組んでいるものの、多分テーマは同じこと。

舞台の方の考察で、舞台は国広と人との関係と、国広と長義との関係を原作ゲームと逆にしていると推測しました。

原作ゲームはプレイヤーである我々自身が「審神者(主)」なので、こちらに主眼を置いた話になる。

国広がどうというより、むしろ私たち自身がゲームの主人公なので、その「主」のために手放す彼らの一番大事なものが「刀剣男士自身の本来の歴史、今までの過去」ってことじゃないでしょうかね。

つまり、原作ゲームにおける我々は舞台の国広の立場だな!

ああ、だから、そうか。

死ぬのが「悲伝」の三日月? 国広と存在を食い合う長義? 折れたのが初期刀の歌仙? そんなもの知ったことか。

その物語全員 我 々 自 身 が 取 り 戻 す ん だ よ !!

ってことか。

物語は進むごとに立場が逆転し、我々は最初と反対側の勢力になる。
歴史を守っているつもりで、いつの間にか歴史を否定している。

逆転した状態で大侵寇までもつれこむけれど、ここで負けたら自分の存在を消したと言う意味で、真の歴史修正主義者になってしまう。だから勝ち残らなければならない。生きて大侵寇を超えなければならない。

その過程で今まで信じてきた歴史と決別してしまうからこそ、その後の本丸アップデートで歴史を感じないシンプルデザインのUIになるんだろう。

大侵寇直前に本丸から抜け出して一振り犠牲になろうとした三日月宗近を初期刀の献身でぎりぎり繋ぎとめたはいいものの、正しい歴史という意味での「月」はおそらく喪っている。

だから「朔(新月・はじまり)」。

舞台の本丸は三日月を喪ったけれど、だからと言ってこのままでいいとは決して思ってはいない。
結いの目の不如帰が帰りたいと願っているのを知っているから、いつか帰ってくるのを信じ、取り戻そうと決意している。ただし――歴史を改変しないやり方で。

我々も結局同じことで、極修行でそれぞれの男士が新しい結論を受け入れるために捨て去ったそれまでの歴史も、いつかまた取り戻すためには進み続けるしかないんだろう。

刀剣男士の実装順は物語と上で書きましたが、それだけじゃなくて極順も実装順と絡み合って一つの物語になっていると思います。

情報足りないんでまだ仮定ですが。

調べた結果、第一節後半開始の象徴である長義くんの実装前の最後の極って誰だよ? 国広じゃねーか! ってなったんですが、これもそういうことだと思います。

すでに引用した国広の修行手紙で、国広がとうらぶのギミックとして明かしている要素。

「これでは、話が全く逆だ。」
「写しの俺が、本科の存在感を食ってしまったようなものだ。」

それは「歴史認識の逆転」と、「名を巡る存在感の食い合い」。

我々がそれを知ったところで特命調査が始まり、聚楽第を経て国広と存在感を食い合う「山姥切長義」が顕現する。

さらに、もう一つの転機である対大侵寇防人作戦の直前。
この時期は私もプレイ開始していたので一応なんとなく覚えていますが。

第一節最後の極は南泉一文字(2021年10月)です。
第一節最後の実装刀剣は福島光忠(2021年12月)です。

オレが在ったから、真っ二つの猫が生まれたんじゃないかって。
オレが在ったから、呪いが生まれたのか?
こうなると、オレの中の猫は呪いなんかじゃなく、オレの一部だと思うしかないのかね。

(南泉一文字 修行手紙三通目)

回想其の112 『光忠の兄』

福島光忠「よう、光忠」
燭台切光忠「思うに、あなたも光忠なんじゃないかな」
福島光忠「いいんだよ、俺の中では燭台切が光忠なんだから。長船派の祖、光忠が一振り。燭台切光忠。俺のかわいい兄弟だ」
燭台切光忠「刀剣男士としては、僕が先輩なんだけどね」
福島光忠「お兄ちゃんって呼んでくれても……いいんだぞ?」

南泉が修行手紙で自分の存在が対象を二つに分けること、それが呪いを生むこと、それならば呪いは呪いではなく自分の一部であること、などに言及した後で、同じ光忠である燭台切に「光忠」の名を譲り、その代わりに「兄」としての扱いを要求する福ちゃん登場です。

本歌として写しとしての関係から生まれる相手への感情に決して言及せずに名前を巡る戦いを繰り広げる「山姥切」と、「光忠」の名をあっさり譲ってその代わりに「兄」としての立場・呼称を要求する光忠は対照的です。これも構図の逆転です。

そしてその名前を巡るやりとりが特命調査開始時と逆転した状態で迎える対大侵寇防人作戦で、我々は同じ名前を持つ複数の「七星剣」のつなぎ合わせらしき存在である「混」と戦い、その戦いに勝って改めて刀剣男士としての「七星剣」を得る、と。

このように見ていくと、やはりターニングポイントの最初と最後で立場が逆転していく舞台やミュージカルの物語と原作ゲームの物語は全部同じでしょう。

長船派は「ホスト」イメージ(花丸なんかでは割と明確にそう示唆されている)なので「主人」、つまり「主」のメタファーだと思います。

この辺のメタファーの分析は他の考察(偽物考)で触れているので軽くに留めますが、刀剣男士の性質は「名前」というメタファーを基準に決められていて、その並びが物語になり、物語の構造はターニングポイントの始まりから終わりで円を描いて逆転し、自分の心が引き起こした最大の試練を乗り越えて、一番最初の物語に辿り着く。

原作ゲームの一見シナリオなきように見えるストーリーは、そういうものだと考えられます。

我々は刀剣男士の話を聞き、その歴史を知り、自分が極修行のために彼らに何を捨てさせたのかも思い知り、そしてその最初の「物語」をいつか取り戻すために、本当の意味で自分の刀剣男士たちの歴史を守り、進み続けなければならない、と。

仏教的には何事にも執着しない。諦める(明らかにする)ってところですね。
執着しないということにすら執着しない、というのが難しいところなんですが。

3-4 第二節の物語に関する予想関連、次の転機「10周年」へ向けて

原作ゲームの10周年に舞台とミュージカルの対大侵寇が重なりそうということで来年1月付近はかなりでかい物語の転機になりそうなんですが。

立っているフラグは「鬼」関連。

今年は豆まきイベントがなく、その代わりにこんのすけが今年は鬼が出なかったということにわざわざ言及しています。

……私の知識だと10周年で童子切が来るとしか思えないんですがどうだろう?

実は「慈伝」の考察をした辺りで、あれこれメタファーの重なりから原作でも長義くん極と童子切実装が重なるんじゃないか? と一度予想しています。

この二つに刀剣男士の実装順自体が物語という仮定を重ねて全部一気に来るんじゃねーか? と考えていたんですが、刀剣男士の属性としては南泉・火車切の「猫」関連が一番珍しくわかりやすい重なりだと考えると、実装順における長義くんの裏側は大慶直胤のようです。

長義くんと「大」の組み合わせや、大慶との回想で清麿が口にした「嫉妬」のメタファーに関しては、花丸がかなり描いています。

花丸の山姥切長義像はちょうど原作ゲームと逆のような感じであることから考えても、山姥切長義と大慶直胤がメタファー的に表裏の関係であるという構図には異論なし、という感じです。

ただ、長義くんに関しては極がまだ来ない。

予定表では7月もどうやら極がないようなので、8月から10周年の1月までもう半年もない。
(すっかり忘れてたけど去年から夏の連隊戦が1か月になっているので7月はそれで埋まり特命調査の復刻すら来ない)

とうらぶに関しては9周年配信でまだ9周年迎えてないのに10周年の話しちゃうくらいなので、話のスパンに関しては割と長めに見たほうがいいようだと考えます。そうでないと原作ゲームと舞台・ミュージカルの転機の重ね合わせも無理でしょうしね。

特命調査開始前の山姥切国広極、対大侵寇防人作戦後の三日月宗近極。

極修行は実装順と関連し合いながら原作ゲームのストーリー進行に大きな役目を担っている。

また、山姥切長義の極は、キャラ造形がきっちり対になっている関係から、山姥切国広極の「逆」になると考えられる。

……10周年を目前としたこの後半年以内の出来事は次の転機に大きく関わると考えられますし、時期的に多分長義くんの極は射程範囲内。

そのタイミングで誰が来るかがまたとうらぶのシナリオ解釈の重要ポイントになると思われます。

10周年記念で今度こそ童子切か? それとも対大侵寇でチラ見せだけしてこなかったクダ屋さんか? はたまた別の誰かか?

「狐」のメタファーも割と重要そうなものなんでクダ屋さんでも文句はありませんが、わざわざ鬼が出なかったなんてこんちゃんフラグを立てたところが気になる。素直に考えれば「鬼」関連の追加としか思えない。でもとうらぶって素直に考えていいのかな……(これまでのあれこれを思い返しながら)。

とりあえず今年のとうらぶの動きは原作ゲームのみならず派生も含め、おそらくターニングポイント周辺のシナリオとして、きちんと覚えておいた方が良さそうです。

原作ゲームも派生作品も単体で見るより同時期に関連する他の話で裏側が明かされていることがあるので、舞台・ミュージカルの対大侵寇と同時期に原作ゲームで何をやるかによって、原作ゲームの第一節の解像度がより上がると思われます。

長義極に合わせて童子切が来るんじゃないかの予想、実装順の予想が外れたから一度捨てたのに舞台とミュージカルの対大侵寇から再計算したら再び拾いなおす必要が出てきて困惑した。正直そこまでピース揃ってから原作ゲーム、舞台、ミュージカルの第一節は本格的に考察始めたい。

4.余談 花丸の第一節

4-1 一旦完結らしいので続きが出るかはわかりませんが

9周年配信で花丸はいったん「完結」と言われていたので、そもそも第一節を考えるには話数足りないんですが、これまでの他の作品の考察との比較から簡単に結論だけ。

ミュージカルの第一節は「阿津賀志山異聞」に、舞台は「虚伝」に還る構造だと考えられ、原作ゲームもある意味では一番最初の物語、まず自分たちの本丸を育て、守り切ることだと考えられる。

対大侵寇防人作戦は、本丸襲撃を乗り越える物語。
その際に三日月が離脱しそうになるがそれを引き留める。

しかしそもそもの極修行後の刀剣男士の言動を考えてみれば、多分我々もその結論のために何かを犠牲にしている。喪っている。それがある意味、我々が一番最初に信じた歴史。

と、いう感じで「第一節」の物語はどの作品でも一番最初の結論に返ってくる形になることを考えると、花丸はこれだと思われる。

「俺たちが歴史を変えちゃったらどうなるんですかね?」

この疑問は花丸一期のラストでも写真から安定が消えかけるという形で描かれている。

花丸はおそらく、歴史を変えてしまう事に対する当たり前の結論、「歴史を変えたら自分も消える、だから歴史を変えてはならない、まず自分を守り抜く」を描く本丸だと思われます。

池田屋で沖田総司の運命を変えようとするところといい、長義くんに会った時にいきなり全否定から入るところといい、花丸本丸の安定はどこの本丸よりも、本来何よりも大切にすべき相手の歴史への想いが軽い。

そのせいで吃驚するほど簡単に歴史を否定して、自分たちの存在を消しかける。

あの本丸の根源にして最終目標はまず「自分の存在を守る」ことだろうと考えられる。

それを考えると、安定の原作ゲームでの極修行の結論が重要になってくる。

僕は、きっと今も、ここで足踏みを続けてしまっている。
前に進むには、沖田くんのことについて、心の整理が必要なんだ。
(大和守安定 修行手紙一通目)

思えば僕は、沖田くんと一緒に歴史の闇に消えるか、
彼より先に折れてしまいたかったのかもしれない。
(大和守安定 修行手紙二通目)

沖田くんに言われたよ。お前は何をやってるんだ、って。
もちろん彼は僕が何者なのかわかってるわけじゃない。
でも、僕が重大な役目の途中で、病身の自分を見舞いに来てるんだって認識してる。
「僕をやるべきことをやらない理由にするな。迷惑だ」だってさ。
……そうだね。
僕がずっと後ろばっかり見てるんじゃ、誰のためにもならない。
だから……もう、僕は沖田くんのことを忘れるよ。
それが、彼の望んだことだから。
彼を忘れて、あなただけの刀になれた頃に帰る。絶対に。
(大和守安定 修行手紙三通目)

刀剣男士はどの子も元主を大切にしているし、国広にとってのその立場である長義への献身もなかなかだ。

けれど修行手紙において、ここまで堂々と、本心では元主と一緒に死にたかったことを明かしている刀は安定の他にはいない。

安定が沖田くんを忘れてくると宣言した理由は、そうしなければもはや一歩も前に進めないほど、安定にとっての沖田くんという存在が重いから。

これは安定のみでなく、安定を主人公とした花丸本丸自体の第一節の結論になりえると考えられる。

元主が大切過ぎて、本当は一緒に死にたくて、自分を消してしまいたくて、だからこそ、前に進むためにはもはやその人を忘れるしか道がない。

言われて見ると花丸本丸はそういう印象の本丸である。どの子もどの子も、あまりにも自分の歴史に対する考えが軽い。簡単に歴史を変えようとする。それでは自分が消えてしまうのに。それは突き詰めると、その歴史を作った元主と一緒に歴史の闇に消えて、名を残さないでいたかったという自己否定そのものなのだろう。

一見明るい話のように見えて、実は根幹の理屈を追うと他の派生など目じゃないくらい自己否定という絶望の闇が暗いのが花丸本丸である。

むしろ、だからこそ本丸の物語が本当の歴史に代わって今を大事にしたくなるような明るく楽し気な物語でないといけないのかもしれない。

5.まとめきれないまとめ

刀剣乱舞全体の「第一節」に関する考察はもうちょっと色々突っつかないといけないところがあると思うんですが、そろそろ力尽きたのでこの辺で。

まとめきれていないという結論だけ白状しておきます。

私は舞台はまだ「禺伝」と「単独行」見てないし、ミュージカルは台詞の書き取りしてないから内容が頭に入ってないし、原作ゲームに関しては自分がプレイ開始する前の情報が全然整理しきれていない。

とうらぶの情報はWikiはじめ色々なところがまとめてくれているけど、刀剣男士の実装順だけとか極実装の順序だけとかの抜き出しまとめが多くて意外と原作ゲーム全体がどういう動きをしていたかの一覧的な記録がない。

というか、普通はそれ公式サイトがまとめているはずなんだけど、とうらぶは9周年でようやく公式が公式サイトを作るに至ったゲームなので普通のソシャゲと違って公式サイトが何の役にも立たねー!(叫)

物語展開や実装順を真剣に考えるならまず原作ゲームの動きを整理して更に舞台とミュージカルを中心に一つ一つの作品の詳細を台詞や演出の一つ一つに至るまで見ていくべきですが、とても頭も作業も追い付きませんね!

とりあえず一番わかりやすいポイントが特命調査開始の山姥切長義実装、つまり私の推しなのでそこを中心に考えていきたいことは変わりませんが。

長義・国広のキャラ造形の対になっている部分となっていない部分を本当の意味で整理するには長義くんにも極が実装されないと無理なんだよね。

だから長義くんの極さえくれば、少なくとも始まりの五振りの一角である山姥切国広の裏側に関して一方面の解答がほぼ出揃うことになる。とうらぶ全体のシナリオの五分の一以上がこの二振りを中心に判明すると思われるので一気に考察が進むはずなんですが、今はまだ全部推測ですからね……。

全部が全部を推測で進めるよりは、今は推測の基盤だけこうしてまとめておいて、もっと詳細な考察は長義くんの極が来てから改めて序盤の展開を見ていく形でもいいかなと思います。

と、いうわけで今回はこの辺で失礼します。