山姥切長義の光属性について
注意
ここ最近増えた情報を捏ね繰り回したもの。
まだ公演期間の残っている「坂龍飛騰」のネタバレ入っていますのでご注意ください。
今回の記事の半分くらいはくるっぷに出したものからちょっと腐的なリビドーを抜いて再編集したもので、ある意味半分くらいごけちょぎ考察かもしれない。
1.山姥切長義は寄り添わない
「坂龍飛騰」によると、月は映すだけ、人の気持ちを反射する。
ここから考えると月属性の男士たちのスタンスは「(お前が)なりたいものになれ」なんだよね多分。
「坂龍飛騰」で物部の「名もなき青年」は侍を滅ぼすだのなんだの言っていた。
だから三日月は大政奉還にて江戸幕府という侍の世を終わらせる坂本龍馬になることを勧めたんだろう。
「なりたいものになれ」
これが悲しみに寄り添う月の優しさ、メタファー「優」であり「陰」属性。
これを自分自身に適用した時、「お前がなってほしいものに俺がなってあげる」か。
このスタンスは水心子くんの理想を応援するスタンスの清麿とか、メディアミックスでいつも名前の問題で長義に譲る国広なんかも同じだと思う。
一方で「坂龍飛騰」のごっちん始めとした男士たち、水心子に対する大慶、そして慈伝や花影で相手の意志をはっきりさせるためにわざわざ喧嘩を売る長義くんは「お前はお前であれ」、「俺は俺である」というスタンス。
自分から意志を発する太陽、メタファー「愛」の「陽」属性。
そりゃ長義くんは「愛」の人だよなぁ。
(国広の悲しみに寄り添う姿勢はまったく見せない慈伝の山姥切長義を思い浮かべながら)
「結びの響き、始まりの音」と「坂龍飛騰」
「慈伝」と「十口伝」
この両者の対応が同じということは、構造が補完的になる。
「悲しみ」を埋めるものは、「優しさ」ではなく「愛」。
「坂龍飛騰」の結論は、舞台はすでに「慈伝」で描いたストーリーではないだろうか。
逆に考えると「十口伝」と「結びの響き、始まりの音」の中核も一緒ってことになるんだよな。まだちょっとピンと来ないから今度両者比較したほうがいい気がする。
長谷部や舞台本丸の皆の優しさがあっても、それだけでは国広は修行には行けなかった。
最終的に国広に修行を決意させたものは、長義との手合わせによる勝利を自分がどう捉えるかという結論。
「お前はお前であれ」という「愛」が、「俺は俺だ」という「太陽」こそが三日月を喪った「悲しみ」を乗り越えさせた。
長義くんはひたすら「愛」の刀。
だからキャラソン「離れ灯篭、道すがら」の歌詞は一行目から光について言及してるし、極修行の結論もそうなる。
俺は俺である、そうでなくなったら折れ。
そして審神者に対しても、「君は君であれ」という「愛」だけがあり、悲しみに心折れて歴史を擲ちたくなる悲しみには絶対寄り添ってはくれないだろう。
「愛」だけがある刀。だから「愛」を口にはしない。
何故後家兼光は、回想141で山姥切長義を「強き良き刀」と評したのか。
「強き良き刀」とはどういうものか。
声をかけられてはしゃいだのはどういうことか。
ごっちんは「坂龍飛騰」で肥前くんにも「美しい刀」と言っている。
でもそう言えば、肥前くんに対しては「はしゃぐ」とは言ってないか。
「坂龍飛騰」のその発言でごっちん誰でも褒めそうだなとは思ったんですけど、「はしゃぐ」のは「声をかけられた」ことが重要なのではないか。
そのはしゃいで相手をまじまじと見つめてしまった結果が回想141の「強き良き刀」という評価なのでは?
前回の考察を出したあとだと、何故肥前くんが「美しい刀」なのかはなんとなくわかる。
作中で一番「美しい」と言われているのは三日月で、その三日月は最も人に寄り添うタイプ。
そして、「坂龍飛騰」の肥前くんも人に寄り添うタイプだからこそ、亡き龍馬のために代役を反対し、龍馬の死を背負わされる物部のために代役に反対した。
逆に物部の青年が全てを放り出した時は、仲間たちと最初の選択とは逆に彼を孤独にせず一緒に腹を空かせることを選んだ。
「坂龍飛騰」では、肥前くんが最も、人の悲しみに寄り添う優しい刀で、けれど何者かになろうとする青年に、散るべき時に散れなかった花は腐るだけという真理を伝えた。
何も強要しないがその悲しみも受け止めない他の男士とは逆の態度。
人に寄り添う肥前忠広は、確かに三日月と同じく「美しい刀」だろう。
では、山姥切長義は?
慈伝が特に顕著で、花影でも花丸でも、山姥切長義は決して相手の感情には「寄り添わない」。
だから優しさがないと言ってもいいが、結局メタファー「強」と「愛」の関係上、どちらかを極めると関係は逆転する。
「優しい」のは「強い」からとも言えるし、「愛」があるから「強くなる」とも言う。後者は慶応甲府での御前の言い分ですね。
「愛」がある、ということが「強さ」すなわち「美しさ」なんだろうけれど。
長義くんの美しさは「美しいが、高慢」という注釈付きであることが特徴。
ストレートに美しいのではなく、「高慢」という態度に阻まれた美しさ。しかしその高慢の解説は、「自分に自信があって臆するものがない」というもの。
この高慢が光、太陽なんだろう。
「高慢」という言葉の中身だという前提がなければただの誉め言葉だもんなこの表現。
「愛」から起こす行動は婉曲な「優しさ」であるし、
「優しさ」を向けるということが、「愛している」という証明でもある。
だから「愛の戦士」である後家兼光が、一切の「優しさ」を削ぎ落して「愛」に全振りしている山姥切長義を見て、その結論が極めて逆転した「強さ」と受け取るのは理屈としてはわかった。
ごっちんはやはり長義くんとは正反対で、そして似た者同士。
だからこそ後家兼光が山姥切長義に贈る言葉は、「強き良き刀」。
御前は言う。刀剣男士を「強く」するものは「愛」だと。
山姥切長義は、「愛」の刀。
写しに対しても、主たる審神者に対しても、花影では長谷部に対しても、そして自分自身に対しても。
「自分自身であれ(お前はお前であれ、俺は俺だ)」
直江の性質に引きずられ、自分ではなく直江の性質を出してしまうごっちんに長義くんが「難儀だね」とコメントするのはある意味当然の帰結なのか。
2.「結びの響き、始まりの音」と「江水散花雪」の対応構造
「結びの響き、始まりの音」見返したんですが、今見るとしっかり江水と表裏の話になってるんだね、と。
「結びの響き、始まりの音」では土方さんが(近藤さんに)助けられ生かされたから、今度は自分も助けるって形で榎本武揚たちを生かしてるんだけど、このメンタルは江水の国広だな。江水では大包平ストップがかかっただけで。
ミュージカルの国広側の事情が大体明らかになったのが陸奥一蓮だから、あの時点だとまだピンと来ないけど今振り返ると「結びの響き、始まりの音」の裏側が「江水散花雪」で、さらに「結びの響き、始まりの音」で描かれなかったむっちゃんの内面に関する一つの答が「坂龍飛騰」で。「江水散花雪」は肥前くんが出てる。
「結びの響き、始まりの音」と「江水散花雪」では立場と結果が反転してる。
「結びの響き、始まりの音」は、土方さんと共に死ぬことで物語に出会った名もなき刀たちの物語でもあり、「江水散花雪」は出会ってしまったことで放棄された世界に滅びる吉田松陰と井伊直弼の話でもある。
「結びの響き、始まりの音」の巴形は皆何かが欠けていると言い、「花影ゆれる研水」では一期が埋められない空白を持つのが自分だと決意新たにする。
「結びの響き、始まりの音」の結論を思うと、ミュージカル本丸は「喪失」や「空白」の物語っぽい。
「結びの響き、始まりの音」から少なくとも「江水散花雪」を超えて「花影ゆれる研水」辺りまでずっとそんな感じ。
己の中の「空白」を埋めないことがあの本丸にとっての答。
第一節終了時点で反転するかと思ったけど、今の感じだとこのまましないような気がするな。