とうらぶを理解するための仏教の理解の必要性について
仏教とは哲学である
考察を始めた頃。
とうらぶを理解するためにとりあえず研究史を理解しなきゃね!
考察始めて2年後の今。
とうらぶを理解するためにとりあえず仏教を勉強しなきゃね!
歴史は同じことを繰り返す……(天を仰ぎながら)。
それはさておき、仏教の話。
まず、「仏教」とは「東洋哲学」である。……え!? そうなの!?
舞台見て仏教要素中核だこれー! と気づいてから仏教関係をちょこちょこ調べて知ったんですが。
宗教だと思ってたしそれはそうなんだがそれと同時に「東洋哲学」というジャンルの話でもあります。
宗教にして哲学。それが仏教。
輪廻がどうの鬼や神がどうのと言われるとオカルトというか神話というかファンタジー感すら感じますが、存在とは何か、この世の物質原理、人間の精神の構造とはどうなっているのかと言われるとOh……そうだ、哲学だわこれ。
刀剣男士とはどういう存在か。
戦場の記憶など、認識を主体とするらしいあの世界はどんな構造をしているか。
長義くんのように逸話が創作と言われる刀剣男士の自己認識と実存刀本体の歴史はどう考えればいいか。
とうらぶの仏教要素=東洋哲学要素。
我々は考察と銘打って、知らぬ間に哲学をやらされていた……?
唯識論の中に三種の存在形態として、「仮構されたもの」と「他に依存するもの」、そして「完成されたもの」があり、中心となるのは「他に依存するもの」だという。
我々は自我という「仮構されたもの」をまるで実体があるかのように考えているが、実際にはそうではない、自我なんて存在しないというのが仏教の基本スタンス。
そしてその「仮構されたもの」は実際には「他に依存するもの」なのだと、教えてくれるものこそが最初から「他に依存するもの」なのだという。それを理解することによって、「仮構されたもの」が「完成されたもの」へと転換される。
この辺りなんか引っかかりません?
我々は山姥切国広の存在は名称と逸話が一致した常に単一の存在、つまり「仮構されたもの」だと認識していた。
山姥切長義の登場でその逸話が創作である、つまり長義の「山姥切」は国広との縁によって発生したもの、山姥切長義は「他に依存するもの」だと認識することになる。
しかし、では長義の山姥切の号が事実誤認だったとして、その認識が確たるものとされていた時代の国広の認識は山姥を斬った刀として確たるものだったか? というとそれはやはり違う。
長義が山姥切だと認識されていた時代、国広は逆に山姥を斬ったとは認識されていなかった。
つまり二つの刀の歴史的には、長義は山姥切だと「呼ばれた時代」と「呼ばれていない時代」、国広は山姥を「斬っていないと思われた時代」と「斬ったと思われた時代」の両方を有する存在であって、物語の順序構成は違えどその存在構造自体には差がない。
つまり「仮構されたもの」だと思われていた国広自身の歴史も「他に依存するもの」だったことが、長義登場で判明したと考えられるのではないか?
刀本体の歴史をごっそり抜いて、逸話の件だけ考えてもそうなる。
国広がずっと確たる歴史を持っていて長義だけ曖昧だったならともかく、長義が山姥切だと思われていた時代は国広は山姥を斬っていないと思われていたことには変わりなく、結論として結局どっちの逸話も曖昧な時代が存在するということになる。その状況に上だの下だのという区別は存在しない。
どちらが斬ったのかという問題は二振りに対する認識の量的な増減や主従といった性質ではなく、ただ二振りの立場の逆転という「変化」だけを示すものである。
ふむ……これはつまり哲学だな?(存在の分析)
ちなみに私は哲学も仏教も知るか! な人間なのでそもそもこの理解であっているかどうかがまず不明。
参考にしているのは「仏教の思想」というシリーズなんですがこのシリーズ自体読んでいる途中ですしこの場合下手に引用したところ解釈が間違ってたら目も当てられないよ! になるので気になる方はご自分で仏教を勉強してください。それでもっと良い説明できるぜ! ってなったらぜひ教えてくれよな!
「仏教の思想」シリーズはタイトル通り仏教の思想がどのように成立、展開していったのか順番に触れていく本で、初心者が宗教のありがたい教え的なアレではなく哲学としての仏教を一から知りたい場合には最適な本だと思われます。
12巻もあるので読むのは大変ですが、文庫版が電子書籍になっているので、通勤時間などに読むこともできます。
むしろ誰か読んで俺に解説してくれないだろうか。いや本当マジで……。
(哲学の本なので初心者向けでもかなり難しい、オイラ9割ぐらい内容わかってないYO!)
輪廻という無限の円環
インド哲学の根本に存在するのが、人は無限に生と死を繰り返す輪廻の思想です。
仏教の思想の根本はインド哲学です。始めた人がインド人のお釈迦様なのでそう言われればそりゃそうだってなるんですが、実際に上で紹介した「仏教の思想」シリーズなどがインド哲学の話からきっちり入っているのを見ると大分印象が変わると思います。
以前の考察でそれこそインドの哲学の源流「ウパニシャッド哲学」の「五火二道説」に触れましたが、やはり話はそのあたりから始まります。
インドでは輪廻の主体としてアートマンという自我が存在するという考えが一般的だったところ、それを否定したのがお釈迦様ことブッダです。
迷いと苦しみの世界を抜けるにはこの世界が縁起によってなりたっていること、自我などというものは存在しないことを理解すればいい、つまり煩悩を捨てなさいよと。
仏教経典はそもそもブッダが書いたものではなく後世の弟子がそれを記録したり、後世の研究者がその理屈を思想的に整えようとしたり後から様々な話が付け加えられて大分内容が変化していきます。
つまり、仏教の成立自体にかなり長くて複雑な歴史があるのでそこをとばして一気に内容を理解することは不可能です。
私はとうらぶや他の作品の論理構造に共通する一定のまとまった経典などがないかを調べるため断片的な情報収集を一度試みましたが、どうにもそれじゃ答が出そうになかったので上で紹介した仏教の思想シリーズを通して読むことにしたんですが、そのほうがやっぱり話の流れがわかりやすいです。
つまりとうらぶもとうらぶと構造が共通する仏教モデル作品も、作者はみんな仏教(東洋哲学)の論理を熟知したうえで話を構成している……だと……!?
なんでみんなそんなに仏教が好きなのかは知りませんが、まぁとうらぶも同じく日本でつくられている作品なら日本の宗教(東洋哲学)をモデルにしていますと言われても違和感自体はないでしょう。むしろここでキリスト教を理解しないと無理ですとか言われた方が違和感あるでしょう。なおキリシタンの存在。
その日本をモデルにした作品で仏教について知るならまずインド哲学をやれという下地を私が知らんかっただけの話です。
インド哲学の基本たる輪廻転生。輪廻の主体であるアートマンによって、人は永遠に生と死を繰り返す。
この生と死を繰り返す輪廻の生存を苦と見て、抜け出すことが目的にされます。
そこでまず輪廻の主体であるアートマンを否定して世界も自己も縁起で成り立っていることを唱えたのがブッダであり仏教の立場だと思います。
このアートマン、我を否定したうえで解脱によって輪廻を抜けるという思想に関して、ブッダ以降も後代の研究者たちの手によって徐々に思想が整理・構築されていきます。
縁起で成り立っていて我が存在しないということがどういうことであり、そのために我々は何をしなければいけないのか、という辺りの一定の見解が出来上がったのが唯識思想で、これが日本の大乗仏教の基本にもなるようです。
赤き炎の鳥(貪)、無明の馬(痴)
唯識の話に移る前に、とうらぶのメタファーにおける重要そうなところをブッダの発言から考察しておこうと思います。
仏教ネタの「赤」について。
仏教系作品で赤の重要性はちょいちょい上がってくるけど何を意味しているのかわからない、汚染雑染扱いされてるから煩悩だとは思うけど具体的にどういう? って首傾げてたら……それこそ『仏教の思想1 知恵と慈悲<ブッダ>』読んだら答っぽいのがありました。
三毒の一つ、貪欲、欲しがる心を意味する「貪」をブッダが説明した時の言葉は「赤」や「ほのお」が原意の「ラーガ」。
この言葉は、漢訳の際に「貪」の字を当てられて原意を失ったと。
(「貪」の話自体は何度もしたのにまったく知らなかったぜ!)
そして「ラーガ」は「タンハー(渇愛)」とほぼ同じ用法になる。
つまり、鶏に象徴される「貪欲」の根源が「赤」であり「炎」であり、源流を辿れば「渇愛(タンハー)」に通じる。
ブッダは解脱のために捨てなければいけない欲望について初期は水を求める渇きのような「渇愛(タンハー)」、後に炎のように激しく燃えがある「貪(ラーガ)」という言葉を使っているらしい。
仏教はインド発祥だけど中国を経由して日本に入ってきてるから途中で翻訳の問題が生じる。
純粋な翻訳の難しさの問題もあれば、勝手に中国ナイズドするぜ! っていう中国人のアグレッシブさの問題も両方あるみたいだけど、とりあえずその過程でサンスクリット語の原義が失われることがあると。
そのうえ今試しに「ラーガ」で検索したらインド古典音楽の音楽理論に現れる旋法とやらも同じ言葉なんだよね。
ついに来たか音楽要素。
「赤」と「炎」が原意で「渇愛」という煩悩を抱く鳥、それが「貪」。夜明けを告げる鶏。
すべてはやはり愛から始まる。
仏教において愛は煩悩の一つであり、輪廻を回す根源的な苦です。愛が欲を生み、欲が業を生むわけで。
これまで仏教ベースっぽい構造の作品の似通っているところに「赤」そして「鳥」の重要性が高くてめちゃくちゃ気になっていたのが、ちゃんとした本でブッダの言葉からしっかりチェックするとあっさり解決してしまった……!
ほかにもいろいろ、とうらぶと直接関係ありそうなものからなさそうなものまでとりあえず仏教構造作品が何をモデルにしているか考えていたんですが、「仏教の思想」シリーズを読むとどうやら仏教用語のパーリ語、サンスクリット語原意やその翻訳の関係から行ってるみたいだなというものがいくつかあって。
仏教モデルの作品のいくつかはなんで母ちゃんに惚れる要素があんねんって思ってたら(オイ)、
これ……もしかして「如理作意」か?
元のパーリ語の一部に「子宮、母胎、根源」という意味があるって説明される。
「如理作意」自体の意味は物事を正しく観ることとかそんな感じのようです。
「仏教の思想4 唯識<認識と超越>」で研究者の先生は「根源的思惟」と説明されてます。
ここで説明するために検索してみたらこの一語だけでなんかめちゃくちゃページ出てくるのでもはや正しい説明は諦めました(オイ)。
とうらぶに出てくる女性要素のうち「母親」要素の真のメタファーはこれかもしれません。
无伝の高台院とか明確に「母親」である存在が担うメタファーの真の姿は「如理作意」。
正しく見て、正しく考えること。
かもしれません。だから豊臣の滅びから目を逸らさない、と……。
仏教モデルの話だとさすがに母親にガチ恋愛する話は少ないですがそれこそ仮面としてヒロインの名前に「マリア」がつくものはそれなりに。
とうらぶだと母親以外にも「根源」で適応されることはありそうです。
そして「貪」の原意が「炎」「赤」だとわかったのでこっちも調べてみました。
「癡」の「モーハ」は、漢訳では「莫迦」、そして日本では「馬鹿」の字をあてられた。
ずっと気になってた「馬」要素これか――!!
「馬」要素はとうらぶでもあちこちで強調されてるし、仏教モデルだろう他の作品でもほぼ確実にかなり重要視されてるからなんだろうと思ってたらこれか……!!
「貪」の「炎」「赤」といい、そこかよ……!
鳥も赤も炎も馬も、仏教でググればいくらでもエピソードが出てくるけど逆にありすぎてどれだ? とな。
それぞれの作品で完全に違う意味を使っているにしては構造が似すぎている。何かもっと根本的な共通する意味があるはずだと……。
三毒。輪廻をまわす全ての根源たる煩悩。
無明たる「癡」から「貪」「瞋」が生まれることから、人の苦しみの根源は「無明と渇愛」だとされる。
つまり「癡」と「貪」。これが輪廻をめぐる苦しみの全て。
慈伝の考察をしたときは三毒を象徴する動物は「貪」が鶏、「瞋」が蛇、「癡」が豚、と説明しました。
ただ、とうらぶは「馬」は頻出するけど「豚」要素って今のところ原作ゲームにないので「癡」は「馬」で説明していると思います。
前に名前出した仏教構造の作品、ワートリの葦原先生なんかは豚好きが明確なんで三毒の「癡」は豚をメインにしていると思いますが(でも馬が名前につくキャラもいる)。
慈伝見た時点で
三日月が三毒「貪」の鳥、同時に三心所の「布施」。
長義が三毒「瞋」の蛇、同時に三心所の「慈悲」。
国広が三毒「癡」の豚、同時に三心所の「般若」。
という考察をしましたが情報を更新して、舞台国広の担当する動物は「馬」に変更。
三日月と国広という組み合わせは「鳥」と「馬(蛇)」。
つまり「渇愛」と「無明」の組み合わせで、対抗が「慈悲」と「知恵(般若)」です。
上で名前出した仏教の思想シリーズ1巻の副題は「知恵と慈悲」。これがブッダの思想の根幹です。
輪廻の苦しみから抜け出すのに最も必要なものがその二つです。
間にいる長義くんが担当していると思われる「瞋」は? って感じですが、この言葉普通に訳すとそのまま「怒り」「憎しみ」と説明そのままの訳ですね……。
もともと「瞋」は説明される場所によって三単語ぐらい使われてるからまずどの言葉が正解なのか?
あるいは三単語使われてるからこれが仏教モデル作品の「三位一体」っぽいキャラの元ネタか?
残念ながら三語の語源が全く違うとは説明されているもののその語源までネットだと解説してくれているサイトはない?(読んだ本にも載ってなかった……)
一番メインで扱われる語はサンスクリット語の「プラティガ」で、これを「反発」と訳しているところがありました。
他の説明でも好ましくないもの、自分の考えに反するものへの反発からくる怒り、と説明されているので「反発」を一応視野に入れていきたいと思います。
で、これを考えると三毒の一つ、煩悩の根源を生む「無明」の象徴である「馬」が原作で出てくる場所。
「馬当番」
の意味について考えたいと思います。
原作ゲームと舞台、そしてキャラソンの「離れ灯篭」
メタファーの共通性はここまで来たらもう全部同じ意味でとるんだろうなと。
だとしたら「馬当番」の意味は「無明」、三毒の「癡」。転じて「知恵」。
仏教的に「馬」が象徴するエピソードが詰め込まれていると考えられます。
「畑当番」は舞台で三日月がそもそも国広に本丸の物語を育てることを教えるために例えたのは作物を育てる話だったことも考えると、畑当番が「貪」と「布施」の象徴でいいんじゃないか。
物語を育てる布施、育てた物語を食らう貪欲。
またこれに関しては、唯識思想の目指すところとして煩悩は阿頼耶識の「種子」から生じ、その煩悩の「種子」を焼き尽くせば煩悩のない種子は最高実在となり悟りの世界に入れるという……。
説明がよくわからない? ああ俺も正直読んでてよくわからない(オイ)。
「如理作意(根源的思惟)」によって阿頼耶(住居)の中で煩悩のない種子を育てて、煩悩ある種子が徹底的に否定されたとき阿頼耶(住居)そのものがなくなり煩悩のない種子そのものが最高実在となる。
……つまりとうらぶって唯識的にそういう話なのでは?
そうすると「反発」を意味するかもしれない「瞋」は「手合せ」ということになり、三種類の内番は「三毒/三心所」のメタファーではないかと思われます。
対大侵寇後の大型アップデートで生存の上がる内番が「畑当番」から「手合わせ」に変わったの、要望でもあったのかと思ったけど違うのかも。
内番がそのまま「三毒/三心所」に対応しているなら物語の成長を示す生存の数値が上がるのが「畑当番」から「手合せ」に変更になったのは予定通りで、第二節終了後に今度は「馬当番」になるのかもしれません。
予想するにしてもさすがに今から第二節終了の話は遠すぎて自分で出したことすっかり忘れそうですけどね……。
青い水に落ちる桜、赤い血を吸う桜
「赤」の重要性が分かった今、顕現シーンの原作と舞台の差を考える。
原作ゲームでは刀剣男士の顕現シーンは青い水面らしき場所に桜の花が落ちるという演出です。
一方、舞台では悲伝で足利義輝の血を吸った桜の樹から「鵺(のちの時鳥)」が生まれています。
また、戯曲本がまだ出ていないので正確な表現こそわからないものの、无伝で三日月が高台院を斬った後にも桜の樹が赤く染まっていく描写の後に鬼(姿は鬼丸さんだと思われるが人の言葉を話さない)が誕生します。
鵺は舞台の三日月側の物語を考えるときに最も重要な存在です。
その鵺と、おそらく同じだと思われる方法で次は鬼らしき存在が生まれています。
桜の樹が血を吸い上げる、という表現をどう考えるかこれまで保留していたんですが、今回このシーンで「赤」が重要だとわかったこと、悲伝・无伝とどちらも三日月の元主の悲劇の後にその誕生シーンが存在することからこう考えたいと思います。
原作ゲームの刀剣男士の顕現とは、審神者が自ら刀剣男士を神として呼び寄せる行動です。
その行動の結果の演出が「青い(清浄な)水面に桜が落ちる」。
一方舞台の鵺はどのような経緯で生まれたのか、刀剣男士たちも把握していません。
しかし観客・読者には血、すなわち「桜が赤い(貪の)水を吸い上げる」場面が見えています。
こう考えると両者の場面はちょうど逆ですから、つまり鵺・鬼の誕生は刀剣男士の顕現と180度逆の意味を持っている。
刀剣男士の顕現は人(審神者)が神(刀剣男士)の心を励起する。
鵺・鬼の誕生は神(刀剣男士)が人(元主)の運命を嘆いたときに引き起こされる。
後者、鵺の誕生を厳密になんというかは不明ですが「物」が「鬼」であることを考えると結局ここも同じ言葉、「物(鬼)の心を励起」なのかもしれません。
認識の超越、唯識の世界
禺伝まだ見てないんですけど、綺伝でガラシャを演じた七海さんが歌仙を演じているという話くらいは聞きました。
とうらぶの舞台は一振りに二役つけることにも意味があると考えられるくらいですから、中の人要素は重要でしょう。
つまりストレートに考えると歌仙=ガラシャだな。よしっ!
って単語だけつなぐと一見意味不明になりますが、一応慈伝再考で維伝から綺伝まで整理した通り、
「花(秀頼)」を救えず未来に絶望して自害する「鬼(信繁)」の話。
「花(龍馬・秀頼・ガラシャ)」を斬る「鬼(陸奥守・高台院・歌仙)」の話。
「花(ガラシャ)」を愛するからこそ憎む「鬼(忠興)」の話。
「鬼(高台院)」を斬って「鬼(鬼丸)」を生み出す物語という「花(三日月)」の話。
この前提を思い返すと无伝の次の話で歌仙とガラシャが入れ替わるのもそう不自然ではないかと。
「花」と「鬼」はお互いにお互いを生み、お互いにお互いを殺す立場であり、いくらでもその立場は入れ替わる。
物は鬼、しかし无伝で自分を「物」と表現したのは高台院。
一方刀剣男士は桜の花に想いを込めて顕現されると考えられる。
ガラシャは同じ話、綺伝の中で「花」でも「蛇」でもあることが語られる。
そして「物」は「鬼」であると同時に、「鵺」でもあり「龍(蛇)」でもあると言える。
維伝の志士たち、綺伝のキリシタンたちはそれぞれ「魑魅魍魎」「鵺みたい」と言われており、放棄された世界における彼らが同質の存在であることを示している。魑魅魍魎は普通に鬼と同じと考えていいでしょう。
文久土佐の物語を始めたのは「龍馬」でそのまま「龍(蛇)」と「馬」。
慶長熊本の物語を始めたのはガラシャで「花」と「龍(蛇)」。
「鵺」「鬼」「龍(蛇)」そして「花」。
この四者はその時々でその形態をとりながら円環している本来同一のもの、と考えてよいかと思います。
文久土佐の龍馬がおそらく陸奥守吉行だろうというヒントは原作ゲームからあるもので、慶長熊本のガラシャは原作ゲームだと歌仙よりは古今との共通点が指摘されていますが、どちらにしろ両者の示唆するところは「刀剣男士と人間の入れ替わり」です。
慈伝までは舞台の構成に関しては三日月・国広・長義辺りの間で頻繁にポジションを入れ替える点が気にかかりましたが、維伝以降はこうした敵側の性質の分析が作中キャラの中でも進んでいます。
特に放棄された世界の住人は、どちらかと言えばその正体が刀剣男士であることを暗に示唆されながら、その性質は南海先生や獅子王の発言から「魑魅魍魎」「鵺」とされています。
一方、无伝では高台院の台詞がかなり気にかかります。
「人間が時と場所を飛び越えることなどできるのでしょうか
きっとその時から私は人の身ではなくなったのです
本当の私は今も京都にいて 滅びゆく豊臣の物語から目を背け続けている
私は一度目を背けた物語を見届けるためにここに戻った」
高台院は最期の会話でも「あなたの前にあるのは改変された歴史そのもの ここにあってはならぬものです ならば 物の心を空に還してくださいませ」と三日月に頼んでいるので、自分を「物(鬼)」と認識していると考えられます。
この内容はつまり
・无伝の高台院は本物の高台院ではなく、人間であるとはいいがたい
・しかし自己認識は高台院その人のままであり、けれど肉体が人間ではなく物(鬼)
・本当の高台院が今も京都にいるということから、无伝の高台院は本体から分離した心の一部のように考えることができる
・无伝の高台院自身は己の物語から目を背けることをよしとせず、歴史の結末を受け入れるために死を選んだ
と、こうして分析するとこれ、敵として出てきた「朧なる山姥切国広」の存在とほぼ同じですね。
維伝と綺伝に登場した「朧なる山姥切国広」「山姥切国広の影」と呼ばれる存在は、綺伝で本歌である山姥切長義によってはっきりと本物であることを否定されています。
朧なる山姥切国広「これでもそう言えるのか 山姥切長義」
山姥切長義「実に不快だ いいだろう身の程を教えてやる 偽物くんの偽物くん」
朧なる山姥切国広「そうだ お前たちのその力が そのあがきが その叫びがこの物語をより強くする その物語の連なりはやがて道となる 三日月宗近 今なお円環で戦うお前へと連なる道だ」
山姥切長義「ほざくな! お前は山姥切国広ではない! 山姥切国広を騙ることは俺が許さん!」
敵の性質は舞台本丸もまだ分析中とはいえ、ここは本歌である長義くんの発言を全面的に信用する方向で行きましょう。
黒田孝高(朧なる山姥切国広)「俺たちは刀だ 刃持ちて語らおう」
山姥切長義「どこかで聞いたことがある 虫唾が走るこのまがい物め!」
この判断を真として「朧なる山姥切国広」の性質をまとめると
・綺伝の朧なる山姥切国広は本物の山姥切国広ではなく、時間遡行軍の一味である
・しかし慈伝での台詞を使用していることから記憶などは山姥切国広と同じだと考えられる
・朧なる山姥切国広は気配も山姥切国広と同じだが、綺伝長義曰く
「お前から感じる気配は俺がよく知るものだ あいつがここにいるはずがない」
国広自身はここ(放棄された世界の慶長熊本)にいるはずがない。
けれど「朧なる山姥切国広」と呼ばれる「山姥切国広の影」が存在する。
まぁどう考えても本体じゃないけど別人でもない心の一部ぐらいの存在ですよねこれは。
この比較の中で一番重要なのが上で高台院の台詞をピックアップしたもの中の最後、
「本当の私は今も京都にいて 滅びゆく豊臣の物語から目を背け続けている
私は一度目を背けた物語を見届けるためにここに戻った」
高台院は自分の物語から目を背けることを良しとせず、そのために死を選んだ。
それでもあの世界は「放棄された世界」となってしまったようですが……。
高台院の選択は、現実逃避、目の前の問題から逃げ続けることを良しとせず己の物語を保つ選択と言える。
一方この舞台の山姥切国広はと言うと、現実逃避なのか無自覚なのかは微妙なラインですが、慈伝の時点で自分の物語から目を背けてしまったと言える。
「名前などどうとでも呼べばいい」
名前は刀剣男士の物語そのものだということは、无伝の数珠丸さんの台詞でも強調されている。
その名前を、山姥切国広はどうでもいいと言う。だからどうとでも呼べばいいと言う。
慈伝の国広は葛藤を超えつつ己の中で一応の落としどころというか妥協点を見つけ出した上での選択だったので長義くん側も妥協の末にそのスタンスの国広を支える形の決意をしましたが、綺伝の朧なる山姥切国広の発言に関しては綺伝長義はこう言っています。
「もっともらしい理屈を並べてはいたが あの男の言葉は空洞だ」
綺伝の「朧なる山姥切国広」は、決して本物の山姥切国広と言えるような存在ではない。
けれど三日月を取り戻したいという願いは舞台国広の願いそのもの。
まあ心の分裂だと考えるのが妥当でしょうね。
花と鬼の物語、原作刀剣男士の顕現と舞台の鵺・鬼誕生シーンの相違、主に高台院と朧なる山姥切国広の比較によって得られる舞台の「物(鬼)」の性質、そして慈伝の時点で入れた三日月と鵺の関係の考察。これらをまとめると。
人も刀も、己の物語の否定が、物(鬼)を生み出し歴史を守るうえでの敵を作る。
人も刀も、己の物語の否定(名前の否定)から自己の境界線が失われはじめ「鵺」となる。
「鵺」と「物(鬼)」は同質のものであり、それらは人や刀が変化した存在である。
こんな感じでしょう。私の考察としては慈伝時点でも大体こんな感じでしたが維伝・天伝・无伝・綺伝と見て大分構図がはっきりしてきました。
維伝・綺伝と二つの放棄された世界では出てくる人間の存在が混ざり合っていることが指摘されている。
そちらではSF的な時間の滞留を主軸にした説明に主眼が置かれていましたが、登場人物たちの存在分析側から結果を突き合わせるとこういうことになります。
「刀剣乱舞の世界」とは
史実と創作、己の願いと願いが相克し、お互いにその存在を食らいあって成立している。
しかも高台院を斬った三日月からまた鬼が生まれたように、誰かが自己と歴史を守るための決断をしようと、また別の誰かの願いによって歴史を改変する敵が生まれる。
これは仏教的な考え方をすると、そもそも輪廻の世界を作り出すのは人間の行為・業(カルマ)の結果であるという考えと一致すると思います。
つまり――心がある限り、輪廻の円環からは、逃れられない。
普通に生きる上で、心を捨てるなど不可能なのだから。
煩悩を生み出すものこそ人間の心であり、そこには渇愛という貪欲(貪)が潜んでいる。
のどの渇きのように愛を求める心、あるいは何もかも焼き尽くす貪欲な炎。
もしくは自分の心にかなわない相手を怒り憎む心(瞋)。
それらは真理を得ていない無明の闇(癡)から生まれる。
三日月が本丸を離れた理由を何も話さなかったのは、知っていたからでしょう。
心がある限り輪廻からは逃れられないという答は、一見解決法が何もないと言っているのと同義。
実際三日月自身にも円環を抜け出す方法がわからない。
真実を教えて本丸の仲間を無駄に自分と同じように絶望させたくない、それは三日月からすれば本丸への皆への愛情故だったと考えられる。
出口のない円環の運命というのは人に発狂レベルの絶望をもたらすものです。
无伝の鶴丸が三日月にどうしたら狂わずにいられるか尋ねたように。
……っていうかずばり言っちゃいますが。
改めてまとめておいてなんだけど、この構造自体はもう割と検討ついてる人いるでしょうこれ。
要するに山姥切問題の、どちらかを偽物にしなければいけないならどうしたらこの二振りは救われるのか、と同じ話だから。
文久土佐の志士たちは悪人だったか? 違う。でも彼らを殺さなければならなかった。
无伝の真田十勇士は悪人だったか? 違う。でも彼らを殺さなければならなかった。
綺伝のキリシタン大名たちは悪人だったか? 違う。でも彼らを殺さなければならなかった。
物語を食うだのなんだの原作にほぼない情報を割と重視している人がなんか多いな、しかも長義派と言いつつそれを国広側の物語を否定する理由にしちゃうんだよな……とは思っていましたがこれ舞台の情報の誤解か。
その意見は
「本当の私は今も京都にいて 滅びゆく豊臣の物語から目を背け続けている」
高台院のこれと同じ心理でしょう。
見るべき結果が悲惨にしか感じられなくて、目を逸らしている。
それを認めることは、片方の死という結末か、両者が己の生存を守るために永遠に争い続ける無限の地獄しか想像できないから。
山姥切伝承の研究史は、その結果が長義・国広双方の言い分と食い違うためにそれを認めることができない、と同じです。
ただ実際に舞台で末満氏の脚本見た感じ、末満氏はそういう逃避を許さずにガンガン真理にぶっこんでくタイプじゃん!
高台院にこう言わせて、天伝で諸説への逃亡を否定、綺伝でただ普通に生きたいという願いを否定した以上あの本丸で同じことが起これば確実に否定される奴じゃないか。もう普通に確実に。
天伝で国広がまた華麗にフラグ立ててたしな……。
目を逸らしている方も大分いるだろうところはっきり言っちゃいますが、これはもう最初から味方(過去の自分)と無限に殺しあう輪廻の世界じゃないっすか。
舞台の本丸と敵たちはどちらかが間違っているわけではない。
原作からの長義と国広の主張の対立はどちらかが間違っているわけではない。
どちらも正しいから永遠に殴りあい殺しあう。
救い? 輪廻を抜け出さない限りないよ? という世界。
救いが見えないからこそ三日月はある意味本丸の物語に現実逃避するんだろうけれど、それでは本当の救いにならないということを国広側の物語の破綻という地獄で突き付けられることになる。どう考えても。
ただし、まだ事態の全貌が見えていない国広たちはともかく、我々はここまで情報を得れば現実にこの構図と似たようなものがないか先例を探し出すことでその苦しみから脱することも可能。
それが唯識。――ただ(唯)、心(識)だけがあるという世界です。
抜け出せばいいのです。唯識を理解して、この輪廻の世界から。
「認識の超越」
インド哲学の仏教関連のある意味到達点であり、大乗仏教の基本思想。仏教論理のそれが鍵だと思います。
「如理作意(根源的思惟)」によって阿頼耶(住居)の中で煩悩のない種子を育てて、煩悩ある種子が徹底的に否定されたとき阿頼耶(住居)そのものがなくなり煩悩のない種子そのものが最高実在となる。
上でも一度説明したこれが全てだと思います。
本丸はおそらく住居(阿頼耶)識であり、そこで「煩悩のない種子」を育てて最高実在と呼ばれる存在、真理そのものになることがこの物語の到達点ではないかと思われます。
そしてその時には、それまで種子のよりどころであった阿頼耶識こと「本丸」は消える。
けれどそれは捨てるというよりも、どちらかというと己自身がそのすべてを取り込んだ扱いになるようです。
豚改め馬で現わされる三毒の「癡」の対抗は「般若」。
無明の闇を照らす智慧の光そのもの。太陽や月に例えられることも多い。
舞台の国広は三日月から「煤けた太陽」扱いされています。
「貪」が煤を生み出す炎、しかも国広は長義くん相手にだけは怒りを抱くから「瞋」。
この二つの煩悩を生み出す「癡」による「無明」を振り払い、本物の「太陽」になること。
それが認識を超越し輪廻の苦しみを終わらせるための道標。
永遠に続く戦いを予感させる世界から抜け出すために、あの世界の山姥切国広が到達しなければならない階梯だと思われます。