037.死者と不死者

 どこからか歌が聞こえる。
 そこだけ遠い冬の気配をまとっている。
 今宵の演目は雪の女王。
 悪魔が作った鏡。悪魔が落として割れてしまった鏡。
 その欠片を目に入れた者は感情を失う。
 鏡の欠片が目に入り感情を失った少年は、雪の女王に連れられて少女のもとを去るのだ……。

 ◆◆◆◆◆

 真夜中に聞こえてきた歌声に導かれるようにしてセルセラは目を覚ました。
「くぁ……」
 上体を起こして小さく欠伸をする横、寝台の下で犬の姿で眠っていたハインリヒがつられたように目を覚ます。
「ご主人様?」
「……んー、どうかした?」
 長椅子の上に毛布を敷いた上で眠っていた白鳩のドロミットがふらふらと飛び上がりぽすりとセルセラの頭の上に着地した。
「喉が渇いた……」
 水差しの中身は空だ。舌打ちしつつ、セルセラはふらふらと部屋を出る。
 宿の一階で水をもらって部屋に戻る途中、妙なものを見た。
 一室の扉を細く開き、中を凝視している少女。半ば透き通るその人影が熱心に覗いているのは――レイルの部屋だ。
「んん?」
「レイルさんに憑りついてる幽霊ですね」
 ハインリヒがさらりと言う。
「……ゲルトルート?」
 ドロミットに名を呼ばれ、幽霊はびくりと肩を揺らしつつ振り返った。
 一瞬の驚愕と恐怖のような表情を遺し、すぐにその透き通る体が大気に溶け込むように消える。
「逃げたわ」
「……あれがレイルの倒した魔王か」
 言い換えれば、レイルに吸血鬼化の呪いをかけて不老不死にした張本人と言うことだ。
 そういえばこれまでもちらちらレイルの周囲で姿を見た気がする。
 気配自体は常に感じていたのだが、何せ向こうがセルセラを避けていつも隠れているので、まともに姿を見たのはこれが初めてだ。
「まぁ、向こうからしてみれば自分を浄化して呪いを解くことのできる聖女なんて避けたいわな」
「いや、多分そっちじゃなくあの子の場合ただの人見知りよ」
 セルセラはのめった。
 すでに寝台に到達していなければ夜半に随分と派手な音を立てていたかもしれない。
「……奴の過去を詳しく聞いたことはないが、随分と面倒くさいことになってそうだな」
「そうね。多分……まぁ、そうね」
 ドロミットの投げやりな同意が夜の静寂に力なく吸い込まれていく。
「寝るか」
 どちらにしろ今彼女たちにできることはないのだ。セルセラはそのあと普通に二人と共に寝台に上がり寝直した。

 ◆◆◆◆◆

 二の魔王ハインリヒを倒し、フロッグ公爵領の問題が片付いた数日後。
 新公爵レクスを手伝って星狩人として片付けるべき問題を粗方片付けてきたセルセラたちのもとをディムナが訪れ、こんなことを言い出した。
「実は、もう一つお前たちに頼みたいことがあるんだ」
「……じゃあな、ディムナ。無事に二の魔王を倒してこの地に平和が戻って良かったな」
「待て待て待ってくれセルセラ。隠していて悪かった! 俺が悪かったからせめて事情を聞いてくれ!」
 聞かなかったことにしてさっさとプロメッサ村を出発しようとしたセルセラを、皇帝はなんとか縋り引き留める。
「内容は?」
「……怪物による子どもの遺体盗難事件だ」
「怪物?」
「遺体?」
「盗難?」
 ファラーシャとレイルが顔を曇らせ、セルセラとタルテの瞳が鋭くなる。
「お前が僕にわざわざ話を持ち掛けるからには、ただの墓荒らしじゃねえな?」
「ああ。実は、俺もたまたまその場面に居合わせてな……」
 ディムナは事の経緯を説明しはじめる。
 魔獣の襲撃、事故、病と、立て続けに子どもばかりが亡くなっていく事態が起きた街で、更にその遺体を化け物が運び去るという事件が起きたのだと言う。
「前にエレオドで知り合った夫婦の子どもに薬を届ける約束をしていたんだ。残念ながら薬の方は間に合わなかったんだが……」
 元は帝国領で子どもたちの流行り病の調査をしていたのだった。ディムナはお忍びで街の様子を調べ、その時たまたま同じ病で困っているエレオドの夫婦と知り合った。
 その後、フィアナ帝国では医者や薬師の尽力により治療薬が見つかり、ひとまず流行り病の流行は収まった。
 ディムナは治療に関しての情報をエレオドに提供するとともに、個人的に知り合った夫婦の許へ薬を届けに行き、それに出会った。
「亡くなった子どもの遺体を、化け物が奪い去っていった」
「どんな化け物だ? お前とクランでも勝てなかったのか?」
「いくつもの生物をつぎはぎにつなぎ合わせたような悍ましい姿の化け物だ。俺たちも後を追ったが、途中で撒かれたのか森の中で急に姿を消してな」
「複数の生物の特徴を繋ぎ合わせると言うと、合成獣(キメラ)のような存在でしょうか」
 タルテの問いに、ディムナは首を横に振る。
 キメラは魔獣としても、たまに御伽噺に出てくる怪物としても有名な存在だ。
 獅子や山羊、狼に鷲や蛇、獰猛な生物をあれこれ繋ぎ合わせて制作される。
 しかし今回ディムナとクランが出会った怪物はまったく違ったものだと言う。
「キメラは主に獣同士を掛け合わせた怪物だろう。俺たちが見たものは……まるで皮膚同士を縫い合わせて表面上を覆ったような姿をしていた」
 皮膚。
 つぎはぎの化け物。
 遺体を盗む怪物。
 並べられた単語が繋がり、嫌な予感に背筋がぞわりとする。
「“つぎはぎ”の材料は、毛皮じゃなく人類と同じ体毛のない皮膚か?」
「ああ。そうだ」
「……私、なーんか嫌な予感がしてきた。だってその化け物……子どもたちの遺体を盗むんだろう?」
「ああ」
「それは……」
 レイルが眉を顰める。
 皇帝は深い溜息を吐く。
「子どもを喪った上に、遺体まで奪われた家族がとにかく哀れでな……そういう訳だから、なんとか早急に解決してもらいたい。帝国内ではすでに調査を始めているんだが、被害はここエレオドに集中していて俺たちでは手を出せん」
「それで僕を呼んだ訳か」
「ああ。……頼めないか、セルセラ」
「ま、人間の死に関わる問題は、“天上の巫女”である僕の役目だな」
 ディムナが知っているセルセラは、星狩人と言うより聖女としての顔をしている。
「引き受けよう。情報を寄越せ。明日には現地に出発する」

 ◆◆◆◆◆

「問題の街ってここだったんだ」
「だから先日訪れた時、街の人たちがぴりぴりしていた訳ですね」
 四人が訪れたのは、フロッグ公爵領に赴く前に滞在した街――アジェッサだった。
 他の大陸から荒れ狂う海原を超えてやってきた船への玄関口である港街だ。
 つまりセルセラとの待ち合わせにこの街を指定した時点で、ディムナとクランの二人は遺体盗難事件についての調査中だったのだろう。
「皇帝陛下って暇なの?」
「奴に関しては部下が有能な分ある程度抜け出す時間を作りやすいとは言っていたな」
 とはいえもちろん皇帝と騎士が二人だけで事件の調査をしていたはずもなく、他に帝国の調査員がアジェッサに滞在していると言う。
 セルセラたちはまずその調査員に会って、彼らの作った報告書を受け取った。
 行動自体は彼らと共にせず、星狩人独自の視点で新たな情報を探すべく街を歩きだす。
 表面上は穏やかに見えるアジェッサの大通りも、内情を知ってしまったせいか行きかう人々の表情にどこか精彩が欠けているように見える。
「フィアナ帝国のディムナ帝と言えば、あなたの噂に必ず出てきますよね。聖女に命を救われた皇帝だと」
「まぁな」
「どういう話なんだ?」
「どうもこうも、ディムナが魔獣の毒から来る病にやられて弱っていたのを治したのが僕ってだけの話だ。それまで武人として無数の小国をまとめ上げた皇帝として有頂天だったディムナは、それで病の恐ろしさを知って医療に力を入れ始めるようになったのさ」
 ディムナ帝の病の治療で難しかったのは、その病が魔獣の毒が原因であると突き止めることだった。
 つまり星狩人として医療や薬学に携わるセルセラの得意分野で、そこさえ何とかなれば普通の医者でも対処できる。
 セルセラとしては特別なことをした覚えもないが、治療を受けた本人からはいたく感謝された。
 別に感謝されて困ることもないのでそのままディムナをいいようにこき使っている。
 セルセラ自身も今回のように依頼を引き受けることはあるが。
「人間は一度病気をすると人が変わると言いますよね」
「自分がそれまでできていたことができなくなる訳だからな。人生変わるやつもそら出てくるだろう」
「……そうだな。それまでの自分とまるっきり変わってしまったら」
 ただの人間から吸血鬼に変じたレイルが重苦しい口調で言う。
「ま、僕なんかもそうだし」
「セルセラが?」
「ああ。三歳の時に病で一度死んだ。でも女神様のおかげで生き返った。その時、死後の世界にほんの少し触れたことで第七感が覚醒して生贄術師として目覚めたんだよ。それがなければ、僕は今もただの絶世の美少女魔導士だったはずだ」
「なんか想像つかないな。聖女としての力なんてなくても、セルセラは魔女として高笑いしてそうで」
「さーて、どうだかね」
「そうか。セルセラにも病で苦しむような時代があったんだな……」
「僕を何だと思ってんだよ」
 セルセラはじろりと三人を睨む。区切りのいいところで、タルテが話を戻した。
「その話はいずれ詳しく聞いてみたいところですが、今は先に事件の解決を目指しましょう」
「皇帝陛下もここの王様と話し合うって言ってたし」
「そうですね」
「だがここの国王は先日の……」
「フロッグ公爵家を懐柔して土地を奪おうとしたし、そのために二の魔王ハインリヒに大砲ぶち込んで倒そうとした過激派だな」
 エレオド王ヨカナーンとはセルセラも面識がない。フロッグ公爵領の一件に関し、今後どんな態度をとるかも不明。
 まさか隣国、それも大陸一の帝国の皇帝を無碍にするとも思えないが、誠意を尽くして事に当たってくれる期待も薄い。
「皇帝陛下とエレオド王の話し合いが上手く行くと期待できないなら、なおさら現地の私たちがなんとかせねばならないでしょう」
「そうだな。まずは情報収集。ディムナが見てるくらいだから、他にも目撃者はいるだろうし聞き込みと情報屋かな」
「ええ」
 どこか荒んだ雰囲気の街中を歩く。

 ◆◆◆◆◆

 役所や図書館、そして教会。
 最近この街で起きた事件について話を聞けそうなところを、四人は手分けして一通り回る。
「聞けそうなところには大体聞けたな。後は直接被害者たちに話を聞けりゃいいんだが」
「気が重いな……」
「相手がまだ生きてるなら今からでも徹夜でも、って思うけど、もう死んじゃった人に対しては私たちは何もできないからな」
 事件が事件だけに、レイルとファラーシャの表情も暗い。
「まぁな。だが遺体を取り戻すことくらいはできる」
「そうだな。……例え死体になってても家族だもん。早く、取り戻してちゃんと弔ってやらないとな」
「……」
 ファラーシャの過去を聞いた今では、その言葉は酷く重い。
「……しかし、その“化け物”ってのは本当に何なんだろうな。魔獣とは違うのか?」
 憂鬱そうなレイルの問いに、聖女として魔獣の気配に鋭いセルセラが肩を竦めて答える。
「さぁな。少なくとも街中に魔獣の気配はない」
「図書館で調べたところ、この街には昔から死者が戻ってくるという伝説があるそうですよ」
「つぎはぎの怪物になって?」
「そこまではわかりません。ただどこかの山に遺体を埋めると死者が戻ってくるという伝説が存在するとわかっただけです」
「普通に考えればそういう方法で死者を取り戻そうとするのは死者の身内だよな……今回のポイントであるつぎはぎってのがどうもピンと来ないな」
 つぎはぎと言うからには、怪物の外見には複数の皮膚が使われている。恐らくは、遺体を盗まれた子どもたちの。
「そうですね。私もそこが気になっています。……情報屋の方はどうでしたか?」
「そっちの伝説と関係あるかどうかわからないが、最近教会の近くの墓地や山で不審な動きをしてる奴らがいるらしいぜ」
 ただし目撃証言が酔っ払いの戯言に近いものらしく、信憑性は薄いとの話だった。何かの見間違いかもしれないし、まったく別の事件かもしれない。
「まぁ、魔獣のせいでどれだけ世相が乱れてようが、犯罪をする奴はいるし流行り病も事故も起きる。何があってもおかしくはない」
「そうだな。街中で喧嘩も起きるし……ん? 喧嘩?」
 話しながら大通りを歩いていた四人の視線の先で、ちょっとした揉め事が起きた。
「なんだとこの野郎! もう一度言ってみろ!」
 あまりに月並みな台詞に夕暮れ時にも関わらずすでに酔っ払った男同士の諍いかと初めは思われたが、絡まれている方を見てその考えを変える。
「ですから、誤解ですって。先程の言葉は、あなた方をバカにしたつもりでは……」
「じゃあどういうつもりだ!」
 青みがかった銀髪の、中性的な美しい少年。
 いかにもこうした荒事に不慣れな様子を見かねたレイルが割って入る。
 どうでもいいが、以前もクランが街人に絡まれるのをレイルが間に入って止めた(?)ことがあった。似たようなことがよく起こる街だ。
「やめろ。何があったかは知らないが、暴力はいけない」
 筋骨隆々とした男の振り上げた拳を軽く受け止め、真摯に諭す。
 突然の登場に驚いた男たちの一人が、今度はレイルを見て騒ぎ出した。
「あ、お前! あの時の!」
 何かに気づいた様子の男たちに、セルセラはぱちりと瞳を瞬かせた。
「もしかしてこの前の連中か?」
 似たようなことがよくある街だと思ったが、本当に同じ相手だったらしい。
「あの時……?」
 しかし肝心のレイルが相手を覚えていないことが、話を余計にややこしくする。
「てめえにも言いたいことがあったんだ!! いきなり出てきて勝手なこと言うクソ野郎が!」
「待て! 俺は――」
 レイルの制止など当然聞かず、相手はいきなり殴りかかる。突然絡まれて動揺中のレイルはそれを止められず、結果。

 バキッ!

「……折れたな」
「折られたな」
「相手の腕がですけどね」

 レイルに殴り掛かった男が叫ぶこともできずに悶絶して蹲る。
「~~~~~~ッ!!」
「す、すまない! 大丈夫か!?」
 不老不死の肉体を得て以来鍛錬に鍛錬に更なる鍛錬を重ねた男の肉体は、比喩や冗談抜きに鋼並みの硬度であった。
 人に言わせればそれは生きた芸術品と呼べるが、また別の人間からすればただの凶器である。
「お、お前……!」
 周囲の男たちが口々に腕を折った男を気遣うが、殴られてもピンピンしているレイルにこれ以上喧嘩を売る気にはなれないらしくその口調は引け腰だ。
 そろそろ良いだろうとセルセラは手を打ち鳴らしながら割って入る。
「はいはい、そこまで。この男に腕っぷしで勝とうなんて無謀だってわかっただろ。さっさと腕見せろ」
「あ、お、お前は! あの時の魔女――」
「だからそれはもういいから」
 先日クランとレイルに絡んで騒ぎを起こした全員を魔導で雑に吹っ飛ばしたセルセラのことも当然覚えられていたが、セルセラは有無を言わせず腕の折れた男に魔導をかけてそれを治癒する。
「はい、完了。で、不本意とはいえ僕の連れに殴り掛かった以上、事情ぐらいは聞かせてもらえるんだろうな?」
「……っ」
 男たちが困惑と動揺の表情を見せる。
 背後ではファラーシャとタルテが「セルセラまだ私たちと一緒に行くのが不本意とか言ってるんだな」「頑固ですよね」などと駄弁っているのは放っておこう。
「聞かせてもらえないなら当然こちらとしては理由もなく暴力を振るわれた角で警備隊を呼ばなきゃならん」
「……こ、こいつが!」
 畳みかけられてもう言いたいだけ言ってしまおうと吹っ切れたのか、男の一人が半分置いてけぼりだった銀髪の少年を指さす。
「こいつがこの街で起きた流行り病のことをバカにしやがったんだ! あの病で一体何人の子どもが死んだと……!」
 激して、男は言葉を詰まらせる。
「誤解です。俺はただ新作の歌の題材を集めていただけで!」
「そんな言い訳があるか!」
「歌の題材?」
「ええ。吟遊詩人なんです。普段は旅をしながらその辺の酒場で弾き語りなどを披露しております」
「へぇ」
 どうやら詩人は唄の題材を集める途中でこの街で起きた子どもたちの病による大量死のことを知り、迂闊なことを口走って男たちを怒らせたらしい。
「余所者が勝手なことを言いやがって! 俺たちがどんな思いで毎日毎日苦しんでる息子たちの顔を見ていると……」
 感情が昂りついには泣き出す男を他の男たちが気の毒そうな顔で見る。
「お前の息子はまだ生きているのか?」
「勝手に殺すな!」
「そうじゃなくて」
 暴れ馬を落ち着けるようにどうどうと抑えながら、セルセラは改めて自分の素性を告げる。
「今の見てただろ? 僕は魔導士だ。まだ生きている子どもなら助けられる」
「何っ!?」
 詰め寄る男たちを手で制し、とりあえず要求する。
「病の子どもがいるところに案内しろ」

 ◆◆◆◆◆

「思いがけず街の人たちの話を聞くことができたな」
「結果オーライと言う奴ですね」
「一応レイルは殴られているんじゃ」
「ダメージを負っていないんだから差し引きはプラスでしょう」
「タルテ……」
 セルセラが子どもたちを治療した縁で、男たちから無事にアジェッサの街で起きた事件の話を聞くことができた。
「あー。だるいー。だるいー」
「お疲れ様です、天上の巫女猊下」
「くそぉ。こうなるとわかってりゃディムナから治療用の薬草をあらかじめもらってくりゃ良かったな。咄嗟のことだから全員治すのに生贄術の大盤振る舞いだぜ」
 供物を神に捧げてその力を借り受ける特別な魔術。生贄術。別名を聖女の御業。
 その最強の使い手である“天上の巫女姫”ことセルセラだが、さすがに何の備えもなしに何十人もの病の子どもたちを癒やすのは堪えたようだ。
「そんなに疲れるもんなのか! もっとぱぱっと力を使ってる印象だったんだけど」
「準備の問題だな。生贄術にかぎらず何事もあらかじめ普段から備えていることには強いけど、突発的な事態には弱いのさ」
「えーと?」
「どんなに腕の良い料理人でも、材料もないのに料理を作るのは大変だってこと」
「なるほど」
 聖女の御業は怪我の治療は得意だが、病気治療は不得手だと言う。
「どっちも同じ治療なのになんでそんな差が出るんだ?」
「見た目のわかりやすさの違い。怪我は詳細を魔導で目視して通常の状態に戻すのが容易いが、病気と健康の境は案外難しいんだ。明らかに腫瘍ができてるとか傷から出血してるとかを治すことはできるんだけど、そういうのがなく体の各部位が負担を溜め込んでいるだけみたいなものは難しいな」
「えーと……」
「あー、例えば水道管があるとして、それが破裂して水が漏れてる奴はそこを直すとか取り換えるとかしなきゃいけないのがわかりやすい。でも見た目は普通で内側が錆びついている場合はすぐにはわからないだろ?」
「あ、なんとなくわかってきた」
「水道管の内側が錆びついているかは、水道管ことその人の年齢や普段の健康状況や生活習慣に左右されますからね、ぱぱっと見てすぐに治すなんてことはできないんですね」
「そういうこと」
「なるほどー。奥深い世界ですねぇ」
「ああ、そうだ。ところで……いつまでついてくるんだ? あんた」
 自然に会話に交じっていた吟遊詩人の少年に問いかける。
「それはまぁ成り行きで」
「そうか。ではさようなら」
「ああ、ちょっと待ってくださいよー!」
 美しいがどこか胡散臭い雰囲気を持つ少年は、ひらひらと手を振るセルセラに追いすがる。
「皆さん、先程は助けていただいてありがとうございました。この街の方々は事情が事情だけに繊細ですね」
「さっきは因縁つけられた被害者だと思ったが、今の様子を見ると案外おっさんたちの言ったことの方が正しそうだな」
 すぐに暴力に訴えるのは良くないが、この詩人が本当に子どもを亡くした親たちに無神経なことを言わなかったかどうか、セルセラたちにも信用できなくなってきた。
「ふふ、私はどうも詩作に耽ると我を忘れる癖があっていけませんね。とはいえ、降りかかる火の粉を払うくらいは自分でできますけども」
「僕たちの加勢はいらなかった訳か」
「ありがたくは思いますが、自分でもなんとかできたでしょう。ただ、あの時にあなた方――いえ、あなたに興味が湧いてしまったもので」
「……俺に?」
 視線を向けられたレイルはまたしてもきょとんと目を瞠る。今日はなんだか心当たりのないことを言われてばかりだ。
 詩人は懐から瀟洒な短剣を取り出す。この場で凶器を振り回すようなそぶりは見せないのでセルセラたちも見守ったが、次に彼は意外な行動に出た。
「何を……」
 竪琴を爪弾くはずの自らの手の甲を、いきなり短剣で切り裂く。
 しかし、真に驚いたのはその次の瞬間だった。
「傷が……塞がっていく!」
 四人が見守る前で、詩人の傷は一人でに癒えていく。
「セルセラ?」
「違う、僕じゃない」
「これ、なんかレイルの復活に似てないか?」
「……ああ」
 セルセラたちは咄嗟にレイルに視線を移し、彼の唇から問いが発されると共に詩人へと向かう。
「今の光景……まさか、君も」
「そうですよ。あなたもでしょう?」
 すっかり白魚の手を取り戻した詩人はくす、と妖艶に微笑みながらレイルと同時に唇を開く。

「吸血鬼!」
「人魚ですよね」

「……」
「……」
「……おい」
「……あれ?」

 ここは普通声を揃えるところだろ、と物語のお約束を愛するファラーシャが切ない顔をし、タルテは呆れ、セルセラは額に青筋を浮かべる。

「違うじゃねーか!」

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