013.天上昇り

 寝台に横たわる少女は物言わぬ骸。美しい死体に寄り添い、男は主の名を呼びながらただ項垂れる。
「リーゼル様……」
 レイルは波打つ自分の胸の鼓動を抑えるように服の胸元をきつく掴んだ。背にジワリと嫌な汗が浮かんでいくのがわかる。
 この光景を、かつて彼は知っている。
 雪のように白い棺に縋りついていたのは自分だった。どれ程名を呼ぼうと横たわる人が微笑むことは二度とない。
 目の前の光景が、普段は必死で意識を逸らしている喪失を想起させる。
 彼らは間に合わなかった。
 駆けこんだ医院の医師は、ファラダの主の死を告げた。
「リーゼル様……お守り、できなかった……」
「ちっ」
 誰もが粛々とした顔をする空間に、その舌打ちは大きく響く。
「紙一重だったな。事件の概要を聞き取るには生きててくれた方が話が早かったんだが」
「セルセラ」
 あまりにも無情な魔女の一言に、レイルは思わず咎めようと声をかけるが、逆にタルテに止められる。
「待ってください、レイル。彼女が噂通りの人なら――」
 セルセラはファラダの隣でリーゼルの遺体を軽く見分する。そして主を失った従者に声をかけた。

「こいつを生き返らせるぞ。ファラダ」
「!」

「え……」
「ええ?!」
 言葉も出ないほど驚いてセルセラを見上げるファラダと、思わず驚きの声を発したレイルとファラーシャ。
「そんなことできるのか?! セルセラ!」
「できる」
 素っ頓狂な声を上げて尋ねるファラーシャに、セルセラはあっさりと言い放った。
「見たところ死んだ直後でまだ腐敗も何も始まっていない死体だからな。命に関わる怪我なし、病気なし、状態は非常に良好。ただ……」
「良かった! 良かったなファラダ! 本当に良かった……!」
「聞けよ」
 話の途中でがばりとファラダに抱き着くファラーシャの瞳には微かに涙が浮かんでいる。
 無理もない。先程彼女は一族が皆殺しにされた話をしたばかりだ。ファラダの喪失の痛みも我が事のように感じていた。
 セルセラは微かな溜息と共に、先程言いかけた続きを口にする。
「肉体の蘇生は可能だが、今はリーゼルとやらの魂がここにない。それを回収しないと完全な復活は無理だ」
「魂ですか? そんなにすぐ肉体を離れるものですか?」
 人の魂は死後も少しだけ地上に留まると聞いたことがあるタルテは、不思議そうな顔をした。
「これだけ綺麗な遺体の傍から即座に魂が離れるのは珍しいよな。まぁ、死神様が珍しく仕事を張り切ったりしたんだろう」
 まるで死神の仕事ぶりを知っているような口ぶりでセルセラは言った。
「……今の発言の後半は聞かなかったことにしておきます」
 死神の仕事ぶりが真面目なのかそうでないのかはともかく、人が生きるには魂が必要不可欠だ。
「ほ、本当に……本当にリーゼル様を……」
「ああ。とりあえずは魂の返却を冥神ゲッセルク様に直談判してくる。ってわけで、僕はちょっと天界に戻る」
「戻る?」
 “行く”や“向かう”ではなく“戻る”。
 セルセラが天界育ちだということを知らないレイルやファラーシャが不思議そうな顔をする。
「天界って神様が暮らしてるっていう場所じゃないのか? セルセラはそんなところに行く方法を知ってるのか?」
 天界。天上。永遠の平穏を約束された神々の暮らす場所。
 それはもちろん普通の人々にとっては神話や御伽噺でしか見聞きすることのない世界だ。
 かつては地上で暮らしていたという神々も、背徳神と創造の魔術師・辰砂の反逆を機に地上を離れて幾千年。
 天界が存在することは知っていても、その場所へ自分が行こうと考える人間はほぼいないだろう。
「ああもう、お前らにいちいち説明する時間がもったいないわ」
「セルセラ、私も行きます!」
「だーかーらー!」
「その代わりあなたが冥神様と交渉している間に二人に事情説明をしておきますから!」
「全員着いてくこと確定にすんじゃねえ!」
 すかさず宣言するタルテは、セルセラのフォローをするようでいて、ちゃっかり自分も天界に行ってみたいだけだろう。
 ここは医院で、先程死者が出たばかりだ。数は少ないが入院患者は他にもいて、一行の騒がしさに呆気にとられている。
 もちろん医師も看護師も突然現れた集団の繰り広げる展開について行けず困惑中だ。
「ファラダ!」
「は、はい!」
 呆けていたファラダが咄嗟に立ち上がり返事をする。
「リーゼルの遺体に保存の魔導をかけていくから、僕が戻るまで守れ。何か異変があったら星狩人協会に連絡しろ。いいか、今度こそ守れよ! お前の主を!」
 セルセラの言葉に、再び希望を灯されたファラダは決意の瞳で応える。
「はい! ……皆さん、どうか、リーゼル様のことをお願いします!」
 そして騒がしい一行は天界へと昇る。
 セルセラに至っては、昨日師匠に宣言して出てきたばかりの家へとすぐ戻ることになった。

 ◆◆◆◆◆

 天界への“門”のいくつかは他でもない竜骨遺跡にある。どの大陸でも、星狩人協会が竜骨遺跡を本拠地としているのはそのためであった。
 竜骨遺跡の魔法陣は各大陸の竜骨遺跡同士を魔導で繋ぎ、瞬間的な移動を可能としている。その魔法陣は更に、天界への移動も可能にする。
 こう聞くと竜骨遺跡から悪人でも誰でも簡単に天界へ入れてしまうように感じるが、実際には魔法陣を動かすには特別な資格や条件、本人の魔導の実力などが必要だ。
 資格とは神々かその眷属であること、条件は一時的に眷属と同じように天界への入場を許可されることなど。
「まったく、一日でとんぼ返りとはな」
 セルセラの場合は、まだ神々の眷属ではないが特別に許可をもらっていると同時に、自らの実力でも地上の遺跡と天界の門を繋いで出入りすることができる。
「……なんだが、今回はお前らを連れてるからいつもの近道が使えないじゃないか。ティーグの力を借りるぞ」
「ティーグさん? って、さっきの?」
 竜骨遺跡の異変を受けて、ラウルフィカに呼び出された茶髪の人の好さそうな青年。
 彼もラウルフィカやセルセラの師匠と同じく不老不死の身であり、更にもう一つ別の姿を持っている。
「わかりました。そういうことならば、お乗りください」
 竜骨遺跡に一度戻った四人は、書類仕事をこなしながら待機していたティーグに事情を説明し、彼の力を借りて天界へ昇りたい旨を告げた。
「これは……!」
「お馬さん?」
「馬……いえ、一角獣(ユニコーン)ですね」
 ゆるりと目を閉じた青年の姿が黄金の光に包まれると、次の瞬間には角の生えた白馬、すなわち一角獣へと変化したのだ。
「大地神シャニディオールの眷属ティーグ。生前は人間の聖騎士だったが、訳あって今では一角獣生活を謳歌している。この姿で空も飛べるんだぜ」
「聖騎士……」
 ティーグのかつての身分にセルセラが触れた際、レイルは呟いて微かに眉を曇らせた。しかしその僅かな表情の変化は、ファラーシャのはしゃいだ声にかき消される。
「すごいな! 私はユニコーンに会ったのは初めてだ!」
 興味津々でティーグを凝視していたファラーシャだが、すぐに大好きな絵物語知識を持ち出して疑問符を浮かべた。
「でもユニコーンって麗しい乙女しか乗せないんだろ? レイルはどうするんだ?」
『本来の一角獣はそうかもしれませんが……私は天然ものではありませんので……』
 男だろうと処女でなかろうと構わず背に乗せると言ったティーグの協力を得て、四人は直通門より少しだけ遠回りに天界へと向かう。
 ――すなわち、ティーグの背に乗って空を飛ぶのだ。
「星狩人協会の重鎮方は一角獣の背に乗って移動すると、噂には聞いていましたが……」
 風を切り鬣を靡かせ、大地神の眷属である聖獣は宙を駆ける。
 ティーグの背の上で、遥か彼方に見える地上を見下ろしながらタルテが溜息をついた。
「タルテって色々な噂を知っているんだな」
 ファラーシャの疑問は、もはや突っ込みである。
「ええ。お恥ずかしい話ですが、教会の内部なんて他に娯楽らしい娯楽もありませんもので」
 聖職者に対する印象が変わりそうな話である。
 仕事に不真面目な死神といいゴシップまみれの教会といい、一体この世界の人々はどうやって宗教に心の平安を求めればいいのか。
 そんなことはともかく、四人と一匹は青い空を悠々と飛び続ける。
 さすがにティーグの背に四人全員が乗れるわけではないので、箒に乗ったセルセラと光る蝶の翅を生やしたファラーシャの二人は自力移動だ。
 セルセラがかけた結界、高い空で受ける体の負担を軽減する薄い膜の向こうを、蒼穹に浮かぶ雲の群れが流れていく。
『あれが、天界へ通じる天空の門の一つですよ』
「雲の中?」
 ティーグとセルセラが迷わず飛び込んだ雲の中に、淡い銀色に輝く巨大な魔法陣が浮かんでいた。
 その光の中を潜り抜けると一瞬騙し絵のように魔法陣の外の景色が歪み、次の瞬間にはこれまで見て来たものとはまったく違う長閑な光景が広がっていた。
 緑豊かな地面に足を下ろす。
「ここは……」
「家(うち)の近く。正式なルートは中央神殿内の部屋に出るようになってるけどな、この門を一番使うのは星狩人協会の幹部である僕らだから、自分たちの家の前にも近道を開いたって訳」
 下界の春とは違い、天界は常春の気候だ。
 少し離れた場所に荘厳にして華麗な中央神殿が見える。付近は季節を問わず花々が咲き乱れ、果樹は今を盛りとばかりにつやつやとした実をつけている。
 空のあちこちを飛び回るのは小さな蝶の翅を生やした妖精だろうか。そこに映る光景の何もかもが美しい。
 しかし、彼ら自身が登場したすぐ近くは、傍の中央神殿の華麗さとは裏腹に、どちらかと言えば粗末な木造が多い小屋が立ち並んでいる。
「あれ? セルセラちゃん。ティーグさんまで。もう試験は終わったのですか? その方たちは?」
 小屋の一つから、金髪の人影が戸を開けて現れた。
「ルゥ、ただいま! 悪いけどゆっくりしてる時間はねえ」
 セルセラはその少女のような少年に片手をあげて挨拶すると、詳しくはこいつらが話すとタルテたちを示す。
「この人は僕の育ての親の友人というかほぼ身内だ。ティーグと同じ大地神の眷属、豊穣の巫覡ルゥ。タルテ、無理言ってついてきたんだからこの二人に事情を説明しろ」
「わかりました」
「死神との交渉とやらはセルセラ一人で平気なのか?」
「僕が交渉するのは死神様じゃなくてその上の冥神様だ、レイル。大丈夫かどうかは僕がどうと言うより、ファラダの主人リーゼルの事情による」
 タルテに説明を押し付け、ルゥたちに一行の世話を押し付けたセルセラは気軽に言う。
「じゃ、僕一回冥界に降りるから」
「あ、はい。……わざわざ天界に来て今度は冥界に降りるのですか?」
「冥神様のいる空間が……あー、その話はまぁまた今度にしろ」
 セルセラはこれでもふざけている訳ではなく本当に忙しい。人と神々の間には細かい約束事が溢れている。
 せかせかと天上の神殿内に向かうセルセラの背を見送った天界の住人と地上からの訪問者一同の中で、一番早く口を開いたのはルゥだった。
「えーと、とりあえずお茶にでもします?」

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