後家兼光の愛について
注意
ここ最近増えた情報を捏ね繰り回したもの。
まだ公演期間の残っている「坂龍飛騰」のネタバレ入っていますのでご注意ください。
今回の記事の半分くらいはくるっぷに出したものからちょっと腐的なリビドーを抜いて再編集したもので、ある意味半分くらいごけちょぎ考察かもしれない。
1.後家兼光の愛について
後家「ああー 仙台藩にはなかなか世話になったよ なにせ仙台の伊達と言えば奥州の盟主だ 戊辰戦争の時は」
笹貫「後家ちゃーん ちょっと黙ろうね」
後家「おっと」
物部「戊辰戦争?」
後家「薩摩の刀に折られちゃいそうなんでボクは黙りまーす」
ごっちんが相手の視点を失念して口を滑らせるのはある意味回想141通り。
それを止める笹貫の「後家ちゃん」呼びは驚いたし萌えた。
この部分、ごっちんは冗談めかしてるけど笹貫の真剣さと意図はちゃんと一瞬で汲み取っていたりする。
回想140~142の流れから薄々そんな感じだろうとは思っていましたが、ごっちんは頭の回転が速いわりに時々迂闊、みたいなキャラでしょうね。
そして「愛」の理解について。
原作ゲームに登場した時点で、ごっちんの考える「愛」はそもそもどういう方向かと一応いくつか推測はしていたんですよね。
子どもが好意を向けるような純粋なものか、それとももっと重たくどろどろしたものか。
ミュージカルの解答としては後者か。
陸奥守「怒りは もちろんある けんど 色々な思いが渦巻いている どろどろじゃき こりゃ海じゃあない 心っちゅうもんは 濁った泥水じゃ」
後家「わかるよ 怒ってムカついて何度も考えてしまうけど それでも考えてしまう でもさ そういうのを愛って言うんじゃないかな だから そう きっとキミからは綺麗な花が咲くよ 泥中の蓮 知らない? 蓮って濁った泥水の中でこそ あれだけ美しい花を咲かせるんだ」
(この部分むっちゃんの台詞の土佐弁の聞き取り自信ないです)
後家兼光のメンタルは基本的に前向きで、「愛」に対してマイナス面も含むことを熟知していながらも肯定的って感じですね。
ただ、「怒り」という感情を持っていることが割と意外だったというか、何に対しての「怒り」なのかでだいぶ解釈変わるんだけど、
誰よこの相手!? 直江!?
……直江兼続相手だとしたら確かにだいぶ解釈は変わりますが、一方で回想141で長義くんが「直江兼続の刀である後家兼光」を「難儀」だと評したところに意味が出てくるので面白そう。
ごっちんの台詞はそもそも、その前のむっちゃんの台詞から続いてる、その台詞を引き出したのもごっちんの「怒ってる?」という問いかけからなので、ごっちんが相手の「怒り」の感情に敏感ということになる。
ちょっとここもうちょい掘り下げてほしいんですよね。ただこれまでの原作とメディアミックスの傾向からしてここの掘り下げ来る気しねえー!!
話の流れメモとってもちょっと主旨が曖昧な気がするんですが、むっちゃんの怒りは三日月が物部を龍馬の代役として寄越したことでしょうかね。
三日月のやっていることは敵と同じじゃないのかと尋ねる大慶に対し、横から割って入って「彼は月だから」と解説したのがごっちん。
どうして大慶と実装半年も変わらない新参の君が三日月の事情を代弁しているんだ。お前は三日月宗近の何を知っとんねん後家兼光。
それはともかくとして、えーと、この流れだとごっちんは三日月のやってることに比較的賛成に近いんでしょうね。
原作ゲームの回想140で「刀身御供」という身代わりの話題を繰り広げただけあって、「成り代わり」にも比較的肯定的ということか。
だからミュージカルの三日月のスタンスに近い。
怒りを肯定し、元主を取り巻く問題について何度も考え、それでも元主を愛し、そういう自分の物語の美しさも信じている。
「きっとキミからは綺麗な花が咲くよ」
この一言で、後家兼光という刀剣男士が「愛」というものをただ美しいもの、純粋無垢なものと思っているわけではなく、どろどろに濁った泥水のようなものと捉え、だからこそ美しい花を咲かせるものとして人の心理の屈折込みで肯定しているということが明らかになりました。ふー。
改めて考えてみるとなんだこの恐ろしい男は……。
愛しているものに関して、相手に怒りを感じることを肯定するんだよなごっちんは。
うん??????
今回「坂龍飛騰」で肥前くんのこともさらっと「美しい刀」だと褒めたとはいえ、やっぱりごっちんの基本的なイメージとしては回想141なんだよね。
姫鶴との回想140やごこちゃんとの回想142も意味深だけどまだそっちは上杉繋がりだからいい。
回想141で、名前すら知らなかった完全初対面らしい「山姥切長義」に本当何を見たんだ君は……。
長義くんは基本的に写しの国広との関係に関して怒りも思考も繰り返すことを知っているかのような反応ってことなのかあれは……。
後家兼光の肯定するものが、その「怒りを内包する深い愛」だからこそ、回想141で山姥切長義に強く反応したのか?
やっぱりどの角度から考えても、長義くんは多分、ごっちんが考える「愛」そのものなんだろうなって感じ。
慶応甲府で一文字則宗が言ったように、刀剣男士を強くするものは「愛」。
けれどその愛は決して純粋無垢なものではなく、むしろ怒りを内包し、どろどろに濁った泥水の如く、だからこそ美しい花を咲かせる。
一応原作から推測できる可能性の一つではあるけれど、原作からだけだとここまで思考が行かない程度にはやっぱり業が深い後家兼光とかいう刀。
舞台が顕著ですけど、原作ゲームは刀剣男士の抱える欲望までを描かないのに比べて、メディアミックスはそこを描くんですよね。
だからミュージカルの後家兼光像は原作ゲームと同じともいえるし、違うとも言える。まあ他の子もそうなんですが。
なんか考察を進めたらごっちんのキャラ解釈がだいぶ愉快な方向に進んだ気がします。面白いけどどんな顔をしていいのかわからない。
大慶「義理と人情 何それ人間みたい」
南海「それこそ陸奥守くんの顕現傾向だ」
笹貫「業が深いね 溺れてしまいそうだ」
後家「深いのは愛かもしれない」
笹貫「愛? 溺れてしまいそうだ」
2.「愛」か「優」か
「坂龍飛騰」のそれぞれの男士がどういうタイプなのか軽く考えてみましたが。
とりあえずごっちんと大慶は原作ゲームから「愛」のグループに雑に放り込んでいいかなあと。
後家兼光は本刃が「愛の戦士」を自称していることもありますが、言動を見直してみると一見穏やかに見えて相手には基本的に「寄り添わない」タイプであることも明らかです。
回想其の140 『葦辺の鶴雀』
後家兼光「どーした、おつう。そーゆうなにらしくーとかべきとか、一番だるいって口だろ?」
大慶直胤も同じく、相手の事を考えてはいるけれど、相手の気持ちには寄り添いません。
回想其の154『江戸紫花合 雪割草』
源清麿「理想に向かって努力しているのを邪魔したいのかい?」
大慶直胤「そういった正秀の資質は好ましくはあるけど、潰れたら元も子もないって話だよー」
源清麿「まずは水心子の意志を優先したい。……簡単に口を出せることじゃないよ」
ごっちんも大慶も、相手に相手らしくあれとは思っていて、相手がどういう理想を持っているかや、相手が自分にどう在ってほしいかという部分には「寄り添わない」。
まあ長義くんの対国広への態度よりはこれでも十分やわらかいとは思うんですが……。
「愛」を重視するタイプは、相手には「寄り添わない」。
一方で、笹貫は原作ゲームの回想だとこの二振りとは明らかに逆です。
回想其の118 『風浪』
治金丸「そうだ。どんなに苦しい歴史であろうとも。お前がどこの刀であろうとも」
笹貫「……背負うねぇ」
治金丸「お前に言われることじゃない」
笹貫「あー……わるかった。いや、どうにも凝り固まったのが身近に居て……つい」
今まさにちがちゃんに背後を取られてるのについついその治金丸の事情を考えてしまう笹貫は、基本的に相手に「寄り添う」タイプなのだと思います。
考察としてここまではいいんですが、残りのぶんとさ組が結構面倒かなと。
とりあえず肥前くんは以前の考察通り、「坂龍飛騰」での行動を基本に「寄り添う」タイプに分類していいですかね。
「江水散花雪」でも岡田以蔵にとってどちらが幸せかわからないと考えていた通り、肥前くんは基本的に相手の幸せを考えてそれに合わせてしまおうとする「寄り添う」タイプだと思われます。
比較対象として相手に絶対寄り添わないタイプである長義くんを並べてみるとわかりやすいです。肥前くんは己を律して歴史を守る行動ができるだけで、本心は「寄り添う」タイプ。
南海先生はどうだろうなあ。寄り添うタイプよりは寄り添わないタイプに見えますが、言い切れるほどの決め手どこかにあったかな? と。
南海先生に関しては現状だとちょっと保留で。
で、肝心のむっちゃんなんですが。
陸奥守吉行は明らかに「寄り添う」タイプでありながら、結論として「寄り添わない」ことを自ら選んでいるタイプだというのが、「坂龍飛騰」のテーマの中核となっている構造ではないかなと思います。
敵にも情けをかける陸奥守吉行は、本当なら龍馬のことだって救いたいだろう。
けれど龍馬自身の歴史のために、彼を救わず、正しい歴史通り死なせることを何度も繰り返す。
このむっちゃんの態度にまつわる「記憶」の考察は、いずれ別の記事にまとめます。
3.「愛」と「優」の逆転
長義くんやごっちん、大慶は「愛」を重視する相手に「寄り添わない」タイプ。
一方でその対極として国広や笹貫なんかは相手に「寄り添う」タイプだと思います。こっちが「優しいは強い」の「優」タイプかなと。
肥前くんやむっちゃん、三日月に関しては比較的己の性情である「寄り添う」気持ちを己で律してあえて「寄り添わない」ことを選んでいる男士だと思います。
その一方で、このスタイル、突き詰めるとスタンスが逆転するとも思います。
んー、私もある程度直感的な捉え方になるのでうまく説明できないんですが……。
相手への愛故に己を律することを選んでいるタイプというのは、そのままの相手をそのまま守るために、自分を犠牲にできるタイプでもあると思います。
どういう論理構造として話をすればよいのかは難しいんですが。
それを示唆するのがまさに回想140で姫鶴一文字が後家兼光に忠告した「刀身御供」なのではないかと。
後家兼光は、直江兼続の直江らしい部分を愛しているからこそ一言多い。
けれど元主をそれそのまま肯定し続けていく結末は、姫鶴の言う通り直江の身代わり、刀身御供に辿り着いてしまうのではないかなーと。
「お前はお前であれ、俺は俺である」というスタンスの「愛」タイプこそ、その態度を突き詰めると自分が相手の身代わりになってしまう。
相手の相手らしいところをそのまま愛している。
だからそれを守るためには、相手の身代わりにだってなってやる。
ごっちんから直江や大慶から水心子くんへの感情だとするとわかりやすいんですが、長義くんから国広へもこれだとすると、あの態度でかい! ってなる部分。
そして反対側である、相手への寄り添いを重視する「優」タイプもまた、突き詰めれば一番大事なところで相手への自立を求める「愛」に転じるのではないでしょうかね。
「坂龍飛騰」の笹貫がそれっぽいかなと。
笹貫は回想118の件から基本的には相手の感情に寄り添うタイプで、けれど「坂龍飛騰」で西郷隆盛が己を否定しようとした時はそれを叱った。
薩摩の刀として全てを見てきて、西郷隆盛の苦悩もわかるからこそのあの言葉だったと思います。
ここで謝ったところで自分の気が晴れるだけだと。あんたは薩摩の誇りだ、命尽きる時まで戦ってくれと。
相手に寄り添い、その気持ちを常に考えるからこそ、相手が逃げようとすることも許さない。
最後の最後で、「お前はお前であってくれ」という願いに行き着く。
「寄り添う」「寄り添わない」で分けても結局このように状況によって逆転しちゃいそうだなと。
ついでにこの性質がある意味「呪い」とか「刀身御供」とかとも結びついているなとも思います。
長義と国広に関しては、回想56、57のやりとりはお互いのこの性質がもろに出ている結果ではないかとも思います。
長義くんは「お前はお前であれ」と求めておきながら、バランスを崩すと自分が相手に成り代わってしまう立ち位置でもあり、
国広は相手の気持ちを考えて相手と一蓮托生の道を選ぶからこそのあの極修行手紙なんでしょうが、それによって行き着く先はある意味名よりもっと大切なことがあるという突き放しでもある。
「愛(寄り添わない)」と「優(寄り添う)」はこういう「極めると逆転」の関係ではないかと思います。