TINCTORA 019

067

 完全にホドが論戦で負けた形で話し合いの場は終結し、愕然とした様子のホドの肩を叩くバイザー卿の姿が印象に残った。そのバイザー卿もリダー卿と共にディオネに請われて今後の作戦の為に別室に誘われた。ケテルだけはホドを見捨てないと宣言したようなものだから、ホドの傍まで行く。
「やっぱりね」
 誰もいなくなった部屋で下を向き続け、放心した様子のホドだが、顔を下からのぞきこめばそれが100%演技であったことが知れる。泣いているようにも見える小刻みな肩の震えは笑いを必死に殺している姿だ。ホドは笑い上戸の気がある。
「もう誰もいないけど」
「あ、そう?」
 けろりとして上げた顔は晴れやかだ。
「じゃ、ケゼルチェック別宅に行きますか、我が主?」
「はいはい」
 部屋を出て誰から見ている可能性がある瞬間から、ホドからいっそ涙を誘うほどに哀れで悲壮な雰囲気が漂う。表情も暗く、心なしか顔色も悪い。それを見た召使や様々な貴族等がこそり、こそっと陰口をたたく。
 ――ホドクラー卿、事実上の更迭ですって。
 ――此度の敗戦の責任を負わされたとか。
 ――まぁ、お若いのに頑張ってらしたのに、陛下は相変わらずお厳しい。
 ――これでホドクラー卿の幸先は一気に暗転しましたな。
 ――これではケゼルチェック卿も悪い立場になりますな。……等々。
 ちらっと横目でホドを見る。そんなうわさ話さえ耳に入りませんと言いたげな悲壮ぶり。とんだ役者だ。馬車に乗り込むまでホドを憐れみ、同時にホドが追いやられたことで立場が悪くなったケテルを面白半分に案じる噂が駆け巡っているようだった。
 しかし馬車に乗った瞬間すっかりそんな雰囲気を出さず、けろりとしているから案じるこっちがバカというものだ。馬車では御者などが聴く可能性もあるので、本当に安心できるケゼルチェック別宅まで二人は会話を挟まなかった。その方が放し飼いしている御者がホドの狙った通りの噂を勝手にねつ造するだろう。
「おっかえり~」
 ゲヴラーがケテルを部屋の中で出迎える。
「あれ? ホドじゃん。めっずらしー」
「やぁ、ただいま」
「よく帰ってこれたな。忙しいんじゃないの、お前」
「うん。暇になったんだ」
 ゲヴラーとホドの会話を絶ち切るようにケテルが言う。
「で? 説明してくれるんだろうね?」
 じとっと睨みつつケテルが言う。
「はいはい。我が主の望みなら。でもさ、その前に休憩させてよ」
 紅茶の準備を始めるホドにケテルは自ら外套を脱ぎながら溜息をついた。
「なになに? なんかやらかしたの?」
「うん、まぁねー」
 肩の荷が下りましたという様子のホドに面白そうにゲヴラーが問う。
「いや、本当にさっきのは面白かった。レナ本当最高。さすが僕の彼女」
「え? なに、こいつ。のろけ?」
 ゲヴラーが半眼になってケテルに問う。ケテルは先程のやり取りを軽く教えてやった。
「まじかよ! ウケる!!」
 ゲヴラーも腹を抱えて笑い始める。
「ちょっと、笑いごとじゃない。これでいっきに僕の立場は最悪だよ。クレイス卿と同じ立場、負け組だよ?」
 クレイス卿は武器鋳造のファキ村の反乱で陛下の信頼を一気に失った。戦争に負けてはいないものの、痛い失点をあげたケゼルチェックが輩出した将軍と軍師。これでケゼルチェックは戦争に参戦できなくなったばかりか、地位の取り戻しにかからなければならない。
「なんでさ? 戦争は勝手にやってくれるんだ。これ以上楽はない」
 しれっと言い放つホド。ケテルは渋い表情のままだ。ホドが溜息をつく。
「ちょっと考えれば君ならわかりそうなもんだけどね。レナの挑発にバイザー公もリダー公も即座に乗った理由」
「……確かにわからなくもない、けど」
 ケテルとて今まで気楽な遊び人だけをやっていたわけではない。なんとなくは理解できる。
「君はこの前僕に確認したね? 戦争はどうかって。僕はこう答えた。『順調に負けている』と」
 国同士の戦争なのだ。負けていいわけがない。しかしホドは予定通りと言った。
「何故かわかるだろう?」
「……この戦争が無駄だからだ。そして無理だから」
「正解」
 ホドの回答はシンプル。分からないゲヴラーが口を挟んだ。
「どうしてだ? 勝ってなんぼだろ?」
 ホドはケテルがこの問いをすれば呆れかえりそうだが、相手がゲヴラーなので丁寧に説明する。
「これ以上無駄に国土を広げても維持できないからさ。このエルス帝国っていうのはさ、元々北の一派って言われている公爵達が治める土地しかなかった。つまり今の半分以下だね。それを戦争を繰り返し奪ってきた。南の一派って呼ばれる公爵達は搾取される側から、うまく働きかけて自治権を得たわけ」
 そこが北と南で争っているそもそもの原因である。支配する側で搾取する側としか考えていない土地と民族が優劣を競う相手にまで格上げされたのだ。それは気に食わないだろう。しかし南側からすればいつまでも搾取されつづければ未来はない。不当支配からの脱却を図り、驕るしかできない脳なしめ、というわけである。
「で、サルザヴェクⅣ世、今の王様の代になってようやく他の近隣諸国との力関係が安定した。簡単に戦争をしかければ手に入るようなものでは無くなったんだ。だからこの前のダンチェート戦では敗戦すれすれまでに落ち込んだ」
「あ、それをお前とネツァーで助けてやって停戦まで持ち込んだんだろ?」
「そう」
 つまり近隣諸国に戦争を仕掛けたところで勝利は見込めない。
「戦争をしかけるだけ、無駄なのさ。利益がない。戦争っていったってただで動くわけじゃない。国力と国の金を使う。利益が出ない戦争は後の経済悪化につながる。その面を戦争に浮かれている連中は見ていない」
「でも、お前がいれば勝てるかもしれないじゃないか」
 それだけケテルたちはホドの頭の良さを知っている。そして信頼してもいる。
「仮に勝ち、リュードベリの土地を一部奪えたとして、その土地をこの帝国の土地にするためには何年もかかる。下手すると内乱の火種ばかりが育ち、逆に内部から崩壊する危険を伴う。今のサルザベヴェクⅣ世なら力でごり押しできるだろう。だけど次の世代は? その次は? ……長い目で見たら誰が見たって無理だ。そんな危険な火種を御せる王とは思えない」
「はぁーん。だから無理で無駄、と」
「そう」
 ホドの答えは初めから決まっている。この戦争は勝たない。勝ってはいけない。
「じゃぁさ、南の公爵はそれに気付いているとして、北に戦争をさせて何が得なんだ?」
 ゲヴラーはネツァーの性格を知っているがゆえに、その発言にも納得したが、それに便乗した他の公爵の思惑が分からないのだ。
「ケテル。現状の公爵の派閥を説明してあげてよ」
 ホドはそう言って御茶菓子残ってたっけ、と奥へ消えていく。
「帝都を中心に公爵領地があって、その公爵領地を治めるのが公爵。僕もその一人。そこまではわかってるよね?」
「ああ。隣がバイザーのおっさん。島がリダーのおっさん。嫌なお隣が……」
 ゲヴラーが殺してはいけない人たち順で覚えている名前を挙げて行く。
「ラルキー。僕ら南の一派と言ってもね、さっきゲヴラーが言ってくれた二人と、バイザーのお隣、ジンジャー以外は南の一派って言えないんだ。ラルキーはケゼルチェックの隣だけど、北にもいい顔をしまくりだからね」
「ふーん。そういうやつ、俺嫌いだな」
「ま、僕も嫌いだけど。その他が北の一派。北のリーダー格がソロモン。ちなみに僕の両親やネツァーの両親を殺したっぽい人。で、その息子のティティスがティフェを創って、強奪したむかつくやつ」
 さらっと説明するとゲヴラーが嫌そうな顔をした。彼の中ではティフェレトは親友の様な位置づけだったのだろう。
「で、次の中心核がラトロンガとスウェン。この三人がやっかいでうざい。クルセスは争いから敗退。ルステリカはホドの働きで実は仲間。内偵の役割をしてもらっている。これで十人」
 昔から北に辛酸を舐められてきた南の一派は結束が強い。ラルキーが仲間に入っていないのは、ソロモンと隣ゆえの繋がりだろう。特に海に面した三公爵、ケゼルチェック、バイザー、リダーは常時海軍を編成しているゆえに絆は強い。
「説明終わったよー」
「はいはいー」
 スコーンを温めて持ってきたホドがジャムの瓶と格闘しながら姿を現す。ゲヴラーが見かねて開けてやっていた。
「ではゲヴラー、南の海軍を率いる公爵達が仲がいいことはわかった?」
「おお。俺、バイザーのおっさん好きだぞ」
「そこに陛下の命令で異物である形だけの将軍、カッコ脳なしカッコ閉じ、が現れました! 脳なし西将軍を抑えてくれる優秀で美人な南の将軍とそれを支える軍師は休暇中です。さぁて、そうなった海軍はどうなってしまうでしょう?」
 スコーンにジャムを垂らし、行儀悪く手でそのまま食べ始めるホド。そういえばホドは忙しく何も食べていなかったことを今更ケテルは思いだした。
「まぁ、お前らの部下はいい気がしねーだろうし、なんだこいつ、とは思うよな」
「うん。そうだね。それが突然、しかも戦争中に起こったら、まずいよねぇ?」
 統率がとれない軍など敵国からすれば烏合の衆に等しい。いくら戦力があろうが、それでは勝てるものも勝てまい。
「で、そういうやつに限って失敗はみんな部下のせいにすんだよな」
 命令系統も伝達もうまく伝わらない。ただでさえ、編成後は命令系統等が混乱しがちなのだ。普通はそれを常時徹底させて、こういう戦時に混乱がないようにする。例えばネツァーが戦死したとして、ネツァーが戦死した場合の命令系統等も考慮し、編成を練るものだ。
「そうそう。つまり、それって自分の軍、ひいては部下や民を無駄死にさせることになるでしょ?」
 ネツァーは自分が育て上げた軍が無駄に散る事が許せない。そしてネツァーの発言の下に隠された提案を南の公爵達は瞬時に考えたのだ。ディオネが将として立って、海軍は動くわけがない。それでは無駄に兵が死に、自分達の軍事費が無駄に浪費される。忘れてはいけない。エルス軍の帝国軍は、公爵の私軍から編成される。帝国軍は、私軍と同義なのだ。
「しかもお金はこっちが出す羽目になるでしょ? それ、すっごい困るじゃない」
「……ああ、困る」
 ちなみに南の三公爵は今回の戦争でここまでしか軍事費を出さないという予算計画をしっかり立てている。それ以上の軍事費は出す気がない。その計画を狂わされる可能性大の北の一派、並びに考え無しの欲深い王。
「だから西方将軍も自分の軍の方が統率しやすいでしょう? 自分達の軍は先の戦で疲弊し、到底兵をお貸しできる状況ではないのです、どうか、皆々さまの私軍のお力をそのままお貸し下さいって頼んでいるのさ」
 これには戦況を北の一派に奪われても、いや、奪われるからこそ南の軍に良いことがある。
 一つは自分の軍に損失がなくなるということ。
 二つは自分達の軍の力量をいいわけにされる可能性を絶つことができること。
 三つ目は南の土地からの遠征故に、北が南に大量の金を落とすこと。
「え? それって西の守護を任されている軍をそのまま南の海戦に使うってことだよな? ええっと……それってその、軍をそのまま入れ替えているようなものだよな?」
「そう。その通り。ね? レナって最高だろう?」
 少しの敗退で、戦線を任せられないと、そこまで言い切るならやって見せろと将を譲るだけではない。自分達の軍に傷一つ、損失一つ負わせない。
 自分達の軍をそろえるからには最強のカードをそろえたと言ったようなもの。武器などが気に入らなくても北の一派で武器製造を行っている場所を多く持ち、その使いなれた武器を使えばいい。逆に、海戦で使えない武器を使えるなどを思っていることは、海戦の将をすると、できると言いきったからにはご存じですね? ということだ。
 船の扱い方、海戦の難しさ、全て周知の上で将をすると宣言したと捉えているからこそ、将を任せたのです、という事だ。自分達は帝王の命令によってこれから戦争に関係ない場所から、まるで遊戯の様に戦況を眺めていることができるのだ。
 ――常勝の女神の一つの敗戦でここまで盤上を有利に進められるとは。
「それって、逆にすごくねぇ?」
「だろう?」
 道理で話し合いの後、笑いを堪えるのが大変なわけだ。もし、それでディオネが失敗、敗戦したとて何も痛くないのだから。ディオネが勝とうが負けようがどちらもこちらにとって有利なのだ。
「おいおい、北の一派ってバカなのか? 普通そんなこと約束しねーだろ。俺だったら、将なんかやらねーよ、その状況じゃ」
「気付いていたと思うよ。スウェン卿なんてあからさまに青い顔になってたし」
 ケテルが紅茶を覗き込みながら呟いた。問題はそこでいやそうな顔をしなかったソロモン卿の方が強敵。
「陛下の前だから前言撤回なんてできないし、相手は莫迦なディオネだしね。プライドもあったと思うけれどね」
 ニヤニヤしながらケテルに視線を送ったことから完全にホドはソロモン卿の思惑に思い至っていると思うべきだろう。痛い失点を負う派目になったはずの北の一派の動向が読めないのはケテルが未熟なせいか、それとも北の一派が一枚上手ということか。
「わざわざ遠い北西から全軍に近い人員を引き連れるんだよ? 行程だけでどれだけ金を使ってくれる事か。来季の経済状況が今から楽しみで楽しみで」
 そしてその金はほとんどといっていい金額で南の領地を潤す。
「ってか、そこまで考えてたのか。お前って頭いいのな」
「あれ? 今更気付いた?」
 ホドが軽快に笑う。一仕事、それも予想以上にいい結果に終わったゆえの肩の力の抜け様。上手く生き過ぎて(ケテルの立場は悪いのだが)不安に思う。何か罠が在る気がしてならない。
「っていうわけで、ゲヴラー、お仕事行ってきて」
 ホドは急に話を変えてゲヴラーにそう言った。
「はぁあっ!!? 何がっていうわけ?」
 ゲヴラーも驚いて立ち上がる。
「これから未来が明るいっていうわけで。で、前に言った仕事、終わらせていないのゲヴラーだけだよ?」
 それはまだティフェレトが居た頃、二人に命じられた仕事だった。ティフェレトが消えた事でうやむやになっていたのをホドはしっかり覚えていたのだった。
「ま、待てよ! それじゃ、ケテルが一人になっちまうじゃんか!」
 慌てて言うゲヴラーにホドはさも不思議そうに問いかけた。
「それってなんか問題あるっけ?」
 鳩が豆鉄砲を喰らった様にゲヴラーが一瞬あぜんとして、その後まくしたてる。
「そりゃ、問題だろう! ケテルは今大変なんだろ? 一人だったらその、いろいろ大変だったり、不安だったり……そうだ! 護衛もあるじゃんか!」
「何? 君、ゲヴラーがいないと何もできないの?」
 ホドが呆れかえってケテルに問いかける。
「ちげーよ! 俺が言いたいのは……」
 ゲヴラーの言葉を遮ってホドが笑う。
「何? ゲヴラーが寂しいの? それとも、ケテルの心の支えになっているとでも言うのかい?」
「……お前……」
「あのね、勘違いしているようだから言っておくけれど、そんなのケテルには不要だよ。ケテルは自ら一人で戦うことを決めたんだから。ゲヴラーの優しさは枷になるよ?」
 ケテルは黙り込む。その通りだ。ゲヴラーがお帰りと笑ってくれるだけで、心強かった。
「まだわかっていないなら、覚えておくといい。どんなに周囲に親しい人間がいようが、敵だらけの孤軍奮闘だろうが、周囲の状況に惑わされるようじゃそれは自分で決めたとは言えないね。流されたって云うのさ。それはね、自分の決断に逃げ道を用意して、これから起こる物事に覚悟を持たない表れなんだよ」
 ケテルはホドの視線を受け止めて、心に鋭い痛みを覚えている。
「そんなの……」
 ゲヴラーの案じる声を切り捨てるホドの言葉。
「物事を決める時はいつも一人だよ」
 ホドが静かに紅茶を口に含み、茶器を置く音だけが響いた。
「反論は?」
 ゲヴラーは何も言えなかった。ケテルも何も言えない。
 ―人は寄り添うものだから。一人で生きることは難しいから。だから人は集まって一緒に行動して、そして時間を共有する。それは悪い事ではない。でも、決断と云う面に置いて、特にケテルの様な一つの行動が後々の責任が直結するような場合相応しくはないのだと思う。
「ないね? じゃ、ゲヴラー、行ってきて。ケテル、異論はないね?」
「ない」
 自分はまだまだ甘い。公爵になると決めたのは自分だ。ティフェレトの為に権力を振りかざそうと決めたのも自分だ。この程度で、自分の立場が悪くなったと愚痴ってはやっていけない。
 ホドはケテルの心境を正確に把握して、そして鋭く、的確に正確に、心を抉っていく。
「お前の言っていることは正しい。でも、それだけじゃないと俺は思う」
 ゲヴラーはそう言ってホドを睨むでもなく、静かに見返した。ケテルが思わず顔をあげてゲヴラーを見つめる。
「確かに、決断は自分だけのものだ。誰に性にも出来ない。だから過去は変えられない。だけどな、その決断の為に一人でいなければならないとは、俺は思わない」
「……」
 ホドは特に感情を見せずに静かにゲヴラーの言葉を待っている。
「周囲の状況で決断を変えれば、それは確かに流された末の決断かもしれない。だからといってその決断は最終的には自分が下したものだ。逃げ道と思うのは、心の弱さが招くものだろう? 過去の俺がそうだったように。誰しも楽な道は生きやすいから」
 ゲヴラーはケテルを見て微笑んだ。
「ケテルはそこまで弱いやつでもなければ、卑怯者でもない。そうだろう? だからお前もケテルを主に選んだんだろう? ホド」
 くすり、とホドが笑う。その笑みは莫迦にした様子もなく、逆に感心しているようだ。
「そうだね。君の言う事は間違ってはいない」
 ホドは紅茶を飲みほした。
「君が支えになる事でケテルが救われる事も多いだろう。君のそういう点は美徳だ。中々人が持てるものではない。……ケテル。君は本当に恵まれているね」
 それは郷愁に似ているのだろうか。独りで生きてきて、これからもおそらく独りで生きて行くこの男の感情は。この男なら不要と切り捨てるのだろう。ケテルはそれでもこの関係性を、感情を失くしたくないと思う。
「だからと言って、仕事をキャンセルさせる理由にはならないんだけれどな? そこは納得いく理由をくれるかい?」
「うっ!」
 ゲヴラーがひるむ。お手上げと言いたげにゲヴラーが万歳した。
「まぁ、護衛なら大丈夫でしょ。僕とレナがしばらく休暇に似た状況になるから」
「なんだ。そうか。ならいいぜ」
 けろっとした様子のゲヴラーを見て、本当にケテルを案じているだけだったようだ。
「そうそう。頼むよ。僕の予想が正しいとそろそろ調子に乗って絡んでくるはずだから、君が保険になってくれないと困るんだよ」
「へーへー」
 ゲヴラーは頷いて、ホドが手を伸ばしたスコーンを横取りすることで憂さを晴らした。
「あ!」
 ホドがじとっと横目でゲヴラーを睨む。ケテルはそんな二人を見て朗らかに笑いだした。確かに状況は悪いかもしれない。先を考えて不安になっていたかもしれない。それを見抜いたホドは釘をさし、ゲヴラーは心配してくれた。見事な飴と鞭。いい仲間を持ったものだ。
「賑やかな事だな」
 空間に声が響き、黒い魔法陣が浮かび上がる。
「おー、久しぶりだな、ビナー」
 現れた金髪の女性に片手を上げて挨拶するゲヴラー。ホドもスコーンを頬張り、手を上げる。
「久しいな。ふむ、私も頂くとするか」
 自らのカップを取り出し、紅茶を注ぐビナー。ケテルはその姿を凝視する。血がざわめく。
 ――ビナーは行方不明になってはいなかったか??
「何の話だ? ああ、ゲヴラーの仕事についてか。人を殺し過ぎるなよ」
 あっさり言い放ち、紅茶を嗜むビナー。聞いてもいないのに、正確に理解する能力も、自らのカップを迷わず選びとることも、話し方も姿も何一つ違わないのに、ケテルには違和感しか覚えられない。
「……お前は誰だ?」
「あ? 何言ってんだよ?ケテル」
「そうだよ。ビナーには仕事を頼んであったんだ。結果は?」
 ゲヴラーとホドは何も感じていないようだ。それはそうだ。何も普段の彼女と変わらない。ケテルだけが感じる。それにコクマーは言った。自分のことに巻き込まれたようだ、と。そのコクマーの報告なしに現れるものだろうか? ビナーは優秀だからコクマーの助けなしに解決したと言ってしまえばそれまでだが。
「久々というのに、ずいぶんな言い様だな。ケテル。八つ当たりか?」
 あまり気にしないで咎めもしない性格がビナーそのもの。
「結果だったな。ホド。簡単に言うと、まだまだ難解。これで表層を解いたといったところか。邪魔も入ってな、そこまで進んでいない状態だ」
 ホドの求める回答を述べる。仲間内でしか知らないことだ。ビナーの存在を証明する言動と態度。
 ――ケテルだけが感じる、違和感。
 迷った時は、直観に従え。かつて、目の前にいた彼女が言った言葉だ、だからこそ。
今一歩、踏み出す!
「ビナーの躰でお前は何をしに来た? 言ってみろ」
 ケテルが低く尋ねる。ホドとゲヴラーはようやくケテルが本気ということを理解して、ビナーを見つめ返す。
「もう一度言う。お前は、誰だ?」
「あれれ? なんでわかるのかなぁ?」
 子供っぽくビナーの顔が笑顔になる。その瞬間、ゲヴラーが首に手刀を当てて、いつでも殺せるように動く。ホドも思考を働かせ、警戒する。ケテルはビナーである何かを睨みつけたまま動かない。
「初めまして、当代のケゼルチェック公。さすがアーシェとコクマーの主。こんなに早く見破られたらつまらないよねぇ?」
 もうビナーとは思えない。子供っぽい発言と態度にがらりと変わる。
「お初にお目にかかる、私は『罪を飾る楽園の檻』と申す者。そうだね、賢者の一人と考えてくれたまえ」
 ビナーの顔で、ビナーの姿で、ビナーそのものが、にぃっとビナーではありえない笑みを浮かべて告げた。