3.人魚の懺悔
「ごめんくださーい」
「おや、タマオちゃん……それに」
「彼はボウです。しばらく前からうちにいるの」
「ああ、ちょいと噂になってた子だね。それで、今日は二人してどうしたんだい?」
「この前の大雨でお医者様のところの薬草が一部ダメになっちゃったらしいから、他にも難儀してるお家はないかなって」
「まぁ! わざわざすまないねぇ」
「そのついでに、何か魔獣の話も聞けたら助かるわ」
「僕は先日、評議会から魔獣退治のお役目を任されたんです……」
タマオはボウを連れて、晨星郷内でここ最近魔獣被害に遭った家を一軒一軒訪ねて回った。
育てた薬草を売り込みつつ、彼らが遭遇した魔獣について何か知っていることはないか聞いて回る。
「表向き親切な振りしてよくやるよな、タマオも」
その作戦を聞いた時、トミテは溜息と共に言った。
ボウについては、評議会から魔獣退治の依頼を受けたことを隠さずにむしろ吹聴して回った。
議会の人々はまだボウを信用していないどころか何かあれば余所者に罪を着せて追い出すつもりだが、街の人々はそんな事情露知らず、評議会が正式に依頼したなら一定の信用はあるのだろうと勘違いしてくれる。
「親切は親切だろう。病人や怪我人が出れば薬はどうしても足りなくなる。だが、無償で配るのはやめておけ、タマオ。あまり必死で情報を集めている姿を見せれば向こうも警戒する。お前たちの目的はあくまで薬の売り込みで、魔獣の情報集めはそのついでという扱いがいいだろう」
「そうするわ」
イナミの助言通り、タマオは表向き薬の売り込みに力を入れた。
「魔獣被害以外の人たちのところも回った方がいいわよね」
「そうだな。怪我人や病人はわざわざ外に買いに出なくても薬が手に入る。お前は金を稼げる。ボウは魔獣の情報を集める。集めた情報で俺たちが魔獣を退治する。全部こなせればみんなが幸せになれるはずだ」
「そうね!」
イナミとトミテの二人は元々の街の見回りと魔獣退治の任務があるため、新たに情報を集める時間はない。いざ戦闘になれば頼りになるが、怪異の元凶を探ることは難しい。
ボウの役目とは“揺蕩う闇”と呼ばれる怪異の情報を集め、まとめ、元凶を探し出すことだ。
元凶が魔獣か何かでそれを退治すれば話が終わるなら、戦闘はイナミたちを始めとした街の自警団に任せても構わない。
重要なのは、誰も知らない怪異の元凶を探り、正体を突き止めることだった。
この二、三日。街の見回りに向かうというイナミとトミテを見送ったあと、タマオとボウも薬草箱を背負い、連日街へと繰り出していた。
「こんにちはー、薬草園のタマオです。薬草はご入用ではございませんか?」
「おや、薬屋さんの方から来てくれるとは。ちょうど買いに行かなきゃいけないものができてね……」
薬草を無料で配ることこそしなかったが、大雨後の大変な時期ということで少しばかり値引きした品をタマオは販売する。やはり浸水で薬をいくつか駄目にした家が多かったらしく、大概は有難がられた。
「ところで、おじさんが出くわした魔獣ってどんなだったの?」
「そうさねぇ……」
「坊や、魔獣をいつどこで見たか詳しく教えてくれる?」
「うん! あのねあのね!」
タマオとボウの薬箱は少しずつ軽くなり、同時に情報も増えていく。
「今日はこの辺りでおしまいね」
「ああ。……参考になったよ」
タマオの家に戻ってすぐ、ボウは街人たちの目撃証言をまとめて一覧表を作り、地図の作成に取り掛かる。
昼の見回りを終えてイナミとトミテがタマオの家に戻り、隣家からウルキも夕食の手伝いにやってきた。それでもボウの作業は終わっていない。
「何をしているの?」
「魔獣の出没地域に目印をつけるんだよ。被害の多い場所を調べれば魔獣がどこから来て、何を狙っているのかわかるかもしれない」
晨星郷とその周辺の森と海の位置を荒く書き込んだ大きな地図。そこに今日得た魔獣の情報を細かく書き留めていく。
タマオの問いに答えながら、逆にボウは尋ねる。
「今まで、晨星郷ではこういう調査作業はやって来なかったの?」
「ええと……」
タマオは過去に街で起きた様々な事件を思い返していく。
しかし彼女が思い出すよりも、イナミとトミテの二人がボウの疑問に答える方が早かった。
「そういう時は、巫女様が占いで原因を調べてくださるのさ」
「巫女様って、この前会った……」
「そう、ヨウコウ様だ」
少女の姿をしているが、実年齢は人間からするとかなり上らしい魔族の巫女。
神秘的だが微笑みの下の感情を見せない姿をボウはそっと思い返す。
「困りごとの対処は大体巫女様に聞けば的確な指示をくださる。俺たちはそれに従って動くだけだ」
トミテがそう言うと、イナミが難しい顔をした。
「だからこれまで、俺たちは何か問題が起きてもその原因を探したり対処法を調べたりするということがあまりなかった。考えてみれば、それ自体が問題なのかもしれないな……」
「私たちもこの街の外では人並みに不便を感じていたのに、いつの間にかヨウコウ様の導きに慣れ過ぎてしまったのかしらね……」
ウルキも夫の隣でしみじみと考えている。
イナミとウルキの夫婦は街の外からやってきた者たちであり、巫女の存在を知ったのも晨星郷にやって来てからだ。
「他の街では違うのか?」
「この街のように評議会が会議で街の運営を決めるところもあれば、王様や皇帝陛下が民を統治する国もあるわ」
トミテの問いに、ウルキはこれまで訪れた国についての知識を語る。
「大きな国になるとあらかじめ治水の件はどこそこ、流行り病の件はどこそこと専門の部署を決めて仕事を回しているんだったわね」
「その土地その土地ごとの困りごともあった。川が荒れやすく水害に悩む地域もあれば人が生きるのに最低限の水の確保に困る乾いた土地も」
まったく異なる環境で、人々は異なる常識を持って生きていく。
「二人とも色々な場所を知っているのね」
「それだけ旅をしてきたから」
タマオが感心して言うと、イナミとウルキは苦笑しながら顔を見合わせた。
この二人もこの街に来るまで様々な苦労をしてきたのだろう。
「……僕は、どこから来たのかな」
「ボウ?」
「なんでもない。じゃあ、作業の続きは夕食を頂いてからにするよ」
「そうしなさいよ。でないと途中でお腹空いて倒れちゃうわよ」
今日はいっぱい歩いたもの、と言いながらタマオが夕食の支度に戻る。
五人は夕食を終え、再びボウは作業に戻る。
タマオとウルキが片付けと明日の食事の仕込みを終え、イナミとトミテが剣の手入れや魔獣退治用の装備を確認している頃、ボウの地図作りはようやく一段落した。
「これがここ数か月の魔獣の出現記録だ」
ボウに促され、四人は地図を覗き込む。
「えーと、出現地域が偏って……る?」
「街の北東寄りに多いな」
タマオの家とトミテの実家は街の南東にある。
「北東以外で襲われた人たちは?」
「……彼らも住所の方を見ていくと北東住まいが多く、例外はほんの一、二件だ」
「本当だわ……」
ボウが地図に記した情報に、タマオたちは驚く。
「そういえば今日薬を売りに回ったのも、怪我人は北東の家が多かったわ」
タマオは魔獣被害の怪我人だけでなく、元々病弱で薬を必要としている人々にも薬草を持って行った。北東以外の家々は元々病人の多い家庭だ。
「海に何かあるのかしら……」
ウルキが北東から東までの被害地域を結ぶ線をなぞりながら呟く。
晨星郷の東部、北東から南東にかけては海岸線が続いている。
怪異の被害は街の東部、すなわち海沿いに圧倒的に多い。
「そういえばあの時の化け物も、魚みたいな鰭があったわ」
タマオとボウは先日雑貨屋の主人と共に襲われた魔獣の姿を思い返す。
「海か……しかし、ここ数か月、海辺で変わったことなんてこいつを拾ったことくらいだろう?」
「もう! トミテまでそんなこと」
「ただの事実の確認だよ。“揺蕩う闇”の怪異はこいつが来る前から始まってた。ボウが関係ないことはわかってる」
タマオに詰め寄られ、トミテは勘弁してくれと両手を挙げながら弁明する。
そんな二人のやり取りを見ながら、イナミが不思議だと言わんばかりに腕を組み首を傾げた。
「いつもなら巫女様が占いで導いてくれるんだが、今回の怪異は何故占うことができなかったのだろう。あの方はボウのことすら何か知っているようだったのに」
イナミの疑問に、ボウは考える様子もなく地図を眺めたまま淡々と答える。
「今回はあの人だからこそ無理なんだろう。この街には星の気配が漂い過ぎてる。だから……」
「え?」
「ボウ?」
「気配って何の話だ?」
「え?」
晨星郷の者たちですら多くは知らぬ巫女の事情をさも分かっているとばかりに言葉を紡いだボウは、改めてそれを問われると急にきょとんとした顔になる。
「ボウ、今のなんの話? 星の気配って何?」
「……僕、そんなこと言った?」
「言ったじゃない!」
完全に無自覚だったボウは、先程自分で言った言葉も覚えていないようだった。
「あれ?」
演技とも思えない様子で首を捻るボウに、四人も狐につままれたような心地だ。
「こいつ、悪い奴じゃなさそうだけどやっぱり変な奴だよな」
「……まぁ、そうかもな」
◆◆◆◆◆
翌日もボウとタマオは薬を売り込みがてら情報収集に出かけた。いくら晨星郷が小さな街と言えど、薬の用意をしたり魔獣の話を聞いて調べながらでは一日では回り切れない。
魔獣被害の怪我人ではないが、昔から体の弱い少年がいる北東の街はずれの家をタマオはボウと共に訪れる。
生憎と言うべきか、病人本人は不在だった。
「セイは本当に元気になったのね」
「ええ。最近では毎日のように近所を出歩いているのよ。今まで何年も床に伏していたから、外を見るのが面白くて仕方ないのね」
この家の一人息子は病弱な少年で、一日のほとんどを寝台の上で過ごしていた。何年も同じ街で暮らしていても、タマオですら数えるほどしか顔を合わせたことがない。
その彼が最近急に病状が回復したのだと、母親は喜んでいた。
「それなら私の持ってきた薬はいらないかしら?」
「そうねぇ……」
母親は一度家の奥を確認するような素振りを見せてから、念のために頂いておくわ、と告げる。
「きっと大丈夫だとは思う……思いたいけれど……」
「おばさん……」
浸水被害後だから安くしておくと言って、タマオは病弱な少年のための薬草を手渡す。
乾燥させた薬草の粉末はとても苦くお世辞にも美味とは言えない。そんなものを何年も飲み続け、日がな一日寝室の窓から外の海を眺めていたこの家の少年。
「……セイってどんな人?」
病人の家を辞し、次の家を訪ねるまでの道中でボウはその少年の話をタマオに聞く。
「体は弱くてほとんど交流もないけれど、綺麗な子よ。竪琴が得意で、たまに家の外にも聞こえていたの」
「竪琴? ……って、こんな感じの?」
「ええ、そうよ。竪琴。あんな感じの……ん?」
楽器屋の家はたびたび演奏もするために、街から少し離れたところにある。タマオの家が南東のはずれなら、ここは北東のはずれだ。
誰もいない海岸線に近い場所から、竪琴の調べが聞こえてきた。
「きっとセイだわ」
海辺に近寄り、その姿を探す。少し離れた岩場で、銀髪の人影が竪琴を爪弾く姿が目に入った。
「邪魔したら悪いかしら」
タマオがセイに声をかけようにも、この距離では届くかどうか。二人は妙なる調べに耳を傾けながら数舜迷っていたが、結局声はかけずにそのまま通り過ぎようとした。
「この曲……あの夜の」
ボウはセイの竪琴の旋律を聞きながら、いつかの夜に海辺で歌っていたのは彼だと気づく。
「本当に綺麗な曲……って、ちょっとあれ!」
「!」
タマオが指さす先で、セイの前方に黒い影が立ちふさがる。
「魔獣!?」
ボウは走り出し、魔獣除けだという香を入れた袋をその鼻先に叩きつけた。
グギャァアアアア!
悲鳴を上げてのたうち回る魔獣から、セイの腕を掴んでそのまま遠くへと走って逃げる。
この魔除けの香は、さすがに魔獣退治を含む怪異の解決を命じられたのに身を守る手段が絶無では心許ないだろうと、イナミから与えられた今のボウの武器だ。
雨の夜に襲われたように執拗に追われることを覚悟していたが、今日の魔獣は何故か大人しかった。ボウがセイを引きずるようにして逃げ出すと、その後を追っては来ない。
「二人とも大丈夫?」
「な……なんとか!」
呼吸を荒げるボウと、息も絶え絶えなセイ。
そういえば彼は病弱だと聞いたばかりだ。魔獣が迫っていたとはいえ無理に走らせてしまって大丈夫だったろうか。
「君……」
声をかけようとしたボウはそこで気づいた。
青みがかった銀髪の少年。
それはいつかの夜に海辺で竪琴を奏でながら歌っていた少年であり。
つい先日、評議会から怪異の解決を命じられたボウがすれ違った時に「ごめん」と囁きを遺したあの少年だったのだ。
◆◆◆◆◆
「セイ、大丈夫かしら? 何か様子がおかしかったけれど」
「うん……」
ボウに助けられたセイは、その手を振り払うようにして二人の前から逃げ出した。
タマオは追うに追えず、その背を見送るしかなかった。病弱な彼を放っておくのは心配だが、セイが二人の前から姿を隠したかったなら追うのは逆効果だ。家がすぐ近くなのだから、あまり長く走らせない方が良いだろう。
「でも、昔より全然元気そうで良かったわ。半年前くらいに姿を見た時は、このまま死んじゃうんじゃないかと思うくらい具合が悪そうだったもの」
「たった半年前にその状態?」
「うん、私はお医者様じゃないから詳しいことはわからないけどね」
ボウが今日見た少年は儚げな様子だったがそこまで体が弱いようには見えなかった。
ほんの半年前には死にそうなほどに体調が悪かったとしたら、そんなにすぐ元気になるものだろうか。元々体力のある人間が怪我をしただけならともかく、何年も寝台の上でしか過ごせなかったという話なのに。
ボウは疑問に思ったが、やはり彼も医者ではないので確かなことは何も言えない。ボウが知らないだけで、中にはそういう病気もあるかもしれない。
「とにかく魔獣のこと、イナミたちに報告しなきゃ」
「そうだね。地図の方にも情報を書き加えないと」
二人は街の中心部に向かい、イナミとトミテがいるはずの自警団本部に顔を出す。
「どうしたんだ?」
「ボウ? あっちは……」
しかし、タマオがイナミたちを呼びに行っている間に、ボウが街の男の一人と言い争いになっているようだった。
否、ボウの方は声を荒げることもなくただ相手の言い分を聞いて、時々反論しているくらいだ。言い争いと言うにはあまりに一方的だった。
相手は、先日ボウの目前で魔獣が吸い込まれるように消えた状況を見ていた自警団の青年の一人。その時の状況から、最近の怪異がボウの手によるものではないかと疑っている様子だ。
「じゃあなんでお前の前で魔獣が消えたんだよ! これまで誰が剣で深手を負わせても、あんなふうになることはなかった!」
「僕にもその理由はわからない。僕の方が何故なのか知りたいくらいだ」
晨星郷を次々に襲う“揺蕩う闇”と呼ばれる怪異。
その原因の究明と解決は、街人全てが願うことである。
ボウが解決を評議会に命じられたからと言って、自警団が何もしていない訳ではない。イナミやトミテも加わって日夜見回りを続けている。
青年は、ボウが怪異の調査をすること自体が気に入らないようだった。
戸惑う周囲の人々を押しのけて、トミテがようやく顔を出す。ボウに絡んでいる青年の顔を見て、苦虫を噛み潰したような表情でげっと声を上げた。
「ああ、またロクソンの奴か」
トミテはずかずかと二人の間に割って入るように歩いて行って、ロクソンを思い切りにらみつける。
「おい、ロクソン。お前いい加減にしろよ。タマオに振られたからってこいつに絡むのはやめろ!」
「なっ……!」
ロクソンの顔が怒りとも羞恥ともつかぬ様子で真っ赤になる。
「い、いきなり何を! 今の話はそれとは関係ない! だいたいお前だって関係ないだろ!」
「トミテ……」
「関係なくねーよ! ボウが来るまでお前に一方的に敵意を向けられてうんざりさせられたのはこっちだっての」
タマオは十八歳、トミテは十三歳。少し歳の差があるが、タマオに好意を抱く男は女房持ちのイナミよりもタマオの家に入り浸るトミテを警戒する者が多かった。
当の本人たちはあくまで姉弟のようなもので、恋愛感情などはまるでない。ほとんど一緒に育ったような相手に、今更そんな感情抱くわけがないと。
けれど、少し前にタマオの家にボウがやってきた。
ボウは見た目からして十五、六。トミテよりタマオと年齢が近く、身内でもないのにタマオの家に居候している。
ロクソンとしては気が気でないというところだろう。
「その辺にしておけよ、ロクソン」
その恋心はトミテ以外にも知られているところ。トミテの登場を機に他の自警団の青年たちも騒ぎを止めに入る。
ボウのことはともかく、本気で剣での斬り合いをしたら街一番の剣士であるトミテにロクソンが勝てる訳はないのだ。
「……みんなは怪しいと思わないのかよ! こいつが来た頃に魔獣が増え始めて、こいつの中に魔獣が吸い込まれるようにして消えた! どう見ても関係あるじゃないか!」
周囲はトミテとロクソンの乱闘を警戒したが、ロクソンが敵視しているのはボウだ。
「違うわ。晨星郷の怪異はボウが来る前から始まってたわよ。それにこの前魔獣が現れた時は、ボウは私と雑貨屋のおじさんを助けてくれたのよ」
タマオがボウを庇って言う。ボウがいつ街に来たのかは、ボウを拾ったタマオたちが一番よく知っている。それは怪異が始まりだして少ししてからのことだった。
「わからないじゃないか! タマオの家に来る前に、街の近くで魔獣を操っていたのかもしれない!」
「いい加減にして! そんな無茶こと言い出したら、誰だって犯人にできてしまうわよ!」
収拾がつかなくなってきた事態を、周囲は呆れ半分、迷惑半分の眼差しで見ている。
その中で一歩動いたのはボウだった。
前にいたトミテの肩をそっと押して下がらせると、再びロクソンの目前に立ちその視線を真っ向から受け止める。
「僕には海でタマオに拾われるまでの記憶がない。だからあの時何故魔獣が消えたのか、その理由は僕にもわからない。僕と晨星郷の怪異は何か関係あるのかもしれないし、ないかもしれない」
「ちょ……ちょっと、ボウ……」
「だから僕は魔獣を追う。それが、失くした僕自身を見つける手がかりになるからだ」
周囲の不審と好奇の視線に晒されながらも、ボウはきっちりと、言いたいことを言い切る。
「君にどう思われようと、僕は僕のために怪異の元凶を追う」
そして言いたいだけ言うと、人だかりの手前に立つタマオに声をかけた。
「さっきの話、イナミたちにした?」
「ええ、伝えたわ。海でセイと一緒に魔獣に会ったって」
「じゃあ、もうここに用はないね。お暇しよう」
「……そうね」
タマオは何か言いたげだが、結局はボウの言葉に頷くこととなった。
「あ、待て。俺も帰る」
「俺はまだやることがある」
トミテは二人と共に帰ると言い出し、イナミはまだ自警団に残ると手を振った。
ボウたちが自警団の建物を出ようとしたとき、ロクソンがその背に向かって叫んだ。
「俺は、お前のことなんか絶対に認めないからな!」
ボウは静かに振り返ると氷のような青さを持つ瞳で、氷のように冷たい声で言い放った。
「僕は君に認めてもらう必要なんてない」
◆◆◆◆◆
トミテはウルキの手料理を食べて帰り、しばらくして戻ってきたイナミも明日話があるとだけ告げて隣家に妻と共に帰って行った。
薬草園にはタマオとボウの二人だけが残される。
「少し出てもいい? 海を見に行きたいんだ」
「いいわよ。でも私も一緒に行くからね」
ボウとタマオは二人連れ立ち、夜の海へと向かった。
規則的な波音を立てる海は暗く、黒く。対照的に白い砂浜は月の光を受けて眩い。
カンテラを先日の魔獣との戦いで割ってしまったため、二人の手元に明かりはない。それでも煌々とした月明りが、思った以上に鮮やかに地上を照らしている。
この砂浜でかつてタマオはイナミたちと一緒にボウを拾った。
海からきて、記憶を失くし、自分がどこの何者なのかもわからないというボウ。
「……ボウでも、あんな風に怒ることがあるのね」
「怒る? ……ああ? ロクソンに言ったこと? 怒ると言うか……僕は多分、普段からあんな感じだよ」
「そうなの? でもあんな態度見たことないわ」
「タマオには怒る理由がない」
苦笑しながら歩くボウの手には魔導士の杖と呼ばれた小杖が握られている。
「まだ魔導の使い方は思い出せないし、自分の過去もわからないけれど、僕は自分自身がどんな人間だったのかだんだんわかってきた」
魔獣がボウの中に吸い込まれるようにして消えた日から、何かが変わったように感じる。
「僕はきっと自分の力に自信のある魔導士として行動していた。魔導の才を持つ者は希少だから人と違う視点でものを見ていた。逆に言えば、普通の人たちに溶け込むのは得意じゃなかっただろうね。そんな気がする」
「ボウ……」
「多分、そんないい人間じゃなかったんだよ」
ボウ自身は記憶を取り戻したいと考えている。けれど、本当に自分にその価値があるかはわからなかった。
海を漂流していたのは、罪人として突き落とされでもしたのではないか?
最近はそんなことばかり考えている。
「ねぇ、タマオ。あの晩、何故タマオはこの海辺にいたの?」
たまに貝や海藻を採ることがあるとはいえ、普段から頻繁に海を訪れるような用事はタマオにはない。
彼女があの時あそこでボウを見つけなければ、きっとボウは死んでいた。
「……昔、あるところに」
タマオはボウの先を行くように、歩きながら語りだす。
ボウの方を見ていないのに、その声は夜の海辺に朗々とよく響いた。
「あるところに、子どもを亡くして悲しんでいる、薬草園を営む夫婦がおりました」
歌うように語られる、彼女自身の過去。
「夫婦が子どものために祈っていると、海から小さな笹船が流れてきました」
「笹船?」
川ならともかく海で笹船とは。
「不思議でしょう? でももっと不思議なのはここからよ。その笹船には真珠のような小さな白い光の球が乗っていたのですって。その光の球が赤子の亡骸に吸い込まれるように消えると、死んでいたはずの赤子は息を吹き返した……」
「タマオ」
薬草園の一人娘は微笑んで振り返る。
「私も私がわからないの。ここにいる私は、本当にあの両親の娘なんだろうかって。身体は薬草園の夫婦の子どもでも、中身は得体のしれない化け物なのかもしれない」
タマオは海からやって来た。
だからだろうか、時々むしょうに海が恋しくなる。ボウを拾った時に海辺にいたのもそういう理由だ。
「私は、自分と似たような境遇のあなたが来てくれた時ほっとした……自分のことがわからないのは、私だけじゃないんだなって」
「それで僕を……?」
「そうよ。あなたも私と同じ。どこにも行けない。何にも成れない」
いまだ還る場所を知らぬ、“彷徨える魂”。
タマオはずっとボウを甲斐甲斐しく世話していた。その理由がこれか。
「……僕には確かに記憶も、帰るべき家もない。でも君には、トミテやイナミ、ウルキたちがいるだろう」
タマオは静かに首を横に振る。
「わからないの。みんなのこと、大好きなのに。それでも私は、いつもそこが自分の居場所じゃないような気がしている」
気のせいだと言えたらどんなに楽だったろう。けれどタマオが口にする感覚は、ぴたりとボウにも当てはまった。
欠落を自覚しているのに、それを埋める一欠けらがいつまでもいつまでも見つからない。
ほんの小さな暗い穴。けれどそれを埋めぬ限り自分は自分になれない。
「タマオ、僕は――」
ボウが口を開きかけたその時だ。
「――あ」
人の気配に気づいて振り向いたのはタマオの方が早かった。
慌ててボウもその気配を追うと、翻る長い銀髪の先が視界に入った。
「待って!」
さすがに病弱だったせいか、足の遅い少年の腕をすぐに捕まえる。ほんの僅かな距離で息を荒げているその背に問いかけた。
「何故逃げる。疚しいことがないのなら」
「俺が疚しいんじゃなくて、あんたらが気まずいんだろ! 俺だって人の逢引を見る趣味はない!」
「……逢引?」
思いもかけない言葉に、ボウは一瞬理解を放棄した。
少年の腕を捕らえたまま固まるボウの傍らに、さくさくと白砂を踏んでやってきたタマオが立ち少年に問いかける。
「セイ、あなたどうしてここに?」
「……海を見に来たんだよ」
その言葉に、ボウは数日前の出来事を思い出した。
潮風に靡く青みを帯びた銀髪。白い指先が竪琴を爪弾き奏でた鎮魂の旋律。
「この前竪琴を奏でながら歌っていたのも君だね」
「……そうだよ」
「この前の……“ごめん”はどういう意味?」
聞いていたのか、とセイは口の中で小さく呟いた。
「聞いていたんだな。なら、わかるだろう。あの時――評議会に責められるのは、本当は俺のはずだった」
ボウはセイとしっかり顔を合わせたことはない。夜の海辺で歌声を聞き、昼の街中ですれ違い、今朝も魔獣を遠ざけたと思ったらすぐに逃げてしまった。
初めて間近で見たその少年は、夢のように美しく、悪夢のように人間離れして魅惑的だ。
長い銀の睫毛を伏せて、セイは告げる。
「俺が……この街の怪異の原因だからだ」