043.還れぬ場所

 異端の科学者、マッドサイエンティスト ロベルト=コーニス。
 エレオドの女軍人ヤトレフ将軍は、ロベルトをそう呼んだ。
「おい、いきなり乱入してきて剣を引けとはどういうことだ」
 つい最近見たばかりの顔を前に、とりあえずセルセラは文句を言う。
 この場の主導権を握るのは自分だ。ただでさえ因縁のあるエレオド軍に好きにさせるわけにはいかない。
「や、数日振り。天上の巫女姫御一行様。僕たち大事なお仕事の最中なんで、ちょっとこっちの言うこと聞いてくれない?」
 狼将軍と呼ばれる少年姿の魔族ルプスは、表面上はにこやかに「お願い」をする。
「お前らこそ、僕の言うことを聞け。こっちはフィアナ皇帝依頼の上で星狩人としての仕事中だ」
「あー……やっぱ依頼主はそこかぁ。だとするとここで揉めるのは面倒だなぁ」
 ルプスたちがセルセラたちの行動を邪魔すると言うことは、フィアナ皇帝の計画をエレオド王が妨害するという国家間の問題になってしまう。
「……巫女猊下、今回は我々はあなた方の敵ではありません。あくまでも、コーニス博士を捕らえることが目的です」
 言葉通り面倒そうにふわふわの髪を掻くルプスの隣で、ヤトレフが苦々しい顔を微妙に隠せていないまま、セルセラへ説明する。
「あんたたちは奴の仲間じゃないのか」
 ロベルトが着ている白衣にはばっちりとエレオド軍の紋章が縫い付けられている。
 部外者の目から見れば、ロベルトもヤトレフたちも同じエレオド軍。
 その問いに対し、ルプスが大仰に肩を竦めながら答える。
「どうやらそう思っていたのは俺たちだけみたいでね。博士にとってはエレオド軍は、ちょうどいい実験場を提供してくれるだけのものだったようだよ」
「コーニス博士は元々我が国の軍に雇われていましたが、非道な実験を繰り返した事実が判明して捕縛対象となりました。アジェッサに潜伏しているとの情報を受け、近くにいた我々の部隊が向かうようにとの指示を受けたのです」
 ハインリヒの件でセルセラたちとやりあった部隊がそのままこちらに回されて来たらしい。
 エレオド王はなかなか人使いが荒いようだと、一瞬どうでもいいことを思う。
「非道な実験、ね……」
 セルセラはつい半日前にロベルトに会った時から、これまでの彼の言動を振り返る。
 昼間にセルセラに声をかけてきたロベルトは、蘇生術の話をしていた。
 地下道で出会った時には、子どもたちの遺体を盗む怪物の傍にいた。
 彼が拘っているのは死者の蘇生。
 蘇生のためには、生き返らせる死体と、そこに閉じ込める魂、両方が必要だ。
 それをロベルトがどう扱ったか、ルプスたちは簡潔に説明する。
「複数の幼児の死体を集め、繋ぎ合わせる。複数の幼児の魂を集め、繋ぎ合わせる。そうやって怪物を作り、どこまで動けるか試していたんだ」
「どうして……そんなことを?」
 純粋な疑問から、ファラーシャが誰にともなく問いかける。
 一つの死体に一つの別の魂を入れる。その死体を操る。
 そうやって人を生き返ったように見せかけるのならばファラーシャにもまだわかる。
 だが、わざわざ死体ばかりでなく魂も繋ぎ合わせて放り込む意味がわからない。
 一つの肉体に複数の魂を放り込んでも、魂同士が主導権争いをして上手くいかないのではないか? 魔導に疎いファラーシャの素人考えですら、そのぐらいのことはわかるのだ。
 だからこそ、何故ロベルトがそんなことをしたのかわからない。
「……理解したいからですよ」
 当の本人であるロベルトが、いっそ友好的とすら言える微笑みを浮かべながら、ファラーシャの疑問に自ら答える。
「私はただ知りたいのです。肉体と魂の関係。
 魂の有無が肉体の機能にどのような影響を及ぼしているのか。
 魂をどういじれば肉体に影響し、逆に肉体をどう変化させれば魂は応じるのか。
 一つの肉体に複数の魂を定着させた場合、果たしてどの魂が肉体の主導権を握り、残りの魂はどのような影響を及ぼすのか」
 異端の科学者の暗い色の瞳に熾火のような歪んだ輝きが灯り、熱に浮かされた悪い夢を語る。
「ただ、知りたいのです。生命の神秘を。創造神が我々人間生命にもたらした法則を! 方程式を! 秘密を!」
「何を言って、そんなの……」
 唇を震わせたファラーシャの肩を軽く叩いて止め、セルセラが首を横に振って諦めを迫る。
「死体と魂の両方を揃え、条件を変えて実験する、あの男にとって、遺体の盗難も魂の拾得もそれ以上の意味はない。肉体と魂の適合性を調べ上げるために、できるだけ多くの見本(サンプル)が必要だったんだろう」
 人間という生き物の仕組みを調べ上げるのには、実験体や解剖体が一つでは足りない。
 だから複数集めて、あらゆる手法であらゆる角度から眺めまわす。子どもが新しい玩具を手の上で弄ぶように。ただそれだけ。
 つまり。
「ただ、それだけのために……アジェッサの街の人たちは、大事な家族の遺体を奪われたのか?」
 レイルの呆然とした声が事態の概要をあっさりとまとめる。
「じゃあ、最初から子どもたちを生き返らせる気は」
「まったくないだろ」
 話を呆然とした表情で聞いていた葬儀屋が、ぴくりと反応した。
 この場にいた者たちに一通り事情を理解してもらえたと判断したヤトレフが、改めてロベルトに投降を促し始める。
「コーニス博士。あなたを王都に連行します。神妙に縛につけばよし。さもなくば」
「そう言われて大人しく捕まる人はいないと思いますよ」
 ロベルトは当然のように言って抵抗を始める。
 セルセラたちだけでなく、武装したエレオド軍人に囲まれているにも関わらず涼しい顔だ。
 彼の周囲にいた兵士たちはヤトレフの言に耳を貸さず、絡繰仕掛けの人形のように粛々とロベルトの命令だけを聞く。
「生命の真理を探ることは我が悲願。他人に何を言われたところで、はいそうですかと簡単に諦める訳にはいきませんね」
 彼はすっと手を伸ばし、怪物に指示を出す。
「奴らを殺せ」
 示された先はセルセラたちではなく、ヤトレフとルプスが率いてきたエレオド兵だ。
「!」
 抗えない命令に応えて、怪物が動き出した。

「ァアアアアアアアア!!」

 大きく体を震わせ咆哮する。
 宵の静寂を切り裂き、不気味な声がアジェッサの街中を震撼させた。
「よけなさい!」
 タルテの警告とほぼ同時に、怪物の腕のような触手が教会を内側から破壊するように暴れだした!
「死人に口なし。口封じさせてもらいますよ」
「そう簡単に封じられてたまるかよ! お前らこそ、牢の中で僕の長口上を延々と聞かせてやる!」
 魔女の掌に緑の光が灯り、一瞬で四方に飛び散り結界となってこの場で最も無力なルチル神父と葬儀屋を包み込む。
 セルセラは続いてレイル、ファラーシャ、タルテの三人とついでにヤトレフたちエレオド兵にも、防御力を上げる術をかける。
「だがセルセラ、俺たちは――」
 辰骸環の剣を抜いたレイルが何か言いかけるが、彼の言葉より、怪物が襲い掛かってくるのを見て、エレオド兵が動き出す方が早い。

 ドンッ!

「ギャオッ!」
 つい先日フロッグ公爵領でも聞いた砲撃音。先日と同じ部隊と言うことは、当然大砲を装備している。
「待て!」
 見たところ怪物は大砲の一発や二発なら驚きながらも受け止められるようだが、それでもレイルは咄嗟にエレオド軍の攻撃を止めに入った。
「何さ兄さん。邪魔する気? あんたは星狩人のくせに、あのマッドサイエンティストの味方をする訳?」
 部下に指示を出していたルプスが不審な表情をレイルに向ける。
「違う! そうじゃない! 悪いのはあくまでもあの男であって、この子たちには何の罪もないんだ!」
 その威勢に、ルプスが鼻白んだ。
「コーニスじゃなく、奴に利用されているこの化け物のために、か。プロメッサの魔王の時と同じだね。でも――」
 エレオド軍から怪物を庇うように立っていたレイルは、背後の気配にハッとして振り返る。
 地を這う虫を叩き潰そうとでもするように振り上げられたその腕を、素早く横に跳び退って躱す。
「化け物の方は、君の想いも事情も斟酌してくれないようだけど?」
 子どもたちの魂に罪はない。
 けれど彼らは製作者であるロベルトに支配されていて、レイルたちもエレオド軍も、街の人々だって命じられれば襲うだろう。
 このまま野放しにはしておけない。
「駄目だ! 来てはいけない!」
 ルチル神父の叫び声が聞こえた。
 教会の付近の住民たちが、建物の崩れる物音や怪物の咆哮に驚いて様子を見に来たのだ。
 神父は必死で人々を遠ざけようとするが、怪物の姿に凍り付くその無力な人々に、怪物の視線が向く。
「駄目だ!」
 レイルは慌てて怪物を抑え込みにかかり、ファラーシャも牽制の矢を放つ。
 セルセラが街人の方へ風の盾を張り、その隙にエレオド兵はまた大砲を怪物にぶち当てる。
「がぁああああ!」
「やめろ!」
 怪物の間近で苦鳴を聞いたレイルはルプスたちに叫ぶが、エレオド側は呆れ、聞く耳を持たない。
「この惨状で、まだそんなことが言えるのかい? そのうち本当に死人が出るよ。それでもいいの?」
 ルプスの言う通り、怪物を傷つけずに抑え込むのは難しい。
 そのせいで街人に被害が出たら、怪物自身の罪も増えてしまう。
 しかし。それでも。
「あなた方はなんとも思わないのか!? この中身は、何の罪もない子どもたちの魂なんだぞ!」
 ロベルトの「非道な実験」に関しては、今その事情を知った星狩人よりもずっと彼を追っていた同じエレオド軍人たちの方が詳しいはずだ。
 それでもルプスは、冷めた目をレイルに向ける。

「どちらにせよ、もう救えない」

 凍り付きそうなその声は、レイルに向けたものか、ロベルトに向けたものか……あるいは別の何かに向けたものか。
「現実に目を向けなよ、星狩りさん。今の状況は、ある意味プロメッサの魔王の時よりもひどい」
 ハインリヒは生きていたし、本人の意志とは無関係に暴走させられていたからまだ止める意味もあった。けれど。
「死者は救えない。僕らはもう彼らに何もしてあげられないんだ。それならせめて彼らが誰かを傷つける前に、安らかに眠らせてあげるべきじゃないの?」
「……ッ!」
 ルプスの言葉に、レイルは反論できなかった。
「死んでしまった人間より、私たちはまだ生きている部下と街の人々の無事を優先します」
 将軍二人は、自ら怪物と戦うために武器を抜いた。

 ◆◆◆◆◆

 ――睨みあう星狩人とエレオド軍。
 ロベルトの狙い通りの光景だった。
 最初から怪物に同情的だった星狩りは怪物を攻撃できない。エレオド軍が始末しようとするのを止めるはず。
 レイルとルプスが言い争い膠着状態に陥ったその隙にロベルトは動く。
 身を隠そうとした彼の行く手を塞ぐように、光の矢の雨が降った。
「逃がさないぞ! 元凶!」
 青く光る蝶の翅を広げたファラーシャが、空中からロベルトに弓で狙いを定めている。
 そのまま、付近の兵士に呼び掛けた。
「おい、エレオドの兵士たち! あいつが逃げるぞ! 放っておくのか!?」
 エレオド軍の元々の任務はロベルトの捕獲。化け物の討伐はあくまでもついで。
 ファラーシャの言葉で何人かの兵士がロベルトの方へ向かう。
 舌打ちをしたロベルトは、白衣の影から細い硝子の試験管をいくつか取り出し、兵士たちの方へ放り投げた。
「わぁあああ!」
「な、なんだこいつら!?」
 それは割れた官から飛び出した瞬間、猫や犬くらいの大きさに変化した、不気味で巨大な大量の蛭。
 跳びかかられた兵士の一人が悲鳴を上げる。
「ちっ!」
 タルテが槍先を器用に操り、兵士の体にとりついた蛭を斬り落としてやった。
 真っ二つになった蛭の体は、兵士から吸い出した血を撒き散らしながらべちゃりと床に落ちる。
「行って、ヤトレフ将軍! こっちは僕が抑える」
「頼みました!」
 部下たちの窮地を見て取り、怪物と戦うために剣を抜いたヤトレフ将軍も一度後退し蛭の駆除に回る。
「セルセラ! 巨大な吸血蛭です!」
 タルテは血を吸った蛭の体が膨らみ体色も変化したのを見て取り、街人に避難を促していたセルセラに叫んだ。
「タルテ! 蛭を近づけさせるな! 血を吸われた奴は結界の中に来い!」
 巨大な蛭なので咬み痕自体も大きな傷になるが、それに加えて蛭は元々病を媒介する生物であることが気にかかる。
 蛭が毒や病を持っていた場合、早めに処置できるのはこの場ではセルセラしかいない。
 神父にも治癒術を使える者はいるが、ただの蛭ではなく魔導生物の対処はルチル神父には難しいだろう。
「それがあなたの弱点ですよ、天上の巫女姫」
 追加の試験管をちらつかせるロベルトはまだ余裕を失わない。
「あなたは決して人を見捨てられない。犠牲を出してまで私を追うことができない」
 怪物や蛭が直接セルセラたち一行を狙うならばいい。
 しかしロベルトは怪物にエレオド兵を狙うよう指示を出した。こうなるとセルセラたちはエレオド兵に死者を出さないよう行動せねばならない。
 ロベルトはセルセラたちを直接倒すことができずとも、他の人間を狙うことによっていくらでも隙をつくることができるのだ。
「ぬかせ」
 セルセラは悪態をつくが、実際に蛭に襲われた兵士が増え、顔色が次々に悪くなっていくのを見ると次第に焦りが生まれてくる。
 先程からタルテとヤトレフ将軍がひっきりなしに蛭を斬り裂き叩き潰しているが、一向に数が減らない。
 試験管一本に一体何十匹詰め込まれていたのか、数が多いうえにやたらと生命力も強い。
 見れば一度斬られた蛭が、今度は斬られた数だけ分裂して増えていくではないか。
「キリがない……!」
「これが研究部の言っていた人工魔獣か……!」
 蛭なのかプラナリアなのかはっきりしろ! とどうでもいいことを怒鳴りつつ、セルセラは考えを巡らせる。
「せめて街の奴らが逃げてくれりゃあ――」
 ぼやいた時、いつかのように美しい旋律が風に乗って流れてきた。

「――♪」

 教会の向かいにある建物の屋根の上、青を帯びた銀の長い髪をたなびかせ、人魚のように美しい吟遊詩人が唄っている。
 それもただの歌ではなく、人を操る歌だ。
 セイレーンとも呼ばれる魔族の能力。
 歌で魅了した相手を支配することができる。
「ラルム!」
「街の人たちのことはお任せください。できるだけこの現場から引き離しましょう」
「助かる!」
 虚ろな目で粛々と歩かされている様子が若干気にならないこともないが、住民の避難を一手に引き受けてくれるのはありがたい。
「ちなみに俺は一曲からでも高いですよ?」
「ツケで頼む!」
 セルセラは街の方を完全にラルムに任せ、吸血蛭に血を吸われた兵士の治療を始めた。
 近くで幾度目かの巨大な破壊音が響く。
 ファラーシャの援護の下、レイルが必死に怪物の攻撃をいなし続けている。
 ルプスの行き過ぎた攻撃を止めつつ怪物を傷つけないように抑え込むのは難しく、レイルは疲労より心労が原因で大粒の汗をかいていた。
「埒が明きません!」
 タルテが舌打ちした。
「敵の戦力の要はあの“つぎはぎの怪物”です! 奴をなんとかしないと話になりませんよ、セルセラ!」
「わかってる! お前は蛭を止めろ! 血ぃ吸われんなよ!」
「誰にモノを言っているのです!」
 タルテは辰骸環を槍斧から取り回しの良い剣に変え、次々と吸血蛭を斬り伏せる。
 ロベルトが次の試験管を放り投げる前に、セルセラは叫んだ。

「ファラーシャ!」
「――了解! 燃えろ! “曼殊沙華の矢”!」

 辰骸環から神器に持ち替えたファラーシャの放った見事な赤い矢が、ロベルトの手を離れた試験管を射抜き、そのまま中の無数の蛭ごと燃やし尽くす。
「何っ!?」
 さすがに驚いたらしいロベルトが次の武器を取り出す前に、セルセラはこの騒ぎの間中立ち尽くしていた男のもとへと向かう。
 ある意味ロベルト以上にこの事態の元凶である人物。
「あんたの息子を止めろ」
「私は……」
 葬儀屋は途方に暮れた顔をしている。
「子どもの最後の記憶を化け物にされるところにする気か。父親ならちゃんと責任をとれよ」
「息子を化け物にした私が、今更どの面を下げて、あの子になんといえば良いのでしょう……」
「なんでもいいんじゃねえの? っていうか、そんなこと僕に聞くなって。僕には父親なんていないんだから」
「……!」
 親のように育ててくれている魔導の師はいるが、血のつながった両親の顔を知らない天涯孤独の巫女は言う。
 それはどうにもならないことだ。
 セルセラに親がいないことも。
 葬儀屋の息子が死んでしまったことも。
 世の中にありふれた不幸。でも本人にとっては深い絶望。
 誰もがきっと他人に見えないところで、悲しみと戦っている。
 腹を括って運命を受け入れるしかないのだ。
「どんな面下げててもいいだろうが。どんな面してたって、あんたがその子の父親だってことには変わりないんだから」
 死んでしまっても、化け物になっても、それでも彼の息子だ。
 親だからこそ、葬儀屋はこの事態の責任を取らねばならない。
「迷子になった子どもを連れて帰るのは親の役目だろう?」
「……わかりました」

 ◆◆◆◆◆

「くっ……!」
 レイルは焦っていた。
 ルプス将軍は強い。
 稚くすら見える少年の容姿をしているが、彼はレイルよりも年上の魔族だ。攻撃に無駄がなく正確で、力も速さも人間を遥かに上回る。
 レイル自身が人間としては規格外の戦闘力と呪いによる後天的な身体強化を受けているためまだなんとかなっている。
 しかし、このままでは集中力や体力が尽きた隙に取返しの付かないことになるのは明白だった。
 彼の部下であるエレオド兵は無数の蛭への対処に追われていて大砲を撃ちこんでこなくなったが、逆に言えば彼らが突破されたらレイル自身も蛭を気にしなければならない。
 すでにぎりぎりの状況だ。
「お兄さん、さすがにこの状況で青臭い綺麗事は勘弁してよ。僕は――」
 何度か似たような言葉をかけてきていたルプスの口調に僅かな変化を感じ取り、レイルは咄嗟に眼前に辰骸環の剣を構えて防御した。
「――僕は、今生きている仲間を守らなきゃならないんだ」
 眼球を抉ろうと迫った刃物より鋭い爪の先を睨みながら、狼将軍の凍えた嘆息を聞く。
「そんなに目の前の現実を見つめたくないと言うのなら、その無責任な瞳を抉ってあげる。どうせ後で天上の巫女姫が簡単に治してくれるでしょう? だから」
「お断りだ!!」
 身内想いと他者への冷酷さを併せ持つ台詞を、中空で隙を晒した胴部に蹴りを入れることで拒絶する。
 即座に体勢を立て直したところで今度は怪物から一撃をくらい、いなしきれなかった衝撃にレイルはしばらく床に膝をつく。
「ほら、見なよ。君が何を考えたところで、その想いは怪物には届かない。――無駄なんだよ。生者は死者には何もしてやれないんだ」
「それでも、それでも俺は……!」
 ルプスの台詞の一つ一つが、レイルの胸の裡、普段は意識して思い返さないようにしている傷の数々を刺激する。
 守れなかった主君。
 そして救えなかった少女。
 己の無力さを呪った日々が脳裏に去来し、こんな場面でもレイルを無為に足掻かせる。
「俺は……!」
「――どうしても諦める気がないってんなら、やっぱり少しだけ目を瞑っていてもらおう」
 今度こそ本気でレイルの目を抉りとろうと、ルプスが自らの武器たる爪に力を籠める。
 睨みあう二人の耳に、これまでとは違う怪物の咆哮が届いたのはその時だった。

 ――“お父さん”!

 ひしゃげた咆哮に重なる、幼い子どもの声。
 その叫びが呼び水となり、魔導で無理やり継ぎ接ぎされた魂に亀裂が走る。

 “ぱぱ、まま、どこ……?”
 “暗いよ! 寒いよ! ママ……!”
 “父ちゃん! 兄ちゃん! 早く俺を見つけてよ……!”
 “おうちにかえりたいよ……!”

 そしてこの一月でレイルの耳によく馴染んだ少女の声が、祈りを紡ぐ。

「天上におわす、我が神よ……! 我は伏して奉り、汝の慈悲を乞わん……」

 力ある言葉が囚われた魂を鎖から解き放ち、彼らが本来進むべき光へと行き先を示した。
 父親と息子のつながりを通じ、天上の巫女は生贄術――聖女の御業を行う。

「地上に囚われし哀れなる子らの魂を、その懐に導き給え!」

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