天狗 02

天狗

第二話 鶯

 そこは深い闇であり、誰しもその許可なくば、入り込めぬ場所である。
 此処はいずこなるか、それはこの地に入れるモノしか答えることは叶わない。
 この地は先に示したように常闇である。奥にずっと続くようだが確かめた者は誰一人として、おらぬ。
 ――ここは、そんな場所なのだ。

 この場所は有る者の住処と云う。この場所は誰の物でもないと云う。
 ぽぅっと光が灯った。が、その光は今にもこの常闇に負けそうな具合の弱い光な上に色合いも暗くどうも光とは云いがたい。
「全員、集まったようじゃの」
 低く、威厳ある声が響く。と、共に暗いながらも見るものにすれば十分辺りが見渡せる位の光が灯った。
「はい。道主(どうしゅ)さま」
 複数の声が闇から響く。うっすらと互いの顔が見えた。
「では一支(かずし)からじゃ。どうじゃの」
「はい。一宮(いちのみや)相変わらずに、滞りなく」
「よかろ。次、二刃(ふたば)はいかがか」
「はい。二宮(にのみや)滞りなく。ですが、天狗が一匹、殺されました。額に変な紋を刻まれて。後ほど、お見せ致します」
「由々しいの。三由(みよし)はどうか」
「は、三宮(さんのみや)、相変わらずに滞りなく」
「ふむ、四紋(しもん)はどうか」
「はい。四宮(しのみや)滞りなく。ですが私も一匹天狗が死に絶え、紋が額に残されております」
「……後で見せや。五生(いつき)はどうじゃ」
「はい。五宮(いつみや)滞りなく。わたくしも天狗が紋を描かれ死にました」
「六仁(むつひと)は」
「は。六宮(むつみや)滞りなく。しかし、天狗が同様にて殺されました」
「……これで四匹か。七矢(ななや)はどうじゃ」
「はい。七宮(ななみや)滞りなく。先(せん)にお話した天狗が夫婦(めおと)になりました事以外には特に相変わらずに」
「それはめでたいの。最後に八嶋(やしま)はいかがか」
「は。八宮(はちみや)相変わらず、滞りなく」
「ふむ。天狗が殺されるとは由々しいの。どれ、見せてみ」
「はい」
 これは日本の奈良に位置する山の神・道主とその配下・八天狗による状況確認である。
 八天狗が道主の下にいっせいに集まるのはまれなことであった。そのまれな機会に報告された相次ぐ天狗の死。珍しいを通り越して本当に由々しき事態であった。
 配下の天狗を殺された八天狗はそれぞれ額の紋だけを持ち寄った。
 山の穢れを嫌い、山を護ることを生業とする天狗はそれぞれに守るべき山を山神である道主に託され、その山を住処とし、その山を異境の地にして護る。
 各、道主から任された山に群れ、集う天狗たちの主として、一番その力が強い天狗が宮という位を道主から戴く。
 それは宮様(みやさま)としてその他の天狗に慕われ、主となる。その存在が八天狗である。宮の位に就いた天狗は八卦やその他の理由から何番目の宮(=山)を預かったかということが分かりやすいように数字も一緒に戴くのだ。
 例えば、一番目に山を預かったなら、一宮の位と共に一の入った名前を貰えるという名誉がある。天狗は長く生きるが不死ではない。よって宮が死ねばその山から次に強い天狗が宮の位を引き継ぐのであって、決して八天狗のうちでの優劣によって何番目の宮を預かったか、というものではなかった。

「どれも違う紋じゃの。しかもこんな真似をするとは人間かや」
道主がそう言って唸った。
「その、紋……」
「どうかしたかや。七矢」
 七矢が四つの紋に近づいた時、紋が解けるようにして発光し、一つになってゆく。
「気に入ってもらえたかな。八天狗並びに道主さま」
 紋からこの場にいない声が響く。
「僕のこと、覚えてるかな。覚えてなくともいいがね。いや、こんな神聖な場にわざわざ伝言、ご苦労様」
 道主は黙って紋がだんだん薄れてゆくのを見ていた。
「僕は道主の力がほしいんだ。だからまずは五月蠅い八天狗をどいうにかしてしまおうと思って。宮にでもなれば道主に近いし、天狗の心の臓を喰えばかなりの力が得られるし」
 八天狗も紋を見つめる。
「と、云う訳で、一番は君だよ、七矢。」
 それだけ云うと紋はその力を失い、消えた。
「何奴」
 八天狗の誰も正体を知らぬ。その存在が何かも。
「道主さま」
 七矢が云った。
「この件、儂にお任せいただけますかや」
「……七矢はこ奴がいかなるものか、知りゆうか」
七矢は黙っていたが答えた。
「知りゆう。儂と七宮を争うた、天狗じゃて。名を……鶯(うぐいす)」
「思い出した。そう云えばあの声、鶯の声じゃったな。しかし、七矢は鶯の友じゃろう。討てるのかや」
 二刃が七矢に問うた。
「道主さまに害成すならば友も何もありはしませぬ。しかし……」
「何ぞ」
「あ奴は儂に敗れてからどこの宮にも属しておらぬ。穢れをかなりその身に負うた」
「下賎者と身を同じくしたか。愚かな」
 三由がはき捨てる。
「じゃがその分、力は底知れぬ。我ら天狗の忌み嫌う力を手に入れ、もとの器は七矢と同等」
「わたくしたちに紋の正体さえ気づかせぬ。どう判断されますか。道主さま」
「任せよう。励むが良い、七矢」
「御意」
 七矢は言った。
「七矢は残り。他の者は自身の宮に帰ってよいぞえ」
 道主が言うと天狗はすぅっと消えていった。この場所は道主が望まぬものは入れぬ仕組みらしい。
「七矢。一人、いや、七宮だけで鶯を討てるのかや」
 七矢は黙っている。その烏(からす)の面の下の表情は読めない。
「七矢。力が要りゆうなら、他の天狗に頼まねばならん。わかっておろうの」
「それは、わかりますれば。しかし、儂に皆が力を貸してくれようか。儂は最年少で八天狗入りした非常識者な上に烏天狗じゃ。六仁なぞ、あからさまに儂を嫌ろうておる」
「そうじゃのう……」
 七矢は思い切って道主に問うた。
「道主さま。儂に一つ提案がありゆう。儂の髪を返してはくれなんだか。もちろん道主さまに叛乱する意はござらんよ」
 八天狗は山神に仕える天狗の長。その忠誠を誓う意味から霊力が篭るとされた髪の毛を道主に献上するのが定めであった。そのため天狗はみんな髪が長いものだが八天狗の宮上のみ、髪は短かった。
 七矢もそれに洩れずに髪は短い。そのため力の三割は道主が持っていた。
「よいが、それなら儂は新たな七宮を探さねばならん。髪を返すゆうはおんしが宮を離れ、儂の元を離れるゆうことじゃからのぅ」
「承知しております。じゃから、こうしたらどうじゃろう。儂は恐らく、鶯と直接戦う事になろう。鶯の力は未知じゃで、儂が必要ならば髪をお返し下され。その間は道主さまが七宮を預かってくださればよい」
「それで事が済めばまた七宮を返せ、と。虫が良すぎやせんかいの」
「承知しておりますれば。儂が死なんとも限らんで、一応、次期七宮上を選出してくだされ。儂が死んでも、死なんでも、道主さまに従うよって、好きにして構わんよ。儂は二度と宮上の位に就けんでも構わんね。ただ、道主さまを脅かし、山に穢れをもたらすなんぞ、儂には命に代えられん位の重要なことなんじゃ。儂が宮上な以上、七宮は守らねばならん。そのために出来る事はすべてしたいんじゃ」
 道主は唸った。七矢は今、どんな表情をしているか、相変わらず仮面の下に隠されていてわからない。
「そこまでの覚悟なら、何も言わぬよ。からかってすまんの。お詫びに親書を持たせてやろうぞ」
「はぁ。親書ですかや」
「おんし以外の宮宛に儂の命令でおんしの力になるようにのぅ。好きに使い」
「ありがとう存じます」
「その代わり、死ぬゆうんは絶対に許さん。儂はしばらくおんし以外の七宮上は見とうないけぇの」
「わかりもうした」

「喜んで二宮は力をお貸ししますよ。わたしは道主さまの命は絶対ですし、貴方にも興味がありますから」
 二刃が笑って言った。
「七矢のことはおれ、好きやし、手ぇ位いくらでも貸すよって」
 四紋も笑って言った。こうして始まった七矢の八天狗招請の意は六宮を除いてどの宮も従ってくれた。
「ふぅん。お前はあれか。道主さまの親書なんぞ持ちさらしてそこまでせぇへんと、鶯に勝てへんのかいな。お前の力不足が原因やろが。なんでぇ、儂がお前力貸さなぁ、あかんね」
「勝てるかどうかが、問題ではない。宮を預かる身として最善の策を採りたい。だから協力を請うておる」
「それが、協力を頼む態度かや。面も見せんと、お前何様のつもりやぞ」
「儂は烏天狗じゃ。烏天狗は仮面を着けるんが当然の礼儀じゃ。お主は儂に礼を尽くさんでええゆうんか」
 六仁は眉根を寄せた。
「お前はしらんのか、相手によって態度変えるんは常識やろが。儂にとってはお前の仮面はとても不愉快じゃ。その顔(つら)見せてから物頼みぃ」
 七矢は黙った。自身の山では仮面は外している。八天狗や道主に会うときのみ仮面を着けている。礼を取らねばならぬ相手だからだ。
「七矢。六仁はもっと仲間と思ってほしいゆうことじゃ。その仮面は儂らと七宮を隔ててるように思えてならんのじゃ。儂ら普通の天狗にしてもらえばの」
 付き添いに現在の最年少である八嶋に来てもらった。八嶋は七矢と六仁の会話を聞きそっと七矢にそっと言った。
「わかり申した。これで、よかろ」
 七矢は仮面に着いた緋色の結び紐を解いた。仮面は紐を解くと共にすぅっと消え、七矢の病的に白い顔(かんばせ)が顕わになる。朱を引いたような紅い口に美しい童(わらわ)の顔。八天狗のなかではじめて見た七宮上の顔だった。
「それで、ええ。これからはだれもお前が仮面を着けんからゆうて礼を欠いたと思う者はおらん。じゃからその女子(おなご)みたいなええ顔(つら)見せや。八嶋もその方がええやろ」
「ほじゃな」
 八嶋は肯いた。
「相わかった。六宮は七宮に協力するきに。よろしゅうな」
 こうして八天狗を要請できた七矢が次にしなければならないのは自身の山の天狗たちを説得することだった。天狗は仲間意識が強く、その山で団体で生活しているため他の山の天狗が入ることを好まない。
 しかし、今はそんなことを言っている場合ではなかった。
「なしてじゃ、宮さま。なして他ん山のもんがうちらん山に手ぇだすん」
「馬鹿者。今がどうゆう状況がわかっておらんようじゃのぅ」
「状況は理解しゆう。じゃが……」
 七矢は仮面を着けた同胞に怒鳴った。
「他の宮さまらが儂の山に理由なしに手を出す訳ないちゅう位わからんのんか。儂らは、道主から預けられた山を護らなあかん。鶯が攻めゆう時には、儂らだけではどうにもならんと判断したんじゃ。儂が、他の宮に協力を請うた。ほんに、儂らだけではどうにもならんのじゃぞ」
 夜鳩(よばと)という烏天狗が言った。
「宮さま、そいなら吾らは従います。宮さまの仰る事に間違いはござらんのでしょう」
「ほうじゃ。鶯は恐らく、かなりの穢れたもんを仰山連れてくるじゃろう。儂ら穢れを嫌う天狗にはやりにくい相手じゃ。お前らだけでは防ぎきれん。じゃから他の宮から助力を請うたのじゃ。白天狗は浄化の力が儂らより強いゆえ、ありがたい助けになるじゃろう。そういう意味ではお前にも期待しておる。琴羽(ことは)」
 夜鳩の妻である七宮唯一の白天狗に七矢は声をかけた。

 それは突然起こった。しかし、予測されたことではあった。
 いつもはなにも気配なぞ感じさせない静かな山が、人間では感じ取れない騒がしさ、いや、争いの音に包まれていた。
 鶯は七矢の予想通り沢山の穢れを山に引き連れた。七矢が絶えず張っている結界はだんだん穢れ、綻んでいった。
 七矢は自身の座に落ち着き結界を微弱ながらも張っている。
 微弱とは言っても八天狗の張る結界だ。悪しき穢れしモノはいまだ七宮を侵せずにいる。だれしも入ることは叶わない。
 異境との境はただ事ではなくならないのだ。
「宮さま。東宮、破られました」
 配下の天狗が告げる。
「思ったより持ったの。儂もゆく、鶯の姿を捕捉できた者は」
「おりませぬ。しかし、これは明らかに宮さまをおびき出す策ですぞ。それでもゆかれるのですかや」
 七矢は頷く。
「道主さまの山を穢すことは許されん。儂をおびき出すゆうんなら返り討ちにしてやるのみよ」
「ご出陣なされますか。ご武運を」
「そちもな」
 七矢の顔に笑みが浮かんだ。それは今から思い切り戦える喜びに満ちていた。

 山の東面には大量の瘴気に満ちていた。苦悶に喘ぐ天狗が倒れている。化け物はすでに山の中に入り込んでしまったようだ。
 しかし、山の中には他の宮の天狗がいる。ほどなく殺してくれよう。
「しっかりせんか、息を吹き返せ」
 七矢が倒れ呼吸を放棄している配下に力強く言い聞かせ、手をかざして浄化させる。七矢がそこに立つだけで、辺りの瘴気は消えてゆく。
「……み…やさ、ま…。おり、ます。お、気を……つ」
 七矢に言い終わらないうちに天狗が目を見張る。
「そんな、死にかけ、生かしてどうするのさ」
 背後で、七矢と同じくらい幼い声が響いた。七矢は勘でばっと跳び上がった刹那、七矢がいた場所が抉れてなくなる。
 それは七矢に向けられて放たれた術。と、同時に先の天狗も消滅した。
「……鶯」
 七矢は振り返り飛翔をはじめる。正面に小柄な童がいた。
「久しいの。あぁ、一匹死んでもうた。そちのせいじゃぞ。天狗がようけ生まれんのはそちも知っておろうに」
「再会を喜ぶ言葉がそれなん。相変わらずね」
「別に喜んでおらんもん」
 七矢は笑った。釣られて鶯の幼顔も笑う。
「ほうかや。じゃ、とっとと、おんしの命、貰ろてええかな」
「儂よりもそちの方がはよ死ぬけぇ、約束できんな」
「戯言を……」
 鶯の顔が歪んだ。山より離れた上空で七矢と鶯の一騎打ちが始まった。
「宮さまっ」
 夜鳩が叫んだが七矢には届かなかったようである。
「離れとき。巻き込まれるで」
 五生が夜鳩に言った。いきなりの出現に夜鳩は驚きをかくせない。
「鶯はほんまに穢れを負うたな。あれでは七矢も苦戦するじゃろう」

「安楽の宮の座におったおんしは力をだいぶ落としたの。期待はずれじゃな」
「ほうか」
 七矢は脇差を抜いて鶯に斬りかかる。それを見て鶯も抜刀した。互いの霊力が込められた斬撃は辺りの木々をなぎ倒す。斬撃だけでは飽き足らずいままでの互いの術で山はかなりの影響を受けていた。
「ほれ、見い」
 七矢の脇差が折れている。鶯の攻撃を受けきれなかったのだ。
「どうするん。もう武器はないようじゃけど」
「せん無いなぁ。こうなってしもうたか……」
 焦りはない。
 ――と、そのときだった。
「……なに、しゆう……」
 ざっと七矢の黒髪が伸びたのだった。紅の狩衣も青灰の袴もすぅっと墨染め色に変わってゆく。烏天狗特有の赤い模様は七矢の白いほほに引かれ目が黄色に光った瞬間に烏の仮面がその表情を隠した。漆黒の翼が飛ぶのを助ける。
 改めて間目の前にいた童は同一人物とは思えない。鮮やかだった姿は全て黒に変化し、その美しい顔は仮面の下に隠れた。
 七矢は烏天狗。鮮やかな格好をしていたのは宮という位に就いていたからに過ぎない。今は七矢は道主に言ったように宮を一時的に道主に返還したのだ。
「鶯。本気で掛かってやる。そちも姿を変えたらどうじゃ。儂と同じくの」
「いいよ。懐かしいね。昔もこうして技と術を競い合ったね」
「ほうじゃったな。のぅ、鶯。そちはなして儂を攻めた。七宮になりたかったのかや」
「……違うよ。七矢と呼ばれるおんしを見たくなかったんだ」
「……そいは、そちが七夜(ななや)だからか」
「違うよ」
 鶯も変貌してゆく。黒かった髪は鶯色に。これが彼女が鶯と呼ばれる所以だった。七矢同様に黒い全身に翼が生え、赤い紋がほほに引かれた際に目が赤く光って仮面に覆いつくされる。
 同じ姿の天狗が二匹。一方は漆黒の髪を、もう一方は鶯色の髪をなびかせて。

 辺りには度々衝撃波が襲い、他の天狗は鶯が連れた化け物を倒せば身を潜めねばならなかった。
 鶯が術を多用するのに対して七矢は動じない。まるで一種の舞を見ているかのように鮮やかにかわしていく。ただ、その舞はきりりと鋭く、鶯を襲ったが。七矢は舞うような体技から力を放出する戦術を持っていた。
「懐かしい。あの時も君は一人孤高の舞を舞っていた。美しくて、いつも僕は舞ってとせがんでたね」
「そうだった。私はお前に見せるのが好きだった」
 いつの間にか二人の口調も変わっている。昔はこのように素直に話していたはずなのに。
 一体、どこから変わってしまったのだろう。どこから二人は離れてしまったんだろうか。
 そう、懐かしい応酬が永遠に続くかのように思われたが、七矢の舞は優雅に鶯を切裂いた。鮮血が舞う。七矢が漆黒の舞を舞ったなら、鶯はそれに紅の舞で応えたのだ。ただし、紅は鶯自身の命ではあったが。
「質問に答えて、くれるか。七夜」
 七矢は戦いが終わり、自身が勝って山を護れたとわかると鶯を昔のように七夜とよんだ。
「約束を、君は覚えてないのね。夜霧(よぎり)」
 七矢は七夜に仮面を取られた。七夜の仮面も落ちる。二人の素顔が明らかになった。
「言ったじゃない。七夜の元にいてくれると。なのに君は道主へ行ってしまった」
「……それで、こんなことを、したのか」
「本当は君を殺すなんて、嘘。君を負かしたら道主から君を奪うつもりだった。考えてみて。僕と君なら、宮に属さなくたって二人で生きていけるもの。夜霧、僕は君は七矢であることが、道主の存在になっていることが、許せなかったの」
「七夜、私は……」
 七夜は夜霧を奪いにきたのだ。古からの二人だけの約束を求めて。果たされると信じて。
「知ってる。天狗は山神さまの御意思のもとに生存を許される者。請われれば、夜霧が宮を継がなくてはならない事を。でもね、夜霧は僕のものだったよね。同時に僕は夜霧のもの。なのに、道主はそれを知ってて僕から夜霧を奪った。神なら何をしてもいいのか。許せなかった」
「私は七夜のいる地を護りたかったのだ。決して約束を忘れたのではない。だから宮を継ぐときに名を七矢にして貰ったのだ。それ位、わからぬお前ではないだろう」
「うん。知ってた。夜霧がどれ位、僕を想ってくれてたか。でも、夜霧を僕だけのものにしたかったの」
 それは愛とはかけ離れている想い。独占欲とも違う。七夜と夜霧は互いを想い合っていたが愛し合っていたわけではない。それは言い表せない複雑な感情の元に成り立っていた。
 七夜にとって夜霧は空気のようになくてはならない存在だった。必要不可欠で、いるのが当たり前だった。
 それは天狗という領分を越えた想いだったのかもしれない。天狗が想わねばならないのは本来は山なのだ。そういう意味ならば、七夜は狂った存在といえた。
「馬鹿者……。本当に愚か者め」
 涙は出なかった。涙は自分が哀しくて出るのだという。自分を哀れんで出るのだ。
「本当。返り討ちにあっちゃってさ。ああ、死んでゆくんだね。でも……夜霧の元でなら悪くないよ。欲しいものは手に、入らなかったけれど」
「七夜、これからも私はお前の名を背負って宮を護らねばならん。お前はいない、この地で。この苦しみ、わかるか。お前は確かに私に負け、道主さまにも負けた。お前は私を手に入れられなかったな」
「うん」
「だが、私が死ぬまでお前は私を縛り付けるのだ。お前のその名で。私は字こそ違えど、七夜と名乗るのだからな」
 七夜は笑っている。
「そんなの、夜霧の勝手じゃないか。……だけど、女冥利に尽きるって言っとくよ。夜霧が欲しいから」
「欲しいか。そんなに、私が」
「うん。欲しい。夜霧が欲しい」
 滞空している二人は抱き合った。そっと口を絡めあう。一時(いっとき)の触れ合いは解けて終わった。
「七夜。この世に二人しか私の名を知るものはおらん。七夜、お前に私の本当の名をくれてやろう。冥府に持ってゆけ。私の代わりにな」
「もう一人、夜霧と呼ぶのは誰なん」
「決まっておろう。道主さまだ」
「ちぇ。悔しいな。よりによって道主か。ま、いいか。夜霧を縛るのは僕だけなんだし」
「ほうよ」
 二人は昔のように笑いあった。
「冥府に夜霧が来たら今度こそ僕のものだ。冥府に神は入れないからね。約束だから、先に行って待ってるよ」
「ほうしてくれ」
 傾いだ鶯の体はそのまま落下して道主が七矢の代わりに張っている結界に激突してその身を散らせた。
 真紅の大輪が冷たくなってゆく様をただ、七矢は見下ろした。
 七矢が鶯から目を離すと力が削がれてゆくのを感じる。鶯から受けた損傷と道主が七矢の力を再び取り戻したからで、その証拠に七矢の姿はまた、鮮やかな紅色になっている。
 結界も再び七矢の力で張られた。ただ髪だけはまた切って道主さまに封印してもらわねばならない。
 七矢は一つ、ため息をついた。

「宮さま。お怪我は」
「大事無い。それより持ち場に戻れ。山を浄化する」
 配下に命じると後ろから肩を引っ張られた。
「浄化は儂らがするよっておんしは道主さまに報告してきなはれ」
 一支がやさしく言った。
「山や他の天狗はお主が浄化できるがお前さんの浄化は道主さまとお主しかできんもの」
 三由も言う。周りの天狗も頷いている。
「儂はそんなん穢れとりますかや」
「おうおう。はよ行け」
 六仁が揶揄するように言った。
「ほうですか。では後を頼んます」
 七矢は八天狗たちの様子を不思議に思いながらも道主さまのもとへ飛んでいった。

「鶯抹殺完了してございます。ご迷惑をおかけ申した。また、髪を献上いたしますが……道主さま」
「もっと近う。夜霧」
 七矢は道主のそばに座った。抱き寄せられて髪を手で梳かれる。身の穢れが流れ落ちてゆく気がした。
「なしてその名で呼びますのや」
「鶯、もっと早う殺せたろう。情けをかけたな」
「いえ、鶯ごときに手間どうようでは儂もまだまだ。七宮を預かれませんの」
「ごとき、のぅ」
「ほうですよ。儂は道主さまに従う宮ですからの」
 七矢の黒髪を道主は持て遊ぶ。
「たまにはおんしの長い髪もええのぅ」
「ほうですかや」
 満足そうに道主は笑った。
「ま、縛られとってもおんしの身は儂のものじゃがの。永遠に」
 七矢の体が一度だけびくり、と動いたが道主は気づかぬ振りをして七矢を抱きしめ続けた。
「ほうよのぅ、夜霧」
 七矢はしばらく間を置いて言った。
「……ほうですな」
 病的に白い顔はよりいっそう白く見えたが唇の赤さだけは道主を誘っているように紅い。
「儂は自身のものは例え死者にでもやらんぞ。夜霧、おんしは儂からはもう、逃れられん」
「……承知しております」
 七矢は幼き日々の鶯のようには戻れない。春になったら必ず鳴く鶯のようにはいかないのだ。
 それを知っていても七矢は逃れることはできない。
 なぜなら――選んだのは自分だから。
 ――七夜を切り捨てたのは自分だから。

 第二話 「鶯」終.