TINCTORA 018

18.賢者の器

062

「ああ、久しぶり。そっちはどうだい?」
「うん。わかっているよ。その案件について、そっちの意見は? そう。まぁそれでもいいとは思うけど確実なのは、うん。そう。わかってきたじゃない。」
 部屋にはホド一人しかいない。誰の話し声もないのに、まるで誰かと会話しているかのごとく、ホドはすらすらと言葉を並べる。
「ああ、戦争? 心配しないでよ。それよりさ、この戦争が終わってしばらくしたら、そっちに久々に帰ろうかと思っているんだけど。いや、迷惑かけるつもりは無いよ。ひっそり帰ってひっそりまた出て行くから。そうだな、恋人を連れて帰ろうかなって思ってる。いやだな、失礼じゃないか? 僕だって僕のことを思ってくれる女性の一人位はいますとも。いや、苦労はかけているとおもうけども。うん。うんそうだね」
 そしてふっと微笑んだ後に、こう締めくくる。
「それじゃ、またね。元気で、兄様」

 コクマーはふぅっと紫煙を吐き出した。紫煙が、というかそもそも人間が立ち入るのに似合わない、亜熱帯の森林の中。
 突然開けたその場所には泉。アマゾンの中ということもあってその泉の水は濁っていたが、生命が溢れている力強さがあった。
 その泉の一部にだけさんさんと日が降り注ぎ、暑苦しい湿気でさえ我慢できそうな場所。人をまったく寄せ付けぬ自然の厳しさとありのままが溢れたその場所に、スーツを着こなし、紳士のように杖を持って濡れた背の高い木々を掻き分けて進む姿はいっそ滑稽ですらある。
「まったく……相変わらず、その性格はひん曲がってますね」
 脚を止めたのは、足元がすでに泉の淵だったからではない。すぐ上に目線を上げるとぷらぷらと揺れるはだしの足があったからだ。
「おや、これはこれは、珍客どころではない珍しさだ」
 上から子供の声が響く。泉に影を落とす背の高いジャングルの木々しかないように見えるその場所に、巧妙に作られた不自然さ。蔦や細い木々を組み合わせて作られた籠のようにも見える――それは、檻。
「最近はその姿がお気に入りですか?」
「うん。やはり子供心というものは研究に値する」
「子供でない人がいくら子供のなりをしたところで子供にはなれませんよ」
 コクマーは冷静に指摘する。
「えー。意外と面白いのだよ」
 複雑に絡まって一度捕らえられたら出られない檻と化した木々の組み合わせの間から除く、不釣合いな白い脚。程よく肉付きがよく、程よく発達しきっていない子供の脚。
「このような場所には本来の貴方の姿と格好が似合いでは?」
 もう一度コクマーは紫煙を吐き出してそう薦めた。
「そうかい? 君がそう言うならそれに沿う努力はすべきかな? なにしろ、君たち以外この姿を知らないのだしね。隠してはいないのだけれど」
 ぷらぷら揺れる脚がすらりと伸びていく。白さはそのまま、しなやかな若い生命力に溢れた筋肉もついた若者の脚。触れて撫でたくなるような美脚がさらされる。
「私は檻に入る趣味はないのですがね。降りては下さらないので?」
「なんだ、アーシェなら気にしないのに。君は相変わらず器が小さい」
「彼女は器ではなく、興味がないだけだと思いますがね……」
 そういう間に白い脚が引っ込み、代わりに音もなく目の前の泉の上に立っている若い青年がいる。それはまさしく魔法の為せる業。泉に一つ波紋を描いて、浮くでもなく泉の上に立っている。
 全体的に白い印象を与える肌を惜しみなく晒す格好。光り輝く美しい銀髪。うっすらと染まった目元。彼を見てため息をつかない人間はいないのではいかというほどに、美しいというよりは艶美な青年だった。
 関節や節々が色づき、局所しか隠していないその格好。濡れた唇。全身で何かを誘っているような雰囲気をかもし出すこの目の前の青年こそ、最古の賢者『罪を飾る楽園の檻』の本来の姿だった。
「相変わらず、老人の癖に無駄に色気をお持ちですね」
「えーひどい言い様」
 コクマーはこの目の前の青年に見える、どう考えても年寄り以上の歳を重ねた人間を見たことがない。つまりこの青年が永きを生きる賢者であるコクマーにとっての最高齢の老人である。
「では、誰も誘惑しないくせにその無駄な色気を誰に使う気です? ここらの猿ですか?」
「獣姦?!! 相変わらず君、僕には毒舌だね……」
 もう一回ため息交じりの紫煙を一つ吐き出す。精神は子供以下だ。
「さて、楽園の檻……そろそろ本題に入っても?」
 軽く無視だよ、と青年がしょんぼり肩を下ろすがそれも無視。相手は青年に見える老人だ。久々の話し相手をそう簡単に離さないので、早く本題を切り込まないと自分の目的を果たせない。
 青年はやれやれと肩を竦めると泉に座った。そこはまるで大地だとでもいうかのような自然でいて、自分も思わず座れると錯覚しそうな動作だった。
 しかしコクマーの足元はぬかるんだ泥だ。決して座らない。
「言ってごらん? コクマー」
「……大帝の剣(たいていのつるぎ)。如何思われます?」
 問いに対する答えは瞬時にして明確。
「面白いね。そして若い。僕にとっては君も若いけど、もっと若いね。うん、フレッシュな若さ」
 じゃ、自分の若さはしなびているのか、それ若いのかと心の中に突っ込みを留める。
「賢者同士の諍いは如何です?」
「うん。面白いよ。君はいつの時代も面白いことするね。アーシェを静かに観察するのは好きだけれど、君は僕らを振り回すその面白さが好きだ」
 満足そうに笑う。だが、その紫と緑の目が笑っていない。
「当然、一方に味方するなど、ないのでしょうな」
「ありえない」
 一刀両断するその言葉の意味をコクマーは知っている。だから、当然のように問いを重ねる。
「大帝の剣、当面の目標をご存知か?」
「赤きティンクトゥラ。エリクシル様々だが……現代風に言えば『賢者の石』だったっけ?」
「では私の目的は?」
 コクマーの紫煙が深くなっていく。コクマーも笑みを止めない。一種の戦闘のような空間が広がり、騒がしいジャングルに獣や鳥の声が一切消える。互いの魔力さえ含む軋轢に森が沈黙の苦悶を上げる。
「当てはまる名詞とすれば、混沌。だが、それを押さえる為に必要だね、赤い石」
 コクマーの笑みが深くなる。それにつられてまったく笑っていない目の楽園の檻の笑みも深くなる。
「ご名答ですね。では、在り処を?」
「知ってるよ」
 ならば答えは一つ。彼を面白がらせるなら、彼は障害になるということだ。
「取引をしませんか?」
「さて、内容によるね」
「私の小さな主を守る為に、賢者の石の在り処……その胸に留めていただきたい」
「はて、君はいつから保護者に成り代わったかね? 形のない男よ」
「ふはは!」
 コクマーは思わず笑ってしまった。一瞬怪訝な顔をした楽園の檻だが、思い出したかのようにコクマーの胸のうちを聞くべく、笑みを浮かべる。
「保護者とは、貴方も面白いことを仰る。……観察をしたこともおありでしょう? 保護者に見えますかな? この私が。そしてあれが保護対象に見えますかな? 貴方には」
「ふむ」
 顎に手を当てて、一つ頷いた。
「見えないね、アーシェの方が保護者向きだ。まあ、あれも不向きだけれど、彼女の方が君より世間を知っているということろか。では……その真意を聞こうか」
「真意? わかっていることを重ねないで頂きたい。貴方が大帝の剣に不利を見て、口を挟むことくらい承知です。さて、力量をあわせれば均衡の取れた見世物になりましょうが、やりすぎはよくないですね。逆に働く」
 賢者同士の争いは穏やかで進むのがゆっくりだが、その分事が生じれば一気に片がつく。そして賢者ともあれば一人一人の力が大きい。楽園の檻はおそらく、コクマー側に中立を貫くビナーが加担したことを知っている。
 だからこそ、バランスが悪いので、自分の助言によってより面白く演出しようとしている。
「ふむ……我々の争いが、君の表の面に傷をつけかねないかな?」
 賢者の争いはそのままエルス帝国の貴族の派閥に関係している。適当に割り振られたように見えて、中立を除けば、南の一族はコクマー側の賢者。北は大帝の剣の一派が加担する形になっている。
 賢者の争いが起こり、それが終結したとき、おそらくエルスの貴族の下に賢者はいないのであろう。最大の人数の賢者が誕生したこの世だが、その争いの後には賢者の数は半数以下に減る事になるだろう。
「いえ。それは私には関係のないこと」
「理由付けをはっきりしてくれないと、面白がることもできないよ」
「必要ありませんね。手の内を見せる手品師がどこにおりましょう?」
「一理あるね」
 満足した答えを得たとばかりに、にっこり微笑む楽園の檻。それと同時に森の騒がしさが戻ってきた。
「条件の提示を」
 楽園の檻が線引きを済ませたと判断し、コクマーが言った。
「甘く育つまで待とうと思っていたんだが、とんだ間違いだったね。その実が辛いものだったとは。さて……私に言質を取るからには、それ相応をお願いしよう」
 己の手の内を見せずに要求するからには最大限に面白いものを、と言外に要求される。だが、コクマーはその反応こそを願っていた。
「まずは私が物語のような盛大な魔法合戦をお見せしましょう。その後で我々が行う遊戯こそ、貴方が最も興味を惹くと思いますよ」
「アーシェも噛んでいるというあれかね?」
「ええ。私の主の望みでもあります」
 ケテルの望みとは誇張した言い方だが、彼が一番興味のある遊びだ。
「賢者二人を巻き込む遊戯。さてさて……期待しようかな。では、君の誠意の証として、そうだな……」
 色違いの目が同じ動きをして劇の第一幕を思案する。コクマーはゆるりと紫煙を吐き出してそれを待っていた。
「コクマー、君、覚えている? 僕たちと君が初めて逢ったときのことを」
「ええ……こことは違って貴方は洞窟の檻の中にいた。その場には等しき天秤もいて……噂に聞く幻の賢者が、「魔法使いが黒を好む理由」とかくだらない理由を長々と話しているときは帰ろうかと思いました」
 コクマーが賢者と呼ばれてもおかしくない域に魔術が達したとき、ふいに賢者という存在を探してみる気になったのだ。いや、そのときは隠者と呼ばれていたか。時代の移ろいによってただの魔法使いや魔術師が隠者となり、賢者となったのだ。
 その嘘や御伽噺のようなその存在を知って、そして己を図ろうと考えたのである。魔力の導きに従い、二人を見つけた先は、広く、だが魔法によって薄暗い明るさに保たれた空間だった。洞窟の岩が檻のように複雑に出入口をふさぎ、でも引き込まれずにはいられない、まさしく魔に満ちた空間。
 ――一歩、脚を踏み入れて気づいた青年がコクマーの姿を捉えて甘く微笑み、そして。
『ようこそ、屍の集いへ』
 といって手を差し出した。岩肌が魔方陣による文字で色とりどりに発光し、その文字形成を眺めていた黒い姿の魔女が視線を向ける。前髪を顔の半分まで隠した黒いフードを被り、長い杖を携えた、まさしく魔女。
「僕の格好はこの『生贄の格好』のままだけれど、アーシェは違ったよね」
 彼が露出の高い姿で、艶美な理由は彼が昔の宗教的な儀式の生贄だったからだ。
 生贄の儀式を経てなお、死ねなかった故に賢者へと到達したのが楽園の檻。神に捧げられた美しい贄。逆に神の力を食ったのではないかというほどの圧倒的な魔力と美しさ。
「ええ。確か……髪も少し今より長かったですね」
「うん。それに魔女だったね。まさしく魔女だったよ」
 初めてあったビナーは黒一色の格好で魔女を体現したかのような姿だった。黒いフードつきの上着を着、胸元はだらしなく、そして動きやすいようにか、スリットの入った上着から除く、黒いズボンをはいた裸足の脚。ビナーの白さと黒に統一されたその姿のコントラストは、一種の魔力を持っていたと思う。
 艶やかな赤い唇。見えない目元。視線を釘付ける計算されたその出で立ち。
 それに比べて黒が多いものの、彼女の今のドレスなどの格好は現代に適応しているに過ぎない。一般人からすれば奇抜な部類に入るが。
「うん。決めた。魔女のアーシェが見たい。そうだな、魔女と魔女の戦いが見たいな」
「氷結の魔女ですかな?」
「そうだね、魔法使いや賢者じゃない、『氷結の魔女』が見たい」
 ビナーの二つ名は『冷酷なる等しき天秤』。物事を理解しすぎるが故に等しくならざるを得ない彼女を表した二つ名は、何を隠そう、目の前の楽園の檻が名づけた。そしてコクマーの本質を表す『たゆたう黒煙の影』はビナーがつけたものだ。
「魔女の中の魔女。たまにはその本領を発揮してもらわねば名が泣くものだろう?」
「そうですね。では近日中にお見せしましょうか」
 考えればコクマーも本気のビナーなど滅多にお目にかかれない。魔法の質が良い彼女だ。眼福に値するだろう。
 だが、ビナーが本気になる相手も限られる。コクマーが考えるより早く、前哨戦としてビナーには舞台に上がってもらうことと成りそうだ。
「うん。そのためなら僕は骨身を惜しまないかも」
「あなたが直接種を蒔きますか。では、私が種をご用意いたしましょう」
 二人の賢者がひそやかに笑った。

 ケテルは夜更けにやっと城から戻ってきた。ホドから正式にケゼルチェック公爵の爵位をついでも、子供で新米のケテルが目下取り組むことといえば、夜会の顔出しと味方集めくらいだ。
 今夜も手勢の貴族を引き連れて夜会に顔を出し、あっちこっちに顔を売って微笑んで、水面下の情報戦に花を咲かせる。それが貴族の務めだ。
 ケテルは幼い頃に両親だけでなくその友や配下、下僕に至るまでを皆失った。一からスタートする羽目になったが、無駄な人間がいない分スムーズに済んだし、裏切り者の心配をしなくて済んだ。
 自分のことは自分で出来るようにホドに言いつけられたし、その方が気楽に済んだ。普通公爵ともあろうものならば、執事がいて、下僕がいて、身の回りの世話をする者がいる。しかしケテルとホドはそれを拒んだ。どこから情報が漏れるかわかるものではないからだ。
 だから、ケテルの暮らすケゼルチェック城と名のついた立派な屋敷には数名のメイドと使用人が住んでいるだけで、他はケテルの仲間しかいないささやかなものだ。
「おかえり、ケテル」
 マルクトが微笑んで迎えてくれる。表向きは使用人の一人であるマルクトとイェソド。黒いスーツの襟にはケゼルチェックの紋章が輝いている。
「ただいま」
「やだ、ケテル。香水くさい」
「くさいー」
 イェソドが笑った。ケテルもつられて微笑む。
「そうだよねー、貴婦人方の相手には肩もこるよ。まったく、ホドはよく笑ってられる」
「ケテル、今更? でもいいんじゃない? ホドこういうこと好きだもん」
「そっか」
「ケテル! 帰ったのか」
 扉を開けてゲヴラーが迎えてくれる。ゲヴラーの表向きの役割は護衛だ。使用人の方でも剣の所持が認められている。ゲヴラーは素手で戦うことが多いので剣はいつも持っていない。
「うん。ただいま、ゲヴラー」
「何かホドから連絡は?」
「いんや」
 ゲヴラーがお茶を入れようとポットを手にした時、イェソドが急に立ち上がった。
『知恵を喰う(はむ)者、その者、叡知を糧とし世界の傍観者とならん。しかしかの者の興味と好奇心は何も止めること叶わず。悪意は渦を喚び、黒き集まりすべてを巻き込むだろう。総ての騒ぎが治まる時渦中で見いだした者こそが黒き煙の白き影とならん』
 無機質な目がその言葉を最後に閉じられる。慌ててマルクトが抱きかかえた。
「予言……何度目だ?」
 ゲヴラーが言った。そしてにやりと笑う。
「ついにおっさんも影が手に入るか」
「コクマー?!」
 ケテルが目を見開いて言う。マルクトも驚いた。
「だって、知識を食らうなんてコクマーだけだろ。黒き集まりって賢者じゃねーの?」
 ケテルは納得しながらも思考に沈む。
 最初の予言は……ゲヴラーだった。彼の影はその後に苦労して手に入った。その次はビナー。彼女の予言も影にまつわるものだった。その次はティフェ。でも予言より前に影を手に入れたんだっけ? どうだったかな? そして最近はネツァー。でも影を先に手に入れたのはイェソドとマルクト。で、コクマー……。
「マルクト。イェソドの予言はどういうときにするのかってわかっていないんだよね?」
「……うん。たぶん、もともとそういうことできるからね。ただ別れたときに制御が出来なくなったんだね。イェソドは特にそれが多い。ボクと違って魂に近い部分の為せる業だからかなぁ?」
 予言があれば影が手に入るのかと思えば違う。そういえばケセドは普通に手に入れたし。そもそも影の定義があいまいなのだ。自分の影である人物というのが。だけど自分の陰とも言える位に自分と同じでなければ意味がないもの確か。
 ティフェレトとキラ。裏を持つその姿と容姿――表裏一体、醜く美しい魂のカタチ。
 ゲヴラーとゲブラー。容姿、力、その出自全てが同じにして似た魂のカタチ。
 ビナーとラスメリフ姉妹。まったく逆な互いを理解し得ないその魂のカタチ。
 イェソド、マルクトとキリングドールの双子。互いを愛し守るが、人工的な生命のカタチ。
 ケセドと彼。互いを愛し、憎しみあったその魂のカタチ。
 じゃ、コクマーやネツァーの影は? というかまだ予言すら立たぬホドや僕の影って?
「だから止められないんだよね」
「え? 何か言った?」
「いや」
 ケテルは微笑んだ。