天狗 09

天狗

第九話 五生

 闇夜に白い手足が舞う。しずしずと、静かに無音で。その脚を持つのは若い女だ。暗闇の中をただぼぉっと姿だけを浮かび上がらせて、そして行列をなして、ただ、無音に舞い続けていく。
 その光景は人間が見れば、必ず幽霊や化け物を連想させてうわさになり嫌悪される土地となっているだろう。しかしそんな噂が生じることも無い。なぜならば、ここは山。深い山奥、人など入りこむことすらできない麗しの惑い山―五宮(いつみや)。
 アヤカシの間ではそう、呼ばれる。

 天狗、それは山の護り主。山神に従い、山を守護することのみを己の生き様とする、アヤカシの一種だ。
 他のアヤカシとは異なり、統率の取れた群れを成す。ここらの山の山神、道主(どうしゅ)を唯一の絶対主として群れる天狗たち。
 道主が与えた山は八つの山として区切られ、それぞれ力を持つ天狗に分け与えられた。その八つの山を宮(みや)と呼び、同時にその山を道主によって任された一番力のある天狗をまた、宮と呼ぶ。
 この女達が無音で舞う山もまた、道主によって与えられた宮の一つ、五番目の山、五宮だ。宮は八つ。一宮(いちのみや)からはじまり八宮まで存在する。それぞれの山はそれぞれの天狗の特徴を持っており、代表的なのが、二宮、六宮、七宮、そして五宮だ。
 二宮は人間が天狗に変じた姿、すなわち白天狗の集まりである。
 六宮は狗が天狗に変じた木の葉天狗(こっぱてんぐ)の集まり。
 そして七宮は鳥が天狗に変じたとされる烏天狗の集まりである。
 逆に一宮、三宮、四宮、八宮は純粋な天狗が集う宮として、それぞれ、冬宮、春宮、夏宮、秋宮と呼ばれている。
 そして五宮とは、別名稲荷とも呼ばれている。なぜかと言うと、集う天狗が全て女天狗だからだ。女天狗、別名尼天狗ともいう。
 人の世では堕落した女が変じた姿と信じられているが、五宮の女天狗はそうではない。
 その本質は稲荷。狐が修験道を通って変じた姿だ。そして二宮の次に人里に慣れている種族でもある。それは人が作る稲荷に道を通し、人里と関わることが出来るからだ。
 白い肌に高い鼻筋、うっすら色づいた目元に赤い口。五宮の女天狗は総じて美しい顔のものが多い。それで人里に化け出て、人間の男をたぶらかす。
 他の宮と五宮が異なる点は、山であるにもかかわらず、山のふもとには開けた草原や野原が多いというところだろうか。背の高い草にまぎれて人を襲うだめだとも言われる。

「ほな、今日はこのあたりでええぞ」
「はい、宮さま」
「お疲れさん。みんな今晩は存分に楽しむがよい。存分に人をだまし、人を惑わせ、己の美しさを磨くがよいぞえ」
「はい、宮さま」
 女達が手足を休め、たどり着いたのは宮の住まう住処。彼女らが夜な夜な舞うのは、宮さまに見てもらうためだ。なぜならこの舞を一人前に御舞う事ができてこそ、初めて人里へ下りる許可が宮さまより与えられるからだった。
 その五宮の宮さまは、住処の縁側にゆうるりと腰掛け、配下に杯を注がせている。赤紫がかった深い赤い髪は他の女に比べ、鮮やかでいてその深さに吸い込まれそうになる。その髪は艶を持ち、濡れた様であるのに、胸の途中で切りそろえられているのが、残念でならない。吊り上げた唇は真っ赤であり、そして妖艶だ。漆黒の瞳は悪戯に配下へと悪事をそそのかす。
 ――五宮(いつみや)、宮上、五生(いつき)さま。
 道主に五番目の山を宮として先代から受け継いだ、正真正銘の女天狗の長である。その身は藍色の狩衣をまとい、百緑(びゃくろく)色の括り袴から除く白く、細い脚が少年のように惜しげもなくさらされる。赤い爪の生えた手が背後の天狗から酒の入った杯を受け取った。
「くっくっく」
 笑う。少年のように、子供のように。悪戯が大好きでたまらないといったように。
「宮さま」
「ん。なんじゃ」
「何時までこのようなことをなさいます」
「このようなこと、とは」
 酒を注ぎ足すように、杯を後ろに持っていくと黙って注ぎ足された。
「若い天狗ばかりを悪戯に人里に下ろし、人と交わらせ、穢れさせる。宮さまは何がしたいのかが、私にはわかりかねまする」
 非難をこめた目を向けても、人里に目を向ける五生には通じない。
「気にいらぬかえ」
「もちろんです。穢れを負った若い者は使い物になりませぬ」
「ほうよの」
「宮さま、本気でお考えですかや。他の宮はどんどん人と距離をとっておいでです。それに、先に四宮にて生じたこと、それに対する道主さまの処罰、忘れたわけではありますまいな」
 本気で怒ったのか、酒を注ぐ手を配下は止めた。
「おうおう、覚えておるとも。もう四紋やのうて四練と呼ばな、あかんねやな」
「そうではありませぬ」
 少し声を荒げた配下の方にいきなり向き直り、その配下の目を覗き込んで五生は言った。
「ずっとじゃ」
「……え」
「ずっとじゃよ、夜花(よばな)。ずぅっとじゃ。わらわがこの五宮の宮である以上、ずっと続ける。文句は言わせぬよ、夜花。だってお前はわらわの配下じゃもの」
 にぃっと笑い、そして顔が遠ざかっていく。夜花と呼ばれた配下は真っ赤にほほを染めて、非難めいた視線を向けた。それを見て、五生はからからと笑う。
「どうじゃ。久しぶりにお前も出てきたら。数年前に手篭めにした男(おのこ)には、もう童(わらし)がおるやもしれんぞ。月日の流れを感じ、甘く思いを馳せること叶うも、長きわらわたちの特権じゃて」
「な、なにを。宮さま」
 ふふっと笑い、杯を夜花に向かって投げ返すと五生は立ち上がる。
「残りはお前が好きにするとよい。少し月見としゃれこむよ」
「宮さま、何処へ」
 白銀の月の下、やはり宮さまは美しい。夜花は見とれてしまうが、思い出して問う。
「まさか、人里ではありませぬよな」
「案ずるな。あそこには二度と行かぬと決めておるのよ」
 藍色の狩衣が翻る。その背は確実に独りを欲し、共を拒絶していた。

 五生は月を見上げ、そして人里のかすかな灯りを眺めた。遠い、はるか昔の出来事になる。
 まだ、五生が宮ではなかった頃の話だ。その頃は先代の宮が生きていて、そして五生に名を授けてくれた。呼ばれていた呼び名は、絢女(あやめ)。今は思い出すのでさえ、汚らわしい。それだけ、その名が、その名を呼ばれていた頃の自分が五生は嫌いだ。
 いや、憎んでさえ、いたのかもしれない。
「お前は将来美人になるえ。せやから、絢女、絢女としよう」
 先代の宮さまは五生とは違い、清らかな美しさを持った雌の天狗だった。五宮の宮は力と美しさで宮が選定されるという噂が残るくらいに、美しい人ではあった。
 その人を裏切った。その人も五生を裏切った。
 ひどく、ひどく失望し、ひどくひどく失望させた。今思えば、当時そんなに先代の宮さまは私を好きではなかったかもしれない。だけども、それは近くにいすぎて、嫌悪を抱いただけなのだ。

 稲荷。各地に稲荷が建つのはどういう理由だったか、はるか昔で五生はとうに忘れてしまった。
 狐は化けて、人をからかい、人をだます種族である。霊力を高めた狐ほど、化けるのがうまくなり、人を誑かすのがうまくなる。
 その本性を引き継ぐ女天狗は、確かに堕落した女の象徴ともいえるだろう。
 そうして集まる女天狗の五宮は、宮さまを筆頭として、人里に近くないが、ある意味一番近い宮でもある。そして各稲荷を通じて、人を触れ合うことを先代の宮さまは禁じていた。
 天狗は山を守護するのが本分。それを見失わせる人の穢れに触れることがあってはならぬ、そういう見解だった。だから、五宮の天狗たちは日々、和やかに穏やかに閉じられた山の中で美しさを誰に見せるでもなく、磨き、そして成長していく。
 絢女も例に漏れず、己の美しさを磨き、だが、それを自慢することも無く天狗の本分を護って生きていた。ある日、宮さまの側近である女天狗が一匹、絢女の元に舞い降りた。
「絢女」
「はい、何様でございましょう。葉梨(ようり)さま」
「此度、お前を宮さまは側近の一に選ばれました。さぁ、私と一緒に宮さまの住処へと参りましょう」
「本当ですか、私が……」
「ええ。宮さまは全てを見ておいでです」
「ありがとう存じます」
 絢女は舞い上がった。ちょっとやそっとじゃ近づけない宮さまを日々拝見できる側近に自分が選ばれたのだ。こんなにうれしいことは無い。そうして足を踏み入れた宮さまの住処。
「宮さま、絢女、参りましてございます」
「まぁ、来たかや。もっとこっちに来やれ。その顔(かんばせ)を見せるがよい」
「はい」
 声につられて、宮さまの前にひれ伏す。するとあごの下に手を入れられて、顔を上向きにされる。じっと黒曜の瞳に見入られて、緊張に胸が高鳴る。
「うん。美しゅうなったの。絢女。うれしいこと、我が周りに美しい花が一輪増えたわ」
「おめでとうございます、宮さま」
 葉梨がにっこり微笑む。今思えばそれがおかしい状況だと思えばよかったのだ。

 稲荷は人の地にたくさんの社を持っている。それを通して力を持った女天狗は人里に化けて出る事が出来た。それは宮の中では禁じられていたが密かに宮さまに目を掛けられなかった者が何匹か出ていたのは絢女は知っていた。
 絢女は宮さまに引き抜かれたが、それまでに培った友情もあった。だから友達に一度くらいと、言われた時に行ってみたかった欲求に勝てなかったのだ。
 ――そして、人間の男と恋に落ちた。宮さまはそれを知って、絢女の相手を殺した。
「絢女っ」
 宮さまのいきり立つ姿を初めて見た。藍色の狩衣が翻る。
「申し訳ありませぬ、宮さま」
 頭を垂れて、殺されても仕方ないと思っていた。
「絢女、そちはわらわのものじゃぞ、それを……他人に渡すと思うてか」
「申し訳ありませぬ、宮さま。人里に下りて、人に交わったこと」
 そう言った絢女に葉梨が声をかけた。
「絢女、そちは宮さまのご期待を裏切ったのじゃぞ。その罪、死して償うしかないと思えよ」
「はい。……承知しておりますれば、なんなりと」
 首を差し出すように絢女は頭を上げなかった。
「葉梨っ」
 宮さまが初めて鋭い声を出した。その目は葉梨をにらんでいる。睨まれた側近の女天狗が当惑した目を向ける。絢女もそう思った。罪を犯したのは自分だ。過去に人里に交わった天狗に処分を下してはいなかったが、自分は宮さまの直接の配下なのだ。責任の重さは違うだろう。
「絢女はわらわのものゆえ、そなたが断罪するなど、許しはせぬ。……絢女」
「はい、宮さま」
「二度はない」
「……え」
 そう言って宮さまは去っていく。後には呆然とした絢女と葉梨が残される。
「……お許しになられたようね、よかったこと、絢女」
 その目は憎しみというか嫉妬に彩られていた。なぜ許したのか、と目が問うている。絢女自身も当惑していた。だから、その晩、宮さまを訪ねたのだ。
「宮さま」
「絢女か」
「宮さま。なぜ私をお許し下さいました」
「理由が知りたいかえ」
「はい」
 月が宮さまを照らしている。そこは宮さまだけの独壇場のように、宮さまだけに与えられた最高の舞台。美しい。宮さまはたくさんいる女天狗の中で、いや、アヤカシの中でも人間の中でも、何よりも美しい。宮さまが最高に美しい。その美しさのために何だって出来るだろう。そう思わせるだけの美しさがある。
 白いかんばせ。紅い口元。艶を含んだ目。
「葉梨は、もう、だめじゃな」
「え」
「だめじゃよ」
「だめって、どこかお悪いのですか」
「みにくぅなった」
「え」
「みにくぅなったのよ。先ほどの目、見たかや」
「い、いえ……」
 あの憎しみを込めた目だろうか。確かに怖かったが。
「わらわは葉梨を傍に置いたのはな、美しかったからよ。そうよの、足元に咲く主張しないが、愛らしゅうて、愛おしゅうて、美しいのよ」
 月を見てそして微笑む。それは彼女との思い出を懐かしむように。
「せやけど、もうだめや。あれは……」
 ばしゃばしゃと酒がこぼれていく。白い腕を伝う液体が淫美に見える。
「醜い」
 その瞬間に杯が割れた。それは、どういう意味か。
「これからはそなたがわらわの側近じゃ。よろしゅうたのむえ、絢女」
 そう訊く前に顎をすくわれて、微笑まれた。どきりと胸が鳴る。本来聞きたかったことも何の答えもないが、とにかく絢女は宮さまの言う事に従った。それ以降、葉梨の姿を見ることはなかった。
 しかし誰もそれを宮さまに聞かない。葉梨以外にも側近はいたし、古株もいた。だれもみな美しい。しかしそのかんばせの奥に疑問を浮かべもしない。
 ――いなかったことに、なってしまったのだろうか。
 怖くて聞けなかった。死ぬよりも、ひどい。誰の記憶にも残らない。いや、残っても誰の口にも上らない。誰もいない事にする。それが、この五宮での罰なのだろうか。

 そうして幾年もが経った。絢女も次第にわかっていった。
 宮さまは美しいものがお好き。そう、だから自分を傍女に上げたのだと。
「宮さま」
「おう、絢女、何用かえ」
「一つ、お伺いしてもよろしゅうございますか」
「申せ」
「由良さまを御存じありませぬか」
 老いたわ、と嘆いていた天狗である。その答えを予想していた。たぶん。
「さぁのぅ」
 沈黙が二人の間に降りる。
「私も、醜ぅなったら、殺してしまいますのよな」
「どういう、意味じゃ」
「いえ。戯言ゆえ、お気になさいますな」
 ふっと笑って下がる。
 ――宮さまは美しいものがお好き。そういうことだったのだ。宮さまは美しければなんでもいいのだ。それらは己のもの。だって、この五宮は宮さまの宮だから。宮さまの強さとその美しさは宮の頂点に起つにふさわしい。宮さまはだからこの宮を自由にできる。
 そう、宮さまの思うがままに。宮さまの好みで天狗をより分け、愛しきを傍に置き、そして、愛でる。だからこそ、己のものが己の思う以外に動くを良しとしない。
 ――絢女が人里に降り、人と交わったのをとがめたのは、己の所有が侵され、己の意志に背く行為を行ったから。葉梨が人知らず殺されたのは、絢女に嫉妬したその心が醜いから。そんな心、宮さまは望んでいない。由良さまが殺されたのは、身体が老いて醜くなったから。
 宮さまにとってこの宮は彼女の庭なのだ。美しい花を咲かせ、愛でる。しかし枯れた花は必要ない。だから剪定される。刈り取られる。それを疑問に思う事はない。だって、花と同じなのだから。私たちは宮さまの花。宮さまが美しくないと感じた瞬間に刈られる命。その命は花を散らしても生きているというのに。まるで、絶対の神の如く。
 だが、誰も逆らうことはできない。それは宮さまが強いから。宮さまは宮で一番強いからこそ、宮なのだ。そして次に宮さまが美しいからだ。密花に誘われる虫のように、宮さまのそばにおれずにはいられないのだ。絢女もそのうちの一匹だ。
 そう、宮さまのすることには従いたいとは思わない。全てが正しいと盲目的に思う事も従うこともできない。しかし、好きだ。愛おしい。だけど嫌いでもあるのだ。だから、絢女は傍に居続ける。
「殺すと、申したら、どうする」
「はい」
「そなたが醜ぅなったなら、殺すと言ったらどうするのじゃ」
「構いませぬよ」
 そう、決して逆らうことなどできない。不満もある。不平もある。言いたい事も、反抗したい事もあるのだ。だけど、そんなもの、これからの暮らしを思えば、宮さまから離れることを考えてしまえば露と消えてしまう考えなのだ。
 宮さまが絶対にして唯一。それが、美しさを絶対とする五宮。
「宮さまが私をお創りになった。だから、宮さまだけが私を殺す権利を持っている」
 そう、それはこの地で、この宮にいる以上、貴女が神であるから。私だけの絶対の神だから。
「貴女が私をお創りになったのです、せやから、貴女が居られる限り、私は貴女に従います。何なりとお命じ下さい。貴女が仰ることならなんでも」
 ちょっと驚いた顔をする。きっと視線の端々にのぞく反抗の目を知っていたに違いない。
「貴女が私を生んだ。ゆえに、貴女だけが私の命を消す権利を持っている。貴女が私に飽きたなら、構いません。この命、いつでも散らして下さいな」
「殺されても構わぬと」
「その権利が貴女にはおありだから。創ったものが創られたものを管理するのは当然の事。貴女だけが、私を殺す権利を持っておられる」
「わらわを神か親と思うてか」
「そう、貴女が私の絶対唯一」
 笑う。そう、そう思うのだ。思考の全てを奪い、宮さまのことしか考えられない。恋する乙女のように、宮さまの気分に一喜一憂して。その生活に疲れても、その生活が幸せで。
「でもね、宮さま」
「ん」
「もし、私が先に限界を迎えたら、その時は」
「何え」
「貴女の傍を離れなかった褒美に……貴女の命を奪わせて下さいな」
「ふ、ふはははは」
 笑う宮さま。幸せに絢女も笑った。
「耳を貸せ」
「はい」
 唇を寄せられて、少し幸せな気分になる。
「甘藍(かんらん)じゃ」
「え」
「そなたがわらわの命を奪う事ができたなら、その時は褒美に。わらわに最後まで付きおうたなら、その褒美に、わらわの名をくれてやろう。そなたが次期、五宮の宮じゃ」
 そして笑い、月を見上げた。小さく、夜闇を明るすぎるほどに照らす白銀の月だった。
「美しゅうあれ、絢女。わらわがそうあろうとしたように、の」
「はい、宮さま」

 時は経つ。誰にでも平等に。それは宮さまにも同じことだった。そして時というものは学習する時間を与えるものだ。絢女は宮さまと共に長くを過ごすうちに宮さまの扱い方を心得てきた。あの頃は考えられなかったことだ。
 宮さまは私を信頼するようになたのか、仕事を絢女に任せる事が増え。宮さまは絢女以外には口を聞く事もなくなり、表に出なくなった。
 そう、五宮の代表は絢女であるかのようになったのだ。絢女は自ら宮さまの元で己を磨いた。美しさも、力も。それは誰もが認めるように。それで何がしたかったわけではない。宮の位を簒奪したかったわけでもない。
 ――ただ、宮さまが、絢女の全てであった宮さまが全てでなくなる瞬間が欲しい。
 満たされた器の中の水をこぼすまいと努めてきた。だから、その器の中の水が一滴もなくなって空になって、今度は己の好きなもので満たしたい。しかしそれは人への恋慕とも違った。ああ、私は何をしているの。宮さま以外に私を満たしてくれる、潤してくれるものなどないというのに、何を求めるの。
 この感情に名を付けるなら、愛が相応しかろうか、それとも憎しみ、どちらか。
 老いて醜くなる道を歩み始めた宮さま。今はまだ、彼女が私の全て。他の若い天狗に比べようものなら、明らかに醜かろうに、なぜこの方が今も、私のすべてなの。この方につきあうのはもう、飽きたはずでしょう。嫌気がさしたのではなかったの。でも、命までは奪えない、まだ。まだ時間が足りないのだ。宮さまを嫌う為の時間が。
 そう絢女が待っている間に宮さまは年をとり、いつしか道主さまに新宮の選定を告げていた。
「時は来た」
「宮さま」
「そなたが時代の五宮、宮じゃ」
 誰もが認めうるその決定。だけど絢女には心に穴が開いたようだった。
「なぜです、宮さま。貴女はまだお美しい。宮としてやっていけまする」
「無理よ、わらわは老いた。わらわが許せぬほどにわらわはもう、醜い。……絢女、そなたを恨むよ」
 微笑んで最後まで宮さまが言う。
「なぜです」
「なぜわらわに醜さの陰りが現れよう時に、わらわを殺してくりゃれなんだ」
「だって、宮さまはまだ、お美しいもの」
「手ひどい裏切りよ、絢女。わらわをこれほどに嫌う天狗もおらなんだのに、そなたはいつまでたっても醜いわらわを殺してくれぬ。あな、憎し、あな哀し」
 宮さまが初めて涙流した。絢女にとってはそれこそ、美しいと感じるのに、彼女は己が醜いという。では、無理だ。自分が思い描く美しさはまさに宮さまそのもの、彼女が具現だったのに、もう、自分は美しさを目指せない。宮さまが望む美しさを得られない。
「宮さまとて、私にひどい裏切りを。醜い様を期待しておりましたのに、貴女はいつまでたってもお美しいの。私は何を目指せばいいのです。私の方が貴女が憎ぅてたまりませぬよ」
「ふ、わらわたちほど似ておるものはおらなんだ。同族嫌悪かの」
「そうかもしれませぬ。互いの美しさを羨み、互いの醜さを望み、互いに裏切られ、互いに憎んでいる」
 さぁっと宮さまの狩衣の色が黒色に変化し、絢女の狩衣が鮮やかな藍色に染まっていく。
「宮さま。貴女が大好きで、大嫌いです」
「わらわもじゃ、絢女。いや、甘藍」
 最後に宮さまが呼び直した。だから、絢女はもう死んだ。宮さまと共に死んだのだ。醜い絢女は創られた宮さまの手により死んだ。これまでの日々は宮さまがいて、初めて色を持っていた。宮様がいたから充実した。宮さまがいないなら、宮さまが私を憎んだならば、私は私を憎み、私を嫌う。
 私は宮さまにような美しさを得られなかったが、宮さまが望む美しさは宮様のためにおいていこう。
 ――今より私は、甘藍。五宮の宮。甘藍の中で宮さまが散っていく。その姿が失せた頃に、濃い闇が辺りを覆い隠した。甘藍はすぐにわかった。これが天狗を統べ、天狗を創った山神・道主さま。
「五宮の新宮選定の儀、大義であった。して、名は」
 それははるか無限に続く夜のような闇だと五宮は思った。この中に宮さまが居られたならば、大層美しさが増したであろうに。
「甘藍と、申します。道主さま」
「ほうか……同じ名よの」
「ええ、先代より頂きました由」
「そなたの宮としての名、どうしようかの」
「悩みますかや」
 そこに宮さまより偉く、強い方がいるとわかっても、甘藍には何も感じない。だって闇なのだから。美しさが見えないもの。
「そなたら五宮の心は深い、そうそう簡単に名づけられようはずもなかろうて」
「だって、女の心は山より高く海より広い。殿方にはのぞけぬものでしてよ」
「ほうか」
 そういえば、宮さまの宮としての名は五花(いつか)さまだった。宮の花。その身全てを表したような名であった。しかし宮としての名とは何のためであろうか。宮にいる限り、宮自信は「宮さま」としか呼ばれない。何のために新しい名を授かるのだろうか。今までのの名を捨てて、己を塗り替えろ、ということだろうか。
 名を捨て、己を変え、そしてその先になにがあろうか。さぁ、道主さまは私をどう、塗り替えてくれるのか。まだうら若い年の雌の天狗。しかしその物言いは長年を生きた天狗のようでもある。すでに人生を終えているかのような、老齢した気さえ漂わせる美しい天狗。
「そなたの名、五生(いつき)としよう」
「そのお心は」
「すでに五回は生きておるようじゃから、かの」
「しかと承りまして」
 ばさりと紅い髪を捨てる。でも切り口は揃え、形は整っている。その髪型が元から彼女のものだったように。
「甘藍は、穏やかに逝ったかや」
 それが自分でない事くらいわかる。先代の宮だと。
「いいえ、最後まで苛烈に激しく逝かれました」
「ほう、それは……また」
 最後まで美しくあろうと私を憎んで逝かれた。私も憎んだ。でもそれでいい。美しくあれ、それが植え付けられた甘藍には、これからの五宮の導き方など決まっている。
 ――美しくあれ。
「道主さま、私が宮となったからには、五宮は人里と交わりまする」
「何故」
「美しゅうありたいからですえ」
 妖艶にほほ笑んで、そう言った。
「何の関係がある」
「美しさを磨くには、女だけではあきませんさかい。せやけど、他の宮を誑かせぬでしょうや」
 それが答えだ。女天狗誰もが、今の甘藍のように宮さまを想って美しくなどあれはしない。女は恋を知り、愛す事で己を磨くからだ。それは人間のように。
「そいでも、私は二度と人里には降りませぬ」
「それが約定かや」
「ええ」
 宮を穢したいわけではないと、そう断言する。己の美しさはすでに宮さまのために磨かれた。自分ではそれ以上に美しくあろうとも、美しさを見せたいと思い相手もいない。だから、今度は己が醜くなるまで待とう。己以上に美しい乙女が現れるまで。

 ――美しゅうあれ。
「はい、宮さま」
 白銀の月に向かって五生は微笑む。

 第九話 「五生」終.