天狗 10

天狗

第十話 一支

 無事に通り抜けられれば、それは大いなる試練を果たしたことなり、その本質を天狗に変えると言う―修験道。そのものはいつできたのだろうか。いつ、噂になるようになったのだろうか。

 冬宮――それは一宮の別称である。誰もが侵すことのできない静寂の山。痛いほどの静けさと、何もかもが眠るような寂しさを兼ね備えた、山としては貧相な様。誰がそう呼ぶようになり、いつからその山がそうなる様に変わっていったか。知る者はおそらく一人きり。
「宮さま、何をなさっておいでですか」
 配下の若い天狗が問う。問われたのは、もう老齢な天狗であった。髪は白く、昔はそれこそ草原の力強く立つ草のように多かったであろう髪も少なく、力ない。髭を蓄え、威厳のあるりりしい眉。風にあおられる狩衣の色は深い紫―。
 ――一宮(いちのみや)、宮上・一支(かずし)さま。
 長寿であるアヤカシの類の中でも類を見ぬほどの長寿の天狗である。そう、一宮だけは宮として起ったそのときより宮の交代がなされていないと言われている。他の宮がもう何代も時を重ねたのに対し、一宮のみが一支のまま変わっていない。
 というか他の宮が代替わりした一宮の他の宮を見たことがない。それを不思議とは思っても、実際に一支のどっしりした構えを見せつけられてしまえばそういうものなのであろう、と納得してしまう何かが存在していた。
「しまいじゃ」
「なにが、ですかや」
「……しまいじゃよ」
 その問いの答えを返すことはないが、厳格な天狗が心から微笑んでいる様を、その天狗は初めて見たのだった。

 現在は、道主(どうしゅ)と天狗たちによばれている山神が治める山々を八つの天狗の集団がそれぞれ分け合い、代わりに治めている。その集団一つを宮(みや)と呼び、その宮の頂点に立つ、集団のまとめ役のことをまた、宮と呼ぶ。
 最初に道主によって山を分け与えられたとされるのが、一宮。一支が治める、静かな山である。天狗の集団にしては数少ないのが特徴で、静かにつつましくそれは冬の空気のように誰も寄せ付けず、拒む気質を持った山。だからこその冬宮である。
 二番目に山を与えられたとれされるのは人が修験道を通って変質した白天狗の集まり、二宮(にのみや)。現宮は二刃。優しく穏やかな微笑を絶やさない元人間。
 三番目は場所的に冬宮の隣にあり、春の到来を告げるかのような穏やかな宮、三宮(さんのみや)。別名春宮。強大な力を持つ三由が逝った今、その宮を治めるのはまだ幼いといえる三虫。
 四番目は若々しく活気のある若い天狗、四練が治める四宮(しのみや)。その力強さ、明るさから夏宮と呼ばれる。
 五番目は本性は狐、その姿は妖艶。尼天狗の集団、五宮(いつみや)。同じ女でも狂わすほどの色香を振りまく現宮は五生。
 六番目は狗が修験道を通った後に生まれる木の葉天狗の集団、六宮(むつみや)。頑迷なほどにまっすぐな現宮、六仁。
 七番目は鳥が修験道を通った後に生じる、夜の眷属である烏天狗の集団、七宮(ななみや)。現宮は最強と名高い七矢。仮面をつけるその性質から他の宮に受け入れられがたい集団でもある。
 最後は八宮(はちみや)。現宮は八嶋。紅葉の美しい、しかしその美しさが逆に哀しくなるような宮。別名秋宮。
 一支は、宮でありながら一支という号しか持っていない。いや、正確には一支、という名前そのまま宮となったのだ。冠名、号ともいうが、これらは宮となった一族の長となる天狗が道主さまから頂く宮としての名のことだ。冠名を頂いた天狗は、本来の名前で呼ばれる事はなくなる。それは、名前を忘れさられたかのように。冠名がいつしか真名のように変じてしまうのだろう。
 そう考えると、自分は名前を忘れずに、誰もが皆そう認識して居ることが幸せな事なのだろうと、一支は思うのだ。

 一支はそんな現状を確認して微笑む。そう、あれは誰ももう覚えていない、誰も知らない、天狗たちの始まりのお話。

 声が聞こえたのである。それは水底から響くように、森の深奥から木霊するように深く、重い声だった。でも、どこか楽しげで明るい口調でもあった。水で遊ぶ乙女のようでいて、言霊を呟く巫女のような厳格な声。
 そして目を開けたときに見える姿はなく、はて、と思ったものだった。
「そう、名じゃ」
「名……」
「生まれついたからには名をつけねばならぬの」
 ふむ、と悩む感じがする。己を視界を開いて、手のひらを閉じたり開けたりを繰り返して身体と言う器を実感する。自分が何か、そして何のために生まれたのか、そんなことすら疑問に思わない“誕生”という儀式。
「一支。うむ、一支にしよう」
「……かずし」
 そなたは一支じゃ、とうれしげに言う存在。まぶしくて、目を開けたという感覚すらつかめない。かずし……と疑問を浮かべ、それが発せられて、初めて己の口を自覚する。
「そう、名前じゃ。おんしを表す言葉じゃ」
「……あんたはなんね」
「我か」
 目の前の存在はやっと自覚した目でみることができた。黒い髪をなびかせ、ほのかに赤い目をした何か。
「ふむ……そちら専用の名が我も欲しいの……そうよ、道の主……どうしゅと呼びや」
「どうしゅ、か」
「ほやほや」
 深い森。木々の囁きや話声、それに宿る何かそういうものが一気に耳に入るが何よりも目の前の道主という存在が一支には気になった。なんだろう、この形。そして自分の形を見比べる。自分とは気配が違う気がするのに、目の前の道主は同じ型をしている。
「あんたはなんだ。そしておれはなんだ」
「おおっと、しもうたわい。それを刷り込みし忘れた」
 目の前の何かは頭を軽く掻いて口をゆがめた。それが笑顔と知ったのはけっこう後なのだが。道主の指が一支の額に触れ、その瞬間に多くの情報が流れ込んできた。
「……天狗」
「ほや。我、この山に独りきりなん。さみしゅうての。ほしたら友が面白ぉ輩と戯れよるのを見てなぁ……ええなぁと思うた次第よ」
 道主と名乗った者が実は山の神であり、神の中ではそこそこ偉いらしいこと、友とは人間達が呼ぶ他の土地での神であるとか、自分を天狗の知識そのままに山の気から作った、自分は山を守護し、山の為に生きることなどがざーっと理解できた。そしてこれらの姿が人に似ていることも。おそらく神に似た人に似せて作ったのだろう。
「道主さま」
「おや、知識を与えすぎたかの。我はおんしを僕にしようと思うたわけではないんえ」
「承知しておりますれば。しかし、儂と道主さまの事を考えればこれが妥当でありやしょう。親しき仲にも礼儀ありですわ」
「ほうか」
 道主さまは急にかしこまった様子の一支に不安に思ったようだが、別にいい事にしたらしい。親しい友人の様な主と僕の様なそんな生活が続き、ある時、道主さまと一支が同時に思ったことがある。
 道主は山の気から自分を作った。この広大な山ならもう一匹位は可能なのではないか、と。そうして、一匹、一匹と天狗の仲間は増えていった。天狗である一支を中心に、道主さまを支える八人の天狗たち。
 その幸せな日々が永遠に続くと、誰もが疑っていなかった。

 あれから何年か分からないが、そう人間ですれば数百年ほど経っていたと思う。その頃には道主さまは一支だけではなく、仲間の天狗を増やしていた。道主さまは一支を自分の一部と山の気から創ったという。
 いつしか二人では満足できなくなり、初めは姿の似た人の子を攫って創ってみた。最初は本当に鳥の雛のように何もろくに出来なかったくせに一丁前に立派なそれこそ一支より自由奔放な若い雄の天狗が出来た。
 そいつに道主さまは二番目に創ったから二菜(にな)と名付けた。元が人間のせいか、一支では考えられないようなことをよくやり、それが新鮮でもありひやひやもする天狗だった。
 後の天狗が用いる術と呼ばれるものはすべてその構成のこんな根幹を練ったのはこの天狗だ。
 そして二菜の勧めもあって道主はまた違う人間の子供を攫い、今度は草の芽や花を混ぜて木々に近づいた三番目の天狗を作った。
 三伽(みつか)と名付けられた雄の天狗は二菜とは違い、穏やかで優しく草木と戯れるのを好む天狗に育った。
 これを混ぜた物のせいかと考えた一支と二菜は夏の日差しと熱い夜を混ぜて天狗を創った。これまた生まれた天狗はどちらかと言うと二菜の情熱と夏の活発さを活かしたような元気な天狗が生まれた。
 永遠に子供の様なその若い雄の天狗は皆に山に元気を振りまいた。それゆえ四嬉(しき)と名付けられた。
 そうして四匹の天狗が生まれ集い、道主さまを慕って日々を山と共に過ごした。ある時、二菜は生き物には雄雌があると気付いた。天狗にも雌が必要であろう。そうして人間の女の子とたまたまいた女狐を混ぜて初めて雌の天狗を作った。
 五女(いつめ)と名付けた女天狗は日を重ねるごとに美しく妖艶に育ったが四嬉が面倒を見たせいか、ずいぶん女とはかけ離れた活発な天狗に育った。
 生まれた天狗達で話し合い、次は人間の子を混ぜずに創ってみてはという話になった。山の気を十分に受け持つ天狗の中の天狗を作ろうとしたのだが、元になる動物が必要と言うことで、狗にしたのだ。
 なぜなら狗は木の下を守るのに最適だろうということで。そうして狼と十分に力を持つ樹を混ぜて創られた。しかしその天狗は生まれてからもしばらく小さく、育つことがなかった。
 実はそれは樹の成長のゆっくり差を考えなかったせいなのだが、初めて天狗とかけ離れた者が出来た。
 そこで天狗を作る気だったし、考えや性質は天狗そのものなのだから天狗の仲間と言うことで木の葉天狗(こっぱてんぐ)というものにした。
 彼は優しく上のものに敬意を払う天狗に育ち、誰よりも山の、土や樹、風など当たり前にあるものに対して詳しい天狗となった。名を六実(むつみ)と名付けた。
 主に二菜が中心となって六実のことをよく考え、今度は夜の山を守護する天狗を作ろうという話になった。
 夜動き回る動物をもとに作ろうと考えられたのだが、もともと天狗はアヤカシ。昼夜関係ない生き物である。
 そこであまりその点は考慮されず、ただ黒い闇が似合う生き物として烏と梟と山の夜の気を混ぜて創られた。
 すると誰よりも大きな翼を持ち、誰よりも優れた飛行能力を持った天狗が生まれた。そして夜の活動性も一番の天狗だった。ゆえに七夜(ななや)と名付けられた。
 きっと夜に生まれ、夜を生きるに相応しい天狗だったのだろう。それは鳥の性質と見事に相反した。
 七夜が生まれて少し経ち、道主さまはもう一匹天狗を作った。黄昏の山に相応しい秋の山々に似合う天狗を。八重(やえ)と名づけられた。
 八重は意図などしなかったのだが、初めての雌の天狗だった。五女のときは雌の天狗を作ろうとして生まれた。しかし八重は秋の紅葉に似合う美しい娘に育った。
 八重が生まれて育ち、気づけば天狗は八匹まで増えた。広大な道主さまの山々を平等に分け、守護し、山々と共に駆け抜けた。
 そうして八重もがすくすくと育ち仲良くずっと永遠にこうして山々と共に生きていくのだと思った。

「なんか、変な感じがする、そう感じますねん」
 雌の天狗、名を八重という。いつものように広大な山を守護していた頃、ある個所から嫌な感じがするのだと、そう言ったのだ。
「それでついて行ってどない思うたんや、七夜」
「おれも変に思うた。というか……あれは自然なものやなかろう。故意に変なもんがやりよったに違いないと思う」
 小柄だが、その愛らしい顔を歪めて若い雄の天狗が呟いた。
「あたしも一緒に行ったんやけど、あれは嫌な感じやった。とりあえず浄化はしたんやけどな」
 七夜と同じ位の背格好をした雌の天狗が頷く。
「お前もか、五女」
 道主は首をかしげる。自分たちの住処である山のある場所で、嫌な気が生じた。とりあえず滅しはしたが、気になるという。
 この頃、天狗だけではなく、様々な妖怪が生まれては滅びという繰り返しが続いていた。それも人間が増えたが故に、妖怪を育てる『物語』と『恐怖』が生じているからだった。
 しかし人間の住む場所より遠くはなれるこの山ではそんなことはまったく知らないもので、天狗たちは他の妖怪という存在を考えていなかったのである。後に山を飛び出て、好奇心を満たした二菜によって他のアヤカシの存在が知れ渡ることになるのだが、それはまた別の話。
「ふむ。では入ってこないようにしたらよかろ」
 道主はそう呟いて、四角い箱のような何かで山を覆った。これが、宮の張る結界の元となった行為だ。

 ――八匹の天狗と一人の神で、隔絶された世界の中、永遠に過ごす山の中。
 だが、永遠を得ることができるのは、神だけ――。永遠にはいつか終わりが来るのが常。
 あるとき、外の世界が見たいといって二菜は山をふらり出て行った。特に誰も咎めることなく飽きればいつか帰ってくると思い、他の天狗がそれを気軽に送り出した。
 二菜は五女を連れてしばらく帰ってこなかった。帰ってきた二菜と五女はそれは面白おかしく外の世界を語ってくれた。ただ、二匹には思うことがあったようだ。
「道主様、なぜわいらには子供がおらんのやろ」
 外の世界の生き物はすべて雄と雌がいて、番い、そして子を成し、子孫をつなげていくのだ。しかし我ら天狗はそれをしない。そしてただ時を過ごす。そう、永遠の概念をなんとなく理解し、そして山という隔絶された世界の終焉を不安に思ったのだ。
「必要ないからと違うか」
 天狗は道主によって生み出される存在。子孫を残すようなものではないのだ。
「まぁ、できん事はない思うが……いろんな生き物を混ぜたさかいな……」
 道主はそう言って悩む。
「やってみてもええかな。わいと五女なら人間が使われとるさかい、上手くいく思うんやわ」
「まぁ、だめゆうてもやりたいんやろ、おまえ」
「おう」
 そう言って二匹は他の天狗と距離を取った。二匹だけで親密な時間を過ごし、他の侵入を嫌った。その果てに二匹は無事に子供を儲けた。そうなって初めて二匹は皆の下に戻ってきた。一匹の雛を連れて。
「わいらの子や。道主さま、名をつけてくださいな」
 幸せそうに微笑む二匹は立派に夫婦になっていた。他の天狗には、明らかに違う一線を二匹の間に持っている。これが交わるということなのか、家族という特別な絆を持った結果なのかそのとき一支にはよくわかっていなかった。ただ仲間が増えたことを喜ばしく思ったくらいだ。
「九威(くい)にしよか。どうや」
「ええわ。いい名前。ありがとうございます、道主さま」
 ――これが、山に生じた変化がわかりやすく現れた形だったと、今になれば思う。
 雛の世話は二匹だけではなく全員で行った。道主さまによって生まれず、天狗同士の間に生まれたこの天狗は、道主さまによる刷り込みがないためか、天狗という己の存在をよくわかっていないようだ。
 それでも皆に育てられ皆のありようを見て天狗について理解をしてきた頃、七夜と八重の間に子供が出来た。雌のかわいらしい小さな雛を道主さまは十和(とわ)と名づけた。
 九威は父親によく似て、山の外を知りたがった。好奇心旺盛で、いつも何かしらを不思議に思っているようだった。そして、十和は優しく、山に住むほかの生き物に優しさを持って接する天狗に育った。表面を見れば、他の事に興味を持つ元気な雛だが、裏を返せば山を一番に考える天狗の本分に悖る天狗に育ったとも言えた。
 この二匹は同じ頃に生まれ、同じ頃の年頃ゆえかいつも一緒におり、二匹の行動を好んだ。そして父と同じように、あるとき二匹で山の外へと旅立っていった。
「そんなに外の世界はおもろいかなぁ」
 道主さまが呟く。天狗を生む前、外の世界を眺めたが、そこまで興味をひくものはなく、というか長く興味を覚えるものが無く、道主は天狗を作り、山に籠ったのだが。二菜と五女が出かけたときより長く、他の天狗らが長いと感じるほどに二匹は帰ってこなかった。
「さみしいですかな」
 この頃、一支たちは姿形が定まり、己の山での位置を自覚し、それに慣れていた。道主さまに一番近いのは一支。道主さまを支えるのは一支であり、会話をするのも一支が多かった。
「そやなぁ」
 呟く道主。
「おりますゆえ」
「ん、なんね」
 寂しい山の神。山に一人きり。他の生き物は決して神と交わることが出来ないから、寂しさゆえに己と触れ合う存在を。きっと天狗はそういうことなのだ。
「儂だけはそばにおりますゆえ。道主さまがうっとおしいと思うくらい、そばに」
「ふふ。そりゃ面倒そうなこっちゃ」
「はい」
 一支も、もう道主さまから言われることだけを鵜呑みにする存在ではなくなった。二菜と五女が山を出て、雛を生み、そして七夜と八重も雛を生んだ。だから一支も一人で山を出た。ぽつぽつと他の天狗も外を見るようになった。
 興味が誰しもあったのだろう。だが、皆数日で戻る。数日の短い期間だったが、そうして気づいた事とわかったことが、おそらく皆ある。きっと九威と十和はそれに気づいてしまったのだ。
 生き物が当たり前に行っている子孫を産み育て、世代を重ねていって作り上げていく不変の営み。しかし自分たち天狗にはそれがない。雄と雌がいて、しかし交わらなければそういう目線で物事を捉えることをせず、道主様の為に群れる天狗というモノ。生き物としてそれがおかしいと、気づいてしまったのだろう。
 もしかしたら、わかってしまったのかもしれない。道主さまが成したことを。
 一支は気づいた。しかし、それは胸のうちに秘めている。道主さまがどうしてそうしたかをわかってしまったから。だから――。
「そばにおりますゆえ」
 そのためには、何事も厭わないと、心に誓うほどに。

 かなり長い時間、九威と十和は山を空けていた。ようやく帰ってきたとき、二匹の間には二匹の雛がいた。その生誕を山の皆は喜んだ。しかし、九威は雛を皆と育てる気はないようだった。道主さまに山の一角を借り、二匹で育てるとそう言ったのだった。
 道主さまは許したが、一支はそれに違う空気を感じずにはいられなかった。ゆえに、しばらくしてから二匹の元へと飛んだ。
「旅はどうやった」
 一支の言葉に十和は微笑んだ。
「はい、充実したものでした。おかげで私達にも子が生まれましたし」
「子を成したときくらい、帰ってくればよかったものを」
 そう言うと、九威が首を振った。
「なにをされるかわかったものではないから、帰らずにいたのです。というか……今回帰ったのも、挨拶をするためです」
 住処というには二匹の暮らす場所は閑散としていた。
「どういう意味かや」
「……雛がある程度育ってからでないと、刷り込みされると思うたのです」
「……刷り込みとな」
「一支さまはお気づきではないと思いますが……我らが『天狗』だと刷り込みされると思うたのです。ゆえにそうされないようここまで我らだけで育てたのです」
 一支はわずかに顔をしかめた。十和の方を向く。十和も視線を逸らせた。夫婦同じに思っているということだ。
「我らは最初、興味本位だったのです。山の外の世界が見たいと、そう感じて旅に出ました。最初は父上や母上と同じくらい旅をしてそれで土産話を咲かせる位になったら帰ろうと思っておったのです。でも、我らは見てしもうたのです……天狗を」
 どう理解して貰おうかと、ゆっくり話す九威に一支は一度、空を仰いだ。
「ほいで」
「我らは本物の天狗に会いました。……我らのような『天狗に似た何か』ではなく、本物に。天狗は確かに山に篭って集団で暮らしとります。でも、子も居れば孫まで居り、子を成して世代を重ねて生きていきます。そして数を増やしていくのです。天狗だけじゃないのですよ。人も鳥も犬も、何もかもそうやって生きているのです。では、我らは何ですか。最初から形が決まっており、永遠に歳を重ねることもなく、子を成さず、道主さまの周りに群れるだけの存在である我らは……なんですか」
 自分が生まれて、そして言われた言葉。
「『天狗』よ」
 九威はそれは違うと、言おうとしてそしてふいに黙り込んだ。一支の目を見て、悟った。
「……一支さまは、ご存知やったんですね」
「……」
 一支は何も言わない。元々一支ははじめての存在。道主さまもうまく刷り込みしなかったのかもしれない。だから山を出ずとも、ちゃんと考えればわかること。
 ――道主さまに作られた存在である我々は……天狗と呼ばれるアヤカシとは違うこと。
「それが、あなたの答えなら……我らはあなたとは分かつことになる」
 道主さまがいつ生まれ、いつこの地に住まい、自我を持たれたか、そんなことは一支には関係ない。
 ただ、道主さまは独りで、寂しくて。この地に住まうすべての生き物が自分の存在をなんとなく知り、敬い、子孫を育み、生と死を繰り返すその過程の中で道主さまだけが独りきり。
 誰にも話しかけることもなく、話しかけられることもなく。誰にも程遠く偉大な――“山”という存在は。見守り、いつくしむだけでは寂しくて寂しくて。だから、神の真似事をしたのだとしても、誰がそれを責めようか。
「道主さまのお考えは、我らには理解できぬのです」
 九威と十和は刷り込みをされずに育った天狗。その子孫でさえ、彼らはもう『天狗』ではない。道主と共にあり、山を護るその生き方を彼らはできない。永遠を道主と、生きることは叶わない。
「ほうか」
 一支は一言、呟いた。
「道主さまの御心のままに、それが儂の答えよ」
「では、お別れに、なりますな」
 十和も頭を下げている。彼らは天狗として生きられない。天狗に似たアヤカシとして生きていく。だから、この山にはもういられないのだろう。一支はそれも理解できた。だから、何も言わずに背を向ける。
「ならぬ」
 重々しい声が響いた。一支ははっとして頭上を見上げた。そこには道主さまの姿がある。そして、道主の怒りの声を聞いて、皆が瞬時に駆けつけた。
「ならぬ。ならぬぞ。一緒におれ。雛も一緒でも構わぬ。ここで我と共にいるのだ」
 道主さまの声は怒りに満ちているのにどこか泣きそうであった。九威は父親として道主さまの前に進み出る。十和は二匹の雛を抱きかかえた。その周りを皆が取り囲む。
「いいえ、居れません。道主さま。我らは『天狗』ではありませぬ。それに気づいてしまったら、もう、ここには居れぬのです。あなたと共に永久の時間を過ごすことは出来ぬのです」
 九威の叫ぶ声に皆がはっとする。二菜と五女は視線を一瞬逸らせた。彼らも外でそれを見た。だけど、彼らは帰ってきた。その違い。
「何故じゃ。構わぬのじゃ。ここに居ればいい。外敵もおらぬ。ここは平和な山じゃぞ」
「しかし、ここでは何もが変わらぬのです。我らにはそれが怖い」
 そう、在り様が変わらない不変の神である道主と共にいることに不安を覚えるのは生き物として当然のこと。生き物は何でもいつか死を迎え、世代を交代する。しかし、ここではそれがない。永遠に生きることなど本当に出来るのか。いくつもの時を重ねても、本当に変わらないのか。
「この山はおかしい。生き物の当たり前の営みがないのです。天上の真似事の世界など、ありえないのに。それをどうして平然と受け入れられます。いつか、我らは死ぬことがわかっているのに」
「ない、そないなことなどないのだ。ここは我の場所。皆同じようにずっと一緒で」
 道主さまの声が必死に叫ぶ。
「そうでしょうや。あなたにとってはそうなのです。もし我らが死んでも、あなたはまた我らに似せてそれを作ればよろしい。でも、我は我。我は一人きり。我の生は我にとっては一度きりなのです。おわかりいただけますかや」
 神には理解できないその答え。生は一度きり。限られた時間を精一杯生きることが、当たり前であるはずなのに、この山ではそれができない。だから、出て行くということを。
 もし、子供が出来なければそれでもいいと思ったかもしれない。しかし子供が出来れば、子供にはもっと無限の可能性を望んでしまう。もっと広い世界で、限りある時間を大事に生きて欲しいと願ってしまう。だから。
「お別れを、許してください。道主さま」
「ならぬならぬ。それでは、それを許したら……皆、いなくなる」
 道主さまの呟きに、一支が首を振って否を伝える。
「儂はあなたと共にずっとおります」
「おれも、居る。この山の木々は好きやし」
 木っ端天狗がそう言って道主さまの前に進み出る。二菜が呟いた。
「確かに外に出て「天狗」の存在を知っていました。でも、五女と二人で決めたのです。我らの在り様がどうであろうと『天狗を真似たもの』であろうと。創ったあなたのそばにいることを」
 二匹の天狗が進み出る。そして他の天狗が道主の周りに集まる。九威はそれを見て苦笑した。
「あなた方は、おかしい。生き物として間違っている。そう感じる我らの方が異端なのかもしれませぬな。道主さま、あなたにはあなたが産んだ忠実な僕が八匹も居ります。その変わらぬ世界で永遠に過ごされるといいでしょう。だが、それを異端と感じる我らには、それは耐えることができませぬ」
 確実な隔絶。天狗の有様を知ってなお、道主を慕う道主から創られた天狗と、そうでない天狗。ゆえにもう共に暮らせない。
「だめじゃ」
 道主さまはそう言って怒りを爆発させた。その途端に十和と二匹の雛の姿が掻き消える。九威はそれを目にして怒鳴った。九威にも譲れぬ点がある。それが、十和と子供達。
「十和を、子をどこにやった」
「許さぬ。我の元から離れるを許すと思うな。九威、そなたが考えを改めれば、返そうぞ」
 道主さまはそう言ってふっと姿を消した。
「十和、十和」
 九威はそう言ってまだ知らぬ二匹の雛の名を呼びながら辺りを駆け回り始めた。山中を探すつもりのようだ。
「一支」
 七夜と八重が痛々しいその九威の姿を視界に納めながら言う。
「九威と十和が言いたいこともわかる。あの二匹と我らはもう、一緒に居れぬな」
「そうかもしれぬ。じゃが、道主さまがお望みなら我らはそれに従うのみよ」
「……そやな」
 都合よく創られた存在。天狗と呼ばれ、しかし厳密に言えば天狗でない我ら。山を護ることを本分とし、道主さまに絶対的に従う。それ以外は目に入らない。それにいきり立つこともない。それを哀しい性とも思わない。
 ただ、そうしなければ長いときを生きることが辛い、あの孤独な神のために我らはあるとわかってしまったそのときから創った神本人さえ騙すように互いに身を寄せて、さも当たり前のように虚構の世界を永遠に砕け散るほど壊れるまでは続けると決めた。
 九威と十和はそれができない。創った神さえ騙すようなそんな危うい世界で生きる怖さを知っている。
 一支は他の天狗の思惑は知らない。一支はずっと隣でかの神を支えると決めた。名の通り一に支える者として。この意思が続く限り。
 だが、二菜は、五女は、他の天狗は。
 ただ、そうその身に刷り込まれているからそうしようと決めたのかもしれないし、道主さまに同情しているのかもしれないしわからない。
 だが、きっと――変わることを恐れているのは道主さまではなく、我ら天狗なのかもしれない。

 十和と雛を探す九威の姿は日増しに哀しげなものとなっていった。見つからない。しかし己の意思を変えることも出来ない、そんな姿。誰の言葉ももう耳に入らない。九威のその姿は恐ろしいものへと変わろうとしていた。
 二菜と五女はそれを危惧し、道主さまに姿だけでもみせてやってはどうかと掛け合うくらいだった。優しい八重はその姿に心を痛め、誰もが心配し始める。しかし、誰も道主さまに意見はしても、反対はしない。一支はどうなってしまうのかをただ待つかのようにずっと眺めていた。
「七夜」
 一支の隣に夜、七夜が訪れる。彼は夜を司る唯一の天狗。休む道主さまを護る夜の彼は闇夜に溶け込み、気配が希薄になる。もともと天狗は昼夜関係ない生活を送っているが、夜に強いのは夜を混ぜた七夜だけだった。
「九威と十和。交わると思うか」
「……道主さまがそう望まれるなら、儂らがそうあれば……」
「違う」
 七夜は一支の言葉を強い口調で切った。
「そなたに聞いておる。一支。そなたは我らとちごうて我らのことを知っておる。だから我らの代表として、そなたに聞いて、確認したいのだ」
 七夜は一支が初めて作られたが故に、刷り込みが完璧でないことを知っている。
「……無理やろな」
「ほうか。では次じゃ。九威と十和を山から逃がすんは道主さまの為になる思うか」
 今度は道主さまと最も近く、最も長くいる一支に聞いている。
「……ならぬやろうな」
「では、どうするのが一番と、思う」
 その答えは何度も考えた。一緒にいることは無理で、かといって手放すこともできない。道主さまのものでありながらも別れる道は……。
「覚えておいて欲しいのは、おれは十和の父親なんや。こいでも、な」
 ――二匹を雛と共に殺す。そこで彼らの存在を消してしまう。そうすれば二匹の思い出は共有でき、手放すというよりかは諦めがつく。それが唯一の解決策だと、密かに考えている一支の心を読むように七夜は言った。
「八重も悲しむ。きっと二菜と五女は後悔するのじゃろう」
「ほうやな」
 変わることを恐れていた。でも、もう変わってしまっている。
「不変なぞ、ないゆうことやろうな」
 七夜はそう言って笑うと闇夜に飛び立った。
「だけど、儂だけは道主さまに不変を約束してみせるえ」
 さみしいかの神のためだけに共あり続けるためならば……。一支の決意は固くとも、道主さまが在り様を示すまでは一支は待っている。九威も十和も、できればすべてが丸く収まる道を探している。それが無理だとわかっていても。
「道主さま……」
 軽く呟く。すると隣に気配があった。
「何ぞ呼びしか」
「いえ。申し訳ありませぬ」
「ほうか」
 眠ることもできないしかし休む必要のある神の為に七夜は創られた。そうか、彼はもしかすれば二番目に道主さまと一緒にいるのかもしれない。
「十和と子供。如何なさいます」
「ほやな……九威が哀れではある。しかし手放せぬのよな。あれらはわしが創ったのと違うんに」
 数が増えるその変化は道主さまにとっては新しい木々の目が出るようなことだったのだろう。しかし喪失の痛みを知りたくない。だからもがいている。
「手放しても、また創ればええのですよ。ほしたらきっと時間が痛みを消してくれますさかい」
「ほうかな」
「ほうですとも。儂があなたの隣でずっとそうやって支えていきますゆえ」
 九威が言ったように創られた存在である我らは一時の身代わりのようになるかもしれない。一支が消えても道主さまはまた一支をつくるかもしれない。でも、今このとき、自分がある限り一支であれるなら、それでも構わない。
「それに時々帰ってきてもろたらええですやん」
「帰ってきてはくれぬじゃろう」
「でも、想うことはできますえ。今度は皆で一緒ですやん」
 もうあなたは一人ではないと強調する。そう、殺すだけがやり方ではないだろう。変わっていってもかまわない。ずっと一緒にあれるなら。二度とこの寂しい神を孤独にしないで済むのならば。
「ほうかなぁ」
「ほうですとも」
 後一押し、そのとき、山が揺れた。
「なんや」
 一気に覚醒を促された。山に一気に悪い気が流れ込む。うっと一支がしゃがみこむ。このような悪い気が大量に山に降り注ぐことは初めてだった。おそらく覚醒したほかの天狗も同様になっているだろう。
「一支」
 道主さまの言葉で我に返り、揺れる身体に鞭を打ってその場所へ向かう。
「十和を、子らを返せぇええ」
 それは、穢れに染まった九威の姿だった。恨みを抱いて、狂ってしまった哀れな天狗の……。大勢悪いものと穢れを引き連れて山を荒し、十和の姿をさらしている。天狗としてどうにかしなければと思うものの、身体が重い。道主ははっとする。
「九威」
「返せぇえええ」
「九威、止めえ」
 二菜と五女が叫ぶ。他の天狗も叫んだ。道主さまは顔を青くして九威を見ていた。その九威に向かって飛翔する影がある。闇夜から急に浮かび上がったような漆黒の翼。
「止め、九威」
 七夜だった。大きな翼が風を起こし、九威の穢れを吹き払うようにその身体を押し返す。
「七夜」
「山を汚すことは許されん。それくらいはわかっていよう」
「では、十和を返すのじゃ、十和を」
 九威はそう言って七夜に踊りかかる。七夜はしばらく九威と打ち合っていたが、やがて悟ったようだった。九威の意思が固く、変わらないことを。
「二菜、五女」
 七夜が呼ばう。二匹ははっとして顔を上げた。
「済まぬ」
 七夜がそう言って、九威の身体を貫いた。七夜は夜を司る天狗。夜のうちでは最強の天狗。一瞬で九威の心の臓を引きちぎって、その命を散らせる。べしゃり、と真っ赤な血が七矢を染め上げる。七夜は死んだ九威に目を向けず、九威が引き連れたほかの穢れを蹴散らしていく。
 誰もが穢れとこれからを思って動けなかった。しかし七夜だけは現実を、今を見て、動いている。まるで何も感じていないかのように。そんなことはあり得ないのに。
「……九威」
 道主さまが呟く。九威が山を襲ったことも。それを見て七夜が仲間を、同胞を殺したことも信じられないといったように。そして道主さまの術が解けたのだろう、どこからともなく十和と、雛が転がり出た。
「いやぁああ。九威、九威ぃいい」
 十和の絶叫が響き渡る。転がるように十和が九威の亡骸に駆け寄って、絶命している九威を絶望して見つめる。ふっと顔を上げ、血に染まった七矢を見る。
「父上が、九威を……」
「せや」
「どうしてです。わたしらはそないにいけぬことを望みましたかや、ただ二匹で、一緒に過ごすことがそないに悪いことでしょうや」
 あらかた侵入者を退治した七夜は娘の前で表情を変えることはなかった。
「悪い」
 七夜の答えは短く一言。次の瞬間には十和が同じように貫かれていた。振り向きざまに十和と九威の血で濡れたその手で二匹の雛を殺す。べしゃりと血が降り注ぎ、その場に殺されたうらみがよどんでいく。
 七夜は真っ赤な己の姿を一回眺め、静かに涙を流す八重に向かって微笑んだ。八重の目が見開かれる。
「だめ」
 迷うことなく己の胸を貫こうとした七夜の手を八重が止めた。
「触れるな。そなたに穢れが移る。我は障害とあらばためらいなく殺す。この闇が、夜がある限りは、我に勝てるものは存在せぬ。我の時間。我の罪の時間。そんなもの……必要ない」
 七夜の腕を抱きしめて八重が叫んだ。
「なら私はそんなあなたを照らす朝日になるわ。あなたが闇の中で戦うならそれを止める黎明になる。私があなたを止める導、夜を明かす光になるわ」
「……八重」
「じゃ、あたしは原因を作ったものとしてあんたを夜に引きずりこむ夕闇を引き連れよう。だから、あんただけの罪じゃない。あんたの罪をあたしも負うよ」
 五女が七夜にそう言って彼のもう片方の手を取った。
「ならおれはお前を照らす光になろう。お前が昼日中は心休まるよう、お前を天空から見下ろす日の光になろう。お前が罪を犯すならそれを許す光になろう」
 二菜がそう言う。夜だから七夜が殺したのではない。九威が戻れないと思ったから殺したのだ。おそらく、一支も同じ思いと知って、決心したに違いない。
「済みませぬ、道主さま」
 七夜が頭を垂れる。自分で物事を考えられるようになっていたのは一支だけではない。八匹それぞれがそれぞれの思いを持って今、在る。
「叶えよう、そなたらの思い」
 道主さまが言った。泣けない孤独なさみしいかみさま。独りを嫌う寂しい我らだけの。道主さまの手によってこの場が七矢が清められる。
「道主さま」
 一支が声をかけた。
「我が間違っていたのじゃろう。我の寂しさゆえにそなたらを生み出し、そしてそなたらを思い通りに動かして箱庭を作った我が、此度のことのすべての原因じゃ。すまなんだ、七夜。すまなんだ、八重。二菜。五女」
「そないなこと、ありませぬ」
 二菜が呟いた。皆が頷く。たとえ間違っていたとしても我らにはあなただけがすべてです。
「変えよう。ここから。始めるのじゃ、今から。われらの在り様を。……変わらぬものなぞ、ないのじゃ」
 道主さまがそう言った。
「我の山を八つに分けよう。その一つ一つをそなたらに任す。そなたらの山として、育み、在り様を示して見せよ。そなたらをそこでの主とし、そなたらが護り、次代へと引き継ぐのじゃ」
「我々を引き離すのですか、道主さま」
 四嬉が不安げに言った。道主さまが頷く。
「ずっと一緒におったらええのだと思うておった。外を無くし、内輪の中で暮らせればよいと。でもそれでも変わっていくのが常。そなたらが変わっていくのに、我がそれを留めてしまう。それではそなたらが苦しかろう。九威や十和のように、苦しく耐えられぬようになろう」
 先が見えない未来。在り様を示せない過去。変わらぬ現在。それではいつか崩壊が来る。
「でも、それでは道主さまは如何なさいます」
 三伽が心配そうに言った。
「我も我自身を八つに分ける」
「道主さま……」
「ほいで、そなたらと共にあることにする」
「そいは……どないですか、道主さま」
「我は山。山と共にあり、山そのもの。せやから山を分ければ我自身も別れる。そなたらの名と身体の一部を我と繋いで我はそなたらと共に、この山のうつりゆきを眺めよう。そなたらと共に居れるなら、きっと怖くない。きっと寂しゅうない」
 道主さまが微笑む。一支は何も言わない。あなたがそう決めたなら、言うことなど―なにもない。
「わけても同じようにおれるのですかや」
「無理やろう。おそらくまずこの姿は取れまい。会話は……条件付けがあれば出来ぬこともないか」
「そんなの、やです」
 六実が泣くような小声で言う。
「道主さまとお会いできなくなるの、いやです」
「いいや。我はそなたらと共にあるのじゃ。言うなればずっと一緒じゃ」
 道主さまは六見を撫でて、一同を見渡す。
「ほしたらいつか、そなたらが消えるとき、我も一緒に消えることができるじゃろう」
 死ぬことが出来ない神の身で、死ぬことができる可能性として道主は言う。
「そなたらと共にありたい。そなたらがいない変化なら、我は受け入れることなぞできぬから」
 ならばいっそ、一緒にこの身を消してしまおう。
「決意は固いのですな」
 一支が初めて口を開く。
「応」
「では、何も申しますまい」
 一支がそう言ったことによって、誰もがそれに頷いた。
「皆、我に髪を寄越せ。それを依り代とする。そして名を……そなたらの頭文字で我を縛ろう」
 道主さまはそう言って微笑み、まず、山を八つにわけた。その境に神気が通る力のある道を作り出す。
「これを『天狗道』とする。この道を通ったものは何であれ我らのような『天狗もどき』を作り出す。力がたまり、そこから生まれたものも同義じゃ。そなたらは似たものを仲間として招きいれ、そなたらだけの山を作るがよい。我はそれをそなたらと共に見守ろう」
 ふっと自嘲するように道主さまが続ける。
「別にしばらく隔絶した世界を維持するだけのこと。天狗と名乗っても構わなかろう。しかし本家本元に会うと混乱するやもしれぬな。そなたら以降に生まれた天狗は基本的に己の山から出さぬ方がよいかもしれぬ。それと天狗道を通ったものは我の刷り込みが入るが、それ以外はできぬゆえ、雌雄間での子を作ることは禁じよう。我のわがままに付き合ってくりゃるかえ」
 今度は道主さまが寂しさを紛らわす為の永遠の箱庭としての山ではない。道主さまが消えるまで共にあるための山々になるのだ。己の本分を山を護ることとする天狗として。道主さまの力が続く限り。
「構いませぬ。儂らを作ったあなたのため、今度はあなたが消えるまでご一緒するだけにございます」
 一支が言った。
「ありがとう。そいから今度からは我の力が及ばぬゆえ、そなたらが結界を立ち上げて外界と山とを遮断するのだぞ。もう我は力を使わぬ。ゆえに、そなたらも永遠の命ではもう、なくなるじゃろう。そうなったら次代を選び、我と引き合わせ、我を引き継がせよ」
「御意」
 全員がそう言って頭を垂れた。
「ほや、道主さま。我らそうなれば我らと他の天狗との区別が欲しいとこですわ。なんせ道主さまと共に在るお役目ですさかい、呼びわけては如何か」
 四嬉がそう言って提案する。確かに山を護る主となるのだから、区別があってもいいだろう。
「『宮』にしたらええんと違います。人らは主の住まう場所をそう言いますね」
 五女が言った。二菜も頷く。
「では一つ目の山『一宮』を授ける。一支、髪を」
 茶色い一支の髪をぶつりと項で切って道主さまに渡す。するとその髪を道主さまが身の内に入れ、笑う。
「『一』この名を持って我を縛る。『一支』、一宮を統べ、そなたがかの山を慈しみ、育て、見届けよ」
「御意」
 一支がそう言った瞬間に、大いなる力が見のうちに入り込む。己の狩衣の色が深い紫色に染まった。
「そなたにわしの好きな色を送ろう。共に在れ、一支」
「はい」
 道主さまは次に二菜の方を向いた。
「九威は悪いことをした。『二』の名で我を縛れ。『二宮』を任すぞ、『二菜』。天の太陽の如く、昼日中でも明るく世を照らし、世を知ることに長けよ。そなたには人から生まれた天狗を任す」
「御意」
 二菜がそう言うと、彼の狩衣は真っ白に染まる。
「次に三伽。『三』の名で我を縛れ。『三宮』をそなたに、『三伽』。木々から生まれたそなたには春を一番に送ろう。そなたを中心に芽吹かせて、そなたの護る山を緑で豊かにせよ」
「承りました」
 三伽の狩衣は若草色。三伽の様子を見て、四嬉が前に進み出た。くすりと笑って髪を受け取った道主さまは四嬉に声を掛ける。
「『四』の名でわしを縛れ。『四宮』をそなたに、『四嬉』。明るく活発なそなたらしい、夏のような元気な宮を作れ」
「はい」
 元気いっぱいに答える彼の狩衣の色は山吹のような明るい黄色。
「五女。次はそなただ。『五』の名でわしを縛ってくれるか」
「はい、よろこんで、道主さま」
 九威を殺すこととなってしまった彼女に道主さまはそう声をかけ、彼女もまた応える。
「では『五宮』をそなたに、『五女』。そなたが望むよう、夕闇を引き連れ、穏やかな夜を願う夕闇をそなたに任せる。すべての雌はそなたに、そなただけの、雌だけの宮を作ることを許す」
「はい」
 彼女の狩衣は藍色に染まる。まるで夜と夕方の境目のようなどこまでも続く藍色だった。
「六実」
 呼ばれて小さな天狗が駆け寄る。その天狗に向かって手を翳し、彼を成長させた道主さまは微笑む。
「いままでよく頑張ったな。木の葉天狗として堂々たれ。『六』の名でわしを縛ることを許す。そしてこの山で一番の樹をそなたと共にあれるよう任そう。木々を生い茂らせ、山を育み、そしてすべてを洗い流す雨となれ。『六宮』を頼むぞ、『六実』」
「はいっ」
 青い狩衣を堂々と翻す六実を満足そうに道主さまは見た。そして赤く染まった狩衣のままの天狗に声を掛ける。
「七夜」
「はい」
「一番辛い目に合わせたな、すまぬ」
「いえ、これが我の役目でありますれば」
 夜の危機を排除するのが烏天狗である七夜の役目だと、七夜自身がそう思って生きてきた。
「『七』の名で我を縛れ。『七宮』を任す、『七夜』。夜を司る烏天狗の宮をそなたに。穢れを恐れず、我らを護る剣たれ。そなたには戦いを厭わぬその勇気を他者から恐れを抱かせぬように……仮面をやろう。夜はそなたの時間。夜はそなただけのもの。夜がある限り、そなたは最強であろう」
 七夜の狩衣は血の赤ではなく紅色に染まり、その顔に鳥を模した仮面がはまる。
「承知しました」
「最後に、『八重』。そなたに『八宮』を任す。『八』の名で我を縛り、七夜の夜を終わらせる灯火たらんことを願って、永久に七宮の隣で七夜を支えてやってほしい。明るき夜明けの光たれ。そなたにはこの色を送ろう」
 そうして八重の狩衣が鮮やかに橙色に染まった。八重は頷いて七夜のそばに立った。七夜もそれに寄り添う。八匹の髪を受け入れ、八匹に己を分け与えた道主さまの身体は透けるようになり、残りの夜闇を取り入れる如く黒くなっていく。
「『八天狗』たれ。この場所に我の意識を残しておこう。この場所でのみ、己の中の我と会話をしよう。そして我に教えて欲しい。営みとは何か、死と生を。限りある生と、かわりゆく世を」
「御意」
 色鮮やかな天狗たちが頭を垂れる。それを満足げに見下ろして、一つ頷くと道主さまの姿は消えていた。八匹が再び頭を上げたとき、そこにいとしい神の姿はなく、その喪失に嘆き、そして身のうちに確かにある神の欠片を大事に抱えて八匹は己の山へと飛び立ったのだった。

 長い、永い時が経った。あれから季節は何度も巡り、そして月日が流れ、一支と共に山を分け与えられた宮たちは己の配下を増やし、山を護ることを第一に、道主さまに教えるがごとく、営みを続けた。
 山そのものと、そして道主さまが寂しさから創りだした『天狗』という天狗であって天狗でないなにかの営みを。ただし、それはやはり紛い物だからか、営みと呼ぶのは相応しくなかった。天狗は、雄と雌の交わりを決して許さなかったからだ。
 雌は、子を欲すような性を持つ尼天狗は全て五宮に生まれるようにし、それ以外は恋心を悟ることさえできないような天狗にしむけた。それは、道主さまの刷り込みのない天狗を恐れたのではない。初代の宮たち、子を成し、そして『天狗』を気付かせてしまった者らが己に課した事である。『
 天狗』なら――山を第一に考えること。山はすなわち道主さまを指す。道主さまに生み出され、道主さまを守るためにあるのだとその身にしみこませるように生まれた時から自覚するように。決して他の生き物やアヤカシのように雌雄の性を求めない。子を成し、事実に気付いて今度こそ道主さまを哀しませない。
 そう一支がきっぱりと決め、己の宮にはそれをひた隠し、定めた。他の宮もそれに倣った結果、『天狗』同士は子を成せないという事実が浸透した。そして『天狗』の本分は山を護ること、という性を一番に出させることに成功した。
 その頃から初代の宮は高齢になり、そして一匹、また一匹と息を引き取っていった。名前を引き継がせ、新しい『宮』に道主さまを譲り、その器となって。最後に、六宮の大樹が器を一新し、『天狗』の始まりを直接知る者は一支だけになった。
「だから、終いにしようと思います」
 紫色の狩衣。翻る深い紫は冬の凍えた空の下、暮れる日と迎える夜の間、一瞬空を彩る夕闇の色。迫りくる漆黒の闇が一番似合う色だ。
「一支……」
 深く思い山を表した声。だけど知っている。本当はもっと可憐な声だったことを。
「貴女の初めてはいつも儂でしたよな」
 闇の中では何も姿を現すことはない。でも、瞼の裏に、その闇に在りし日の道主さまの姿がある。
「貴女が初めて儂を生んで、そして儂らが始まった」
「ほうじゃ。そちが一。そちだけが我を知る」
「儂はね、道主さま。この身に貴女の一部を頂いた時から、他に譲る気など、ありませんでしたよ」
 くくっと笑う。天狗は人間で言う山伏の姿をし、その山伏は山に挑み、山に入って己を鍛える。その山伏は人の世で男と決まっている。なぜか、それは山が女だからだ。
 山神は女を表す。だからこそ、山は女人禁制の修行場――修験道も同じ。山に女性が入ると営みが生じて、『天狗』は狂う。徹底的に女を排除した。それが功を期したかは知らない。だけど、雄である己が、この山神を愛していることだけが真実。
「そなたはこの長い月日を我と共に生きる、それだけのために費やした。そなたは我に山の営みなど、うつりゆく世など見せることはなく、いつもこの仔細しか変わらぬ冬のような寂しい山を治めた」
「なぜとは問われますな」
「わかっておる」
 他が生き物として、移り行き、変わりゆく山を見せるなら。自分だけは神として寂しく、独りきりの哀れで愛おしい神のために、天とは違うだろうが変わらぬ世界を見せてみせる。
 だから、一支は死ぬわけにはいかなかった。そのためなら山の気を吸い、発展し、育とうとする山を邪魔してまで己の生を伸ばし続けた。山を護る本分を一番悖っても。それが、一支の望みだったのだから。
 ――それが一宮が冬宮と呼ばれたことの答え。
「貴女の初めては必ず我であると、それが儂の幸せやった」
 残念な事に宮として山を頂いてから死ぬことや宮の交替等は初めての経験を道主さまに与える役目は自分ではなかったが、初めての『天狗』が一支だったからこそ、譲れない初めてがあった。その為にだけにいままで生き延びて、そのためだけに山を貧相にした。
 一宮の他の天狗は誰も知らない。他の宮も、初代の宮たちも誰も知らない、一支の望み、それが今やっと叶う。我々の始まりを知る者が居なくなった時に叶う、一支の願い。
「これが、我々の終焉」
 貧相な冬のような枯れた山。静かで寂しい厳粛な山と宮。
「そして、儂の最後の我儘」
 満足そうに微笑む一支。甘くやわらかく、愛しい山神のために―。
「貴女に『死』を差し上げる」
 道主には今の一支の姿が、昔の姿に見えていた。すなわち頭は白くなく、茶色で若々しい姿。生まれたばかりの、自分の初めての『天狗』の姿を……。彼の笑顔と言葉にどれだけ救われ、支えられてきたことか。自分の望みを誰より早く理解した、まさに一番に支える『天狗』。
「一宮は新宮の継承は行いませぬ。儂が死に、儂の中の道主さまも死に、そして一宮は『天狗』の守護を外れ、もう道主さまのものではない、神の宿らぬ山となりましょう」
「初めての『死』をくれると、申すか」
「はい」
「我が長年得られず、そちらを作った理由となりし、全ての地の生き物にありし、それを我に」
「はい。終焉を初めて連れるのが儂が最後に貴女に差し上げるものとなりましょうや」
一支は微笑んで闇の中でも迷わず道主さまを想う。
「貴女の初めては全て儂のもの。それが儂の名を懸けた定めですよって」
 道主は己を分け、その一つを宮となる天狗の器に宿している。それを行わずに宮が死ねば、その中の道主も一緒に消える―死ぬことになるのだろう。
 だから、愛しい山神をずっと己の身に宿し続け、時を待っていた。道主さまの中で初めての経験を与えられるまで。初代の初めてを知る者がいてまた一支に倣われたら困るから、一支はずっと最後の一人になるのを待っていた。
 だれも『天狗』の可能性と秘密を知る者が消えてこそ、初めて一支が死ぬ意味がある。
 山が滅ぶ――それは人のせいと今ならだれもが考える。だが、事実はどうでもいい。山が滅ぶ――それは道主さまが少しずつ死ぬということ。
 道主さまだけがわかってくれればいい。『死』という概念を。営みの最後にして始まりのその点を。神が決してできぬ経験を。一支が最初に与えられたら、満足なのだ。他の、今の宮たちが決して選ばないその道を。
「許してくださいますかや」
「許す。ありがとう、一支。最後まで我を……我を想い、我をよう支えてくりゃった」
「はい」
 満面の笑顔で深い紫色の狩衣が紫色を保ったまま、そして一支の髪が長くなることは決してなく。足元から解けるようにして消えていく。それと同時に濃い闇の気配も薄れていく。一支が消えるのと同時に道主もまた、消えていく。
「これが、『死』か……」
「ただ、消えゆくこと。そしてそれ以上に残すことがあるもの。これが『死』です」
 最後に一言、そう言って一支が散っていった。それと同時に闇が完全に晴れ、寒々しい山に日が指す。
「宮さま」
「宮さまっ」
 突然消えた宮と、その結界。
 ――この山は山であってもう、山ではない。一宮では決してない。
 それでも山は、山であって。変わらずそこにある。でも、もう何かが違う。その場所にいた神と天狗は、もういないのだ。だから、新しい『山』としての営みが始まる。
 突然消えた宮。配下の天狗は混乱し、当惑しながら残る命を山で過ごすかもしれないし、山を離れるかもしれない。いずれにしても、もう宮はいないし、もうないのだ。それを自由と取るか、苦痛と取るかは、彼らに無責任に委ねられた。
 だが、山の有様を指し示す導のような守護の存在が消えて、そこには新しい営みと、新しい時代が来る。

 ……ほらそこに、春の兆し。新芽は山神の守護が無くとも日の光で目覚めることができる。
 痛いほどの静寂と、厳しい冬を乗り越えた山の本質が顔を出そうと動き出す。ほの暗い紫色の夕闇が晴れて、あたたかな春の日差しは山全体を照らし、そうして新しい命が芽吹く。
 本来の姿か否かは関係ない。そこに神がいなくとも、宮が消えても山自体の営みが潰えることはないのだろう。

 ――だから、そこは誰もが命咲かせる山なのだ。

 第十話 「一支」終.