世界線からの考察

世界線からの考察

出し方はちょっと伺いたいかな、と思うネタなんですが、山姥切長義・極修行手紙から察せられる内情が当初の予想より遥かにメディアミックスの描写と合致することを考えると無視できないかなあと。

あの世界はどういうものか、刀剣男士の仕組みはどういうものか、メディアミックスを参考に、とうらぶ全体の物語の一部として、長義くん周辺に関わりあるだろうギミックから考えてみましょう。

1.ミュージカルの例の台詞

「好きで似せているわけじゃない」

「花影ゆれる砥水」によると、どうやら長義くん側ががっつり意図的に国広に「太刀筋」を似せているらしいんですよね。

ここ、他の作品にも共通する根幹設定ならめちゃくちゃ重要な話なんですが、そこがちょっと確定しない限りは迂闊なことを言えないネタでもあるよな、と。

今でも根幹設定確定とまでは言えないポイントだとは思います。

ただ、今回の長義くん極でミュージカルはやはりかなりそのまま原作の設定を置いたシナリオだと思われましたので、そろそろこの辺に踏み込んだ考察の準備をしておく頃合いかと。

原作ゲームとミュージカルの設定がほぼ共通するという仮定で話を進めます。

山姥切長義と山姥切国広はただ似ているのではなく、山姥切長義側が、写しの国広に太刀筋を似せている。

本当だったらかなり不自然な話ですが、我々には最初から心当たりがある。

「山姥切長義」という呼び名は、写しの「山姥切国広」由来。

先に国広が、「霊剣山姥切の写し」という逸話で顕現したから、それに合わせて来たのではないか?

……そろそろここを考えた方がいいでしょう。

 

2.刀剣男士の修行と自己認識

そもそも「刀剣乱舞」の世界は、一体どんな世界なのか。
そこは我々が知る現実と、果たして同じなのかどうか。

例えそれが我々の見ることのできぬ2205年設定だとしても、我々の生きるこの現実と完全に地続きなのか、まったく違う世界なのかで話は変わってくる。

源義経の刀・今剣は修行先で、義経が己を持っていないことに気づいた。
史実の中に自分の存在せず、創作の刀なのだと。

山姥切国広も限りなく史実そのものの世界を見ている。
山姥切の号は本来、写しの国広のものだった。それが後々、本歌の長義のものとなった。山姥を斬ったのは国広で、それで本歌が山姥切と呼ばれるようになった。これは現実の研究史通り……。

では、刀剣男士の修行先はこれまで認識していた創作の世界から史実へと戻り――。

いや、待てよ?

小狐丸の修行手紙はどちらかというと謡曲『小鍛治』じゃね???

刀剣男士の存在が史実寄り・創作寄りとタイプが分かれるように、修行手紙の内容も史実と向き合っていると思われるものと、君の修行先、謡曲の世界??? というものと、様々なタイプに分かれる。

また一つ、特筆すべき内容の修行手紙がある。

それにしても、変な感覚だよね、自分のすぐ側に、昔の自分がいるってのはさ。
……この後、あいつ欠けちゃうんだよなって、自分のことなのに、他人事みたいでさ。
なんだろ、これ。
(加州清光 修行手紙二通目)

加州は今剣と違って過去の世界の沖田総司が持っていた刀を自分であるとは認識しているようだが、一方で「自分のことなのに、他人事みたい」に感じていて、自分でもそれを不思議に思っている。

刀剣の逸話と言うのは、山姥切国広が言うようにもともと曖昧なものである。
一冊の本に載っている内容が別の本で否定されたり、何冊もの本に載っているけど必ず最後に「創作だろう」の文言がつくものもある。

とはいえ、逸話が曖昧だと刀剣男士の自意識が曖昧になるのかと言えば、そうとも言えない。

ほとんどの刀の逸話が曖昧ではあるが、逆に確実に曖昧な逸話や創作の逸話しかないタイプがみんな自己認識に迷っているという様子でもない。

五虎退や北谷菜切のように、逸話をさらりと否定するタイプもいる。

この違いは何なのか、何が重要で、何が違うのか。

これに関して、現実の認識ととうらぶの世界観の両方から考えたいと思う。

 

3.認識の作られ方

現実の認識に対して最近思うことがあるのですが、物語の語り手の重要性もさることながら、聞き手がそれを信じている、ということは重要ではないかと。

私は刀の研究史を個人的にまとめて出していますが、とうらぶ考察・二次創作の参考向けを意識しているので、あまり普通の刀剣書などでは見かけないだろうまとめ方をしています。ベース自体は大体『日本刀大百科事典』ですが。

例えば一振りの刀に史実A、創作B、創作C、史実Dみたいな内容の逸話があったとします。

普通の刀剣書だと割と簡素に出典元がある程度まとまっているものをそのまま丸写しして伝えていくタイプが多いです。

史実AとDだけセット、創作Bと創作Cがセット。それならその文章をまるまる書くというタイプです。

一方、うちのまとめ方は『日本刀大百科事典』を参考に、出典を意識しながらも更に内容を細分化して年代順に並べる方法です。
どこの家に買われたとかこの年にこれがあったとか、刀剣男士の認識する歴史の源であることを意識して、編年的にまとめております。情報自体の信頼性はともかく、研究書に載っている内容を年代順に片っ端から載せています。

そういうまとめ方をした文章を、他人はどう読むだろうか。

Bの内容は創作ですよーとちゃんと注意書きをしていても、読む人がその上で、自分が二次創作する刀剣男士の物語に面白い逸話、神秘的だったりドラマティックだったりする出来事をふんだんに盛り込みたいと願うなら、自分の物語にそのエピソードを書くでしょう。

そしてそれを読んだ人がまた面白いと思ったなら、その人の心の中で、その刀剣男士は一定の存在感をもって息づくのではないか。

上の加州の例で考えてみると、刀剣男士である加州の認識候補にはまず二つくらいあると思います。
1.加州清光が沖田総司の刀だというのがまず創作なので、それを起点に加州清光ではない沖田総司の刀が後に加州清光の名を得る物語として考える、自意識の発生は1800年代末期(幕末)沖田総司との出会いから

2.加州清光が沖田総司の刀として語られる内容をすべて事実として創作する、加州の自意識の発生は刀工の活動年代を参考に、1670年代辺りからとする

どちらを信じるかで大分話が変わると思うんですよね。

そして物語の作者は自分が憶測や明確に史実と反することを書いたことに自覚的にも、その話が魅力的であれば、読み手の方がその「物語」に価値を感じて己の記憶に、脳内に、そのキャラクターを住まわせると思います。

それが刀工に打たれた1600年代後半からの記憶をきちんと持っている加州だったり、あるいは山姥切界隈だと国広は打たれた年がはっきりしている刀なので、1590年に赤子・幼児の姿で本歌である長義と共にいる構造を描く審神者も多いと思います。

山姥切国広の作刀自体は戦時中の小田原城下よりは、足利学校の方が可能性が高いという研究内容をきちんと理解している審神者であっても、ね。山姥切国広の歴史を知るからこそ、そこに人間のような一貫性のある物語を想定する時、打たれた年やその時の状況に自分の中で取捨選択して都合をつけて一定の像を結ばざるを得ない。

物語とはそういうもの。語られる物語が美しければ、魅力的であれば。読者の想像を誘発し、その頭の中にその姿を住まわせる――認識させる。

私は正確な研究史、総ての話の出典を、最低限は出したい(とはいえ実際には本当によくわからないものもある)と思っている立場で、研究史上の理解だと加州の例なら1が正しい扱いではないかと思いますが、一方で我々の認識世界がどのように展開する話なのかで言えば2が正しいと思います。

どういうことか、もっと史実に迫った例で考えるならミュージカル「静かの海のパライソ」のシチュエーションを参考にするのが最適だと思います。

パライソ自体を見ていない方にはちょっと説明が煩雑になりますが、

「静かの海のパライソ」は、刀剣男士たちが本来の「天草四郎」死亡の現場を目撃して、このままだと正史通り島原の乱が起きなくなってしまうという事態を防ぐため、「天草四郎」を名乗って民衆を扇動し、正史通りに3万7千人が幕府軍に殺害される島原の乱を成立させるという物語です。

このクライマックスにとあるアクシデントが発生します。

シナリオの中で、特に浦島虎徹が仲良くなる、名前を名乗らない一見いわゆるモブ役の兄弟。
親が死んだからなんとか食うためにこうして一揆軍に参加しているという兄と、その幼く無邪気な弟。

その兄弟のうち、兄の方が、弟を守って最後に死んでしまいます。

「天草四郎」として活動していた刀剣男士たちは、その死を悼む。えらいね、最後まで弟を守ったんだ、と。日向正宗が、浦島虎徹が。
そして最後に鶴丸国永が、「天草四郎」を演じる上で用いたロザリオを、その首にかけてやる。

そして――物語の最後、幕府軍が「天草四郎」として掲げるものが、そうして天草四郎のロザリオを身に着けた、本来名もなき存在であった少年の死体である、と。

そういう筋立ての話となっております。

と、言うことは。

あそこで本来名もなき少年であったものが「天草四郎」として誤解された。
その場面に存在したこちらも名もなきモブ的幕府軍の一人一人の「記憶」の中では、「天草四郎」はあのお兄ちゃんになるんですよ。

劇中で鶴丸国永が、日向正宗が、浦島虎徹が「天草四郎」として行った事蹟を、彼らは名もなき少年・兄弟の兄の顔で想像する。

だとしたらその「記憶」でもって誰かに語られる世界ではやはり、本来「名もなき少年」が当たり前のように「天草四郎」として行動しているのではないだろうか。

原作ゲームの謎の一つ、合戦場は「記憶」。

誰の記憶なのか、何の記憶なのかはゲーム上でもずっと不明なのですが、人間の認識の当たり前の構造から戦場がそう名付けられる理由を推察すれば、こんなところになるのではないか。

「静かの海のパライソ」で彼ら自身名もなき幕府軍として必死に活動していた人々の、名もなき少年の死体こそが「天草四郎」だという事実誤認。

しかし彼らはそれ故にそれを信じ、その少年が天草四郎として行動している物語を自分の中で鮮明に思い描く。あるいは彼らの子や孫にそのことをいつか語るかもしれない。

その「記憶」の世界にいる「天草四郎」は、松井江たちが知っている本来の天草四郎ではなく、一つの物語の終わりに弟を庇って死んだ、名もなき少年の方なのだろう。

 

4.前々から謎だった世界線の話

まぁミュージカルが今後このネタをどの程度扱うかはさっぱり不明なんですが、もしも次にまた島原の乱に飛ぶことがあれば、その時はあの名もなき少年が元気に「天草四郎」として生きている世界かもしれないわけですよね。

それが、「記憶」という認識にまつわる世界線の移動かと。

とうらぶの大筋を考察するにあたって、そもそも根本的な「歴史とは何か?」と言う問いがあり、その問いに対し原作ゲームはもとよりメディアミックスを含む公式のどこからも答えの発表はありません。

一方で、刀剣男士に関する印象は、個々人の判断により若干差があるとはいえ、どの刀剣男士も基本的には同じ刀剣男士(個体差はあっても基本的には同じ性質)という前提で描写されているとは思います。

逆に、歴史上の人物に関しては、おもに加州の台詞になりますが、舞台でもミュージカルでも「正史の印象と違う」ことがたびたび指摘されています。

これも傍から見ると不思議な描写ですよね。歴史を守ると言うなら、そもそも同じ場所にみんな行かないのか。何故それぞれの本丸が別々の世界線らしきところに跳んで、似たような戦いを繰り広げるのか。

メディアミックスを含めて考えても、刀剣男士が完全に地続きの同じ世界に再び赴いていると断言できる例は極少(私の知る範囲だとジョ伝くらい? 悲伝の永禄の変は微妙に曖昧)だと思われますが、同じ人物が登場する物語はいくらでもあります。

特に豊臣秀吉や徳川家康などの三英傑や、幕末の新選組・坂本龍馬なども何度も登場します。
織田信長に至っては同じ舞台の中でもはっきりと登場しなかったり魔王様扱いだったりもはや手に負えません。

一人の歴史上の人物に関する物語がこれだけ無限に生まれる理由は何か。

正史とは、この言葉の本来の印象(今「正史」でググったら意外に使用範囲の狭い言葉でこれも実は広義的な使い方だったんだけど)からすれば、たった一つの正しい歴史だと思われる。

けれど、「刀剣乱舞」における「正史」は決してそういうものではない。

同じ人物に対し、無限の物語がある。そしてそこに存在するその人物たちは、どうやら正史ではなさそうだからと淡々と処理されているわけではなく、少なくとも「特命調査 慶長熊本」で地蔵行平が時の政府を裏切ってまで救いたいと思うほど、史実の本人と変わりない存在であるらしい。

その一方で、表面上は史実の本人であるその細川ガラシャが、歌仙兼定にとっては「地蔵行平、きみも気づいているはずだ。そのものは……もはやガラシャであってガラシャではない」(其の41『熊本城本丸御殿 最終戦』)と言うほどに、本人ではない。

これら細かい描写の積み重ねから、そもそも「刀剣乱舞」の世界は「認識」を主体とする世界観なのだろう、と多くの審神者に理解されていることと思います。

ただ、その「認識主体の世界」の捉え方に関しては人それぞれで、考察勢におけるその程度問題の推察と、おもに二次創作界隈で好まれる設定との間には大きな乖離もあります。

その部分にはかなりの注意が必要です。

私個人は、二次創作における「正しい名前を呼ばなければいけない」とか「号で呼べば存在が安定する」みたいな創作以外の何物でもない設定を公式作品の考察に持ち込む姿勢にははっきりと否定的です。

「名前」にある程度の効力がある一方、それが絶対でない反証も、例えば現実の研究史上の問題からメディアミックスの劇中の現象や台詞まで、いくらでも挙げられるからです。

「歴史とは何か」という問いもかなり難しいものですが、
「認識とは何か」という問いもまた複雑な性質を持っています。

 

5.同じ歴史の無限のバリエーション

認識主体の世界と一口に言ってもその言葉から推察される定義はおそらく多岐にわたり、絶対にこれと断定できるような要素は何もありません(はよ出してくれ公式)。

我々にできることと言えば、認識というもののごく当たり前の現実的な作用を整理して「刀剣乱舞」上の描写と地道に照合していく作業ぐらいでしょう。

そして研究史から受ける印象の変化、それを物語制作に転用する時の心理について、私はこうして原作を考察したりサイト制作したり二次創作をする関係でいつも考えていますが、その結果が上記3項目目、人の考え次第で一振りの刀の歴史に関する情報のまとめ方が変わることと、その影響を受けて創作する人々の心理と、その創作に魅せられて己の「記憶」にその存在を住まわせる心理の話です。

創作とされる今剣ですが、『義経記』ほどの古典作品かつ、作者が三条小鍛治宗近、拵に関する記述まである存在「今剣」を、完全に創作だと思う人は日本の歴史上だと果してどれだけいたのでしょうか。

むしろ今ほど歴史観というものが発展していない時代では、『義経記』の記述を源義経の真実の物語だと無邪気に信じ、愛し、心を寄せた人々はかなり多かったのではないかと思います。

そういう人々の「記憶」の中には、おそらく他の刀剣男士と同じように確固たる己の物語を持った今剣が存在している世界線というものが、最初からあるのではないか?

例えそれが、史実ではなかったとしても。史実が信じられることと、何ら変わりない重みで。

世界線の話に関しては、ミュージカル「つはものどもがゆめのあと」で膝丸が興味深いことを言っています。

この歴史は俺達の知っている歴史ではないのではないか、というようなことを。

膝丸は藤原泰衡の性格が、自分の知っているものと違うことを重視し、その結論としてこの歴史が自分の知っている歴史ではないとしています。

その世界の中で歴史上の人物の性格がスタンダードなイメージとは異なることを指摘する加州の一歩先を行く結論かもしれません。

人物の性格が違うならば、その背景はやはり歴史そのものが、自分の知っているものとは違うのではないか、と。

んー、私は基本的には原作ゲーム中心勢ですのでメディアミックスの履修が途中なのでその辺はあまり詳しく考察できていないのですが、

とりあえずこの件に関しても正直明確な回答は得られたとは言い難い現状だと思っています。

とはいえ、「つはものどもがゆめのあと」による膝丸の指摘や、原作ゲームの修行手紙から判明する今剣の存在や、同じように修行手紙で加州がかつて沖田総司のもとにあった自分をまるで他人事のように感じていることなどを重視すると、

そもそも刀剣男士の出陣先や修行先は特定の「時代」ではなく、その時代にまつわる誰かの「記憶」という、おそらくは「世界線」単位で話の異なる世界だと考えるのが、シンプルなものの見方のような気がします。

 

6.2018年の山姥切問題に関しては、最低限知識として抑えておく

刀剣男士の修行先が、仮に自分の記憶の主体となる歴史とは別の世界線だとすれば。

同じ歴史を共有しているはずの、山姥切国広と山姥切長義は、果たしてそれぞれ「どの」歴史へと赴いたのだろうか。

これを考える前に、一度この議論に立ち塞がる最大の壁について認識し整理しておく必要があります。

そもそもの話として、まず山姥切問題と言われるあれこれが発生した前提に、この号の問題があり、山姥切国広の本歌はどういう名で実装されるか、サービス開始した比較的初期から注目されていたという話があります。

私はその頃まだとうらぶに触れていない時期ですのであくまで伝聞や過去のログを漁って知った結果ですが、徳美の論文による見解は2015年以前から発表されていたらしく、とうらぶ最初期の頃から、すでにもともと刀剣に詳しい層はこの話題で議論している様子が伺えます。

そして2018年になり実際に本歌が「山姥切長義」として来たことで、「山姥切」の号は本来どちらのものだったかの話題に本格的に火が点くことになりますが。

……えー、その時に山姥切国広推しを名乗る質の悪いプレイヤーが故意に山姥切長義を折るという暴挙をかまして界隈を大混乱に叩き込み、そして当然のことながらその行為にキレた山姥切長義推しも国広推しというか、国広自身をも悪し様に罵り、少しでも長義を否定する発言・行為を許さないと言う態度で界隈の悪しき風潮を作り上げていったという経緯があります……端的に言ってこの世は地獄です……。

まあこれも私は過去ログを漁って知ったことであり当事者ではないんですが。

どちらの立場にしてもそんな横暴を許しちゃいかんだろうと言うのは簡単ですが、当時のログや今現在話題に挙がっている長義関係の考察を出している人々の過去の述懐、二次創作者が作品投稿時につけるキャプションで時折ぽろりと零す言葉などからすると、そういう横暴なことをする人々の抑圧はかなり激しいもので、それこそ余程の度胸がなければ言いたいことも言える状態ではなかったようです。

国広推し、長義推し、どちらであっても。

また、刀剣に関して詳しい人はあらかじめ徳美論文と同じだけの情報量を得ていたとは言っても、実際に刀剣男士としての山姥切長義が実装されたからと言って、その人たちに推されたというわけでは当然ないでしょう。

それまであまり山姥切国広の本歌について考えることのなかった人々が、山姥切長義が実装されて愛し、初めて一から刀剣の逸話の研究を始め、山姥切の号の問題についてきちんと理解して正しいことを言えるようになるにはある程度の時間が必要。

山姥切長義実装当時のトラブルに関して、その時点では誰も長義のことを庇えなかった、という後悔や悲哀こそが、今でも一部の人々が過度に山姥切長義を擁護して、その批判を一切許さないような風潮に寄与している側面があります。

とはいえ、ゲームの外は外。

その刀剣の研究史のような明確に連動のある事蹟と違って、原作側が関与していない現実のプレイヤー間のトラブルなどという問題を、作品の正確な解釈を追求する考察の中に持ち込むのは、はっきり言って、愚の骨頂。

逆にそうした出来事による先入観を実際の「山姥切長義」の考察からは、徹底的に排除する必要があります。だからこそいちいちこの問題について確認しなければならないと思います。

 

7.回想57の沈黙

さて、本題に入りましょう。

そもそも現実には「本作長義(以下58字略)」である刀剣が何故「山姥切長義」の名で実装されたのか。
山姥切国広を相手に回想56、57で主張した「俺が居る以上、『山姥切』と認識されるべきは俺」という言葉の真意は何か。

その台詞から想定される、世界観的な背景事情は?

この辺りの考察です。

まず、「本作長義(以下58字略)」が「山姥切長義」として実装されたこと自体は、それほど驚くことでもないと思います。

たまに「本作長義(以下58字略)」と「山姥切長義」の存在が頭の中で繋がらないと嘆いている人もいますが、それは多分山姥切伝承の理解の努力の不足というよりも、シンプルに「刀剣書を直接読むという作業の不足」から来るものだと思います。

伝承と号の混乱経緯そのものを理解するために、徳美の論文や他の審神者の調査した報告書を読んで学びましたという人は多いと思うのですが、それだけだと研究史に関する理解は不足します。

私が実際に徳美論文の記述中心の理解からその結果だけじゃどうにもしっくり行かなくて、研究書を読み、それぞれの説の発信元となる研究者各位の周辺事情なども多少調べる作業に移行したからわかるのですが、実際に徳美の「本作長義(以下58字略)」が「山姥切」として当然のように紹介されている研究書をぐるぐる読んでいるうちに、「本作長義(以下58字略)」=「山姥切長義」は嘘でも何でもなくめっちゃそう呼ばれてるな……と頭の中で繋がります。

徳美の論文だけや、他の審神者の先行研究だけでこの件を理解しようとして壁にぶつかっている方々は、かつて発行された刀剣書を国立国会図書館デジタルコレクションなどで確認して、別の刀の話でもなんでもなく今も徳美にいる長義くんがこの頃めっちゃ山姥切って言われてて、国広くんはその写しだよーって言われてるんだな……と確認してくるのが早いと思います。

そしてその上で、とはいえ所蔵元の徳美もこの刀に「山姥切」の号はありませんと説明している刀の刀剣男士の自意識がどういうものであるのかは、真剣に推測する必要があります。

誰かにそう呼ばれている名を、相手が真実自分の名だと捉えているのかは、当事者の発言を聞かなければわからない。

「山姥切長義」に関しては、回想57で「俺が居る以上、『山姥切』と認識されるべきは俺」という発言をしているのが引っかかるという指摘は、かなり昔からあります。私が考察を始める前からあったというか、多分普通にみんな長義くん実装当初から考察はしていると思うんですよね。

「俺が山姥切だ」ではなく、
「山姥切と呼べ」でもなく、

「『山姥切』と認識されるべきは俺」。

逆に言えば、実質は「山姥切」ではないとも受け取れるし、それでいて、国広ではなく長義の方が「山姥切」と認識されなければならない何かがある、それが果たされなかったらどこかの誰かにリスクがある話かもしれない、ということも考えられる。

この仮説を出した時に重要になるものこそが、今回考察の冒頭に掲げたミュージカル「花影ゆれる砥水」における一言。

太刀筋の話ですが

「好きで似せているわけじゃない」

似ていることが前提というよりも、長義側が、あえて、国広の太刀筋に寄せている……?

こうなってくると、やはり「山姥切」の認識に関わる話の当事者は、長義のみではなく、「長義と国広」の両方にかかってくると考えた方が自然だと思います。

それこそ二次創作における弊害ですが、長義くんに同情を寄せすぎる層が長義くんの回想56、57辺りの振る舞いを正当化するために、そうしなければ刀剣男士は自分の存在が危ない、というような認識を持ったり大々的に喧伝したりしています。

これに関しては、そう名乗らないと自身の存在が危ないとかそういう自己保身的な理由だと考えるのは正直、原作ゲームにしろメディアミックスにしろ今まで描かれてきた公式の山姥切長義像に失礼ではないかと思います。

そしてこれが長義と国広両方に関係がありそうだというのは確かなのですが、だからと言って、その件で国広を責めたり、国広に長義の行動を恩に着ろと迫るのも違うと思います。

山姥切の「名」を巡る問題に関しては、山姥切国広だって己の修行の中で、その気になれば否定できたはずの本歌の号を、自分が本物で本歌が偽物だと否定したりはしませんでした。

むしろ、自分にも本歌にも号があるという結論を探し出してきたことこそ、本歌である長義への愛や誠意というものだと思われます。

相手のために時に己にとって都合が良い答えを諦めたり、不都合な状況に甘んじる、そういう態度は本歌と写しのどちらにも見られる要素であって、そこにどちらが良いも悪いも正しいも間違っているもない、と考えるべきだと思います。

……この説明がややこしくなるから嫌だったんだよなこの考察(本音)。

長義くんの行動が自分や国広の身にも関わることであったとして、それは一見一部の界隈の二次創作的な考察を肯定することにもなりそうですが、

だからと言って、長義くんの振る舞いを完全に美化しすぎるのもまた違うだろうと。

長義なんてただの嫌な奴でしょという言論には原作ゲームからメディアミックスまで長義くんの行動が実際その時その時の状況をどう改善しているかなどの視点からガンガン反論してきたいのですが、

今回のようにそういう設定上の気配はあるけれど、あくまで憶測であって断定に至らない状況って正直めちゃくちゃ厄介なんですよね。

面倒くさいという理由で目を逸らすのもあれなのでやはり一度は話を整理しておかなければと思いますが……。

何はともあれ、今回の山姥切長義・極に関しては「花影ゆれる砥水」辺りが初出の情報をぶちこむとかなりその状況を想像しやすくなることは確かです。

もともとメディアミックスのそれぞれの刀剣男士像は、一見個性豊かに見えて根幹設定はかなり共有されているのではないという方向で考察していたこともあり、「花影ゆれる研水」と山姥切長義の極修行手紙が照合できるかの考察はむしろ真剣にやった方がいいと思います。

「好きで似せているわけじゃない」との台詞が出る小竜くんとの手合せは、次に小竜と大般若の手合せに移り、その後三振りで放棄された世界の話になり、場面転換して今度は長谷部が主への想いを謡うソロ曲から、ミュージカル本丸の主との会話で、「へし切長谷部」と言う名前は気に入りませんかという話になる。

このシナリオの展開にまったく何も意図がないと考えるのはそちらの方が変でしょう。

手合わせ、山姥切長義の事情、放棄された世界の話、主への想い、刀剣男士は己の名にどんな想いを抱いているか、これらはもともと一つながりで考えるべきテーマなのだと思われます。

そして山姥切長義の刃物像に関しては、舞台の方と一致することにも着目したいと思います。

慈伝の長義はやたらと国広に何か言いたげで、けれど決して本心を話していないと思います。
彼の真意はむしろその行動の方にこそあり、名を賭けた強引な手合せ勝負は、しかしそれによって国広が迷いを吹っ切り、修行に出るという良い結果をもたらした。

この行動の意図らしきものを補完するのがそれこそミュージカルで、長谷部のために手合せを申し込む場面ですが、そこでも決して相手のためだとは言わないことこそ、山姥切長義の一番の特徴だと考えられます。

今回の極修行手紙に関しても、正直一番大事なこと、写しに関する想いはむしろ「語られていない」、長義は決して、国広そのものに対する自分の想いは語らないのではないかと思います。

傑作である自身を写したという確定事項と対外的に高く評価されている事蹟について客観的に説明することはあっても、その結果に対し、自分がどう思っているかは終ぞ明かされない。そういう刀剣男士だというのが中核ではないかと思います。

まあ明かされていないものを想像しても仕方がないので、今はむしろ世界線に関する他の情報からの考察の延長でこの現象から山姥切長義の修行の性質について考えたいと思います。

長義くんの行動に愛がないとは言わないし、行動からいえばむしろ何らかの愛はあるだろうと思われるが、それがどういうものなのかの詳細なんぞ考えても仕方ない。

しかし、現実の研究史から言えば「本作長義(以下58字略)」として実装されてもいいはずの刀剣男士が「山姥切長義」として顕現したことに対して、何らかの物語上の制約から「国広側に合わせる」、あるいは単に「国広と合わせる」必要性があったとするならば、修行の中身の想像が変わります。

山姥切国広は公式の紹介文からすれば、一見「霊剣山姥切の写し」という物語の世界線に存在しそうな刀剣男士です。
けれど修行先で国広が見てきたものは、本歌ではなく自分が山姥を斬ったから本歌が山姥切と呼ばれるようになった世界であり、国広自身には自分が山姥を斬った記憶はありません。

刀剣男士が認識する己の物語と、その物語が中核である世界線は同じでしょうか。
また、修行先の世界線は、本当に全て同じ正史なのでしょうか。
それは我々が守るべき歴史と同一のものなのでしょうか。

……そして、もし、山姥切長義の刀剣男士としての行動が、国広側に合わせる、あるいは二振りで足並みを揃えなければいけないものであり、それを最初から長義が理解していたとするならば。

「送り出されてしまったのだから、致し方ない」

「どこに行っても正当な評価を得ることができる気がしない」

「それだけのこと」

最初から己の認識とはズレた、「山姥切」の号の話を中核に語られる世界、刀剣としての本質を見るものなどいないとわかっている世界で己の正当な評価を求めるというのは……正直、すごく虚しい行為なのかもしれない。

これ自体が完全に憶測なのでもちろんそうと決まったわけではないのですが、本当に長義くん側が国広に合わせる理由が何かあって、最初から自分が欲するようには自分を見る人がいない世界に送り出されることがわかっていたとしたら……やはり、虚しいでしょうね。

「本作長義(以下58字略)」の評価が高いのは昔からですし、北条氏から長尾顕長への下賜や、尾張徳川家に購入されたことなどは普通に刀剣の歴史を考える上では見落としにくい確定した事実です。

どの時代でもその価値に見合った扱いはされているはずだと思いますが、それでも最終的に山姥切の号という上辺の問題に帰結することが確定している世界なのであれば。

見てきた歴史に関して熱心に状況報告とその感想を綴ってくれることの多い他の男士たちと違って、わずか三行でその報告を済ませ、さっさと審神者の評定に入るのも無理からぬことかもしれない。

けれどその虚しさについて深く考えれば、むしろこれまでの原作ゲームからメディアミックスまで、様々な山姥切長義像の一貫性がかなり確立されるのも捨て置けない。

それが本当に長義の事情であれば、回想57の極国広の言葉はそりゃー腹が立っただろう、「……くそっ……くそっくそっくそっ! なんなんだよ!」にもなるわなと……。

(もちろん国広には国広自身の極修行を得てちゃんとその考えに至った理由があるので何も悪くない)

極国広の主張の話は、長義はむしろ最初から理解し、その上でああいう振る舞いをしていたと。

この解釈をとると、長義の行動原理に関してはむしろ考えやすくなったと思いまます。

回想57の長義は結局、自分の本当の想いは明かしていないのはもちろん、事情も明かしていないと思います。

国広の主張に対しては回想56とも共通する、ある意味用意してきたととれる言葉を返すだけで他の反論はほとんどしていませんが、「……なにを偉そうに語ってるんだよ」「お前が御託を並べようと」の台詞から感じ取れる苛立ちにはやはり理由があったと。

長義がその事情を語らない理由、そもそも国広自身も自分に山姥を斬った記憶はないとし、本当にそれ以上のことは何も知らなさそうな理由などはまだまだ明かされそうにありません。

 

8.「刀剣乱舞」の物語と極修行

今回の長義くんの極修行によって、極修行手紙はやはりその刀剣男士自身の来歴や背景事情の説明というよりは、「刀剣乱舞」という物語のシナリオを構成する一角だと思いました。

プレイヤー側が望むようなその子への解釈を完成させるための刀の来歴の認識の説明や、刀剣男士としての本心の開陳などは望めないんだろうな、という結論です。

確かについ最近も、とっくの昔に極めている亀甲貞宗が道誉一文字の登場によってようやく初の回想が追加されたくらいですし、極修行は刀剣男士にとってのゴールどころかただの通過点に過ぎません。

いや長すぎだろう、通過点どころかゴールにしてほしいと思っている人が多いだろうしそれだって一振りあたり6年以上は待たせすぎぃ!!(愚痴)

他の刀剣男士が比較的来歴の説明をしているように見えるのも、来歴の説明をしてくれているというよりは、その子の来歴自体が、「刀剣乱舞という物語」の「構造を担っている」から説明が入る、という形だと思います。

来歴として書くことが充実している刀とそうでない刀というのはやはりありますが、この前の豊前江の極修行手紙なんかを読んでも、来歴として書くことがないからぼかしているというよりは、

「刀剣乱舞」内で回想148「光と闇の先へと」を前もって出しているように、刀そのものよりも「刀剣乱舞」における刀剣男士・豊前江にまつわる物語から構成している内容だと思います。

これ以上踏み込んで考えるにはちょっととうらぶ内のメタファーの考察がまだまだ進んでいないんですが。

来歴という確実性の高いものから離れて世界線の考察に踏み込むのは、とにかく相手をやりこめたい国広推しにしろ長義推しにしろ、都合のいい部分だけ主張したい輩を助長しそうなんで本当はイヤなんですよねぇ。世界観や世界設定なんて原作側が明言しない限り憶測しかしようがないわ。

とはいえ原作ゲームが出してきた情報を無視するわけにはいかない。原作ゲームそのものよりはメディアミックスとの相関がよりはっきりした形になりますが、それもまた情報。

メディアミックス描写が原作ゲームの長義くんの内面を充分に補完しているものならば、設定方面もまた然り。その方向で最低一度は考えてみる必要があるでしょう。

長義くん極という今回の流れに関して、来歴に拘らずにゲームの情報から考えるべきでは、という主張もいくつか見かけていますが、結論自体は妥当でも主張の仕方には異議を唱えます。

現実の刀剣をモデルとした作品である以上、来歴は最も尊重し、最大限に重視するべきだと考えます。
そしてその上で、なおかつ来歴との一致部分を提示されず、来歴からの考察には限界がある情報だけを与えられたなら、潔く来歴から考察するという主張を捨て、他の道を探すべきだと思います。

来歴からの考察を捨てるのは、来歴との照合ポイントを十全にチェックして噛み合わないことを証明してからの話ですね。
例え結果的にその部分の考察に来歴から推察するべきポイントが少なかったとしても、来歴そのものは決して軽視するべきではない。

まず現実的に最も重要な来歴と照合してから、その事実を「刀剣乱舞」という物語がどんな風に扱っているかを真剣に探る必要があると思います。

長義くんに関しては、来歴からの考察という方面の話になると、必ず写しの国広の話題が付いてきます。

特に山姥切の号の混乱に関しては、先に国広がほぼ現実の研究史通りの来歴の話を持って来ています。

だから長義・国広の考察に関して来歴を雑に扱うのは、国広の主張を雑に扱うのとほぼ同義にもなっているのが現状です。

長義くんを擁護するために正しい来歴の話を否定し、山姥切の号を背負ってこなければならなかった! と主張しがちな人の話には、ほぼ同時に国広への理不尽な批判がくっついていることも多いですからね……。

長義くんが何らかの理由で国広側にスタイルを寄せていることは「花影ゆれる砥水」の例の台詞を考慮すると十分にありえる話だとは思いますが、あくまでそれぐらいで、それがどんな事情か、どれだけ正当性や逼迫性があるかという詳細はまったくわからないのが今の状況です。

さて、そんな長義くんの極修行が、本当に大事なことは何も言わない、本音を吐露するどころか、相手に聞かせても構わない部分しか手紙を書かないものだったとすると。

極修行での情報開陳に期待がかかるのは、同じ「監査官」という立場の一文字則宗ではないかと思います。

この「監査官」要素が単に役職を与えられただけというものではなく、「山姥切長義」という刀剣男士の本質に結びついたものだとするならば、普通に考えて一文字則宗も同じだと思われます。

まったく愛という言葉を使わない山姥切長義と、愛について積極的に解説する一文字則宗でセットになっている気がするので、御前ならばもうちょっと情報落としてくれそうな気はしますね。まぁ手紙の文面で突然監査官要素をぶっこんでくるとはもちろん思っておりませんが。御前は御前で読めない。

ところでまだ2018年実装で極めていない刀剣男士が残っている現状で、一文字則宗の実装は2021年なわけですが(どんだけ待つんや)。

……えー、追加情報の期待自体は、それこそ極め終わってる小竜や亀甲の回想が道誉追加によって新たに増えたように、どちらかというと新刀剣男士の登場に期待したいと思います。

その刀剣男士個刃の想いはともかく、世界観、世界のルールに関する部分の話は誰がいきなり始めるかもわかりませんので、他の刀剣男士の発言も、過去のものを遡って色々調べた方がいいと思います。

え? やるの? 俺が??(作業終わらねぇ)

 

9.憶測は愛、しかし真実の欠落

憶測はやはり愛だな、と今回の極考察の多数を見て思うのですが。

一方で、こうも思いました。

愛ある憶測で補わなければならないと感じる時点で――大元の情報は欠落している。

憶測によって「不明」を埋めたいと感じ、相手の立場に立ったつもりで相手の事を考える。
それが真剣であれば真剣であるほど、その憶測と真実にはほとんど差などないのかもしれない。

けれど、それこそがまずいのではないか?

確定ではない己の憶測と、判明するかどうかもわからない真実との境目を失って、どこからどこがどちらだったのか、わからなくなってしまう。

山姥切長義・極に関しては、内容のしっかりした考察を出している方の方がどこかしら何かに不安や苦言を感じるような一言がついていた印象です。

その慎重さに訴えかけるもの、あるいはちょっとした不満につながるもの。

それは多分、情報の欠落した部分を自分が憶測で埋めてしまっている、真実を追っているはずなのに真実から遠ざかる行動をとっている矛盾に対する違和感ではないかと思うのですよね。

憶測と言うのは大体考察の途中で出すもので、それが結果・結論ならば憶測の意味は半減します。

不明は結局不明、憶測することでそちらに思考が流れ、やがて憶測が独り歩きすると真実を見失っていく。

ここをゴールとしないのであれば、その言葉の意味を確かに理解するためにはやはり思考を働かせなければならないので憶測も必要なのですが、「不明」という根本的な事実が存在するのを忘れて憶測に夢中になると何もかも見失う、表面上の話に終始してしまうと。

憶測が発生するのは不明な情報がある時、逆に言えば、確定情報に関しては、知識がある人はほとんど意見が一致する。

実際、今回も特にさっさと鳩飛ばしたり4日目の帰還からすぐ考察を書いているような層は来歴・研究史に関する知識はしっかりしているタイプが多く、一通目の解釈は「自分が山姥を斬っていないことを最初から知っていた」で一致していると思います。

逆に二通目は人によって答えがばらばらで、いくつかの選択肢に絞れるものの、そこから誰か一人に定めるのは難しい。

この状況自体が、やはり考察が難解な情報というよりも、情報そのものの欠落を示すものだと思います。

とはいえ、それはつまり憶測をするなという話ではなく、情報が欠落していることをきちんと認識しつつも、憶測を重ねて前に進まなければならないという話になります。

そういう意味では来歴からの照合重視でやってて開始二分くらいで即こりゃ無理だわと投げた俺が一番愛がないのかもしれない(それでいいのか長義推し)。

 

10.情報量の話

今回の長義くんの手紙……改めて考えると、情報量自体がまったく増えていない気がします。

原作ゲームだけで見ているとあまり思い浮かばなかった内容であっても実際には発想の種はもともとあり、メディアミックスも見ればほとんど確定と言っていいような内容の集大成と言うか。

長義くんの極に関して「変わっていない」と感じる方は、むしろこれまでの時間で自分が可能な限り「山姥切長義」とはどういう刀剣男士かの考察をやりきって、その人自身の一貫した回答を見つけているので印象がぶれていないのではないかと思います。

逆に今回の極で成長したと思う人たちは、これまで知らなかった情報があり、その矛盾を飲み下したと解釈してそれを成長だと感じる層なのではないか。

知らないことに直面してそれに対し何らかのスタンスを決断するというのは、人間にとっては成長に感じられやすいです。

一つの言葉であっても人間は結局その言葉の印象を決めるのは自分という存在ですので、自分の軸がぶれていなければ自然とそういう結果に納まるのだと思います。

しかしよく考えてみると、ミュージカルや、あるいは舞台などのメディアミックスとの相関性がかなり明らかになる修行手紙ではありましたが、新情報と言えるような内容はなかったのではないかと。

とうらぶという物語の中の一部として山姥切長義のスタンスをここで示して次の物語に行くことは必要だったと思うのですが。

もしかして、極に関して、これまでわからなかった部分が新たに判明することを期待していた身としては新情報的なものは増えていない……?

う~~~ん、まぁ上でも触れたように、極修行はそれ自体が刀剣男士のゴールではないんですよねぇ。

プレイヤー的にはシステム的に新たなステータスを得て強化されて帰ってきてくれただけで十分。

考察に関しては、刀剣男士はそれぞれ単体で見るより、全員合わせて「刀剣乱舞」という物語の一部であるという観点で考察しないとダメな気がします……。

ちょっと今回は来歴やメタファーと言った手堅いネタから離れて、原作側から明かされない限り結局のところはよくわからない世界観、世界設定から考えられそうなことに突っ込んでみました。

今のところ出せそうな考察はこれで最後か。

あとは「主」という属性との不可分性に関する考察ですが、これは多分「人」メタファーの考察として全体考察の一部になるでしょうから、また違った話になると思います。

舞台側で国広の修行先が日本刀史という名目で様々な人の歴史を見ているというのも、この「主」=「人」要素との互換ではないかと思います。

この辺りはまた「人」「主」「審神者」に関する追加情報が来ないと難しいかなと。

と、いうわけで失礼します。