4.漣(さざなみ)の葬列
セイは言う。晨星郷を襲う怪異の原因が自分だと。
どういうことだ? ボウとタマオは思わず顔を見合わせた。
これまでずっと床についたまま起き上がれもしなかった病弱な少年。そんな彼が、一体何をしたら怪異の元凶になどなりえるのかと。
「……魔獣に知り合いでもいるの?」
「……街を襲っているのは魔獣じゃない」
え? とタマオとボウが驚いて目を瞠る。
「でも、イナミたちが倒したのは確かに」
「魔獣は彼女の手下。あくまで道具だ。魔獣がその意志で街を襲っているわけじゃない。あくまで操られているだけ」
「彼女?」
「操る?」
初めて聞く話に二人は目を丸くしたままセイを見つめた。
「彼女の目的は俺への――」
その時、突然海が荒れた。
「!」
足元で強風に煽られた砂が舞い踊る。
三人は横殴りの風に頬を叩かれながら、夜の暗い海面を振り返った。
荒れ狂う波の飛沫が音を立てて次々に揺らめき砕ける。その中に浮かぶ白い人影。
「……女の人?」
思わず目を疑ったボウたちにセイが叫ぶ。
「あれは人魚だ! 彼女がこの事態を引き起こしてる!」
海上で魚のように跳びはねた、その女性の下半身は透き通るような翡翠の鱗に覆われていた。
「さっき言ってたのって……」
セイが口にしていた彼女とは、この人魚のことらしい。
「確かにこの海には人魚が棲んでいるって聞いたことあるわ。でもどうして……?」
タマオのどうして? は様々な問いを含んでいた。
どうして、人魚がここにいるのか。
どうして、街を襲ったりするのか。
どうして、セイは人魚のことを知っているのか。
残念ながら、今はそれらの疑問に答えてもらう暇はなさそうだ。
荒れる海面から次々と顔を出す、獣とも巨大な魚ともつかぬ怪物の数々。夜闇の中で光るその目が、彼ら三人に狙いを付けた。
「タマオ! セイ! 逃げるんだ!」
「ボウ!」
人魚が差し向けた魔獣が次々と海から上がってくる。これもまた謎だ。人魚族に魔獣を操る力があるなんて聞いたこともないのに、どうして。
全ての疑問は後回しにして、今は逃げるしかない。
ボウはタマオの手を取り、二人は砂に足を取られつつも走りだそうとする。
その横を、長い髪を強風にもつれさせながらセイが海に向かい駆けていく。
「セイ!?」
「一体何をやって……」
ボウたちの呼びかけを意に介さず、セイは嵐の海でも平然と泳ぎ続ける人魚へと叫んだ。
「もうやめてくれ!」
傍で聞いていたボウたちの方が胸を衝かれるような必死さで、彼は人魚に訴えかける。
「あんたが憎いのは俺だけだろう! 他の奴らを巻き込むな!」
それでも遠く見える人魚の表情は、まったく動く気配すらない。
彼女の繰り出した魔獣たちだけが、砂浜へと上がり彼らにゆっくりと近づいてくる。
「セイ! 駄目だ!」
二人の間に何があったのかは知らない。けれど人魚がセイの言葉に聞く耳を持つ様子はなく、このままでは三人とも魔獣の餌食になるだろう。
ボウはセイの細い手首を掴み言い聞かせる。
「今は逃げよう。逃げるしかない」
「……いやだ」
帰ってきたのは拒絶。我儘と言うには力ない声音で、少年は疲れ切ったような苦い笑顔を浮かべながら言う。
「もう、終わりにしたい」
彼の抱えていた竪琴が砂浜に落ちて僅かに跳ねる。壊れこそしなかったものの、濡れた砂に塗れて放り出されたその姿は今のセイ自身の心境のように無残なものだ。
「ずっと考え続けてたけど、ダメだった。償う方法がどうやっても思い浮かばない。だって俺の気持ちも、彼女と一緒なんだから」
最近健康になったというはずの少年は、けれどやつれ衰えた病人よりも青白い顔をしている。
バシャンと水の跳ねる音に気付いて振り返れば、荒波の中を人魚が泳いで近づいてきていた。
人魚の顔立ちは美しく、その表情はよくできた彫像のように凍り付いている。
「殺すなら俺を殺せ。どうせ、本当ならそうなるはずだったんだ」
睨みあうと言うにはどちらも悲痛な様子で、セイは人魚と視線を交わしていた。
「……」
人魚が白い腕をゆっくりと持ち上げる。三人の周囲を魔獣が取り囲んでいた。
「やめろ!」
ボウは叫ぶ。
手にした魔導の小杖を振ってみるが、記憶の戻っていない彼にはそれを扱いこなすことは出来なかった。
魔獣が迫る。セイがせめて二人のことは庇おうと、自ら前に出る。
タマオは懐を探るが、香袋は昼間の魔獣を追い払うのに使い切ってしまった。
ガツッ
「くっ……!」
「ボウ!」
魚の顔に獣の牙を持つ魔獣。その鋭い牙をボウは咄嗟に小杖で受け止めた。
指揮棒のような見た目に反して頑丈な杖は見事魔獣の攻撃を防いでくれたが、二度目は期待できないだろう。
押しのけられたセイの腕をタマオが必死に掴んで引き留めている。彼をそのままにしておけば、またいつ身を投げ出すかわからないからだ。
けれど自分たちだけでこの事態を解決するのも難しい。先日とは違い、魔獣の数が多すぎる。
海から上がってきた魔獣たちに、三人はぐるりと周囲を取り囲まれていた。
波の向こう、海面から突き出した岩に身を預けた人魚が口を開く。
「返して」
それは敵意とも憎悪とも違う、ただただ哀切な声。
「あの子を返して」
魔獣と睨みあいながら、ボウは人魚が何故そんなことを言うのか気になって仕方なかった。
彼女の言葉を聞いて、セイが苦痛を堪えるような顔をした理由と共に。
「タマオ! ボウ!」
「二人とも無事か!?」
じりじりと包囲が狭まりいよいよ覚悟するしかなくなったとき、見知った声がタマオとボウを呼んだ。
「イナミ! トミテ!」
二人の剣士はぴったり息の合った戦いぶりで、瞬く間にボウたちを取り囲む魔獣を蹴散らしていく。
忌々し気に顔を歪めた人魚が海中へと姿を消した。
「待ってくれ!」
「駄目よセイ!」
人魚を追いかけようとして砂浜を蹴ったセイを、タマオが肩口に飛びついて止めた。
「いい加減、全部話してもらうんだからね!」
人魚が姿を消した海は、先程の嵐が幻だったかのように静まり返っていた。
◆◆◆◆◆
「なんとなく嫌な予感がして戻って来たんだよ」
「俺は嵐に気づいたウルキに起こされた」
トミテとイナミの二人は、真夜中にも関わらず駆け付けた理由をそう話した。
隣家のイナミはともかく、トミテの「嫌な予感」というのには皆、首を傾げるしかない。
「晨星郷には隅々まで巫女様の力が行き渡っている。たまにはそういう不思議なこともあるさ」
「そんなものですか」
何にせよ助かったのだから良いだろうと、追及は早々に打ち切られた。
潮風の中で大立ち回りを繰り広げる羽目になった五人は、まずはタマオの薬草園に戻り体を拭くことを優先させる。
今から湯を沸かす程の余裕はないが、とにかく砂だけでも落としたい。
彼らの様子をあらかじめ察していたウルキが全て準備を済ませてくれていたおかげで、身支度は案外すぐに整った。
そして、ようやく人心地が着いた頃。
お茶代わりの白湯を前に、一同は、怪異の中心であるというセイの話を聞く態勢になった。
「今回の事態の解決には、ここにいるボウの立場もかかっている。お前が話せることを、全部話してくれ」
イナミの落ち着いた口調に促され、目を伏せて椅子に座っていたセイはようやく重い口を開いた。
「――人魚について、有名な伝説を知ってる?」
「えーと、歌が上手いとか?」
「それで誘った男を水に引きずり込むんだろ?」
タマオとトミテの言葉にセイは緩く首を横に振り、まさか、といった顔をしているボウとイナミ、ウルキの方を見た。
「人魚伝説で有名なのは、人魚を食べた者は不老不死になるという話だね」
「セイ、お前……」
ずっと床から起き上がれなかったという病弱な少年が最近は街を歩き回れるほど健康になった。
――晨星郷に怪異が起きはじめた時期は、ちょうどセイの身体が良くなった時期と一致している。
「あの人魚が『返して』欲しがっているのは彼女の妹」
街に魔獣をけしかけて人々を襲い、セイを見つけて殺そうとした人魚。それは復讐なのだ。
「俺が殺した、俺の友人」
セイは、人魚を食べたのだ。
◆◆◆◆◆
静まり返る部屋の中。
外では真珠草の花が発光するかのように白く輝いているのに、ここは酷く薄暗く感じる。燭台の火の灯りは、あまりにも無力だった。
重い空気をかき分けるようにして、真っ先に口を開いたのはボウ。
「……それじゃあ、どんな理由があっても赦してもらえそうにないね」
「……ああ。妹を殺した俺が街にいる限り、人魚は街を襲うのをやめはしないだろう」
「君を差し出せば晨星郷は平和になる?」
「ちょ、ちょっとボウ!?」
段々と危険な流れになってきた話に慌ててタマオが口を挟もうとするが、セイの途方に暮れた様子で再び言葉を失う。
「……わからない」
セイは力なく俯いて言った。
「あの人魚に、街を襲うのをやめてもらいたい。でも、俺がそう言ったところで、あのひとは聞いてはくれない」
「……人魚の肉を食べた者は不老不死になる。セイ、そもそもお前、殺されることが『できる』のか?」
イナミの質問にも、セイは首を横に振る。
「多分、無理だ」
何故それを知っているのかはボウたちには聞くことができなかった。
理由の方には想像つくとはいえ、セイが具体的にどういう経緯で人魚の友人を殺して食らうことになったのか聞けないのと同様に。
「えーと、そもそもあの人魚を殺して全部終わらせたら駄目なのか?」
気まずい空気に耐えきれない様子のトミテが言うと、セイはこれまでとは打って変わって強く反応した。
「それだけは絶対にやめてくれ。初めに彼女から奪ったのは俺なんだ。もうこれ以上は……!」
「わ、わかったよ。悪かったって」
トミテも自分が酷いことを言った自覚はある。セイの反対を受けて、すぐに引き下がった。
「魔獣を従えているってことは、あの人魚は魔獣になりかけているってことだよね。……そうか、“揺蕩う闇”の正体はそれか……」
「正体? 何のことなの? ボウ」
「晨星郷で目撃された“揺蕩う闇”と呼ばれる黒い靄の正体だよ。あれは、背徳神グラスヴェリアの魂の一部だ。人魚にとり憑いてセイへの憎しみを煽り、彼女を魔獣にするつもりなんだろう」
「魔獣!? 魔獣ってそうやってできるの!?」
「そうだよ。神話で黒い流れ星と呼ばれているのが背徳神の魂の欠片だってのは有名だろう? そして背徳神の魂の欠片をとりこむと、人でも獣でも魔獣になってしまうんだ。魔族だってね」
“黒い流れ星”――グラスヴェリアの魂の欠片が魔獣という存在を生み出す。人に獣に、あらゆるものに宿り変質させる。
「ボウはよくそんなことを知っているわね。何か思い出したの?」
ウルキの問いに、ボウはいつもと変わらぬ様子でこくりと頷いた。
「うん。魔導や、魔獣に関する記憶はね。自分に関することより、魔導に関することの方が思い出しやすいみたいだ」
だが、知識が戻っても今のボウには魔導が使えず、自分の身一つ守ることが難しかった。
魔導を使うには、欠けた記憶を完全にする必要があるのだろう。
「そうなの……」
「ボウの記憶も大事だが、それより今はセイと人魚のことだ。これ以上街に被害を広げる訳にはいかない」
逸れそうになる話をイナミが引き戻し、ボウは自分のことはひとまず置いて人魚の話を続ける。
「対策は早い方がいいと思う。あの感じだと、彼女が魔獣堕ちするまでもう時間がないよ」
「そんな……」
セイが愕然とした表情で唇を噛む。
「……俺は、どうすればいい?」
あの人魚の妹であり、セイの友人でもあったという少女を望みどおり返してやることはできない。死者は還らない。
「世の中には、死人も蘇らせることのできる魔導士もいるらしいが……」
「じゃあ、その人を連れてくればいいんじゃないか!」
イナミの言葉にトミテが顔を輝かせた。
世界には聖女と呼ばれ、自らの血肉を神に捧げることで様々な奇跡を引き起こすことのできる術者がいる。
しかし、その提案をボウは魔導士として否定した。
「無理だと思うよ。蘇生術の条件は、死んだ直後で肉体の復元が可能だとか、かなり厳しかったはず」
「死んだ直後って……街に怪異が起き始めてからもう何か月も経ってるわよ?」
「だから、どんな魔導士にも蘇生は無理だろうね」
肉体も魂もすでに残っていない。まったくの無の状態から生命を蘇らせるなんてできるはずもない。
「……やっぱり、俺が行くよ。彼女を説得して街から手を引いてもらう」
「セイ」
「これは俺の罪だ。だから俺が決着をつけなきゃ」
思いつめた表情のセイをタマオたちが案じる一方で、ボウは手厳しい言葉を告げる。
「心がけは立派だけど、それで君は彼女に手をかけさせて、彼女まで罪人にするの?」
「!」
「……」
「……容赦ねーなお前」
トミテがぽろりと感想を口に出す以外、彼らは二人に声をかけられない。
八方塞がりになってきたところで、室内に重苦しい沈黙をもたらした張本人であるところのボウは小さく手を挙げた。
「一つ、提案があるんだけど」
◆◆◆◆◆
海岸線に夫と並んで黄昏の海面を見つめながら、ウルキは昨夜のことを思い返していた。
「ボウは大分性格が変わって来たわね」
「本来の気質を取り戻し始めたということだろうな……。はじめはどうなることかと思ったが……」
頷いたイナミは、途中で言葉を濁す。この一件が無事に解決できるかどうかはまだわからない。
今回晨星郷を襲った怪異は、イナミたちの想像を超えて複雑な事情を持っていた。魔獣退治のように、剣で敵を倒しておしまいと行かないのが辛いところだ。
しかしボウは、魔導の知識から“揺蕩う闇”の正体を突き止めた。
「この調子で人魚の一件も上手く解決できればいいが……」
「……難しいわね」
ウルキは目を伏せる。死んだ者に関わる話はいつも辛く、物悲しい。二度と取り戻せないのに、忘れることもできない。
「準備できたよ」
ボウとタマオ、トミテとセイが薬草園の方から歩いてくる。
今夜で決着をつけたい。ボウの話を聞き、一同は昼のうちに人魚と対面する準備を済ませ、仮眠をとっていた。
事情が事情であるだけに、街の者たちにはできるだけ知られたくない。事を起こすのを夜にしたのはそのためだ。
事情とはセイの事情であり、これから「あること」をするボウの事情でもある。
やってきた四人を振り返り微笑むと、ウルキは来たばかりの彼らに一度戻るよう促す。
「まだ日が落ちるには時間があるわ。今のうちに少しお腹に入れましょう。干し肉を挟んだパンを作ってあるわ」
「ありがとう、ウルキ!」
タマオが喜んでトミテとセイの背を押し元来た道を戻る。
一人残ったボウはいつも通り腰に剣を佩いているイナミを見上げた。
「……今夜はよろしくね、イナミ」
「……ああ。任せておけ」
◆◆◆◆◆
様々な想いがもつれたように絡み合い、全てを覆い隠す夜と、その闇を暴く月がやってくる。
宵闇に輝くような白い砂浜に、ボウ、タマオ、イナミ、トミテ、そしてセイの五人は足を踏み入れた。
昼も夜も、見慣れたはずの海の空気が今日は少しだけいつもと違う気がした。
「……人魚が近くにいるからだね」
「わかるの? ボウ」
「うん。段々と思い出してきたよ。でもまだ足りない。あともう少しなんだ。だから……」
ボウは暗い海面に映る月を静かに眺めた。
その手には竪琴が握られている。
昼のうちに、セイの実家の楽器店で購入してきた品だ。
今の楽器店の主人夫妻……セイの両親が子どもの頃から蔵で長く眠っていたらしい。
青い幾何学模様の装飾が美しい見た目に惹かれて何人もの音楽家が手に取ったが、その誰もが扱いこなせずに返品を繰り返してきたという曰く付きの品だ。
まつわる話も不吉な竪琴を、街に厄介者扱いされようとしている魔導士の少年が爪弾く。
ピンと張られた弦が弾かれて奏でた澄んだ音が、ゆっくりと空に溶けていく。
「ボウ」
セイが自分の竪琴を持ち直しながらボウの名を呼んだ。
「準備はできた? セイ」
「……うん」
「じゃあ……行くよ。みんなも準備しておいて」
セイ、そしてボウは竪琴に指をかける。
一瞬の緊張の後、それを破るように二人で一つの曲を奏で始めた。
銀色の月光に照らされ光り輝くような弦の振動が、無限の音の連なりを生み出しては消えていく。
「――」
「綺麗な曲……」
タマオが無意識のように囁いた。
ボウがセイに教えたのは、魔族を呼び寄せるためのもの。
人の耳にはわからぬ音も捉える彼らにとって、呼び声のように強く響く誘いの旋律。
ボウは慣れた様子で、セイは額に冷たい汗を浮かべて緊張した表情で奏でる。
その呼び声に応えるように、凪いでいた海面が騒めいた。
「――来るぞ!」
いち早く反応したトミテが剣を振るい、襲い掛かってきた水の魔獣を斬り払う。イナミが逆側を守る。
月光を隠すように空を雲が多い、夜の闇が一段と深くなる。
鈍く煌めく荒れた波の向こうに白い人影。
――妹を殺された恨みから、セイを狙っている人魚だ。
「……!」
「今は大人しくしてて」
苦し気な顔で、何か言いたいのに言葉が出ない。そんなセイに、ボウは言い置く。
「まずは僕の記憶を完全に取り戻すことが先決」
魚の尾を使い悠々と波間を泳ぐ人魚の姿が近づく。彼女の周囲を覆う黒い靄と一緒に。
海面から突き出された腕が砂浜のセイたちに向けられ、高波が彼らを襲った。
「避けろ!」
ボウは叫び、セイをタマオたちの方へ押しやる。敵を倒したトミテとイナミがそれぞれタマオとセイの腕を引いて駆けだす。
ボウはただ一人砂浜で、自らを呑み込もうとする高波を見上げる。
人魚の戸惑いの表情と共に、ボウの周囲を以前のように黒い靄が包んだ。
「ボウ!」
頂点まで持ち上がり、次の瞬間落ちるように崩れた波の下に飲まれたボウの名を、タマオは悲鳴のように強く呼んだ。
◆◆◆◆◆
体中を引きちぎるような水の勢いの中、ボウは“揺蕩う闇”に呼び掛ける。
(おいで)
人魚の憎悪から離れた黒い靄は、暗い海中を仄かに輝きながらボウのもとへと泳いでくる。
(お前は僕と縁深いものなんだろう?)
背徳神の魂の欠片。それが自分にとってどんな意味を持つのかはよくわからない。
けれど、雨の中で退治した魔獣が纏っていた“揺蕩う闇”を取り込んだ瞬間、ボウには失くしたはずの魔導の知識が蘇ったのだ。
同時に直感した。
自分と“これ”は惹きあうものだ。
だから。
(僕の記憶を返してくれ)
ボウは決意した。
もう一度“揺蕩う闇”を取り込み、今度こそ完全に記憶を取り戻す。
今は断片だけとなった記憶が完全になれば、魔導を使うことができるだろう。この事態を打開する術も見つかるかもしれない。
(僕が何者であっても、お前が背徳神であっても構わない。――一緒に行こう)
闇をその身に取り込むことを、ボウは恐れなかった。
恐れる必要はないのだと、何処かで知っていたのだ。
生き物のように蠢く闇は束の間戸惑うように動きを止めたが、次の瞬間、意を決したようにボウの身を包み込む。
ようやく親を見つけた迷子がその胸に飛び込むように。
海中のボウを中心として、白と黒の光が溢れた。