やげんとうしろう
概要
銘文、表記、呼び方等
「薬研藤四郎」
(「薬研徹し」「薬研通」も同物の可能性がある)
略歴
『享保名物帳』焼失之部所載、鎌倉時代の刀工・粟田口藤四郎吉光作の短刀。
『享保名物帳』『応仁後記』『足利季世記』などによると、
1500年(明応9)4月9日、畠山政長は、河内国渋川郡賀美郷(大阪市平野区)正覚寺の居城を、細川政元・畠山義豊らの軍に囲まれた。
自決する時、この短刀で腹を三度まで切ったが、切れなかった。
それで投げ棄てたところ、近くにあった薬研を表裏に貫いた。
家来の丹下備後守が、自分の差料・信国の短刀で、この刀は切れ味がよいと膝を二度刺したあと、政長に差し出したので、それで腹をかき切ったという。
『信長公記』によると、
その後、松永久秀が入手し、1573年(元亀4)正月十日、濃州岐阜へ行ったとき、織田信長に贈った。
『天王寺屋会記(津田宗及茶湯日記)』によると、
1580年(天正8)2月22日、天王寺屋こと津田宗及が京都に来た時、信長をたずねると、信長は薬研藤四郎や実休光忠を津田宗及に見せたという。
1582年(天正10)6月、信長が本能寺で敗死した際、薬研藤四郎も殉じたと考えられている。
1500年(明応9)、畠山政長自害の事
『享保名物帳』『応仁後記』『足利季世記』などによると、
明応9年(1500)4月9日、畠山政長は、河内国渋川郡賀美郷(大阪市平野区)正覚寺の居城を、細川政元・畠山義豊らの軍に囲まれた。
自決する時、この短刀で腹を三度まで切ったが、切れなかった。
それで投げ棄てたところ、近くにあった薬研を表裏に貫いた。
家来の丹下備後守が、自分の差料・信国の短刀で、この刀は切れ味がよいと膝を二度刺したあと、政長に差し出したので、それで腹をかき切った。
『刀剣名物牒』(データ送信)
著者:中央刀剣会 編 発行年:1926年(大正15) 出版者:中央刀剣会
目次:(下) 同右〔燒失の部〕
ページ数:66、67 コマ数:36
信長公御物
薬研藤四郎 長さ八寸三分、無代 一本長さ九寸三分とあり畠山尾張守政長所持、居城河内国正覚寺へ細川政元、畠山義豊責寄候時、明応九年四月九日政長生害の節此短刀にて腹切らんと曾て三度迄突立けれとも通らず、名作とて持伝無益の道具かなとて抛けれは傍に有之ける薬研へ突立、表裏二重を遠し貫く、主の別を思ふ故か丹下備前守信国鵜首造り之脇差にて我腹を二度迄突、刃味よし是にて遊はし候とて出す、夫にて腹切る夜の事也。元亀四年正月十日松永弾正父子尾州岐阜へ参向の刻信長公へ上る、京都本能寺にて焼る。
『詳註刀剣名物帳 : 附・名物刀剣押形 増補』
著者:羽皐隠史 発行年:1919年(大正8) 出版者:嵩山堂
目次:名物「燒失之部」 薬研藤四郎
ページ数:226~228 コマ数:128、129
信長公御物
薬研藤四郎畠山尾張守政長所持、居城河内国正覚寺へ細山政元、同義豊責寄せ候時に明応九年四月九日政長生害の節、此短刀にて腹切むと三度まで突立けれども通らず、名作とて持伝へたれど無益の道具かな迚擲すてければ、傍らに有之ける薬研へ突立、表裏二重に貫き通す、主の別を思ふ故か、丹下備前守、信国鵜首造りの脇差にて我腹を二度まて突き、刃味よし是にて遊ばされ候へ迚出す、其にて腹切る夜るの事なり、元亀四年正月十日松永弾正父子尾州岐阜へ参向の刻、信長公へ上る京都本能寺にて焼る。
『史籍集覧 第3冊 第3冊 通記類(3版 明治43) 第9 池の藻屑(荒木田麗子) 第10 桜雲記,第11 南方紀伝,第12 菊池伝記(井沢長秀) 第13 浪合記,第14 信濃宮伝,第15 十津河之記,第16 底倉記,第17 応仁前記,第18 応仁広記,第19 応仁後記 改定』
(『応仁後記』収録)
著者:近藤瓶城 編 発行年:1906年(明治39) 出版者:近藤出版部
目次:通記第十九 應仁後記
ページ数:19、20 コマ数:326、327
政長最期ノ酒宴ヲ始メ其時城中ニ籠ラレケル葉室大納言光忠卿ヲ始メ參ラセ一味ノ面々ニ盃ヲ廻ラシ心靜ニ念佛申シ車座ニ並居テ各々腹ヲ切ラントス政長ハ藤四郞吉光ノ脇差ヲ提ケ腹ヲ三度切給シニ三度ナカラ切レサリケレハ政長大ニ怒テ其刀ヲ投ヤリ給ケレハ傍ナル藥研ニ當リ藥研ヲハ裏表二重迄通シケル其ヨリシテ此短刀ヲ薬研藤四郎トソ名付クリ扱ハ重代ノ名劔ニテ此刀ノ主人ノ死ヲ惜ミケルソヤト皆人感歎シタリケル是ヲ見テ丹下備後守冠リ落シノ信國ノ刀ヲ拔テ己カ股ヲ二刀突通シイカニモ刄心能候是ニテ遊ハサレ候ヘトテ政長ノ前エ差上レハ政長頓而此刀ヲ逆手ニ取直シテ腹十文字ニ搔破リ
『史籍集覧 第13冊 改定』
著者:近藤瓶城 編 発行年:1912年(明治45) 出版者:近藤出版部
目次:第百十六 足利季世記 巻第一 畠山記 畠山政長自害之事
ページ数:138~140 コマ数:75、76
明應二年四月九日ノ夜ニ入テ政長ハ心ヤスシトテ葉室大納言光忠卿以下籠城ノ人々最後盃シテナミイテ腹ヲ切給フ政長藤四郞ノ刀ニテ腹ヲ三度マテ引給ヘトモ曾而キレサリシカハナケヤリ給ヘハソハナルヤケンニアタリヤケンヲハウラヲモテ二重トヲシケル扨コソヤケン藤四郞トモ申ケル扨テハ重代ノ刀ニテ主ヲ惜ミケルソヤイカヽスヘキト宣フ處ニ丹下備後守カムリ落シノ信國ノ刀ヲヌイテ己レカモヽヲ二ツ突通イカニモ刀ヨシトテ政長エ奉ル政長是ヲ逆手ニ取ナヲシ腹十文字ニカキ破リ光忠卿エ刀ヲ奉ル其後次第ニ腹ヲ切リ二百餘人一人モ不殘自害シ城ニ火ヲコソカケタリケル
松永久秀が入手、1573年(元亀4)年に織田信長へ贈られる
その後、松永久秀が入手し、元亀4年(1573)正月十日、濃州岐阜へ行ったとき、織田信長に贈った。
(『信長公記』)
『日本刀大百科事典』では元亀4年(1573)正月十日に贈ったとなっているが、下記の引用文からするとこの日の記述に「以前も、代に隠れなき薬研藤四郎進上」とあるので薬研藤四郎の進上自体はもっと早いと考えられる。
『戦国史料叢書 第2』(データ送信)
(『信長公記』収録)
発行年:1965年(昭和40) 出版者:人物往来社
目次:巻六(元亀四年癸酉)
ページ数:131 コマ数:69
正月八日、、松永弾正、濃州岐阜へ罷り下り、天下無双の名物、不動国行進上候て、御礼申しあげらる。以前も、代に隠れなき薬研藤四郎進上なり。
1580年(天正8)2月20日、『天王寺屋会記』の記録
天正八年(1580)二月二十二日、天王寺屋こと津田宗及が京都に来た時、信長をたずねると、信長は薬研藤四郎や実休光忠を津田宗及に見せた。
(『天王寺屋会記(津田宗及茶湯日記)』)
『茶道古典全集 第7巻』(データ送信)
著者:千宗室 等編 発行年:1959年(昭和34) 出版者:淡交新社
目次:天王寺屋會記 宗及茶湯日記 他會記 四 自天正七年至天正十一年他會記
ページ数:314 コマ数:170
『津田宗及茶湯日記 : 評註 他会篇 下』
著者:松山米太郎 評註 発行年:1937年(昭和12) 出版者:津田宗及茶湯日記刊行後援会
ページ数:317 コマ数:98
1582年(天正10)6月2日、本能寺の変で焼失
『享保名物帳』によると、
天正10年(1582)年6月、信長が本能寺で敗死した際、薬研藤四郎も殉じたと考えられている。
『詳註刀剣名物帳 : 附・名物刀剣押形 増補』
著者:羽皐隠史 発行年:1919年(大正8) 出版者:嵩山堂
目次:名物「燒失之部」 薬研藤四郎
ページ数:226~228 コマ数:127
政長自刃後、豊臣家、そして徳川家に渡ったという異説(誤伝)
『古老茶話』などで、
畠山政長自尽後、豊臣秀吉が入手し、秀頼に伝えた。
秀頼はそれを慶長十六年(1611)3月28日、二条城会見のさい、徳川家康に贈った。
刃長は九寸五分(約28.8センチ)だった、となっているのは誤伝だという。
『関難間記』のように太刀であったというのも誤伝。
『日本随筆大成 巻六』(データ送信)
著者:日本随筆大成編輯部 編 発行年:1927年(昭和2) 出版者:日本随筆大成刊行会
目次:古老茶話
ページ数:102 コマ数:60
薬研藤四郎といふは、畠山尾張守政長危急の時、自害せんとて喉にあてしに、且又其剣ざる也。依之後に取て投ければ薬研に立たり。是主の身に不立名剣とて、天下の重宝として、太閤より秀頼所持、秀頼より慶長四年京都二條の城にて、神君に対顔の節被進之、永く徳川家の宝物と成る。至于今御装束下には被帯之、長九寸五分有也。
『日本歴史文庫 〔13〕』
著者:黒川真道 編 発行年:1911~1912年(明44~45) 出版者:集文館
目次:関難間記 坤
ページ数:421 コマ数:218
秀頼所持薬研藤四郎吉光の太刀、骨食と號して長さ一尺九寸五分あり。河州の農民拾ひ得て、本阿弥又三郎に見せしむ。是に依て、本阿弥即ち大神君に献す。御覧の後、又三郎に返し下さる。後日に秀忠公進上し、御受納あつて黄金五百両、白銀二千枚を本阿弥に給ふ。
『徳川実紀 第1編』
著者:経済雑誌社 校 発行年:1904~1907年(明治37~40) 出版者:経済雑誌社
目次:台徳院殿御実紀 巻卅八 (元和元年六月−閏六月)
ページ数:782 コマ数:398
○廿九日秀賴秘藏せし藥研藤四郎吉光骨喰と名付たる太刀を。阿州の農民拾ひ得しとて。本阿又三郎二条城へ進覧せしかば。又三郎に返し下されしに。又三郎これを伏見城に持参して献ず。
この辺りの話は『大日本刀剣史』で原田道寛先生の検討を読むのがわかりやすいと思う。
骨喰の名と続いていることから、薬研藤四郎ではなく骨喰藤四郎のことだと考える。
『大日本刀剣史 中巻』(データ送信)
著者:原田道寛 発行年:1940年(昭和15) 出版者:春秋社
目次:畠山政長自刄の藥硏藤四郞
ページ数:227~235 コマ数:123~127
作風
刃長八寸三分(約25.1センチ)、平造り、刃文は直刃、鋩子は小丸。
うぶ茎。目釘穴一個。
「吉光」と二字銘。
『往昔抄』
発行年:1955年(昭和30) 出版者:日本美術刀剣保存協会
(本自体は国立国会図書館デジタルコレクションにありますが古い字が読めないと押形が見分けられない)
『光徳刀絵図集成』(データ送信)
著者:本阿弥光徳画[他] 発行年:1943年(昭和18) 出版者:便利堂
ページ数:16 コマ数:30
外装
『日本刀大百科事典』によると、『天正刀譜』に薬研藤四郎の拵えの記載があったらしい。
ハバキは金の呑み込み、柄の頭と縁は同作。
鞘は長さ一尺一寸五分(約34.8センチ)、黒塗り、ただし腰元は縄目の金で巻く。
笄は古後藤の作で、銅は赤銅で、壺桐の紋があり、耳は金だった。
『日本刀大百科事典』(紙本)
著者:福永酔剣 発行年:1993年(平成5年) 出版者:雄山閣
目次:やげんとうしろう【薬研藤四郎】 ページ数:5巻P213
目次:やげんとおし【薬研徹し】 ページ数:5巻P213
『明徳記』の「薬研徹し」
薬研藤四郎と同じ刀を差すだろう記述が明徳の乱を描いた室町軍記、『明徳記』にも見られる。
『明徳記』によれば「薬研徹し」は足利将軍家重代、粟田口吉光作の短刀。
山名氏清・満幸らが、明徳二年(1391)12月、京都に攻め入った時、将軍義満は篠作・二つ銘の太刀とともに、これを佩いて出陣した。
『日本歴史文庫 〔6〕』
著者:黒川真道 編 発行年:1911~1912年(明44~45) 出版者:集文館
目次:明徳記 巻第中
ページ数:202、203 コマ数:111
同じ毛の五枚甲の緒を締め、累代の御重宝と聞えし、篠作りといふ御帯刀に、二つ銘といふ御太刀を、二振添へてぞ佩かせ給ひける。薬研徹しといふ御脇指をささせ給へて、御秘蔵の大河原毛、五尺の馬と聞えしに、金覆輪の御鞍置きて、厚総鞦懸いてぞ召されたる。
『日本刀大百科事典』では茎の長さから「薬研藤四郎」と「薬研徹し」は同物の可能性があることを指摘している。
しかしこの『明徳記』の「薬研徹し」と『享保名物帳』の「薬研藤四郎」を同一物だとすると、畠山政長所持以前から薬研の号がついていたことになるため、両方の記述が並立はしない。
調査所感
・『名将言行録』『常山紀談』などには明智光秀が持っているパターンもある
『日本刀大百科事典』で言及されていないので上では省略しましたが、『名将言行録』などにも名前が出てきます。
『名将言行録 前編 上巻』
著者:岡谷繁実 発行年:1909年(明治42)4版 出版者:文成社
目次:卷之十八 明智光春
ページ数:536 コマ数:302
光春、既に坂本の城に入り、光秀の妻子を天守に入れ、不動國行、二字國俊の刀、藥研藤四郎の小脇差、奈良柴の肩衝、乙御前の釜抔云へる名物の器を、唐織の肩衣に包み、
・畠山政長の刀か、足利将軍家の刀か
調べてみると結構面倒だった薬研の研究史。
読めない資料が結構あって省略しちゃったので詳しく知りたい方はもう直接『日本刀大百科事典』や『大日本刀剣史』でも見てください。
と言っても、薬研の来歴に関しては意見がばらついてる感じなので一冊だけよりもいろんな本の記述を拾って整理を試みたほうがいいと思います。
なお整理できるとは言っていない。
資料として一番重要視される『享保名物帳』はいつものごとく『詳註刀剣名物帳』で確認させてもらいますが、これによると薬研藤四郎の来歴は
畠山政長→松永久秀→織田信長(本能寺の辺で焼失)
『名将言行録』の説を採用してみると
明智光秀→明智光春が自刃の際に名器を堀監物へ→秀吉の手へ?(不動国行と同じルート)
『古老茶話』『徳川実紀』の方は
秀頼が秘蔵していた→本阿弥又三郎を介して徳川将軍家(2代秀忠)
『明徳記』を考慮すると
畠山政長の話より100年も前に足利3代将軍義満の御物だった
……どれだよ!!
『大日本刀剣史』の原田先生の整理が一番丁寧な気がします。
どの説も微妙に信用しがたい点があって、確実に信じられる来歴とは言えないという。
いくつかの書物が豊臣家に伝わったことを示すものの、その辺りに錯誤が見られて絶対的に信用できるものではないと。
原田道寛先生は豊臣以後に話が曖昧になるから大阪城落城の際に焼けたのではないか、と推測しているようです。
『明徳記』の足利御物説に関しては、これを採用するとそもそも畠山政長より前に「薬研」の号で呼ばれていたことになる。
号の由来としては有名ですが、『畠山記』と『明徳記』の内容両方採用難しくない? という。
そもそも松永久秀はなんで薬研を持っていたのかと。
『明徳記』が正しいなら足利将軍家にずっと伝わっていたのでいつも通り義輝を殺した時に……ってちょっと待て、だから畠山政長は!? となる。
概説書なんかだと畠山政長のあと一度将軍家に戻ったという説明を載せていますが、確実にそうだとする資料はないようですね……。
『名将言行録』のように光秀やその部下が持っていたとするなら信長から奪ったとも考えられるんですが、薬研と同じく資料に出てくる「不動国行」と扱いに差があるのはおかしくないか? と。
そして秀吉から秀頼まで伝わった流れは資料が骨喰と薬研を混同しているのでこれ多分骨喰君のことだろうと思われる。
結局はっきりしたことがわからないので、大体説明されるときはスタンダードに『享保名物帳』の来歴通りに織田信長へ渡り本能寺の変で焼失扱いですかね……?
参考文献
『諸家名剣集』
(東京国立博物館デジタルライブラリー)
時代:享保4年(1719) 写本
コマ数:49
『名将言行録 巻之17,18』
著者:岡谷繁実 著 発行年:1869年(明治2) 出版者:玉山堂
目次:巻之十八
ページ数:19 コマ数:47
『国史大系 第9巻』
(『徳川実紀』収録)
著者:経済雑誌社 編 発行年:1902~1905年(明治35~38) 出版者:経済雑誌社
目次:台徳院殿御実紀 元和元年六月
ページ数:782 コマ数:398
『日本歴史文庫 〔13〕』
著者:黒川真道 編 発行年:1911~1912年(明44~45) 出版者:集文館
目次:明徳記 巻第中
ページ数:202、203 コマ数:111
『日本歴史文庫 〔13〕』
著者:黒川真道 編 発行年:1911~1912年(明44~45) 出版者:集文館
目次:坤
ページ数:421 コマ数:218
『史籍集覧 第3冊 第3冊 通記類(3版 明治43) 第9 池の藻屑(荒木田麗子) 第10 桜雲記,第11 南方紀伝,第12 菊池伝記(井沢長秀) 第13 浪合記,第14 信濃宮伝,第15 十津河之記,第16 底倉記,第17 応仁前記,第18 応仁広記,第19 応仁後記 改定』
(『応仁後記』収録)
著者:近藤瓶城 編 発行年:1906年(明治39) 出版者:近藤出版部
目次:通記第十九 應仁後記
ページ数:19、20 コマ数:326、327
『史籍集覧 第13冊 改定』
著者:近藤瓶城 編 発行年:1912年(明治45) 出版者:近藤出版部
目次:第百十六 足利季世記 畠山政長自害之事
ページ数:138~140 コマ数:75、76
『剣話録 上』
著者:剣話会 編(別役成義) 発行年:1912年(明治45) 出版者:昭文堂
目次:一 京物(上)
ページ数:6 コマ数:13
『通俗日本全史 第7巻』
著者:早稲田大学編輯部 編 発行年:1912~1913年(明治45~大正2) 出版者:早稲田大学出版部
目次:山中鹿之助被誅事 軍政猿楽能之事附天災雷火零事
ページ数:189 コマ数:200
『詳註刀剣名物帳 : 附・名物刀剣押形 増補』
著者:羽皐隠史 発行年:1919年(大正8) 出版者:嵩山堂
目次:名物「燒失之部」 薬研藤四郎
ページ数:226~228 コマ数:127
『刀剣談』
著者:高瀬真卿 発行年:1910年(明治43) 出版者:日報社
目次:第四、武将の愛刀 薬研藤四郎
ページ数:52、53 コマ数:51
『刀剣談 再版』(データ送信)
著者:羽皐隠史 著, 高瀬魁介 訂 発行年:1927年(昭和2) 出版者:嵩山房
目次:第四、武将の愛刀 薬研藤四郎
ページ数:161、162 コマ数:92、93
『古今名家珍談奇談逸話集』
著者:実業之日本社 編 発行年:1928年(昭和3)出版者:実業之日本社
目次:名刀に纒はる逸話 薬研藤四郎
ページ数:35、36 コマ数:32
『日本刀講座 第8巻 (歴史及説話・実用及鑑賞)』(データ送信)
著者:雄山閣 編 発行年:1934年(昭和9) 出版者:雄山閣
目次:(歷史及說話一)歷史に表はれた刀劍
ページ数:330、331 コマ数:174
『日本刀剣の研究. 第1輯』(データ送信)
著者:雄山閣編集局 編 発行年:1934年(昭和9) 出版者:雄山閣
目次:文献に表はれた名剣名刀譚 源秋水編
ページ数:112、118 コマ数:66、69
『津田宗及茶湯日記 : 評註 他会篇 下』
著者:松山米太郎 評註 発行年:1937年(昭和12) 出版者:津田宗及茶湯日記刊行後援会
ページ数:317 コマ数:98
『日本刀物語』
著者:小島沐冠人 編著 発行年:1937年(昭和12) 出版者:高知読売新聞社
目次:大阪城壕中の吉光
ページ数:79 コマ数:47
『光徳刀絵図集成』(データ送信)
著者:本阿弥光徳画[他] 発行年:1943年(昭和18) 出版者:便利堂
ページ数:16 コマ数:30
『往昔抄』
発行年:1955年(昭和30) 出版者:日本美術刀剣保存協会
(本自体は国立国会図書館デジタルコレクションにありますが古い字が読めないと押形が見分けられない)
『茶道古典全集 第7巻』(データ送信)
著者:千宗室 等編 発行年:1959年(昭和34) 出版者:淡交新社
目次:天王寺屋會記 宗及茶湯日記 他會記 四 自天正七年至天正十一年他會記
ページ数:314 コマ数:170
「刀剣史料.(41)」(雑誌・データ送信)
(『刀剣鑑定歌伝』収録)
発行年:1962年(昭和35)5月 出版者:南人社
目次:刀剣鑑定歌伝(6) / 中島久胤
ページ数:14 コマ数:9
『武道全集 第5巻』(データ送信)
著者:原田道寛 発行年:1935年(昭和10) 出版者:平凡社
目次:藥硏藤四郞
ページ数:112~118 コマ数:68~71
『大日本刀剣史 中巻』(データ送信)
著者:原田道寛 発行年:1940年(昭和15) 出版者:春秋社
目次:畠山政長自刄の藥硏藤四郞
ページ数:227~235 コマ数:123~127
(『大日本刀剣史』はデジコレに2冊あるのでご注意)
「関西医界時報. 第31年(363) 」(雑誌・データ送信)
発行年:1938念8月 出版者:関西医界時報社
目次:藥硏藤四郞の由來
ページ数:21 コマ数:11
『日本刀と無敵魂』
著者:武富邦茂 発行年:1943年(昭和18) 出版者:彰文館
目次:鍋通吉光・藥研藤四郎・骨喰藤四郎
ページ数:170 コマ数:100
『武将と名刀』(データ送信)
著者:佐藤寒山 発行年:1964年(昭和39) 出版者:人物往来社
目次:明智光秀と長船近景など ページ数:122 コマ数:66
目次:毛利輝元と宗瑞正宗及び毛利藤四郎 ページ数:136、137 コマ数:73
『戦国史料叢書 第2』(データ送信)
(『信長公記』収録)
発行年:1965年(昭和40) 出版者:人物往来社
目次:巻六(元亀四年癸酉)
ページ数:131 コマ数:69
『日本刀大百科事典』(紙本)
著者:福永酔剣 発行年:1993年(平成5年) 出版者:雄山閣
目次:やげんとうしろう【薬研藤四郎】 ページ数:5巻P213
目次:やげんとおし【薬研徹し】 ページ数:5巻P213
概説書
『図解 武将・剣豪と日本刀 新装版』(紙本)
著者:日本武具研究界 発行年:2011年(平成23) 出版者:笠倉出版社
目次:第3章 武将・剣豪たちと名刀 豊臣秀吉と一期一振
ページ数:168~171
『刀剣目録』(紙本)
著者:小和田康経 発行年:2015年(平成27) 出版者:新紀元社
目次:≪第二章 鎌倉時代≫ 山城国粟田口 吉光 薬研藤四郎
ページ数:114、115
『物語で読む日本の刀剣150』(紙本)
著者:かみゆ歴史編集部(イースト新書) 発行年:2015年(平成27) 出版者:イースト・プレス
目次:第7章 短刀 薬研藤四郎
ページ数:162、163
『刀剣物語』(紙本)
著者:編集人・東由士 発行年:2015年(平成27) 出版者:英和出版社(英和MOOK)
目次:粟田口吉光作の刀 薬研藤四郎
ページ数:100、101
『刀剣説話』(紙本)
著者:編集人・東由士 発行年:2020年(令和2) 出版者:英和出版社(英和MOOK)
(『刀剣物語』発行年:2015年を加筆修正して新たに発行しなおしたもの)
目次:戦国大名が所有した刀 薬研藤四郎
ページ数:154、155
『刀剣聖地めぐり』(紙本)
発行年:2016年(平成28) 出版者:一迅社
目次:薬研藤四郎
ページ数:87