メタファー考察について
メタファー中心の考察です。
「刀剣乱舞」は原作ゲームがよく「シナリオがない」と言われ、派生作品が多数あり一見してどれも別々のストーリーを描いているように見えます。
しかしこれまでの考察から、とうらぶ派生作品はどうやら表面的には「それぞれの本丸の物語」を成立させているものの、作中で細かく説明が入る「花」「水」「歌」などの言葉が示す比喩(メタファー)に関しては厳密な日本語のルールのもと、同一の意味で作品を構成しているように見受けられました。
つまり、とうらぶは作品の骨格となる論理は単語のメタファーを繋いだシナリオであり、それぞれの派生作品もこのメタファーの扱いにおいて同一であるストーリーと考えられます。
結論としては、「刀剣乱舞」は原作ゲームから舞台やミュージカル等の派生作品まで、同じ論理構造で別の物語を描いている仕組みだと考察します。
以下はそれらの考察を前提に、原作ゲームとあらゆる派生作品の情報を片っ端から踏まえて、むしろ派生作品の情報を原作ゲームの一見存在しないシナリオの解釈(それぞれの回想の意味など)にフィードバックするメタファー中心の考察です。
すでに過去記事で触れているメタファー考察なども前提にしています。
1.「話」というメタファーの機能
Twitterで先にちょろっと触れた話。
この前の慶応甲府関連まとめながら考えたけど、「話」もやはり「斬る(食らう)」みたいな機能を持つメタファーではないかと。
その場合、慶応甲府の御前加州は置いといて、回想57の国広の「……また話をしよう」が問題にならないか? 何度やる気だ57考察。
「話」に何の意味があるのか? に関して考えるには心伝にも出てきた回想138の兼元の台詞のニュアンスが重要なのかもしれない。
回想其の138 『最強と無敵』
「結構、結構。俺とあんたでその話をしてなんになる。……他に適任がいるだろうからなあ」
この台詞、物語の「統合」機能の話と考えると、この回想の前後の文脈に意味が出てくる。
菊一文字の話なんて別に加州とだろうが兼元とだろうが好きにしろ……と思ったけど、刀剣男士の行為としては斬る事が食らうことであるように話すことが統合であるなら、特定の相手ではないと本当の意味がないと見るべきかもしれない。
前段階として、「斬る(物語を食らう)」概念について考えると、舞台の方で「无伝」の泛塵が創作の人物である「真田十勇士」の存在を歓迎し、大千鳥に食わせようとした部分に着目べきだと思う。
真田十勇士に対して「よくぞ僕たちの前に現れてくれた」って言ってたから、大千鳥のことを考える泛塵くんにとっては、他の物語ではダメだったのだろう。どうしても「真田十勇士」でなければならない。泛塵・大千鳥と同じ真田の物語でなければ。
それはやはり、大千鳥の名はかなり近年に生まれた逸話なき存在だから、ということだと考えられる。
刀剣男士が食える物語はやはり自分と何らかの共通点があるものだけなのだと思われる。
それは「名」であったり、同じ元主絡みであったり。
どちらにせよ何かしらの共通点がないと食えない。
じゃあ食えなかったらどうなるのか? に対する答の一つが上の兼元の台詞「俺とあんたでその話をしてなんになる」なのではないか?
食えない物語は何にもならない。つまり物語という花(葉)としては散るだけ……?
舞台だと「綺伝」のタイトルの「徒花」に繋がってきそうな感がありますね。
どれだけ美しい花であろうと、実をつけぬ徒花には意味がない。
この考えが転じたものが、要は兼元が受け継ぐものの存在に拘る意味、つまりこれが「孫」のメタファーなんじゃないかと。
話を「話」に戻すと、「斬る(食らう)」と「話す(食わせる?)」の機能が似たようなものであるならば、一文字則宗(沖田総司の刀の創作)と孫六兼元(斎藤一の刀の創作)の関係は、お互いに相手の物語を食う(話を聞く)ことができないために、せっかく聞いても無駄になってしまうからこそわざわざ兼元は断ったのではないか。
「枝葉への慮り」はそういう意味か。無駄にしたくないと。
統合できない話を聞くのは、出された美味しそうな料理(食事)を食べずに捨てるのと似たようなことなのか。それだと確かにお断りしたくもなるな。その料理をきちんと食べてくれるやつに出してやれって言いたくもなるわこれ。
そのちゃんと食える奴こそが、沖田刀だと。
兼元と御前は物語の性質的に互換しないから話す(物語という食事を差し出す)意味がないけど、加州は御前と沖田刀同士で互換するから御前の話を食える。無駄にならない。
極加州の慶応甲府のこの辺りだと思われる。
特命調査 慶応甲府 其の63 『任務達成』
加州清光「なあ、あの一万両の刀って……、あんた?」
監査官「さてな」
加州清光「……もう少し、話くらい聞くけど」
監査官「十分聞いてもらった。……達者でな」
御前が話して加州が聞く。これで話す・聞くによる比較的穏便な物語移譲が行われると思われる。
もてあた……「持てる者こそ与えなくては」は、何を持っているかの自覚そのものの話で、監査官組の認識と兼元がせっせと読書するのは自覚そのものだろう。
持っていることをまず自覚して、それを適切な相手に差し出す一連の行動を含むというのが回想138の本質だと考えられる。
兼元は自分が聞ける(食える)物語、聞けない物語を知るために読書に勤しむ。
その自覚(知ること)こそが、「持っているもの(自分の強さ)を知る」ということだと考えられる。
一方御前はそれを「枝葉への慮り」と称する。
散ってしまう花葉、食えない料理は可哀想(もったいない)とする憐れみが強い意見で、そう評する発想は御前らしい。
だからこそ兼元は他者への憐れみではなく自分の為だと否定した。
そして御前が兼元と同じスタンスであることを遠回しに指摘した山姥切長義の「持てる者こそ与えなくては」。
これは「持てる者(自分の物語を知る)」として、その物語を無駄にせず必要としてる相手に「適切に与えよ」という意味で受け取れる。
となるとやはり、ニュアンス的に近いのは兼元の方だね。
誰にでもただ振る舞うのではなく、一番おいしく食べてくれる相手にこそ、その料理(物語)を差し出せ。
こういう話だろうと。
御前は気前よく誰にでも菊一文字物語をほらお食べって出してくれるけど、兼元・長義はいやいやそれもったいないでしょ無駄にすんじゃねえ、お腹空かせてる相手に出してあげろ、と。その方が料理(物語)自体のためにもいいんだよ、と。
回想138をある程度掴んできたところで、回想57の国広の話。
回想其の57 『ふたつの山姥切』
山姥切国広「俺たちが何によって形作られたのか。それを知ることで強くもなれる。けれど、もっと大切なことがあるのだと思う……」
今の考察を踏まえた上でこの台詞を読めば大分この台詞の意図がクリアになったと思う。
兼元が後世の物語を知ることで自分を形作ったものを知るように、それが刀剣男士を強くするという認識をすでに極国広は得ている。
極修行を経てきた国広と監査官コンビついでに兼元の認識・知識量はやっぱり同じくらいでしょう。
そしてその上で、国広は、他の三振りと明確にスタンスが違う。
一文字則宗、孫六兼元、山姥切長義の姿勢はどうやら近く、「己の物語を知ることで強くなる」ことに主眼を置いている。
もともと長義くんと御前は特命調査や回想周りの台詞がそんな感じだったので、これには異論ないと思われます。
刀剣男士の強さに関する認識は国広が回想57で言ってるのも同じことなんだけど、国広は極修行で知った上でそれを否定という姿勢がポイント。
何故そういう価値判断なのかを考える上で、ミュージカルの情報を参照すると、「名」は「境界線」だからではないかと思います。
ミュージカルの水心子周りの台詞で特に境界線や個の維持のために名を確認するという描写が何度か入ります。
「名」を失えば「境界」が崩れて統合。
「境界」が崩れれば「名」を失って統合。
それを踏まえて回想57の「話をしよう」も統合方面の願望とするとやっぱり国広のスタンス危ういよね。お互いの境界を溶かして一つになろうってことだから。
食らう(相手を斬り殺す)ことは断固拒否でも、むしろそのせいで相手とゆるやかに一つになりたいという統合願望はやはりあると言えるのではないか?
国広に関しては、特に極前後で振る舞いが大きく変わる男士の一振りなので、極修行で根幹が変化(逆転)しているかは常に考察の一つの焦点です。
派生作品である舞台も花丸も、極める前から国広は長義を前にすると結論が「好きに呼べ(偽物呼びを許す)」、つまり「境界線(名)」を否定する結論になる。
極める前の国広は派生2作品の情報を踏まえると自ら長義に「偽物」呼びを許すことで「名」を否定している、そして極後は回想57の通り、はっきりと名前より「もっと大切なこと」を選ぶスタンスになる。
こうなってくると、山姥切国広のキャラは極前後で主張そのものは同じと見るべきではないかな。
長義の方は極待ちだけど、こっちも今までの考察通りだと「境界線(名)」の強調で一貫するんではないかと思います。
2.「強き」刀はコクゾウムシ?
「話」にまつわる「強」のメタファー。
刀剣男士のスタンスが分かれるのは、この「強」の意味や仕組みが重要なのではないか。
さらに「強い」と言えば、回想141でごっちんが長義くんに「強き良き刀」と評しています。
回想其の141 『無頼の桜梅』
後家兼光「キミは……、長義の。さすが、華やかで……うん、強き良き刀だ」
長義くんとごっちんに関わることならやはり調べねばなるまいな。よーし「強」の字のなりたちを調べるぞ☆
虫と、音符弘(コウ)→(キヤウ)とから成る。
もと、「こくぞうむし」の意を表した。
のち、彊(キヤウ)に通じて「つよい」意に用いる。
こく……ぞうむし……?
「コクゾウムシ」……ゾウムシの一種。「米食い虫」「穀象虫」と呼ばれ、その名の通り米を食い荒らす害虫。
※ちなみにうっかりググると思いっきり虫の画像が出てくるので虫嫌いな方はご注意ください。
「弘」は「広い」「大きい」と言う意味で、弦を張るために弓を大きく反らせる意だそうです。これに「虫」を合わせたものが「強」の字であり、意味は「コクゾウムシ」です。
つまり回想141のごっちんによる長義くんへの誉め言葉は「コクゾウムシ」。
?????????(スペキャ)
いや待ってこっちはこう……「愛しい」と書いて「うつくしい」と読むようなそういうロマンあふれる答を期待して、期待して検索……
……いや、待てよ。
もしかして本当にこの通りの意味なのではないか?
コクゾウムシ。米を食い荒らす虫。
「強」に関しては慈伝はじめ舞台の国広が強い強い言われていることと、花丸に「優しいは強い」のキャッチフレーズがあることから以前も検索かけたんですよ。
その時は「こくぞうむし?」でピンと来ずに終わってしまったんですが、今回はそもそもこれを口にしているのがごっちんだ。
「お米の国の刀、だからね」
「遠征部隊が戻ってきたようだから、ご飯の準備かな?」
畑当番でお米の国の刀を名乗る、もともと姫鶴の畑当番台詞から畑にまつわる要素があるとも考えられる男士。
このごっちんが口にした台詞なら、米に関連する要素が大事でもおかしくない。
強さと物語に関して御前・兼元・長義・国広で微妙に意見が違うように、ごっちんの口にする強さの解釈は、ごっちんの要素が重要だ。
そして後家兼光のスタンスから考えると……
「長船ってわりと放任主義だから、ボクも上杉の刀って意識がつい強くなっちゃってさ」
「戦う条件はお腹いっぱい食べさせること。あ、ボクじゃなくて、上杉の刀に」
「……おやー? やっぱりボクたち上杉最推しの愛の戦士かもしれない。大切なものを守るために戦いたいんだ」
上杉最推しで、放任主義の長船より上杉に偏った刀。
自分よりも上杉の刀にガンガン食わせようとする。
ランクアップ台詞で「……やーば、これはお腹すく」と言っているので空腹を感じないわけではないようですが、台詞からするととかく自分より上杉をメインに他者に食べさせようとする刀ですね。
この「自分は食べない姿勢」を補足するものは、回想142で判明した虎アレルギーではないかと思います。実際にアレルギーという言葉を使ったわけではありませんが、虎に対してくしゃみが出るならそりゃアレルギーだろうと。
アレルギーは食物等に含まれる成分を異物として認識し、体が自分で自分を攻撃してしまう免疫の過剰反応ですね。そのアレルゲンをそれ以上摂取できないという状態でもあります。
「虎(あこがれ)」の物語に関しては、後家兼光はこれ以上食えない。
じゃあ――どうするのか? というのがごっちんの問題なのでは。
その答こそが、回想141の真の意味、長船の名を持たない長船である長義との会話なのでは。
お米の国の刀が褒めちぎる相手、「強き刀」が「コクゾウムシ(米食い虫)」ならば。
――後家兼光は山姥切長義に「長船の物語」を食われたいのでは?
後家兼光「急にごめんね。備前長船の中で同じく相州伝の流行りを取り込んだ刀に声を掛けられたから、ついはしゃいでしまった。おつうにも、一言多いってよく言われるけど」
今までの考察的に、「食う」「食われる」に近い行動はいくつかあると見られる。
刀で斬る。酒を呑む。そして話をする。
「声をかける」は「話をする」とほぼ同義ではないのか。
「強」のメタファーの意味は「コクゾウムシ(米食い虫)」。
「物語」という「米」を食らう「虫」。
この「虫」も、ごっちんの回想142を通じて虎と同一視する解釈があります。
何度か触れた話題なんですが、仏教の禅の公案に「大蟲」を「虎」と訳しているものがあるので、仏教的には「虫」=「虎」です。
困ったことになんでそうなるのか、理由の方調べても今のところ辿りつけてないんですが……。
虫を虎と訳している経典自体は禅以外にもあったと思うので「虫」=「虎」の図式自体は普通に成立すると思います。
虎はあこがれ、虎は虫。
どっちの要素からいっても、やっぱりごっちんにとって長義くんの存在はごっちん自身が複雑な想いを寄せる長船派との関係性に絡むと考えられます。
そして派生、特に舞台を見ていると度々、斬る・斬られるの関係は殺される側がむしろそれを望んでいるシーンというものが出てきます。
一番わかりやすいのが「綺伝」のガラシャ様。
最近増えたのが「心伝」の沖田君はじめとする新選組。死ぬことによる物語の完成を望んで。
そこから考えれば、そもそも「慈伝」で長義くんがさんざん国広を煽ってむしろ国広に自分を斬らせたいかのような動きをしていたのも同じ理屈ではないかと考えられます。
そもそも虎アレルギーのように摂取できる物語量に上限があるのなら、むしろ物語は物語でそれを「食われる」ことを望むというのも不思議ではないかと。
無限に物語を食えるならずっと殺す側に立ち続けてもよさそうなもんですが、これまで見てきた感じそんな単純な物語でもないんだよねとうらぶ。
3.「人」を「憂」いし「強」さ(優しいは強い)
花丸で言う「優しいは強い」。
これも言葉遊び的に考えると、「人」を「憂」う「強」さと分解できます。
で、これって派生で強いと言われている国広や回想141でごっちんに「強き良き刀」と言われた長義くんの性質そのものではないだろうか。
憂える。つまり、心配する。
私は以前、回想141の考察で長義くんの性格を自分の言葉で言うなら「心配性」だという意見を提示しました。
相手の事を心配する感情。
国広の場合はそれが主に原作だと長義くんに対して発揮されていて、派生だと舞台の三日月はじめ割と広範囲に。
長義くんはやはり回想141の「難儀」の意味がこの傾向でいいように思います。
長義くんは直江の刀であるごっちんに心配しすぎるあまり、一周回って余計なお節介を焼いている。それが表面化したのがある意味「難儀」の一言。
また、回想57の国広の台詞に戻ると、名に絡めて強さを否定してきたスタンスの向こうに、そのおかげで今までのようにくよくよ悩まなくなったという要素もあるかもしれません。
「写しがどうの、山姥斬りの伝説がどうので悩んでいたのが、馬鹿馬鹿しくなった。」(修行手紙3通目)
「写しがどうとか、考えるのはもうやめた。」(修行帰還台詞)
「強」を否定して、その代わりに憂える(悩む)のもやめた。それが回想57の極国広なのかもしれない。
その否定の大元に在るのが「コクゾウムシ(米食い虫)」ならば、ある意味しゃーない変化とも言える。
修行手紙の状況からすると国広にとって「強くなる」の行き着く先は「本科を食う」ことですから、これを拒否したせいで己の逸話と名を否定する気持ちも高まったが、逆にこれまでの「憂」から解放されたのかもしれない。
そういう条件が絡み合った反応が修行手紙の3通目であり、回想57だと。
と、いう感じで回想138と回想57を中心に「強」メタファーを漢字の原義的に考察していましたが、物語構造に大分かっちりはまってきた気がいます。
「強くなる」ことは己を知る事であるが、同時に己と要素を同じくする別の物語を食うことでもある。
号が同じ故にガチで本歌を食い殺す宿命の国広はそれをしたくないから強さごと名を否定したくなり、上杉の物語が上限に達しているだろうごっちんはむしろ長船の名を持たない長義くんに自分をちょっと食べてほしいと……?
考えれば考える程なんかごっちんが重症な気がしますが、自分の物語を相手に食わせたい関係や物語を得るために死にたい構造は派生でがんがんやっていると思えばそうおかしくないとも言える。
多分私が把握していないだけできちんと分析・分類したらこのタイプに近い男士他にも何振りか出てきそうなんですよね……。
対極姿勢の相手に食われることを望む関係じゃなく、最悪の場合自分が自分を放り出す覚悟で現時点では対極相手に言葉で融和を図る男士なら大慶がまさにそれだと思いますし。
4.「秋」の「心」は「愁」える
「憂」を調べた副産物ですが、「秋」の「心」と書いて「愁」も「うれい」と読みます。
字は違ってもほぼ同じ意味ですから、普通に「憂」=「愁」。
相手を心配する感情や、悩む感情「うれい」。
それは「秋」の「心」だと。
相手に与えようとする「慈しみ」の物語であった「慈伝」であれだけ「秋」を強調した理由がなんとなくわかってきた気がしますね……。
相手を心配して悩む心こそが「秋」。
「慈しみ」の物語は「愁」の先にある。
いやもともと原作の長義くんが10月31日と現代の感覚的には晩秋の実装な訳ですが。
5.「良」きものは米を量る「糧(良)」
回想141で、ごっちんは長義くんを「強き良き刀」と評しています。
この「良」の部分について考えます。
これ、明確な説明はないんですが検索でこの二つが並んで出てくるものがあるんですよね。
「良」と「糧」
「糧」の字はそもそも「米」を「量る」ですが、「良」も似たような説明が出てきます。
穀物をふるいにかけて流し入れ、また、流し出すさまにかたどり、よいものを選ぶ意を表す。
ひいて「よい」意に用いる。
ん? ということは「良」と「糧」ってどちらも「米(穀物)」を「量る」で同じ意味なの?
「米」に「良」と書いた字が「糧」の旧字だそうです。
ここでもやはり「米(穀物)」なんですよね。
ごっちんが長義くんを評した言葉のうち、「強」と「良」がどちらも「米」に関わるので、やはりこの方向で考えたいと思います。
「強き良き刀」の前に来る「華やか」の「華」は「花」や「美しい」「栄える」という一般的な意味以外にもかなり使いどころが多くて逆に絞り切れないので保留。
6.「心」を「分」けし「忿(怒り)」
全然別の作業をしていたらたまたま引っかかった副産物。
以前は怒りを「心」の「如く」で考えていたんですが、この字も「怒り」を表すんですよね。
「忿(怒り)」
もう露骨に「心」を「分ける」と書いて「忿」なんで、舞台の敵が何か「朧なる山姥切国広」みたいに分裂してるのでこれでいいんじゃね? って気がしてきました。
舞台と原作ゲームの一番大きな差は、国広・長義間にある「怒り」の感情だと思われます。
長義くんはまだ原作でも派生でも怒りんぼと解釈できる可能性はありますが、国広は原作ゲームの台詞の中に怒りがあるとは普通想定しないと思います。
舞台が山姥切の本歌と写しにこの感情を描く理由こそが、「心」を「分」ける「忿(怒り)」という言葉そのものにまつわるギミックのためという見解が強まりました。
朧はまだ別に誰かに対して怒っている状態は見せていないと思いますが(ただし私は禺伝・単独行まだ見てない)、国広自身が「慈伝」と「夢語」で長義に微妙に怒りを見せていますから……。
その「心」が朧な影を超えてはっきりと「分かれる」イベントこそが舞台版の対大侵寇じゃないかなあと思いますので、舞台のその辺を待つことにします。
「影」は本体に付き従うけど、怒りはやっぱり「心」を「分かつ」んだな……たぶん「糸」をぶっちぎって自ら「紛い物」になっていくスタイル……。
7.「憂」は「心」の「頁(ページ)」
「憂」について調べたら更に気になる部分があったのでメモっておきます。
心と、頁(けつ)(あたま)とから成り、心配なことが顔に出ることから、「うれえる」意を表す。
心配が顔に出るというのも重要だと思いますが、今はその前の「頁」の字に注目したいかなと。
「頁」を単体で調べると
1.かしら。あたま。こうべ。
2.岩石の一種。「頁岩」
3.ページ。書物や紙の一枚、また、片面。
「頁」の「ヨウ」の音が、枚数を数える「葉(ヨウ)」の音に通じることから、「ページ」として当てられた。
本の「頁(ページ)」という字には「頭」「岩石」という意味もあると。
「憂」はそういう「心」の「頁(ページ、頭、岩石)」だと。
「優しいは強い」の考察と合わせて繋いでいくと、「強さ」である「人」を「憂」うことは「心」の「頭」であり「岩石」であり「本の頁(葉)」ということになりますね。
ミュージカルの歌の歌詞で「いし」を同音の「石」と「意志」で掛けていることが判明しているので、この全部繋げていく連想ゲームにおける「岩石」の存在は重要だと思います。
頭は当然重要だと思いますが今のところ具体的にどこという例があまり思い浮かばない。
あ、でも一文字が山鳥毛を呼ぶ「お頭」や五月雨くんが審神者を呼ぶ「頭」と地味に「頭」も重要そうな使いどころがあったか。この辺も今度改めて考えたいですね。
8.「葉」は書物の「頁(ページ)」
上の調査結果から引き継いで特に取出したいのが、「葉」は「頁」であるという部分ですね。
これを考えると回想138で兼元・御前の口にした「枝葉」がさらに「書物」という媒体に近づくと思います。
9.心を動かし、心を乱す「美」と「歌」
「歌」のメタファーの意味がずっとわからねえ! 言っていたんですが、歌に関しては最近原作ゲームの方で富田江が追加されたことにより江関連の回想でちょっと触れられたのでそこを中心に考えたいと思います。
部分抜き出しはいつも通りですがそれにしても回想146長いなあ。抜き出した部分だけで一つの回想みたいに見える。
ついでに今回触れないけどこの前の先輩うんぬんも大事だよね。
回想其の146 『ばっくすていじ』
篭手切江「はい。その反面、私たちはこのようにも言われています」
篭手切江「江とお化けは見たことがない」
富田江「刀剣の見極めにおいて銘ほど重要なものはないけれど、江の多くは無銘。その価値は権威からの評価によってのみ成り立っている」
富田江「逆に言えば、権威に江と認められた刀だけが郷義弘の刀ということだね」
篭手切江「私たちは他者の目を通して初めて自己を得ることができる」
富田江「だからこそ、歌と踊り、かな」
篭手切江「……安直、でしょうか」
富田江「いいや。江の特徴を捉え、よく活かしている」
富田江「ただそれは、劇薬かもしれない」
篭手切江「…………」
篭手切江「それでも、私は……。江を、もっと確かで強い存在に……」
富田江「夢とは光。光とは天下に同じ、と言ったそうだね」
篭手切江「出過ぎた真似をしました。お恥ずかしい限りです」
富田江「光にも、天下にも、影が付き纏うよ」
こてくん研究史見てもピンと来ないけどなんですていじに拘るの? の答はこの辺にあるようです。
「私たちは他者の目を通して初めて自己を得ることができる」
「だからこそ、歌と踊り」
「それでも、私は……。江を、もっと確かで強い存在に……」
「夢とは光。光とは天下に同じ」
「光にも、天下にも、影が付き纏う」
篭手切江は「江をもっと確かで強い存在に」するために江のみんなで「すていじ(舞台)」をする。
私たち(刀剣男士)は他者の目を通して自己を得るので、「歌と踊り」を行う。
歌い踊ることが、「心を動かす」ことだから。
其の145 『すていじ あくと6』
篭手切江「はい。心が動き、心を動かす。歌い踊ることはこの瞬間が、ここにあることを示す。今を照らす、その一瞬」
派生作品だと私がはっきり覚えてる限りでは「花影ゆれる砥水」の光徳さんが刀の「美しさ」についてこの目を奪い「心」を「乱す」ものとして歌い上げていましたね。
回想146の篭手切江によれば「歌」と「踊り」は並列する概念かつ「この瞬間がここにあることを示す」ものだそうです。
富田がそれを劇薬と称していることはやはり気になりますが、とりあえず「歌」メタファーの意味については良い意味でも悪い意味でもこれ、「心を動かす」を基準にして考えていいんじゃないですかね。
漢字の「歌」はちょっと考えるのが難しいんですよね。
簡単な説明しかないものではそのまま「うた・うたう」ぐらいしか出ないんですが、形自体は可を上下に二つ重ねた「哥」と「欠」から成る字で、この「哥」が難しい。
ざっくり調べると「可」自体が祈りを治めた器を枝や棒でガンガン打ち鳴らし神様がそれを聞いてくれるよう求める意味があるそうです。マジかよ。
また、「哥」は人を呼ぶときの声でかつ近世以来の俗語では「兄」にあたるらしい。
祈りの成就の仕方が器打ち鳴らして神様を脅すとか大分アグレッシブだな……とは思うんですが。
けど「歌」の字自体はそのアグレッシブな祈りの重なりであり、「兄」でもある「哥」の横に「欠ける」がついています。
この「欠」は象形的には人が口を開けている形だそうです。
「兄」は以前もやりましたが漢字としては実は祭祀を司る人らしいんでそういう意味でも意味深。
「心」もこれまでも何回かやっていますが、舞台の言葉遊び「心に非ずで悲しい」「心茲に在りで慈しみ」あたりを見ていると「心」は鬼(鵺や朧など刀剣男士の分身側)っぽいよなと。
だから「心」は「鬼」。けれど民俗学的には「鬼」がまた「神」でもある。
(「鬼」と「神」については「物について」という以前まとめたクソ長い記事参照)
……この辺りの情報を総合すると、「歌」はやっぱり器を打ち鳴らして神を脅すもとい祈る祭祀の兄である「哥」と、それが「欠」ける字からできている通り、「神(鬼)」を動かすもの、と捉えられる気がします。
この心を動かすが良い意味か悪い意味かの判断はやはり難しいというか、とうらぶの二面性的にはどちらでもあってどちらでもない気がする。
ミュージカルの「花影ゆれる砥水」では醜い心が生むものが鬼みたいな考えを一度光徳さんが持ちますが、最後の最後で自分は刀のことを心で見ようとしていた、それではダメだという結論に落ち着きます。心は嘘をつくから。
心は醜く、されど美しい。両方であってどちらでもない。
……心の醜さが、美しさが、鬼(神)を生む。だから心を動かす?
見たことのない化け物である江を、心を動かすことで生み出させるために?
回想146の篭手切江の台詞からすると、「歌」と「踊」で刀剣男士である江を強くすることは、それこそこれまでの作品の数々で刀剣男士が強くなるためにしてきた行動と同一に見えます。
例えば慶応甲府で御前が加州を強くしたがったように。
舞台の无伝で泛塵が大千鳥を強くしたがったように。
「斬る(食らう)」「話をする(食らう)」と、「歌い踊る(心を動かす)」が同列の行動。
「斬る」と「話をする」に比べると「強くなる」という結果は同じでも、作業としては一対一で対面する相手を食らっているのではなく複数の第三者的に見ているものの「心を動かす」なので完全に同列というわけではないのがポイントかなと。
「歌」が重要になるのは派生での扱いの大きさから言うと、舞台の国広・長義(本歌)の関係と、ミュージカルの歌仙(おそらく折れた初期刀)の話あたりかと思われます。
国広は結局原作でも派生でも「本歌」である長義と出会うことが一つのターニングポイントですし、
ミュージカル本丸は「心を動かす」「歌」である初期刀の歌仙が折れた瞬間から、古参メンツがある意味迷走を始めているかのような本丸です。
派生は舞台もミュージカルも対大侵寇のタイミングで「歌」「心」の話が中核に来そうな展開だなーと思うと同時に、そもそもの原作ゲームの対大侵寇も今回の考察が「枝葉への慮り」に関連する「強」から始まったことを考えると結局「花」と「歌」が同一で並列する表裏かなと。
おっと「花影ゆれる砥水」の締めである「名もなき花」「詠み人知らずの歌」の並列化に結論が近づいてきたな。
とりあえず「歌」メタファーの解釈の中心軸はこの回想145、146から「刀剣男士を強くするために」「心を動かす」ものという結論になりました。
そしてこの「心を動かす」に関わってくる「神」であり「鬼」であり「化け物」であるものの解釈。
「江とお化けは見たことがない」
これは郷義弘の作刀を鑑定する時のキャッチコピー(オイ)みたいなもんですが、ミュージカルの豊前江周辺の扱いからするとどうやらこの文言から「江=お化け」と読解するようです。
江は当たり前にみんな江ですが、その中でも特に豊前江が「化け物」のメタファーと考えられます。
ミュージカルがずっと先行していたとも言えるその辺の理屈にようやく原作ゲームで触れたのが回想148だと思われます。
其の148 『光と闇のさきへと』
豊前江「おばけには影がねえってさ。だから、どんな強い光の中でも、どんなに深い闇の中でも、足を取られずに済むかもしれねえ」
この辺見るとやはり治金丸しかり舞台の朧しかり、「影」は「本体」の意志を離れることはないけれど、完全に「お化け」になってしまうと影と分かたれてしまうんでしょうね。
影が本体を捨てると言うのか、本体が影を斬り捨てるのかはわかりませんが……。
そして豊前によればむしろ「お化け」であることが、どんな強い光にも闇にも足を取られずに済むことだと言う。
「心」を「分」ける「忿(怒り)」
「糸」から「分」かたれし「紛い物」
そして「おばけには影がない」
江関連のネタ出しはだいぶミュージカルが先行していたと思いますが、その江が回想148で触れる内容は舞台の状況に続くネタにしか見えませんね。
我々はあくまで刀剣男士の台詞を通して状況を組み立てますが、置かれている論理そのものはキャラではなく「光」「影」「花」「水」のような言葉に伴う要素要素から構成されているものでしょうから。
なんにせよ「歌」と「化け物」にまつわるメタファー、心を動かし、心を乱す美しさの物語を解くカギは江関連のあれこれにありそうです。
(もともとそういう要素を持つからミュージカルで江の扱いが大きくとりあげられるのだと思われる)
富田江追加で一気に増えた回想の話は他にも「夢」「天下」「疾さ」、いやこれまでの江がわちゃわちゃ自分のモチーフを述べているところからずっと重要ワードが続いている気がするんですが、整理が全然進まないんですよね。
松井の血だの村雲の腹痛だのいずれ江関連をガッとやらなきゃいけない気がしてきましたが、そろそろ頭の整理が追い付かないのでこの辺で。
10.「次」で「稲」の「亞」
富田稲葉が回想147で夢に関して良い悪いの話をしていたのでものはついでに「悪」の字も調べてみましたが、またしても意外な結果が。
「悪」は「亞」に「心」と書きますが、この「亞」に「稲」と「次」の意味がありました。
「亞」
1.つぎ、つぐ、次位
2.すくない、おとる
3.みにくい、惡に通ずる
4.あいむこ、婭に通ずる。姉婿と妹婿との互いの呼称。
5.いね
などなど。
「慈伝」の考察した時に太郎太刀と次郎太刀自身のメタファーはわからないって話をしたんですが、「次」の意味はこの「亞」かもしれない。つまり「稲」。
「悪」は「次(稲)」の「心」か。
現代人的な感覚ですと「悪」の字みると凄い悪い印象のような気がするんですけど、実はこの字は仏教的には凄く重要で良い意味の字です。
密教経典の本を読んだら大日如来を表す梵字の一つが「悪」と呼ばれています。
一番光り輝く仏様を表す梵字の意味が「悪」だと!? ってなりますが、もともと仏教用語ってサンスクリット語の音に字を当ててるものが多いので。
日本人が読むと瞬間的に漢字の意味を考えて「?」となるような例もいっぱいあるのです。
訳す方も適当ではなくある意味原義との関連性を意識しながら当ててはいますが、現代人の価値観とだと結構ずれが大きい。
悪源太義平の呼び方のように、日本でも昔は「悪」の字は「強い」とか「猛々しい」の意味があったので、単に印象が悪い言葉としてすますわけにはいかないようです。
「稲」の「心」だとするとやがて収穫されて米として食べられる側の心。
「次」の「心」だと「次」は「二番手」の意味がありますから、原作ゲームの第二節などのくくりでちょっと注目してもいいかもしれない。
また梵字の方の「悪」の字義は「遠離」だと説明しているサイトもあります。
私の手元の密教経典の解説でも内容をまとめればその説明になるんじゃないかなという文章がありますので「悪」の梵字の字義は「遠離」でいいんじゃないかなと。
そうするとやはり物語同士が統合する動きと同時に離れようとする動きを意味するのがこの「悪」の字かもしれません。
「悪」の字に思ったより意外な意味が多かったのでちょっとこの字が出てくるときは色々気にした方がいい気がしてきました。
今回のメタファーに関する考察はこんなところです。
漢字の意味とかメタファーはある程度まとめてガッとやろうかなと思った時もあるんですが、思ったより一文字一文字の意味が深くて正直無理だわ。気になったものを気になったときにガンガン調べていくしかないわこれ、と。