TINCTORA 019

19.戦花咲く

065

 ケゼルチェックに面する一面の海。港町の向こうに微かに見えるものは敵国の軍艦である。いつもはにぎわう港町に今や市民は一人もいない。いるのはケゼルチェックとリダー、それにバイザー領の私軍からなるエルス帝国海軍主力部隊である。
 港町は白い海兵で埋め尽くされ、港には商船や漁船ではなく、軍艦が並び、壮観であることこの上ない。
 光の具合によって臙脂や真紅になびくエルス帝国国旗が掲げられたその船に、純白の鎧姿で凛々しくヴァトリア将軍が立つ。その隣に並ぶのは、これまた純白の軍服に身を通したホドクラー侯爵。
 大砲の音が連続的に響き渡る。そこに海兵が一人走って駆け寄る。
「リダー卿より入電、第三段階完了。これより風に従って第四段階へ移行とのこと」
「ホドクラーさま、こちらも75%終了、一般市民は終了です」
「結構ね」
 ネツァーが言った。
「あとは風を待つのみ、か」
 小声でホドが言う。ネツァーだけが海風にまぎれてその声が届く。
「ケゼルチェック市民の避難を急がせて。あと半月で完了させなさい」
「はっ!」
 敬礼して海兵が下がっていく。ネツァーは剣を腰から抜いた。そして相手の船に向けて剣を翳した。
「我が方に神の御加護がある今こそ、打って出る。第三、六艦隊は前進!!」
「は!!」
 エルス帝国の海岸線の大部分を持つ、ケゼルチェック。
 この港は季節ごとに風に吹く向きが変わる。夏は湾に向かって吹きこむような東風が、冬は逆向きに大陸から海へ渡る西風が吹く。そしてその風向きが変わるのが季節の分かれ目である秋と春。今は季節の変わり目。大陸から吹く風が変わる季節。
 おそらく国王はそれを知って急に開戦宣言をしたに違いない。そのことは敵国もわかっているはずだ。丁度風が変わる。そして湾を囲むようにリダー諸島があるおかげで風と湾内の海流が複雑に季節ごとに変化する。
 それを敵国はおろか、自国の軍でさえ理解していない。その情報は前ケゼルチェック卿と前南方将軍が自軍の将校と共に失われた。内輪もめで重要な情報を失った。愚かな事だ、と嘆くだけなら誰にでもできる。だからホドクラーは領民や港の管理者、漁業民族、全て関係あるものから日常的に協力を要請し、データを積み重ねてシミュレーションを行ってきた。今では海図も風向きも理解した。時代は帆船全盛期。つまり、それは風向きが西風の場合は敵船が湾に入ってこられない。逆に東風なら自国の船は撃って出られない。
「ヴァトリア将軍、旗印が判明しました」
「報告いたします!!」
 各地に放っていた部下から次々に報告が上がる。戦争の前線にまだ立つ時期ではない。ネツァーは情報によって部下を、軍を動かす事が今の仕事だ。
「リダー卿より、再度入電」
「東より見えるはリュードベリ艦隊と思われます。その中に海戦で無敗を誇るリュードベリの母艦と思われる『海神・トール・アンセン』を確認」
 部下が広げられている海図に情報を加えていく。
「次に、西よりリュードベリ別艦隊の背後に金の旗印、クサンク帝国がきています。その中央にリュードベリ最速船『ファルメウス』を確認」
 ホドとネツァーが他の将校たちと海図を眺め、沈黙する。
「配置番号八および十一、十四から十七の要塞島の攻撃が開始」
「リダー艦隊第六番艦、船体損傷大」
 海図上に浮かぶ、戦況を変えていく。ホドがふむ、と頷いた。
「母艦とエースの船を引っ張ってきているわけ。力の込めようがすごいわ、感動するわね」
 ネツァーが鼻を鳴らして言う。それに対し、ホドは特に感情を込めずに言う。
「クサンクが来たか。開戦から一カ月、ずいぶん早いね」
「おそらく、風向きが変わるのを待っているのではないかと……」
「一気にリダーを落とす気のようですね」
 エルスに面する海、ケゼルチェックの湾の手前に位置するのが、リダー諸島。エルスの最南端を担う、エルスの国土に面した、最初の破られてはならない防衛線である。
 そこまで緊迫せずネツァーたちが動いているのも、このリダーがあるから他ならない。リダーは諸島というだけあって数十の大小様々な島で成り立つ。エルスからかなり遠い島も多くあり、無人島の方が多い。リダーはその無人島のいくつかを大砲を設置し、兵を潜ませる要塞島とした。外敵が海から攻め込む場合に通らねばならない島付近の海洋に位置する場所には必ず要塞島と呼ばれる武器が待っている。
「リダー卿は?」
 ホドの問いに、瞬時に応え。
「最前線にて指揮を執っておられます。わが軍のカルパスに乗船中です」
 ホドは頷いた。
 エルスの海軍は公爵の私軍から成り立っている。ゆえにそれぞれの命令系統と得意とする区域がある。それゆえに命令系統が混乱しがちだが、そこがうまくいかなければ軍として機能しない。ホドは南方将軍を若くして任されたネツァーを命令系統の頂点に置き、そこを中心として他の私軍の将校らが納得する命令系統を確立した。戦時ではない時から三軍の合同訓練は密に行った故に、特に混乱はない。
「軍艦島の装備は?」
 別の将校が言う。リュードベリとクサンク両国による砲撃戦で小手調べのような戦況が早一ヶ月過ぎた。いたずらに撃ち合えば装備も、船も全てが足りなくなる。陸路は陸路でリュードベリとの国境線上は戦場になっている。国庫が無尽蔵ではない。早目に戦況を変えたい。それゆえの自然の風待ちだ。
「リダーの全島民避難は済んだのよね?」
 リダーは最初の防衛線ゆえに、本島への上陸を許さない気でいる。しかし状況が状況なので、全島避難をリダー卿には納得してもらい、戦況が開く前からゆっくりと避難を開始させた。リダー島民はケゼルチェックとバイザー両地で預かっている。しかしそれも長く続かない。また、万が一を考え、ケゼルチェックの港街の住人も避難をさせている状況だ。住民の不安は嫌でも増すだろう。
「もうじき日が暮れる。一旦こちらに戻っていただけ。話し合わなければならない」
 ホドの言葉に部下が頷いて身をひるがえした。

 ケテルは国がリュードベリとの戦争を開始したので、海軍を率いる公爵として、国王との連絡役を任されていた。
 というのも、海軍を率いる三公爵のうち、リダー卿、バイザー卿はどちらも軍人として立派な経歴を持っており、戦時は軍で己の船を操り、指揮を行う。しかし、ケテルにはその役を引き受ける将軍がいる。
 もともとエルス帝国の海軍はクレイス家と懇意にしているヴァトリア家から輩出される事が多く、ケゼルチェック卿の仕事は戦争の前線に立たない王の代わりに進捗状況や王の命令を伝える役目を負っている。中央と戦場の連絡をスムーズに行う為に編み出された長年のしきたりの様なものだ。
 それ故にケテルは帝都にあるケゼルチェックの屋敷に生活の拠点をしばらく移した。連れにはゲヴラーを連れ、イェソドとマルクトには留守にする領地を任せた。
「戦時だってのに、毎晩夜会とはお気楽なもんだな」
 ゲヴラーがすっかり昼夜が逆転してしまったケテルの生活に呆れて言う。
「陛下にとっては戦争も娯楽のようなものなのさ」
 ケテルの外套を掛け、ゲヴラーがお茶を勧める。ケテルは礼を言って受け取った。
「おいおい、国をかけてんだろ? 国主なら真面目になるだろ、普通」
「真面目ではあるでしょう。勝てば国民感情をうまく誘導できる。あのおじいちゃんは意外とやるよ」
「ふーん」
 正確に言うと真面目ではないのは、戦争に直接かかわらない公爵達、つまり北の一派だ。戦争など余裕でこなして見せろという挑戦状である。普通他国との戦時は内輪もめは少しは収まるものだが、そういう様子がないのがエルスだろう。
「で、ケテルはなんでそんなに疲れてんの?」
「いや、夜会に毎回出るだけで顔の筋肉が硬直しそうではあるんだけどね」
 現状、一公爵でありながらケテルの周囲は綱渡りな状況を強いられている。ケテルは自らの両親を陰謀によって失い、それに伴い、己の親族や部下に至るまで、つまりケゼルチェックにとって有用な信頼できる者たちを一族毎皆殺しにされるという凄惨な過去を持っている。ケゼルチェックを完膚なきまでたたきつぶされたのだ。
 それを、ケテルとホドで建て直し、ここまで栄えさせた逆転劇に敵側も舌を巻いているだろう。それだけ敵もケテルの動きに注目している。しかしそれだけではなく隙あらば蹴落とそうという陰謀が渦巻いている。毎晩毎晩、それを華麗に避けて、逆に相手の弱点を握ろうとする水面下の戦いは意外と疲れる。
 ――社交場とはすなわち、情報と陰謀の渦巻く戦場だ。
「ホドがいねぇから?」
「それもあるね」
 本来ならばケテルの帝都入りには、コクマーとビナーが随行するはずだった。しかし、ビナーが突如行方不明となり、コクマーにはそれの探索および、敵の撃破を命じた。故にそういう水面下の戦いには役には立たないゲヴラーのみを連れてきた。
 ここにティフェレトがいれば、日々の癒しにはなっただろう。しかし、彼は――いない。
「自分でここまでやりあうのは、そういえば初めてなのか」
 今まではホドの影にいた。ホドという盾があった。ケゼルチェックの建て直しはケテルもずいぶん手をくわえた。しかし、自分を脅威に思われないよう、ホドを隠れ蓑にしたおかげでケテルは病弱な哀れな少年を演じるだけで済んだ。今は違う。百戦錬磨の意地汚い大人と張り合うのが役目。
「悪いな、俺は手伝えないから」
「いいんだ。ゲヴラーにはそういうことは求めてないし」
 そう言いながらも、従者を連れるのが当たり前の社交場にゲヴラーは己の容姿を変え、列席してくれている。そこでぼろをださない程度にゲヴラーもホドに仕込まれている。
「ま、さすがといったところかな。尻尾のかけらも出さないね、みんな」
「俺みたいに殺して終わりだったら楽なのにな」
「それ、いいね。最終的にはそうするか」
 紅茶を飲みながらケテルは本気でそう思っていた。十公爵みんな一族郎党皆殺し。うん、国はハチャメチャになりそうだが、平和な解決ができそう。
「じゃ、俺大活躍だな」
「そのときはね。お願いするかな」
「まかせとけ」
 二人で笑い合う。ケテルが社交場に乗り込んできたのには目的が二つばかりある。
 一つはティフェレトを奪ったティティスを殺して下さいと懇願させるまで完膚無きまでに叩きのめす事。
 二つ目は両親を殺した犯人は知っているが、どの程度まで殺すか決めていないので、情報集めだ。
「そういや、賢者はどうなんだ? おっさんから連絡はあったのか?」
「いや、ないね」
 このエルス帝国を舞台に暗躍している賢者達。二人の賢者を抱えるケテルにとっても関係のない話ではない。現に争う賢者たちの主格にはコクマーの名があるそうだ。
「ったく、物事を掻き回す事しかしないおっさんだよな」
 この内輪もめを制す条件もいくつかある。いい加減うんざりして、決着をあわよくば着けようと思っている。
 一つ、リュードベリとの戦争の決着。
 二つ、暗躍する賢者の勝者を擁する公爵。
 三つ、帝王の信頼を勝ち取る事。
 これらが同時進行している。ケテルは戦争に関しては幼い頃から自分に才能はなさそうと諦め、ネツァーとホドに任せている。ホドがついているのだから、心配は無用だろう。
 賢者も不安を覚えていなかったが、ビナーが行方不明になったことで、一気に形勢が傾いたように思える。実際ケテルが賢者の事情を知らないので、どういう位置づけにコクマーやビナーがいたかはわからないのだが。
 そして最後は自分がどうにかしなければならない問題だ。
「ま、専門外は黙って、専門に任せるに限るね」
「そーそ。いつも無駄に過ごしてるんだからこういう時には役立ってもらわねーとな」
「妙にコクマーに厳しいね、ゲヴラー」
「だって、いつも遊んでいるような印象しかねーんだもの」
「それは君にも言えるでしょうに」
「そうか?」
 ゲヴラーが笑う。ケテルも笑った。
 ――このようにして緊張を強いられつつも、穏やかに日々は過ぎ……。

 リュードベリとの戦争を開始して半年が経過した頃……戦況は一変した。
 ホドが情報をやり取りし、常勝の女神とまで謳われているネツァーの指揮する戦線において、エルスの防衛線、すなわちリダー諸島が敵国に落ちるという、情報が伝わったのだった。

 月光が差す庭園。温室があったような場所は外気を遮断するはずの見事な硝子張りの建物の骨格だけを残し、雰囲気だけをなんとなく醸し出していた。そこには植物などない。あるものは特にない。それは温室の形だけを残したステージの様。そのステージには観客は一人もいない。いるのは一人の男。
 その男は一人で練習か、と思うほど身体を軽やかに艶やかに動かし続ける。手足は時折、月光を跳ね返して妖しく光る。男の足元には不気味に光る魔法陣。
 ――全てを喚びこむ明るき漁火。
 それが男を呼ぶ名前。賢者の一人である。彼はその名の示す通りに、何かしらを召喚しているようだ。彼の召喚には呪文の様なものは存在しない。独特のステップと幾何学模様のような魔法陣と呼吸法だけ。それでこの世ではなくいかなる世界の生き物を呼ぶという。
『これはこれは……』
 男のステップが止むと、魔法陣が眩しい位に光り、その中から一つの影が現れる。
「やぁ、こんばんは。『罪を飾る楽園の檻』」
 明るき漁火は朗らかに挨拶を送る。すると人間であるにもかかわらず魔法によって呼びだされた子供の姿をした賢者は挨拶を返した。
「こんばんは、良い月夜だ。さて、再びのご招待、一体何の御用かな?」
 楽園の檻はその外見に似合わぬ老人の様な口調で返す。
「ちょっとご協力いただきたいことがありまして」
 朗らかなやり取りでも二人は動かない。一人は、動けない。
「それにしてはこの前と違って物騒な仕込みが入っているようだが?」
 この前深海の雪に請われて呼んだ際は、呼んだだけ。今回は違う。
「それはそうです。相手は最古の賢者の一人。こんな三流の賢者が相手にするには、用心に越したことはないのですから」
 今度の召喚術式には、ちゃんと普通の召喚の儀式の様に拘束、命令の術式が含まれている。それが楽園の檻に効くかは不明だが、仕込みはちゃんとしている。
「おやおや。こんないたいけな子供の私に……」
 溜息までつく楽園の檻に明るき漁火は笑って答える。
「そんないたいけな子供は賢者なんかやりません。いたいけとは違いますよ。で、ご協力いただけますか?」
 にこにこ訊く明るき漁火。対して楽園の檻も笑う。
「興味を引けばなんでも」
「ですよね、あなたはそういう方だ。この前の例の集まりを覚えておいでですか?」
 明るき漁火はそう言う。楽園の檻もすぐに頷いた。
「一人、欠けていたね」
「そう、あなたに器が足りないと言われた彼女です」
 そう言う明るき漁火の顔は明るい。失った事を嘆いて哀しんでいるようには見えない。

 そう、例の賢者の集まりの事だ。定例の集まりに欠席者が一人、いたのである。
『久方ぶりの賢者の集まりとは言え、欠席者一人とは……』
『深海の雪は欠席ですか。欠席を今までした事がない方でしたのに』
 少々の笑い声と共に光さえ差さない空間に、いつものように光は人影の上に差すだけだ。しかしその光がいつもは十三ある。今は十二。一人いない。賢者がいつもの集まりに来なかったり、来たりするのはよくあることであれも気には留めなかった。
「その後、私は大帝の剣とコンタクトを取りました」
「へぇ」
「深海の雪はどうした? とね」
 興味をそそられたのか、にやにや笑いながら楽園の檻も尋ねる。
「で? どうしたの?」
「知らない、と。そう答えた。で、考えたわけです」
 深海の雪は焦っていた。大抵の剣の一派が何を求め、何を欲し黒煙の影と対立することになったかは知らない。しかし、争う以上、頭と定めた大帝の剣に少しでも情報を、そして己の地位を上げようと必死だった。
 それが乙女の様な恋心と知って、面白いと思ったことは否定できない。まるで賢者らしくない。人間の、ただの若い女の様じゃないかと。でも、それでいいはずだ。そういう賢者がいたって、時には魔法だけじゃなく人間の様に色恋に溺れる姿があってもいいと、微笑ましく思ったのも事実。
 その深海の雪の姿がなかった。大抵の剣にも消息を明かしていない。それは、たぶん、死んだのだ。
「きっと、死んだんだろうと」
「それは“うらやましい”ね?」
 にこにこ笑って楽園の檻は言う。なにがいいものか、と云いそうなものだが、賢者である明るき漁火は言いたい事がわかる。死ぬことができたのだ。それは賢者にとって飽きる日々が終わることを告げる。解放を意味する。
「そう、うらやましい。で、調べた」
 彼女の死因を。魔力をたどれば賢者ほどの魔術師ならそれくらい造作ない。
「彼女は私と最後に会話をした際、こう言っていた。『裏切り者を処罰する』とね」
「そして裏切り者に逆に殺された?」
 楽園の檻は頷いた。返り討ちに合ったらしい。ただ単に力量が足りなかったのだろう。
「それで?」
「私は彼女の意志を尊重しようと思いまして」
 楽園の檻はその笑みに子供らしさを消し、ニィっと厭らしく笑う。
「『なんで?』」
「乗りかかった船だから、かな?」
 にやにや見ている楽園の檻。しかしここで無駄なことを云えば目の前の賢者を喜ばせるだけだ。
「ふーん。そんなに似ているんだ? 深海の雪は、君の昔の恋人に」
 さらりと、楽園の檻が告げた言葉に、明るき漁火は目を見開いた。なぜ、それを知っている?
「なんで知っているかって? 視えたからさ」
 最近、便利な目を手に入れてね、と楽園の檻が笑う。
「……確かに、似ているかも。だから唯唯諾諾と彼女に協力したのかもしれないなぁ」
 それは過去を見つめる遠い目。楽園の檻は愉しそうに笑う。
「そうか。そう、君も人間らしさが残っているじゃないか。巧く隠しているからつまらないと思ってしまったよ」
 満足そうに微笑む楽園の檻。
「それで? 何を私に望む?」
「『冷酷なる等しき天秤』の殺害……かな? あまり考えていなかった。なにせ協力していただけると思っていなかったからね」
 爽やかに云う明るき漁火に楽園の檻は肩を竦めて言う。
「協力もなにも、私は現状、君の魔術に捉えられている。自由になるには『退去』の術式を待つしかない身」
「そうか、それは有難い誤算だ」
 召喚の術式にはいくつか手順があり、呼びだすだけではだめなのである。呼びだすまでに己が主人として使役するための命令や命令が終了した後の安全な退去なども込めて召喚を行う必要がある。
「で? できますか?」
「正直に言おう。私と等しき天秤は同じ最古の賢者とされる。その実力は同等だろう。やりあうにはかなりの準備と覚悟が必要だ。個人的には殺し合いをして面白そうだとは思うが、古くからの友人でもある。戦いたくはないね。貴重な友人だから失いたくはない」
 命令をされているというのに自由気ままに答える楽園の檻。
「そうですか」
 顎に手をやり、思案する様子の明るき漁火。命令を聞く身とは思えないやり取り。そう、これは取引だ。楽園の檻は別段明るき漁火の魔術拘束などどうとでもなる。しかし、己が使役されることによって生じる先に快楽を見出したのだ。
「では居場所を教えることは可能ですか?」
 楽園の檻はしばらく考えるそぶりを見せる。
「……可能だ」
 返答は短い。明るき漁火はそれを聞いてしばらく考えた。
「少し整理させて下さい。現状、賢者は十三人。深海の雪が消えて、残り十二。合っていますね?」
 最古の賢者ゆえに知っていることが豊富な楽園の檻に明るき漁火は問う。
「左様」
「現在賢者内には派閥がある。黒煙の影の一派と、大帝の剣の一派。残りはどちらにも所属していない。そして深海の雪は大帝の剣の一派であり、彼に肩入れしていた」
 楽園の檻は明るき漁火がどういう結論を出し、どういう命令を下すのか、わくわくして待っている。
「黒煙の一派は誰ですか?」
「一派というほどではないだろう。皆集まったり、計画を共同で立てたりということはしていないと思うね」
 大帝の剣の一派と違い、一緒に計画を遂行するという流れではないのだ。
「では彼は一人で動いているのですか?」
「そうだね。実際行動を起こしてはいないが、近々本格的に動き出そうとは考えているように見受けられる」
「実際動いたとして、誰が追従しそうな可能性がありますか?」
 コクマーは実際一人で動く事を好む。それは賢者ゆえの行動基準だろう。誰かと伴って行動するような“崇高”な精神を持っているような人間は賢者とは言い難い。
「ふむ。破壊の女神はなんだかんだ言いつつ行動を共にするだろう。もしかすると文明の飴も興味は示すかもしれないよ?」
「……二人ですか。予想外だなぁ。等しき天秤も同じだと思っていましたよ」
「彼女は等しき天秤だ。黒煙の影とは契約で繋がっているにすぎないし」
「へー。そういうものですか」
 賢者同士の付き合いなんて希薄なものだ。定例の集いだって情報交換、つまりいかに楽しみを他人から搾取するかという己の欲望のためだけに時間を共有しているにすぎない。
「では大帝の剣の一派は?」
「邪眼の魔王と古の血脈は動くだろう。他にも妖精の長かな」
「豪勢な顔ぶれですね」
 これだけの賢者がそろってそれでも警戒されるコクマーがすごいのか。
「残りは?」
「君の様に、あるいは私の様に諍いを眺めて愉しむ一派だね」
「そういえば、群青の君のスカウトに失敗したと言っていましたっけ……」
 明るき漁火が思いだして云う。
「で? どうするか決まったかな?」
「はい。おおむね。その前に、私の命令に従ってもらうということで構いませんね?」
 楽園の檻からすればこの程度の命令文は破棄出来るだろう。しかし、先に見出した愉しみのために楽園の檻は笑った。
「契約通りに、私を使役してみてよ」
「有難いね。では一つ目の命令を下す。『地を舐め燃ゆる破壊の女神と夜空を彩る群青の君の殺害を命ずる』」
 それを聞いた瞬間、楽園の檻は歓喜に染まった笑顔を見せて、恭しく頭を垂れた。
「御意に、我が主」
 賢者の残りの議席はあと――十。