2.真珠の旋律
――歌が聞こえる。
深夜、ボウは海岸から聞こえる歌声で目を覚ました。
辺りはまだ暗く、窓の向こうで銀色の月が星々を照らしながら静かに輝いている。
こんな夜更けに、一体誰が歌っているのだろう。
海に最も近いタマオの家だからやっと聞こえる程度の歌声だ。街には響いていないだろう。
竪琴の旋律に乗って微かに届く声は、高く透き通るように美しいが女性のものではない。タマオや隣家のウルキが起きだして歌っている訳ではないのだ。
ボウはそっと目を閉じ、耳を澄ます。
流れる旋律に寄り添う歌声にはどこか哀切な響きが宿っている。
隣室に眠るタマオを起こさぬようそっと寝台を抜け出すと、上掛けを羽織り家を出た。
手燭もいらぬほど月が明るい夜だ。なるべく物音を立てぬよう静かに歩き、砂浜へと辿り着く。
波打ち際のすぐ近く、ほとんど海の中に生えているような小さな岩の上に誰かが腰かけていた。
月光に映える青みを帯びた銀の長い髪がさらりと揺れる。
白い指が竪琴の弦を爪弾く。
零れ落ちる音と声。
水のしずくを思わせる、透明で切ないーー鎮魂歌。
ああ、だから、とボウは納得した。
これは弔いの歌だ。生きている人に聞かせる必要のない、誰かを偲ぶ歌声。だから昼の砂浜ではなく、夜の海でひっそりと歌っているのだ。
月に顔を向けているその人物の顔はわからない。
だが邪魔をしてはいけないと思い、ボウはその人物に話しかけることもなく、来たとき同様静かにタマオの家へと戻った。
◆◆◆◆◆
「じゃあ、今日も行ってくるな」
「行ってらっしゃーい」
「二人とも気を付けて」
「まったく、面倒なもんだ。この雨」
「仕方がない。雨が降れば怪異が休んでくれるわけでもないのだから」
「俺たち人間は休みたいがね」
トミテがイナミを迎えにやってきて、ついでに隣家のタマオたちにも声をかけることで二人の夜半の夜間の見回りは始まる。
晨星郷でも有数の手練れであるトミテとイナミは、戦力として期待されている分とても忙しい。
今日は夕刻から雨がしとしとと降りだして、夜半には大分勢いが強くなってきた。うんざり顔で二人が出ていく。
見回りの成果だろうか、ここ数日は魔獣らしき化け物も出現せず、街は穏やかだった。このまま何事もない日々が続き、怪異も次第に鎮まってくれれば良いのだが。
「私たちはそろそろ寝る支度をしましょう」
「明日も早いしね」
夫を見送ったウルキが隣家に戻るのを確認して、タマオとボウも家の中に入った。
明日は早く起きて、見回りから帰ってきたイナミとトミテの朝食を作る必要があるのだ。
小さな街とは言っても数千人が暮らしており、細々した路地も広い畑もある。その全てを途中交替するとはいえぐるりと気を付けて見て回るのは、やはり重労働だ。
くたくたになったトミテたちは一度タマオの家に戻り、五人で朝食を摂る。その後イナミは自分の家に戻り、トミテはタマオの家で軽く仮眠をとってから養父母の待つ自宅に帰る。
ここ数日は、そんな生活が続いていた。
タマオとトミテは姉弟のように育ったため、トミテはよくタマオの家に入り浸っている。一時期は恋仲と噂されもしたそうだが、今ではボウの登場によってわからなくなっている……というのがここ最近の晨星郷に流れている噂だそうだ。
そんなことはまるで構わず、タマオは明日の朝食の仕込みだけ手際よく終えると、寝支度に入った。ボウもそろそろ照明の火を落とすかと動き出そうとしたところで、家の戸が強く叩かれた。
ドンッ ドンッ
「……何かしら」
夜も更けたこんな時間に来訪者など普通はいない。ましてやこんな雨の中だ。例外はイナミやトミテたちだが、二人とも見回りに行ったばかりだ。
タマオとボウが顔を見合わせると、外から声がかけられた。
「タマオちゃん! いるかい?!」
「雑貨屋のおじさん?」
声の主はよく知った相手だった。駆け付けようとしたタマオを制して、ボウが戸を開けた。
「ああ、二人とも……」
雑貨屋の店主――テンセンと言う名の男は、ここまで全力で駆けてきたかのような姿だった。
風雨の勢いで脱げかけた雨具からぼたぼたと雫が垂れるが、本人の顔は赤く息を切らしている。
彼はタマオとボウの顔を見て、安堵と不安の入り混じった顔で呻いた。
その只事ではない様子に、タマオたちも顔つきを引き締めて、とにかくテンセンを家の中に引き入れる。
「どうしたんですか? こんな時間に」
テンセンはボウが渡した布で顔を拭うことすらせず、焦った様子で用件を切り出した。
「薬を分けてほしいんだ」
薬草園では数々の薬草を育てている。それらは種類によって細かく分けられ、あるものはそのまま、あるものは乾燥させたり様々な処理をしてから医師や街の薬屋に卸す。
薬が必要なら、街の者たちは医師から処方されたり薬屋で買うはず。どうしてわざわざ原料を育てる薬草園に?
「うちの坊主の具合が悪いんだ。薬を切らしてたから医者の先生の所に行ったんだがこの雨の浸水で薬類がだいぶ駄目になっちまった」
「なんてこと……!」
いつも通りかかる医院は盛況で医師も穏やかな人柄だが、確かに建物は古かった。
浸水自体は命の危険があるようなものではないが、木造の棚の下段に入っていた薬草類が全て駄目になってしまったらしい。
その中に運悪く雑貨屋の坊やの薬も含まれていた。
「どの薬ですか? うちに在庫があればお渡しします」
「ああ、元の草はこんな風に葉っぱが生えていて、白い花がついたやつなんだが……ええと……」
息を切らしたテンセンが説明するが、混乱しているのか、なかなか薬草の名前が出てこない。
「白い花……」
ボウはふといつも世話をしている真珠草のことが思い浮かび窓の外を見た。
春の夜の冷たい雨に打たれて頭をもたげながらも、白く丸い花の蕾は輝くように美しい。
その視線の先を追い、テンセンもはっとして指をさす。
「あ、あれだよあれ!」
「真珠草ね! それなら乾燥させたものがあるわ!」
細かい調剤はもちろんタマオには無理だが、真珠草は主に乾燥させたものを煎じて用いることは知っている。医師に渡せばすぐに薬を作ってくれるだろう。
タマオはすぐに薬草を保管している棚の前に行き、真珠草と更にいくつかの薬草を持ち運び用の箱に布で何重にもくるんで入れる。最後にしっかり防水を施した革の鞄にその箱を詰め込んだ。
「ボウ、私、おじさんと一緒にこの薬草をお医者様に届けに行くわ」
「僕も行くよ」
「でも」
「イナミから頼まれている。ウルキに事情を説明してくるから用意して待っていて」
ボウが隣家に説明に行っている間に、タマオは寝巻から着替え、二人分の雨具を用意した。
父の使い古した雨避け外套をボウに渡す。
「行きましょう」
「ありがとう、二人とも」
三人は薬草園を出て、街の中心部にある医院へと向かった。
風が吹き付け、雨は叩くような勢いで降ってくる。あっと言う間にタマオとボウもテンセンのようにずぶ濡れになり、髪の先から夜を映す暗い雫が滴り始めた。
気温そのものより、雨と風のせいで寒さを感じながら、足元の水溜まりを蹴飛ばして進む。靴に泥水が跳ね、濡れた道にすぐ消える足跡を刻む。
薬草を届けるのに急いでいるのもあるが、何かを喋るような気分ではない。
石畳の道に入り、暗い大通りを行く。
テンセンとボウの持つカンテラの頼りない明かりだけは離さないようにしながら、やけに長く感じる医院までの道を小走りに進んでいたとき。
――獣の唸り声がした。
「伏せて!」
「きゃあ!」
ボウは咄嗟にタマオを抱え込んで地面へと転がる。二人の全身が泥水で真っ黒のずぶ濡れになった。
彼らが先程までいた場所を、一瞬のきらめきが切り裂いていく。
「畜生! こんな時に……!!」
テンセンが絶望よりも強い苛立ちを込めて叫んだ。
そこには近頃、晨星郷を騒がせている化け物がいた。
「魔獣……!」
大人の背丈ほどの大きさもある、半透明に透ける四つ足の獣に似た化け物。
耳や背の辺りには魚の鰭のようなものがついていて、単純な獣型とも言い難い。
その刃のように鋭い爪が、先程タマオとボウがいた場所に閃いたのだ。
魔獣の周囲には黒い靄のようなものが漂っていて、どこか暗い闇の中から突然現れた生き物のようだった。
獣は明確な敵意を持ってこちらを攻撃してきた。
「うぅ……薬、薬は?!」
ボウに助け起こされたタマオは、泥まみれの姿で自らの持つ鞄を確かめる。
厳重に封じた中の薬草はまだ無事だろう。しかし、先程の攻撃のせいで蝋が塗られている革の鞄にもすでに水が染み始めている。
雨に濡れたら薬草の成分が溶けだしてしまい使い物にならない。
けれど、医院までの道は魚の鰭を持つ化け物が塞いでいる。
「どうすりゃいいんだ……」
「……」
カンテラを持ちながら立ち尽くすテンセンに、鞄を両腕で抱えたタマオを庇って前に立つボウ。
「……ボウ」
タマオが、奇妙に静かな声で言った。
「薬草をお医者様に届けなきゃいけないの。私より足の速いあなたが走ってくれた方が――」
「駄目だ」
やけに度胸のある少女が、自分が囮になると言い出す前に、ボウは先程の獣の突進で割れた石畳を示す。
「こいつの動きと突進の威力を考えると、医院の壁を壊してでも入り込んで来る」
「……ッ!」
囮が通用するのは、それで事態が解決する場合だけだ。
誰かが囮になって殺されてもそこで化け物が巣に帰ってくれるわけではない。
一度逃げても、逃げた先で他人を巻き込んで殺されては意味がない。
「なら、どうすればいいの?」
「あの魔獣を倒すか、無力化できれば」
ボウは剣が使えない。彼の手元にあるのは、短い杖が一本だけ。出発する際に何故か必要な気がして部屋から持ち出した。
テンセンもタマオも武器らしきものは持っていない。持っていても二人には使えない。
何とかしなければ。ボウは必死に、化け物が人に危害を加えないようにするにはどうするか考える。
殺害する、昏倒させる、拘束する。いくつかの方法が浮かぶがどれも自分たちには実現する手段がない。
真正面から倒すことはもちろん、縄などで拘束するのも難しい。落とし穴や狭い空間に嵌めようにも、化け物の体格と突進の破壊力を考えると、下手な場所は用意できない。街中ならなおさらだ。
手元のカンテラを見る。これで火を点ければと思ったが、この雨の中で、魚にも似た恐らく水属性らしい化け物に火が点くだろうか。
「タマオ、薬草の中に眠り薬とかない?」
「ないわ。あの魔獣をどうにかできそうなものはないの」
冒険者ならばともかく、街暮らしの一般市民がそんな物騒な薬を持っているはずはなかった。
「来るぞ!」
テンセンが警告を叫ぶと、一度体勢を低く構えた化け物が再び彼らに突っ込んできた。
ボウはタマオの手を引いてテンセンとは反対側に避ける。
彼らが躱した化け物の突進が、通りに植えられた木をなぎ倒した。
「きゃああ!」
その凄まじい音も、雨でほとんど殺される。それでもさすがに周囲の家々の人々が事態に気づいて起きだしたのか、微かに気配がした。
化け物が襲来する可能性のある昨今、夜は迂闊に外に出ないよう民には言いつけられている。戸口からは誰も出てこない。
それはそれでいい。手練れはほとんど夜間警備の見回りに出ているため、家に残っているのは女子どもや老人ばかりなのだから。
ボウはあることに気づき、タマオから体を離す。
「タマオ、一人でも走れる?」
「だ、大丈夫だけど。ボウ、あなたは」
「――あの魔獣は、僕を狙っている」
最初からボウとタマオがいる場所を狙って爪を振ってきた。次の突進でもテンセンは狙わずに二人のいる場所へ向かってきた。
そして今、獣の暗い瞳は、タマオではなく彼女を抱えたボウだけを睨んでいる。
それなら自分からタマオを引き離した方がいいとボウは考えた。
「こっちだ!」
タマオを置いて走り出し、ボウは低い唸りを上げる獣の顔面に手元のカンテラを投げつけた。
「!」
カンテラが割れ、獣の顔面に一瞬炎が走るがやはりこの雨ですぐに消えてしまう。直前で目を閉じたらしき獣は割れた硝子の破片を鬱陶しそうに振り払い、またボウの方を睨む。
「駄目か……!」
その時、近くの家の戸がうっすら開き、誰かが小さなものをタマオの足音に投げた。
「お姉ちゃん!」
見るとそれはおもちゃの小さな笛だ。鳥の形をした陶器の笛は雨のおかげで割れずにタマオの元へ届く。
「それで警備の連中を呼びな!」
母親らしき声が一言だけ叫ぶと、あとは笛を放り投げた子どもを引き込んできっちりと戸を閉める。
タマオは急いで笛を持ち上げると、唇に押し当てた。
ピィイイイイと空気を裂く高い音が雨音に負けずに連なり、夜の街に笛の音が響き渡る。
これで見回りに出ていたイナミたちがやってくる。
「まずい!」
しかし、笛を吹いたタマオに化け物の注意が向いた。ボウは彼女の元に駆け付けようとするが、化け物が跳び込む方が早い。
避けることもできずタマオが目を見開いたその時。
「させるかよ!」
突如として宙から降ってきたトミテの剣閃が化け物の胴体を深く切り裂く。
獣は恐ろし気な咆哮を上げてトミテに向かおうとするが、その背後から今度はイナミが一撃をお見舞いする。
「トミテ! イナミ!」
「タマオ、遅くなって悪かった」
「十分早いわよ! 今笛吹いたところよ!」
家々の屋根を走ってきたトミテが上から、彼を陽動にイナミが背後から斬り付ける連携を披露した二人は、もともと見回りで街には近づいていたらしい。
耳の良いイナミが遠くからでも争いの気配を聞きつけてトミテと二人先行して様子を見ようとしていたところに、先程の笛の音が響いたのだと言う。
「他の奴らもすぐに駆け付けるはずだ」
「助かった……!」
タマオに駆け寄ったテンセンも安堵の息を吐く。
化け物は二人がかりどころか、剣を振るうトミテ一人に危なげなく捌かれている。晨星郷一の剣士の名は伊達ではない。このまま倒すのも時間の問題だろう。
「おーい! 大丈夫か!」
イナミの言葉通り、残りの自警団もすぐに駆け付けてきた。もうこれで大丈夫。
だが、その緊張の緩みが、一瞬の隙を作った。
トミテの剣をぎりぎり躱した化け物が、最期の力を振り絞って跳びかかる――一人だけ外れた場所にいたボウへと。
「ボウ!」
イナミがフォローに入ろうとするが、タマオやテンセンの傍に付き添っていた彼も先程のボウと同じく間に合いそうにない。攻撃を躱されて体勢を立て直しているトミテの剣も届かない。――獣の牙から逃れる術はない。
ボウは咄嗟に目を瞑り手を顔の前に突き出して庇う。
無意味と知っていても人はその瞬間には恐怖で目を瞑ってしまうもの。
――獣が跳び込んで来る。そして。
「え?」
ボウにとびかかってきた化け物は、すぅっと雨に溶けるようにして消えてしまった。
「一体……何が起きたんだ? 今」
トミテが呆然と口にし、後の者たちも驚いて声が出ない。
これまで、トミテやイナミが倒してきた魔獣たちは、倒されれば一度は屍を晒したはず。中には小さな灰になって消えてしまうものもいるが、その場合でも死んですぐ姿が消える訳ではない。けれど。
今見た化け物は、まるでボウの中に吸い込まれるようにして消えてしまった。
徐々に今の光景が脳に届き始め、これまでの魔獣の行動と違う光景に困惑と恐怖が広がっていく。
そこに、一つの声が上がった。
「薬……薬を届けないと」
「! ……そうよ! お医者様のところに行かないと!」
テンセンの言葉とタマオの叫びに、彼らは夢から覚めたように我に帰る。緊張のため聞こえていなかった、雨が石畳を叩く激しい音が耳につき始める。
ひとまずこの場は自警団に任せて、自分たちは早く雑貨屋の坊やのために薬草を届けないと。
時間にすれば僅かな足止めだったとはいえ、全身がずぶ濡れだ。鞄の中身が濡れてないようにと祈りながら、タマオとボウはテンセンと共にとにかく医院へと向かった。
◆◆◆◆◆
「信じられない!」
「まぁまぁ、落ち着け、タマオ」
雑貨屋の坊やの容態も安定してようやく一行も休息をとった後、ボウは評議会から城へと呼び出された。
丘の上の白い城へと、ボウはタマオやトミテ、イナミと共に登る。
最後に魔獣がボウへぶつかるようにして消えたことについて、目撃していた自警団から評議会へ報告が上がったのだ。
尋常ならざる事態の元凶が、ボウなのではないかという推測と共に。
「邪推よ!」
「落ち着けと」
ボウは本日、その申し開きをするために呼び出されたのだ。
とはいえ、ボウ自身にも具体的に何が起きたのかはわかっていない。何も知らないという言葉は果たして弁明になりうるのだろうか。
最悪の場合には、これまでの怪異や魔獣の出現、ここ最近晨星郷で起きた不幸の全てが押し付けられて「処分」を受けることになるかもしれない。
余所者の扱いなど、どこでもそんなものだ。
四人は白と青の小さな可愛らしい花が植えられた小道を歩き、早咲きの薔薇の蔓が絡んだアーチを潜り抜ける。
会議の行われる城は美しく、晨星郷を訪れた旅人たちの観光地ともなっているが、今はその美しい景色を堪能する気にもなれない。
タマオたち住民はこの景色を見慣れているからだが、ボウは別の理由で周囲の景色が頭に入っていなかった。
一昨日とは打って変わって晴れ渡った空とは裏腹に、彼の心は曇っている。
(あの時の獣、あれは……)
自分でも上手く言語化できないせいでまだタマオたちにも話していないが、化け物が体の中に吸い込まれていった瞬間、ボウの中に見知らぬ光景が広がったのだ。
暗い夜の海辺に佇む誰か。海岸の遠くで巨大な魚か何かが跳ねる音。
一瞬で消えて、その光景が何だったのか、何故そんなものが見えたのか理由も意味もわからない。
だが、何かがある。ボウは自分の正体にようやく疑問を抱き始めた。
記憶喪失。知っているはずのことを思い出せないもどかしい感覚が胸を苛む。
答を得られないまま城の会議室で、ボウは評議会の面々を前に先日の申し開きをすることになった。
「……事情はわかった」
タマオがイナミやトミテと共に海岸でボウを拾ったこと。ボウには記憶がないこと。見つかった荷物には剣などの武器を含む怪しい品は入っていなかったこと。これまでの生活態度。魔獣に襲撃された一昨日の雨の夜の状況など、一行を代表して最年長のイナミの口から包み隠さず語られる。
最高責任者の一人、タタラがボウと彼の付き添いでやってきた三人に声をかける。
「だが、それはお前のことを放置する理由にはならない。自覚がないだけで、お前自身に何かがあってあの魔獣を引き寄せている可能性がないとは言い切れん」
「タタラ様! ボウは――」
「静かにせよ、タマオ」
反論しようとしたタマオの発言はさくりと制される。怒り心頭の彼女が冷静な発言をできるとは思われていないのだろう。
タマオは口を引き結んだが、思い切り不満げな顔でタタラと議会の面々を睨みつける。
「ボウとやら、お前には記憶がないのだろう?」
「……はい」
片膝を折って跪いたボウは頷く。だから、タタラの言う通り自分がこの騒動の原因ではないと主張することも叶わない。
これでもタタラの態度は評議会の中では十分に穏当でボウの側に寄ったものだった。
議会員の中にはすでにボウを元凶と決めつけ――あるいは余所者だからちょうどよいとばかりに、元凶として責任を押し付けようと目論んでいる者もいる。
タタラの穏やかな語り口とは裏腹に、会議室にはぴりぴりとした空気が漂っている。
「お前が本当に此度の魔獣騒ぎと無関係であるなら、身の証を立ててもらわねばならない」
潔白を自ら証明せよ。
タタラはボウにそう告げた。
「身の証……具体的に何をすれば良いのでしょう」
「――此度の一連の騒動、お前の手で解決できるか?」
「!」
トミテとタマオが呆気に取られる。ボウの一歩後ろに立っていたイナミが進み出て、同じように跪き口を開いた。
「タタラ様、彼は剣の一つも使えないただの少年です。ボウに魔獣退治を任せるなら、自分にもそのお役目、手伝わせていただきたい」
イナミの言葉にボウとタマオが驚いているうちに、トミテもイナミとは反対側に並んで同じように宣言する。
「では俺も。もともと、タマオの面倒をこいつに頼んだのは俺たちだ」
「イナミ、トミテ……」
タタラはゆっくりと頷いた。
「それは構わない。だが、事は魔獣退治という枠には収まらない」
「収まらない?」
鸚鵡返しで尋ね返すタマオたちにタタラは険しい表情で告げる。
「自警団がいくら魔獣を倒しても、この街を襲う怪異は鎮まらなかった。ボウ、お前には魔獣の襲撃を含む、この事件の原因を突き止めて解決してもらいたい」
もしもボウが街を襲う邪なる存在に与する者でないのなら、街のために脅威を排除することに否やを唱えることはない。それをもって身の証とせよと。
「危険では……」
恐る恐る口にしたタマオにも、タタラは氷の如き冷厳さでもって返す。
「街の男たちは大なり小なりその危険に立ち向かっているのだ。この街に住まう気がある以上、お前だけそれを避けることは許されない。それとも街の者になる気はないと、晨星郷から出ていくか?」
「そんな……!」
「構いません」
「僕は、構いません」
「ボウ!」
「僕には記憶がない。自分が何者かもわからない。けれど、僕は――……僕なら、恐らくあの化け物に対抗できます」
その一言に会議室が今日一番ざわついた。
「……それは、どういう意味かね?」
「わかりません。けれど、イナミやトミテのような剣の腕とは違うもっと別の力を、多分僕は持っていたはずなんです」
タマオやイナミたちが訝ってボウを見る。
ボウはあの日以来肌身離さず身に着けている、短杖を懐から取り出しタタラの前で捧げた。
「これは……」
壮年の男は静かに目を瞠る。
「魔術師の杖ですね」
短杖の正体は、ボウたちが部屋に入ってきたのとは別の入り口から現れた人物によって告げられた。
「ヨウコウ様」
十を数えるかどうかの幼い少女が、部屋の奥側の入り口からやってきたのだ。
白を基調とした、神職者風の衣装を身にまとっている。胸元には、青と赤の花を一輪ずつ飾っていた。
評議会の面々とタマオたち晨星郷の住人が、一斉に少女に向かって頭を下げた。
「あの方はヨウコウ様。晨星郷を導く巫女様だ」
イナミが顔を伏せたまま、そっとボウに教える。
「巫女……?」
彼女は両側に侍女らしき共を侍らせ、更に後ろには雑貨屋の主人テンセンの姿も見えた。
「おじさん!」
「タタラ様、どうか堪忍してください。その坊主とタマオちゃんは、うちの坊主の命の恩人なんだ。悪さなんてするはずがない」
テンセンはタマオたちに恩義を感じて、ボウを救うために晨星郷のもう一人の権力者、巫女ヨウコウに掛け合ってくれたらしい。
「初めまして、無限の一部たる我が兄弟よ」
「きょうだい……?」
「事情は全てテンセン殿からお聞きしました。あなたには記憶がないということも。――いまだ、“彷徨える魂”なのですね」
「さまよえる、魂」
それが自分のことだと言われて、ボウはすっと納得がいった。ああ、そうか。
自分は亡霊なのだ。肉体はあっても中身に足る記憶がなく、自分が誰かも、何のために生きているのかもわからない。それでも。
それでも……死者には心がないなんて言わない。
「“揺蕩う闇”共の始末は、全て任せましょう。大丈夫、あなたならきっとできるはず」
巫女はあっさりとボウにその役目を押し付けた。
「お言葉を疑う訳ではありませんが、本当ですか? ヨウコウ様。例え魔術師であろうと、彼にそんな力があるなどとは……」
「問題はありません」
どちらにせよ、ボウは晨星郷で暮らしていくなら身の証を立てるためにこの依頼を受けざるを得ない。
ボウが怪異を解決できればよし。解決できずに死んでも、それはそれで元凶らしき余所者が死んで人々の心が落ち着けば評議会としてはそれで良いのだ。その間に具体的な魔獣対策を彼らは練り、事件はやがて解決し、悲劇など日常を繰り返していくうちに忘れ去られるだろう。
元より晨星郷は損をしない。
「……お引き受けいたします」
「よろしく頼みますわ、彷徨える魂のお兄様」
巫女は微笑んでボウにそう声をかけると、元来た入り口から帰っていく。
ボウたち四人も、進展があったらイナミかトミテが報告するよう約束して、城を下がるよう命じられた。
◆◆◆◆◆
「どういうことなの? ボウ。ヨウコウ様の兄って何?」
四人は話しながら再び城の小道を辿る。
ひとまず解放されたがその条件は、ボウが魔獣襲撃の原因を突き止め、近頃の怪異を解決するのと引き換えだ。これから何をするべきか、考えなければならない。
「僕にも詳しいことはわからないよ」
けれど、あの巫女の少女に、何か響くものを感じたことは確かだ。
「ヨウコウ様の口ぶりだと、実の姉弟とかそういう話ではなさそうだな」
「いやその前に年齢だろ」
真面目くさって考え込むイナミに、隣からトミテが突っ込んだ。
「ヨウコウ様って魔族の血を引くらしくて、あの見た目よりは年上なのよ。私たちが子どもの頃からずっとあの姿なの」
「そうなのか」
不思議な少女の姿を脳裏の隅に留め置き、ボウはタマオ、イナミ、トミテの三人に向き直った。
「……さっきはありがとう。庇ってくれて」
これからの協力を約束してくれて。
「気にするな。俺もウルキも元々流れ者だからな。気持ちはわかる」
「俺は生まれも育ちも晨星郷だけど……親がわからないんで外から来た人間の可能性が高いし」
ボウはイナミとトミテに軽く頭を下げる。
「私はあの晩もボウに助けてもらったし、今度は助けるのは当たり前じゃない」
「……タマオには助けられてばかりだね」
海辺に流れ着いたボウをタマオが拾った日から、全ては始まった。
「そうよ。だから借りを全部返すまでは、どこかに行くなんて許さないんだからね!」
「――わかった」
先行きはまだ不透明だが、青い空の下、彼の心もまた晴れていく。
たぶんきっと、大丈夫。根拠はないがそう信じられる。こんな時でも、信じられる人がいる幸運をボウは噛み締める。
四人が街の大通りに出たところで、ボウは一人の少年とすれ違った。
真昼の陽光の下でも、眩いばかりに深い青みを帯びた銀髪。
何かが引っかかり、あれ? とボウが振り返った時、小さな声が聞こえた。
「ごめん」
「……?」
いったい何の謝罪だろう。別にすれ違う際にぶつかられた訳でもなければ、もちろん財布もちゃんとある。
思わず立ち止まったボウを、先を歩いていたタマオが呼んだ。
「ボウ、帰るわよ!」
長い銀髪の少年の背は、その隙に路地を曲がり見えなくなってしまう。
「どうかしたのか?」
「いや、なんでもない」
知り合いでもない人間を呼び止めることもできず、ボウはそのまま三人と共に薬草園へ帰宅した。