036.鉄帯が外れる時

「う……」
 頭が重い。首の後ろがなんだか痛む。
 慣れぬ感覚だと思いながら、クランは意識を取り戻す。瞼が重い。
「なんだ。結局こういう話になるんじゃないか」
 体を起こす前に耳に飛び込んできたのは主であるディムナの声。
「それなら俺たちに譲ってくれても良かったんじゃないか?」
「ディムナ。お前の望みは、本当にクランの了承を得たものか?」
 名を呼ばれてどきりと心臓が跳ねた。
 話している相手は天上の巫女ことセルセラのようだ。
「他者を勝手に悪役に仕立て上げて処分する。……それは人が想像する魔王の行いとどう違う」
「……セルセラ、俺はただクランに、もう少しだけ生きやすくなってほしいだけだ」
「お前の気持ちはわからないではないがな。……お前がクランのために何かしてやりたいと思うのと同時に、あいつだってお前に悪人じみた真似をしてほしくないと願っているはずだろう」
 思わず開いた目に、燃える夜空が映った。
 大分弱くなったとはいえまだ周囲は火に取り巻かれていて、灰の向こうに星の瞬きが酷く遠い。
「クランに与えられた神託は“魔王の片腕”となる未来。……お前が魔王と呼ばれるものになってしまえば、それで預言は成就されるな」
「……悪かったよ。俺が浅はかだった」
「ち、違います!」
 慌てて跳ね起き、すぐにくらりとする視界ごとひっくり返りそうになった。
「クラン、起きたのか」
「いきなり動くな。眩暈を起こすぞ」
 再び倒れ込みそうになるのを、ディムナとセルセラに両側から支えられる。再び黒く霞がかる視界の中、クランは必死で訴えた。
「セルセラ様……ディムナ様は、悪くありません……」
「わかっているさ」
 悪くないから困るんだ、とセルセラは苦笑する。
 クランが生まれながらに受けた神託の内容はどうにもならない。
 一体何が起きるのかも、その時になってみなければわからない。
 神々はあまりに地上の無力な人間たちを振り回す。それは天上の神々も、元は神の一人であった邪神も同じだ。
「あの……魔王は? どうなったのですか……?」
 魔王の名を口にしたところで、魔王よりも、彼を殺させまいと自分の前に立ちふさがった剣士の方が気にかかることに気づいた。
 ――ハインリヒの姿は……主を喪った君自身なんだぞ!!
「戦っている。今まさに」
 セルセラが炎の向こうをまっすぐに指さす。
 そこには、恐れげもなく白銀の巨獣と対峙する騎士の姿があった。

 ◆◆◆◆◆

 今夜だけで何度目かと考えながら、レイルは改めて二の魔王・“鉄帯”のハインリヒと対峙する。
 薄青い氷の力を纏う刃は、魔王の肉体をいともたやすく切り裂いた。

 ギャォオオオオオオオ!

 空を裂く咆哮も、氷の剣士の前ではあまりに無意味だ。レイルはそよ風程にも動揺しない。
「……もう、終わりにしよう」
 獣の毛皮はもはや流れ出す血で鉄帯の鎧ごと赤く染まり、到底白銀とは呼べなくなっている。
 勝利を目前にしても、レイルはまったく嬉しそうではなかった。
 もはや無敵とすら思える剣に乗る感情は、悲哀と悔恨。
 例え相手が魔獣であっても、殺すことしかできない自らの無力さに打ちひしがれる。
 彼がどんな存在か知っていて、それでも剣を振るわねばならない。
 救いたいのに、救えない。
 赦したいのに、赦せない。
 いつもこうだ。所詮自分は、相手を殺すことでしか解決できない。
 死者はセルセラが蘇生してくれると言うが、それでも人を手にかけた魔獣を無罪放免とする訳にはいかないだろう。
 誰かが魔王を倒さねばならない。
「……また俺は繰り返すんだな。相手の話を聞くことも、自分の言葉で相手を説得することもできない」
 刃を振るい、屍を生み出し、その上に悲劇を重ねる。
 八十年前と同じように魔王と対峙する。今度出た死者も自分は救えなかった。もう止められないところまで事態は進行し、せめてもと魔王をこの手にかける。
 八十年前、その先にレイルを待ち受けていたのは主君の死。
 どんなに強くても、誰も救えない。誰も――。

「――来た!」

 レイルの逡巡を突き破るように、背後からセルセラの鋭い叫び声が刺さる。
 思わず振り返る彼に、迷いない指示が飛んできた。
「レイル! ハインリヒを足止めしろ! 僕が戻るまでトドメを刺すな!」
「セルセラ!?」
「いいから聞け! 魔王を殺さず抑え込むことが普通にできるのなんて、お前くらいのもんだろ!」
「わ……わかった!」
 なんとか絞り出した返事を聞くなり、魔女はその場から夜気に溶けるように姿を消す。
「え? セルセラはどこに行ったんだ!?」
「知りませんよ! 一体何をする気なんだか……!」
 ファラーシャやタルテも事情を聞かされてはいないらしく、困惑してセルセラが姿を消した空間を見つめている。
 三人の意識を引き戻したのは、ハインリヒの吠え声だ。
 傷だらけの獣は残った鋭い爪をかざして、レイルに向かい血染めの前脚を振り上げる。
 横っ跳びでそれを躱すレイルを援護するように、矢の雨が降った。
「とにかく足止めだ! セルセラがそう言ったからな!」
 先程まで気鬱そうな顔を見せていたファラーシャの表情が生き生きと輝き、殺害ではなく牽制目的の魔導矢を乱れ撃つ。
「セルセラがどこに行ったのかもわからないのに従うんですか?」
「もちろん! だってセルセラはきっと、今この瞬間だって救えるだけのものを救うために動いてるはずなんだから!」
 ファラーシャは信じて疑わない。
 姿を消したセルセラが、必ずハインリヒを救うために動いていると。
「やろう! レイル! 私たちで、セルセラが戻ってくるまでハインリヒの足止めだ!」
「殺す方が簡単で確実でこれ以上の被害も出ないと言うのに、どうしてあなたたちはそう回りくどいことが好きなのですか」
「違うぞタルテ!」

「このままハインリヒを殺せば、他でもない私たちの心が傷つく! だから最後まで足掻くんだ!」

 ファラーシャのタルテへの返答は、すとん、とレイルの胸に落ちた。
「そうか……そうなんだな」
 殺してしまえば全てが終わると思っていた。
 そうではない。
 罪を犯したくて犯したわけではない者を殺した事実は、自分たちの心に刻まされて永遠に苛む傷となる。
 平和を手に入れるために、その痛みは受け入れねばならないと思っていた。人を傷つけた魔獣を手にかける痛みを、辛いと思ってはいけないのだと自分を戒めていた。
 そんな縛りは必要ないと、ファラーシャの言葉が今、レイルの鎖を一つ解き放つ。
「そうだ――」
 かつての聖騎士は、自らが初めて剣を手に取った日のことを思い返す。
 剣は殺すための道具だ。でも自分は、本当に誰かを殺したくて剣を握ったのか?
 そうではない。
 そうではなく――。
「俺はただ、守りたかった……!」

 ギィン!

 鬱陶しい矢の雨を振り払おうと、ファラーシャに向けられたハインリヒの爪を辰骸環の剣で抑え込む。
「レイル!」
 庇ってもらわずとも回避余裕なファラーシャは、それよりもレイルの剣が精彩を取り戻したことに歓喜する。
「すまない、ファラーシャ。もう大丈夫だ。俺も本気で行くから、援護を頼む」
「……うん!」
 二人の星狩人は、目の前の魔王を殺さずに抑え込むために全力を尽くす。
 生け捕りは殺害の何倍も難しい。
 仮にも魔王と呼ばれる者に対し、あまりにもふざけた態度だ。他の星狩人がいれば真面目にやれと叱責されても仕方がない。
 けれどレイルたちは本気だった。
 本気でセルセラが戻ってくるまで、ハインリヒを生かしたまま、時間稼ぎしようとしている。
 そんな二人を見て、タルテは心底呆れながら武器を戻す。
「……貴殿は戦わないのか?」
 辰骸環の槍を抱えたまま後退したタルテに、近くにいたディムナが尋ねる。
「一瞬で決める必要がないなら私が出る必要もないでしょう。レイルとファラーシャに任せます。私はハインリヒを殺さず事態を解決するなどと、甘いことを言いたくありませんので」
 燃えるような緋色の瞳は、その色に反しどこまでも冷たい。
「万が一レイルとファラーシャが死んだら、後始末くらいはして差し上げます。それ以外は彼ら自身の責任です」
「いや、その……それはあまりにも……」
 タルテの冷酷な物言いに、ディムナは驚愕を通りこしていっそ困惑するばかりだ。
 ――そうしてタルテが傍観し、ディムナが困惑する中でも、状況は着々と変化していく。
 ファラーシャの援護を受けたレイルは鬼神のごとき動きで、ハインリヒの爪を斬り落とし無力化していく。
 あの巨体なら前脚で踏みつぶされただけで人間など軽く圧死するだろうが、それでも凶器となる爪があるとないとでは大違いという判断だ。
 爪を斬り落とされたハインリヒ自体も、レイルの剣技に圧倒されて戦意を喪失していく。
 しかし。

 ドォン!

「何……っ!」
「奴ら!」
 いつの間にか意識を取り戻したエレオドの女軍人が、レイルと相対するハインリヒの横っ腹に思い切り大砲を撃ちこんだのだ。
「ガァアアアア!」
 新たな血が流れ、落ち着きかけていたハインリヒの瞳に再び闘争の意志が宿る。
 それを向けられるのは、正面のレイルではなく彼の横手に立っていたエレオドの軍人たちだ。
 女将軍ヤトレフに続いて部下の兵士たちが次々に大砲を撃ちこむが、不意の一撃に怒ったハインリヒにはもう通じない。
 僅かに残った爪で小器用に大砲の弾を斬り落とす。
「化け物……!」
「さすがは魔王と言ったところか……!」
 ハインリヒが跳びかかろうとしているのに、大砲と言う重い荷物を抱えたエレオド軍人たちは退避しようとしない。
 レイルが叫ぶ。
「逃げろ!」
 魔王の脅威が生き残ったエレオド兵に再び迫ろうとした時、一つの影が動いた。
「いい加減にしなさい、愚か者どもが!」
 一陣の風のようにエレオド兵たちの眼前に躍り込んだタルテが、目にも留まらぬ速さで千夜槍を振り回す。
 一瞬の空白の後、エレオド軍の持っていた二十以上の大砲が全て真っ二つに叩き斬られて地に転がった。
 タルテはそのまま続くハインリヒの攻撃をも槍の柄で受け止めながら、周囲を一喝する。
「こんなくだらない玩具を抱えているから慢心するのです。あなたたちの敵う相手ではありません。さっさと尻尾を巻いて逃げなさい!」
 皇帝さえも退かせる無駄な威厳を持つタルテの気迫に、ただの軍人たちが逆らえるはずもない。
「うわぁ。確かに武器が全滅しちゃここに残る意味もないね」
 狼将軍ルプスがのほほんとそう口にしたのを契機に、いち早く我に帰ったヤトレフ将軍がようやく号令をかける。
「総員退避!」
「さーて、じゃ、帰りますか」
 二人の将軍は傍で呆然としていた兵士を引きずるようにして魔王の攻撃範囲から避難し始める。
 だが間に合わない。タルテに前脚を封じられつつも、ハインリヒの視線が生き残ったエレオド兵を向く。
 大きく口を開けた奥に光が走り、竜族のように炎を吐き出した。
「まずい……!」
 今までのように爪や尾の攻撃が来ると思っていたレイルたちは意表を衝かれた。この攻撃を今この瞬間防ぐ術はない――。

「光の盾よ! 全ての闇を弾き返せ!」

「セルセラ!」
「セルセラ様!」
 凛とした声が高らかに命じる。ファラーシャが、レイルが、ディムナが、クランが、叫ぶようにその名を呼んだ。
 風の盾より一段上の魔導である光の盾は、魔王が放った衝撃波をあっさり防ぎきる。
「待たせたな。お待ちかねの人物を連れて来たぜ!」
 魔女は傍らに一人の少年を連れていた。
 ありふれた茶髪、同じ色の瞳。特徴のない平凡な顔立ち。
 けれどその少年を、ディムナとクランは知っていた。
「レクス!」
「フロッグ公爵!」
 少年は銀毛の巨獣に向けて叫ぶ。
「ハインツ……!」
 喉の奥で唸りを上げるハインリヒを、フロッグ公爵と呼ばれた少年は彼らの知らない名で呼んだ。
「本当に、ハインツなのか……?」
 熾火を宿していたハインリヒの瞳が黒く戻る。獣の唸りを上げるだけだった喉から、大分濁ってはいるが人の言葉が漏れた。
「ご……しゅじん……さ、ま……」
 しかしすぐに思い直した様子で否定する。
「ちがう」
 新フロッグ公爵の少年の方も、目の前の“魔王”が自らの知る“ハインツ”だとなかなか実感できない様子でこわごわと様子を伺っている。
 時間にして僅か数秒。一人と一匹は見つめ合う。張り詰めたその一瞬はあまりにも長く。
「ぼっちゃん……」
 焦げた空気、灰交じりの夜気の中から、獣はようやくかつての主の血に繋がる者の匂いを嗅ぎ取った。
「ぼっちゃん、だ」
 ハインリヒの瞳から一粒の涙が流れる……。
「おか、えり……」
「ハインツ……!」

 ――鉄帯の騎士ハインリヒのように。忠義深いお前に頼むよ。
 ――どうかこの土地を、私の息子が大人になるまで守ってやってくれ。

「ごしゅじんさま……やくそく……まもれ……ま……」
「ハインツ!」
 レクスが駆け寄る間に、ハインリヒの身体が崩れ落ちる。あちこち血を流していた傷口が真っ青に染まり、霧のような何かが噴き出していった。
「無茶が祟ったな」
 彼らがトドメを刺さずとも、黒い星の強制的な同化によって多大な負担をかけられたハインリヒの存在に限界が来たのだ。
 約束を果たした魔王には、もうこの地に留まる未練もない。
 セルセラはレクスが縋りつくハインリヒの身体にそっと手を触れる。
「我が神よ、どうかこの者に――」
 二の魔王は、そうして亡き主君の遺したものを守る役目を終えた。

 ◆◆◆◆◆

 白い寝台に横たわる主。それを囲む大勢の人々。
 悲しみにくれる人々の囲みのせいで、彼は主に近づけない。
 それでも、数日前に言われたことだけは覚えている。
『私が死んでも、この家を頼むよ』
 主はそう言って、彼の頭をいつものように優しく撫でた。
 数日後、どうしてか屋敷から姿を消した。
 ご主人様はいつ帰って来るのだろう。それまで自分は約束を守らねば。
 どうするべきか悩む彼に語りかけてきたのは、黒髪に色違いの瞳を持つ少年だった。
 ――大事な人との約束を守りたいんだね。だったら、僕の力を少しだけ分けてあげよう――
 新しい姿を手に入れた。新しい力を手に入れた。
 主亡き後、エレオド軍がこの土地を狙って軍隊を派遣してきたとき、彼はこの家を守るために力を振るった。
 何度も追い返せばやがて兵隊たちは来なくなった。平和が戻った。主を待つ日々が続いた。
 何度も季節が廻り、何度もひまわりの花が咲き。そして。そして――?

「ありがとう、ハインツ」

 ふいに懐かしい声が聴こえて彼は振り返る。
 眼前に広がった景色は五年前と何一つ変わらぬ村、主が愛したひまわり畑。
 主の数歩後ろには、最近出会った綺麗な緑の髪の少女がいる。
『ご主人様!』
 彼はそう呼び掛けたつもりだったが、その声はもはや人の耳には小さな獣の甲高い吠え声としか聴こえない。
 それでも主は生前と同じく彼の望みを察して、飛びついたところを抱きしめてくれる。
「ありがとう、本当にありがとうな、ハインツ。あの子が大人になるまで、ずっと私たちの家を……故郷を守ってくれて」
 ご主人様が泣いている。
 嬉しそうなのに、哀しそうだ。
 どうして? と首を傾げる彼に主は穏やかに語りかけた。
「もう、いいんだ。お前のおかげで我が家は守られた。もう、お前はこの地に縛られる必要はない」
 人の感情や心の動きといったものは難しい。 それでも彼は、大切な主の言葉に、自分が役目を終えたことを理解した。
 もう待たなくていいのだ。
 ならば、いつも通り主について行けばいい。
 主の足元に頭を擦り付け歩き出そうとしたところを、他でもない主自身に止められる。
「それは駄目だよ。ハインツ」
 どうして?
「……お前にはまだ、やることがあるから」
 そして主は、少し離れた場所で彼らのやり取りを見守っていた少女へと視線を向ける。
「この子をどうか、よろしくお願いいたします。天上の巫女姫様」
「ああ」
 少女は地に膝をつき、彼が走ってくるのを受け止めるように両腕を広げる。
「おいで、ハインリヒ」
 うっすらとわかった。
 今までの約束とはまた違う。今度は“ハインリヒ”自身へ新たな命令が与えられたこと。
「わん!」
 彼は吠えて、新たな主たる魔女の許へと駆けだした。
 抱き上げる細い腕の中で振り返り、夏の日差しのような金色の粒子になって消えていく人を見送る。
 ハインリヒの代わり、周囲で咲き誇っていた無数のひまわりがフロッグ公爵の供をするように消えていく。
 ――さようなら、ハインツ。いつかまた会おう……。
 はい、ご主人様、いつかまた、きっとお会いしましょう。
 その時までどうか、どうか安らかにお眠りください。

 ◆◆◆◆◆

 ディムナ達は新フロッグ公爵のレクスと共に、もう少しこの場所で事後処理に奔走すると言う。
 壊れた領主館の片づけと復興、怪我人や家と畑を失った村人への保障、エレオド王国との折衝。
 ここから先は皇帝や公爵といった為政者たちの仕事だ。星狩人の出番はない。
 帝国は広く、セルセラたちはまだしばらくこの大陸にいる。連絡はすぐにつけられるため、ひとまずプロメッサ村を発つことにした。
 怪我人の治療など、やるべきことを全てやり終えたら出発だ。
「あの……」
 プロメッサ村の出入口へ向かうと、たむろしていた人々がおずおずと声をかけてきた。
「何か用か?」
「いえ、その……」
 向こうから引き留めてきたくせに妙に歯切れの悪い村人をぐるりと見渡し、セルセラは用件を尋ねる。
 躊躇う大人たちに代わり、十歳ぐらいの少女が口を開いた。
「お姉ちゃんたち、魔王様殺しちゃったの……?」
 慌てた顔の周囲。
 涙を浮かべる少女にセルセラは冷たく一言肯定する。
「ああ。魔王を倒すのは僕ら星狩人の役目だからな」
「そんな……」
 言葉が続かない少女、沈痛な表情を浮かべる村人たちの耳に、小さな犬の元気な鳴き声が届いた。

「わんわん!」

「やっと来たか。――行くぞ、“ハインツ”!」
「わん!」
「あ……」
 セルセラの膝にすら届かぬ小さな犬は、如何にも元気いっぱいという様子で旅人たちへ駆け寄ってくる。

 ハインリヒと言う名の魔王は死んだ。
 残ったのはかつてのフロッグ公爵の愛犬ハインツ。
 ――“鉄帯のハインリヒ”のように忠実であれと名付けられた忠犬。その魂だけ。

「ハインツ……! 行ってらっしゃい!」

 見送る村人たちにしっぽを振って別れを告げ、忠犬は新たな身体で新たな主と共に旅に出る――。

 ◆◆◆◆◆

 風が吹きつける砂漠内の砦。
 一の魔王と二の魔王が倒されたことを軽く説明してから、今さら六の魔王が尋ねる。
「“青髭”はまた欠席かい?」
 黄の大陸の黄金砂漠と呼ばれる地域にある六の魔王の砦に集った魔王は二人。四と五の魔王だけ。
 三の魔王がここに来たがらないのはいつものことだ。
「そうよ。指示には従うそうだけど」
 黒檀のように美しい女は言う。
「“剣士”に続いて“槍の騎士”の魔王までが倒された。次はあやつの出番だ。勇者共の移動速度を考えるなら、今迂闊に拠点を空けるのはまずかろう」
 威厳ある口振りの獅子が、この場にいない魔王を庇う。
「そういうことにしておこうか。尤も、奴らがわざわざこちらの想定する順番通りに戦ってくれるとは限らないけどね」
「……そうね」
「知らないならそれはそれで我らの益になる。我らとしては、勇者に死んでもらった方が良いのだから」
「それは本心かな、“試練の獅子”」
「当然だ。我には守らねばならぬ民がいる。ここで死んでやるわけにはいかんのだ」
「へぇ……」
 六の魔王は、二人の魔王を値踏みするようにすっと目を細める。
「お前たちのように“なりたくて魔王になった訳ではない”などと言い出す輩が一番面倒だ。せっかくの力だ。邪神に感謝でもして魔王としての生を謳歌すればいいのに」
「謳歌、ね。あなたはどこまで生きれば満足するの?」
「もちろん、この世界が終わるまで」
 六の魔王は整った顔立ちで優雅に笑う。
 その顔もかつて彼に挑んできた勇者から奪い取ったものだと知っている彼らには醜悪にしか見えない。
「働き者で結構なこと。後ろのコレクションも随分増えたようね」
「ああ、わかる? 今回は収穫が少なかったんだけどね」
「……」
 背後の棚に並ぶ真新しい血の痕が残る「首」を見れば、またこの魔王がはりきって挑んできた星狩人を殺してきたのは明白だ。
 乾いたこの地ではすでに生臭い死臭は散ってしまった。それでも近寄れば腐肉の匂いがすることだろう。
「今年はもうこの地を訪れる星狩人はそうそう現れぬだろう。ついに、“天上の巫女”が動き出したのだから」
「……ああ、忌々しい天の神々の傀儡。この世で最も傲慢なる女か」
 近年各地の魔王を襲撃してくる星狩人の数は少なくなってきている。
 奴らが諦めた訳ではない。その逆だ。
 “天上の巫女”セルセラの話題に、六の魔王は一気に不機嫌な顔になった。
「あの女が力をつけ表舞台に出るようになってから、随分とこちらの動きが邪魔されるようになった。まったく、忌々しい」
「……」
 噴き出す殺気に冷や汗を浮かべながらも、五の魔王と四の魔王は賢く沈黙を守る。
「まぁ、いい」
 やがて、殺気を収めた六の魔王が笑った。
「天上にいる時は手出しのできない聖女とやらも、自分から向かって来るなら好都合だ。人間どもの希望とやらを、この手で奪ってやろう。それに」

「美しいと言われる女の顔は、潰しがいがあると言うものだ」

「……」
 六の魔王の背後の高い壁に並ぶ乾燥し朽ちかけた生首はどれも男のもの。
 美しい男の首を好む魔王は、同じだけ女を憎む。特に美しい女への憎悪は並大抵ではない。
「……話はこれで終わりか? 六のよ」
 二人の魔王は顔を顰め、四の魔王が口を開く。
「今のところはね。次は“青髭”の活躍次第と言ったところだ」
「ならば我らは帰らせてもらうぞ。今年の小麦の収穫について部下と話合わねばならん」
「私も、流行のドレスについて仕立て屋を呼ぶはずだったのよ。失礼するわ」
 四と五の魔王は揃って姿を消した。
「やれやれ。もう少しぐらいゆっくりしていけばいいのに、せっかちな連中だね」
 棚の生首を一つ手に取り、六の魔王は親し気に語り掛ける。
 この空間には、もはや狂気しか存在していなかった。

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