モグトワールの遺跡 017

067

 王宮中の広い部屋の窓際に凛と立つ女性がいる。水色の髪をきっちり結い上げ、格好も清楚できっちりしている。どこかしら厳しさも漂うその視線は窓の外に向けられている。
「ご機嫌麗しゅう、アイリス様」
「ごきげんよう、アーリア様」
 戸口で深く頭を下げるのはエイローズの当主であるアーリアだ。返事をしたのはルイーゼ家の当主であるアイリスである。アーリアと同い年で在りながらその印象は異なる。アーリアが魔女と呼ばれているのに対し、アイリスは聖女と呼ばれていることからもそれはわかるだろう。
「そろそろ刻限ですね」
 運ばれてきたお茶に口を付けながらアーリアと共に席につくアイリス。
「遅くなったか」
 最後に姿を見せたのは、もう初老といっていい男性だ。白髪は頭髪の大半をしめ、顔にも年齢にふさわしい威厳のある皺が寄った顔になっている。しかしまだまだ眼光は鋭く、現役であることを表していた。
「ごきげんよう、ジルドレ様」
 アイリスが軽く頭を下げ、挨拶をする。
「ごきげんよう、ジルドレ様」
 アーリアもそう言った。
「お久しゅう、御二方」
 対するジルドレと呼ばれた男性も挨拶を交わし、着席した。
「これは三大王家当主の集まりですわ。なぜ、毎度ながらジルドレ様がいらっしゃいます?」
 アーリアが微笑みながら問いかける。
「毎度毎度同じ事をきいてくれるな、小娘。私がヴァン家の当主だからだと何度言えば納得する」
 アーリアは顎を両手で支えるような姿勢をとり、上目づかいでジルドレを挑発するように問いかけを重ねる。
「ジルドレ様は岩盤大君。王であらせられましょう? 二重権力を避けるためにも、当主は別の者がなるのが常。 ヴァン家の現当主は弟君のジルガラ様でいらっしゃるのでは?」
「我が弟は病の身の上ゆえ、私が当分代わりを務めている。先の会合でもそう説明したはずだが?」
「ええ、おうかがい致しましたわ。だからといって易々とその位に就く神経を疑っておりますのよ。そのご説明を頂いてからもう半月ですわ。そろそろ代行を立ててもよろしいし、次期当主をお決めになられてもよろしいのでは?」
 アーリアはそう言ってジルドレの反応を見る。
「我らヴァンの陣営はまだ後継を選出する時期ではないのだ。それを言うならお前たちエイローズの陣営も同じようなものだろう?」
 アーリアは余裕の笑みを持って応じる。
「さて? どのあたりでございましょう?」
「アルカン様はまだお元気なお歳と認識しておったがな?」
「アルカン様は責任感の人一倍強いお方でしたから、多少の不調は御隠しになってしまわれますの。それではお命がいくつあっても足りませんわ。ですから、大事を取って頂いたまで。なにもおかしい事などございませんわ。わたくし共エイローズはルイーゼと同じく今は時期大君を待っているに過ぎません」
「ふん、小娘が」
「まあまあ、お二人とも。それでは議題がちっとも進みませんわ。お戯れもその辺りに」
 アイリスがそう言う事によってジルドレは視線を緩め、アーリアは姿勢を正した。
「そうですわね。ただ、お隣さんというのは気になってしまうのが人の性ですの。失礼を申し上げましたわね、ジルドレ様」
 アーリアがそう言って微笑むと、何事も許してしまいそうになる。たが、ジルドレはそれに頷いただけだった。
 これは月に一度の開かれている三大王家の当主による会議である。ドゥバドゥールでは国を治めるのは大君である王が務めるが、その王の決めた事に従って実際に国を動かすのは三大王家である当主の務めである。
 人々の暮らしによって日々法は変わり、予算を決め、己が統治する街を運営するのが王家の務めなのだ。ゆえに、王家に生まれた人間はその能力に合った仕事を割り振られ、民のため働くのが責務とされる。
 その様々な事を話し合い、王家同士で差が生じないように話し合う場がこの場である。各王家の当主同士が直に顔を合わせ、話し合うこの場は古くから貴重な場として活用されてきた。
 アーリアはエイローズの当主としてこの場にいる。アイリスもルイーゼ家の当主ゆえにここにいるのだ。しかしヴァン家の当主はこの場にいない。ヴァン家の当主はジルガラ=ヴァン。キィとミィの父親であり、ジルドレ=ヴァンの弟である。このジルガラ数年前から体調を崩し、公式の場に顔を見せくなって久しい。故に、名代として兄で在り、現在の岩盤大君を務めるジルドレが出席しているというわけである。
 アーリアは権力をジルドレが全て独占していると釘を刺している。
 それに対しジルドレはアーリアが当主についてから砂礫大君を務めていたアルカン=エイローズが体調不良を理由に大君の座を退いたことから、アーリアこそが権力の独占をしていると言い返しているのだ。
 こういう理由で現在エイローズとヴァンはかなり仲が悪い。ジルドレは本来対等な立場であるはずのアーリアを小娘と呼び、アーリアも表立っては言っていないがジルドレを老害やくそじじいなどと蔑んでいる。
「では、この懸案は先月話し合った通りで。……本日はこの辺りでしょうか」
アイリスがそう言い、アーリアが頷いた。
「わかりましたわ。では、これでお開きと致しましょうか」
 各家の書記官(ラウダ)がやっと筆を置く。この書記官が記した議事録は公式記録として保管され、複写は一般公開され、民の誰もが見て、意見を述べる事ができる仕組みになっている。
「そういえば、ジルドレ様」
 アーリアが声を掛け、ジルドレが不愉快そうに顔を向ける。
「お耳に入れておこうと思いまして。王宮所属の暗君を名乗る不逞の輩が居りますのよ。この前堂々と我が屋敷に侵入したのを捕えましたの。お気をつけあそばせ」
 ジルドレも顔色を変えず平然と返した。
「そうか。そのような輩が出現か。気をつけねばならんな。アイリス様もお気をつけられよ」
「はい。ご心配ありがとうございます」
 アーリアも微笑んでアイリスの方を見た。
「そう言えば、ジルドレ様。わたくしからもお聞きしたい事が一つ、よろしいでしょうか?」
 アイリスがそう言ってジルドレの歩みを止める。
「なんだ?」
「ヴァン家の神子であられるキィ様が神殿に御上りになり、ずいぶん経ちますが我が国ではまだ次期大君が現れません。ヴァン家では今後どのように動かれますか」
 アーリアもそれは関係ない事ではないので、退出しようとした脚を止める。
「それは魔神への生贄の儀式を行えと?」
 アイリスは首を振って申し訳なさそうに言う。
「いえ、そのようなことは。ジルドレ様にとっても大切な甥御様でしょうから、苦渋の決断に変わりないとは存じます。しかし……そろそろ国民の不安も鎮めておけないかと」
 三大王家だけで百人以上の人間が新たに新しい王を魔神に祈る為の神殿に入っていることは当然国民も知っている。ルイーゼの全大地大君が亡くなり、六年と言う月日が経った。国民もそろそろ不安視する。当然、神子であるキィが神殿に入っても現状は変わっていないのだ。
「そうですな。ルイーゼもエイローズも次の王は?」
 二人とも否の態度をとる。
「そうだな。今年一杯が限度だろう」
 ジルドレはそう言う。そう言って足早に去って行った。詳しい返答を避けたのだ。
「ヴァン家の当主候補として第一位がキィ様との御噂が高いのですから、次の当主をお決めになれないのも当然なのでしょうね……」
 アイリスがもういないジルドレの方を向いて呟く。
「そうですわね」
 ヴァン家の当主候補は今のところ、ジルドレの息子であるティズとジルガラの子供であるミィとキィの双子。この三人の身がヴァン家の直系である当主候補だ。その中で優秀なのがキィである。しかし彼は神子でもある。神子としての務めを果たすなら候補はティズかミィになる。
 ジルドレとしても決めかねているのだろう。能力の優秀さならティズが勝るだろうが、いかんせん、彼は我が強く、権力に固執する傾向が在る。その面ミィは周囲に好かれる良い主になるが、短慮が過ぎる。
「その面、わたくしたちはもう当主です。次期を心配せずともよろしいかと」
「ええ」
 アイリスの返事にアーリアが微笑む。
「他家のことは嫌でも気になってしまう性質でして。ジルドレ様にもつつかれてしまいましたわね。その面ルイーゼは暗い部分がなくて羨ましいですわ。まさに聖女に相応しいアイリス様のおかげですわね」
 アイリスは力なく微笑み、謙遜しつつ、アーリアの前を辞す。アーリアはその後ろ姿を注意深く見詰めた。
「アーリア様?」
 アーリアの配下でエイローズの書記君(ラウダ)を務めた青年がアーリアに声を掛ける。アーリアは振り返って微笑んだ。唇を釣り上げたその姿は艶やかでありながら悪いことを考えていそうな顔でもある。
「さて、皆忘れているけれど、はたしてアイリス様は本当に聖女であらせられるのかしらね」
 アーリアはそのまま歩きだし、事情を呑み込めない書記君が慌てて後を追う。
「アーリア様?」
「ふふ。なんでもないわ」
 アーリアが当主になって、アーリアは現砂礫大君であるアルカン=エイローズに退位を勧めた。アルカンはその進めに従い、退位を表明し、表舞台に出てくることはめったになくなった。
 ジルドレは前大地大君であるルイーゼのグラファイ=ルイーゼが亡くなった前後に、体調不良の弟であるジルガラ=ヴァンの代わりに当主を勤め始めた。
 二家は一人がその権力を一手に担う形になって、互いにけん制し合っている。ルイーゼ家のみ、王を無くし、そのままの状態が続いている。アイリスは全大地大君のグラファイが亡くなる前から当主になっており、表面上問題なく当主を務め続けている。
 しかし。
 誰もが気付かない。誰もが忘れている。
 ――アイリス=ルイーゼが最年少で当主になってしばらくして、当時国権を担った大地大君であるグラファイ=ルイーゼが事故死したことを。
 権力を一手に担っているのは、ルイーゼ家も同じだ。
「つつけば何が出てくるかわからないのはどの家も同じことよ」
 アーリアはそう言って人知れず静かに笑った。

 王宮の執務室に戻ったジルドレは一息つきながら溜息をついた。
「ジルドレ様、お疲れ様です。当主会議でなにか?」
 付人が不安そうにお茶を差し出しながら問うた。
「神官長から連絡や占いはないか?」
「はい。ございません。予兆もないとの事ですが……」
「そうか」
 ジルドレはそう言って椅子に深く腰掛けた。鍵の掛かっている引き出しから黒い封書をとりだした。その中身をしばらく眺め、眉間に手を当てる。
「何故、他国の占い師が予言し、我が国の神官が見通せぬのか……。魔神様のお告げは一体我々にいつ降りるのだ?」
 その黒い封書はお世話になっている人間には有名すぎるものだ。闇の大陸に住んでいる『世界の中心に座す星占師』との異名を持つ、一度も占いを外さない占い師からの返答だ。
ドゥバドゥールは定期的に災厄が国に降りかからないか、かの占い師に占ってもらっている。国事を占うのに自国の神官では事足りないのは恥ずかしい限りだが、闇の大陸の占い師の腕が良すぎるという点もある。
 黒い封書は三部用意され、各王家の当主に届けられる。それによって大きなもめごとを近年は起こしていない。実績のある占い師だ。
 その占い師にジルドレは王として個人的に依頼をした。
 ――ドゥバドゥールの次期王はいつたつのか、と。
 その返答はこうだった。
『一人はすでに居る。二人目はすぐに。三人目も待たせることなく。三人の次期王は遅くとも今年中にそろう――』
「本当に?」
 ジルドレはそうして、背後にそろう大綱集の背表紙を見つめた。まぎれもない大綱集の写本である。
「決断せねばならぬ」
 今年中に王がそろうという予言。今年は残り半年しかない。そして、キィ、ミィの誕生月を再来月に控えている。
「神官長に命令を出せ。来月の吉日を選べとな」
 ジルドレはそう言って重い溜息と共に、立ち上がった。控えていた付人もその言葉ではっとする。
「では、ついに……」
 ジルドレは頷く。
「我ら神事を司ったヴァンに生まれし、使命よ。このままではなるまいて」
 ジルドレはそう言って窓際に立ち、神殿のある方角を眺めて言った。
「来月の吉日、キィを魔神への生贄として儀式を執り行うよう、命令を出す。時間を見繕ってキィにも会いに行かねばなるまいな」
「……! では、キィ様は……」
「当主の候補からは外す。次期ヴァンの当主は我が愚息のティズかミィになろうな」
 あまりにもどちらも心もとない。しかし、キィは神子なのだ。これ以外の選択はない。ジルドレとて苦渋の決断だ。
「それが神子に生まれたものの定めよ。キィも思えばこの時代に生まれついたのが……否、これこそが魔神様の思し召しと思わねば。神子を授けてくれたことこそ、我らヴァンの幸いと、な」
 本人の預かり知らない所で運命が一つ、一つと決まっていく――。

 ヴァン家のミィとキィの隠れ家にセーンが居ついてはや一週間が過ぎた。久々に湯あみも行え、衣服も改めたセーンはかなり小奇麗になり、年相応に見えた。血色も良くなっている。栄養状態が格段に良くなったのだ。
「次はこれ、これをお願い!」
 明るい声が響き、セーンが渋っている声もする。
「あら、元気そうね」
 ミィが楓に手を引かれて現れた。
「よーぅ、ミィ」
 セダが手を上げる。実はやる事がないセーンはここで砂岩加工に精を出していた。そこで暇つぶしを兼ねて、水の大陸御一行様に、お守り石を創っていたというころなのだ。
 ミィがやってきた時は光がセーンにもう一つお願いしているところだった。
「やあ、ミィ様」
 セーンが声を掛ける。
「ねぇ、同じ王家同士様付けはどうなの?」
 セーンが肩を竦める。
「そうは言っても、俺は一般市民と同じ立場だからな。どうしてもヴァン家の直系のあなたにはねー」
 敬語だってやっと取れてきたくらいなのだ。
「まぁいいけれど」
 ミィはそう言ってセーンが元気そうかを確認すると頷いて楓を見た。楓も頷いてミィの手をとった。ミィはこれでも直系の人間として仕事をたくさん抱えている。セーンに不自由を掛けていないかを確認しつつ、あいさつがてら様子を見ている。
 セダたちもいつまでも小屋に隠れているわけにはいかない。セーンと仲良くなった光と、目くらましを維持するためのリュミィを除いて、ヴァン家の屋敷に戻っている。他に一人か二人ずつ様子見に戻る位だ。
 セーンは久々に落ち着けたらしく、深く眠れたと言っていた。食事もまともなものに在りつけたのは久々だと言っている位で、いつもどんな生活をしていたのかとこちらが心配してしまったほどだ。
「じゃ、またね」
 ミィはそう言って屋敷に帰っていった。セーンはその背を見つめ、少し考えている風だった。

 その晩、セーンはなかなか寝付けなかった。下の階では光とリュミィが健やかな寝息を立てているはずだ。小さな窓から仄かな赤い月明かりが漏れている。今は陰の炎月ゆえに、夜にぼぉっと赤い月が浮かんでいる。
 この世界には六種類の月が約三十日ほどの周期で巡る。各魔神が守護する月が代わる代わる夜空を照らし、その月が出ている間を陽歴(ようれき)と言う。陽歴は昼間に月が出ている暦。三十日ほどで一つの月が満ち欠けを行い、次の月が顔を出す。
 陽歴の光月が朝日と共に出始めると新年とする。光月、闇月、風月、土月、水月、火月で六カ月だ。それぞれ光月が白、闇が光を放つ不思議なうす暗い黒い色、風が緑、土が黄色、水が青、火が赤い光を放つ月だ。
 陽歴が終わると、暦は陰暦(いんれき)に替わる。陰暦は夜に月が満ち欠けを繰り返しながら出ている期間だ。陰暦は陽歴と逆の順番でそれぞれの月が姿を現す。
 つまり、一年は陽歴の光月から始まり、闇、風、土、水、火となり、陰暦に変わって火月、水、風、土、闇、光月で一年が終了する。一月は月が朔日から満月へと至り、再び朔日までの一周を一月とする。
 魔神が守護する大陸に生まれたことが魔神からの祝福となり、そのエレメントの主色と従属色の髪や瞳の色を持つ場合が多いが、それ以外にも生まれた時期、どの月が出ている時期に生まれたかによっても作用すると言われている。
 セーンが生まれたのは陰の風月だから緑の目を持っているということもある。
 その夜闇にうす暗く光る赤い月は妙に心をざわつかせた。
「……」
 セーンは己の胸元を抑えて考えている。
 そこに窓から届く月明かりがふっと途切れた。雲が隠したかとセーンが視線を上げると、そこには人影が映っている。
「っ!!?」
 驚いて窓から身を離すが、そこから覗いた顔を見て、セーンは安心して窓を開け放った。
「テルル!」
「よ!」
 軽い挨拶と共に身軽な動作で入って来たのはセーンと同い年くらいの少女にしか見えない。金髪は赤い月光を跳ね返してわずかに赤く見える。淡い光の中で紫色の眼が悪戯に笑っていた。
「いやさ、お前がエイローズに捕まったって聞いたから心配してたんだけどな。まさかヴァンに匿われているとは」
 セーンはテルルが入室したので窓を素早く閉めた。ここは二階だとか、どこからその情報をとかそういう事はこのテルルの前では問題外だ。
「いや、こっちも成り行きで。エイローズから助けてくれたのがミィ様でさ」
「よかったな。王家では一番と言っていいほど、裏表のない御仁だぞ」
 テルルはそう言って笑う。
「で? お前どうするつもり? いつまでもここで匿われているわけにはいかねーだろ」
「迎えにきてくれたの?」
 テルルは答えずに笑っている。
「……なんだ? 言ってみな。お前の親友にしてこのお兄さんに」
 テルルのこういう態度に何度救われてきたことか。十四で王紋が出現し、十五を数える前から逃亡生活を始めた。この二、三年は両親には一度も会っていない。サルンの山並みや村が懐かしかった。
「悩んでいるんだ。王として立つべきか」
 テルルは驚いた顔をする。今までわけもわからず逃げてきたセーンが、逃げるかこのままヴァン家で匿われるかで悩んでいるのではなく、物事の根本で悩んでいるとは。
 だが、テルルも考え直す。もともとこういう実直で素直な性格のセーンだ。王紋が出た瞬間から考えないように、テルルや両親が逸らし続けてきたから逃げていたともいえる。王と言うことに向き合ってみたのだろう。
「俺が王になって、何が一番問題だろう。俺を殺そうとする相手は何を思って俺を狙うのか。テルルと別れて考えていた」
 セーンとテルルは襲撃にあってから半年は一緒に逃亡生活を続けていた。それはセーンに逃げ方と変装の仕方を教える為だ。簡単な護身術も半年でセーンに叩き込んだ。その後テルルはセーンに変装し、少しでもセーンの危機を減らすよう、二手に別れて暮らしていた。
 穏やかな争いから最も遠い場所で育った少年にとって、身を偽り、人をだまし、隠れて生活する事は苦労よりも苦痛の方があっただろう。自分のせいで祖父と慕った人物が殺害され、両親は危機にさらされている。なによりも自分の命が狙われている。
 それなのに、彼はちゃんと真っ直ぐなままだ。運命を恨まず、憎まず、前に進む事を考えている。
「で? 答えは出たのか?」
 テルルの問いかけにセーンは首を横に振るのみだ。
「わからない。情報がなさ過ぎて。俺は何も知らないうちに村を出て逃げたから」
 セーンの顔が月明かりに照らされたまま、真剣味を帯びている。
「まだ時間があるだろ。悩めばいいじゃねーか」
「そういうわけにもいかないんだよなぁ……」
 セーンが呟いた。その声があまりにも真面目だったので、テルルは意外に思った。
「どうした? お前」
「うん。ここまでやっかいになっているのに、ミィ様に何も返すことができないのがちょっとね」
「どういう事情?」
 テルルの問いに答えようとした時、扉をノックする音がした。
「セーン? どうかした?」
 扉の外から聞こえる声は幼い女の子、光のセーンを案ずる声だ。夜中に声が聞こえるから目覚めてしまったのだろうか。セーンがびくっとして扉の方を振り返る。
「あ、光!」
 セーンが慌てるのに対するし、テルルは余裕で笑いながら扉の方を見ている。
「どうしたの? 声がしたけど。開けるよ?」
「あ、ちょっ……!!」
 がちゃり、と扉が開かれる。光の背後にはリュミィもいた。リュミィはほっと一息つく。
「ティーニさん? こんな晩にいかがなさいましたの?」
 セーンが振り返るとそこにはテルルの可憐な少女の姿はない。ミィの付人であるティーニの姿になっていた。さすが千変との名が付くだけあって早技の変身だった。少し驚いたものの知っていたから、セーンも隠れてほっと溜息をついた。
「……違う。あなた、誰?」
 光はテルルを見て、疑わしそうに尋ねた。
「え?」
 光に向かって困惑な表情をするテルル。テルルの変身を見破った人物はいないからだ。
「あなたティーニさんと魂の形が違う。あなた、誰なの?」
「そういえば、こんな真夜中に楓を伴わないであなただけでいらっしゃることもおかしいですわ」
 リュミィが警戒して光を庇うように前に出た。
「あ、違うんだ! 彼は俺の知り合いで!!」
 セーンが慌ててテルルの前に出る。
「どういうことですの?」
「テルルは俺を心配して来てくれたんだ」
「テルル? あなたを助けたと言う世界傭兵ですの? まさか?」
 セーンの言い分にリュミィが怪訝そうな顔を向ける。
「はーん。その子は魂見が出来る宝人か」
 テルルがそう言ってゆっくり立ち上がるとそのまま皆から背を向ける。
「じゃ、ばれちゃうのも無理ないな」
 そういって振り返った瞬間、テルルの姿はもとの可憐な少女に戻っていた。そのあまりの変わり身の早さと見事さに光とリュミィが驚いてぽかんとしている。
「くしし、これだから変装は止められないな」
 少女は朗らかに笑う。
「驚かせたね、お譲さん方。俺はテルル=ドゥペー。趣味は変装の18歳乙女でっす! お仕事は世界傭兵、よろしく!」
 ブイサインと共に自己紹介するテルル。あまりの軽さに二人とも呆気にとられており、セーンは慣れているのか軽く苦笑している。そして軽く突っ込んだ。
「誰が18歳乙女だよ。大うそつき」
「おいおい、世界傭兵千変様だよ? 個人情報はシークレットに決まっているでしょう!」
「はいはい」
 そのやり取りに光の笑い声が弾ける。そしてリュミィもくすくすと笑う。
「信じるよ。あなた魂がきれい」
 光が笑いながら部屋に入ってくる。リュミィも安心したようだ。
「ちょっとやっかいになるよ。これでもセーンは俺の命の恩人かつ親友だからさー。心配でね、様子見」
 手を上げながら言うテルルはあっけらかんとした様子で逃げも隠れもしない。
「っつーわけで俺もしばらくここでやっかいになっていいかな?」
「はぁ……わたくし共は構いませんが、一応ミィに確認いたしませんと。明日をお待ちいただけます?」
「うんうん。こちらもこんな夜分にごめんねー。いや、俺も逃げている身だからね。夜中しか移動ができないわけで。迷惑掛けたね」
 テルルは始終笑顔のままセーンに視線を送った。セーンはリュミィと光に頭を下げた。
「わかりましたわ。では」
 二人はそう言って静かに扉を閉める。セーンは肩の力を抜いた。
「よくそううまく事を運ばせるな」
 テルルはセーンに言われて笑う。
「お前とは人生経験が違いますから」
「はいはい」
 テルルはうーんと伸びをするとセーンの横に寝転がった。
「ま、俺も疲れているし。今日はもう寝ようぜ。お前も寝れる時に寝ておけ」
「ああ」
 セーンも頷いて横になった。ただ眼を閉じても、一つの悩みが尽きない。
 ――王になるべきか、という物事の根本への答えを。