TINCTORA 018

064

 エルス城の地下施設の一部にこんな魔法に満ちた空間があるとは、王族の人間や城に出入りする貴族すら誰も知らないだろう。おそらく知っているのは賢者など数少ないに違いない。王宮付きの魔法使いでさえ気づけないだろう。
 ビナーはいろいろ調べてふむ、と頷く。エルス城の地下には広い儀式用としか呼べないような空間がある。
 そこには複雑怪奇な魔方陣がいくつも記されている。その羅列は魔道書のように真実を隠すための膨大な魔法の様でもある。とにかく膨大な数の魔法がいくつもいくつも重ね描きされ、複雑に絡み合い、複合している。
 一つ魔法を紐解いても次の魔法が立ちはだかり、目的の魔法にたどり着けるかさえわからない。そんな古代の魔法、おそらく神といった次元の違う魔法がここには眠っている。
 この魔法の宝ともいえる叡智を巡って大帝の剣と黒煙の影は争っているのだ。誰がその魔法を手にするか、というものではない。この魔法を使って一方はこの世界を手にしようとし、もう一方は違う世界を夢に見ている。
 だからこそ、互いに互いが邪魔なのだ。しかしビナーは両方の中立の立場を取っているし、別にこの魔法を使って何かしようとしているわけではないので、誰の邪魔もされない。
 なぜこの場所にあるのか、何が眠っているのかすらわからない。
「ここはどう調べても興味が尽きぬ。毎度発見があるな」
「そうして、自分の都合いいことばかり貴女は嘯くのね」
 ビナーは最初から侵入者がいることは気づいていたと言わんばかりに、突然の闖入者にも寛大な対応をする。
「何か我に用か? 深海の雪」
 振り返ったときに彼女の漆黒の杖から揺れた銀の金属板が触れ合って涼やかな音を立てた。
「聞きたいことがあるわ」
「我に答えうることならば答えようぞ」
 展開していた術式を収めて、杖で軽く床面を叩く。するとまるで光源のように光っていたいくつかの魔方陣や魔法文字が消え、代わりに違う魔方陣が展開したりした。
 自然に行われるそれは魔法と言うよりかは神秘的な光景にすら見える。漆黒のドレスを着、三日月を模したような先端のこれまた漆黒の杖。その杖の先には青い球状の鉱物がつけられている。魔法使いとしては一般的な『杖』であった。
 己の魔力をその鉱物に集め、収束させて魔法に展開する、魔法使いの補助具の一つだ。
 賢者にもなれば、そういう補助具としての魔法具を好む者は少ない。コクマーなどは己の魔法具を持ち歩かない主義で、その場の紳士が持つステッキなどで代用することもしばしある。しかしビナーは己の身長ほどもある長いその漆黒の杖を気に入っていた。
「私達に嘘をついたわね」
 率直に言う深海の雪に対して、ビナーは一までやっていた作業の中断作業を続けている。
 涼やかに無表情なまま、床面の一定の場所を杖で叩き、文字を書き込み、魔方陣を展開させては消し、を繰り返していた。
 その作業中は肩を怒らせている深海の雪の様子など一向に気にしていない。その証だとでも言わんばかりにビナーは一回も深海の雪の方向を見ていなかった。
「嘘とは?」
「『賢者の石』のことよ。楽園の檻に聞いたわ。口伝できないと言ったのは嘘だったのでしょう!?」
 作業を止めずにビナーは言い返した。
「ふむ。それは我の過ちか。そのことを確かめに行く様な積極的な輩がそなたらの中にいたとは」
 あまりにも普通に言うものだから、深海の雪は一瞬反応が遅れた。
「な! 少しは弁明とか、慌てたりとかしたらどうなの!!」
「その必要性を感じぬな。我は嘘をついたかもしれぬがその行為を悪いとは感じていないのでな」
 ビナーは作業を終え、杖を一旦軽く床について初めて深海の雪を見た。といっても、彼女の目は長い前髪によって隠されているので、顔が深海の雪の方向を向いたようにしか見えないのだが。
「なぜ、私達に賢者の石の在り処を教えなかったの?」
「教えたくないからだ。それ以外にあるまい」
 しれっと子供のような言い訳をされて深海の雪は信じられないように口を開けてしまった。
「何故と聞いてくれるな。我は賢者の石がどんなものか知っている。そなたらが手にした結末もな。ゆえに教える道理はない」
「では、そう言ってくれればいいじゃない」
「それで納得できるのか? そなたらは。大帝の剣、あれはそれでは済むまいよ。あれは黒煙の影と同じだからな」
「な! あの方を一緒にしないでよ!」
 叫ぶ深海の雪を面白そうにビナーは眺め、そして言った。
「ふむ。若いな、深海の雪。そなたは賢者にしては面白い」
 馬鹿にされていると感じたのか深海の雪の眉間にしわが刻まれる。
「同じと言う理由は聞きはしないわ。くだらない理由でしょうから。では、最古の賢者の一人である黒煙の影が賢者の石に手を出さない理由は? 彼が手を出さない保障がどこにあるの?」
 ビナーは顎に手をやってしばし悩んだ。
「そうだな……我はあやつではないからな。本当の理由は定かではないが、おそらく一度手を出して懲りたからだろう。賢者の石なぞなくても我々賢者には出来ることが多くあり、そなたらが望むものもなくても叶う。故に手を出すことを薦めない。しかし、それで納得するそなたらではない。あれは一度知った者でしかわからぬ達観さ、とでも言おうか。それがあるからな。しかし手を出してそなたらが無事かはわからぬし、我が教えたくない理由は他にもあるのでな」
 ビナーはそう言った。
「黒煙の影と契約した、そうでしょう?」
 ビナーは答える義理はないと言わんばかりにわずかに口元を上げただけだった。しかし深海の雪はそれを肯定ととった。
 実際ビナーはコクマーと契約を交わしたが、それは賢者の石の在り処を黙して欲しいということではない。ケテルを守って欲しい、が実際の契約内容だ。
「理由付けを探すのは賢者のやることではないな、深海の雪。ただ単に欲がそこにあるからで済むのではないか? ……さぁ、今の己の望みを言うがいい。すなわち、『お前を裏切り者と判断し、殺したい』とな」
 ニィっと赤い唇が吊り上る。それは相手をするのに理由を探してためらうなと言っていた。
「それともこうかな? 『お前が気に入らないから、殺したい』。おや、これでは立派な理由付けが成立している」
 深海の雪は一瞬驚いた。己の心のうちを正確に言い当てられたからだ。だからといって、下がる彼女ではない。
「貴女がそこまで好戦的とは知らなかったわ」
「正当防衛と言ってもらいたいものだ。そこまで殺気を当てられて平気な者がいるとは思えぬが?」
 深海の雪がジャケットの裏から無骨なナイフを取り出す。
「できればここは儀式の会場だ。我らのというか大帝の剣の望みの場所でもある。場所の移動を提案したいのだが?」
「させないし、この場所は傷つけないから必要ないわ。そんなあからさまな誘導には引っかからないわよ」
 魔法使いというのは己の得意とする魔法を持っている。それが個性とも呼べるし、個人の技ともいえるのだが、杖を振り、呪文を紡げば魔法という簡単なものではないのだ。
 実は魔法にはそれなりの儀式や準備が必要である。それが賢者のレベルとなれば必要なくなるくらいの魔力を持ちえると言うだけの話だ。
 だから賢者同士の戦いとなれば好条件で戦うのは当然のこととなる。自分が用意した場所や、魔力の相性のいい土地などで戦えばそれだけ有利になるのだ。
「短気なことだ」
 ビナーは肩を竦めて、黒い杖を構えた。
 ――しゃらん、と涼しげな音が開戦の合図となった。
 深海の雪はレザーパンツと現代なら呼ばれる黒いパンツを穿き、黒の短めのジャケットを愛用している。それは動きやすさを重視しており、魔法使いの分類としては『近接戦闘の魔女』だ。
 魔法と一口にいっても魔法を使うのが魔法ではなく、己の身体強化に魔法を使い、それを極める事だって立派な魔法使いとなれる。
 深海の雪はナイフを構えて、低い姿勢で獲物を狙う肉食動物のように視界に獲物を入れる。
「ふむ、魔女刀(アイセミ)か……」
 頷いてトン、と杖で床を一つ叩く。深海の雪はかすかに魔力を感じ、突っ込む姿勢を反転させ、低い天井まで跳び上がり、急降下を行う。その動きはすでに人間ではありえないが、魔法なら可能な動きだった。
 突き出したナイフはそのままビナーの脳天を突き刺す予定だったが、まるで磁石の反発のように身体ごと弾かれる。そのまま優雅に受身を取りつつ着地をした深海の雪は舌打ちを一つ。こちらが近接戦闘の直接身体を痛める魔法と知って、己の周囲にバリアのような魔法を展開したと予測する。
 ならば、と素早くアイセミの刃で床をなぞった。それは魔方陣と言うよりかは、簡単な魔法文字となって効力を発揮する。
「すばらしい。実践向きかつ暗殺向きの特化魔法だな」
 ビナーは冷静にそう呟いた。
「貴女はその杖から見て、『展開魔法』専門のご様子ね!」
 一瞬で己の魔法を破られたことを知ってもビナーは動じない。むしろ楽しみ、感心すら交えて言う。
「では、こちらでどうかな?」
 再び、杖がトン、と鳴らされる。深海の雪は内心舌打ちをする。展開魔法専門とは言え、さすが最古の賢者の一人。おそろしく形成と展開が速い。杖を打ち鳴らすだけで展開、効力を発揮するその魔法。
 杖には常に彼女の魔力が宿り、彼女の思考の間に魔法の形成が為され、杖を打つだけで展開が終了する。
 深海の雪は知らず、唇を噛み締めた。――レベルが違う。その証拠に開戦から彼女はまったく動いていない。だが、そこで諦めたりはしない。
 ようは魔法は組み合わせと相性だ。スピードが勝る分、こちらが有利なのだから、肉体的条件で負ける要素はない。
「では、こちらも」
 深海の雪がそう言うと、彼女の姿がすぅっと消えていく。それを見てビナーは杖を今まで手前で掲げるように前に向けて支えていた状態から、すぐに動かせるように床から杖を離して体の脇で構える。
「ふむ」
 一つ頷いて、杖で己の周りの床を一周描く。その直後に雨のように鋭い刃のようなものが降り注いだ。しかし、まるで全方向の透明な傘を差しているかのごとく、ビナーには一つも届かない。
 ビナーは攻勢に回らず、様子見で深海の雪の手を見ている。逆に言えば展開魔法なのだから、ビナーが大きい規模の魔法を展開し始めたらそれは隙となるし、展開されてしまえば深海の雪が不利となる。
「さて、そろそろ我も手札の一枚くらい見せねば礼儀を欠くこととなろうか?」
 ビナーはそう言って杖を回転させて床に打ち鳴らし始める。金属板がシャンシャンと鈴のように鳴り、わずかにビナーの魔力を吸収して中心の青い球体が光った。
 深海の雪の姿は見えていないはずだが、警戒して深海の雪は距離を取った。灰色の埃っぽい床の上に黒い光が一瞬現れる。それが彼女の魔方陣だと気づいた深海の雪はアイセミを構えた。
(――速い!)
 その瞬間に、ドスドスと重たい音がし始め、ビナーの周りだけを避けるように床に細いといっても1mくらいの直径がある柱状のものが降り注ぐ。
 まるで先ほどの攻撃のお返しを規模を大きくさせて行いましたと言わんばかりのものだ。深海の雪の性格を知って、怒らせるような作戦に出ているようだ。しかし、これでは危険だと判断した深海の雪は姿を消したまま、その攻撃を避ける。間一髪で柱の間を行き来する。
「ふむ、地中に潜ったか、姿を消したかと思ったのだが……空間密度を甘くしたか」
 お前の手は読めていると言いたげなその口調に深海の雪は逆に冷静になっていく。ビナーの攻撃に使われた棒状の柱のようなものはすぐに塵となって消えていく。維持の魔法を組み込まなかったらしい。
 透明なまま深海の雪が動く。そして突如、ビナーのドレスの裾が裂けた。白い脚はゆったりとした造りとたっぷり使われた生地によってさらされることはなかったが、デザイン性が大いにかけたというかみっともなくなったのは事実だった。
「今のは予告。次は貴女の急所を狙いますわ」
 ビナーは己の脚に魔法がまとわりついているのを観察し、面白がるかのように杖で己の脚を軽く叩いた。
「成る程、これほどの気配のなさにこの効力の強さ……理解したぞ」
 つまり深海の雪は姿を消し、魔法の気配さえも絶って、ビナーの脚を完全に止め、動きを封じたわけだ。
「これは我が遅れを取ったか」
 呟かれたときにはすでに遅い。よく見れば、そう『透明な雪』が降り積もっていた。静かに音もなく、深海の雪の魔力が雪のように一面に積もっていた。
 『静寂なる深海の雪』名前の通り、音も気配さえなく、静かに降り積もるのは彼女の魔力。彼女の独壇場を作り出す演出は、深海に積もる雪のよう。そして、その深海に積もる雪は――生物の死骸だと云う。
「そう。この場は私が支配した。貴女の魔法が展開されることはない」
 魔法は場の支配も重要なファクターの一つだ。場の支配が叶えば、己の魔法は効力を発揮しやすく、相手は効力を失いやすい。それが賢者レベルとなればなおさらだ。
「隠密に特化した魔法……二つ名は伊達ではないな」
脚は動かず、魔法も効力を無効化された。なら、ビナーに打つ手はない。
「では我の次手といこうか」
 ビナーは静かに呟いて、杖を使って固められている脚を軽く叩き始めた。
「無駄よ。絶対にそれは解けない。貴女の脚を壊すなら別だけど」
「それはどうだろうな。そもそもそのセリフが不可能を可能にしそうだ」
 くすくすと笑うビナーはまだまだ余裕を崩さない。その証拠に、脚にひびが入り始めた。
「己の身体くらい己で支配できなくて、何が魔法使いか」
 ビナーはそう言うと、今度は積極的に動くように足を一歩踏み出した。深海の雪の魔力の結晶の証である塊が音を立てているかのようにビナーの脚に擬似的に振動を伝える。霜を踏みしだく感覚に似ていた。
「さぁ、どこからでもかかってくるといい。我はその攻勢の果てに賢者としての格の差を見せてやろうぞ」
 真っ赤な唇がニィっとつりあがる。
「言ってくれるわね!」
 透明な彼女は実は姿を消しているのではなく、全ての物質に同化を起こしている状態だ。それを可能にしているのは、もちろん降り積もった彼女の魔力の雪だ。
 物理攻撃はもちろん、魔法の攻撃も時には無効化できる。魔法の展開を不可能にしてのこの二段構えで彼女に敗北の文字はない。
「ああ、楽しいな。久々な魔法に満ちたこの緊張感。心地よいぞ」
 ビナーはそう笑う。その笑顔に向かって透明な予測不可能の攻撃が放たれた。ナイフによる攻撃は身体に触れる直前、その数瞬だけ実態を現す。まっすぐにビナーの顔を狙った攻撃はすっと構えた杖によって阻まれる。
 ナイフによる攻撃は一度で止まらず、全方向から素早く行われる。しかしビナーはまるで踊るように杖を翳し、振り、その攻撃を物理的に防いでいく。
「見えていないとも。もちろんのことだ」
 深海の雪の焦りを手に取るようにビナーが一人告げる。
「だが、わかるのだ。何故かわかるか?」
 カーンと鋭い音を杖が奏でた瞬簡に、深海の雪の姿が本人の意思を関係なく現れる。
「な!」
「魔法とは準備と儀式。そして魔力による支配。少しは考えなかったか? 我はお前が戦いを挑むと知って準備をすでに終えていたことを。この場はお前ではなく最初から我が支配していることを」
「いつの間に?!」
「我はお前が来て、そしてすぐに準備を始めていたが?」
「……まさか!!」
 ビナーは術式の展開中の深海の雪が来たが故に、その魔法を終えるためにいくつかの魔法を展開し、魔法を終結させた。その中に、すでに戦闘を見越した準備が行われていたら?
「二つ目の間違いは、我は『展開魔法』に特化した魔女ではない。故にお前の魔法に不利ではない」
 どう考えても儀式用の大振りな杖。しかしそれはナイフによる攻撃を全て耐えたように、儀式によるものではなく、ビナーにとってのただの武器だ。
 長い方が身長にあっているだけにすぎない。物理攻撃でさえ受け流せるオールラウンダーともいえる魔女。
「最後にお前の魔法は確かに独壇場を作り出すことに有利なものだ。しかし覚えておくといい。一つ駒が取られてしまえば、全ての盤上はひっくり返る可能性を持ち合わせることを」
 ビナーは軽い動作で杖を一回転させ、強く床に叩きつける。シャンと金属板が騒がしい音を立てた瞬間、全ての空間がありえない速度で凍り付いていく。しかも――深海の雪の魔力を源に。
 驚いて瞬きを二つ。その間に深海の雪ごとその場が凍り付いていく。完全に凍結された魔女を見て、ビナーはため息をついた。
「そして我は可能性があれば絶つ方針だ」
 杖で深海の雪の氷像を軽く叩くと叩いた場所からひびと亀裂が入り、音もなく氷像が粉々に砕けていく。きらきらした氷の粒を空間に舞わせて深海の雪の命が散っていく。それと同時に急速に展開したのと同じように凍りついた空間が元に戻っていく。
 ――氷結の魔女の真骨頂であった。
「さて――」
 ビナーは落ちていた深海の雪の魔女刀を振り返って鋭く投げつける。投げられたナイフは床や壁にぶつかって反響する音を立てることはなかった。
 なぜならそのナイフを器用に刃の部分を持って掴んでいた人がいたからだ。
「久々なのにずいぶんな歓迎じゃない?」
「覗き見は趣味が悪かろう」
 足音すら立てずに歩み寄ってくる青年。銀髪は中途半端に場所によって長さが異なり、ゆるくウェーブを描いている。瞳は片方が魔力に侵された紫。もう片方がエメラルドのような光を放つ緑。白い肌は色づき、誘うように触れられるのを待っている錯覚を抱かせる。
 腰に緩く巻かれた薄い布。肩から狭い幅の白い布が単純に掛けられて胸を隠しているが、固定されていないので動くたびにちらちらと肌が除く。
「久々に氷結の魔女が見れるなら、檻から出るというものだよ」
「深海の雪を仕向けたのはそなただと思うのだが? 楽園の檻」
「いやだな。他人行儀。君には僕の名前を教えているはずだよ、アーシェ」
 微笑まれれば落ちない人間はいないような極上の笑みにもビナーは一瞥もしない。
「偽名を教わっても呼ぶ気は起きぬな。そなたを喜ばせる趣味は我にはない」
ビナーは冷たく突き放す。
「それで、我に用があるのか? そなたから赴くということは、良きにしろ悪きにしろ、物事が動くということだろう? 我を殺しにでもきたか?」
 旧知の仲であるにもかかわらず発言内容は過激だ。
「いやだな。僕の唯一の友を亡くすようなことはすまいよ」
「己の欲のためにその友を死地に追いやるよう仕向けるのは友のすべき行為ではないな」
 さらりとビナーは言った。
「あれ? やっぱりその『魔眼』には敵わないなァ。すべてお見通しかぁ」
 ビナーが他人の思考を理解できるのは、目のせいではなく彼女の本質だからなのだが、説明が面倒なので魔眼ということにしていた。それに己の能力をさらすこともない。
 ただ、この楽園の檻は思考に一貫性がなく、読みづらく、理解に時間を要する。ただ、コクマーと賢者の石を巡って取引をしたのは事実のようだ。
「でも、君ってば、僕のこの思考回路苦手なんだよねぇ。それ、利用しない手はないんだよ」
 そう言って楽園の檻はビナーに背後から抱きついた。首筋にかぶりつき、ねっとりと舌を這わせ、きつく腕で腰を拘束する。ビナーはその行為によって身体を拘束され、そして目を見開いた。
「な! そなた!!」
「理解した? でももう、遅い」
 にやぁっと笑った楽園の檻は片腕をビナーの首筋に持っていき、そして豊満な胸に這わせ、そのままその腕を魔法によってもぐりこませた。ビナーの心臓を握る。魔力を楽園の檻が支配する。
『君を次の僕の檻にき~めた!』
 そう言った瞬間に、ビナーの身体の中に楽園の檻が溶けるように押し入るように消えていく。そうして完全にビナー一人になった。
「ごめんねぇ、アーシェ」
 ビナーの唇からビナーの声で明るい調子の声が漏れる。
「にしてもアーシェってば、こんな高い靴よく履ける。前髪も邪魔だし。歩けないよ……しかたないなぁ。女の身体をちょっとは楽しみたかったんだけどねぇ」
 次の瞬間には完全にビナーの姿が楽園の檻の姿に変わる。
「新米の賢者に最古の賢者二人の相手はつらいでしょ? 大帝の剣ってば若いからか若い賢者しか仲間にしないんだもん。君も僕も思わず応援したくなっちゃうような格の低いやつばっか。器さえまともじゃないのだから。深海の雪は恋する乙女で面白かったねぇ。特化魔法の賢者ってのも考え物だ。趣味で始めた屍の集いはそろそろお開きかなぁ? アーシェ」
 すでに消えた彼女にとつとつと話しかけ続ける楽園の檻。まるで己の中で会話しているとでも言いたげに。
「せっかくなんだからもっとたのしくしてよ。楽しませて。愉しませてよね」
 迷惑だ、というビナーの声が聞こえそうな、そのはしゃぐ楽園の檻の言葉に返される言葉は当然なく、唐突に消えた城の地下には空虚な空間が残された。

 がちゃん、と耳障りな陶器の割れる音が響く。
「ケテル!」
 ゲヴラーは音の方向を見、ケテルが持っていたカップを落としたのだと知った。
「怪我は? だいじょ……」
 近づいてゲヴラーは絶句する。ケテルの目が見開かれて、わなわなと手が、身体が痙攣を起こしている。
「ケテル!!」
 中空を見つめた空色の瞳には驚愕と恐れが映っていた。
「ケテル、どうした?!!」
 肩を揺するゲヴラーに応えようとしたのか、それとも独り言か、ケテルの唇からかすかに漏れる言葉。
「……ビナー」
 それは、彼らの魔女の名だった。
「え? ビナーがどうした?」
 ケテルが信じられないといった顔をそのままゲヴラーに向ける。
「ビナーが感知できない……消えた」
「どういうことだ?」
「死んだか……でなきゃどういう、ことだろう?」
 震えながら呟かれた言葉にゲヴラーが目を見開いた。
「そんな馬鹿な!! んなワケねぇだろ! ビナーだぞ!! コクマーのおっさんならともかくだ」
 コクマーなら死んでもまぁ納得できる気がする。そこが本人らの差だ。しかしあのビナーが死ぬとは思えない。
『コクマー!!』
 ケテルが叫ぶ。すると瞬時に白色の魔方陣の中からコクマーが出現した。
「私のほうも暇というわけではないのだが……どうかしたかね?」
「ビナーを探せ。僕が補足出来ない」
 ケテルの震えを押さえたその調子にコクマーは真剣な顔つきになってそのまま煙だけを残し、消えた。しばらくして紫煙と共にコクマーが姿を現した。その手にはビナーの愛用の杖が握られていた。
「魔法の戦闘跡が見受けられた」
「じゃ、負けたってことか?」
 コクマーは首を振る。
「いや、相手はビナーが下したようだよ。遺体の一部を見た。その後何者かが何かをしたようだ。だが、彼女は優秀な賢者だよ。不意を衝かれるなぞ、そんな真似はすまい」
 確かにビナーに限って考えられない。三人を沈黙が包み込んだ。コクマーは深く煙を吸い込み、そして長く虚空に吐き出した。
「心当たりがある」
 そう言った瞬簡、ケテルがコクマーをすがるような目で見た。ケテルにとってビナーは教師であり、姉であり身近な大切な人なのだ。それをコクマーは知っている。
「申し訳ないことに我の問題に巻き込まれたようだ。ケテルが南と北とで己の過去と血を懸けて争っているように私にも敵対する者がいる。ビナーは幸い、優秀な賢者だ。死にはすまいよ。死んではいまい」
 コクマーはそう言った。
「ケテル。ビナーを巻き込んだのは想定外だった。それは謝ろう。彼女は私にとっても重要な役割を持っているのだ。すなわち、君を守るという」
 ケテルもゲヴラーも驚いた。賢者の間でそんな取り決めが為されたとは思っていなかった。いつもは軽薄なこの男もケテルを主君として守る気があったのだ。
「取り返さねばなるまい」
 いつもの軽薄さを消して、そこには賢者の恐ろしさがある。得体の知れない男の本性。
「私の行く手を阻むなら、戦う必要もあるだろう。……ケテル」
 コクマーは名前を呼んで視線を合わせた。
「しばし離れる。その弊害で君の本質に迫る魔法使いもいよう。裏の取引も加速し、君も巻き込まれよう。絶対の安全など保証はないだろう。だが、君は一人で立ち向かえるかね? ティフェレトもいない、ホドとネツァーもそばにいない。そして私とビナーもいないくなる」
 それは、ケテルの本当の自立を促す言葉。ケテルを守った身近な存在は一人、一人と消えていく。それでもケテルは立っていることができるのか。コクマーの言うことを一度胸のうちにしまいこみ、そして考える。
 ケテルは強く一回目を閉じた。そして頷いた。
 再び目を開けたとき、そこには恐怖や迷いは消えている。
 どこまでも力強く、我の強い空色の目がだけが、鋭くコクマーを貫く。
「許す」
 その言葉は若い主君が授けるにはあまりに重い命令。しかしその重さをものともしない威厳があった。
「お前の、いや……僕の道を阻む者、その可能性、全てを散し、消して来い。僕はお前にそれを許そう。何事があってもお前の道を貫き通せ。そして僕が歩むときにはすべての障害を取り払い、僕の歩みを妨げるな」
 コクマーは満足した答えを得、笑う。――ああ、この子供はいつも面白い。
「仰せのままに、我が主」
「但し、ビナーを連れて必ず帰って来い。お前もビナーも僕のものだということを忘れるな」
 空色の目が、彼の口元さえ笑みを浮かべていつものように強さを取り戻し、賢者にそう命令した。
「御意」
 コクマーはそう言って頭を下げ、影の中に消えていく。ゲヴラーはついに予言どおりにコクマーも影にまつわる何かが生じたと思った。そしてケテルを見る。
「大丈夫さ、ケテル。お前はみんなに支えられているかもしれないが、みんなはお前に支えられているのだから」
「うん。そうだよね」
 ケテルは頷いた。不安はある。正直寂しさも増すだろうし、それ以上の困難も予想できた。
 でも、もう立ち止まらないと、後には引かないと決めた。彼を取り戻すために。
「何があろうと、誰が消えようと、俺だけは最後までお前の元にいる。おまえだけが俺の主だ、ケテル」
 真紅の目がケテルを覗き込んだ。その瞳は強い。ケテルは頷き返した。
「そうだね。僕は僕の主だ。誰にも僕の邪魔はさせない」
 ケテルはゲヴラーに微笑みかけた。いつもの調子が戻っている。
「たとえそれが僕の不安や悩みでも、僕を妨げることはできない。いや、させないさ」