山姥切長義・極 総括

山姥切長義の極修行手紙に関する考察、まとめ

えー、よく考えたらこの一週間、推しの極にエキサイトしすぎていつもはある程度前提を確認してから論を展開しようと思っている部分が大分すっぽ抜けたような気がします。

反省と頭の整理を兼ねて、自分の考えを吐き出し尽くし、他の方の考察もある程度読ませていただいたこの段階で、総括として改めて修行手紙の内容を吟味したいと思います。

 

手紙引用

送り出されてしまったのだから、致し方ない。
この際、山姥でも斬りに行こうか。
君はどう思う?

(山姥切長義 修行手紙一通目)

どこに行っても正当な評価を得ることができる気がしない。
……いや、一人、心当たりがあるか。

(山姥切長義 修行手紙二通目)

長義が打った唯一無二の傑作、それが俺だ。
まず傑作の刀があり、それに心を寄せた人間がいて、その傑作を写した。
それだけのこと。

本丸に来て以来、俺は君の動向を観察していた。
君は、果たして歴史の守り手として、
刀剣男士を振るうものとして、足る人間なのかと。
評定は終わった。

主へ
ひとつ頼みがある。
もしも、俺がなまくらになり下がることがあれば、すぐにでも折ってくれ。
君に総てを与える刀は、俺でなくてはならないからね。

(山姥切長義 修行手紙三通目)

 

宛先

宛名で主への呼びかけをしないタイプです。

同じように宛名を書かない、一、二通目で主呼びをしなかったタイプには大倶利伽羅や千子村正がいます。

 

一通目、一行目

送り出されてしまったのだから、致し方ない。

自分から修行の申し出をしたのに本音では行きたくなかったかのような口振りです。

極修行はゲームシステム上、刀剣男士からの申し出という体を取りながら、実際には手紙の一通目で目標や目的が決まっていない男士が多いので、特筆には値しないと思われます。

一通目、二行目

この際、山姥でも斬りに行こうか。

山姥斬りの逸話を茶化した言い方になるので、その逸話に関して自分がそう言われていることは知っているが、特に思い入れがないというスタンスが原作ゲーム内でようやく判明しました。

この態度は原作ゲームのみのプレイヤーには憶測しかできなかったものですが、メディアミックスも鑑賞するとほぼ確定していた事実です。

ミュージカルでは鬼丸国綱への台詞からまず山姥の実在や山姥切伝承の真偽そのものには大して興味がないようで、「化け物斬りは強い刀の代名詞」という、「強い刀」という部分に重きを置いた思想の持ち主です。

舞台など他のメディアミックスの台詞、演出等も、この見解で解釈した方が自然です。

(原作ゲームでまず先に明言しろ……)

 

一通目、三行目

君はどう思う?

主たる審神者への二人称は「君」。

原作ゲーム内では山姥切国広内への二人称が「お前」(回想57)。
後家兼光への二人称が「あなた」(回想141)。
「君」という二人称は原作ゲームだとここが初です。

手紙で問いかけてもその場で答が得られるわけがないことはわかりきっているので、山姥切長義自身が主から何かの意見を欲している訳ではないでしょう。

この問いかけは審神者がこの問題に対してどう考えていたのか思考を明確にし、己が山姥切長義に何を求めるか考えておけ、程度の内容で、どちらかと言えばこちらが試されている感があります。

それこそメディアミックスの描写と一貫性がありますが、基本的に山姥切長義という刀剣男士は自分の望みを相手に訴えることがほとんどなく、本心を隠したまま相手を動かし、相手に考えさせる行動を取ります。
ミュージカル「花影ゆれる砥水」、舞台「慈伝 日日の葉よ散るらむ」辺りが顕著です。

二通目、一行目

どこに行っても正当な評価を得ることができる気がしない。

北条氏、長尾顕長、尾張徳川家、現在も重要文化財と、リアルの本作長義(以下58字略)として辿れる来歴として、十分に名刀に相応しい扱いをされてきた刀です。普通に考えれば、評価をされていないということはできません。

一通目での「山姥切の逸話」の扱いから言っても、この発言は人間が刀を見るときに武器としての価値よりも、刀の本質以外のものに付加価値を求めがちでそれゆえの偏見から脱しきれないことへの不満ととれます。

 

二通目、二行目

……いや、一人、心当たりがあるか。

ここに関しては様々な考察が出ています。

・刀工・堀川国広
・長尾顕長
・刀工・長義
・審神者

三通目の内容とセットで考えるべき部分で、「長義が打った唯一無二の傑作」「その傑作を写した」「本丸に来て以来、俺は君の動向を観察していた」辺りとの関連を推測する必要があります。

ちなみに私個人は考えられる可能性は全部吟味していくタイプの考察者なので全部吟味しました。 結論? わっかんね!(匙を投げる)
原作ゲームの情報だけで、この修行手紙の内容から誰か一人を特定することは不可能、という結論です。

一応刀剣男士の修行手紙の書き方はある程度決まった型があって、三通目は二通目の内容を受けて刀剣男士が己の修行先で見てきた過去に己で結論を下す内容となっております。

ただ、それこそ写しの山姥切国広の修行手紙などがわかりやすいのですが、他の刀剣男士は三通目の文面の半ば辺りまでを己の見てきたものの感想や思考の整理などに使いますが、山姥切長義の場合は三通目の冒頭は長義の傑作である自分とその自分が写された話の周辺、三通目の半ばからは本丸の主である審神者を観察し評定を下す内容となっています。

ある程度型が決まっているとはいえ、やはり個々の男士の個性を尊重するなら、山姥切長義はこれまでの男士とは別の観点で話を展開した可能性もあります。

考え方としては

1.二通目の内容から三通目冒頭までストレートに続いている

だからここの正当な評価を下せる「一人」は写しを打った刀工・堀川国広や、写しを作らせた長尾顕長、あるいは長義の傑作に重きを置いて刀工・長義などを想定します。

2.三通目冒頭は現状整理や事実確認程度の重要性、本題は三通目中盤の評定部分

こちらの考え方をすると、全体的に修行の主軸が、「己は審神者の刀としてどう振る舞うか」という話になり、主である審神者が己に正当な評価を下せるか、修行全体を通して測っていた印象になります。

結論として、今回原作ゲーム内に追加された情報だけでこの「一人」を断定するのは不可能、この「一人」をすでに考察している審神者の「刀工・堀川国広」ではないか、「審神者ではないか」という主張は文面の分析的にはどれも妥当なものと思えます。

長義の思考のどこに主軸を置くのか手紙の文面だけでは判定できない以上、候補が複数挙がるのは当然のことと言えます。

写しが打たれた話に絞っても、我々が現代的な価値観で写しを打った刀工・堀川国広と写しの作成を依頼した長尾顕長のどちらが重要視されるかを判断する情報はここにはないと思います。

ふたつの山姥切の研究史を調べた審神者が刀工・堀川国広をある意味特別視するのは当然ですし、依頼された仕事でも誠心誠意写しを製作し、その写しが後世で山姥切国広と呼ばれる名刀となった刀工・堀川国広の事蹟は讃えるべきだと思います。

しかし、一般的には刀工・堀川国広が目指したところは日本一の名工・五郎入道正宗とされています。

途中出会った長義の刀に大いに感銘を受けて彼の作風に転機を与えたとされていることは事実ですが、そこに引きずられて「山姥切のための刀工・堀川国広」にすることは、長義や国広をどちらかがどちらかの「ついで」ではなく、一振りの刀単体で見てほしいと願う審神者がすることではないでしょう。

ここで正当な評価を下せる「一人」に刀工・堀川国広を想定する場合は、深く考えずに刀工だから長尾顕長や他の人々より重要、という他の人々を蔑ろにした意見になっていないか、何故刀工を特別視するのかを己の中でしっかり意見としてまとめなければちゃんとした考察になりません。

これに関しては、長尾顕長や他の人を想定した場合も同じです。

幾つかの考察を見させてもらった感じ、大体ここが刀工・堀川国広であることを想定し、その理由に思い込みではなくきちんとした論拠を持っている考察は、やはり他の審神者からの支持も集めている様子でした(リポストやいいね数での判断)。

 

 ただし、

 ミュージカル「花影ゆれる砥水」を見ると、山姥切長義が自分に刻まれた銘のことを考え、歌い上げるソロ曲が存在します。

そして鬼丸国綱と、「鬼なんて伝説上の生き物だろう」「ならば俺は何を斬ったんだろうな」「すまない 今のは忘れてくれ」というやりとりを交わします。

いやこれはもうミュージカル側が山姥切長義の設定をニトロプラスからしっかり聞いていてそのままあのシーンを描いたとしか思えないんだけどー!?

と、いうわけで、原作ゲーム内の情報のみという縛りで言うなら、二通目の「一人」の解釈は分かれて当然ですが、メディアミックスを解釈に入れるとほぼ刀工・堀川国広になります。

ここでも、銘に関して刀剣の価値において絶対だと重要視する考えは正宗や郷義弘など無銘の名刀が山ほどあり否定されます。銘があることが一番重要だと考えるのは危険です。
しかし、直近に実装された道誉一文字がハバキ下の一の字に言及していたり、刀剣男士個刃単位で拘りがある可能性はあります。

とうらぶという物語を考える上で、刀剣男士・山姥切長義が何を重要視しているか、という極考察の最重要観点から言えば、メディアミックス側で自らに刻まれた刀工・堀川国広の銘文に思い入れがあるらしいと察せられる情報が出たのは当然考慮するべきです。

ちなみに原作ゲーム中心考察勢としては正直釈然としません(まず原作ゲームで出せ……)。

 

三通目、冒頭

長義が打った唯一無二の傑作、それが俺だ。
まず傑作の刀があり、それに心を寄せた人間がいて、その傑作を写した。
それだけのこと。

二通目の「一人」に刀工・堀川国広を想定するなら、ここで直接写しが打たれた時代に赴いたことになります。
想定しないなら、己の来歴の受け止め方を審神者に端的に説明していることになります。

ただ、そのどちらにしろ、その点に対する最後の言葉が「それだけだ」であるということは、そのことに良くも悪くも大きく心を動かされたということはなく、事実の再確認で終わったということになります。

己の本音を隠した言い方になるので、色々と考えていてもおかしくはありませんが、表面上掲げるべき認識を、この三文に収めたと言えます。

写しに対する感情そのものは最後まで明かさなかったので、今後も基本的には己と写しの間を「それだけ」で済ませ、そのことに特別な何かを見出し訴えることはないという主張、割り切りと考えられます。

 

三通目、中盤の評定

本丸に来て以来、俺は君の動向を観察していた。
君は、果たして歴史の守り手として、
刀剣男士を振るうものとして、足る人間なのかと。
評定は終わった。

大概の男士はここで「自分の見てきた自分の歴史」に対しての感想を述べます。
しかし、山姥切長義は「自分の見てきた自分の主」に監査官のように評定を下します。

 (う、うちの長義くんシール産なのに……!?)

二通目の「一人」を歴史上の人物か審神者か絞れない理由がここにあり、一通目の問いかけと合わせて、山姥切長義の極修行は例えどこに行き過去で何を見てきたとしても、最終的に己の主の能力や性質と不可分の構造になっています。

元々、シナリオ上の初登場が「監査官」だった刀剣男士です。

その立場が世界観の設定とどれほど結びついたものかはこれまで不明でしたが、この修行手紙からすると、単にその仕事を引き受けた立場だったというより、元々山姥切長義側に監査するもの、評定するものとしての性質・設定が備わっていると思われます。

 

三通目、最終結論

主へ
ひとつ頼みがある。
もしも、俺がなまくらになり下がることがあれば、すぐにでも折ってくれ。
君に総てを与える刀は、俺でなくてはならないからね。

これまでも表層上の価値より武器としての価値、刀としての実力にこそ重きを置く性質を示した通り、それが出来なくなったら自分を殺すことを審神者にただ一つだけ求めた「頼み」としています。

帰還台詞の「君が歴史を守ろうとする限り」という文言と合わせて考えても、やはり極修行全体を通して、己が刀剣男士(山姥切長義)であることと主である審神者の姿勢が不可分であることを突きつける内容です。

ラスト一文、「総てを与える」は文章の流れからすると主に「折られる」ことと「総てを与える」ことがイコールになっております。

文章としてはそうなっていてもそれが実質何を意味するかは、今の段階だと確実な答は出ないでしょうから、各人の考察に任せていいような気はします。

 

帰還台詞

打刀 山姥切長義

「俺こそが長義が打った傑作。君が歴史を守ろうとする限り、俺は山姥切を名乗り、実力を以て敵を斬る。俺の主の刀として。さあ、伝説を作りにゆこうか」

「山姥切」を名乗る理由に「君が歴史を守ろうとする限り」という条件付けを行い、以前は「俺こそが長義が打った本歌、山姥切」と主張していた部分が「俺こそが長義が打った傑作」となりました。

長義の傑作であることに関する三通目の結論は写しが打たれた経緯を「それだけだ」の一言で切り捨て、割り切った部分です。

長義の傑作に価値を見出したというよりも、本歌であることの意味を切り捨てたと見えます。
ん? これもしかして結構ネガティヴな印象なんじゃ……。

(写しが打たれたのは自分が傑作だったからだ、それだけ。という論調なので、写しの存在をまったく特別視しなくなったからこそ、本歌であることに拘泥しなくなったととれる)

山姥切長義が「山姥切」を名乗る意義は、主たる審神者の「歴史を守る」姿勢に託された。
逆に言えば、我々審神者が歴史を守らなければ、「山姥切長義」も存在しない。

三通目の最後の頼みが「俺がなまくらになり下がることがあれば、すぐにでも折ってくれ」である辺り、歴史を守らなくなった審神者に対してどういう行動に出るかは推察がつきます。

役目を果たせなくなったものは不要。そうでなければ、「君が歴史を守ろうとする限り」などという条件は付けない。

我々も己の役割を果たし、歴史を守り続けなければならないことを課せられた。

そういう内容の極修行だったと言えます。

 

総括:

文章構成を改めて確認した感じ、やはり「山姥切」の認識と己の刀の価値、そして審神者の性質が不可分となっている構造が明確化した刀剣男士です。

極後の一部感想で夢女子向けになったと言われるのは、この不可分性から「主」という要素に肯定的でかつその不可分性を好意的に捉えるとそういう感想が生まれるのだと考えられます。

一方で、刀剣男士として、山姥切長義自身がどんな修行を経たのか、何処へ行き、何を見たのかを断定することはほぼできません。

二通目の正当な評価を与えられる「一人」に関して、本来刀剣の研究史上からは断定できる要素がないものを、我々自身の思い込みでそれが正しいと選び取ってしまう危険性を常に孕んでいます。

メディアミックスの情報を加味するならば、ここは刀工・堀川国広だと考えられます。

しかし、そもそも「刀剣乱舞」に関しては、メディアミックスの設定が正しいという保証もありません。

原作ゲームからメディアミックスまで一貫した設定はあると思いますが、それ自体も、「メディアミックスも公式なのだから当然解釈に含めるべき」という勢力向けにそうなるよう用意された結論なのかもしれません。

修行手紙で、本来は修行先で見てきた歴史について語る部分を使い、主たる審神者の評定をしている。

「山姥切」と審神者の存在の不可分性がここまで強調され、更に正史や現実の研究史と呼ばれるものとの接合点が皆無と言えるこの修行手紙からすると、むしろ考察など一切せず、己の見たものをただ信じることこそ正しい見方なのかもしれません。

メディアミックスに一貫性があり、確かに原作ゲームとも共通しているだろうという結論は、二つの事実を示しています。

1.メディアミックスでも原作ゲームでも設定自体は共通しているのだから、メディアミックスを見れば見る程情報を増やすことができる
2.全ての作品で設定が一貫して同じ山姥切長義が描かれているならば、我々がそれぞれの作品の山姥切長義に抱く感想も、総て「正しい」

作品ごとに異なる山姥切長義像が描かれるならば全て区別して解釈するか無理矢理統合する必要がありますが、同じものが描かれているならば、どれを選んでも同じことになる。

我々が自分の目で見て判断した山姥切長義に対する想いが我々の中で一貫するならば、その結論は必然的に正しい。

やはり最初から、考察の必要などなかったのかもしれません。誰もが皆、己の想う山姥切長義を信じれば。

考察も憶測はしますが、妄想が前提ではなく、むしろ確かな情報を頼りに妄想、すなわち己の思い込みを次々排除していき、いずれ正しい解答に辿り着くために行います。

その立場で私が今回の山姥切長義・極に対して自分の考察を一言でまとめるならばこうなります。

――情報極少につき、解析「不可能」。

情報が足りないものに関しては、「不明」「わからない」「判断できない」とするのが一番正しい。
憶測は、その不明部分を少しでも埋めたいときに行いますが、その一説は「不明という現実」以上の価値を持ちません。

考察として正しさを追求するならば、「不明」が一番正しいと思います。ここは動かない。

けれど上を見てもわかる通り、情報の欠落に対し全て不明で片づけてそれ以上何も考えようとしなければ、間違いも生まれないけれど、物語も生まれません。

ある意味物語は、そうした歴史の間違いと常に共にあるのかもしれません。

二通目で長義が口にする「一人」を本歌と写しの歴史や、メディアミックスの描写から刀工・堀川国広と仮定し、その道筋を脳裏に辿る……。

戦と死の匂いが迫りながらも戦場そのものではない場所、小田原城か、それとも足利学校か。
そのどちらかで、一人の刀工が、一振りの刀の写しを作成している。

刀工・堀川国広にとっておそらく初めて直接目にしただろう相州伝の上工・長義の刀。

依頼された仕事とはいえその名作に感銘を受けた刀工は、真摯な表情で一振りの刀を打つ。
揺れる炎に響く槌音、傍に付き従う弟子はこの仕事の価値を知らずまだどこか不思議そうな顔をしている。
それは後に彼の最高傑作となる写し刀、山姥切国広――。

そこに寄せられた心を改めて見届けて、けれど今以上に強くなるために、「山姥切長義」はその歴史を、そっと自らから切り離してくる。

傑作である自分に心を寄せた人間の一人である刀工が写しを打ったことを、「それだけだ」と。

剥落していく物語の欠片。暗闇に顧みられぬ断片。何かを手放し、それ以上を得る。

そして「山姥切国広の本歌、山姥切長義」から、
この刀こそが、「山姥切」だと語る者のための「山姥切長義」へ……。

と。物語はある意味常に、憶測から生まれる。
史実や現実から離れ、いずれ事実誤認が判明する日が来ることもあるかもしれないが、その愛から生まれる憶測が積み重なり今日まで続いてきたものをこそ、歴史と言う。

ならばここで正しい解釈など探さなくとも、誰もが己の本丸で、己が愛した「山姥切長義」と共に行くのであれば、それがいつか全て、自分の本丸の歴史となり得るのではないか。

さあ、伝説を作りにゆこうか

本当にただこのままの、山姥切長義の極修行だったのかもしれません。

 

 

備考1 傑作としての評価は本質か、表層か

傑作という言葉は本来おもに本質を指し示す言葉ではあると思います。

ただ、刀剣における「傑作」って大体刀の時代が終わって刀剣研究が始まった明治以降に、研究者が一人の刀工の作品を何作も見ることが可能になった以後の評価です。

美術品としての価値観で、武器としての価値とイコールで考えていいかと言うと若干疑問が残ります。

回想141で後家兼光は山姥切長義を号とは関係なく「刀工・長義の刀」として褒めたたえています。
その評価に山姥切長義が感銘を受けるかどうかは、長義の「傑作」と言う評価が本質か、表層かによっても解釈が変わります。

(ちなみに私は「傑作」自体も表層の一つだと思います)

後家兼光自体は、憶測を全面的に肯定する価値観の持ち主であることがはっきりしています。

 

備考2 言葉遊びの不自由

二通目の「一人」を断定しようとするタイプの考察をいくつか拝見したところ、前後の文章の繋がりに着目しているものを複数見かけました。

個人的には刀工・堀川国広を想定するならばあの文章は「心を寄せた」人物はそのまま「写した」人物と同一である、というのは自然な読み取りですので賛同したいところです。

ただ少し気になるのは、審神者側よりむしろとうらぶ自体が、これまでの考察からすると「言葉遊び」を成立させるためになんだか無茶な、自然でない文章になっている部分が多々あると思います。
文章の自然さの追求は、言葉遊び面を考慮にいれると前提が崩れるかもしれません。

 

備考3 もう一振りの傑作

「長義の傑作」という言葉に心当たりのある方はやはり三通目一行目の「長義が打った唯一無二の傑作」に違和感を覚えたようです。

現在の現実では確かにその通りですが、刀工・長義の傑作は本作長義(以下58字略)=山姥切長義の他に、「六股長義」という刀が、大戦で焼失するまで存在しました。

焼失した刀も普通に顕現している刀剣乱舞の世界では、山姥切長義が「唯一無二の傑作」と名乗ることはこの六股長義を無視しているように感じます。

これに関して私は、むしろこの台詞があるからこそ、六股長義もいずれ実装されると思います。

本丸は会えると思っていなかった刀に会える場所です。

いつか六股長義や、それ以外にもまた別の刀が、山姥切長義の内心を暴いたり、発想に変化を促す可能性が予想されます。

 

それでは、現在はこの辺りを総括として終わりにしたいと思います。