千子村正

せんごむらまさ

概要

※千子村正に関して

正直村正に関してはすでにWikipediaの記事が他の刀とは比べられないほど充実しているという前提があるのでここでは省エネ・簡略化・手抜きモードで行きます。

もともと集合体らしい村正に関しては刀工の話と妖刀伝説その他、持ち主側も著名人が多く書くことがありすぎて全部丁寧にやってたらむしろ素人は頭に入らんわ状態だったので、ざっくりと基本事項を出典等の話を抜きにして雑にやります。

出典は強いていうならいつも通り『日本刀大百科事典』&デジコレで読める本いっぱい。

刀工・千子村正

伊勢国桑名の刀工。その作品は俗に“妖刀村正”と呼ばれて有名。

足利末期から初代を相州正宗門とする説があるが、そんな古い作刀がないためそれを否定する説も安土時代からあるという。

村正の門人・正重の家の『全休庵楠系図』が歴史家によって信用度の高い史料とされている。
それによると初代正重は康正二年(1456)2月没、54歳となっている。
するとその師である村正は正長(1428)頃の刀工ということになる。

実在刀最古の年紀は文亀元年(1501)であるため、『全休庵楠系図』を参考にすれば文亀の村正は三代目ぐらいになる。
年紀のない二字銘の実在刀にはそれより古く見える銘があるという。

明治末年、桑名に村正の後裔と称する千子家があり、同家所蔵の系図があった。
しかし酔剣先生によればそれは荒唐無稽な内容らしい。
郷土史がそれを信じて非常識な説を掲げたとしている。

千子の名

千子という俗称千子村と解する説があるが、桑名付近に千子という地名はない。
郷土史では村正の母が千手観音に祈って授かった子だから、というのが通説になっている。

しかし千子を千五または仙五と書いたものもあり、古剣書には、千子をセンコと仮名書きしたものがある。
桑名には千子姓が数件あるがセンコと発音しているようである。

その他にも本姓は青江説、初代の幼名は正三郎説、通称は彦四郎または正三郎説などがあるが、酔剣先生曰くいずれも信じがたい。

ただし、文亀(1501)ごろの村正が右衛門尉、その後、木右衛門尉と称する者のいたことは、刀銘によって証明できる。

初代村正の法名を妙台とする説は古くからあった。
妙大、妙太、名代などと書いたものもある。
千子家の菩提寺である桑名市南魚町の仏眼院にあった、初代の墓碑には「隠音妙台」とあったという。

村正の出自

村正の出自については濃州赤坂左兵衛兼村の子と明記したものがある。
酔剣先生曰く「村」の字が共通しているからであろう、とのこと。

村正を濃州関の出身とする説自体は差し表に「兼永」、裏に「於関村正」と切った脇差があることからうなずけるという。
村正の刃文に関伝が濃厚なことは古剣書でも認めている。
相州正宗の門人説は、茎の形が相州茎のタナゴ腹に似ているところからの発想だろうという。

正宗との出会いに関する創作がある。
正宗が伊勢参宮の途中、村正の打つ槌の音を聞いてまだ修行が足りないと評したことを、村正が聞き、後から追って行って入門を乞うたというものである。

村正の屋敷跡

村正の屋敷跡と伝えられるところは数か所ある。

1、村正の母が祈った千手観音
走井山観音堂、走井山公園にある観学寺付近に村正宅址の碑がある。

2、桑名郡東方村宇尾畑の村正屋敷
村正の脇差に「勢州桑名住東方村正」と銘したものがある。

3、奉納刀の銘文
桑名総社の奉納刀に「勢州桑名郡益田庄藤原朝臣村正作 天文十二天癸卯五月日」と切った太刀が現存する。
「勢州益田郡藤原村正」と切った銘もある。
庄や郡では屋敷の位置までは特定できない。

4、茂福村居住という説がある
朝倉氏の招きにより一時ここに駐槌が考えられるという

5、昭和9年の墓の発見

新刀期になり、桑名城下町が整備されると、村正は三之丸と堀を距てた片町に居を構えていた。
墓地も片町の西方約200メートル、南魚町の仏眼院にあった。
そのことが判明したのは、昭和9年の『伊勢新聞』らしい。
明治30年頃まで「隠音妙台」と刻まれた初代の墓ほか、十数期あった。しかし村正家は100年ぐらい前に断絶して墓も無縁になっていたので有力者がその墓域を譲り受け墓碑を撤去した。そのうちの一つ「千子宗入禅定門承応四乙亥年正月十六日」と誌された千子新右衛門の墓が土中に半ば埋めてあったのを、水谷長之助氏が昭和9年に発見したという。
現在桑名付近にある千子姓の家は、村正直系ではなく弟子筋の子孫ということになるという。

村正の妖刀伝説

村正は切れ味の良さを買われ、三河武士の愛用するところとなったが、それがかえって仇となり「妖刀」という不名誉な名前を冠せられる結果となった。
その原因は徳川家にあるという。

1、家康の祖父・清康
清康が織田信秀を討つべく尾張の守山に出陣中、早朝に家臣が馬を放った。
清康が「それ逃がすな」と大声で指揮していると、阿部弥七郎は父・大蔵が敵に内通しているという噂を耳にしていたため、父が殺されると早合点して村正の刀を持って清康を背後から斬り伏せた。

2、家康の父・広忠
広忠は天文14年3月、譜代の臣・岩松八弥が酒乱を起こし、村正の脇差で股を刺された。

3、家康の少年時代
今川家の人質時代、村正の小ガタナで怪我をした。

4、家康の長男・信康
信康はその生母とともに、織田信長から甲州の武田家に内通・謀反の嫌疑をかけられ天正7年9月15日、切腹を命じられた。そのとき天方山城守通綱が介錯した刀が、村正の作だった。

5、関ケ原合戦
関ケ原合戦で西軍が敗走すると、織田有楽は子息・長孝とともに家康の本陣に駆け付けた。
長孝が槍を持って敵将・戸田勝成の兜を突くと、左から右へ貫いた。
家康がその話を聞き槍を見ているうちに取り落とし、指を負傷した。
この槍は村正の作ではないかと訊くと、果たしてそうであった。

村正の作はこのように徳川家に数度不幸をもたらした。
信康の介錯刀が村正の刀だったことを聞き、家康は納戸方に対して、村正の作はすべて取り捨てよと命じた。
そのことが発端となって村正の刀を差料にすることを遠慮する風潮が生じ、さらに誇張され、村正佩用は禁止された、と思い込むようになった。

しかし尾州徳川家にも村正の刀が伝来していて、刀剣台帳には「潰し物になる筈、用たちがたき部類に入置く事」、と書いてあるが、潰し物にならず現在まで残っている。
徳川一門でもそうであるから、外様藩では憚るところなく愛蔵されていた。

親藩に準ずる仙台藩の老臣・三好家の「狐切り村正」、肥前小城藩主・鍋島家の「題目村正」など、昔から有名だったらしい。

村正の妖刀観と歌舞伎

村正の妖刀観は、歌舞伎を通して民衆の間に浸透していった。

『八幡祭小望月賑』『木間星箱根鹿笛』『敵討天下茶屋聚』

村正が登場する。

『籠釣瓶花街酔醒』

千寿院村正の名で登場するが「村正は血を好む」「血を見ねば納まらぬ」「これを持てば短慮になる」「持ち主に祟る」など、いろいろ拡大解釈され村正に対する恐怖感を強めていった。

文政6年(1823)4月22日、江戸城で刃傷沙汰に及んだ松平外記の差料は無銘で子孫も作者は不明と言っているのに、噂では村正の作となっている。
これも村正妖刀観からの付会とみるべきだと言われている。

村正の作風

鎬造りの刀や脇差よりも、平造りの短刀が多く、まま真の棟を見る。
彫物もかなりあるが、「草花の与三」という白銀師の作ともいう。

地鉄は小板目肌流れ、地沸えつくが、肌立つものもある。
鎬地は柾目肌。刃文は腰開きの五の目乱れを好んで焼くが、乱れの谷が特に長く、かつ刃文の形が表裏よく揃うのが特徴で、特にこれを「村正刃」ともよぶ。そのほか、皆焼や直刃もある。
鋩子は地蔵になり、反りの深いものが多いが、小丸や火炎風のものもある。
茎はタナゴ腹であるが、茎先に近いところから、急に細くなる、という独特の形であるため、「村正茎」または「匙茎」と呼ぶ。

銘は「村正」と二字が多いが、時に「勢州桑名住」のほか、「藤原」や通称を入れた長銘がある。
これは棚橋という研師が切ったものともいう。
年号を切ったものは稀であるが、「文亀(1501)」「永正(1504)」「大永(1521)」「天文(1532)」「天正(1573)」「慶長(1596)」と経て「寛文(1661)」に至るまである。

豊臣秀次の村正「一胴七度」

豊臣秀次が七度も試し斬りに用いた千子村正。
「一胴七度」という金象嵌銘があるらしい。

『今村押形 第2巻』
著者:今村長賀 発行年:1927年(昭和2) 出版者:大阪刀剣会
目次:ム 村正
ページ数:13 コマ数:17

「政経人 29(6)」(雑誌・データ送信)
発行年:1982年6月(昭和57) 出版者:政経社/総合エネルギー研究会
目次:百剣一夕話 / 秋吉茂
ページ数:127 コマ数:64

真田幸村の村正

真田幸村は戦場へ出るときは村正の刀、村正の槍を帯びていた。
それは村正が徳川家に祟る不吉な刀故のことであり、徳川へ敵対の意志を示すこの姿勢を他でもない水戸黄門こと光圀が褒めていたという。

(※しかしすでに上でまとめた通り村正の妖刀観は戦国より後世に出来上がったものなので、もし真田幸村が村正を持っていたとしても徳川に祟る妖刀だからではなく単に切れ味の良い刀だからだろうと刀剣書では解説される)

『英雄と佩刀』
著者:羽皐隠史 発行年:1912年(大正1) 出版者:崇山房
目次:村正を佩た英雄 ページ数:56~66 コマ数:40~45
目次:真田幸村の佩刀 ページ数:223~228 コマ数:126

鍋島勝茂の村正「妙法村正(題目村正)」

「妙法村正」と呼ばれる刀は妙法蓮華経の題目が彫られ、日蓮上人の入滅日と同じ日付(10月13日)に作刀されたことから刀工・千子村正が歌舞伎や講談の印象とは違って本来は信心深い人柄であったことを示す。

同時に「鍋信」と銀象嵌された刀は鍋島信濃守勝茂の所持であったことを物語っている。
鍋島藩は外様大名であり徳川幕府に対して好感を持っていなかった。
そのため徳川家に祟る村正の刀を持っていたと見ることもできるが、普段人に見せない茎の銀象嵌と考えればその造反は「ほほえましい」というのが寒山先生の意見である。

この刀は終戦まで同家に伝来され、村正ではただ一刀、重要美術品に認定されているという。

ちなみに寒山先生は「妙法村正」として紹介しているが酔剣先生は妖刀伝説の項で出てきた「題目村正」の名で呼んでいる。そして国立国会図書館のデジタルコレクションでも「題目村正」で検索したほうがヒットする雑誌記事が多い。

『新・日本名刀100選』(紙本)
著者:佐藤寒山 発行年:1990年(平成2) 出版社:秋田書店
(中身はほぼ『日本名刀100選』 著者:佐藤寒山 発行年:1971年(昭和46) 出版社:秋田書店)
目次:70 妙法村正
ページ数:209~212

「刀剣と歴史 (500)」(雑誌・データ送信)
発行年:1977年11月(昭和52) 出版者:日本刀剣保存会
目次:口絵 題目村正の刀 高瀬羽皐先生発刊の辞
ページ数:口絵 コマ数:3

西郷隆盛の村正

西郷隆盛は村正が徳川家に祟るという噂を信じて、幕府打倒の意志の証として村正を所有していたという。
外装が鉄扇造りの短刀であり、その鉄扇に「匕首腰間ニ鳴リ 蕭々トシテ北風起ル 平生壮士ノ心 以テ寒水ヲ照ラス可シ」という漢詩(原文は漢文)を彫り込んでいたという。

さらに西郷隆盛を介錯した別府晋介の刀も村正であったという(ただしこれは偽銘らしい)。

『名刀と名将(名将シリーズ)』(データ送信)
著者:福永酔剣 発行年:1966年(昭和41) 出版者:雄山閣
目次:西郷南洲の遺愛刀
ページ数:231~244
コマ数:122~129

調査所感

村正の記事まとめるのちょっと大変すぎるなと思い切って手抜きしてざっと雑にまとめたらようやく概略はつかめた気がします。人は情報が多すぎても頭に入らない……。

出典が比較的見つかるものならいいんですけど確認できない刀剣書とかもあるでしょうしね。刀によってスタンスを使い分けていきましょう。

今の私の知識量だとこの程度の、お前ほぼ『日本刀大百科事典』頼りじゃねーか! なまとめが限界です。

最近でも読める一般的な刀剣書だと妖刀観の下地を作った徳川家の話(『三河後風土記』)あたりがどの本でも書いてあると思います。
あとは村正が正宗の弟子だったという話もあくまで創作だろうと否定されながらも載ってる感じですね。

しかし「刀剣乱舞」の考察に関してはここまでやってきて「創作」の重要性をさんざん学ばされたのでどちらかというと歌舞伎の作品をもうちょっとしっかり調べたほうがいい気がしますね……。

出典に関しては原典を見たほうがそりゃ一番いいんでしょうけど、とうらぶ的にはどちらかというと研究史は研究者がある程度まとめて断言してくれる部分をそのまま信用して大丈夫な代わりに、能だの歌舞伎だの軍記だの講談だの、日本芸能や古典文学作品などの教養が求められる気がします……。つまり、「物語(創作)」の理解が重要。

私がデジコレでよく見る大正~昭和初期辺りの研究書だと真田幸村が村正を持っていた話なども有名です。

原作ゲームの8面、真田関連の面で村正がドロップすることもありますしやっぱり集合体でもできるだけ持ち主の情報は集めたほうがよさそうです……が、正直村正の名刀は数多いという情報はあるもののなかなか一つにまとまった情報源を見つけるのも難しく苦戦しています。というかもうWikipediaが十分まとめてるからそれでよくね? っていうか(オイ)

修行手紙に出てきた「勝茂様」こと「鍋島勝茂」がピックアップされているのは寒山先生の『新・日本名刀100選』あたりです。

豊臣秀次の刀は秀次の存在が重要な無双の村正が第一部隊として登場していたのでこれも一応。ただデジコレだとあまり資料がないですね。

正直村正に関してはもうWikipediaが一番詳しいんじゃないかな……と思ったんですが、まぁ今後他の刀などいろいろ調べていく中で気になる情報があったらその都度追加していくことにします。

参考文献

『刀剣講話 1』
著者:今村長賀 発行年:明治31~36年
目次:第四 相州物 コマ数:87~96

『刀剣談』
著者:高瀬真卿 発行年:1910年(明治43) 出版者:日報社
目次:第七門 古代の名匠 村正の事
ページ数:205~209 コマ数:127~129

『剣話録.上』
著者:剣話会 編(別役成義) 発行年:1912年(明治45) 出版者:昭文堂
目次:六 相州物(下)
ページ数:54~60 コマ数:37~40

『英雄と佩刀』
著者:羽皐隠史 発行年:1912年(大正1) 出版者:崇山房
目次:村正を佩た英雄 ページ数:56~66 コマ数:40~45
目次:真田幸村の佩刀 ページ数:223~228 コマ数:126

『刀剣一夕話』
著者:羽皐隠史 発行年:1915年(大正4) 出版者:嵩山房
目次:一 村正論
ページ数:58~66 コマ数:36~40

『秋霜雑纂. 前編』
著者:秋霜松平頼平 編 発行年:1932年(昭和7) 出版者:中央刀剣会本部
目次:解説五十七條 二百十七 富田大鳳村正の大小刀を佩し事 コマ数:88
目次:解説五十七條 二百十八 真田幸村村正の大小刀を佩し事 コマ数:88
目次:名器五十六條 二百七十七 刀工千子村正 コマ数:104
目次:人物九十六條 刀工千子村正 コマ数:109

『世界奇聞全集』
著者:加藤栗泉 編 発行年:1917年(大正6) 出版者:法曹閣書院
目次:刀剣村正の怪異
ページ数:973~985 コマ数:509~515

『日本刀物語』
著者:前田稔靖 発行年:1935年(昭和10) 出版者:九大日本刀研究会
目次:九 村正の傳說とその作風
ページ数:74~81 コマ数:47~50

『日本刀物語』
著者:小島沐冠人 編著 発行年:1937年(昭和12) 出版者:高知読売新聞社
目次:千子村正の業物
ページ数:59~64 コマ数:37~40

『日本刀と無敵魂』
著者:武富邦茂 発行年:1943年(昭和18) 出版者:彰文館
目次:村正の爲に辨ず
ページ数:203~208 コマ数:116~119

『武将と名刀』(データ送信)
著者:佐藤寒山 発行年:1964年(昭和39) 出版者:人物往来社
目次:徳川家康とその愛刀
ページ数:232~247 コマ数:121~128

『名刀と名将(名将シリーズ)』(データ送信)
著者:福永酔剣 発行年:1966年(昭和41) 出版者:雄山閣
目次:西郷南洲の遺愛刀
ページ数:231~244 コマ数:122~129

『日本刀物語.続』(データ送信)
著者:福永酔剣 発行年:1969年(昭和44) 出版者:雄山閣
目次:西郷南洲の遺愛刀
ページ数:231~244 コマ数:127~134

『原色日本の美術.21』(データ送信)
著者:尾崎元春、佐藤寒山 発行年:1970年(昭和45) 出版者:小学館
目次:一、日本刀概説
ページ数:235 コマ数:241

「刀剣と歴史 (500)」(雑誌・データ送信)
発行年:1977年11月(昭和52) 出版者:日本刀剣保存会
目次:口絵 題目村正の刀 高瀬羽皐先生発刊の辞
ページ数:口絵 コマ数:3

「政経人 29(6)」(雑誌・データ送信)
発行年:1982年6月(昭和57) 出版者:政経社/総合エネルギー研究会
目次:百剣一夕話 / 秋吉茂
ページ数:127 コマ数:64

『新・日本名刀100選』(紙本)
著者:佐藤寒山 発行年:1990年(平成2) 出版社:秋田書店
(中身はほぼ『日本名刀100選』 著者:佐藤寒山 発行年:1971年(昭和46) 出版社:秋田書店)
目次:70 妙法村正
ページ数:209~212

『日本刀大百科事典』(紙本)
著者:福永酔剣 発行年:1993年(平成5年) 出版者:雄山閣
目次:むらまさ【村正】
ページ数:5巻P166~169

概説書

『図解 武将・剣豪と日本刀 新装版』(紙本)
著者:日本武具研究界 発行年:2011年(平成23年) 出版者:笠倉出版社
目次:第3章 武将・剣豪たちと名刀 真田幸村と千子村正
ページ数:138、139

『刀剣目録』(紙本)
著者:小和田康経 発行年:2015年(平成27) 出版者:新紀元社
目次:≪第三章 南北朝・室町時代≫ 伊勢国桑名 村正 妙法村正
ページ数:310

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