モグトワールの遺跡 022

085

 翌朝、リリィに起こされるまでアーリアは寝入っていた。表で顔を洗っていらっしゃいと言われ、枕もとに顔を洗う侍女が立っている生活を思い出して笑ってしまう。
 リリィはすでに台所に立っていた。その片隅、テーブルの端っこで椅子に座ったまま毛布を巻きつけてセーンが寝ていた。顔を洗い終えてリリィの元に戻る。
「寝起きの顔は殿方には見せたくないものでしょう?」
 お茶目に笑ったリリィはそのあとで、セーンを起こしにかかっていた。目をこすりながら覚醒したセーンは毛布を落としながら体全体を伸ばし、あくびをひとつ。
「あ、おはよう! アーリア」
「おはようございます」
「おはよう、母さん」
 セーンは元気よく挨拶すると、表に出て行った、顔を洗うのだろう。と思ったらすぐに扉が開いてセーンが顔を出した。アーリアを手招きする。
「じゃ、行ってきます」
「はい、いってらっしゃい」
 セーンは元気よくそういう。アーリアは手を引かれたまま、小屋を後にした。
 身支度をする暇さえなかった。恥ずかしい気持ちと、自分がどう見られているかの不安があって、まともにセーンの顔を見ることができなかった。
 セーンはそんなささやかな女心の機微など気づくこともない。手を引いて小高い丘の方へアーリアを連れていく。、朝がやってきてわくわくしている気持ちがすべてのようだった。
「今から羊を起こすから。でも、それには相棒が必要なんだ」
 セーンはそう言って、指を口にくわえた。刹那、甲高い音が響き渡る。その音に驚いてアーリアが目を見開く。その様子を見てセーンは笑った。
「指笛。知らない?」
 セーンが吹き方を教えてくれたが、アーリアには空気の抜ける音がするだけだった。セーンがもう一度高らかな音で指笛を吹く。すると身軽な足音ともに黒い中型犬が三匹駆け寄ってくるのが見えた。
「きゃ!」
 犬は確かに知っているし、屋敷では番犬として飼われているがアーリアの目の前などに現れたことはない。アーリアに万が一のことがあっては困るからと近寄らせてもくれなかった。
「あれ? 犬も初めて?」
 セーンは座り込んで犬の首に両腕を回し、抱きしめながら頬ずりして撫でまわす。犬もセーンを知っているようではっはっと短い呼吸の間に舌を出してセーンとじゃれていた。
「よくそんなことができますわね」
 犬が初めてなので恐怖心が勝り、アーリアは近くに寄ることをためらう。
「昔からの友達。家族と言ってもいいかな。こいつが、ビー。こいつがルー。で、こいつがユー」
 三匹を示しながらセーンが三匹を平等に撫でた。
「犬は賢いんだ。ちゃんと離れていても俺のことを覚えている」
 セーンはそういうと、違う指の咥え方をした。すると違う音が響いた。アーリアがその音に驚くのと同時に犬たちが瞬時に反応し、丘を駆け上がっていく。セーンは長い棒を構えて犬を追いかけるように歩き始めた。
「さ、行こう」
 セーンはそう言って丘を登り、丘の中腹でアーリアの脛のあたりまであるの柵の一部を外した。するとアーリアから見れば小汚いとしか思えない白い色をした毛玉の塊、に見える羊が放たれる。
「これが、羊ですか?」
「そう。もうちょっとしたら毛を刈る。その毛がこういった布になる。服とか毛布とかになる」
「こんな汚い毛で、つくられているのですか?」
セーンは驚いているアーリアに笑うが、一瞬眉をひそめた。
「その、敬語やめない? 友達として連れてきたんだから。友達同士は敬語なんか使わないもんだよ」
「そうですか? あ、でも……わたくしこの話し方しか、存知あげませんの」
 アーリアが戸惑いながら言うとセーンは残念そうに肩を竦めるにとどめてくれた。
 その後、セーンは様々なことを説明しながら、次々と飼っている動物の世話を続ける。アーリアは後ろで見ているだけだったが、初めて見るものばかりで、驚きの連続だった。
 セーンはアーリアをよく見ていて、できそうなことや興味を示したことは試しにやらせてくれた。
 セーンの行うことはいわば、すべて始まりなのだ。アーリアが普段目にし、身につけるものはすべて最後のもの。洋服の始まりである布の最初である毛を扱う羊に始まり、料理で使用される乳や肉の始まりである飼育。つまり酪農だ。
 アーリアは知識として知っていると思い込んでいたことがこんなに大変で、たくさんのことをしないと手に入らないというのをはじめて実感できた。
 セーンは汚いことも、疲れることも、なんでも笑顔でこなす。これが毎日やっていたのだというから驚きだ。感心する。
 たとえば、アーリアならよだれを垂らす動物に近寄ることさえ遠慮したい。動物が食べる草を集めたり、動物を洗ってあげたり、そんな作業は手が進まない。
「慣れだよ。慣れ。生まれたときから当たり前にやっているからな、嫌って思わないのかな」
 それはアーリアが生まれた時から他人の表情を見て、相手の思考の先を行くようにしたり礼儀作法に気をつけたりそういうことなのだろう。だが、セーンは楽しそうだし、苦痛に感じてもいないようだ。
「あとは、そうだな。これをしないと食べていけない、生きていけないって知っているからかな?」
 アーリアが多少礼儀をわきまえなくとも、他人の目を気にしなくとも問題なくとも、セーンは動物の世話を怠れば動物の調子が悪くなり、生活できなくなる。
「それに結構成果が見えるしね。動物は想いをこめれば、それだけ動物も思ってくれる。これは、農業も一緒じゃないかな? 毎日天候をみて、育てるものを見て、調子を見て、それで世話をする。そうすると一年の終わりには確かに成果がある。そりゃない時もあるし、うまくいかない時もあってつらいときもある。でもさ、これをして誰かが食べておいしいって言ってくれたり、自分がおいしいって感じたりしたらそれは最高なんじゃない?」
 セーンはそう言った。朝起きてから朝食も食べずにこんなに歩き回ったのは初めてだ。
「お腹空いたでしょ? これで朝の仕事は一区切り。朝ごはんたべようか」
 セーンは手をきれいに洗うと、そう言って小屋の中に入って言った。同じように別の作業を終えたディーがリリィとともに待っていた。リリィは狭い家の台所で湯気を立てながら何かを作って待っていてくれたようだ。
「おかえり」
「おかえり、御苦労さま」
「ただいま」
 このやり取り。アーリアが物語の中だけのものだと思っていた暖かなもの。それを自分にも分けられていて、自分もそのあたたかなやり取りの中に入れて。胸が詰まるようだ。
 どう言ったらいいかわからない感情に支配されていて、アーリアは返事をするのでやっと。
「俺のことちゃんとみんな覚えていたよ。うれしかったなぁ」
「そうか。セーンがちゃんと毎日世話していたからだなぁ」
 ディーが笑う。セーンも笑っている。だが、ふと思う。セーンはこうやって動物の世話をしながら暖かな家庭で笑顔を見せるのはこれがきっと最後だ。
 セーンは王に選ばれたのだから。
 せっかく動物が覚えていても、その動物たちとあのように触れ合う機会はないだろう。
 アーリアが客人として初めて動物に触れ、たった一回の貴重な経験をするのと同時に、セーンは久しく会う動物たちとたったの一回の逢瀬で別れを告げなくてはならない。
 アーリアをもてなしてくれる。その貴重な短い時間は、同時にセーンが故郷に別れを告げる時間でもあるのだ。
「お口にあうといいのだけれど」
 リリィがほほ笑みながらアーリアからすれば質素としか言いようのないささやかな朝食を出す。
「いただきます」
 パンもかごにあふれているわけじゃない。スープだって高級な材料をふんだんに使い、一流の料理人が作っているわけじゃない。でも、おいしいと思った。
 毒味を終え、食事を共にする者もおらず、冷めた料理がテーブルいっぱいに並ぶだけ並んで、好きな物を好きなだけ食べて終わる。アーリアにとって食事とはそういうもので、食べなければ死ぬから口にするにすぎない。
 ここは違う。セーンは家族が集い、笑いと暖かな団らんの中でパンひとかけらと出汁しかないようなスープだけの食事をあたたかうちに食べる。セーンはこういう環境で育った。
 今はうらやましいと感じる。こんな環境で育ったら自分も違うだろうと思う。でも、毎日この生活に耐えられるかと言われれば、首をかしげる。所詮、自分とセーンは違うのだと実感してしまう。
 セーンたちが穏やかに話すのに耳を傾けているだけだが、アーリアは満足した気分になった。
「アーリア、これからどうする? 村に行ってみようか? それとも丘に行ってみる?」
どうやら夕方まで時間があるらしい。
「わたくしではわかりませんわ。お任せします」
「うん」
 セーンはそう言ってアーリアを促して立ち上がる。アーリアは付いて行くに留めた。
 セーンは村のあちらこちらを案内し、さまざまな発見と驚きをアーリアに提供した。セーンの昔からの友達にも会ったし、その友達どうしてささやかな遊びもした。
 アーリアは一生分走ったのではないかとさえ思うほど体を動かした。
「ちょっと疲れたね。休憩しよっか」
 セーンはそう言って村から離れて羊を放牧している丘に向かう。休憩と言う割には結構上った。アーリアが疲れたと言おうとした頃に、やっとセーンが振り返った。
「ごめんね、実はこの景色を見ておきたくって」
 セーンがそう言って振り返る。アーリアも振り返った。羊の群れは視界の下の方で広がっている。それよりも、丘の上からでは村の様子を見渡すことができた。
 セーン達の小屋は村から少し外れた場所にあることもやっとわかったし、先ほど村人とあった場所も、セーンが案内してくれたさまざまな場所がすべて視界に納めることができるのだから。
「これから、どうするのです?」
「これから? 日があれくらいに傾いたら動物の世話だけど……」
「いいえ。わたくしを連れてきてくれて本当にうれしい。いい気晴らしになりました。初めてのこともたくさんできました。でも、あなたはもうここには戻ってこれないのでしょう。あの小屋はどうしたのです? あなたの家はあの時燃えたはずでしょう?」
 セーンはアーリアの問いかけを受けてさみしそうに微笑んだ。そしてその場に腰を下ろす。アーリアも倣って隣に腰を落ち着けた。
「そうだね。アーリアには俺の気持ちを伝えておかないといけない。そう思って誘ったのも本当なんだ。エイローズのお屋敷だと緊張してうまく伝えられない気もしたしね」
 セーンは遠くを眺めている。見納めとなる景色を切なそうに。
「俺は王に選ばれた。だから、この命が尽きるまで俺はドゥバドゥールのもの。ドゥバドゥールの民のものだ。だから、そう、この景色は今日で見納めだね。俺がこの地に戻ることはきっとないんだろうね。……家はどうしたかって聞いたね。あの家は第二の家っていうとおかしいかな。もともと父さんが、大綱集を隠していた場所なんだ。名義は他人の、村人のものだけど父さんが借り受けていたもの。大綱集は神殿に戻したから、その役目を終えたんだ。で、父さんと母さんが住むことにしたんだよ」
 大綱集のための目くらましの家を造っていたとは、ディーは相当警戒していたんだろう。
「え? 住むって……」
「そうだよ。父さんと母さんはここに戻るんだ。王宮の仕事には復帰しない。二人は王位継承権も放棄しているからね。復帰するには王族の支援の下、国家資格を取得し直しからだからね。面倒なんじゃないかな。元々王宮の暮らしが好きではなかったらしいから」
 セーンが淡々と語る。アーリアは思わずセーンを見た。
「そんな……。そんなことどうとでもなります。お二人とも優秀な方なのに」
 そして口先まで出かかった言葉がある。では、彼は独りなのだ。敵しかいないような王宮で王として一人で戦わなければならないのだ。両親と気軽に会えることもできず、友人もおらず、心休まる場所もなく。
「俺が王だからといって二人がついてくる必要はないよ。俺はもう、王なのだから」
 自分から逃げ道を絶った、ということなのだろう。
「それがあなたがわたくしに伝えたかった覚悟?」
 確かに一般人だったセーンが両親と離れ、敵中に一人で挑む覚悟なのは立派だ。しかし一人で今までエイローズを治め、闘ってきたアーリアにすれば今更といえる覚悟だ。
「君とって俺の覚悟なんて鼻で笑えるものだろう?」
 セーンが笑う。自覚があったことだけでもアーリアからすれば驚きだ。
「うん、わかっている。俺の世界はまだまだ狭い。一人で戦ってきた君にはかなわない面もたくさんあると思うよ。だけどね、俺は王だから。それもエイローズの王」
「?」
「そう。君と俺は特別な関係だ。君と俺が協力しないとね。過去の過ちを犯すのは一番愚かなことだ。だけどなれ合いもいけない。君と俺はつかず離れず、いい距離を取って付き合う必要があるだろう」
 ルイーゼ家は王と当主の不仲が原因で、それを組織に付け込まれた結果が今回につながっている。ゆえに、アーリアと仲良くしたいということなのだろう。
 だが、エイローズはそういう家ではない。エイローズの当主には大君でさえ従う、絶対的な君主。それがエイローズ。そのしきたりがエイローズ内部での争いを退けた。
「それは、わたくしには例えエイローズの王でも従わないということですの?」
「そうとっても構わないよ」
 セーンは笑いながらそう言う。
「君は、エイローズの頂点、それも血の上に立っている」
 アーリアは黙り込んだ。それが、事実だからだ。エイローズは当主が圧倒的な上位に立つ家柄。そして大きな当主争いもせずに絶対的な当主が立つ家。それが軍事力を誇り、力で成り上がったエイローズ。
 実際のところ、当主候補は複数存在する。十歳に至るまでに周囲の大人たちからありとあらゆる面で当主候補は査定されている。そして当主候補たるもの、他者に負けることはすなわち、死を意味する。
 それは、アーリアは少なからず自らの手を汚すことはなくとも、他者の命を確実に摘み取ったということ。セーンはそれを知っている。
 だから、なんだというの。今までのわたくしの行為を断じたとて、わたくしの何も傷つけられやしない。
「何が言いたいのです?」
「誤解させた? 君のこれまでを否定したつもりはない。君の行為によってエイローズは今まで平穏を築いたのだからね。だが、王が部下の機嫌を伺うようなことはあってはならない。絶対的な支配を良しとはしない。エイローズはこれまで二つある頂点のうち、優勢を当主においた。でも、俺はそれに従うつもりはない」
 アーリアは鼻でセーンを笑う。
「さすが、陛下。やる気がみなぎっていらっしゃるのね。ご自分で決められたいなら、わたくしたちはそれに従いますわ。何もあなたを傀儡のように扱って今までもエイローズが栄えたわけではないのだから」
 肩をすくめて言うアーリアにセーンはその肩をつかんで、セーンの方に向き直らせる。
「俺だって子供な気持ちで王になるつもりじゃない。勘違いするな! 責任を当主だけに負わせるような真似はしない! 俺が言いたいのは自分で決めることができなくなるような、己で責任が取れないようなそんな真似をするつもりはないってことだ」
 セーンはまっすぐアーリアを見つめてそう言いきった。アーリアは驚いた。
 この国は王が三人存在する。それだけで権力が三つに分かれることとなり、命令系統も三つになる。意見が分かれれば統一は難しい。
 だが、その頂点の下にはそれぞれの支配力の高い権力が存在し、それとは異なる王家が連なる。うまく権力を動かすためには、自身の連なる王家の人員をうまく動かさねば成り立たない。
 そのためにその王家をまとめあげるのが当主。その当主を使って国を動かすのが王だ。
 エイローズでは自我の強いエイローズの民をまとめあげる当主こそがエイローズを把握し、ぱっと出のエイローズの”誰か”がなる王ではエイローズをまとめられないと悟ったのだ。
 ゆえに王より当主の力の方が強い権力関係で今まで平穏を築いた。エイローズで王が当主より権力を持ったのは王と当主が重なった時――初代のみ。
「それでうまく回ると思うのですか?」
「できないと思うの?」
 セーンが逆に問いかけたきた。そして笑う。
「逆に訊くけど、できないと本当に思うの? ここで新しいことを始められないと思うの? 俺と、万能で有能な”君”とで」
「っ!!」
 アーリアは思わず吐き出そうとした言葉を飲み込む。ここで言い返してはいけない。こんなやすやすと乗せられるような言葉運びなどに惑わされては。私が背負うのはすべてのエイローズの民なのだから。
「俺だけならできないかも。でもさ、俺には君がいる。有能なるエイローズのみんながいるじゃないか! なら、このドゥバドゥールのすべて、この国を俺が背負うのは不可能じゃないだろう?」
「ドゥバ、ドゥール? わたくしとあなたで?」
「そうさ。俺はエイローズで選ばれたこの国を背負う王なのだから当たり前だろう?」
 自分が一番に考えるのはエイローズだ。しかし、彼はドゥバドゥールを背負うという。
 当たり前だ。彼はこの国の王に魔神によって選ばれたのだから。その覚悟を負っている、そのことは認めなければ。
 彼は王の器であることは、アーリアには敵わなかったと認めなくてはならない。
「うまい言葉ですこと。それで? わたくしに頷けと仰るの?」
 セーンについていってしまいたいと思うのは、彼が魔神に選ばれた存在だからか。いや、そうじゃない。彼が、彼だからだろう。魂では理解してしまっている。
「別に。いいよ。行動で示そう。俺の決意を伝えとこうと思っただけだからね」
 肩をすくめたのは今度はセーンの方だった。アーリアに賛同してもらえず残念そうだったが、その顔には決意をみなぎらせた視線が、確かにあった。
 頭ではわかっているのに、セーンに賛同できないアーリアはそのセーンの顔をなぜか残念に思ってしまう。セーンにゆだね、自分は彼を支えることができたら。二人でよりよくできたらどんなにいいか。
 頭ではこんなにもわかっているというのに。気持ちがついていかない。
「ずるいわ」
「え?」
「あなたは、ずるい。わたくしが努力して血に明け暮れた上に成り立っているのに、それすらも超越してあなたは光かがやくの。そんな眩しさでは、わたくしはずっとあなたに手が届くはずもないの。……こんなことをせずとも命令すればいいのです。従えと。あなたなら間違ったことは起こさないと、わたくしだって理解はできているのですから」
 アーリアはセーンの隣から立ち上がってセーンの正面に立つ。そして頭を垂れて、跪いた。
「わたくしたちエイローズのすべては陛下の御為に」
 理解できている。彼はきっと良い王になる。エイローズを超え、ドゥバドゥールをこの、土の大陸をよい方に導く王になる。わかっている。
 だけど、頷けない。頷くには自分が過去に行った道はあまりにも暗い。彼の手を取ることは、己が彼の影になることは目に見えている。
 そんなのは耐えられない。今までの自分の行いと努力がすべて彼のために用意されたような結果に終わっては、自分が悲しい。
 頭では理解できているし、彼のためになることはうれしい自分がいるのも事実なのに。国と民のためになるとわかっているのに。
「そんなことを俺は望んではいない!!」
 セーンが怒鳴った。彼はまだ若い。彼はまだ国を、民を統治するその経験がない。だから、そんなことがいえるのだ。
 いずれはセーンがアーリアも認める賢帝になったのならば、頭を下げられることをすべてを捧げられることに慣れるはずだ。
「それが王のお役目です」
 セーンは跪くアーリアの両腕をとった。そして無理やり立たせる。アーリアの顔をのぞき込み、アーリアの目をのぞいて、視線を無理にでも合わせた。
「違う。俺は君と一緒に歩んでいきたいんだ! 君と、エイローズの民と、この国を治める。そのためには君が必要だなんだよ。アーリア! 君がいなくては。すべてを捧げてもらっても困る。俺は……」
 セーンが必死に言う。今までアーリアにこんな怒鳴り、激しく真剣にものを言った人がいただろうか。アーリアの世界には本音を隠し、言葉巧みに相手を翻弄して、自分の利に運ぼうとする攻防しかなかったのに。
「甘いかもしれない。無理かもしれない。馬鹿なことかもしれない。だけど、俺はみんなと一緒に、みんなの為に同じ場所で、同じ目線で物事を決めたい。俺の足りない部分は君に支えてほしい。いや、君だけじゃない。みんなに。エイローズから、すべてを変えるつもりでいたい。だから、君の理解と協力は絶対なんだ」
「甘い。そんなこと無理に決まっています。この前みたいに、すべてが歌で解決するわけないではありませんの。貴方は国民の人気がいま高い。期待度も高い。でも、それはしばらくして貴方が無能とわかれば簡単に離れていくもの。国を治めるということはそんなに簡単に仲良しこよしではできないのです。貴方だって頭では理解できていることでしょう」
「そうさ。わかっている」
「なら、そんなきれいごとでエイローズを傾かせることはできない。わたくしは当主なのだから。一番にエイローズを考える必要があるのですから」
 セーンはアーリアが言う常識に、こう返した。
「君こそわかっているだろう。これが理想だと。だけど、理想がなくちゃそういう風には変えられない。俺は困っている人がいたらみんなが手を差し伸べられるような国をつくる。そのためには治める人間が敵対していては話にならない。一方的に従うのもだめだ」
 セーンは目を輝かせて言った。
「わかるか? 俺の理想だ。俺の気持ちだよ。そして俺の決意だ。アーリア、一緒にそういう国をつくらないか? 自分たちの子供を育てるかのように、一緒に国を育てないか?」
 セーンはそう言ってアーリアに手を差し出した。
「ドゥバドゥールを支えるためにわたくしたちエイローズを使うのでは?」
「使うんじゃない。協力してもらうんだ。ひいてはエイローズのためになる」
 アーリアの心はほぼ傾いている。だが心のどこかでかたくなに頷きたくない自分がいる。その手を取ってしまえばいいだけの話だと理解しているのに。
「あなたはドゥバドゥールの王。だからドゥバドゥールのためと私を誘う。では、わたくしはエイローズのためにあなたを利用する。それでもよろしくて?」
 手をひっこめることはせず、セーンは意外そうに何回か瞬きをした。
「いいけど……俺に何をしろと?」
 アーリアはくすりと笑った。
「私的なあなたをすべていただけます?」
「?」
 セーンが何を言っているかわからない様子でアーリアを見返した。
「あなたはこの国の王になる。あなたのその身はもう国のもの。あなたはそうあろうとするでしょう。それで構わない。でもあなたは人間ですわ。半分が魔神に選ばれていても人間。ならば、ひとりで生きるのはつらいでしょう? わたくしが今までそうだったように。寄り添う人が必要では?」
「え、え? あ、あの? アーリア?」
 セーンがアーリアの言わんとしていることを理解し始め、目を見開いている。その様子を見てアーリアはようやく肩の力を抜いた。くすりと笑う。
 そうだ。彼をもらおう。今まで恋い焦がれるようにその光にあこがれてうらやんで、そして希望に、自分の生きる糧にしてきた。ならほんの少し。彼の少しの気持ちを自分に分けてもらえたら。
 彼の光のほんの一部を自分だけに当ててもらえたら。そしたら、自分のこれまでも、これからも少しは報われるのではないだろうか。
「わかりづらくていらっしゃる? なら、わかりやすく言いなおしましょうか。わたくしと婚約してくださいな。わたくしに次のエイローズを担う子を授けて下さいな。エイローズから出たエイローズの王よ」
 自分がこれまでしてきたこと、生きてきた道。それは胸を張れるものだ。だが堂々と自慢できるようなものでもない。
 セーンは違う。アーリアに語った理想を実現しようと光を纏って歩むだろう。自分はそんな彼を支えるために陰に徹することになるだろう。その生き方が嫌だとは思わない。
 それでも彼が対等にともに歩むといってくれるなら、その保証がアーリアは欲しい。
「お、俺を?!!」
 セーンが急激に自覚したのか、ほほを赤く染めてアーリアの視線を受け止めきれず目をそらした。その行動が年相応でアーリアはかわいいと感じてしまった。
「そうですわね。公的に妻にしていただかなくても構いませんわ。わたくしにはわたくしの、貴方には王という立場がありますもの。夫婦だと変な意味で共謀していると勘繰られやすいでしょうから。もしかするとお互いの立場で将来別の伴侶を持つ必要も出てくるでしょうし。正妻になりたいと申し上げているわけではございません」
「じゃ、どういう意味?」
「わたくし自分が認めた殿方との間に子が欲しいとずっと思っていましたの。確かに直系の血を残すことは大事ですからある程度覚悟はしていたつもりです。でも、婚約することで己の立場を弱くすることは耐えられません。その点、貴方は血統が低いとはいえ、魔神が選んだエイローズの王。直系の血ならそれで十分でしょう」
「違う! そうじゃなくて、アーリア様は俺のこと愛しているのか?」
 なんてうぶなのだろうか。王族同士の婚約で恋愛感情なんか存在すると思っているとは。
「愛、とは少し違うかもしれませんけれど、特別には思っていますのよ、これでも。でも、御安心なさって。貴方がわたくしを好きだとは思っていないことは存じ上げております。だからこそ、利害の一致というもので……」
「だめだよ。そうやって自分をもののように扱っちゃいけない。君が傷つく」
 セーンは逸らしていた目をまっすぐアーリアの方に戻してそう言った。
「ふふふ。まったくおとぎ話の王子様のようなことをおっしゃいますこと」
 アーリアはほほ笑む。そうだ、そういうまっすぐな所が好き。彼のそういうところが好ましいのだ。
「ふざけないでくれよ、俺はまじめだよ!」
「ええ。そうでしょう。それで、返答は? まぁ王であるならお答えは一つしかないのですけれど」
 そうやって逃げ道を断つのは常とう手段だ。話をそらせたと思ったなら甘いというもの。
セーンはおろした手を再びアーリアの方に差し出した。
「俺だって男だ。そんな秤に掛けられたくらいで君を選ぶと思われているなら、それこそ俺を馬鹿にしているよ。俺は最初に言ったはずだ。君に選んでほしいと。命令ではなく、対等でいるために。エイローズの当主であり、いままで努力してきた女傑であり、幼い友情を結んだアーリア=エイローズ、君に選んでほしいと」
「わたくしが?」
「そう。君が。アーリア=エイローズというすべてを抱えた君が選ぶ答えが俺は欲しい。君のお眼鏡にかなうのか、俺の未来が君の期待値に沿うか。君はこの俺の手を取るかは君が決めてほしい。なんだかんだ言って君は俺に本音を明かしてないのはわかっている」
 互いに手を差し出しても、相手に先に手を伸ばさせようとしている。そのまま二人はにらみ合った。求婚をした、された関係性とは思えない。
 セーンはため息をついた。アーリアが折れないとわかったようだ。アーリアも素直にはなれない。
「わかった。証を示そう。ちょっと手を拝借」
 セーンはさっとアーリアの手を取ると、確認するようにアーリアの指をなでた。アーリアは不思議そうにそれを見る。セーンは頷いた。
「うん。これなら用意していたので大丈夫そう。ちょっと、って言うには待たせるかも。座って」
 セーンはそう言ってアーリアを座らせると懐から穴のあいた石を取りだした。それは? とアーリアがきく前にセーンはどこに入れていた? と聞くような道具をいくつも広げ、石を加工し始めた。それは素早くそれでいて鮮やかな手つきで、洗練されていた。
 普通石を削るとなればどのくらいの時間がかかるか分からないが、アーリアが驚きながら見つめている間にセーンは穴のあいた石をリングに仕上げた。
 その形を見てアーリアは先ほどの行動から指輪を作っていたのだとようやく理解した。だが、なぜ指輪?
 粗方、削る作業が終わったのだろう。セーンはその後、口を開いた。透き通った声が谷間に響き渡る。
「っ!」
 アーリアは思わず息をのんだ。セーンの歌を聴いたのはこれで二度目だが、間近でこの歌は正直、反則だと思う。
 その歌に歌詞はない。リズムを取っているだけのようなのに、確かに込められた音色が気持ちを乗せて、石にその形を伝えていく。
 ただの石だったはずなのに、いつの間にか荒い部分がとれ、なめらかな表面を現した。歌が続けられる間に、光沢をもち、そして不思議な色合いを映し出している。砂岩独特の光沢と表面。
 彼は砂岩加工師を志していたのだった。アーリアは圧倒的な歌で忘れていたが、彼はおもむろに歌いだしたのではない。はじめから砂岩製の指輪を作る気だったのだ。――だが、何のために?
「さて、こんなものだと思うんだけど」
 セーンの歌が止んでいる。知らない間に立派な砂岩の指輪ができていた。それはアーリアを現すかのようにエイローズを示す、美しい赤から赤紫へと光の当たり具合で色を変えるものだった。
「ほらセダたちに会って改めて思ったんだけれど、俺ら土の大陸の人間は耳飾りは欠かせないからね。指なら装飾品として邪魔にならないだろうと思ってね」
 セーンはそう言うとアーリアの手をとった。
「これは砂岩製。言わずもがな、この指輪にはまじないをかけたよ。『君と俺以外が触れたら壊れる。』俺らの御印みたいなものだ。なぜかは、内側を見てのお楽しみ。君は右利きだよね? じゃ、邪魔にならないよう左にしよう。はっきり計っていないから、ちゃんと合うといいんだけど」
 セーンはそう言ってアーリアの左手の薬指に指輪をはめた。薬指にそれは誂えたかのようにぴったりとはまった。
「これが俺の覚悟だ。君はこれで自分の身を天秤にかけて俺と平等になろうなんて考えなくてもいい。俺は君の本音が聞ける。いいことだらけ」
 セーンはそう言ってそっとアーリアの手を解放した。アーリアは当惑した表情を隠せず、そのまま右手で指輪をすぐに外し、内側を見た。
「……『セフィラレーン』っ! これは、貴方の……!?」
「そうだ。俺の魂名。これが覚悟だ、俺の。さぁ、今度こそ君の答えを教えてほしい」
 魂名を教えることは、その者の命を自由にできることを意味している。
 砂岩製の指輪がアーリア以外の者が触れると壊れるということは、アーリア以外には知られることはないのだ。だから、セーンはアーリアに命をかけたのだ。自分の気持ちが、思いと理想が、その覚悟は本物だと知らせるために。
 それと同時にアーリアがセーンを従わせることはないと、心底アーリアを信用していると伝えている! 魂名をアーリアが勝手に扱うことはないと、共に歩む人物として信頼したということだ。
「こんなことをされたら……! わたくしこそ、答える言葉は一つしかないではありませんの!!」
 アーリアは指輪を再びはめなおす。大事に両手で包みこむ。
「わかってもらえたみたいで、何よりだ」
 セーンがほっとしたように肩をなでおろした。
「これからは共に歩みますわ。貴方の道をできる限り支援いたしましょう。わたくしの王」
 セーンの手をアーリアが握った。
「うん。よろしく」
 セーンもその手を握り返す。
「陛下」
 アーリアが手を握ったまま、セーンに言う。
「あ、その王になるとは言ったけど、正直アーリアに陛下って言われると違和感が……。セーンって呼んで」
「では、二人きりのときだけ。セーン」
「なんだい?」
「わたくしにも同じものを贈らせてくださいませ。この指輪と同じものを、貴方に」
 セーンが目を丸くした。
「いや、そう言うつもりじゃなくて! これは俺の決意の証っていうか……」
 焦るセーンにアーリアはほほ笑んでいった。
「いえ、わたくしもあなたに覚悟を形にして送らせていただきたいのですわ。それに、同じ指に同じ指輪があったら素敵じゃありません? 二人でした約束ならやはり両人が持つべきですわ」
「え? うーん、そう言われると反論しにくいような……。でも強制したみたいで感じ悪いなぁ」
「そんなことはありません。それともわたくしとて、同じだけあなたを信じていますのよ」
 セーンはアーリアに熱っぽく言われて仕方なく頷いた。
「わかった。創るよ。時間かかるけど待ってもらえる?」
「ええ。いくらでも」
 アーリアはセーンの作業をにこにこしながら見つめる。今度は作業についてアーリアが尋ね、セーンが説明する気持ちの余裕と楽しみが二人には会った。
「そうだ、何色がいい? アーリアのは勝手に俺が決めちゃったけど」
「何色でもよいのですか?」
「うん」
 アーリアはしばらく悩んでそして笑顔で言った。
「同じ色がいいですわ。お揃いになりますし、貴方がわたくしの色を身につけていると思えば、それはあなたを独占しているような気分で良いことです」
 セーンはそう言われて、再び顔を赤くした。
「そういう言い方は誤解する! からかわないでほしい」
「あら、わたくし本気ですわよ」
「え! さっきの本気? 結婚してほしいとか子供が欲しいとか。駆け引きじゃないの?!」
 セーンが真赤になって聞く。からかっている気分になってアーリアはたいそう気分が良くなった。
「本気ですわよ。わたくし自分が認めていない殿方との間に生まれた子など愛せない気がしますもの。一応立場は幼少のころより理解しておりますけれど、色恋に夢を見るのは女性の特権でしょう? なら、自分で決める立場にいれて、素敵な相手が見つかって、周囲も認めざるを得ない相手なら本気になるというものですわ」
「それが、俺?」
「ええ。ご存じありませんの? わたくし、貴方の事を六年前から認め、特別に感じておりましたのよ」
 セーンが驚きに目を見開く。その後、すぐにほほを染めて下を向いた。
 作業に集中しているように見せかけて赤く染まった耳がセーンの気持ちを移しているようでアーリアはセーンを飽きることもせずに見つめていた。
「できたよ。まじないは込めるの?」
「ええ。同じものを。貴方とわたくし以外が触れると壊れる、と。指輪の内側にはこう記してくださいませ。『アリフィリア』と。わたくしの魂名です」
「アリフィリア……素敵な名前だね。わかったよ」
 セーンはしばらくしてまた歌いだした。同じものを作るのに、歌は違うものだった。ずっと続いていればいいのに、と思うような歌が終わって、セーンの手にはアーリアと同じ指輪が載っている。
「見て」
 セーンはそう言ってアーリアの手のひらに指輪を落とす。アーリアが内側を覗き込むと、確かにアーリアの魂名が刻まれていた。
 ふっと自嘲する。まったく、流されて自分も愚かな真似をしたものだ。苦労せずして王の魂名が手に入ったのに、自分からそれをふいにするなんて。少し前の自分ならあり得ない。
「確かに。わたくしにはめさせてくださいますか?」
「いいよ。どうぞ」
 セーンが左手をアーリアに差し出すので、アーリアはセーンがしてくれたように薬指にそっと指輪を通した。
「これでお揃いですわね」
 アーリアが本当にうれしそうに微笑むので、セーンはふっとほほ笑んだ。
「いいよ。結婚しよっか? アーリアがまだその気ならね」
 アーリアが目を見開いた。そしてそのあとにまるで花が咲いたかのように微笑んだのだった。