014.冥界下り

 神々が住まう中央神殿。装飾的な柱の並ぶ廊下をセルセラは迷わず歩き、建物内で最も日当たりの悪い一角へと辿り着く。
 奥まった部屋が死後の世界を統治する冥神ゲッセルクの執務室だ。
 執務室と言っても扉を開けてすぐに冥神に会えるわけではなく、本来の冥神の居場所はその部屋から地下に伸びる階段を降りたところにある。
 人間が認識する移動経路としては階段を降りただけだが、実際には階段を降りることで冥界へと繋がっているらしい。
 セルセラたち人間の魔導士が使う魔法陣での移動とは違い空間の連続性を弄るものだと言われている。
 地上のとある場所にも同様に「地下への階段」があって、そこを降りると冥界に行けるポイントがいくつかあるらしい。
 暗い闇の中を降りる長い階段はおどろおどろしいが、要は地下に存在する冥界の神が、空の上の天界に住まう他の神々とやりとりしながら仕事をするために便利な近道というだけだ。
 辰砂が竜骨遺跡に作った隠し通路と似たようなものである。
 暗闇を特に恐れることのないセルセラは、魔導で淡い緑の炎を人魂のように周囲にいくつか灯すと、迷いない足取りで階段を降りて行った。
「――来たか、天上の巫女」
「御機嫌よう、冥神ゲッセルク様」
 冥界の神ゲッセルク。人もその他の種族も全ての魂が還りつく世界の統治者。
 鴉の濡れ羽色の髪と瞳をし、落ち着いた印象を与える偉丈夫だ。
 神々の大半は人間形態を持ち、その容姿は基本的に整っている。
 冥神も例外ではなく、年齢不詳だが端正な容貌をしていて、普通の人間は彼の前に立つとき自然と畏怖を感じ跪く。
 ただし、天界で育ち神々の気配に慣れているセルセラは別だ。
 貴婦人のようにスカートの裾を持ち上げて軽く礼をし、セルセラはすぐに本題に入る。先程の口ぶりだと、ゲッセルクもそれを予想して待ち構えていたようだ。
「単刀直入に言う。すでに死神の手によって回収された、リーゼルという娘の魂を返して欲しい」
「それはできない」
「何故?」
 無条件に聞き入られるとは思ってはいないが、即座に拒否されるとも思っていなかった。
 これは面倒なことになりそうだと薄っすら予感しつつ、理由を問う。

「その娘の魂を回収したのは、死神ではなく魔王だ」
「魔王が……!?」

 意外な返答に、セルセラは目を瞠った。
 緑の大陸の魔王、通称“灰かぶり”が過去にそのようなことを行ったという記録はないはずだ。
「私もかの魔王がかつてそのような振る舞いをしたという記憶はない」
 この百年の出来事もその目でつぶさに観察していた冥神が頷く。
 しかし、現実にリーゼルの魂は硝子の街の魔王、一の魔王“灰かぶり”の手によって持ち去られたと言う。
「呪詛はリーゼルを殺すためではなく、死んだあとに魂を回収するための仕掛けだったのか。だが、何故……? そのリーゼルと言う娘は、何か特別な力でも持っていたのか?」
「……特別という訳ではないが」
 僅かに逡巡しつつ、冥神は答えた。
「その娘は、黒い星の持ち主だ。それも強い憎しみによって、本来の魂と黒い星が深く融合している。いずれは娘自身が魔獣へと変化したかもしれない」
「!」
 遺跡の最奥の部屋で待ち構えていた鵞鳥の騎士の魔獣。
 あれはセルセラやレイルたちだから簡単に倒せただけで、一般的な星狩人の基準で行けばかなりの強さだった。
 鵞鳥の騎士を生み出したのがリーゼルの力の一部であるなら、彼女自身が魔獣となった時の脅威は如何ほどのものか。
「……でも、それとこれは別じゃないか? 硝子の街の魔王をそのままにしておくのか?」
「……灰かぶりは硝子の街を滅ぼしたが、その後百年、廃墟で大人しくしている。今回の出来事があっても、魔王の動向に大きな変化はないだろうと言うのが天界の判断だ」
 魔王が人を一人殺した。その魂を奪った。
 それだけのことでいちいち右往左往するほど神々は暇ではない。
 同じ魔王でも大きな被害を生み出し続ける者は他にいる。犠牲者の数も百や二百ではきかない。
 そちらに対処することに比べれば、数十年に一人二人しか手にかけぬ魔王は放っておくというのが天界の意向。
 この話をしているゲッセルク自身はその意向に苦い思いをしているようだが、彼一人が反対したところで簡単に現状が変わる訳ではない。
 そのぐらいで変わるなら、千年もの間、地上で魔獣が跋扈するはずもないのだ。しかし。

 ――リーゼル様……お守り、できなかった……。

 それでも、それだと、救われない存在がいるのだ。
「神々の考えはわかった。冥神様のお気持ちも。でも僕は、やっぱりその娘の魂を取り返したい。リーゼルを生き返らせて、ファラダに主人を返してやりたい」
「……それがいずれ新しい魔王を生むこととなってもか?」
「魔王になる切っ掛けなんて、誰でも持っているさ。その時世界を滅ぼしたいと願ったのが、たまたま自分以外の誰かだっただけ。あるいは一歩運命が違えば、僕がリーゼルの立場だったかもしれない」
「……そうだな」
 冥神はセルセラの返答をとっくに予想済みのようだった。
 セルセラが天界暮らしで神々の気配に慣れたのだ。神々とてセルセラの性格はよく知っている。
「僕は、リーゼルの魂を取り戻すよ」
「……お前の好きにするがいい。天上の巫女、命操る鎖の姫よ」
 言質は取った。
 冥神はリーゼルの蘇生に許可を出した。
 これで後は無事にリーゼルの魂を魔王から取り返せば怖いものなどない。
 セルセラは不敵に笑う。
「こちとら元々それが仕事だ。硝子の街の魔王を倒し、リーゼルも生き返らせてやる!」
「健闘を祈る」
 セルセラはもう一度冥神に礼をすると、くるりと振り返り天界までの階段を昇り始めた。
 数多くの古代の神話で、死者の世界から戻る者は決して後ろを振り返ってはならないと言う。
 セルセラは頼まれたって後ろを振り返るような性格ではない。

 ◆◆◆◆◆

「へー、セルセラってそんなに凄い魔女なのかー」
「ファラーシャ、実は私の説明がよくわかっておりませんね?」
「うん」
 えへ、と笑いながらファラーシャはぱくぱくと勢いよく軽食を口に放り込んでいく。
 ルゥとティーグの給仕のもと、タルテ、レイル、ファラーシャの三人は木陰の東屋で軽い食事を摂っていた。
「この場所にお客様は珍しいですから。どんどん食べてくださいね!」
 一見少女と見間違う藁色の金髪に鼈甲の瞳を持つ優しげな面差しの少年ルゥは、豊穣の巫覡。茶髪に緑の瞳の穏やかな青年ティーグは、その護衛騎士。
 二人がセルセラとどういう関係なのか問えば、彼らはセルセラの師匠・紅焔や星狩人協会の会長ラウルフィカと共に、皆でセルセラを赤ん坊の頃から育てたのだと言う。
「じゃあ二人は、セルセラにとってお兄さんみたいなものなのか?」
「まぁそんなようなものです」
 肯定するが断言はしない微妙な言い回しでルゥは頷き、三人に食事を勧めた。
「皆さん試験でお疲れでしょう。これからまた忙しくなる可能性もありますし、ぜひ昼食を食べて行ってください」
「ご迷惑では」
「大丈夫です! ここで遠慮して食事を摂る暇もなくすぐに星狩人(サイヤード)の依頼が入ったら大変ですよ? 星狩人たる者、休息と栄養はとれるうちにとっておかないと!」
 説得され、タルテたちはありがたくルゥの振る舞う食事に舌鼓を打った。
 ファラーシャがスプーンを持ちながら満面の笑みになる。
「はー、美味しい。こんな美味しいご飯は久しぶりだ! というかまともなご飯が久しぶりだ」
「まともな?」
「今までずっと山に籠もって修行してて、食事はその辺で狩った動物を食べるばっかりだったからな」
「俺も似たような生活だ。歳を取らない吸血鬼だと一つどころに留まるのも難しいしな」
「……」
 レイルの同意まで聞いて、タルテは頭痛を堪えるかのように額に手を当てた。
「なるほど……それであなた方はセルセラの噂を少しも知らないのですね。あれだけ有名なのに……」
 セルセラの話はそれこそ外界からまったく隔絶した生活でもしていなければ、誰でも一度は聞いたことがあるだろう程に有名だ。
 ……この二人は、本当に外界から隔絶した生活をしていた訳だ。
「その話だが……本当なのか? 死者を蘇らせる魔法だなんて、俄かには信じがたい」
 リーゼルを生き返らせると言ったものの、あの場で本当に蘇生した訳ではない。
 あまりに非現実な「噂」に、レイルは真偽を疑うと言うよりは全てを信じきれないでいた。
「死は絶対だ。死者を、取り戻せる魔法だなんて……」
「本当ですよ」
 肯定したのはタルテではなく、身内としてセルセラをよく知るルゥとティーグの二人だった。
「噂とは誇張されたり、事実の細部が削ぎ落されたりするもの。セルセラちゃんに対しても必要以上に恐れられたり誤解されたりしている部分はあります」
「彼女の魔導による蘇生は、あくまで人間の技術的に可能な範囲までだそうです」
「技術的に可能な範囲?」
「溺れた人に人工呼吸をして蘇生を試みるように、心臓が止まっても人間はすぐに死ぬ訳ではありませんよね。セルセラちゃんの魔導も同じようなものだと本人が言っていました。何かの方法で傷を治したら生き返る範囲、病を癒やしたら生き返る範囲、肉体の治療が魔導的に可能な範囲でなければ生き返らせることはできない、と」
「……つまり、治療方法の解明されていない未知の病気で死んだ人を生き返らせることとかはできないのですか?」
「その通りです」
 タルテの挙げた例に、ルゥは頷く。
「セルセラさんはとても偉大な魔導士ですが、あくまで人間ですからね」
 ティーグがしみじみと言った。
 そこへ、ようやく冥界神との交渉を終えたセルセラが神殿の方から歩いて戻ってくる。
 大皿の上の野菜と燻製肉がたっぷり挟まったサンドイッチを行儀悪く摘まみながら言った。
「おい、お前ら。僕はもう一度緑の大陸へ戻る。今度の目的地は硝子の街だ」
「冥神様とのお話はどうなりました?」
「リーゼルの魂を回収したのは死神様ではなく魔王だそうだ」
「なるほど、そう来ましたか」
 やれやれ、とタルテは槍を、レイルは剣を持ちながら立ち上がる。
「つまり魔王を倒せば無事にファラダの主殿を救えるんだろう。やるしかないな」
「ご馳走様でした!」
 頬にパンくずをつけたままのファラーシャが立ち上がり、三人はルゥたちに礼を言うと当然のようにセルセラに着いて行こうとする。
「魔王相手と聞こえましたが、あなた方も行くんですね」
「うん。だってファラダのご主人様を助けてあげたいしな」
「ここまで付き合っておいてセルセラ一人に任せられませんよ」
「世話になりました」
 魔獣を統べる魔王相手と聞いても恐れ気どころか躊躇い一つせず同行を決めた三人に、ルゥとティーグはようやくセルセラと対等に背中を預け合える仲間ができたのだろうと喜ぶ。
 ――この話を後にしたところ、セルセラ本人は仲間なんかにした覚えはないとぷりぷり怒り出したのだが。
「皆さん、お気をつけて。行ってらっしゃい」

 ◆◆◆◆◆

 静かな城の中、広い中庭で女性は花を摘んでいた。
 茂みに咲く花を傷つけずに鋏で茎を切り、反対側の腕に抱きかかえる。
 女性は花を抱えたまま、白い石でできた塔を昇っていく。その最上階には、一人の少女が寝台に横たわっていた。
 摘んできた花を花瓶に生け、窓を開けて外の風を通す。白い羽根がふわりと窓辺で踊る。
 この光景だけを見れば、世界は優しく美しく、何の憂いもないように思えるだろう。
 しかし仮初の平穏を打ち壊すかのように、人語を介す伝令役の魔獣が塔の部屋に飛び込んでくる。
「侵入者です! 陛下! この街に人間の勇者たちが近づいてきます!」
「なんですって……」
 彼女――魔王ドロミットは、硝子のように冷たい表情で振り返る。
 窓辺に飾られた鳥籠の中、黒い真珠のような光の球が輝いていた。

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