TINCTORA 016

057

「イコサ」
 部屋にノックされることすらない。一応個人部屋が与えられているがとても狭い。もともと欲も生活感もない自分だから、ベッドしかない小さな部屋でも大丈夫なのかもしれない。
「博士さま」
「出かける。ついて来い」
「はい」
「ああ。その中にお前が着る服が入っている。軍服を着ろよ」
「どちらに行かれるのですか?」
 振り返ってティティスは笑った。
「お前の元ご主人様にお前を自慢しに行くのさ」
「悪趣味ですね」
「ふん、無駄に口だけは達者になったな。仲間の影に隠れて泣くことしかできなかったお前が」
「昔の話ですから」
 イコサはそう言って部屋にあるクロゼットを開ける。中には少量の服が入っていた。その中から深いグリーンの軍服を手に取った。
 そして複雑に思う。この軍服に腕を通せば、形式だけでもケゼルチェックに敵対する意思を否応でも持つことになるのだと。
「こんなことなら遊びでも一回白い軍服着てみるんだったなぁ」
 白はケゼルチェックの色。深い緑が示すのはソロモンだ。腕を通して、慣れない剣を腰に差して、深く帽子をかぶる。
 陸軍所属のソロモン軍と海軍兼陸軍所属のケゼルチェックでは軍服のデザインが少し異なるようだ。個性を無くす服だな、軍服って。

 王の城で盛大にパーティが開かれていた。戦争中であるにも関わらず豪勢なパーティであった。国王主催のその場所の主賓はまだ若い少年。
 そう、ケゼルチェック公爵の正式な着任を祝う会であった。白い儀式用のケゼルチェックを示す外套はケテルによく似合っている。
 ケゼルチェック卿を正統な血筋の者が継ぐことが急遽決まったがそれを反対するものなどいない。もともとケテルが継ぐはずだったし、それを誰もが望んでいた。
 つまり世間知らずな若い少年が継げば、誰もがケゼルチェックを意のままにできると踏んでいたのだ。
「誠におめでたいですな」
 水色の外套を着たのは、リダー卿だ。リダーを示す水色に深い青色の装飾。
「リダー卿には昔からお世話になりっぱなしで……今度の戦争もお互いに協力して勝ちに行きましょう」
 ケテルは親しいリダー卿にも外面の挨拶をするに留めた。
「久しいな、ケテル。君と会ったのは何年前だったか」
「これはバイザー卿」
 十公爵の当主は本日は全員儀式用の外套を着用している。バイザーを示す色は深い赤紫。ワインレッドのような落ち着いた赤色だった。装飾は金。
「父が亡くなって以来になります」
「もう、大丈夫なのか?」
 案じる心遣いが伝わってくる。まっすぐなバイザー卿をケテルは嫌いではなかった。だからこそホドに仲間に加えろと命じた。
「はい。長らくご心配をお掛けしました」
「ケテルさま、お久しゅうございますな」
「……ソロモン卿! 父の葬儀の際はまともなご挨拶もできず申し訳ありませんでした。改めて、これからいろいろなことのご指導のほど、宜しくお願いします」
「突然、あのような亡くなり方をされたのです、どれほど悲しまれた事か……当時少しでもご協力できずこちらこそ申し訳なかった」
 悲愴な顔を作り出して、目だけはケテルを値踏みするように見ている。
「それにしても、ケテルさまは母上様と父上様それぞれのお美しさを受け継がれましたな」
 どちらかというと彼の男色家的な目線も混じっている。それをホドが前に出ることで制した。ソロモン卿の不機嫌そうな顔はさすが貴族一瞬で笑みに変わった。
 ケテルは心底笑みを浮かべても心の中は怒りに埋め尽くされていた。何が! 父の仇とも言うべき男のくせにいけしゃあしゃあと。
「ええ。我が君の目はまさしく前ケゼルチェック卿・ヴァチスさま譲りですから」
 返事さえホドが代わりにしてくれて助かった。声が変わらない自信があまりなかった。
「我が君、あちらにルステリカ卿がいらっしゃいます。ご挨拶に行かれては」
「ああ。わかった。それでは、また後ほど。ソロモン卿」
 ケテルがソロモンから離れた瞬間にホドが耳打ちしてきた。
「お前、顔に感情が出てるぞ」
「! ホドには遠くおよばないね」
 ホドが昔のようにぶっきらぼうな口調になるのは珍しい。それほどソロモン卿の前ではやばかったってことか……。ケテルは内心反省した。
「今回はご着任、誠におめでとうございます、ケテルさま。いえ、ケゼルチェック卿」
「ありがとうございます、ルステリカ卿」
 一言挨拶したとき、皇帝の声が響いた。
「皆、集まったようじゃな! ケテル、こちらに参れ!」
 陛下の声で静まり返ったホールにケテルは陛下の傍に召され、ホドにアイコンタクトを送って陛下の元へと歩き出した。
 ケテルは陛下が座っているこのホール内の一番の上座、すなわち玉座に向かって延びている赤い絨毯の上を威厳をもってゆっくり歩く。
 そして階段を上って玉座の前で跪いた。
「よくぞ、決意したな、ケテルよ」
 ケテルは深く頭を垂れる。これは決まった伝統的継承の儀式だ。王が儀式用の剣を授け、それを受け取り、忠誠の証として自らの血を捧げる事で、ケテルは王に認められた公爵となる。
「背負う色は純白、意味は忠誠。そして装飾色は真紅。意味は王の為に血を流すことの意。古くからの血脈ケゼルチェックならでは、だね」
 こそっと隣でルステリカ卿が儀式中のホドに耳打ちした。
「南の筆頭血脈だからね。これでやっと南もそろった、というわけだ」
 ホドも言う。この国は歴史が古く、伝統が残っている国で、儀式的な行為を好む。十公爵制度に始まり、その十公爵にそれぞれの色を背負わされ、それぞれの役目と意味を背負う。
 この国の国民ではないホドからすれば馬鹿らしい。よって今回のようなパーティは儀式の意味合いが強く、十公爵の当主は正装用の個人色をあしらった外套を着ている。ケゼルチェックは白だからそんなに目立たないが、隣にいるルステリカ卿は藤色の外套だ。
「私はね、君のことは気に入っている。君の実力と才能はすばらしい。だが、あの申し訳ないがケテルさまには私は信頼を寄せられないな。君の願いならともかく……」
「そこまで僕を買ってくれているのはありがたいが我が君は僕以上にすばらしい方だ。君もすぐ気に入るだろう」
 ホドはそう言って笑った。自分で確かめなければ、という考えを持つルステリカ卿をホドはキライじゃない。だからこそ北の血だろうが仲間に入れた。
 ホドからすればこの南だの北だのの争いはかなり根が深く感じられるがくだらない。これも王の怠慢だろう。互いに競わせるならもっと別の手を講じればこの国ももっと安泰しただろうに……。
 ホドはそう思いながら、ケテルの心臓に儀式用の剣を儀式的に向けた老いた王を冷たい目で眺めた。
「いたずらに国を動かし、領土拡大を目指す強欲なる老王はすぐにでも潰えるべきだけどね」
 誰にも聞こえないように表情は全く違った顔をしてホドは呟いた。
「残念ながらこの国には優秀な王たる後継者がいない」
 ケテルが恭しく両手で儀式剣を受け取り、腰に差す。それからまた剣を少しだけ鞘から抜いて、自分の指先を切ると予め用意されていたグラスに血を垂らした。
「ケテル、君はまだまだ子供だ。この悪意にそまった世界で君は同じように傲慢でい続けられるかい? 傲慢でわがまま、それが許される子供時代は終わってしまうよ?」
 ティフェレトのために公爵になったケテル。だが世の中はそれだけでは済まない。それに伴う責任を果たすことがケテルの責務だ。それを行えないのならば……ホドはくすっと笑った。
「せっかくこの十年で豊かにしたけど、ま、何年持つか賭けてもいいかな」
 ケテルの血が混じったワインを飲み干す。ケテルは身を低くして王の脚に口づけた。身を持って忠誠を示す。これにて儀式は終了だ。
「馬鹿ばかしい。脚にキスなんて悪趣味だよ。サルザヴェクⅠ世はさー」
 おそらくそれを定めた初代女王をホドは笑う。忠誠ではなく、どちらかというと服従じゃないかとホドは表情を変えずに行えたケテルを見て思った。
 ケテルは儀式を終えてホドの元に向かおうとしたが、十公爵の色とりどりの外套に阻まれていた。一種のテストのようなものだ。ホドが助けるまでも無い。ホドは一歩引いてそれを眺めるだけにした。
「ホドクラー卿」
 ホドは声の方を振り向いて、内心唾を吐いた。が、現実はさわやかな笑みを浮かべて自分から近づいていった。
「これはギブアルベーニ将軍。いらしていたのですね!」
 すごくうれしそうにホドは満面の笑みを浮かべた。
 ディオネ・セジル・ギブアルベーニ。ソロモン卿長男。ティティスの兄で、昨年、優秀で力もあった西方将軍であったルステリカ軍出身の騎士を、適当な罪状で追放し、親から与えられた将軍位にふんぞり返っている男だ。
 自分が戦争を行った時、ディオネが将軍だったら勝つのも困難だったに違いない。
「どうも、どうです? ティティスは? 使えますか?」
「ええ。すばらしい魔法知識ですね。先日もご自身で製作されたという魔法兵器を使ってくれないか、と申されたんですよ」
 たいへんありがたいと、言外に滲ませホドは笑った。
「おや、今宵はヴァトリア将軍はいらしてないのですか?」
「はい。今は戦時ですから」
 ホドの傍には必ずいるとでも思っているのか。レナが女だから自主的行動が取れないとでも考えているんだろうか。おあいにく様だね。南はそんな古さは持ってないよ。
「ギブアルベーニ将軍は……」
「ディオネと呼んでくださいよ、ホドクラー卿」
「ディオネさまはよろしいのですか? いくら南が中心とはいえ、北の防衛線は」
「北と西は同盟国同士ですから、楽なものです」
 朗らかに笑うが、数年前はその同盟国とだって争っていただろうに。お互いがお互いを潰しあう位にまで後に引けなくなった戦争の和解案をまとめ、外交を行ったのはホドなのに自分の手柄のように言う。あの時お前は父親の影で踏ん反り返っていただけだろうが。
「そうですか。それはディオネさまが日々境界線を防衛している為でしょう。エルスの右腕とも称されるお方ですからね」
「お恥ずかしい」
「南は今激戦区のようですが、勝算はおありですか?」
「そうですね、皆海戦は初めての者が多いですから……」
 口ごもってホドが言うと唇をつりあげてディオネが笑った。
「そうですね、ケゼルチェック卿、あ、失礼。前ケゼルチェック卿は海戦を勝利に導いてきた前南方将軍、軍師もろともご自害なさいましたから……今思うと残念でなりません」
「ええ。私もあの方たちのご指導が得られれば……と思ってやみません」
 ホドがしれっと応えたのでディオネは意外そうに一瞬口をぽかんと開けた。が、すぐに顔を引き締める。
 ケテルの父を自害に追い詰めたのはソロモンの一派。そして死んだのはケテルの両親だけではない。ケテルの両親を支えて、南の中心を担っていた優秀な部下もだった。
 つまり、ケテルが死んだ時、当時の南方将軍であったレナの父親も同時に死んだ。
(そういう意味ではソロモン卿はよくやったよ。だって南の主勢力皆殺しだからね。しかも責任をすべてヴァチス・フォン・ラズリート・クレイスになすりつけた)
「今度陛下の下でこれからの見通しなどを話しあう機会を設けては、と思っているのですが如何でしょうか。我ら四将軍が知っておいた方がいいのと思うのです」
「そうですね、ヴァトリア将軍にも話しておきましょう。陛下へも、私が」
「そうですか? お忙しいのでは?」
「いえ」
 やんわりと直接会談を避けるべく、自分から話すと言うとタイミングを計ってケテルの元に向かう。
「どうだったんだ? 父上」
 ホドが離れた時、そっと歩み寄って、ソロモン卿に近づくとソロモン卿はホドの後姿を見て笑った。
「幼きものよな。あの男もなぜ今になってケテルを持ち出したのやら」
「戦争が忙しーんじゃねーの? 今んとこ、敗戦に近い戦況ばっかなんだろ?」
「いや、あの男を侮ってはならぬぞ、ディオネ」
「父上に抱かれたのを悔しくも思ってないのにか?」
「ふふん」
 その時を思い出したのか、ソロモン卿は強気の笑みを浮かべた。滅亡寸前のケゼルチェックを壊滅までに追い込もうと、ソロモン卿は想定外に生き残ったケテルを処分しようとした。それを察知したホドクラーが身代わりになったのだ。
 一番屈辱的な行為、すなわち抱かれてみるか? と持ちかけた。もし本当にケテルの為を想い、そこまでしても、おそらく屈辱からこの男はもうケテルの傍で政治の舞台、いや、貴族の覇権争いに参加しないだろうと踏んでのことだった。
 それはケテルの後見人を潰す事、すなわちケテルを潰す事になるしかないのだが、あの男はしれっと言い放ったのだった。
「なんだ、そんなことでよろしいのでしたら、好きなだけ」
「お前、よいのか? わしが抱くということは……プライドはないのか? お前のこれからの立場はないぞ」
「何を仰います。男色家で通っておいでのソロモン卿に抱かれたのでしたら、別段苦しいことはありません。ケゼルチェックの為ならば、こそです」
「お前、男に抱かれた事があるのか?」
「もちろん、ございません。初めてですとも」
「……恐怖はないのか?」
「だから男色家のソロモン卿でよかったと申したではありませんか。……優しくしてくださるのでしょう? 初めての僕に対して」
 その時、ホドクラーは一度として恐怖や屈辱を味わったような顔つきをしたことはなかった。だが感じている様子は見せても快楽、興奮には程遠い様子で一晩に何度抱いてもそれは同じだった。しかし、
 ――ホドクラー伯爵はケゼルチェックのためにソロモンに屈した。
 という事実は残せた。プライドを折った。負けに追いやった。そう信じて疑わなかったソロモン側に対し、別段変りなく、どちらかというと、抱かれたことを自身に有利に働かせてあの男は這い上がってきた。
 まさか、プライドを折るつもりが、ソロモン卿に抱かれるほど気に入られている自分が賛成したのに、あなたは賛成しない気か? などという逆転の発想を行い、物事を有利に進めるとは思ってもみなかった。
「よいか、ケゼルチェックの真の怖さはあの男よ。あの男がいたからこそ、前回のダンチェートとの戦争も和解になり、ケゼルチェックも持ち直したのだからな」
「でも、父上、あいつの身元、まだわかんねーんだろ? 人種からしてここらの男ってのはわかるがな」
「あれだけの男だ。自分の身元くらい、抹消しているだろうさ」
 一人ですでにあれだけの才能と実力を持っていた男だ。それがいまさら何故、よってたかられるとわかっているはずなのに幼いケテルを公爵に持ち出したのか。後見人ではなく、ケテルそのものが公爵になってしまえば情報の秘匿から十公爵会議にも参加は不可能になる。
 彼は公爵の身分を捨てたのだ。だが、問題はその先。捨てて何をたくらんでいる? あえて有利なカードを捨て、彼は何をしようと画策しているのか。ソロモン一派は不安になっていた。
 それだけぽっと湧いて出た存在でしかなかった身元不明の青年が、一番の目の上のたんこぶとなっていた。

「あー、疲れた!」
 城の一室に戻ったケテルはそう言うなりベッドに倒れこんだ。ホドがやれやれといった様子で儀式用の外套を脱がして、畳んだ。
「今まで、苦労をかけたね。ホド」
 枕に顔を押し付けたまま、小さな声が、響く。
「立ち直れたの?」
 そう訊く声は優しい。
「わかんない」
 そのまま倒れこんだので、ホドはケテルのブーツを今度は脱がせてベッドの端に揃えておいた。
「これから僕は君の隣には立てない。でも君は独りで立てるんだね?」
「立てなきゃ、意味ないじゃん。ホドがせっかく計画を変えてくれたんだもの。僕、もう、子供じゃいられないから。僕は僕のために」
 甘えは言わないと誓ったのかもしれない。あの甘チャンが、よくここまで。人は本当に変わるものだ。
「ホドはこれからどうするの? 本当に僕は自由に動いていいの?」
「ああ。ケテルがすることなんて予想の範囲内だし。しばらくはレナの隣に立っているよ。軍師としてはもちろんだけど、状況によっては僕は兵にもなれるからね」
「どうすんの? これから」
 ホドは答えない。ケテルはそれでもよかった。
「でも、ケテルは案外、ヴァチスさまのことを忘れていないんだね」
「うん。そうみたい。僕は欲深いから、ティフェのことだけじゃなくて、父さまの仇うちもしたくなっちゃったのかもしれないな。ホント、だめだよね」
「家族は一番近しい人間だ。あたりまえだよ。それに、ケテル。君は本当は優しいだろ?別にいいんじゃないの。したいことをするために“生きて”いるんだろう?君」
「うん」
「忘れないで。僕は君の隣に永遠には立っていないだろう。だから支えきれない。でもね、さまよっている手を邪険に打ち払うほど、僕は君のことをどうでもいい存在だとは思ってはいないんだ」
 ホドは握っていた暖かな手を解き、おやすみ、と言って扉を閉めた。
「優しいのはお前だよ……ユナ・ヘルツ」
 ケテルは枕をぎゅっと抱きしめた。そうしないと今夜は不安にさいなまれてしまう気がしたから。

 不安な気持ちを残したまま見る夢はたいてい悪夢と決まってるものだ。
 何度も見る悪夢をケテルはうんざりと知覚する。発狂するほどの暗闇に閉じ込められたことはあるか? 無制限の音さえ皆無な暗闇に。
 それは自分との戦い。孤独な閉じ込められた空間での孤軍奮闘。助けは皆無。そしてケテルは叫んだ。
 暗転。
 埃っぽい薄暗い部屋には死臭が満ちている。腐乱のにおいが立ち込めて、現状を理解することを感情が拒否する。でもようやく開けてしまった視界に移るのは、屍、屍、屍、屍、屍、屍、屍、屍、屍、屍、屍、屍、屍、屍、永遠の死体の山だ。
 屍のほかに見えるのは、ケテルが最後に見た夜会のパーティのまま。ろうそくはすでに燃え落ち、食べ物は腐乱していたが、それ以外には変わりなく、まるで死人のパーティに一人で迷い込んだかのようだ。
「とぉさまぁ……かぁさまぁああ」
 恐怖か孤独か。幼い自分があげる声は弱弱しい。両親がいたのは上座。そこに足を動かして、そして、両親が座していたはずの椅子は、姿なき、ただの椅子でしかなく、ケテルは両親を探すべくして、屋敷内を歩き回った。
 いない、いない。ここにもいない。両親の親しい身分の者たちは皆、ホールで死んでいたはずだが。
 残すはプライベートルームのみ。ケテルは迷わず両親の寝室へ向かった。
 ノックを普段なら忘れないけれど、今はそんなこと思いつかなかった。そして、そこで見た光景は……。
 ――両親は、二人仲良さそうにベッドで静かに息絶えていた。ただし、それは事実であり、ケテルが見た光景をあらわすにはあまりにも簡素な説明であった。
 二人の体は当然ながらに腐敗し、そこにどこから沸いて出たのやら、虫が這い、腐った皮膚が時折白い骨を見せる、両親の紛れもない両親の腐乱死体であった。両親は死に場所こそほかの人間とは異なったが、どの人間とも同じように腐っていた。
 当然ながら腐った人間を見るのは初めてのケテルにそれはあまりにもショックなものに変わりはなく、しかし、両親の死を驚きこそすれ、腐乱死体に向ける悲しみは湧かなかった。逆に嫌悪感を抱いた。
 そんな自分が醜いと思い、悲しいと感じたのは両親の死から数年経ち、両親を死に追いやった原因もなにもかも当に理解できた頃だった。
 ただ、両親の死体に怒りを感じ、屋敷に一人だけ、孤独を理解し、ケテルは狂うこともできずに冷静に、ただ自分が今しがた手にした力を行使し、初めてケテルは人に命令を下した。
「お前は僕の力となれ」
 膝を折って、契約を結び初めて臣下を得た。その男は臣下と呼ぶにはあまりに信用が置けず、自分勝手で興味のあることには深入りをしたがる、気違いの男。
 そう気が狂っているのは賢者の特徴だ。その賢者二つ名を『たゆたう黒煙の影』といった。

 そうして数年が経ち、ノナは3回目の人工魔法成長を強要された。そしてノナも17歳の体つきになり、イコサは成長を促されても14歳。子供のまま取り残された。
 このまま不自然な平和な日々を過ごせるとイコサは信じていた。しかしその日々は唐突に終わりを告げる。ヘキサは見てしまったのだ。
「ヘキサ、いけない子だね……」
「お前ら! お前ら! 今まで、ずっとこんなことをしてたのか?!」
 ヘキサは白衣の男に囲まれつつ、怒りに肩を震わせ、そう怒鳴った。
「実験体だ、お前たちは。何がいけない?」
「博士さま、あんた、こんなことしてまで俺たちを望む姿にできねーなら、やっぱあんた才能ないんじゃねーの?」
 白衣の男たちに取り押さえられてもなお、ヘキサは叫ぶ。
「貴様! よくもそんな口を」
「止めちまえ! こんなくだらねー! てめぇの理想に付き合わされて、俺たち、馬鹿みたいだ!」
「私は馬鹿にされるのは嫌いなんだ、知っていたらお前もこんな下らないことは言わなかっただろうね」
 博士さまが怒っているという事実さえ吹っ飛んだ。いつもなら気をつけて事を荒立てないようにしているのに。そんなこと関係ないくらい、怒りが身を焼いた。
「てめぇも味わえよ! あんな目にあってみろ! 聞こえないのか!! あいつらの叫びが、痛みが! わからねぇのか!! 俺たちの苦しみが! 憎しみが!!」
 ヘキサは泣いていた。信じられなかった。許せない。よくもあんな真似を!
「ヘキサ・キリングドールはもうだめだな」
「処分するのか! 殺すのか!!」
 ヘキサは叫んだ。そんなことされてたまるか! こんな馬鹿なことってあるか!
「なんで生まれてきて、死んでもお前らに支配されなきゃいけねーんだよ!」
 死ぬのは怖いけど、死んだら、死んだら自由になれると信じていた。
「俺たちはモノじゃねーよ! 俺たちは生きてる! 俺たちは、こんな目にあわなきゃいけねー理由なんてねーんだ。お前たちの言いようにされてたまるか! 死ね、お前らこそ、死んじまえ!!」
 ぱすっと首の静脈に麻酔を打ち込まれ、ヘキサは倒れる。
「どうなさいますか?」
「記憶置換を行う。魔法耐性が低いヘキサは耐えられないかもしないね。だけど構わないさ。処分するよりは有効活用ができるだろう」
「わかりました。洗脳プランはいかがしましょう?」
「基本的なものでいい」
「わかりました」
 真実を探し、自由になろうとしたヘキサが見たものは、すべてを終焉へと導いた。

 そしてヘキサ・キリングドールは狂った。否、狂わされた。