019.灰かぶりの魔王

「とっとと魔王を倒して終わらせるぞ!」
 反撃の号令はなされた。ファラーシャとタルテは、もはや戸惑うこともなく動き出す。
「セルセラ」
「お前も行け、レイル。奴の術を防ぐ魔導をかけてやる。もう操られることはない。っていうか、この事態を引き起こしたのはお前なんだからきっちり責任取ってこい」
 死から自らを復活させた魔女は、先程まで魔王に洗脳されていた男を説き伏せる……と言うよりは、やたらと偉そうに上から命令する。
「わかった」
「僕はちょっとここで休憩」
 生贄術は消耗が激しい。ただでさえ血を流しすぎたセルセラは、白い壁を服に残った血で赤く染めながらもたれかかった。
 セルセラが負傷したとはいえ、レイルを取り戻した一行の戦力は十分以上だ。すぐに戦いは終わるだろう。
 こうなってはもうドロミットに勝ち目はない。元々、彼女自身も戦力差を十分に自覚していたからレイルを洗脳し取り込むなどと言う手に出たのだ。
 タルテとファラーシャを躱したドロミットの隙に剣を叩き込む。様子見がてらの最初の一撃は、硝子の剣によって難なく防がれた。レイルはそこから更に攻撃を繋げる。
 レイルの攻撃を躱すため、ドロミットは宙へと飛び上がった。
 着地点を予測して動こうとしたレイルだが、その計算は大きく外される。
「翼……!」
「鳥……?!」
 ドロミットの背には真っ白な一対の鳥の翼が生えていたのだ。込められた魔力が彼女の身を宙に留めるように支えられている。
「どうやら有翼族のようですね」
「なるほど。あんまり人間っぽくないと思ったけど元は魔族だった訳か」
「と、鳥――!! やだー!」
 “光翅の民(ハシャラート)”こと、虫の特性を持つ特殊民族であるファラーシャが鳥の翼に本能的な恐怖を刺激され悲鳴を上げていた。
 魔獣は黒い星の欠片を宿したものが変異して生まれる。
 人も魔族も、ひとたび黒い星によって変質してしまえば例外なく魔獣と呼ばれ、その中でより強力な個体が魔王になると言う。
 ドロミットは鳥を眷属とする魔族の一つ、有翼族の生まれだったのだろう。
 翼を生やした彼女は空中浮遊が可能にする変則的な動きで、地を蹴って追撃してきたレイルの剣と渡り合う。
 ドロミットの剣士としての腕は素晴らしい。ドレスの裾を翻して白刃を振るうさまは、戦闘と言うより華麗な剣舞にも見えた。
 しかし、レイルとの剣技の差も歴然だった。今のドロミットは奥の手を出してもまだ、先程の洗脳状態より数段速いレイルの剣速について行けず、防戦一方となる。
「ふ、ふふ。やるわね」
 追い詰められ、肌に汗を浮かべながらも、ドロミットは小さく笑っていた。
「まったく……死者の蘇生なんて非常識過ぎるわ……」
 勇者たちが訪れるのを本拠地で待つのではなく、何故か一行の前に自ら姿を現したドロミット。
 魔王の持つ黒い星に幻惑されて彼女の下に集っているはずの配下の魔獣を、連れてこなかったドロミット。
 彼女の考えていることなど、セルセラたちにわかるはずがない。
 ――魔王は、終わりを予感していた。
 自分の実力は自分が一番わかっている。
 伊達に百年生きてはいないのだ。才能の限界が見えれば成長は頭打ちになる。
 剣も魔導も同じこと。
 結局ドロミットは、彼女自身が欲した結果を手にすることができなかった。
 硝子の彫像と化した人々から生命力を吸い出し、どれほど生贄に捧げようとも。
 ――速すぎてセルセラの目ではほとんど追えない白刃のやりとりが続く。
 顔色一つ変えないレイルに対し、ドロミットの息が上がっていく。
 いつしかタルテとファラーシャも二人の剣士の攻防を注視していた。
 隙を見て矢や槍を撃ちこもうにも、その隙がない。セルセラじゃあるまいし、普通はレイルに当たってもいいから攻撃しようとはなかなか思えないものだ。
 それに心配せずとも、このまま続けば必ずレイルが魔王を追い詰める。全員にその確信があった。
 レイルの剣を捌き損ねたドロミットの手から、硝子の剣が弾き飛ばされる。
 最大の好機に、しかし動いたのもまたレイルだった。
 ドロミットの首筋に剣を突き付ける。
 そして、降参を迫った。
「俺たちの勝ちだ。……君に恨みはない。リーゼル殿の魂を返して、街の人々も解放してくれ。そうすれば――」
「いえ、さっき思いっきり操られてたでしょう」
「あれで恨みはないってのも凄いよな」
 レイルの言葉に、 タルテとファラーシャが突っ込みを入れる。
 最初にごちゃごちゃ言っていた通り、レイルはやはり女性の姿をした魔王と戦いたくはないのだろう。
 洗脳を受けて危険性を認識し戦うことは納得したが、命を奪う気まではないと告げる。
 人間同士のやりとりだったなら、ここで決着をつけても良かっただろう。
 だが、相手は魔王だ。
「無駄だぜ、レイル」
「セルセラ」
 貧血で重い体を引きずるようにして歩いてきたセルセラが言う。
「この魔王はすでに何人も手にかけた。今更説得に応じる気はないだろう」
 それで済むなら、最初にセルセラがリーゼルの魂を返せと要求した時点で話はついている。
「こいつの場合、確かにこの街以外には大して被害も出していなかったようだがな……ただ」
 ドロミットを真正面から睨むようにして、セルセラは隣に立つレイルに告げる。
「硝子の彫像にされた街の人間。あれはもう僕にも元には戻せない」
「……ッ!」
 宣告された犠牲の大きさに、レイルが息を呑む。
 その一瞬を、ドロミットは隙と見て取った。
 もともと何本もの硝子の剣を魔力で生み出していたのだ。レイルに突き付けられている刃さえなくなればもう一本武器を作り出すことなど造作もない。
 そして魔王にとって最大の敵となる復活の魔女は、眼前に立っている。
 いくら神速で魔導を展開できる術師であっても、この距離なら剣の方が速い――。

「そんなことだろうと思いましたよ。相手は所詮魔王です」

 ドロミットの手から武器が離れたのを見ても、まったく気を緩めずに警戒していたタルテが、セルセラへ向けられた剣先を槍で叩き落す。
 そして地に伏したドロミットの手足に、光の矢が罪人を磔にする杭のように何本も刺さった。
 完全に動けなくなったのを確認して、ファラーシャはようやく弓を下げる。
「ま、なくても大丈夫だったけどな」
「はいはい。貴女ならそうだろうと思っていました」
 セルセラの魔導展開は確かにドロミットの剣速を超えられるものではない。
 だがそれならば、あらかじめ刃で斬られても死なないよう前もって術を張っておけばいいだけだ。
「レイルも間に合ったでしょうしね」
「……」
 哀し気な表情で構えていたレイルも剣を下ろす。
 躊躇いがあった先程とは違い、今のレイルならばドロミットがセルセラを斬る前に動けた。それもタルテにはわかっていた。
「んじゃなんで庇ったんだよ。礼は言わねえぞ」
「いりませんよ。私がそうしたいと思ったからそうしたまでです」
「仲が良いな二人とも!」
 ファラーシャはにこにことしているが、今はそんなほのぼのとした場面ではない。
「これでわかったろ」
「……ああ」
 確認を取るセルセラに頷き返しながらも、やはりレイルの表情は哀しげだった。それでもここまでされてはもう、ドロミットを見逃す選択肢はない。
「リーゼルの魂を返してもらうぞ」
 例えドロミットが取引に応じずとも、魂を捕らえる術式は、術者が死ねば解ける。
「さーて、何か言い残したいことはあるか? 一の魔王よ」
 磔状態のドロミットを見下ろして問うと、返ってきたのは疲れたような微笑みだった。
「……どうせなら、百年早く生まれてきてくれればよかったのに。天上の巫女」
 喪われた命を取り戻す程の魔導――生贄術の使い手。この世界にいるといないとで他者の生き死にを大きく左右する聖女の誕生を、魔王はむしろ待ち望んでいたかのように言う。
「……」
 レイルが無言で眉根を寄せたが、力ない恨み言を聞かされたセルセラ自身の態度は変わらない。
「ああ、そりゃ無理だ。これが運命ってやつだからな」
「……そうね」
 魔王は静かに瞳を閉じる。
 セルセラが厳かに呪文を唱える。

「雷の剣よ、汝の敵を貫け」

 夜の闇を裂いて空から下された光の刃が、標本のように磔になった鳥を焼き尽くした。

 ◆◆◆◆◆

 セルセラは黒髪の少女が横たわる寝台の上で、小さな壜の栓を抜いた。
 黒真珠の輝きがその胸にすうっと吸い込まれていく。
 次の瞬間、寝台に横たわった人物が息を吹き返した。
「あ……ありがとうございます! 本当にありがとうございます!」
 従者のファラダは一行に何度も何度も頭を下げ、心臓が動き出したもののまだ意識を取り戻さない主に縋りつく。
「さて、と」
 診療所に戻ってリーゼルの蘇生を果たしたセルセラは、レイルたち三人を引き連れて街の宿を取った。
「今日は随分、長い一日だったな」
「そうですね」
「ああ」
「大変だったなー」
 その大変な一日の仕上げがこれからだ、とセルセラは部屋の中で一人意識を集中する。

 ◆◆◆◆◆

 最期の夢を見る。
 彼女が死に際に振り返るのは、懐かしい過去の記憶だ。
 かつて銀細工で栄えていた小さな街。やわらかな銀の輝きがあちこちの店先を飾り、通りを行く人々の首や胸元、指先にも小さな銀の装身具が煌めいていた。
 一族を捨てるように家を出て気儘に旅をしていた光り物好きのドロミットは、その銀の輝きに魅せられて街の近くの森へと棲み着いた。
 緑の大陸は土地が豊かで、たまの魔獣被害に悩まされる以外の問題は少ない。生きるだけで厳しい極寒の大陸や魔獣そっちのけで常にどこかしらが戦争をしている大陸に比べれば、随分平和だ。
 けれど人が集まればそこにまったく問題が起きない訳もなく、大陸や国など大きな単位で見れば平和な土地でも、各家庭には複雑な事情があるものだった。
 ドロミットが出会った少女――エラの家庭もそうだった。
 母親が亡くなった。
 父が再婚して継母ができた。
 その継母が前妻の娘を虐める。
 ありふれた話。ありふれた悲劇。
 けれどその渦中にいる当人はたまったものではない。
 御伽噺の灰かぶりのようにいつも全身を煤だらけにして、召使いのように働かされていたエラをドロミットは友人として心配していた。
 ――どうせなら家を出てしまえばいいのに。
 ――そういうわけにも行かないわよ。
 誰もかれもがドロミットのように、自分から実家を飛び出して元気にやっていけるとは限らない。
 継母に虐げられているとはいえ、エラは父や飼い犬や他の友人たちを捨てることはなかった。
 だから翼を持ち空を飛べるドロミットが、いつもエラに会いに行った。
 友人を家に招き入れることさえ許されないエラのために、鳥の姿で窓辺に座る彼女と話す。
 ――その姿、まるで灰かぶり姫よ。
 ――そうね。……いっそシンデレラのように、私にもいつか魔法使いがやってきて、お姫様になれる魔法をかけてくれればいいのに。
 けれど虐げられる継子の誰もが、シンデレラのように後の幸せを約束されている訳ではない。
 今、苦しみに耐えればいつか救われるなどと、一体誰が保証してくれるのか。
 ある日、ドロミットがエラに会いに行くと彼女は姿を見せなかった。窓硝子を突いて音を立てても、誰も姿を現さない。
 訝りながらそのまま家に入ると、階段の下でエラの継母と連れ子たちが倒れた人影を囲んでいる。
 やってきた犬が継母を威嚇するようにギャンギャンと吠え始めた。
 ――私のせいじゃないわよ!
 ――この子が勝手に転んだの!
 そのやりとりでドロミットは何が起きたかを理解し、階段の下で倒れ伏したエラに駆け寄る。
 侵入者の登場に驚き狼狽え始める継母たちをよそに、頭から血を流し息のないエラを抱き起した。
 何度呼び掛けても友人はもう二度と応えない。
 もう彼女にはどうすることもできない。
 硝子の剣を扱う魔導は使えても、人を生き返らせることなんてできない。死者の蘇生など、一流の魔導士にだって不可能な話だ。――少なくともこの時代の常識ではそうだった。
 目撃者を消そうと継母の手が大きな花瓶を掴む。
 その行動を横目に見ながら、そうよね、と冷めた心で思う。
 不審な侵入者かつ厄介事の目撃者を消して、継子殺しの罪を被せれば、あとはすっかり元通りの日常を取り戻せる。
 そんな考えを許すと思った?
 いつの間にかドロミットの隣に、彼女以外には見えない黒髪の長い三つ編みに橙と紫の色違いの瞳を持つ少年が立っていた。
 彼は無邪気ながらもどこか儚い笑みを浮かべ、ドロミットに尋ねる。

 ――力が欲しい?
 ――全てを、この世界を壊す力!

 人間より寿命の長い魔族は人間より過去の伝承をよく伝え聞いている。三つ編みの少年の名を、有翼族の一員であったドロミットは知っていた。
 だから躊躇わずに答えた。

 ――欲しいわ。
 ――私に力をちょうだい。この世を滅ぼす背徳の神、グラスヴェリアよ。

 そして彼女は、魔王になった。

 ◆◆◆◆◆

 ドロミットは友を殺したその継母たちを殺し、街一つ丸ごと硝子化の魔導で包みこんだ。
 硝子に封印した人間たちからゆっくりと生命力を奪い取り、エラを生き返らせるための研究を始めた。
 元の住人を全て硝子像に変えて廃墟と化した城を乗っ取り、見晴らしの良い塔の最上階へと運び込んだエラの遺体を世話する。
 彼女にできたのはそれだけだった。
 遺体が腐敗しないように維持することはできても、やはり失った命と魂は戻らない。
 ドロミットの拙い術では、街中の人間の生命力を吸い出しても、エラの魂を喪った肉体を維持するだけで精いっぱいだった。
 シンデレラになり損ね死の眠りを揺蕩う少女を迎えに来る王子さまはやっぱりどこにもいなかった。
 ――百年の後にやってきたのは、王子ではなく残酷な魔女だったのだから。
 そして目覚めない眠り姫を抱えたまま、魔法使いになれなかった魔王ももう終わる――。
「馬鹿言ってんじゃねえよ。さんざん好き放題した奴を、このまま終わらせるかよ」
 魔女の声が聞こえた。
 暗闇ばかりの上も下もない空間が、突如として目を焼きそうなほどの白さに包まれる。
「何よ突然。人の走馬灯に割り込まないでくれる?」
「走馬灯じゃねえ。ここは“天頂(ゼニス)”――まぁ、魂の世界みたいなもんだ」
 訳の分からないことを言う魔女は、更に訳のわからない言葉を重ねた。
「お前に話があってきた」
「私に? 話すことなんて何もないわよ。……ああ、他の魔王の情報とか聞きたいわけ? 説明するのも面倒だから記憶でもなんでも読み取ってよ。そのぐらいできるのでしょう? “天上の巫女”と呼ばれる聖女様なら」
 最強の聖女と名高い絶世の美少女は、同時に限りなく最強に近い魔女。
「やろうと思えばそりゃできるけどな。生憎と、話はそれだけじゃないんでね。それに」
 セルセラは本題に入る前に、自分の斜め後ろに立つ存在を振り返ってドロミットの注意を向けさせた。
「僕より先にお前と話したい奴もいるみたいだぜ」
「――!」
 硝子玉のような青い目を零れ落ちそうな程に見開いて、ドロミットは驚きその名を呼んだ。
「エラ!」
「久しぶりね、ドロミット」
 懐かしい友人の微笑みに、涙を浮かべて駆け寄る。
 塔の中でいつも見ていた朽ちない遺体の顔。でもそれは所詮魂の抜けた肉体で、決してエラ自身ではなかった。悲しみを堪えながらもいつも浮かべられていた笑顔がなかった。
 どれほど美しい花を飾っても、配下の鳥たちが歌を奏でても、二度と目覚めることはない。
 突き付けられる死の確かさから逃れるために街を閉ざした。何千人も殺して生命力を奪った。
 それでも会えなかった笑顔。
「エラ、エラ……! 本当に……!?」
「ええ。私よ、ドロミット……! ごめんなさい……ずっと、私のせいで……!」
 エラの瞳にも涙が浮かぶ。
 自分を蘇らせるためにドロミットが罪を重ねたことを、エラは知っているのだ。
「全部、聖女様が教えてくれたわ。私がいなくなった後にあったこと。あなたがどんな思いでいたか」
 ドロミットの視線を受け、少し離れたところで二人のやり取りを見守る……と、言えば聞こえはいいが、ようは観察していたセルセラは軽く肩を竦める。
 続くエラの言葉に、ドロミットは再び友の顔を見つめた。
「ねぇ、ドロミット。いいの。もういいのよ。もうこれ以上誰かを殺さなくてもいい。だって」
 ドロミットが、そしてエラ自身が自分で記憶しているままの、家事で荒れた手がそっとドロミットの手を包む。
「だって私は……あなたに会えて幸せだった。あなたがいたから独りじゃなかった」
 不幸な死に方をした少女。
 誰にも報われずに死んでしまった娘。
 幸せなお姫様になれなかった灰かぶり。
 それでも幸福だったのだと。
「ほん、とに……?」
 エラが死んだ当時なら受け入れられなかった言葉だろうが、今のドロミットにはその言葉が深く染み入った。
 何もかもが変わらないような硝子の街でも、百年の時が過ぎたのだ。人だろうが魔族だろうが、変わらずにはいられない。良くも悪くも。
 ドロミットは心のどこかで、全てを終わらせてくれる存在がやってくるのを待っていたのだ。
「ええ! だからもう、私のために、あなた自身を不幸にするのはやめて。もう自由になっていいの」
「私は……」
 一族のはぐれもので、帰る場所のなかったドロミットと、家人に虐げられながらも家を出ることのできないエラ。
 いつしかエラの存在故に、ドロミットは飛ぶことを止めた。エラの存在は、ドロミットを地に縛り付ける鎖にしかなれなかった。
 今はもう、その必要もない。
「今までずっと、私のために街に残ってくれてありがとう……今度は私が、あなたが来るのを待ってる。ずっと待ってるから……」
 瞳の端に涙を浮かべた、それでも最高の笑顔でエラが約束する。
「エラ……!」
 送り出すのか送り出されるのか。魂だけとなったドロミットに会いに来たエラの魂が先に、この白い闇が包む空間から消えていく。
 ドロミットが伸ばした手の先で、友の姿は淡い光の粒となって溶けた。
「残念ながら魔法の時間はおしまいだ。十二時の鐘が聞こえるだろう」
「……ええ」
 白く張り詰めた、音のない空間。ドロミットはセルセラの方を振り向き、ゆるく首を振る。
「百年ほど遅かったけど、灰かぶりに素敵な魔法をかけてくれる魔法使いは、やっと来てくれたのね……」
 それとも、魔法使いを本当に待ち望んでいたのはドロミットの方だったのだろうか。
「でもダメよ。エラとの約束を守れないわ。だって私も……もうあなたに殺されてるじゃない」
 死によって魔王という存在の重さから解放されたが、それはエラが望んでくれたような本当の自由を意味しない。
 ドロミットにはもう何もない。命も力も還る場所も何もかも。
 魔王の力を得た代償に、役目を終えた後は彼女に力を授けた邪神こと背徳神グラスヴェリアの魂の欠片に取り込まれるだけだ。
「あー、それなんだがな」
 ようやく本題に入れると言わんばかりに、セルセラが事情を説明する。
「僕は現在存在する六人の魔王を倒し、この世界に平穏を取り戻すことが目的だ。そのためには、お前が黒い星に取り込まれて背徳神の力を増すのは困る。それを誰かに奪われるのもな」
 セルセラたち星狩人が最も警戒すべきは、六人の魔王の中で一番邪悪とされる六の魔王。
 六の魔王はただの人間も星狩人の多くも手にかけているが、それだけでなく同族殺しまで行うことが知られている。
 同じ魔王を殺して自らの魔王としての力を強化する最悪の魔獣の王。
 だから星狩人は、倒した魔獣の“黒い星”――背徳神の魂の欠片を回収することによって、魔王同士の共食いによる強化を未然に防ぐことにした。
「お前の魂は今僕の手の中にある。これがどういう意味かわかるか?」
 にやにやと笑うセルセラの顔は、紛れもなく美少女であるのに言動でそれを裏切る。
 清らかな聖女の神秘性はもちろんなく、かといって恐ろしい魔女と呼ぶにはあまりにも無邪気な悪戯っ子の笑いだ。
「……私の生殺与奪をあんたが握ろうって言うの?」
「もう死んでるから正確には死後の権利かな」
 セルセラはゆっくりと、ドロミットに片手を差し伸べた。

「灰かぶりの魔王ドロミット。我に隷属し服従せよ。我が朽ちる時まで共にあり、力を貸せ」

 偉そうな態度。傲慢な言葉。
 しかし差し伸べられた手は、白い闇の中で行き先を見失った迷子の魂を導く。
「そもそも断る権利がないじゃない」
「嫌なら別に強制はしないぜ。このまま消えてしまいたいなら黒い星だけ分離してお前を冥神様に引き渡す」
 魔王ドロミットは天上の巫女一行に倒され死んだ。ここにある魂はただのドロミット。
 このまま消滅の道を選ぶこともできると、聖なる魔女は言う。
 けれど。

「……いいわ。どうせもうやりたいこともないもの。あなたについて行ってあげる」
「よし、契約成立!」

 差し伸べられた手をドロミットが掴み返すと共に、白い闇が更に白い光に照らされて消えていく。

 ――その白い光を背負った魔女は、いまだ悪戯っ子の笑顔を浮かべたまま、女神のようにただただ神々しかった。

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前話 018.生贄術師