派生作品の三毒を考えながら慈伝を振り返る
斬ると食うと、呪いの話(付舞台考)
斬ると食うと、呪いの話(付舞台考)2
斬って食って呪ったのでもう常に舞台の最悪を想定をしていく(蛇足)
を書いてもう舞台の考察は終わりにしたかったんですがね……
舞台の物語を整理してある程度舞台の長義くん像が出来上がったら確認の意味で一度慈伝を振り返らなきゃなという話と、
舞台の次回作、慶応甲府はどうなるか?
結局光秀と信長の関係はどう描かれ、その意味はどうなるのか?
を考えてたところに、そういえば舞台の長義と国広の関係が「瞋(怒り・憎しみ)」なら他の派生は? もしかして花丸長義くんの台詞の「妬ましい」ってこれ別の三毒なんじゃないの?(癡でした)っていうあれがですね……。
そろそろ文章を短くまとめる才能が欲しいです。
1.魔王よ、あなたは何者なのか
前回からの宿題、明智光秀と織田信長の話です。
前回の考察の結果、三日月の物語が信長を守りたい蘭丸の献身をなぞっているとしたら、長義を守りたいと願いながら最終的に憎む結末になるだろう国広の物語は、信長を殺す光秀をなぞっているのではないか? という仮説を得ました。ここから行きます。
虚伝の光秀の意味深なところか……あの人確か椿の花に対する見解が蘭丸と割れてたな。
義伝以降どうだったかは忘れましたが少なくとも慈伝以降はガラシャ様のように誰かにとって救いたい相手、愛おしい相手を「花」と例えていることが多い。
逆に言えば作中で出てくる花は、愛しいものの比喩……。
木に春と書いて椿。武家を象徴する冬の花。
しかし面白いのは虚伝の戯曲本読み返すと、蘭丸は縁起の悪い椿があまり好きではないといい、光秀は花に罪はないと言っているところですかね。おおう……。
献身の中に在る憎しみ。
反逆の中にある愛。
信長主従三人の関係は、三日月と国広にとってそれぞれ大切なものとの関係を思わせますが、同時に「主従」から別の相手との関係も連想させますよね。
主――本丸の主・審神者。
まあ主従関係とここは掛けてないわけないよな、いずれここもひっくり返るよな、ということでそれは一度置いておいて。
中盤から織田組と蘭丸・光秀が「織田信長とは何者か?」という問いにそれぞれ向かい合い、その締めくくりが蘭丸の死を見たあとの不動くんの光秀への殺意と、それを宥めて歴史を守る方向へ向かわせる織田組、とくに宗三の説得です。
自分たちにそれぞれの信長像があるように、光秀の中にも討たねばならない信長像がある。
不動くんはその説得を、他者の中にある信長像を受け入れて一段成長する。
虚伝自体はここで綺麗にまとまっていますが、その後の話を考えるとこの結論発展しそうですよね。
つまり、光秀の中に在る信長像は、そもそも他者の中に在る信長像ではない。
「それ」は我々自身だ。
自分自身が光秀になるのだ。
我々が「織田信長」を理解する方法。
――それは、自分自身が「森蘭丸」にも「明智光秀」にもなることではないか。
これだけ書くと何言ってんだお前って感じですが、とうらぶの舞台に関しては、あることがそれを示唆しています。
物語構造自体の頻繁なポジション交替、そして夢語における三日月と国広の入れ替わり。
誰かの気持ちを理解するためには、自分自身がその立場になるのが一番早い。
これを間接的に行う手段こそが、物語であると言えます。
研究者は己の主観で歴史を捻じ曲げることはしませんが、時にその史料を書いた本人以上の知識でもって当時の事情を解説することができます。
限定的な条件であれば、人はすでに他者の視点を理解し、かつ超越することを常日頃から実行しています。
織田信長とは何者か?
宗三は人それぞれに信長像があることを指摘する。
だが、それはそもそも区別されるものなのか。
森蘭丸にとっての織田信長。
明智光秀にとっての織田信長。
それらは本当に別のものなのか。
否、それはどちらも同じ人物を指している。
蘭丸の見ている信長像と光秀の見ている信長像、両者を合わせたものこそが、本当の織田信長ではないのか。
どちらも同じ人物について語っているのに、その半分しか認めずに残る半分を否定したら、それは本当の織田信長とは言えない。
歴史とは、誰だって、何だって、本来そういうものではないか?
これまで刀剣の研究史において得てきた「認識」への結論、そして「自我」を否定する仏教的な思想の到達点がここだと思います。
我々が他人を考える時にはついつい「自我」を置いて物事を考えがちですが、仏教的にはそもそも「自我」は存在しない。心とは、無数の要素の集合体である。
織田信長とはそういう個がある存在ではなく、他者の見ている織田信長像を全て重ね合わせたものこそが本当の織田信長なのだと。
舞台のシナリオ構造からいくとこういう結論になると思います。
そして、だからこそ明智光秀を否定するわけにはいかない。
光秀の物語を削れば、信長が欠けてしまう。
そして仏教的な思想で言えば、そうやって煩悩を克服してようやく悟りを得る。対象の本当の姿が見えてくる。
そうか、これ――「山姥」だ。
思へばこの世は常の住み家にあらず
草葉に置く白露、水に宿る月よりなほあやし
金谷に花を詠じ、榮花は先立つて無常の風に誘はるる
南楼の月を弄ぶ輩も 月に先立つて有為の雲にかくれり人間五十年、下天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり
一度生を享け、滅せぬもののあるべきか
これを菩提の種と思ひ定めざらんは、口惜しかりき次第ぞ
本能寺の変の織田信長、気に入りの幸若舞「敦盛」を舞って自害したという……って、今調べたら本能寺の変では信長歌ってないじゃないかこれ!
ま、まあいいやここは演出が劇的な歴史採用ということで、はい、本能寺の変で織田信長が敦盛を舞った方でいきます。
舞い。歌。そして夢幻の如くなりという、諸行無常の世界。
我々自身が蘭丸になり、光秀になり、全ての物語を重ね合わせて見えてくる「敦盛」を愛した信長の姿は……謡曲「山姥」のテーマ、
煩悩即菩提――「菩提」そのもの。
統合を意味する刀剣が光であり、智慧であるならば、
乱舞はおそらく分離であり、舞は救いであり、慈悲であるのではないか。
煩悩と向き合い、煩悩を振り払った先にあるのは菩提。
それは煩悩そのものとして最初から存在しているにも関わらず、自分自身が長い苦悩の果てに煩悩を自ら乗り越えることによってようやく「菩提」としての姿を現すもの。
魔王よ、あなたは何者なのか。
……あなたは私の「煩悩」、そして私の「菩提」。
「敦盛」という物語の基本的なあらすじは、敵兵の武将とはいえまだ16歳の少年であった平敦盛を討取った源氏方の熊谷直実が後悔により後に出家するというものです。
織田信長が好んだ上の歌詞が登場するのはこの熊谷直実側の心境ですね。
蘭丸が命がけで救いたいと願い、光秀は逆に命がけで殺そうとしている、信長の物語もまた直実、
誰かを殺して生きてきた、世の無常への後悔を抱えたもの。
つまり、円環を脱するために戦い続けてきた自分自身。
信長を知るために蘭丸になり、信長を知るために光秀になる。
その果てに見えてくる姿は、これまで様々な敵を殺しながら進んできた自分自身。
――あれは、私だ。私自身だ。
あらゆる手段を以てその正体を知ろうと、ある時は命がけで守ろうと、ある時は全てを賭して殺そうとしてきた、その相手もまた自分自身。
心から愛して救おうとして、心から憎んで殺しつくして、追いかけて追いかけて、ようやくたどり着いたときに、それが他でもない自分自身であったことに気づく。
み……見事な円環構造だ。
これ、それこそ国広視点の長義との関係で想定すると、今まで考察してきた内容の総集編的な結論でめちゃくちゃよくわかる……。
蘭丸視点の信長と光秀視点の信長が統合されることがあるのか? に解を与えてくれるのが国広なんですよね。
だってあいつ、命がけで守りたい相手を心から憎んで手にかけそうでしょ普通に……(普通とは一体)。
ほんの少し条件が変わるだけで、人は蘭丸にもなる。光秀にもなる。
誰かを守りたいと願い、あるいは心の底から憎み、けれど自分とその対象との立場というのは、それこそ入れ替え可能なものでしかないのだと気付く。
救いたいのも、殺したいのも、本当は自分自身。
それこそが煩悩即菩提。
蘭丸、光秀、そして信長。
虚伝で描かれた三者の存在の意味が帰結するテーマはここだと思われます。
2.その名に相応しくあるために(慈伝再考)
夢語の考察辺りで舞台長義くんの心情が大体わかったので長義くん登場の慈伝に戻ってチェックの意味もかねて振り返ってみました。
ら、これまでいまいち不明瞭だったところがようやくはっきりしてきました。
「やめてもらえないかな 偽物くんを山姥切と呼ぶのは」
「写しには山姥切の名はもったいない」
「山姥切と呼ばれるのに相応しいのは俺だ」
慈伝は初めて見たとうらぶの舞台だったのでその後の話ほどしっかり台詞をメモってないので細部が結構あやふやですが、メモと以前の考察から引っ張り出してきたところ大体こんなことを言っていたなと。
長義くんの心情を考えるには、まずそもそも長義くんは自分の研究史をどのように捉えているかという分析が必要です。
しかし、研究史の理解に関しては対のキャラ造形である国広が山姥を斬った記憶はないとはっきり否定している上に、長義自身の感情の表出がどう考えてもそんな素直なキャラでないために、ここの情報が入り組んでこれまでいまいち正確な分析ができませんでした。
原作ゲームと研究史からの分析はあくまでも一方向のみの仮説の域を出ない感じでしたが、派生作品の分析は明確なストーリーがついたことによってそれぞれの心情を明らかにしてくれます。
心情と研究史への理解が結びついた認識の内、片方が解ければもう片方の内容も判明します。
原作ゲームはあくまでも歴史認識としての研究史を絶対として心情を整理しましたが、派生作品である舞台は長義の心情を明らかにしてくれたために、認識部分が整理できます。
で、思ったんですが……これ、長義くん多分、自分が山姥を斬ったとは思ってないですね。
「もったいない」
「相応しい」
この言い方は、山姥切の号を生来の名として捉えるよりは、むしろ条件を満たして得た称号、つまり勝利トロフィー的な浮動的なものとして見ていると考えられます。
「相応しい」という概念はキャラソンの離れ灯籠にも使われていて、あちらも正直最初聞いた時から名前に使うにはおかしい表現だなと思っていたんですがようやくすっきりしました。
長義は最初から山姥切だったわけではない。
途中から、つまり国広の再発見時から山姥切になった。
研究史から考えても長義くんの自己認識はこれになるはずなので、原作ゲームと派生からの解釈がきちんと一致したと思います。
このように見るためには長義の国広への感情が重要だったわけですが、慈伝と夢語の描写、そして花丸での長義と国広の関係の描写も合わせて考えると、これが一番自然な結論ですね。
舞台に花丸、そして原作ゲーム。
どの物語でも長義が国広に要求しているのは、国広自身の存在を誇れ、もっと自分に自信を持てということ。
山姥切の名に対して「もったいない」「相応しい」という表現を使うのは、それだけこの名に特別な思いを抱いているからで、その名を背負うに足りない相手には渡せないと、国広が国広自身の名や価値を否定するほど、長義側の態度も苛立ちによってきつくなる。
勝利トロフィー、すなわちその称号に相応しい存在になって初めて得られるもの。
だから国広が自分自身を示せないうちにはその名を背負うことを認めるわけにはいかないし、長義自身もその名に相応しくあるように常に努力していなければと思っている。
在り方としては最高に気高いけれど、ちょっと悲しいのは多分、我々が思っているほど長義くん自身が山姥切の名を自分のものだとは思っていないってことなんでしょうね。
山姥を斬った記憶が完全にないのか、御前のように作りものだと自覚した記憶があるのかはやはり不明ですが、この認識ならいっそ完全に記憶がなくてもおかしくない気がします。
長義自身は研究書の記述通り、「本歌だから山姥切」という論法で自分を山姥切だと認識していると考えられます。
そして国広も山姥切と呼ばれていることも知っている。
更にその先、山姥切は国広であって、長義ではないと言われていることもおそらく知っている。
けれど、何故そう呼ばれるか、その理由までは知らない。
だからこそ、知ろうとしている。
人が与えた名を史実創作の区別なく自分の物語として受け入れ、自分の名だから称えられるべきだと認識しているわけではなく、人が与えた名の認識に自分から相応しくなりにいく。
……これ要するに、国広の正反対で同じ、という今までの構造の補強で考えていいと思います。
国広側の認識も「山姥を斬ったのは俺じゃないと記憶している」という、他者の認識から自我を構成する、まあつまり仏教的縁起方式の構築です。
長義も同じく他者の認識から自我を構築している上にそれ自体には疑いを挟まないため、自分は山姥切だと堂々と名乗っているのだと思います。
「自我」、つまり自己特有の記憶を想定せずに他者の認識だけで構築されている場合、斬った記憶そのものや根拠を必要とせずとも自信を得ています。
この条件だと語られた時点でそれは存在するという論法が成立しますから。
そして最近実装された孫六兼元と、山姥切長義の「もてあた」が同じ「枝葉への慮り」であることを一文字則宗が回想138で指摘しています。
知ることで、己の持っているものを知る。
それが山姥切長義と同じだと。
御前が兼元は喜んで新選組の羽織を着ると思っていたのは、あるいは長義がそうだからかもしれませんね。
他者の認識が自我となり、自分の力になる。
だからこそ長義は自分の物語に知らない部分を残してはおけない。
それを知るために、比較対象である国広との間に決着をつけようと思っている。
この辺り考えるとますます長義くんにとって山姥切の号は勝利トロフィーだなと。
長義と国広の思考と主張は、我々の想像と多分前提が逆のような気がします。
名前に拘っているのは極める前はおそらく国広の方、そして極で逆転する。
長義が拘っているのは本当は本歌・写し関係。そしてこれを恐らく極で否定する。
何故山姥切の名が長義にとってトロフィーたりえるのか。
それは、山姥切の号は長義が「本歌だから」与えられたものだからではないか。
山姥切の名はそれそのものが素晴らしいのではなく、「本歌」である長義に与えられたから、本歌である自分に自信を持っている長義はその名を素晴らしいものだと考えているのだと思います。
国広はここが逆なのだと思います。
山姥切の名に執着はあった。けれど「写し」であることに自信はない。だから逸話だけ肯定されてもその名を即座に素晴らしいものだとは受け取れない。むしろその名のせいで、本歌との間に争いを呼んでしまう……。
山姥切問題の本質とは何か。
多分、本当は別に真偽問題とか別に関係のない本歌と写しに、号と逸話のことでその問題を持ち込んだことそのものなのではないでしょうか。
後述しますが、ぶっちゃけ刀剣の号と逸話に関しては調べれば調べるほどあの刀もあの刀もあの刀も逸話にちゃんとした出典ねえ! あと号は研究者のノリでコロコロ変わったりする! なので、正直なところ、号と逸話が間違っていることは、刀剣研究の世界をきちんと俯瞰すれば大した問題ではないと言えます。
しかし、本歌と写しの間でどちらが「本物」の「山姥切」なのかという話題はそれだけで、「真」の反対は「偽」なのだという、疑いを発生させてしまった。これ自体が問題なのだと。
本物ではないと言われたら、それは偽物なのかと当然疑う。
けれどそもそも、「本物」とは何なのか。
長義は山姥を斬った逸話に執着する。その逸話が与えた名に執着する。
一方国広は最初から名への執着はあっても、逸話を欲してはいなかったことを考えると、斬ったという逸話が刀剣の価値を示すものではないという思想であり、そこは研究史への認識を更新してもぶれてはいないのではないだろうか。
お互いに「本物」だと考えているものが違う。
そして意見の相違を解決したりはしないまま、ただ自分の考える「本物」を証明するために行動するだけ。
長義も国広も、どちらも変わりはしない。
相手ではなく、自分の考える「本物」を証明する。
長義は山姥切の名を。
国広は山姥切の名以外のものを。
お互いの研究史を考えれば、逸話のある国広が名を主張して、長義がそれ以外を主張する方が楽だ。
けれどそんな、楽な道には逃げない。
逸話がなくても、名を証明するのだ。
逸話とは関係なく自分自身を証明するのだ。
それが結局は自分自身のためで、相手のためでもあると信じているから。
……極はある意味で、どちらもそれまでの物語を捨てて結論を逆転させてくるんじゃないでしょうか。
完全に「捨てた」と捉えるとあれですが、作業的にはどちらも極でまたゼロからのスタートで、今までの主張とは逆の内容を証明しなければならない。
けれどその作業をするからこそ、二極端ながらも両方己の物語であるものをいずれ両方肯定・統合できるのではないかと。
慈伝の振り返りから長義くんのキャラの一貫性、舞台長義の一貫性及び、原作ゲームと派生長義の一貫性について考察するとこんなところで落ち着きますね。
今まで派生ごとに微妙に自己認識違ったらどうしようかと思っていたんですが、やっぱり知識面はどの派生の長義くんも同じようですね。
そして性格は完全に違う、けれど、表面上の性格がいくら違うように見えても、根本的なものは変わらない。
刀剣男士とはそういう存在だと。
3.縁起の世界、山姥切国広の手紙と有馬晴信
「自我」がなく、他者の認識において記憶が形作られている。
これは仏教的な捉え方ですが、原作ゲームではすでに提示されている要素の一つです。
山姥を斬ったのは俺じゃないと記憶している。
(山姥切国広 修行手紙2通目)
原作ゲームの考察の際に、私は今までさんざんここについて突っ込みました。
人間の視点ではこの言い方はおかしい。
国広の記憶は国広自身の体験や主観から得たものではなく、人間の語ったことから形成されている。
つまりここが刀剣男士と言う存在に関する設定の中核である。
えー、これに対して公式の一つである派生の方から明確な回答が来ましたのでついに答が出ました。
有馬晴信「俺は武士として死んだのか キリシタンとして死んだのか 当の俺すらわからない」
(綺伝)
あの世界、人間の記憶も他者の認識という外部から構築されてんじゃねーか!!
長義くんに200回以上ビンタされた人こと有馬晴信ですが、ついに突っ込んできましたね。
我々が普段自分を理解するように自己の体験から記憶を得ているのであれば、自分の死に方が自分でわからないということはないでしょう。
けれど有馬晴信は、当の俺すらわからないと言う。
「史実と違うことが言われている」だとか、「史実とされているものが事実と違う」とかではなく、自分自身にすら、自分が武士として死んだのかキリシタンとして死んだのかわからないと……。
史実では自害。キリシタンの記録では自害ではなく打ち首。
どちらが事実だったのか。
そこに拘泥せず、むしろ諸説が入り混じることで己を見失う。
とうらぶはもともと原作ゲームの合戦場が「記憶」という名前なので「認識世界」ではないかという考察を出したというか、これはもともと割と言われていたことだと思うのですが、ここの有馬晴信の自己認識はその裏付けと言ってもいいと思います。
そして現時点の原作ゲームだと国広だけが特殊な自己認識をしているのかと思われた修行手紙の2通目も、むしろ人間であるはずの有馬晴信がこの認識なのであれで普通なのだと言っていいと思います。
「我」、すなわち「自我」や「個我」などというものは存在しない。
人も刀もすべて、他者の認識から形成されたものが己自身である。
そしてこの記憶の形成構造に、人間だから、刀剣男士だからという区別は存在しない。
すなわち、仏教的「縁起の世界」。
唯、心(認識)だけがある。
世界観に対する理解はだいたいこんな感じだと思います。
仏教的概念の理解そのものが難しいので私の言葉選びが間違ってたらなんかもっと適切な名前つけて! とは思いますが、個人の「我」を想定せずすべてを認識の集合体、「仮構された存在」として想定すること自体は広い意味での仏教的な捉え方だろうと考えます。
しかし有馬晴信は「放棄された世界」の住人で、通常の合戦場の住人とは性質が違う可能性があるのでは?
という指摘に関しては、放棄された世界の作り方も舞台では時の政府側による通常時間軸からの後天的な切り離しであることが明言されているので問題ないかと。
放棄された世界は単独で発生している次元ではなく、普通の世界と発生・存在の理屈は同じですから人間の認識もスタートは同じでしょう。
それが放棄された世界になることで、認識の更新が行われなくなったことにより、己を形成する記憶への思考がぐるぐると埒のあかない回り方を始めた事によって濁り始めてしまう。
自分が本当の意味で円環を脱出できていなかったと気づけるのは、原作ゲームの対大侵寇の三日月のように、思考のぐるぐるを抜け出せたあと。
大侵寇其の124 『月、新た』
三日月宗近「囚われ、未来へ進めずにいたのは俺だったということか」
放棄された世界はやはり「思考の放棄」なのではないかと思います。
仏教的認識の世界において、思考の放棄はやはり致命的ですね。
とりあえず、原作ゲームの山姥切国広修行手紙2通目と舞台の綺伝の有馬晴信の発言から、この世界観のギミックは仏教的観念により統一されている、ということを結論としたいと思います。
4.清き光よ、英雄を導け
正直、慶応甲府は見てから考えてもいいかと思ったんですが原作ゲームの方の考察と組み合わせると維伝から慶応甲府まできっちりテーマが一貫した美しい円環がこの時点で完成するな……と思ってしまったので吐き出します。
考えたら吐き出さないとね。ため込むと放棄された世界みたいに滞留しちゃうからね。
はい、ということでまだ見てもいないどころかそもそも公演が始まってすらいねえ!(来年の夏)
舞台・慶応甲府考です。我ながら気が早すぎる……!
正直、維伝を見た時点で彼が登場していたので、慶応甲府でも再登場するだろうなと最初から思っていました。
そう、原作ゲームの考察から登場を待ち続けた、あの男こそが今度の物語の主役だ!
――板垣退助。
維伝で登場した、「乾退助」です。後藤象二郎と一緒に登場して、龍馬に「乾さん」と呼ばれていましたね。
もともと原作ゲームの慶応甲府と合戦場1面、つまり維新関係の考察で何度もこの人の話に触れておりました。
慶応甲府、甲州・勝沼の戦いで甲陽鎮撫隊こと新選組と戦うのは迅衝隊……土佐勤皇党の生き残りを率いた板垣退助だからです。
さらに戊辰戦争を描いた1面の合戦場の多くは会津や宇都宮など、板垣退助がここで功績を上げたとしてWikipediaなどで説明されている局面です。
そして、舞台で維伝からずっと引き続いている名前の問題。
「乾退助」は名前、苗字を変更している。「乾」から「板垣」へと。
自由民権運動の父、国会を創った男、「板垣退助」。
その名前変更の理由こそが、慶応甲府。
甲陽鎮撫隊こと新選組を倒すためには、迅衝隊はまず甲府城を抑える必要があったという。
甲州・勝沼の戦いは、先に甲府に入った方がこの戦いを制すると目されていた。
甲府は幕府の領地なので本来なら新選組の方が有利ともいわれるが、実際には甲府の人々は幕府の支配に不満を持ち、かつての「武田家」の時代を懐かしがっていたという。
この「甲府」の人々の幕府への不満は天保江戸の辺りから引き続いている問題でもあった。
そこに、新選組と戦うために迅衝隊を率いる乾退助が向かうこととなった。
この時、新政府側はある策を乾退助に授けた。
実は乾退助は、戦国時代に武田信玄の教育係も務めた名将、板垣信方の子孫。
武田家の家臣が、武田の城、甲府城を取り戻すために帰ってきたぞ!
そのように演出して甲府の人々を味方につけるために、「名前」を変えよ。
そのために、「乾退助」はこの戦いから「板垣退助」になったと言われています。
(ネット検索だけのざっくり調べ)
慶応甲府は加州主役の特命調査として新選組に感情移入して新選組の悲劇として捉える人も多いかと思いますが、新政府軍や甲府の住民側からすれば、意味が大きく変わります。
板垣退助の甲府到着は、板垣信方の子孫が甲府を横暴な幕府の役人支配から解放するために戻ってきた、つまり救済の始まり。
――英雄の帰還。
そして退助自身も明治という新しい時代を切り開くため、土佐で先祖代々250年を過ごした「乾」の名を捨て、「板垣」の名を背負うことを決めた。
慶応甲府とは、そういう戦いだと見ることもできます。
新しい時代を切り開くための改名。
長義と国広の名前の問題を提起した慈伝をプロローグに、維伝を第1章として始まった舞台の第2部を考えると、名前の問題はここで綺麗に一周します。
舞台の第2部は、慈伝がプロローグ、維伝から始まると考えると
維伝の龍馬と以蔵の想い、身分差別のない世の中、「名無しの世」を求めるところからこの物語は始まります。
そして父親が偉大過ぎることで、自分は何者なのかと苦しむ秀頼や、それまでの人生が報われずに死んだように見える父を憐れみ、父を超えたいと願って秀頼を諸説に逃がすことにかける真田信繁の姿を天伝で描き。
无伝では豊臣の象徴である高台院自身が豊臣の物語の終わりを望み、真田十勇士や秀頼、敵方ではあるが秀頼にとっては妻の父である徳川秀忠とも交流の末に、英雄ではない自分がそれでも己が人生を生ききるための戦いが終幕を迎える。
綺伝ではキリシタンたちが己の信仰と共に新たな名を選び、愛と憎しみに引き裂かれながらも求めあう夫婦の姿が中心に在り、
えーとだから禺伝はとばし、夢語とこっちもまだ見ていない単独行もとばしますが、
慶応甲府の物語で、新たな時代を切り開くために「名を変えて帰還した英雄」の姿を描き、古い時代の物語を終わらせる……。
維伝の坂本龍馬に始まり、慶応甲府の板垣退助が決着をつけることで、「名前を廻る物語」が綺麗に決着を迎えます。
……もうこれが舞台第2部のテーマで、ストーリーの骨格だと思います……。
名前のない世の中が欲しい。名前や身分、これまでの歴史なんてものに左右されたくない。みんな平等な、新しい世の中が欲しい……。
維伝の時点で思ったんですが、この願い、国広の本心だと思うんですよね。
自分の名前が重たくて仕方がない。こんなものがあるから本歌と争わされる。
でも、山姥切の写しだという物語を失ったら俺は一体何者なんだ……?
舞台と原作ゲームの国広は結構性格が違うんですが、性格の傾向自体は共通していると思います。
山姥切国広が自分の名を忌避しているのは原作ゲームからの傾向ですね。自分の名を大切にしている奴は人間は逸話なんかどうでもいいんだなとは結論してこない。
けれどそれ故に、国広の本心は長義と争いたくない、戦わずに一緒にいたいという願いであることも読み取れる。
しかし、それではダメなんだと。
他の本丸はいざ知らず、天伝ですでに自分自身が、諸説に逃げようとする弥助・信繁を否定した国広自身がその選択を否定する。
甲府の英雄は帰還する。名を変えてでも戦う。新たな時代を切り開くため。
維伝において、本丸の刀剣男士たちはどちらかというと龍馬にかくまわれ龍馬を救おうとする味方であり、龍馬を討とうとする土佐勤皇党の「乾退助」とは敵同士でした。
しかし今度の慶応甲府では、甲陽鎮撫隊こと新選組を討とうとする迅衝隊、「板垣退助」と手を組むと考えられます。
「敵」と「味方」の逆転。そこに絡む「名前の変更」。
夢語で良い遡行軍だとか遡行軍を斬ろうとする長義を長谷部が止めるだとかいろいろばらまかれていたフラグ、敵味方の逆転をここで拾うと思います。
原作ゲームの慶応甲府はタワーディフェンスで陣地の取り合いが挟まれますけど、そもそもあの陣地は誰がいて誰と取り合ってんだよ、というところに迅衝隊との協力展開を挟むんじゃないかなと思います。
敵と味方が逆転する。
加州は、かつての敵と手を組み、一番大切な主・沖田総司と戦わねばならない。
慶応甲府の物語は、板垣退助と甲府の人々から見れば、新たな時代を作るために帰還したかつての英雄の戦い。
けれど、迅衝隊に滅ぼされる新選組から見ればこの戦いはどうか。
加州主人公の特命調査ですから、加州の主、沖田総司の視点に着目しましょう。
そもそも新選組は幕府における警察組織のようなもので、維新政府は現在の政権を打倒しようとしているのだからテロリストです。
それが朝廷に認められたことで、立場が逆転してほぼ一方的に悪者扱いにされてしまった。
何故だ、最初に幕府政権に対して争いを、暴力を持ち込んだのは維新志士の方だろう。新選組はそれを取り締まっていただけ。
自分たちは当たり前のように国と人々を守ろうとしただけ。それなのに。
――この戦いで負けて、近藤勇は斬首される。
沖田総司が近藤勇と出会ったのは試衛館に通い始めた9歳ごろかららしいですね。
そこから25歳とか27歳だとかで死ぬまでずっと共に戦ってきた。
原作ゲームの特命調査では、最終戦のボスとして「局長」と「一番隊隊長」が登場し、両方を倒さないと「優」がもらえない。
原作ゲームだとこのボス二人が本人かどうかにまったく言及しないことから偽物(まがいもの・なりかわり)だとは推測されますが、舞台だとこれまでの放棄された世界の住人たちと同じくほぼ本人として描かれながら、その正体としては魑魅魍魎であり、朧であり、鵺であることが描写されると思います。
子どもの頃から共に歩み、まさしく兄のような存在である近藤勇を慕う沖田総司。
史実の沖田総司は甲州・勝沼の戦いの前に病で離脱してしまったため、この戦いには参加できなかった。
そして苦しい病床の中で、近藤勇が4月に斬首されたことを知らず、最期までその身を案じ続けたまま亡くなったと言われている。
新選組で一番強いとまで言われる剣の腕がありながら。
一番大事な戦いに、大切な人の命運を左右する戦いに、参加できなかった。
だったら、こんな強さに、一体何の意味があるっていうんだ!!
……史実の沖田総司の立場を考えるとこの状況で今まで描かれてきた他の人物たちのように正史の結末と未来を知らされたら足掻かずにはいられないと思うんですよね。
そしてその足掻きを踏みにじり、新選組の敵である迅衝隊と協力して沖田総司であった「物」を討たねばならないのが加州清光。
清光。清い光。それは仏教でいう般若(智慧)のメタファー。
智慧の光を以て、「名」を変えて「帰還」した「英雄」を導け。
これは「名前を廻る戦い」の物語の、最後の決着。
本当の自分を取り戻し、新たな時代を切り開くための戦い。
今手元にある情報ピースから組み立てると慶応甲府の予想はこんなところになりますね。
ただし、あくまで読者目線であってこれまで出たものと前提である史実から組み立てただけで、プラスアルファは考えられません。
実際にシナリオを作る方はもともとの骨格にガンガン追加要素を盛り込んで話を書き上げますから、末満氏が慶応甲府をどのように仕上げてくるか楽しみですね。
5.歴史の円環
上の予想から舞台の第2部は維伝の「名無しの世」を望む心に始まり、慶応甲府の「名を変えて新しい時代を作る」戦いに帰着する円環だと想定します。
役者さんのスケジュールとか舞台特有の事情はさっぱりぽんなのであまり断言できませんが、シナリオの構成からすると慶応甲府の次が第2部のクライマックス、その次がエピローグになる気がしますね。
そして慈伝の例からすると、第2部のエピローグはそのまま第3部のプロローグを兼ねる構成になると思います。
中核になるのは綺伝の細川夫妻が見せた、鬼と蛇のお互いへの愛憎の物語。
……維伝はある意味これも慈伝の国広の内情を龍馬と以蔵によって説明するひっくり返しの種明かし回で、そのままプロローグである慈伝を踏襲しているんだよな。
悲伝と慈伝の連続性、慈伝がそのまま悲伝を踏襲していることを考えると第2部エピローグは慶応甲府を踏襲すると思われる。
つまり、国広視点で整理すると、本心ではなく心弱った状態とはいえ「名前などどうとでも呼べばいい」と口走った慈伝、すなわち名無しの世を望む想いから始まり、
最後のエピローグで般若、清い光こと多分登場するだろう二振り目の三日月の助けを借りて「己が山姥切だという誇りを取り戻す」物語で第2部を締めると予想されます。
……そうなると肝心の第2部クライマックスの内容は綺伝からの禺伝を踏襲するよなと。
禺伝まだ見れてないのが結構響いてきました。
しかも綺伝でガラシャを演じた七海さんが禺伝で歌仙を演じるということで立場の交替、性質の逆転に直接的な連続性があることが確定していて……禺伝どういう物語なんです??
これによって第2部クライマックスの予想内容ちょっと変わるぞ。
花であり蛇(ガラシャ)からそれを斬る鬼(歌仙)へ中の人が立場を変えるわけなんで。
そっちはちょっと置いておきますが、刀剣男士の配置から史実そのものの円環をちょっと確認しておきたいと思います。
第2部は維伝(文久土佐)に始まり慶応甲府に始まることで明治維新を軸にした円環だなと思います。
これ考えた時に、第1部はどう整理する? と。
織田信長の死に始まり、足利義輝の死に終わる円環です。
振り返ると第2部が時代の終わり、物語の終わりとしての死を受け入れながらも同時に新たな時代を作る要素にフォーカスされているような気がするのに比べると、第1部はひたすら終わりと死に耐える面が強いかもしれない。
第1部は信長の死、伊達政宗の野望の終焉、北条の終焉、義輝の死。
新たに始める要素を拾うと信長の死から豊臣の時代が、伊達政宗の野望の終わりとして江戸幕府の恙ない開幕が、北条の終焉からこれも豊臣の時代が、義輝の死から三好政権を打倒する信長の時代がそれぞれ始まると考えれば(オイラの歴史知識は適当)。
どちらかというと第1部は順番が逆で義輝の死から始まる信長の時代の終わりから始まる円環みたいな感じに見えます。
これを繋ぐのに重要なのが、義輝を殺し信長に打倒された「三好」というパーツです。
……前回までの考察だと、三日月の物語は義輝を救いたい献身(蘭丸)、国広の物語は長義を殺す憎しみ(光秀)の踏襲だというところで終わりましたが。
夢語に則れば、三日月宗近と山姥切国広の立場は逆転する。
そして、山姥切国広はこのままいけば第2部のクライマックスで長義を殺してしまう、憎しみの物語を一度完成させることが予想されるわけですが。
同時に国広は誰より長義が大切だからこそそういうことになるだろうわけで、その想いを、憎悪の裏返しの愛情を自覚してからはむしろ、死に物狂いで長義を取り戻すための戦いに性質が逆転することまで自然と想像されます。
国広の物語は第2部終了を機に反転する。
……じゃあ、三日月は?
半身たる「鵺」の本心、足利義輝を守りたい、救いたい想いから始まったと目される三日月の物語はどこにたどり着くのか。
これも反転して、「憎しみ」に性質が転ずるのではないか。
ただ三日月の場合、そもそも憎む対象は義輝かというとそこは違うんですよね。
愛も憎しみも長義に向かう国広と違って、三日月を捕らえているのは義輝の刀という物語の方ですから、憎しみの対象は義輝を殺す歴史の方じゃないか?
つまり、三日月の憎しみの矛先は史実で義輝を殺す「三好三人衆」。
ここまで来ると重要なのが、その三好三人衆の一人に「三好宗三」の「息子」である「三好宗渭」がいることなんですよね。
……名前からわかる通り、宗三左文字が史実の円環の要なのではこれ。
ということは、虚伝で不動くんの説得役が他でもない宗三だったのはここが重要なのでは?
「三好」の物語を廻り、三日月と宗三の思惑が衝突する可能性が出てきたわけで。
悲伝の時点で三好姓が一人出て来たけど誰だっけかなと改めて軽く調べたんですが悲伝で松永久通と一緒に登場したのは「三好義重」ですね。
「三好義重(義継)」は「三好宗渭」の主で、三好氏本家の事実上最後の当主だそうです。
この三好義重の略伝を読むと結構あれと言うか、若輩だから軽んじられるという要素に、義輝から一字もらって改名しておきながら義輝を殺したという要素に、協力関係にあったはずの松永久秀と結託と反目を繰り返した要素に、最終的に信長に攻め滅ぼされたという……。
どっかで見た要素山盛り! っていう感じなので三日月の物語の繰り返しでこの人周りをやりそうな気もします。
悲伝は陽伝と名を変えて義輝関連でもう一度やることだけは確定していますしね。
国広側は憎しみを乗り越えたうえで長義を取り戻す話だと思うんですが、三日月側は義輝の喪失に耐え、義輝を殺す三好側への憎しみに耐える構成のような気もします。
その時に一番重要な刀が、三好一族に深いかかわりを持つ宗三左文字。
(三好さんいっぱいいる上に一族内で主従関係や反目があってめちゃくちゃややこしいので特定の人を考えると難しいんですが)
ところで一度第2部の慶応甲府に話を戻してみます(急)。
板垣退助の改名の理由を理解するには、甲府という土地が幕府の領地でありながらその民は旧領主の武田家を恋しがっていたというのがポイントなわけです。
幕末の新選組VS迅衝隊の命運を決した一因は戦国時代の武田家の存在が重要なわけですね。
そんな武田家に縁深い刀がすでに実装されていますし舞台にも登場してます。
三好宗三から武田信虎に贈られた「宗三左文字」って言うんですけど。
……これもう宗三さん史実の円環を作り上げる重要ポイントとして完全に計算されて虚伝から登場してるでしょ。
メインとして国広の物語と三日月の物語の円環を想定していったら自然と宗三が浮かび上がると言うね!
逆側には織田と黒田で多分何かあるだろう長谷部もいるしね。
というわけで、舞台のシナリオは中核である国広・三日月以外の刀も史実の円環の構成要素として完全に計算された配置であると推測します。
これ意外だと大般若さんと三好のちょっと複雑なあれだとか骨喰君は綺伝で登場した大友宗麟の刀だとかまぁ色々、色々あります。
鯰尾が秀頼の差料なのも気になりますが来歴的にもっと重要なポイントじゃないかと思われる部分もあるので天伝で触れられなかったのは後でやるためじゃないかなと……。
他の刀に話を広げてもいいはずなのに今まで登場した既存の刀剣の中にむしろ核心となる男士がいる感じなので、各話の登場男士の配置は適当ではなく、シナリオ上の円環を完全計算した配置だと考えます。
6.怒りと憎しみの物語
慈伝から言葉遊びだけでざっと展開を予想した時は思いつかなかったんですが、綺伝までの情報を含めると国広が憎む対象は離別の運命ではなく、長義自身のようです。
悲しみは怒りへ。
慈しみは憎しみへ。
悲伝と慈伝の物語は「反転」する。
慶応甲府の予想を出して思いましたが、綺伝の地蔵くんの立場、「花」を最も近くで守るポジション、これやっぱ「鵺」の方に奪われそうだよね……。
地蔵くんの立場だと元々刀剣男士でこちら側でしたが、慶応甲府だと十中八九、近藤さんを守る沖田くんだから敵の立場なんだよな……。うーん。
どうしても守りたくて、歴史を変えても、命をかけても、喪うことなんて認められなくて……。
維伝と慶応甲府を比較すると敵方の関係図の中身がだんだん変化していることがはっきりするんですよね。
龍馬は事の発端がそもそも自分だということを忘れて、それでも武市と融和し以蔵と一緒に名無しの世を作りたかった。
龍馬と以蔵が同一で国広とその分身のメタファー、武市さんが長義くんの方のメタファーで、慈伝時点の関係図だと考えるとしっくりくるなこれ。
綺伝では地蔵くんがガラシャ様を攫い、けれどガラシャ様本人は自分の「鬼」こと忠興を求める。
維伝と綺伝でメタファーの花担当、国広と長義の位置が逆になっている気がしてややこしいが一旦置いといて……。
慶応甲府予想の方に行くと、加州と沖田くんが一対。そして沖田くんが守りたい近藤さんとの関係性。
慶応甲府な……綺伝のガラシャ様は地蔵くんを自らの手で斬り捨ててでも共に滅ぶことを拒んだけど、近藤さんと沖田くんは同じ陣営なんだから当然二人とも死ぬというか、二人とも倒さなきゃいけない。
板垣退助は甲州・勝沼の戦いのために名前を変えた。
一方、近藤勇は甲州・勝沼の戦いの前に「大久保剛」、その後に「大久保大和」と名を変えて、近藤勇じゃありませんよとごまかすことで逃げようとしたというかそういう感じで乗り切れと指示を与えられた。
結局その大久保大和が近藤勇だと見破られて斬首に至ったという歴史ですが……。
放棄された世界に関しては、その後の歴史なんてなく、そこから生きるはずの人でも殺して終わらせているわけですから近藤さんも沖田くんも両方殺すことになる。
史実では名を変えて逃げようとした近藤勇は、放棄された世界ではあくまで新選組の近藤勇として、その名のままで逝くことになるんじゃないでしょうかね……。
これが俺たちの歴史だと胸を張って、史実と違って最期まで大切な人を守るために戦うことを願った沖田総司と一緒に……。
武市半平太と岡田以蔵、細川ガラシャと地蔵行平、そして近藤勇と沖田総司。
この辺りのキャラに仮託された関係性とその変化を見ると、龍馬と以蔵や地蔵と忠興の関係性は国広自身の半身への感情の変化に繋がっている気がします。
それを考える場合、むっちゃんや歌仙たちの方の整理もしなきゃいけないんだけどこれは慶応甲府待って加州の立場まで含めて考えたほうがいい気がする。
天伝の加州は家康に生きると言うのはそれだけで立派な戦だと言っているんですよね。
沖田総司を前に同じことが言えるのかどうか。そこが重要です。
近藤勇も新選組局長、彼自身が戦う者。
沖田くんは当然近藤さんを守ろうとするでしょうけど、守られる近藤さんがそんな沖田くんにどんな関係を求め、どんな言葉をかけるのかが見どころかと。
前回の考察の続きですけど、やはり国広側は「鵺」というか自分の半身に、長義を守り、共に滅ぶポジションを奪われて嫉妬から怒りと憎悪に飲み込まれてほぼ発狂する気がしますね。
(さらっととんでもない予想しやがって……)
舞台の山姥切国広と山姥切長義の物語は三毒の「瞋」。
怒りと憎しみの物語。
国広が原作ゲームから「名は物語の一つでしかない」と、名前への執着をある意味捨ててくるのは長義のためでしょうから、それが報われなかったとき、長義が自分以外を選んだ時、それまで抑え込んでいた不満が「瞋」へと変わり己の感情に飲み込まれると思います。
原作ゲームの国広だとその傾向あってもそんな激しく怒るとは思えないんですけどね。
舞台はキレる。確実にキレる。
夢語で、国広お前今すごい変なタイミングでキレなかった? ってなるくらいですから、あの国広は自分の中の怒りを抑えられない。
長義くんは多分、極修行で以前より更に自分と異なる見解を得てきた国広への怒りを捨てた結果、悲伝の三日月と同じく本丸の敵を生み出し危機にさらして、裏切り者扱いを受ける。
悲伝では国広はむしろ他の仲間よりは三日月の心情に寄り添おうとしたけれど、今回は逆と予想される。
悲伝と逆で、国広だけが長義を信じられない。長義と共に本丸で過ごした他の仲間の方が長義を信じられる。自分だけあまりにも本歌との距離が遠い……。
細かいところはもちろんわかるわけありませんが、地蔵くんや沖田くんの踏襲で「花」を守るポジションを「鵺」に取られるのなら、そこで国広がぶちギレるのは間違いなし、と。
三日月との戦いは、本当の意味では決着はつかなかった。
勝っても負けても三日月は死なずに、けれどどうしても手の届かない、死よりも遠くへ行ってしまう。
長義とは逆だ。国広は長義に勝ってしまう。完全に勝利を納める。二振りの実力差なら間違いなく殺せてしまう。
本当の意味で、本歌を食らってしまう。
斬ること、殺すことにより統合を果たす。永遠に出会えないほど近い。それが同化。
二つの存在が一つになってしまうこと。
ここまでが第2部のクライマックス、悲伝相当の話で予想されること。
その先は慈伝相当のエピローグ。
もともと慈伝の「逆」であることは構造から予想していましたから、後の話の構成盛り込んで解像度を上げることを試みます。
慈伝では長義くんがまず国広の拒絶を感じてキレて敵意を露わにしていました、今度は国広側がキレると思います。
慈伝では国広は「もういない三日月」を求めて悲しみに沈んで上の空でしたが、第2部のエピローグは国広が「もういない長義」に囚われ続け、あいつは本当は俺の事なんてどうでもよかったんだ! と怒り続け我をなくし、周囲にそんなことはない、山姥切長義はそんな奴ではない、お前も早くいつものお前に戻ってくれ! と願われるところから始まるのではないかと予想します。
この時の国広の状態は綺伝のガラシャ・忠興の踏襲になると思います。
あれこれ国広発狂するんじゃね? の予想は割と早い段階で出た気がするんですが、その発狂、綺伝の忠興の立場への移行だと思います。
細川の御家取り潰しも、鬼と蛇と呼ばれる、嫉妬に狂った忠興がガラシャに見惚れた庭師を斬り殺すエピソードもきっちり含んでくるのではないかと。
お前が俺以外を見るなんて、そんなのは許さない。
(そもそも慈伝ではお前が三日月のことばっかりで長義くんとちゃんと向き合わなかったんやん)
三毒の「瞋」は、心にかなわない対象に対する憎悪。自分の心と違うものに対して怒りにくむこと。
道を違えてしまった、信じるものが異なる本歌への、愛情の裏返しの憎悪。
舞台の本歌と写しは「瞋」の物語、これまで出た諸々の不穏フラグを拾うとやはりこれ以外の結論はない気がします……。
7.過去を救う未来、重なる想い
第1部はジョ伝と外伝が本編開始前の時間軸、つまり過去編。
第2部は天伝と无伝が現在より前の時間軸、過去編。
となると第3部にも過去偏が挿入されることと、第2部のシナリオは特命調査の一つ、天保江戸をとばしたという構成から、次の過去編はまずこれが描かれることが予想されます。
ここまで前回やりましたがここについてもう少し考えましょう。
ジョ伝も天伝・无伝のセットも要は二部構成ですよねこれ。
と言うことは、次も二部になるんじゃないだろうかこれ。
第2部の国広と長義の物語の予想を含む結末、そして无伝で三日月がまた「鬼」らしきものを生み出しているということを考えると。
長義側の過去偏 天保江戸
国広側の過去偏 単独行の続き? 修行の一部、「鬼」を生み出した理由となる話。
になると思います。
……長義と国広の物語に関して、私は割と前から研究史と原作ゲームの国広の修行手紙から、国広が長義との対立や衝突、本歌の物語を食うことを嫌って己の感情を分離した結果が極国広の結論、ここで分離した感情が分身となって「敵」に回ると予想していました。
綺伝で長義が国広の分身たる「朧」をすでに斬っていることが判明したので、ここはやらんのかなーと一度は思い直したんですが、過去編の2部構成を考えるならむしろ単独行2(話的には単独行になるかはわからない)、つまり国広側が長義との関係を意識して己の感情を捨てる場面をここで挟む方が自然かなと思いました。
やはり山姥切国広を主人公ポジションに置いた話で、本歌である長義の存在感を無視した話はありえないのではないか?
分身が必ず一体ならともかく、无伝で三日月が普通に鬼丸さんを生み出してるやないかーい! というのが大きいですね。
あれは鬼丸さん本体なのか鬼丸さんが鬼のメタファーであることを示すためにああいうデザインなのか気になりますが、どうなんでしょうね。
原作ゲームの天保江戸で水心子くんが「歴史を捻じ曲げようとする輩がいれば、それに抵抗して元に戻そうとする力が発生する」と言っていたのがちょっと気になるところです。
しかもそれに対する蜂須賀の台詞が「……そして、その先鋒を担うのが俺たち刀剣男士」と返している。
先鋒、つまり――「魁(さきがけ)」。
ここに原作と派生の連動性を考えるなら、国広の2体目の分身こそこの「鬼の星」こと「魁」ではないかなと思います(今まで割と鵺鵺言ってきたけど)。
時系列で考えると无伝の次が悲伝になるわけで、三日月は結構ショートスパンで「鵺」と「鬼」を生み出している。
それなら国広も単独行とその続き、本丸帰還までの間にもう一体、「月の龍」こと「朧」とは別に魁らしき「物」を生み出してもおかしくないんじゃないか? と。
第1部も第2部も、過去編の二部構成はそれぞれに対応している。
天保江戸で長義側を描くなら、原作ゲームの天保江戸の結論はそのまま長義の想いの本質になると考えられます。
天保江戸の蜂須賀の台詞がそのまま答となるでしょう。
特命調査 天保江戸 其の74 『一縷の』
蜂須賀虎徹「俺たちは刀剣男士として使命を果たす」
蜂須賀虎徹「どんな想いも、力にして」
天保江戸で水心子はおそらく顔見知りらしき講武所の敵を前に迷っている。
その水心子にかけた蜂須賀の台詞。これがそのまま、次の綺伝で長義が「朧」を斬ることができた理由に繋がると思います。
歴史を、正史を守ることは正しいことだ。
例えそれが誰かを、目の前のよく知った相手を不幸にしているようにしか思えなくても。
誰かを想うなら、なおさら、自分たちは歴史の正しさを信じて進むのだと。
一方の国広側の結論はどうなるか。
これも正直、やっていることは反対だけれど長義と想いは同じ、が結論じゃないでしょうかね……?
原作の極山姥切国広の結論的に考えて。
これまで考えていた史実と違う歴史をつきつけられ、それでもこれまで信じていたものを維持する。
ある意味解釈改憲かよというか、事柄への解釈こそ多少変われど、歴史が正しいとするもの自体を否定はしないやり方です。
これを考えるために、すでに描かれた過去編のテーマを整理したいと思います。
第1部のジョ伝は、未来の自分が過去を助けるという構成でした。
第2部の天伝と无伝は、无伝で三日月が高台院を斬った後、天伝での国広の台詞がナレーションとして被さるので、つまりあの国広の台詞が无伝の三日月の心情をそのまま示しているのではないかと思います。
足利義輝の死を見送り、高台院を斬る。
三日月が愛しい元主たちに対してその行動をとったのは、それが刀剣男士として正しいことだと思っているから。上の国広の台詞そのままの心情ではないか。
けれど本心に嘘はつけない。だから「鵺」が生まれる。だから「鬼」が生まれる。
慈伝でどんぐり、三日月の「心」を探していた国広の旅路は、ここで本当の意味で三日月に追いつく。
ここでようやく三日月と立場が入れ替わるのではないか。
救いたくて、失いたくなくて、だから自らの心を割り、「鵺」を生み出してしまった。
相手の気持ちを知るのに一番確実な方法は、相手の立場になること。
慈伝であれほど国広が知りたがっていた三日月の心を国広が知るのは、意図せずその道をなぞってしまったその時ではないか?
三日月にとっての義輝、最も大切な存在を救いたくても救えなかった時。
三日月にとっての高台院、最も大切な存在を、自分の手で斬ったその時。
その時ようやく、国広は三日月と「同じ」になる。
結いの目。
奇しき縁の糸が、この心を絡めとり、離してくれない。
かえりたい、かえりたくない。
愛しくて憎い、この物語、我らの正史よ……。
8.派生作品の三毒
ここまでの考察で舞台の長義と国広の物語は「瞋」、怒りと憎しみの物語なんだなと思いました。
慈伝だけだとここまで想定しなかった驚くべき結論ですが、とりあえず維伝以降の話を綺伝まで見たら十分に納得がいく推測です。
長義と国広に関して、本歌・写し関係に山姥切の号と逸話の問題が絡んで物語を複雑化させ、その心情の方向性を決めている事実から目を逸らすことはやはりできないでしょう。
舞台の二振りは「瞋」。
長義は国広を、国広は長義を憎む。
相手に心から怒りを感じ、心から憎しみを覚え、けれどそれを乗り越える物語。
長義は国広への怒りを呑みこみ、憎しみを抑え込む。
国広は……おそらく長義を手にかけ、己の中の憎しみと徹底的に向き合った上で、本当は本歌を愛していたことを認めなければならない。
そしてそこから、今度は死に物狂いで長義を取り戻す戦いが始まる。
――自分で殺しておいて取り戻したい? 虫が良すぎるだろう?
お前が言ったんじゃないか弥助に! お前たちは歴史のままでいなければならない、もう信長を眠らせてやれと!!
それでも。
それなのに、それでも――取り戻す。
自分の心に嘘をつけばその分だけ鬼が生まれる。
己の気持ちから目を逸らすことは、本当の意味での解決にはならない。もうわかっただろう?
立場が入れ替わる。本当の意味で弥助の想いを知ることになる。
己の命をかけてでも、取り戻したいのだと。
そして同時に、歴史も守り続けなければならない。
過去を否定しない。過去を改変しない。
己の罪も何もかも、抱えたうえで前に進む。
それでこそ、弥助の言葉を否定して跳ねのけることが出来るのだと。
長義を殺し、長義を取り戻すために戦う。
歴史は変えないままで、親殺しの罪を背負ったままで。
怒りと憎しみで一度幕を下ろしてしまった物語を、今度こそ本物の慈悲の物語へと。
死ぬほど過酷な道のりですが……思い返せば最初からそう言う物語だよな? とうらぶ。
山姥切国広の研究史は、どうしても長義側の号と逸話は事実誤認だという立場の逆転を含む。
それを極修行で国広自身も自覚してきた。
だからこそ本歌の存在を食いたくなくて苦しみ、けれど正史も否定するわけにはいかなくて更に苦しみ。
少なくとも極修行の内容が出た時点で、山姥切国広の物語に関してはそれが中核にして本質だったと思います。
その事実から目を逸らせば妥協や押し付け、間違った理解しか生まれない。
正しく歴史を認識するなら事実誤認と向き合わねばならない。
それを舞台がシナリオ仕立てにしたものがあのストーリーだと。
愛という名の煩悩、憎しみという名の煩悩。
どちらからも目を逸らさない。どちらも乗り越え、認識を超越しなければならない。
最初からとうらぶってそういう物語だよな。
そうか、これ、そういう話だったん……ん?
……舞台の二振りが「瞋」?
いや待てよ、じゃあ他の派生は?
国広「俺は……本科であるお前が羨ましい」
長義「俺はお前が妬ましい」
花丸漫画版を読んだときに長義くんに妬みの心なんかないだろうこれおかしくない? と思ったし、花丸本丸の審神者は「豚」(三毒の癡を象徴する動物)だ! と思ったんですが。
改めて検索かけたら答出ました。
「妬み」は三毒の一つ、「癡」。
真理に暗い愚かさを示す、「癡」の煩悩。
まったくその通りじゃねーか! 豚(癡)だこれ――!!
つまり舞台が長義と国広を三毒の「瞋」の関係として描いているように、花丸も最初から二振りを「癡」の関係として描くように設定されていて、最初に花丸を読んだときに私が豚(癡)と感じたのは、花丸の描写力がそれだけ優れていたってことですね……!?
長義の「妬み」が煩悩なのはいいとして国広側の「羨望」は?
他人の眩しさをちょっと羨ましく思うくらい普通じゃない? それってそんな酷い煩悩なの?
と思って検索かけたら「羨望」の定義も割とやばかった。
むしろ仏教的に「嫉」、結局妬みと捉えたほうが普通じゃね? ってぐらい……。
とうらぶの原作と派生の関係は、原作に存在しない三毒の煩悩をしっかりテーマに沿って描くということだと思います。
さらに、おそらくはどの派生も同じ造りだと考えられます。
花丸は描いているテーマが「癡」寄りだからどうしても描写的に格好よくはならないので一部に評判は悪いですが、作品の描写力はむしろテーマに沿って的確なのだと思われます。
これ、派生ごとに三毒から一つテーマ決めてねー、状態なのか、
第1フェイズで「貪」描いたら第2フェイズは「瞋」ねー、第1が「瞋」なら第2は「癡」ねーなのか、
舞台と花丸で話の進捗に差があって、花丸の方が先に進んでいるから長義の登場タイミングに「癡」が重なったのか、
……どれだと思います?
漫画版の知識だけですけど、長義・国広の次の静・小夜の話も、静ちゃんが自分の失敗を気にして状況が見えなくなる、つまり「無明」状態で「癡」と同義だと思うので、とりあえず花丸の今のフェイズは「癡」だと思います。
うわー、そう来たか。
これやっぱ花丸の方も舞台と同じく全編にわたってがっつり考察いれる必要があるやつ――!
舞台は「貪」から「瞋」、鳥から蛇への話だと思うんですが、第2部ラストで国広が一時的に癡にとり憑かれそうだと思いますし、そもそも「貪」や「瞋」を生み出すのは「癡」、真理に暗い無明という根本的な愚かさだとも言われます。
派生作品それぞれがどの煩悩を描いているかでその部分のテーマ、というかそれによって描かれる刀剣男士たちの姿が大きく変わるはずですねこれ。
とりあえず舞台は今「瞋」、花丸は「癡」。
……こうなってくると、ミュージカルは?
気にはなるけどそもそもあっちまだ長義と国広がストーリーで同じ画面に登場してねえ! 状態らしいから今から見ますとか言っても多分答出なくね?
二振りが顔を合わせてその反応の舞台や花丸との差でようやくミュージカルの性質がはっきりするのかもしれない?
いや他のキャラから三毒当てる手もあるんですが(オイラが長義くん以外興味ないから……)。
とりあえず派生ごとのテーマはふわふわなものではなく、制作側はやはり明確にこの本丸は「〇〇」と決めていて、しかもそれは三毒というか「煩悩」に基づくものであることがわかったのは収穫だと思います。
正直この考察でようやく慈伝の物語の帰結点が消化できて一息つけるかーぐらいなので、他の派生の分析なんていつやれるかわかったもんじゃないんですが……。
花丸くん本当にダークホースすぎるよ毎回毎回……。
9.刀剣全体の真偽問題
最近水面下でモリモリと刀剣の研究史調査を進めていて思ったのですが、刀剣に関しては特定の刀が贋作だとか評価が低いだとか言われているというよりも、割とどの刀に関しても広い意味での真偽問題がありますね。
具体的にどういう問題があるのかは刀それぞれなので「刀の事情」ページでも見ていただきたいんですが、多く目にするのは伝承との不一致、「真物ではない」という問題かなと。
真物、つまり「本物」ではない。
贋作とか刀剣の価値が低いとか歴史を偽っているとかではなく、ただ軍記物などの伝承と一致しないので「本物ではない」と言われている刀の数の多さです。
本物でなければ価値が低いのか? というと決してそんなわけではなく、むしろそう言われている刀剣のほとんどが国宝・重要文化財です。
この刀は伝承通りの本物ではない。
でも伝来先は何百年もその刀剣を特定の伝承の刀そのものだと信じて御家の宝として伝えてきて、現代でも名刀として国宝になっていたり重文になっていたりする。
真物ではないと考えられるからと言って、評価が取り消されたり、下がるわけでもない。
伝承通りの品でなくとも、研究者は「伝来は重視します」とか逆に伝来を考慮せず「刀の価値で判断します」とそれぞれのスタンスを表明して評価を下す。
そこにあるのは、何が偽物なのかというよりもその逆、
何をもってして、「本物」と言うのか?
という問いなのではないかと思います。
山姥切国広が偽物だと言われているとか、蜂須賀虎徹が贋作を毛嫌いしてるとか、個々の研究史からそれぞれどういう意味かを判別したほうがいいのは確かなのですが、むしろそのレベルの問題はどんな刀もある程度抱えているのが刀剣の歴史だと言えます。
伝来に不確かなところが少ない刀は全部の歴史が明らかになっているわけではなく、逆に来歴の大部分が空白だったりします。
それでも、物語は、その刀それぞれの歴史は、そこにある。
何をもってして歴史と言うのか。何をもってして価値が決まるのか。
もともと刀に限らず歴史というのはちょっと詳しい解説書を読むと断片的な史料のつなぎ合わせで不確かなものだったりするのですが、刀の歴史に関しても同じというか、むしろ輪をかけて曖昧だったりします。
しかし、一部の刀だけ物語が曖昧ならともかく、むしろこれみんなそうじゃね? 状態なら一周回ってそれが「普通」です。
他人の考察とか読むタイプは比較的熱心に情報を調べる人が多いでしょうけど、それでもやはり我々は、自分自身が不公平なんでしょう。
ここを読んでくださってる方は長義くんの歴史に関しては詳しいけど他の刀のことはよくわからない、という人も多いと思いますし、私もまぁそうなんですが、それだとやっぱり不十分だったようです。
徳美の論文のようにしっかり調べた研究史を読むと長義くんや、結局同じ物語の中にいる国広の物語がまるで他の刀より曖昧であるかのように思えます。
しかし、他の刀もいっそあのレベルで調べようと研究史を調査していくと、むしろ逸話だの号の由来だの来歴だのが創作だったり誤解されていたりする刀はめっちゃ多いと言うか、少しの誤謬もない伝承が完璧に伝わっている刀などないです。マジでないです。
間違いがないなら、そもそも判明している部分が少ないだけです。
概説書や研究書でも簡単な略伝を載せるだけのものですと、伝えられている話をそのまま書くので確かな伝承があるように見えますが、実際に徳美の論文のレベルに合わせていつから号がついたか探したり、それぞれの資料の信憑性を調べたり矛盾や疑問点を整理しようとすると、どの刀の研究史も結局長義や国広の研究史と大差ないことがわかります。
それぞれの刀の研究史を大体50~60振りも調べると、この逸話は出典ないとかこの資料とこの資料に名前あるけどどうあっても両立しないとかよくあります。本当によくあります。大事なことなので二度言いました。
我々は真面目に調べているつもりでも、どうあっても不公平を発生させてしまう。そして自らの不平等に足を取られてしまう。
長義くんについて熱心に調べるあまり他の刀剣との調査量に差が生じた結果、長義くんだけが逸話を否定されているように感じるだけで、ゲーム関連のことはともかく、現実の刀の世界にはそもそも山姥切問題は存在しないのです。
本歌も写しもどちらも最初から名刀として、他の刀たちがそうであるように愛されて物語を伝えられてきた、というそれだけの話でした。
ゲーム開始初期に国広の山姥切真偽問題と蜂須賀の虎徹真贋問題がごっちゃにされていたのは、ある意味で仕方なく、しかしその二つは本来混ぜるものではなく、けれど大きな目で見れば刀剣の世界全体が「本物とは何か?」という問いを含むという意味では正しく、制作・運営側はその意図によってあえてここの区別を強調せず、むしろ共通性を与えていると考えられます。
とはいえ、この結論も結局まず長義くんについてがっつりやろう、できたら余力で他の刀も調べよう、と手を伸ばしたからこそ得られたもの。一振りをしっかり調べないのに他の刀まで理解できるわけない、と。
誰だって最初は自分の好きなものや得意分野からいくものですし、逆にその分野が本当に専門でよく理解している人は案外ちゃんと説明してくれないなんてよくあることですよね……だからこそ中途半端な知識で書く概説書に間違いが溢れているというか。
よくわかっていないからこそ、ちゃんと知りたい。そう思って調べるからこそ間違いから物語が生まれていき、やがて正しい理解にたどり着く。
刀に限らず歴史も何もかも、正しい認識を得るとはみんなそういうものなのかもしれません。
だからこそこの世にあふれる無数の間違った物語を訂正はしても、存在を消すことが正解になんてなりはしないのだと。
10.花で飾りし無限の世界
さて、慈伝の考察を再度入れることによって、今回でようやく舞台という派生作品の方向性から原作の方も合わせて長義くんに関して深く分析出来ました。
まあ……死にそうなんですが……推しが登場したその瞬間から死にそうなんですが……(見てるこっちが瀕死)。
慈伝だけだとやはり情報が足りなかったですね。
あの時はまだ第1部の情報だけしかなかったので、三日月と鵺の関係性を基準にその後の予想を導き出しましたが、実際には一番重要だったのは慈伝の時点で持ち込まれた、長義と国広のお互いに対する怒りの感情だったと。
そしてあの時決着のつかなかった名前の問題は、やはり後々に大きなうねりとなって、再び二振りを己自身の感情が呑みこもうとする。
憎しみ。
心にかなわない対象への怒りと憎しみ。
慈しみの裏側にある煩悩。
慈伝の国広は南泉が割って入ったことによって長義を斬らずに済んだ。
悲伝の踏襲。
そして今度の結果は逆になる。
国広は――長義を斬ってしまう。山姥切の二振りは、望まぬ形で統合を果たしてしまう。
けれど、それがなければ、きっとあの本丸は前へと進めない。
慈伝であれだけ知りたかった三日月の心、三日月が隠し通した本音を、国広は同じ状況に陥ることによって理解する。
无伝で最愛の元主の一人・高台院を手にかけた、そうしなければ歴史を守れないのだという三日月の絶望を……。
同じような状況、それどころか三日月よりなお悪い状況。
愛しているのに憎んでしまった相手を斬ることで、世界と己を否定する狂気に叩き落される。
あの日手が届かなかった三日月を理解するために、ずいぶん永い旅が必要だった……。
慈伝から想定した未来図よりなんか10倍くらいきつい展開!
ただし、あの時想定したよりも100倍くらい美しい物語。
維伝で「名無しの世」という概念が出てきた時点であれ? となって。
天伝で真田幸村の自害を見て正直ヤバいなとなりましたが……やはり、この問題は避けては通れないですよね。
舞台は写しとしての山姥切国広の中にある、本歌への愛と憎しみを描き切るんだろう。
妥協も甘えもなしに、真実の歴史を守る物語として。
これ……本気で描き切れたらすごい大作になるよな……と。
末満氏なら見事やりとげてくれるでしょうから期待しておきましょう。
そして花丸が示す派生作品全部に三毒設定されてる可能性からするとそろそろ他の派生の読解にも手を出さねばならないけどオイラのキャパが足りないぃいいいい!
個人的な泣き言はこのくらいにしてそろそろ舞台考察のまとめとして最後に仏教ネタ置いていきますね。
蘭丸に始まり龍馬や秀頼、そしてガラシャ様であり、いずれ長義や国広自身のことだとも示されるだろう「花」という概念。
人も刀剣男士もどちらも等しく「花」だと示される、その「花」の仏教的に重要な意味とは何か。
「花」は、「華厳」ではないかと思います。
華厳経とか華厳宗とかいうあれですね。仏教の思想シリーズだと6巻が「無限の世界観<華厳>」です。
「華厳」とは「華」に「厳」と書きます。
「華」は「花」と同じもので、「厳」は「きびしい」という字ですが、この場合は「よそおう」という意味なんだそうです。
つまり華厳とは、「花で飾る」こと。
そして華厳経の世界観を、研究者や哲学者はこう評しています。
無限の世界観。
華厳経の正式名称は『大方広仏華厳経』であり、仏華厳の意味は仏の花飾りなのだと。
無数の「仏の集まり」を「花飾り」に例えた言葉。
仏の集まりの中心に位置する仏は「ヴァイローチャナ」と呼ばれますが、このサンスクリット語はもともと「輝きわたる太陽」を意味し、真言密教では「大日」と訳され、漢訳の経典では「毘盧遮那」「盧舎那」と音写されます。
「花」に「太陽」。おっと気になる単語が続いてきたじゃないですか。
死者を「仏さん」と呼ぶように、人間はもともと仏である。
煩悩即菩提。
しかしそれは煩悩は菩提なのだからと、欲望のままに過ごしていいという意味ではない。
煩悩こそが菩提であることを悟るためにこそ、長い修行が必要になる。それを間違えてはいけないのだと。
太陽である大日こと毘盧遮那仏を中心に、無数の仏が花飾りのように並ぶ世界。
それが華厳の世界であり、その世界観は「無限」なのだと。
人も刀剣男士もやがては「花」に行き着く刀剣乱舞の世界観も、目指しているのはここのような気がします。
華厳の思想というのは「現実の絶対的な肯定」に行き着くのだそうです。
ただしこれももちろん現実をありのまま認めるためには全てを良しとしてはならず、全ての煩悩を滅ぼし尽くす必要があります。
現実の絶対的な肯定のための、全ての否定。
煩悩と呼ばれるものを愛も含めて否定して、否定して、否定し尽くしたその先にこそ、「地獄」である現実がそのまま「浄土」に変わる。
現実がそのまま浄土であったことに、自分が気づけるようになる。それが悟りだと。
唯識までのインド哲学だとまだ学問的色合いが強かったのですが、天台・華厳あたりの話題になると宗教としてどのように慈悲を発揮して衆生を救い、自分も救われるかに思想がシフトしていきますので、こういう結論になるようです。
全ての煩悩の否定。
その先に在る、現実の絶対的な肯定。
煩悩即菩提と生死即涅槃。
唯識(心)だけがある世界で最後に行われるのは、その「識(心)」さえも否定すること。
全てを否定し、何もかも消し去って初めて、自分が今まで地獄だと思っていた世界が浄土へと変わる……。
こういう話かなと。
永遠は存在しない。
けれど無限は存在する。
私たちは失うことを怖がるけれど、仏教はむしろ全てを否定して消していく哲学です。
全てを生み出し、一番大事な心さえも最後には消してしまう。
その時初めて全てを肯定できる。そういう宗教。
だから我々も、我々の中の仏……神様を「物語」という名の「花」で飾っていけばいいんでしょう。
花で飾りし無限の世界。
美しい地獄は、己が己を乗り越えられればそのまま浄土へと変わる。
そういう物語だと思います。
まあ仏教に関しては難しいので興味ある方はご自分でお調べください。
私が間違っていたらそっとどこかであの人めちゃくちゃ間違ってますよと正しい知識を広めてくれたら幸いです。
とりあえず私はこれで慶応甲府まで含めて舞台の仮称第2部の大筋に予測をつけて慈伝という物語をようやく消化できたので、今度こそ本当に舞台の考察を一度終わりにします。
ここまでお付き合いいただきましてありがとうございました。