毒薬試飲会 025

055

『3,2,1の合図で解く。わかったな』
 ハーンが信用してくれた。アランは頷いて、禁力を構成するファーストスペルの詠唱に入る。ハーンはそれを見て頷いた。
『どうしました? 私を閉じ込めて? このまま同じ空間に閉じ込められて炙り殺しにして差し上げましょうか!』
 ハーンがアランの準備が整ったことを理解する。視線が一瞬交錯する。
『……3,2,1!』
『そなたは箱。そなたは秘密。そなたは守り手。我は請う。そなたの守りは我のもの。汝が名は、部屋!』
 アランは自分が発動した禁術に自信があったが思わず目を閉じてハーンに抱きついた。
『大丈夫だ。ちょっと構成が甘いがな……。維持しろよ、アラン!』
 ハーンに撫でられて恐る恐る目を開けると、ちゃんと炎を阻む壁が全方向に立ち上がっていた。部屋と考え付いたのは偶然だ。自分とハーンを守る絶対の空間として思いついただけだった。
『大丈夫か? ハーン、何をするつもりだ』
『このまましばらく休戦。お前は今のうちに傷を癒しておけ』
『は?』
『まぁ、俺を信じとけ』
 ハーンが笑った。アランは今がゲーム中だが笑ってしまった。
『最初からそのつもりだ』
『ふ』
 ハーンは笑って禁力維持に努める。もう、この禁術を形成した時点で勝ちは確定したようなものだ。ハーンは笑う。そう、キーワードは橙色だったのだ。アランの言葉で気がついた。
『さて、そろそろ死にましたかね? でも私は反応が途絶するまで私は手を緩めません』
 外側から橙色の悪魔の声が響く。ハーンは視線を走らせてアランに言った。
『そろそろいいか』
『は?』
(アラン、今から大爆発が起こる。その余波に巻き込まれて橙色の悪魔は一瞬人に変わる。その瞬間を狙ってお前が殺せ。そうだな……出現場所の予測は……)
(必要ない。たぶん、わかる)
 アランは抱きついていた体を離し、すぐに攻撃の態勢に入る。ハーンはそれを見て、頷いた。
『行くぞ!』
『ああ!!』
 ハーンはそのまま前を向いて、指を鳴らした。アランは変化を見る。ハーンが立ち上げた結界の一部に穴が開く、空気が一瞬で結界の中に入っていく。次の瞬間、ハーンの言ったとおりに轟音と大爆発が起こった。橙色を紅蓮に染め上げて、会場を一瞬のうちに炎の渦に叩き込む。
『何!?』
 焦った橙色の悪魔の声がする。アランは爆炎の中、相手の存在を探す。なんとなくわかる気がするんだ。そう、人間には主張があるのだ。いや、生き物全て、と言うべきか。自分は生きていると、ここにいると叫んでいるのだ。
 死人を長年相手にしてきた。だからこそ、わかるのだ。アランにはわかる。
 生きている人間の存在感が!
『そ、こだぁぁああああ!!!』
 爆炎と熱波の中に剣を生成して煙で見えない中を突き進む。そう、それは勘としかいえないが、確信がある。
『なにっ!!?』
 驚いた声の直後には完全に心臓を貫いた自信がある。アランはそう考えた。ハーンが操作したのか、熱さはすぐに引いていき、炎はすぐさまに収まった。
「わぁああああ!!」
 歓声が響き渡る。
『ば、ばかな……私の、炎の私が……』
『お前は、お前の二つ名にこだわりすぎだね。君の禁術の種明かし、ありがたかったな』
 ハーンが言った。ノワールの言った通りだ。このゲームの上位に位置するものは、特別な名を呼ばれ、そしてその座に落ち着いていく。そしてその座に甘んじて、そしてその名に誇りを抱くようになっていく。
 その名は自分自身を現してつけられたものとも忘れて……。
『ハーン・ラドクニフ! そしてアラン・パラケルスス、第二回戦も勝利しましたァああ!!』
 ハーンはほっとため息をついた。そう、橙色の悪魔、その名の通り彼自身が橙色の炎となってあらゆる攻撃を無効化させる。その禁術の疑問はいくつかあった。なぜ消えない炎なのか。何故あれだけ高温の炎を生じさせるのか。何故、あれだけ範囲の広い炎なのか。何故、人間が炎になって無事なのか。解決の糸口は全て“橙色”になったのだ。
 炎というのは、特別な金属を入れれば、炎の色を自在に変えることができる。そう、科学の入門でも習えば誰だって知っていることだし、花火の原理でもある。そして橙色の炎を発言する金属はCa(カルシウム)。人間の骨の構成物質として有名なものだ。人間の骨として存在しているときは、ただの単体のカルシウムであるはずもないが、炎の色を変えるのは単体のカルシウムでなければできないわけではない。十分に発現する。
 つまり、レーベン・ベッカウルフは己の身体をまずは分解したのだ。そんなことができるかというと、人形化(ドール化)を用いているのではないかとハーンは考えた。レーベンが人形師だったという話を噂程度にどこかで聞いたことがハーンの思考に役立った。
 レーベンはゲーム前に必ず自分の器となる人形を用意している。その人形に己の精神を移し、己の生を違う肉体に留める。そして残った体を禁術で制御し、肉体を分解し己の身体のパーツを着火剤とし、分解したパーツには炎の制御を同時に行う。そう、己の骨をばらばらにしてその骨を燃やす。だから、橙色。そして炎が消えた後には逃げ込んだ人間と取って代わる。それがすべての種明かし。
 己の禁術制御によって炎の攻勢も、威力も、そして相手の禁術による制御も可能。己の身体を武器とした、遠隔禁術も掛け合わせた、まさに橙色の悪魔=レーベン・ベッカウルフにしかできない複数の禁術の併用術式。反則ではないかという位の、別の場所からの己の制御。
 まさにルールの盲点を突いたかと言うような方法。外部からゲームに手を出すことはご法度でも、内部から外部のなにかに手を出してはいけないルールはない。
 次に、炎の消火に対応する禁術解体まで組み込んだ完璧なる炎をどうやって下したか。
 ハーンは炎の性質を利用したのだ。いくら物理法則を塗り替える禁術とはいえ、その発現してからの条件は、この普通の地球上。物理法則に支配される。物理法則を塗り替えるならば、その状況下を禁術に組み替える必要がある。そこまで禁術の構成を練っていないと判断したハーンは一種の賭けに出た。炎が燃えるためには酸素が必要だ。だからこの空調の効く会場のバトルフィールド内での酸素供給を絶つことを目的に結界を立ち上げた。酸素を使い果たす寸前、橙色の悪魔と言えど、炎の攻勢は保てない。おそらく橙色の悪魔は挑発をすることで結界の崩壊を狙っていたに違いない。レベル1の禁術であることはわかっているからこそ、維持を邪魔しようとしたのだろう。
 そして酸素が少なくなった時点で結界に穴を開け、酸素供給を再開する。そして急速に酸素供給された空間内の炎は、爆発を起こす! そう、炎を消すような禁術解体は行っていても、己が生じさせたものではない炎の勢いを調整することなどすでに起こった物理現象、不可能だ。その爆発ではさすがに橙色を示す、炎の制御を行うより、その炎の余波からまきこまれないようにするしかない。
 そう考えれば炎の勢いを殺すために着火剤として使っていた体の分解を止め、己の身体を一時的に集め、表面積を狭くして炎から身を守ると考えられた。そこを突く作戦。バックドラフト現象を利用した禁術よりも今ある物理現象を逆手に取ったハーンの作戦勝ちといえるだろう。
『さぁて、続いての対戦カードはぁあ?』
 ハーンの周囲をからかうように立派な椅子が回転する。アランはその様子を見上げていた。10組の最強を懸けて戦い続けてきた強豪たち。そのうち3組をノワールと入矢が戦い、勝利を収めた。今、ハーンとアランが2組を下し、その数は半数に減っている。ハーンは回転する椅子から己が最終的に戦う相手をわかっていた。だからアランに注意するように言ったのだ。きっと、そう、彼ら以外にありえない。
『今、最終ゲームの対戦カードが決定しましたぁああ!! 最終ペアは『藤色の雨滴』ガトー・ヴァスカンティと『淡色の殺意』、ルヴァ・ルヴェーデンドゥーのペアでぇす』
 アランは5組の椅子のうちから優雅に着地した穏やかな顔をした自分と同じ年と思える少年を見た。
『よろしく、な』
 にこっと笑う。アランは頷くに留めた。外見や態度で惑わされてはいけない。
『さぁ、ベット・ベット!!!』
 掛け声にあわせて観客の声が大きくなる。これで最後。このゲームに勝てば、第一階層にいける!アランは知らず、拳を握り締めた。
(アラン)
 ハーンの穏やかな声が頭の中で響いた。
(お前に任せるぞ。俺はお前の動きに合わせてゲームメイクをするからな)
(わかってる。それが俺とお前のスタンスだからな)
 そう、入矢のように命令を待たない。ノワールと入矢のように信頼し合い、意思を通じ合わせて戦うのでもない。アランはアランの自由に。ハーンはそれさえも見通して最終的に一つの形にする。それがハーンとアランが見出した戦い方。
(動け! 自由に。そして相手の情報を一つでも多く俺に渡せ)
(ああ!)
『ゲーム、スタートです!』
 アランが駆け出した。同時に相手の奴隷であるルヴァもアランに向けて笑いながら突っ込んでくる。互いに獲物を生成する速度は同時、瞬時に刃の交錯する激音が響き渡った。
 ハーンも、相手の支配者であるガトーも二人の戦いを見ている。相手の出方を伺っているのだ。ハーンも相手を知らないだけあって際ほどのような無駄な挑発をしていない。アランはハーンの考えていることがまったくわからない。でも、それでいい。
 激しいぶつかり合いが続く。アランもルヴァも身体をひねり、飛んで、腕を唸らせ、そして咆哮する。
『中々に、良い奴隷をもっているようですね』
 にこっと笑いながらガトーがハーンに言った。
『貴方の奴隷も同じようなものでは?』
『そうですね。奴隷勝負は同レベル。では、今度は私達が戦ってみますか?』
『無意味に禁力消費をしろと?』
 ガトーは笑った。その笑みは挑発でも余裕を誇るでもなく、純粋にゲームを楽しんでいるかのよう。
『ですよね? じゃ、仕掛けさせてもらいます。……ルヴァ! 第一色の約定を許す!!』
『了解!』
 アランは警戒して距離を取った。するとルヴァの青い目が右目だけ、赤くなったのだ。
『何?』
 と言った瞬間にルヴァの姿が掻き消える。消えた!? と考えたときに、殺気を背後に感じ、ほぼ感で獲物を背後に構えた。
 構えた獲物に刃が触れあい、甲高い金属音を立て、アランの身体が衝撃に吹っ飛ばされる。
『汝は力。それは他の追随を許さぬ汝の能力。汝の名は、速度!』
 ハーンの声が響き渡る。と同時にアランにはルヴァの動きが見えずとも身体がその動きに対応するようになった。アランは目を凝らす。そうか、速くなったのだ。
 アランには禁力が見える。ルヴァの身体にまとわりつくガトーの禁力がアランに確信を持たせた。
『契約禁術か! 珍しいね』
『即座に見抜く貴方も貴方だ。結構自信あるんですよ?』
 契約禁術とは血約の元とも血約から生まれたとも言われているが、ある一定の約束を交わし、その契約を書き込み、一定の条件下で現世へのその効力を発揮する禁術である。構成を事前に練るだけでなく、常時発動している状況なので便利であるだけでなく、隙を無くすことができる。
 しかし禁世側では常時発動しているのでかけるほうは常時禁力を使うために、あまり利用されない。お互い血約を結んでいるからならではの力ともいえよう。
『ルヴァには七色段階の契約を設けています。一段階目がすでに攻略されたなら、次に行くまで。第二色の約定を許す! ルヴァ、行け!!』
『オーライ』
 左目が橙色に染まる。次は何がくるんだ? アランは飛び道具を生成する。攻撃して様子を見ようとしたのだ。すると、放たれた銃弾を見事なほどにルヴァは避けて見せた。身体能力と動体視力がすさまじければできない芸当ではないが、なにか引っかかりを感じる。
 アランは埒が明かないと直接攻撃に切り換えた。すると、先ほどまでぶつかり合っていたのが嘘のようにすり抜けられていく。気づいた時には吹っ飛ばされていた。
『ぐ!』
『アラン!』
 ハーンが呼ばう。アランは攻撃を受けた場所を確認して大丈夫だ、と手を振った。なぜ急に避けられるようになった? どうして先ほどまでは打ち合っていたのに、だ。そうして、アランは気づいたことがあった。
『ハーン!』
 名を呼ぶ。自分でどうしようもない場合はハーンに頼るしかない。
(近未来予測だ!)
(何!?)
 人間が次に起こす行動と言うのをパターン化し、それを収集することでその人間の次の行動を予測するということができる場合がある。最初の打ち合いでルヴァはある程度アランの攻撃パターンを読んだ、ということなのだろう。
 相手が行う行動を確率統制で高める一種の支配禁術である。アランには自分の周りに空気のように広がる禁術が淡く見えた。ハーンはアランに状況を聞き、そうして的確なアドバイスを行う。
(お前の禁力をばら撒け!)
(わかった)
 アランは使いすぎないように気を使いながら自分の禁力を撒く。赤色が広がっていった。それが見えているのだろう、ガトーが感心する声を上げた。
『良い目をお持ちですね、貴方の奴隷は』
『目は皆持っているようだね』
 このゲームに出ている者が全員禁力を見ることができる、と言っているのだ。
『第二の契約まで破られるとは。だいたい第二の契約まででどうにかなるんですけどねぇ。これは出せば出すだけ手札をさらすことになるのかな?』
 会場がざわついている。最終ゲームは最も高度な禁術戦になっている。契約禁術と言う相手に感知させないタイプの禁術に、冷静に観察し、着実に対応している、カウンター禁術戦。
 派手に禁術を使い、見世物のような禁術合戦も好まれるが、たまにはこういうレベル高い頭脳戦に近いものも好まれる。派手さはないが、ぞくぞくするような高度で、駒を進めているのがわかる戦いだった。
『だからって、このままじゃ、変わらないよ』
『そうだね、ルヴァ』
『でも、俺らだけ手札をさらすのもどうだ? あんたはなんかないの?』
 ルヴァがアランにそう言う。アランはハーンをチラリとみて、はっきり言った。
『そんなのねーけど』
『え? 得意技とかもないのに、こんなとこまで来たの? ある意味スゲーや』
『お褒めに預かり光栄です』
 アランは無表情で言い、武器を構える。ルヴァも満面の笑みを浮かべた。
『お前、楽しいな! アランって呼んでいい?』
『別にいいけど』
『アラン、お前を倒すぜ! ガトー、第三色の約定を!』
 上を向いて叫ぶルヴァにガトーは言い放った。
『許す!』
『今度はなんだよ!』
 アランは様子を観察するが、外見が変わった様子はない。白髪に先程から変化のない両目。身体に変化もなし。
『なんか変わった?』
 アランはちょっと期待していた自分を呪った。ルヴァはふふん、と笑う。その笑う顔が二重にぶれていく。と思ったら、いつの間にかその姿が増えている。二人、三人、四人、とルヴァが増殖していく。
『ドッペルの禁術か?』
 アランはそう思うが、厄介なのはその増えたルヴァも第一、第二の誓約を許されていることだ。瞬時にルヴァたちが動き、己の動きを読まれる。アランはチと舌打ちをした。が、その次の瞬間に群れていたルヴァの姿が光に貫かれている。少し遅れて血が噴出す。
『忘れていた、あなたは『黄色い虐殺者』だったね!』
 ガトーが言う。第一回戦も瞬時に殺したその禁術は複数戦において効力を最も発揮する。もともと万緑の魔女との戦いにおいて圧倒的な攻撃を誇っていたハーンのオリジナル禁術なのだから。
『ちょっと考えなしだったね。ルヴァ、攻めて行こう! 第四色の約定を許す!』
 ルヴァの目の色が戻る。アランは変わったと、本能で感じた。しかしその効果がわからない。ハーンも黙している。
 ハーンは視線をアランからガトーに移した。何を考えているか今ひとつわからない男だ。遊びで禁じられた遊びに出ているのか、それとも本気か。まだまだ余裕があるように見える奴隷の様子。そして奴隷の手の内は半分はさらされたことになるが、秘められたままの支配者のオリジナル禁術。
 圧倒的な速力を誇るハーンのオリジナル禁術。しかし発動すれば決まるが、発動させるとわかっていればいくらでも防ぎようがあるのが弱点でもある。ハーンは自分の禁術を晒し過ぎている。他に決め手がないからこそ、禁術におけるカウンターでしのいだと言ってもいい。
 アランに至ってはオリジナルの禁術を持ってすらいない。圧倒的な手札の不足と相手の手札が読めないこのゲーム。ハーンは余裕などなかった。
『実はあんまりスリーコインルールのゲームには参加したくなかったんですよね』
『何でか訊いても?』
『自分が挑戦したかったのにその前に負けちゃったりしたらやる気が削げるじゃないですか』
 その言葉で彼らの本気を見た。
『まぁ、貴方達を応援しないわけじゃないんですけどね。入矢とノワールのペアに当たらなかっただけ、幸運と思ってはいるんですけど』
 あ、あなた方の方を軽く見ているわけじゃないですよ、と付け足された。
『ちなみにノワールと入矢はどっちが脅威?』
『入矢ですかね? あの禁術解体はやっかいです』
『そうだろうね』
 でも、ハーンならノワールと答えるが、と内心で呟いた。ノワールのオリジナル禁術を食らったものにしかわからないあの怖さは、やっかいだというレベルではない。
 そのノワールの元となったアラン。ハーンはなにかしでかすんじゃないか、と思わずにはいられないのだ。くすり、とハーンが笑う。
『その契約ってやつさ、身体制御だけじゃないんだな』
 感心したようなアランの言葉にルヴァが目を見開く。
『いくら禁力が見えるからって気づくの早すぎじゃねーの? これじゃ第四色の契約も無意味か?』
『いや、対応は思い浮かばねーんだけど、わかったんだよ。なんとなくな』
 ルヴァの第四色の契約は禁力のコントロール能力の向上。正確にして形成速度が速い。通常なら何を練ったかすらわからないだろう。しかしアランは身近で入矢の性格で構成の早い禁術形成を何度も見てきた。だから目は慣れているのだ。
 入矢のように構成を瞬時に読んで対応はできないが、紙一重で攻撃を避けているのはそういう理由である。
『ガトー!』
 ルヴァが名を呼ぶ。ガトーも頷いた。
『これ以上は無意味。手札をさらすだけ、ならば!』
 さぁーっと涼やかな音が会場を包んでいく。
『何だ!?』
 アランは思わず上を見上げてしまった。会場を、それもバトルフィールドだけにしとしとと雨が降ってきたのだった。しかし雲も見当たらなければ雨を発生させる装置もない。ハーンも己の身を濡らしている。
『これが、『藤色の雨滴』か?』
 ハーンが言った。それを肯定するかのようにガトーが微笑む。いまや四人、全員が雨に濡れている。ただの雨のわけがない。しかし酸が混ざっているようでもなければ、特殊な薬物が入っているわけでもなさそうである。それに発動させた本人だけでなくその奴隷も同じ状況と考えれば純粋に水なのか?
『さぁ、ゲームを続けましょう』
 笑うその言葉がハーンとアランに警鐘を鳴らさせる。濡れた床材に奴隷の靴音が響く。きゅきゅっと水をはじく音が混じり、足元を悪くさせる。それでもルヴァは笑っていた。
 最初の戦いに戻ったかのように獲物を持った奴隷同士の激しい攻防が続く。ハーンは厳しい表情で眼下の光景を見つめていた。映像では何度も見た。しかしガトーのオリジナル禁術の構成を読むことはできないばかりか、どんな術かもわからなかった。ノワールのものと同じだ。
 しかし発動すれば必ず相手のペアは負ける。特に奴隷の疲労が激しかったのが印象的だ。では疲労を誘う? でもルヴァも浴びているし。アランに今は変化はない。だが速く手を打たなければ、アランが疲労するのは過去のゲームデータから明らかではあった。
(アラン!)
(わかってる。注意するさ)
 雨に濡れるのが楽しいと言わんばかりにアランにルヴァが接近していく。ノリがよくなった、とでも言わんばかりに身の動きが軽やかだった。アランは困惑しながらそれに対応していく。別に雨に何があるわけじゃないのだ。自分の力や禁力を削ぐわけではない。それにルヴァに補強するような感じもない。
 何のための雨だ? アランは困惑する。その感じはハーンにも伝わっているが、ハーンにもこの禁術の意味がわからないのだ。何のためだ? 混乱が襲う。この雨が降る事で相手のペアが優位になっているのはわかるのに、それが何を優位にさせているかがわからないのだ。そもそもこのペアは変だった。支配者は攻撃をしてこない。そして戦いは無意味に続いた。
『チ!』
 アランは何度目か、目の上に垂れてくる雨を片手で払う。別に雨に濡れているだけだ。特にダメージがない、それはもう禁力の流れで理解した。少々雨粒が大きくなり、雨量が増えて鬱陶しさが増えただけだろう。
 振るう剣にも振るった先から雨粒が飛び散る。向こうもそれは同じで奴隷が激しくぶつかり合うたびに水滴が周囲に舞う。そして足音に水を含んだ音が増え、いつの間にか雨によって下がった気温で吐く息が白くなる。
『鬱陶しい!』
 アランは何度目か、そう言って身体を動かすことをやめない。ハーンは何やってんだ!?
 ――やられた!
 その頃、ハーンはこの禁術の意味を理解し始めていた。向こうに座る相手は悠然と微笑んだまま、雨の降る会場を眺めている。こちらに攻撃しないのは、その必要がないからだ。
 大量の雨による水蒸気、霧が立った会場内。ハーンは己が完全に後手に回ってしまったことを理解した。そう感じた瞬間にアランの足がもつれはじめた。
『アラン!』
 この雨は厄介だ。雨を降らせることに疑問を抱かせるが実害がないと悩ませる時間を稼ぐことこそがこの攻撃の最大の難点。気づいた時にはもう、遅い。
『なんてやっかいなオリジナル禁術だ』
『おや、もう気づかれましたか。さすがです』
 雨は最初しとしとと降り始める。戦いに集中していくうちにその雨粒はだんだん大きくなり、そして雨量を増していく。大量に降り続く雨はこの限定された空間で水蒸気の密度を上げ続け、霧が立ち始める。すると支配者による奴隷の認識があいまいになってしまう。
 見えづらく霞がかった景色に一変する。実際ハーンにはアランの動きが鮮明に見ることは無理になりつつある。それだけならいい。霧立ったということは、当然、戦う奴隷の場所では空気は水を含んで重くなり、その動きを阻害する。少しならいい。長時間の雨と霧、それによって服は濡れ、身体から熱を奪い、身体を重くする。
 それに加え、雨による視界の悪さを動きの鈍さと誤解する。無理に動き、体力を消耗し、熱を無駄に逃がす。その悪循環が重なり、知らずに相手の奴隷は疲労する! いくら排水の機能はあるといえ、雨量に追いつかない会場は雨水がたまり始め、アランの足場を悪くする。
『快楽の都市は完全なる密閉空間。季節変動もなければ、天候さえ支配されない。それは暮らしやすい楽園ですが、逆に取れば、自然なる他の都市では当たり前の事象に弱いということ。……そう雨のような天候でさえも』
 思えばアランも、ハーンも雨に降られたことなんてなかった。雨というのを趣味で降らせている場所があるから、その事象を知っているに過ぎない。快楽の土地の住人だからこそ、予想できない雨の脅威。雨に濡れれば風邪を引くということすら知らない人の現実。
『やられたね、君、天才かも』
 ハーンは苦笑を浮かべた。自身も気づけば肌寒い。
『私とルヴァは雨に強いんですよ。耐性があるといってもいい。雨は味方なんですよ』
 アランは激しい雨音の中、かすかにハーンとガトーのやり取りを聞いていた。なんだと、この空から落ちてくる水滴の群れにそんな脅威があったなんてね。便利性を追求しすぎも、問題だな。と内心苦笑する。
『さぁ、どうします?』
 アランは自分に問いかける。気づけば息は上がっているし、足場もかなり悪い。敵の思う壺だ。
『でも! 止まるわけにゃ、いかねーんだよ!』
 ハーン、どうにかしろ、ハーン! 俺は動くしか脳がないんだ。お前が考えろ! 俺はお前の命令を実行する“奴隷”だ!