027
紫煙の漂う部屋には蜜時を過ごした後の男女の気配がある。目覚めない男の隣で、腕を伸ばせば届く距離にある水パイプを女は手にした。そして自分たちの姿を覆い隠そうとするかのように紫煙を吐き出した。だがそれも鋭い紫色にコーティングされた爪に切り裂かれる。
「もうちょっとTPO考えて来てくれないかしらね」
その声は怒りより呆れに近い。イモムシは白い脚を這い出し、ベッドに飛び乗ってきた少年を押しのけた。少年は固い表情を崩さないまま、とりあえずベッドから退く。
「で、何が知りたいの? チェシャ猫」
真っ赤な露出の高いチャイナ服を着込み、水パイプで一服すると商売を始めるようにイモムシは脚を組んだ。
「ノワールの居場所を」
「あら? お気に入りを逃すなんて珍しい。だから入矢が出戻ったのね」
すでにそのニュースは知っていると言外に含ませてイモムシが呟く。
「それにしても、本当に珍しい。見つけられないの? あんたが?」
「気配が唐突に消えている」
チェシャ猫の言葉は硬い。それだけ事態は重いということだろう。
「そう。ま、頑張ってみるわ」
イモムシはそう言ってモノクルをかけた目を閉じた。まるで視線だけ飛ばせるというかのように目をしばらく閉じていた。が、眉間に皺を寄せてイモムシは唸る。
「見つからない。確かに唐突に消えたのね」
「ああ。入矢が反魂を行った後にすぐ飲まれた。飲まれた先が追えない」
イモムシは立ち上がる。
「金は払ってくれるんでしょうね?」
「ああ」
「……手ごわいわね。来て。蛹を使うわ」
イモムシは決心したようだが、ハイヒールの音を立てずチェシャ猫を先導する。その先はただのカーテンだ。幾重にも垂れ下がるカーテンを押しのけて人がやっと二人、入れる空間に着く。
灯りが天井から一つしかないぶん暗いが、イモムシもチェシャ猫もこの場所を知っているように揺らがない。イモムシは右手を空間に差し出し、まるで壁があるかのように一定の場所に触れる。
「ava,uha,masach,bhe,veoh」
何語でもない言葉を呟いた瞬間にカーテンが揺らぎ、景色が一変する。そこは地下組織のアジトだ、と誰かが言いそうなほど機械に囲まれていた。機会の映像ディスプレイが唯一の光源であり、部屋全体をぼやぁっと薄暗く照らしている。
「sarch“NOIR”」
機械の一つに両手を触れる。タッチパネルの一種のようだがただの金属板にも見えるものにイモムシは命令した。イモムシが命令した瞬間、両手を当てている金属板が金色の集積回路のような道筋を光り、イモムシを黄金色に染め上げる。その回路図を見ているかのような光の筋はそのままイモムシの両腕に接続された機械のように、伝っていき、数瞬でイモムシ自身が黄金色に光り輝く。
モノクルがすぐにヘッドディスプレイに変わって、イモムシの周りの空間に映像ディスプレイがいくつもさまざまなカラーの光を放ちつつ立ち上がる。全てのディスプレイに細やかな演算と情報探査のプログラムが起動し、走るさまが見える。
「何時見ても見事モンだァ」
感嘆するチェシャ猫の溜息も最もで、今や、黄金に光り輝くイモムシの身体、背中の肩甲骨の部分からオーロラ色に光り輝く羽が形成されていた。よくよく見れば、それは情報であったり演算システムであったり、回路の一部のようだが、その羽のようなものは動くたびに極光色の駆動光がまるで燐粉を撒く蝶のようだ。
「あぁ、こんなところに」
溜息と共に目の前の一番大きなディスプレイが真っ黒に染まる。その中には黒い中に同化したかのように黒いノワールが死んだように横たわっている。よくよく目を凝らさなければノワールと周囲の黒色を判別できないほどの映像だった。
「どこだ?」
チェシャ猫の間髪いれずの問にイモムシはヘッドディスプレイをモノクルに戻してから答えた。
「これ、罠よ」
「どこか、訊いてる」
「どこだと思う? てか、こんな場所が存在してると思う?」
イモムシはゆっくりチェシャ猫の身体を眺めた。
「ね、あんたもうダメなんでしょ? いいじゃない。ノワール程度の人間、30年も待てばすぐに生まれるわ。今回は諦めればいいでしょ?」
「可能性の問題だ。ノワールにはノワールの価値がある」
「違うわ。ノワール程度ならすぐに代わりが見つかる。あんたは助けるべきじゃない」
イモムシははっきりと言い切った。
「これは俺の仕事だ。おまえが口出すことじゃねぇよ」
「女王陛下から聞いたわよ。あんた狙われてるんでしょ? 今、行ってみなさい。ノワールが助かった瞬間、代わりに捕まるのはあんただわ。あそこは禁世よ。今のあんたにはその力が無い」
「でも俺じゃなきゃ行けない。だろう?」
「どうして?」
イモムシは俯いて、糾弾するかのように呟く。
「どうして、そこまでして役目に忠実であるとするの? あたしたちは、あんたが願えばできる限りの努力をするわ。でもあんたを救うことはできないのよ!」
「俺は……」
チェシャ猫は珍しく笑みを消して口ごもる。
「そんなに死にたいの? 例え、願いを叶えても……あんた“たち”は報われないじゃない」
「俺が巻き込んだのに、お前は優しいな、イモムシ」
それはいつものように軽薄な笑みではなく、心から愛しみをこめた微笑だった。珍しい種類の彼の笑みを見て、イモムシは溜息を一つ。そして指先をチェシャ猫と触れ合わせた。
「蝶を一匹、渡すわ。あの世界は動いている。ノワールに印は打ったから、追跡は可能よ。でも禁世だからね。何が起こるかはわからないから」
「わかってる」
チェシャ猫は黄色い光を指先で受け取るとそのまま霧のように霧散して消えていった。
「礼くらい言いなさいよね」
イモムシは苦笑する。その種類の笑みはまるで聞き分けのない子供の遊びを見守る母親の様でもある。そして背中からは羽が消え、普段どおりのイモムシの姿へともどっていた。
「身請けしたいですって? まぁ、よくもそんなご冗談が申せますね」
弥白がレッドジャンキーに向かってぴしゃりと言い放った。
「本来ならば、翹揺亭の敷居も跨がせないくらいの所業だというのに、入矢が欲しいですって?」
「おい、テメェ勘違いすんなよ。俺は客だ」
入矢は当事者ではない、といいたげに二人の言い争いを眺めている。
「そのお客様が身請けされた晩夏は無残に殺されましたが?」
「しょうがねぇだろ。俺の屋敷にも賊は入る。そいつらが俺のいねー間にやったんだ、俺のせいじゃねー」
「口の減らない男ですこと」
弥白は話にならない、と打ち切ろうとしたその時、入矢は事前に話していたタイミングだと口を切る。これは晩夏のための復讐戦。決してこの男に自分が復讐しようと思っていたなどと悟らせてはいけない。
「弥白さま、俺、この人に嫁いでもいいですよぉ?」
弥白もさすがだ。まったく演技とは思わせない表情で驚き、そして怒る。
「なんですって! 入矢!!」
「やっぱ、俺は男娼性に合ってないみたいです。複数の男よか、一人に尽くしたいタイプみたい」
にこりと笑う入矢に弥白が絶句した。
「決まりだな」
ニヤっとレッドジャンキーが笑う。
「どうして……入矢? そんな」
崩れ落ちる弥白に入矢は笑って残酷なセリフを吐く。
「名前がへんてこで気に入ったからでーす」
「お? そうなんだ」
ふふと笑いかけると突然、レッドジャンキーが入矢を抱き上げる。入矢はそれに驚いた。
「じゃ、持って帰るぜ。あとで必要な金額は請求してくれ」
「待て! 身請けにはさまざまな儀式があるのだ、そのまま持ち帰られても!!」
「めんどくせぇ。もう入矢は俺のモンだからそんなのは必要ねぇ」
入矢は最後に御狐さまと会っておきたかったが、仕方ないと諦める。そして身を引き締めた。これからじっくりこの男ともども、死ぬよりひどい目に合わせてやる!
「うふふ」
カフェテラスの一角で薄まったアイスコーヒーを飲みながら、女は虚空を見つめてくすくす笑う。ピンクにコーティングされた爪は自身の紺色の髪を暇つぶしにいじっている。
「どうしてあんたが主催の時はこんな女しか行かねーような店なんだよ」
「あら、遅いと思ってたら恥ずかしがっていたの? チェリーなのね、案外」
「ナメてるとそのケツにブっこむぞ、クソ尼!」
「構わなくてよ」
これは一体どういう組み合わせか。女一人に一見、お洒落で美容師のようなちゃらけた男が一人と、まるでサラリーマンのようなこの土地に場違いなスーツを着こなした男が座り込んでいる。その三人は知り合いではあるようだが仲は悪いようだ。
「できるものなら、ね?」
「品が無いですよ。お二人とも」
口調から絶対、口が悪いのが美容師のような男と思いがちだが、スーツ姿の男だった。そして丁寧な敬語を用いているのが美容師のような男である。
「さて、本来ならば、集まることさえわずらわしいですが……どの程度まで進んだか確認しましょうか」
「言ってくれるじゃない? こんな綺麗な女捕まえといて」
「綺麗かどうかは主観によるので、私には返答しかねます。……綺麗云々は置いておいても貴女のような性格破綻者は私はお断りです」
「くはは! ちげぇねー」
二人の男が笑い合う。女は口を尖らせた。
「そうそう、この前はあたしが造ったお人形に手を出してくれたらしいじゃない?」
「ええ。私の目的である小洒落たキティはなかなか強いですからね」
「だからって、赤いアリスはあたしのものなんだから! 手を出さないでよ」
「おんやぁ~? あの程度の人形すら作れないたぁ、人形師の名が泣くぜ」
「なに? あんたらあたしを馬鹿にしに来たの? あんたらも極上なドMの人形にしてあげましょうかぁ?」
「遠慮します」
「悪趣味だぜ。俺らは協定を結んだ、いわば仲間……だろ?」
三人ともそこで黙り込む。あまりにも仲間という表現が適切でなかったのだろう。
「まぁ、いいわ。あんたが罠に使った人形はもう、いいわ。そのうち破棄する予定だったから。あんたにあげる。その代わり、赤い子には手を出さないで。あの子は手土産にするの」
「了解しました。人形をくれるとは貴女らしからぬ提案です。……借りを作りたくはありません。要求はなんです?」
「あら、別にいいのよ。あの子の代わりはすでに作ってあるから。起動させるだけ。でも、負い目を感じているなら……赤い子をはやく姉さんのところから攫ってきて欲しいわ」
美容師風の男はサングラスをあげて、しばし悩んだ。
「確かに、赤狂いは私の傘下ですが、取り上げても女狐めは追いかけてきそうなんですよね」
「あー、ドーブツは鼻がいいからな」
げひゃ、と下品な笑いをスーツの男が漏らす。
「そういや、おれんトコにもいるんだよなー。狐のガキがさ」
「おや、珍しいですね。そんな立場のものを近くに置くなんて」
「姉さんもこっちにばれてるってわかっててもガキを差し出すんだからえげつないわよね。母親とは思えないって母親じゃないかぁ。洗脳って便利よね。あ。マインドコントロールの方が正しいかしら」
くすくすと女は笑う。
「あ、そうだ、言い忘れてたがよ、ハートの女王が降りてきたぜ。厄介なことにな。嗅ぎつけたのかもしれねー」
「あ、そういえば先日は私のキティのために罠を張ってくれたんでしたね」
「おうさ。ま、あっけなかったがな。使えないヤツを処分する機会をくれてこっちは感謝してらー」
「そういや、第二階層では殺し屋ツインが動き出したしね……。不思議の国の住人、ようやく危機感を抱き始めたみたいねー。でももう、遅い」
女が唇を吊り上げると同時に二人の男も笑った。
「この土地では誰だって神になれる。その権利を持っているのは不思議の国の住人だけじゃない。等しく、人は神になれる。だって、神が創りたもうたその命、等しく奪う権利すらあるのだから。それが神の権利といえず、何であろうか」
「そうさぁ。そしてここじゃ人は人を創る権利さえ持てる。等しく神だ!!」
女は自身の言葉に酔いしれる二人の男をアイスコーヒーのグラス越しにそっと微笑んで眺め続けた。
「じゃ、当初の目的どおりあたしはまだ動かない。あんたたちでかんばってね」
「ああ。赤いアリスは必ずやお届けしましょう」
「じゃ、俺は出る杭で使えないヤツは殺しとくぜ?」
三人は話し合いが終わったとばかりに席を立った。それぞれ別の方向に歩いていく。三人の姿が消えうせた時、そのカフェテラスは爆発を起こして跡形も無く、消え去っていた。
ハーンとアランが進展の無いゲームを終わらせたときに、ふいに影が落ちてきたので二人とも自然とそちらを向く。するとハーンは慌てて道を譲った。アランも一応そのマネをする。
「ご機嫌麗しゅう、女王陛下」
「ふん」
「何か、御用で?」
ハーンのへりくだった様子をアランは鼻を鳴らして眺めた。
「今からあたし、あんたたちと一緒に過ごすから」
「はい。……ってはぁ!!?」
最後のはぁ? はもちろんハーンとアランでスピーカーで驚く。
ハートの女王は不機嫌丸出しの顔を隠そうともせず、偉そうに言い放った。
「頼まれたの、いない間見張ってろって」
「はい? 誰にです?」
ハーンは女王の機嫌を損ねないよう、飲み込めない事態を無理矢理飲み込もうとして訊き返す。
「チェシャ猫」
「なんでそんなこと頼むんだよ?」
と、アランが言って、ぎろり、と睨まれ、慌ててハーンの視線を受け、
「頼んだんですか?」
と言い直す。
「あたしはあんた嫌いだけど、チェシャ猫は目をかけているみたいだからね。掻っ攫われないようにって頼んできたの」
セリフの前半にアクセントを置かれたアランは俺だって好きじゃねーと心の中で突っ込んだ。ハーンはそれよりも状況を飲み込めたらしく、当惑する。
「なんでそんなことを?」
「あら、知らないの? チェシャ猫が目をかけるってコトはね、第一階層に行く可能性が高いってコトだからよ」
アランはそれを聞いて目を丸くした。第一階層に行けるだって? チェシャ猫は俺を認めている??
「だから他の連中は狙う。でもそれはチェシャ猫の守護を受けてることにもなるから大それた手は出せない。だから普段チェシャ猫は階層を移動しないようにしてるのよ。キテレツなことやってるように見えてあいつすごい論理的なの」
「では、チェシャ猫は第三階層にはしばらく戻ってこないんですね?」
アランはちょっと浮かれた頭を冷やされた気分だった。そうだ、彼女にまで頼んだということはよっぽどなんだろう。彼はどこに行くというのだろうか。
「うーん。ってか、今ヤバいからね。最初はあたしに階層登れって言ってたくらいだしね」
「ちょっと待ってください。全然理解できませんよ」
ハーンが割り込んだ。事態はそう簡単には進んでいないらしい。大勢いる人々の中で自分が中心に近い位置にいれるとは考えていないが、自分たちのあずかり知らぬところで大変な事態が起きつつあるもの事実のようだ。
それなら詳しい情報がないと対処できない。少なくとも自分たちがまったく関係ないとはいえないらしいからだ。だからこそ、不思議の国の住人を寄こしたのだろう。
「言っていいのかな? ま、口止めはされてないから、いっか。そこのあんた、あんたに関わる話よ。よく聞きなさい」
女王陛下はそう前おくと、二人に簡単に事情をはなし始めた。