天上の巫女セルセラ 049

第3章 恋と復讐と王子様

049.脆き者よ、汝の名は

 いつかのざわめきが、耳の奥で再生される。
 これは夢だ。すぐにわかった。
 それでも、もう会えない人々の面影は酷く懐かしい。
「しかしよ、ルカニドの奴はもう少しどうにかなんないもんかねぇ」
 日が暮れて一日の仕事が終わったあと、村で一軒しかない酒場に集った男の一人が言う。
「特別大きな失敗をするわけじゃないんだがな、何をやらせてもなーんか、いまいちパッとしねえんだよな」
 別の男も同意する。話題は彼らの族長のことで、その采配を疑問視するものだった。
「外の連中との交渉だって、ゼィズは昔から付き合いのある都市や国との関係を順調に保ってるけど、ルカニドのやり方はなんかなぁ、大物狙いで失敗し続けっていうか……」
「よせよ、大国との交渉がそれだけ難しくなるのは当たり前だ。ゼィズが優秀なのは間違いないが、ルカニドだから上手くいかないなんて見るべきじゃない」
 父であるゼィズと、その弟のルカニド。
 つまり自分にとっての叔父こそが、この村……特殊民族<光翅の民(ハシャラート)>の長である。
 村の大人たちは、最近の村の経営について族長の手腕をその背後関係から考慮した上で批評する。
「やっぱりゼィズが族長になった方が良かったんじゃ」
「言うなよ、それは」
「本当のことだろう」
「ルカニドを責めるわけじゃないが、やはり兄との差は大きいんじゃないかと思う」
 ゼィズとルカニドは兄弟だ。順当にいけば、兄のゼィズが族長を継ぐはずだったが、とある理由により、ルカニドが長の地位に就いた。
「しっかし、ルカニドは昔からパスハリツァにべた惚れだったろう? どちらにせよ黙って引き下がったとは思えん」
「まぁな。だが縁組で言えば、先代の思惑通りゼィズとパスハリツァが夫婦になった方が良かったんじゃねえか」
「二人の子どもだったらめちゃくちゃ優秀だったろうなぁ」
 ――その言葉で、アルライルは完全に出るタイミングを見失った。
 父・ゼィズと叔母のパスハリツァは、先代族長に定められた許婚同士だったという。
 しかし、二人とも結局は別の相手と結婚した。
 その理由は、ルカニドが兄の許婚であり族長の娘であったパスハリツァに横恋慕したから、らしい。
 先代族長の娘パスハリツァと、ゼィズ・ルカニド兄弟はもともと近い縁戚同士。長の直系に男子が生まれなかった結果、先代族長は後継者を決める際に、縁戚の男子を自分の娘の婿として迎えることを条件にした。
 パスハリツァと結婚する男は、同時にこのハシャラート一族の長の地位に就かねばならない。そのため、能力の高い相手が求められていた。
 ゼィズは幼い頃からその優秀さを発揮していて、弟のルカニドは兄には到底及ばない。ゼィズがパスハリツァの許婚となるのは当然で、ルカニドは族長の地位そのものは望んでおらずとも、パスハリツァ自身に恋焦がれるならば、兄を倒して族長にならなければならなかった。
 そして実際に、ルカニドは兄であるゼィズを族長の地位をかけた決闘にて破り、パスハリツァと結婚する権利を得た。
 ゼィズは別の女性と結婚し、両方の家庭が子どもを得ると、そこでまた同じように、次の族長の問題が持ち上がる。
「女族長でもいいが、リベラとファラーシャはどっちが優秀だ?」
「リベラは落ち着きがあって頭も回るがなかなか秘密主義だ。ファラーシャは度胸はあるが、難しいことは考えたくないってさ」
「まあファラーシャはまだ子どもだしな……」
 現族長・ルカニドの子どもは女子が二人だけ。
 次の族長を誰にするかという、先代の時と同じ問題が沸き起こった。
 しかしルカニドの場合、婿養子ではなく娘を直接族長の地位につけることを考えているようだというのが、ここ最近の大人たちの関心の対象だった。
「ルカニドとゼィズの意見はファラーシャで一致しているみたいだがな。リベラが跡を継ぐのを嫌がってるから、ファラーシャにアルライルを婿入りさせるのが手堅い」
「それでいいんじゃないか。猪突猛進なファラーシャにはアルライルみたいに落ち着いた男が良いだろうよ」
「歳もそっちの方が近い」
「それにアルライルとファラーシャの組み合わせなら実質ゼィズが後見に近くなるだろう。ファラーシャがゼィズに懐いてるからな」
「ゼィズからルカニドに一瞬血筋が逸れたが、孫の代で元の流れに納まるなら安泰だな」
 婚約を強制はしないが、それでも慣習には則った方がいい。
 ゼィズの息子であるアルライルに求められたのは、族長の娘であるファラーシャが次の族長となった際、伴侶としてその活動を支えることだ。
 とはいえ、自分の時に苦労したルカニドは、子どもたちの誰かが本気で嫌がればその分の配慮はしてくれるだろう。
 男の族長から、女の族長へ。
 一つの血筋に権力を集中する仕組みから、他の血筋を取り入れる体制へ。
 変革の時代が来ている。しかし、そう簡単にルカニドの言動を好意的に受け入れるものばかりではなかった。

「――俺は、ルカニドが族長になったことそのものに不満がある」

 村の男の一人が言った。彼はルカニドよりも、兄であるゼィズとずっと親しくしていた人だった。
「普通に行けば兄のゼィズが長になるはずだったんだ。二十年前の戦いがなけりゃあな」
「決闘の話を受けたのはゼィズだろう」
「ルカニドが戦いを申し入れたのは勝算があったからだろう。だが二十年前、あいつが兄貴に勝てるなんて予想できた奴はいたか?」
「……何が言いたいんだよ」

「不正があったんじゃないのか?」

 酒場が、しんと静まり返った。

「……冗談はやめろよ。族長決めの神聖な決闘の場で、そんな」
「本当になかったと言えるのか。じゃあ二十年前、どうしてルカニドの奴は普段から負け続けの兄に勝てたんだ?」
「それは……」
「愛の力なんて、くだらない世迷言はやめろよな。……細工をしたんじゃないのか」
 疑心暗鬼と言うには、男の主張には筋が通っている。
 ここぞという時の戦いで、普段以上の力を発揮できるなんていうのは絵物語だけの話だ。
 現実では重要な場面程、どれだけ普段の実力が発揮できるかとなることが多い。
 少なくとも二十年前のルカニドは、その戦いを見守る第三者の目には、絵物語の主人公のように秘められた力などを発揮して、実力で勝利を手にしたようには見えなかったというのが事実だろう。
「二十年前の決着が、ゼィズ側の武器の不調だったからか」
「ああ、そうだ」
 同じような疑念は誰もが抱えていたらしく、不満を言われた側も渋い顔をしている。
 けれど、だからと言って、この二十年をなかったことにはできない。
「今更だ」
「けどよ」
「今更だ。事実なんてもう確かめようがないし、何より、ゼィズがそれでいいと言ったんだろう。俺たちに口を挟む権利はない」
「あるだろう! ただの結婚じゃない! このハシャラートを率いる族長を決める戦いだぞ!」
「それでもだ! ゼィズがそれでいいと言った以上、俺たちに何かを言う権利はない!」
「勝敗に不満があるならば、二十年前にきちんと異議申し立てをするべきだったんじゃないか?」
「それはそうだが……!」
「ルカニドが本当に族長として相応しくないと考えるなら、その時点で対抗策を打てばよかった。結果を出せないと思ってから前からあいつはダメだと思ってたなんて非難するなど……」
 男たちの言い合いが白熱しそうになったとき、酒場の入り口で所在なげに佇む自分に、店の女将が気づいた。
「あら、アルライル。どうかしたの?」
「あ、あの……」
 良識のある男たちは、ぴたりと言い争いをやめた。
 彼らがゼィズとルカニドに、兄弟の関係にどんな思いを抱いていようが、それをまだ子どもであるアルライルに聞かせるべきではないと考えたからだろう。
 大人たちの気遣いをひしひしと感じ取りながらも、アルライルは酒場の女将に、父からの注文を伝える。
「お酒を、あの、明日墓参りに行くから、母さんが好きだったのを、買ってきてくれって父さんが……」
「そう、メリサの好きな林檎酒ね」
 優しく微笑む女将が酒を用意している間、男たちは気まずげに黙り込む。
 アルライルはどうしても我慢しきれず、先程口論寸前だった男たちに尋ねた。
「あの、おじさんたち……」
「お、おう! どうした?」
「……父さんは、本当はファラーシャのおばさんと結婚するはずだったの?」
「それは……」
 どう誤魔化そうか悩む男たちの間から、父と特に仲の良い男たちの一人が進み出る。
 腰を屈め、アルライルの目線に合わせてはっきりと口にした。
「アルライル、確かにお前の父ゼィズと、ファラーシャたちの母パスハリツァは昔、婚約関係にあった。族長の娘とその縁戚として、許婚同士だったんだ」
「……」
「ただ、ゼィズの弟のルカニドはパスハリツァの事が好きで、昔からずっと努力していたのは村のやつはみんな知っていた。お前の母メリサがゼィズを好きだってことも、男衆は気づかなかったが女たちの間では有名だったらしい」
「だから……父さんとファラーシャのおばさんはうまくいかなかったの?」
 男はそっと首を横に振る。
「ゼィズとパスハリツァがうまくいかなかったんじゃない。ルカニドとメリサが、相手の心を射止める努力をしたんだ。……それは、きっと素晴らしいことだ」
「……素晴らしいこと?」
 ルカニドは二十年後の今となってさえ、恋のために不正をしたのではないかと疑われている。
 それでも本当に、「素晴らしいこと」なのか?
 アルライルの胸には疑心が渦巻く。それでも、視線を合わせて語り掛けてくれた男はただただ誠実だった。
「だからお前は、あの二人の息子として、胸を張っていきればいい」
「……うん」
 父の友人は大きな手でアルライルの頭を撫でる。それでもアルライルの心は納得しきることができなかった。周囲の男たちも皆どことなく気まずげな顔をしている。
 せっかくの一日の終わりの寛ぎの時間であるのに湿っぽくなりかけたところに、澄んだ少女の声が響いた。
「ねえ、アルライル――! ここにいるの――!?」
「ファラーシャ」
 従妹であり、婚約者でもある少女の登場に、自然と場の空気が明るくなるようだった。大人たちの雰囲気が目に見えて軽くなる。これでもう大丈夫だと言わんばかりに。
 姉と比べて難しいことはまったく考えないと言われているファラーシャだが、むしろ彼女のこういうところに、皆が救われている。それをまざまざと感じ取る。
「いたいた! 伯父様のお買い物終わった? 今日は母様が腕によりをかけたって言ってるから、早く帰ってご飯にしよ!」
 ちょうどよく、酒場の女将が注文の品を持たせてくれる。男はもう一度アルライルの頭を撫でて、迎えに来たファラーシャの方へと送り出す。
「お迎えが来たな。行ってこい」
「……うん!」

 ◆◆◆◆◆

 アルライルは息苦しさで目を覚ました。
 寝台に身を起こして、ごほごほと咳込む。
「大丈夫か」
 机で書き物をしていた父が振り返り、水差しからグラスに水を注いで渡してくれる。
「ありがとう」
「気にするな。まだ外は暗い。ゆっくり休んでいろ」
「父さんは?」
「次の舞台の台本を急に思いついてしまってな。これを書き終えたらもう一度眠るよ」
 夢に見た遠い過去の記憶から戻ってきたアルライルは、昔と変わらぬ父の背中をぼんやりと見つめる。
 ここはいつか彼らが暮らしていたハシャラートの村ではない。
 あまりにも突然の出来事により、彼らの村は滅びてしまった。ナツメヤシの森も、銀色の砂漠も、今はあまりにも遠い記憶。
 この街ではゼィズは戯曲の脚本家としても活躍している。
 村にいた時は、戯曲だの小説だのを書いている姿をまったく見かけたことがない。村を出てから明らかになった意外な才能だ。
 とはいえもともと、父であるゼィズはその有能さを誰にでも認められていた。
 自分は彼の息子であるのに、そういった何かしらの才能のたぐいをまったく受け継ぐことが出来なかった……。
 思考の深みにはまりそうなアルライルに、ゼィズが書き物机から振り返って声をかける。
「アルライル」
「どうしたの?」
「……いや、なんでもない。おやすみ」
「おやすみなさい」
 父の考えていることは、いつだってアルライルにはわからない。追いつくことができない。
 けれどそれでも、残された僅かな時間を無駄にしてほしくはなかった。おやすみ、と言われたままに再び寝台に横たわり静かに目を閉じる。

 息子が無事に再び寝入ったのを確かめ、ゼィズは窓の外の星へ目を向ける。
 協力者から、昼間、港で天上の巫女一行らしき集団がこの国に入ったと聞かされたところだ。
 その一行の一人にハシャラートがいるという噂は無視できない。

「舞台の終わりは近い。私が踊っていられるのもここまでか」

 脚本家は台本の最後に終止符を打つ。
 自分自身の物語に、自分ではない誰かがそれを刻む日が、そう遠くはないことを予感しながら。