毒薬試飲会 026

059

「いろいろ説明してもらいたいが……大丈夫か、お前」
 ハーンが言う。チェシャ猫は力なく笑った。
「まァ、大丈夫には程遠いわなァ。アイツら、容赦ねーのォ」
 くくっと思い出し笑いをする。その達観したような考えがアランには理解できない。チェシャ猫の様子は飼い犬に手を噛まれた飼い主のようだ。
「まァ心配するなァ。もともとお前らを送ったら第一階層に戻って英気を養おうと思っていたトコなんだよォ。ちょっと予定が早まっただけだァ」
 チェシャ猫はそう言ってハーンを見た。
「わりィんだが、復元術式出来るか? ハーン」
 ハーンは頷く。壊れたものなどを修復するための禁術のことだ。
「さすがにちょっと惨めでよォ。俺の服、復元してくれやァ。俺が着れる服は決まってンだァ。普通に服を与えてくれてもイイんだけどよォ」
「構わないが……お前の服の好みがあるならお前がやった方がよくないか?」
 ハーンの言葉にチェシャ猫ははっきり言った。
「俺が禁術使うとまた“場”が騒ぐからなァ。したらお前らが今度は無事じゃすまねェんだワ」
 ハーンとアランは息を呑んだ。さっきみたいなのが自分達に襲い掛かってきたら……想像もできない。ハーンは無言でチェシャ猫の服を想像し、生成した。するとハーンが覚えていない部分も詳細に復元がされている。着れる服が決まっているというのはこういうことらしい。
「ありがてェや」
 チェシャ猫がうれしげに初めて笑った。
「さてェ、邪魔されちまったが、お前らを第一階層には必ず送ってやる。安心しなァ」
「でも、お前! その……鍵とかってのを……」
 アランが言う。
「そう。盗まれたァ」
 チェシャ猫はアランに気にするなと言いたげに手を振った。
「ここまで迷惑かけちまったからなァ。教えないワケにはいかねェよな。……知ってるかもしれねェが、第一階層は第二階層と隣接した場所にはねェ。あれは異次元といってもいい。だから直接行くことができねェのさァ。行く方法は知らずのうちにたどり着くか、俺が案内してやるしか方法はない」
 アランはビルが教えてくれた情報が正しいことを知った。だから才能がなければ案内人に頼めと言ったのだろう。
「なぜ、お前しか連れて行けないんだ?」
「正確に言うと、お前らを第一階層に連れて行く役目は俺ではない。俺は“惑わす者”。扉を自由に創ることができるだけなんだ。だから連れていくことができる。俺の望みとお前らの望みが重なったときだけに。俺は俺の領域が広いから出来るだけなんだ。まぁここらの話はもっと深く足を突っ込んだときにでもするさァ。扉は自由に創れるが、入る為の鍵は一つしかない。それは俺の意思、俺の精神、それを具現化した『心臓』でできている」
 なんでそれが心臓なんだ? 心で思うことが心臓に直結するということだろうか。
「だからあいつらは胸に手を突っ込んだ……? じゃ、今、お前……心臓は?」
 アランが訊く。
「ない。あいつらが奪っていったからなァ。もし壊されたりすると俺もさすがに死ぬかもなァ。……まァそんなことはいい。俺は通常の時には、心臓を複製してそれを持たせる。お前らの意思がなければ扉は開かない。くぐることは出来ねーのさァ」
 第一階層は第二階層と隣接した場所ですらなく、その存在は異次元らしい。その場所へつなげるための扉を自由に創ることができるというチェシャ猫の能力。だが、その扉をくぐる為にはくぐりたいと望んだ人間の意志がなければいけない。その意思確認をわかりやすく示させるためにチェシャ猫は己の意思を複製して鍵として渡し、自分で扉を開かせるのだという。その意志の投影に己の心臓を使ってるらしい。
 詳しい事はわからないが、印刷機が心臓だったと思って欲しい。チェシャ猫の意志をコピーするプリンターごと盗まれたので、鍵がないということらしい。
「それが近年ではゲートパスみたいになっちまった」
 鍵の複製したものを持っていなければゲートパスにならないのだという。そもそも第一階層に入った者が他の階層に戻り、再び行きたいときの為の複製鍵だったのだそうだ。
「ホントのとこはよォ、そんなに敷居の高いもンじゃねーのよ、第一階層なんてサ。人の噂だわなァ。ただせっかく入って羽虫のごとく命を散らせたらかわいそうだからある程度実力を備えたモンに案内を優先してただけの話なんだわァ」
 それがランク2の制覇だっただけの話らしい。金さえ積めばいけるのも嘘ではないというのはこういうことなんだろう。
「で、問題はァ、鍵がないからお前らを通してやれないんだなァ」
「行けないのか!」
「まァ。そーゆ事。扉はある。行くこともできるかもしれない。ただたどり着く場所が第一階層とは限らないって話だわなァ」
 アランもハーンもうなだれる。第一階層が目の前だというのに、こんなところで挫折とは……!
「方法はねーこともねーのさァ。俺が第一階層に戻って、完全復活した後に、アイツらから鍵を取り戻せばいィ」
 アランとハーンは互いに目を見合わせ、ため息を一つ。
「いいよ、それで。それまで待ってるから」
「いンやァ。それは俺がおすすめしないィ」
 チェシャ猫はそう言って首を振る。アランは疑問をその顔に浮かべた。
「アイツらがよォ、俺の心臓捨てたり、壊したら俺、死んじまうかもしれねェんだぜェ? そしたら二度と行けない。あと、ボルバンガーたちがチラっと言ってたの聞いたかァ? 俺のこのビョーキつっても病とはちと違うんだけどよォ、これは15年サイクル。そうなるとお前らが行けるの15年後。ま、そんなにかかるワケじゃ実際ねェんだけどもォ」
 ハーンが唖然とする。15年後?! じゃ、俺、50歳!? それで第一階層? ムリムリ!! 老後を考えるYO!! ハーンが愕然としているのを見てチェシャ猫が失笑する。
「待てよォ。早とちんな。連れてってやるって言っただろォ? 方法がねェわけじゃねーのさァ」
「だけど、お前……身体が……」
 アランが心配している。チェシャ猫は感謝を滲ませた笑顔を見せた。
「俺一人じゃ、連れて行けない。だけど、お前らが協力してくれれば可能だ」
「できることならやるよ!」
 アランは頷き、ハーンを見た。ハーンもため息を一つと苦笑いで頷いた。
「そうこなくっちゃなァ。ご覧の通り、俺は今禁術を使えない。使うと“場”が無駄に騒ぐからなァ。……だから、代わりに禁術を発動してもらいたい。……ハーン」
 呼びかけられてハーンが頷く。
「召喚術式をお前は知っているか?」
「……召喚、術式?」
 チェシャ猫は真面目な顔をして頷いた。チェシャ猫によると、武器などを生成して使う過程でもそれは禁世で生成したものを現世に召喚しているのだから、それが無機物から生きている存在に変わるだけだとのこと。だが生きているものには意思が存在し、スペルで表すほど単純な組成ではない。だからそれが問題であり、誰も思いつかない。
 不思議の国の住人の間では結構行われるらしいのだが、実際アランたちは使っているのを見たことはない。
「大丈夫だ。呼ぶヤツは禁世で存在が確立しているからなァ。普通の人呼ぶよりは簡単だ。何せ禁世が知っているからなァ」
 チェシャ猫はニヤっと本来の彼らしい笑みを見せ、ハーンにスペルを教える。ハーンはそれを確認しつつ頷いた。
「で、禁力は? どの位用意すればいい?」
「この場に溢れてる。それを使えばいいだろう」
「わかった」
 ハーンは頷き、第一スペルの構成に入ろうとして、ふと、尋ねた。
「そういえば、誰を召喚するか聞いていなかったな」
「あァ……」
 チェシャ猫は頷いた。
「――“誘う者(いざなうもの)”・時計ウザギだ」

 ~アリスは白い時計を持ったウサギを追って穴の中へ。~

「別名白ウサギとも言うわなァ」

 黒白の両面はボルバンガーたちの気配がなくなったことを感じ、計画が成功したと思った。これでお兄ちゃんは私から離れていかない。だけど、相手は一筋縄ではいかない、最強の不思議の国の住人。
 だったら用心に越したことはない。黒白の両面は首からかけたチェーンから銀色の小さな鍵を翳した。すると、小さな扉が現れる。
「もう一人の私を第一階層に置いておきましょう」
 その瞬間、姿がぶれて、二重になり、もう一人の黒白の両面が扉の中に消える。

「あの子があのまま引き下がるとは思えませんね」
 翹揺亭の奥の間で、御狐さまがため息を一つ。
「佐久、黒鶴」
「はい、御狐さま」
 呼びかけには瞬時の応答。
「貴方達二人なら大丈夫でしょう。これから第一階層に行き、入矢の手助けを行いなさい。私の代わりに。頼まれてくれますか」
 黒鶴は頷いたが、佐久は微妙な顔をする。
「構いませんが、手助け……ですか?」
「そうですね。入矢の手助けというと語弊がありますか。……黒白の両面に警戒なさい。彼女の思惑はこの世界を揺るがすものです。私個人としてはそれは許しがたい。黒白の両面は入矢を気に入った様子ですからいずれ接触するでしょう。彼女は腕利きにの人形師です。佐久は身をもって知っていますね?」
「はい」
 佐久はボルバンガーに仮に見受けした際に、仕返しとして彼女に人形にされた。精神を禁世に落とされて、その間に身体を瀕死に追い詰められた。
「入矢を人形にするかもしれません。入矢では太刀打ちできないでしょう」
 己に掛けられた禁術はさすがに解体できまい。
「それは避けたいのです。彼女の鼻っ柱を折ってやりたいですしね」
 ふふ、っと笑うその言葉こそが本音に聞こえるが佐久は頷くにとどめた。背後から弥白のため息が聞こえた。側近の彼らにはこういう御狐さまのお茶目な冗談をよくきいているのかもしれない。
「ですが、俺でも彼女に太刀打ちできるとは……」
 佐久の言葉に御狐さまは微笑んだ。
「貴方は私が選んだ特別な一の頭です。一度受けた禁術の構成や、相手の禁力がその身が覚えています。……わかりますね?」
 佐久の身が強張ったが、黒鶴は御狐さまの前なので視線を送るに留めた。
「しかと承りました」
 佐久の応の答えに黒鶴も否は唱えない。
「では、行きなさい」
 御狐さまの胸の間から銀色の小さな鍵が握られた。それを佐久に手渡す。佐久は瞬きをして受け取った。
「それを握り、第一階層に行く意思を強く持って扉の鍵を開ける風景を思い描くのです」
 御狐さまが女神のような顔で微笑む。佐久が頷いて鍵を虚空に差し出し、回す。ガチャリという音が何もない空間から聞こえ、その瞬間に扉が現れた。
『私は彼らに鍵の権利を譲渡します』
 御狐さまが扉に向かって囁いた。答える声はないものの、扉が開く。
「いってらしゃい。必ず生きて帰るのですよ」
 優しい御狐さまの声に佐久と黒鶴は頷いた。
「いってきます」

 第一声は、世間話をするかのような口調だった。
「あら、すいぶんみすぼらしい、かつ、小汚く情けない格好ね、ネコ」
 ハーンの長いスペルの発言が終わり、紫色の禁力が禁術の発動に伴い消えていくその過程の果てに現れたのは、女だった。だが、その格好の奇抜さから妙に、ああ不思議の国の住人だ、とハーンとアランを納得させてしまうのは何故だろうか。
「よォ、ウサギ」
 チェシャ猫が手を上げて挨拶する。白兎というだけにその青灰色の髪から真っ白なウサギの耳がピンと立って生えている。長い髪は彼女の右側の顔を完全に隠し、正面から見ると肩口で切りそろえられているように見えるのに実は髪は後ろで結ばれており、結構長いことがわかる。目はオリーブグリーンで人を小ばかにした印象をこれまた何故か与える。
 袖のないタキシードのような燕尾服のような黒い衣装の下には肌が露出しており、うっすら乳首の陰りが見える。下には何も身につけていないらしい。首元には紫色のリボン。手は何故か黒い手袋。そして真っ赤なヒモパンを何故か黒いガーターの上から履いている。というか、そのガーターに釣られているのはストッキングなどではなく、黒く長いピンヒールのブーツといっていいのか、よくわからないがとにかく靴だ。かわいらしい白い尻尾が際どい赤い下着の上で密かに主張している。
「命の拍動が聞こえない」
 ウサギが耳をといってもウサギの耳の方を動かして、言い放つ。その途端に眉間にしわが寄る。しかし、彼女の異常さを際立たせる原因である眉が剃られていて無い、ということが不機嫌な様子を半減させていた。
「ネコ、お前の意思、お前の精神、お前の考え、お前の具現、すなち、お前の『心臓』を盗られたな?」
「あァ」
 チェシャ猫はやれやれと言いたげに答える。
「相手は?」
「一言で表すと……下種な男とその変態犬」
 ぷっとアランは思わず笑ってしまった。ボルバンガーを下種、メラトーナをその犬とは言いえて妙。
「で? この私を呼び出して何の用だ?」
「見りゃァわかんだろォ。お前の本業をしろ」
 チェシャ猫はアランとハーンを指差して言う。白ウサギはアリスを夢の国、不思議の国へ誘った張本人。
「……無理を言う。お前は“惑わす者”。その本質は案内人。だが、私は“誘う者”。本質は『招く』ことだ。お前とて、わかっているだろう?」
 どうやら白ウサギ本人はチェシャ猫のように第一階層につれて行ってくれるような能力ではないらしい。
「そう、『招いて』ほしいのさァ。扉なら、オレが創る」
 白ウサギはそのない眉を寄せてチェシャ猫を一瞥する。
「そんなナリで? 笑わせるなよ、ネコ」
「本気だァ。お前と俺なら出来るから言っている。お前が協力しない限り、俺はここを動かない」
「死ぬかもしれないのにか?」
「お前が俺を殺さないだろう? なァ、ウサギィ」
 チェシャ猫の笑みに白ウサギは観念したかのように溜息を一つ。
「仕方ない。協力するしかないようだ。だが構わないのか? こいつらの所属が異なる事になるが」
「それも醍醐味の一つだろォ。お前が話がわかるヤツで助かるよォ」
 チェシャ猫との話が終わった白ウサギはアランとハーンに視線を戻す。
「さて、お前達、名は?」
「アラン・パラケルスス」
「ハーン・ラドクニフ」
 白ウサギは一つ頷いて尋ねた。
「第一階層に行きたいんだな?」
「もちろんだ」
 アランが即答する。傲慢なほどに当然のように白ウサギが頷いた。
「よろしい。ネコが見繕ったということは、お前達はあのしょうもないゲームを制覇してきたのだろう? 第一階層にも同じように会場があって相手が用意されていると思ったら大間違いだ」
 アランが表情に疑問を乗せる。
「第一階層は下層よりも混沌に満ちた世界と考えろ。殺意を持って相手が現れたらそれはすなわち、ゲームが開戦されたことになる。それを踏まえたうえで、お前らはネコの心臓を奪った相手を探し、『鍵』を奪い返せ。そしてネコに戻してほしい。これが私がお前らを『招く』対価と考えてくれ」
 アランは頷いた。ハーンも了承する。
「この男は自分を大切にしないが、けっこう重要な役割を与えられている。本の一端を述べるとこの男の心臓が戻らないと階層間の移動は誰も出来なくなる」
「ええ!!?」
 思わずチェシャ猫を見てしまう。階層移動がチェシャ猫まかせ? そんな話聞いたことない。
「本来ならばネコが案内する事で鍵を得、それにより存在を許されるのだが、お前らはそれをその下種な男とその犬に奪われた。鍵を奪い返す事はすなわち、お前達の為にもなる。だが私が招いたなら、それは私が存在を許したということでもある。その点は安心しろ」
「ボルバンガーとメラトーナから鍵を奪い、チェシャ猫に戻すことが一番すべき仕事ということだな? ちなみに彼らがどこにいるかとかはわかるのか?」
 白ウサギはしれっと言い放つ。
「私はそいつらに会ったこともないのだぞ。知るか」
 ですよねー、アランは内心ため息をついた。それにしてもこの白ウサギと言う女、すいぶん口調が男っぽい。それになぜか本当になぜか人を小馬鹿にした印象しか与えない。
「だが、イモムシが戻っていればイモムシに……他にもそういう類を扱っている奴はいる。そいつらを頼る分には構わないだろう」
 イモムシも不思議の国の住人ならば第一階層にいておかしいはずはないのだろう。
「ちなみに鍵を奪い返した際はチェシャ猫はどこにいる? どうやって返せばいい?」
「こいつはネコだからな、どこにいるかはわからんが……」
 白ウサギはちらりとチェシャ猫を一瞥する。
「住処なら有名だ。『城』といえば大抵の奴はわかる」
「城? お前……すげーやつなのか?」
 アランがチェシャ猫に聞くがチェシャ猫はノーコメントを貫いている。
「では、用意はいいか?」
 白ウサギが最終確認のように尋ねる。ハーンとアランは視線を合わせることなく同時に頷いた。
「よろしい」
 白ウサギの視線に応えて、チェシャ猫が立ち上がった。腕がすっと伸ばされる。紫色の両腕が何かを掲げるように伸ばされ、チェシャ猫が眼を閉じた。
『……―――』
 それは声。それは歌。それは、音。
 薄く開いた唇から洩れるその音は独特の音だった。か細くしかし決して切れないような力強さを持つ、高く澄んだ音。人の声では到底出せないような金属楽器のような済んだ心地いい音。
「っ!」
 チェシャ猫は音の途中で吐血する。血が飛び散り、腕は肘の部分で折れた。血が吐かれるが、チェシャ猫は音を出し続ける。腕も震えながら伸ばしたままだ。
『――』
 ぞわり、とまたこの“場”にある禁世が騒ぐ気配がする。チェシャ猫もそれをわかっているのだろう。視線を走らせた。
『黙れ』
 白ウサギがそれを制するかのように踵を踏みならした。するとぴたりと嫌な気配が止まる。視線でチェシャ猫が白ウサギに感謝を述べる。次の瞬間チェシャ猫の身体が傾いて倒れた。
「チェシャ猫!?」
 アランとハーンは驚くが、白ウサギは最初から分かっていたように当然の如く頷くと彼を無視して祭壇の当たりを指差した。
「保たなかったようだな。情けない。……だが、見ろ」
 教会の祭壇の下あたりに妙に光る小窓位のサイズの四角い何かが出来ていた。
 ……なにあれ?
 アランが不思議より胡乱げな顔を隠さず白ウサギを見る。
「あれが扉だ」
「あれがぁああ!!?」
 どう見てもあれ光を取り入れるための小窓じゃん! ってか、窓枠すらないただの正方形にしか見えないんだけど。というかあんな場所にぽっかり正方形だけが空いているのも変っちゃ変なんだけども! どう見ても『扉』には見えない。
「もともとネコの扉の能力はあんなもんだ。誰かが扉と名付け、それを気に言ったネコが扉っぽく見せていただけだ。あの先が第一階層。私の後についてこい」
 白ウサギはそう言って四角い光に向かう。
「ちょ、待ってくれ」
 ハーンが言う。
「何だ」
 まだ何か? と言いたげに白ウサギが言う。
「俺達どう考えてもあれには入れないぞ!」
 そう、その小窓は30cm四方くらいだ。男どころか白ウサギですらは入れない。
「なぜだ?」
 根性で入れ、と言わんばかりに小馬鹿にしたような目線で白ウサギが言う。おそらく小馬鹿にはしていない。
「まぁ本来ならもう少し大きいのを作る予定だったんだろうが、途中で死んだからな」
 白ウサギはそう言った。
「へぇ……って死んだぁあ?!」
 アランはチェシャ猫の脈を確認する。
「ハーン! 脈打ってない!!」
「そもそも心臓ないんじゃ脈打ちようがないんじゃないか……?」
「そっか!」
 ってか、今さらだけど心臓ないのにどうやって生きてんだ、こいつ!
「死んでいるかわかんねーだろ、それじゃ」
「呼吸はしてないようだな……」
 ハーンも確認して言う。
「満足したか?」
 白ウサギはそう言ってチェシャ猫の死亡確認を行った二人に冷静に言った。彼女はチェシャ猫の、というか不思議の国の住人の死亡には慣れているらしい。
「いや、あの……」
 アランは口ごもる。
「気にするな。生きかえろうと奴が思えばそのうち息を吹き返す。放っておけ」
「そういうもんなんだぁ……」
 もう、何もつっこまない。ハーンはそう思った。アランも同じ境地にたどり着いたようだ。
「では、行くぞ」
「だから、サイズの問題が」
 その瞬間白ウサギは小さくなった。は?!とアランが驚く。
「そのサイズに合わせればいいじゃないか」
「え? それは禁術でってことか?」
 ハーンが確認するかのように問う。すると肩をすくめて白ウサギが指を鳴らした。当惑するアランとハーンの前に小瓶が現れた。その中には薄い青の液体が入っている。ビンの口に値札のようなものが下がっていた。
 ――Drink Me――
「私を……お飲み?」
 アランが疑問を口にする。ハーンが口をひきつらせながら言う。
「これって……あの童話の……?」
 アリスが小さなが扉をくぐる為に飲み込んだ自分の身体を小さくする液体。そんなファンタジーなものが現実として目の前に……。
「そうだ。飲め」
 白ウサギが言う。
「ハーン?」
「飲むと小さくなるんだ、たぶん」
「ああ、飲みすぎるとサイズが認識できなくなって死ぬから気をつけろ」
 そんな危険な飲み物飲みたくないんですけどー! アランが内心思っていることをハーンの目が現在進行形で物語っていた。アランとハーンは頷きあうと、ひとくち、こくりと飲んでみた。
 すると階段を踏み外したかのような勢いで視線が下に下がる。と、思ったら自分のサイズがどうやら小さくなっていることがわかった。一口で30cmの扉が通れるサイズ。どんな飲み物だ。全部飲んでいたらと思うと考えたくもない。
「さ、行くぞ」
 白ウサギが言う。ハーンはまたしても彼女を止めた。
「ちょっと待ってくれ!」
「なんだ? まだ何かあるのか?」
 いらついている様子はないが、しつこい奴だなと思っているのが顔に表れている。
「オレ達のこの体は戻るのか?」
 白ウサギは大した問題ではないと言いたげに否と応える。
「ちょ、待てよ! それ困る。どうやって戻るんだよ!」
 第一階層が小人の世界というならまだしもそうではないことはわかる。
「……対になる食べ物が存在する。それを食えば元に戻る」
「どんなやつだ?」
「きのこだったりクッキーだったりケーキだったりするな」
 思い出す限りを羅列する白ウサギ。
「どこで手に入るんだ?」
 ハーンは慎重になったというか、最低限のことだけは知る為に必死だ。そして自分にいいきかせる。教えてくれるだけましだ。
「なぜそこまで教えなければならない」
「考えてみてくれ。こんな小さな為りでチェシャ猫の鍵を奪い返せるとおもうか?!」
 白ウサギはあごに手をやり、納得したように頷いた。
「方法はいくつかある。一つ目は私の屋敷に行け。そこでメアリアンという下僕に私の名前を出し、要求すればいい。私の屋敷も場所は知れるだろうからな。二つ目はビルという物売りにチェシャ猫の名義で購入すればいい。三つ目は料理女にでも作ってもらえ。まぁあの女がそんな高尚な料理をできるとは到底思えないが。あとは……自力で探せ」
「メアリアン……?」
「そうだ。屋敷のあたりをフラついているから屋敷に行けば大丈夫だと思うがな」
 ハーンは頷いた。
「ビルってトカゲのビルか?」
「なんだ、会ったことがあるのか? 運のいいやつだな。比較的付き合いやすい男だと思うぞ」
 白ウサギの言葉に独特の言い回しをする男をアランは思い出していた。
「料理女は……まぁ味付けが胡椒しかないから食べるのに苦労しそうだな」
 白ウサギの独白にアランとハーンは内心で頷いた。確かにあの料理女がそんなの作ってくれるとは思えない。確実なのはビルか。だがそう簡単に会えるものだろうか。
「では、行くぞ」
「ああ」
 白ウサギの背を追って二人は光の中に飛び込んだ。