5.赤と青の挽歌
「ボウ!」
波に呑まれた人の名をタマオが呼ぶ。イナミとトミテは次々と襲い掛かる魔獣を斬り伏せるのに必死でボウの許まで行くことはできない。
緊張に胃を炙られながら海を見つめるセイの目に、白い影が映った。
「……っ」
「返して」
息を呑むセイの腕をタマオが引く。
「人魚……!」
上半身は僅かな装身具と長い髪が海藻のようにまとわりつく人間の裸体。下半身は翡翠に輝く鱗で覆われた魚。
美しい面差しをしているが目元には厚い隈が浮かび、やつれている。
その暗い目は、目の前のタマオではなく彼女の背後に庇われているセイへと向けられていた。
「あの子を返して」
「……あ」
何かを言わねば、そう考えるセイの唇は、人魚の次の言葉で凍り付く。
「どうして、あなたからあの子の気配がするの……?」
言えることなどない。
「……ごめん」
目の前の彼女ではなく、彼女にそっくりな友人の顔が瞼の裏に浮かび、セイの胸を刺す。
届かないと知っているのに、零れ落ちる言葉。
「ごめん、ごめん、――」
妹の名を呼んだセイの態度に、人魚はぴくりと細い眉を跳ね上げた。
彼女も多分わかっている。返してと願う妹が、もはやこの世にいないことを。
「……やっぱり」
小さく呟き腕を振る仕草。それだけで彼女の背後の海面が不自然に持ち上がって高波となる。
「おい! やばいぞ!」
魔獣の攻撃を剣でいなしたトミテが警告する。
妹が帰って来ないと知った人魚は何もかも諦めて、セイを波に飲み込む気だ。
「タマオ、逃げろ!」
「そんなこと言っても……!」
街の方へ向かおうとする魔獣を斬り払いながらイナミが言うが、セイの腕を引いたタマオが海岸を抜けるより波が砂浜を浸食する方が速い。
「くそ……っ! ボウの奴は何やってんだよ! あれだけ自信満々だったくせに!」
毒づくトミテの耳に、先程海中に引きずり込まれたはずの魔導士の声が響いたのはその時だった。
「お言葉だね。ちゃんとやってるよ」
「ボウ!?」
どこから聞こえるんだと探そうにも見当たらない。そしてそんな状況でもない。
「きゃああああ!」
「タマオちゃん! イナミ! トミテ! セイ君!」
離れた場所で状況を見守っていたウルキが血相を変える。
タマオの派手な悲鳴と共に、四人は人魚の待ち受ける海の中へと飲まれた。
◆◆◆◆◆
「きゃああああ! ……って、あ、あれ?」
「タマオ! 口を開けていると水が入――……何?」
タマオが、イナミが、トミテが、セイが、海水の中で目を開けて呆然とする。
呼吸ができる。視界は真っ暗で上も下もわからないというのに、服や肌が濡れた感触はあっても溺れていない。
「一時的に呼吸ができるようにしたよ。後でずぶ濡れになるのは我慢して」
「ボウ!」
暗い海中にぼんやりと灯りが生まれたと思ったら、それはお互いの姿だった。これも魔導の一種で、水中での呼吸と同じくボウが互いの位置をわかるようにしたのだと言う。
「お前、記憶は戻ったのかよ!」
トミテの問いに、ボウは静かに頷く。
「うん。だからもう、大丈夫」
「本当か?」
イナミが見つめる先のボウは、口調こそいつも通りだがその表情は酷く険しいものだった。
どこか人間離れした雰囲気は、常に険しい表情をしていたあの人魚と近しいものを感じる。
「……大丈夫だよ、イナミ。心配をかけてごめん」
もしもボウが、“揺蕩う闇”を吸収して記憶を取り戻すのに失敗し、狂ってしまったら。
その時は自分を殺してほしい。
イナミはそう頼まれていた。
ボウは記憶を取り戻したい。けれど背徳神の魂の欠片、邪神の憎悪と憤怒を引き継いで魔獣となり周囲の者を襲うわけには行かない。
だからこの作戦がもしも失敗したら、被害を出す前に殺してほしいと。
――頼むよ、イナミ。
――……わかった。だが、俺もお前を殺したい訳じゃない。お前が無事に記憶を取り戻せるよう、信じている。
ボウは賭けに勝ち、無事に記憶と魔導を取り戻した。
「お前は……」
これまで人形のように冷たい感情しか見せていなかった人魚が、ボウを見て戸惑った声を上げる。
当のボウは人魚の様子に構わず指揮棒のような魔導の小杖を振るい、海中に無数の光る泡を生み出した。
人の顔程もあるその泡の球の中に、それぞれある光景が映り込む。
――綺麗な音ね。もっと聞かせて。
――君は?
いつも寝台の上で過ごしていた病弱な少年が、近くの砂浜で竪琴を弾いていた時に人魚の少女と出会う光景。
他の子どもたちのように外を元気に走り回ることができない少年にとって、人魚の少女はたった一人の友人だった。
――セイは街の外に出たことある?
――ないよ。街の外どころか、街はずれの森に行くのだって一苦労だ。
――じゃあ私と一緒ね。私もこの海から出たことないの。
――いつか、身体が治ったら、街の外に行きたいな。
――その時は、私も一緒に連れて行ってね。
砂浜で綺麗な貝を拾い集めて贈り合う。捨てられたごみを見て文句を言う。祭りに浮かれる街の光景を海岸で二人眺めやる。
移り変わる時を共に過ごす。楽しそうな二人の姿がいくつもの泡の中に映し出されていく。
けれどそんな平穏な日々は永遠には続かない。
――セイ、どうしたの? 最近滅多に来ないのね。
――……うん。近頃なんだか調子が悪くて。またしばらく来れなくなるかも。
――顔色が悪いわ。無理しちゃ駄目よ。
――元気になるまで、私はこの海で待ってる。
いつしか少年の容態は悪化して、ほとんど寝台から起き上がれなくなった。
たまに体を起こしては部屋の窓から海を眺めて寂しそうにしている息子を、両親は哀し気に見守っていた。
セイの症状は日に日に悪化する一方で、意識を取り戻す時間が徐々に短くなる。
医者にはもう覚悟した方がいいと言われ、高熱でうわ言を発する息子に何もしてはやれないのだと、看病にやつれた両親は人の身の無力さをただ噛みしめる。
ある日海沿いを通りがかり、そこで大きな魚のような生き物が海面を跳ねるのを見た。
魚? ――否。あれは人魚。
長年友達のいなかった病弱な息子がやっとできた友人だと報告してきた少女。
街の子どもたちと遊べない息子に友人ができたことを、両親は喜んでいた。喜んでいたはずなのに。
――だあれ? セイじゃないの?
――ごめんなさい。でもこれも、あの子のためなの。
思いつめた顔立ちの女性。ボウとタマオも会った、楽器店の奥さん。
波打ち際から砂浜に乗り出した人魚の少女を見下ろすその手に、武骨な鉈が握られている。
ごめんなさい、と悲痛な声音で繰り返しながら、彼女は鉈を振り下ろす――。
夢から覚めるように、その光景を映していた泡が割れる。
「セイ、あなた……!」
「……」
タマオは咄嗟にすぐ隣にいる現実のセイの方を見た。一緒に波に呑まれた二人は、海の中でもタマオが手を離さなかったために今も傍にいた。
友人である人魚を食べたと言ったセイ。
その言葉だけ聞くとまるで彼自身が友人を殺したかのようだったが、真実は病身の息子の身を案じた親が、彼を生き永らえさせるために人魚を殺したのだった。
息子の友人だと知っていた少女を。
「……両親は俺のためにあいつを殺したんだ。だから全部、俺のせいなんだ」
それは己の罪だと、セイは言う。
だが彼も最初から現実を受け入れて割り切っていた訳ではない。
無事に峠を越して起き上がれるようになったセイはすぐに海へと向かった。
二人で決めた合図を送れば、友人の少女はすぐに来てくれるはず。
だけど来ない。
あの子がどこにもいない。
しばらく友人を探し回り、やがて自分の身に起きた奇跡と友人がどこにもいない現実の因果に辿り着くと、セイは発狂せんばかりに両親に掴みかかった。
――どうして!? どうして、そんなことをしたんだ!? そんなこと俺は頼んでない!!
――あいつを殺してまで生きるなんて、そんなことなら、あのまま死んだ方が良かった!!
その瞬間、いつも優しかった母親が真っ青になって手を振り上げた。
頬に走る衝撃と痛み。遅れてやってくる熱に叩かれたのだと気づく。
――この親不孝者!
一瞬鬼の形相となった母親は、しかしすぐに泣き崩れた。
――私たちがどんな気持ちで……!
日に日にやつれ、死に向かう息子を彼の親はどんな気持ちで見守っていたのか。
何をしてでも息子を助けたかった。
例え罪のない少女を殺してでも。
その少女が息子の大事な友人だと知っていても。
泣き崩れる母親と無言でその肩を抱く父親の姿に、セイはただ途方に暮れる。
両親との亀裂が決定的になり、たった一人の友人を失い、人魚の肉を口にした彼はもう、人の世界にも戻れはしないのに。
――あの子を返して。
返せるものなら返したい。この命をあの子に返したい。
誰よりもそう願っているのはセイ自身だったのだ。
けれどそれは、決して叶わない願い。
例えセイを殺すことができたとしても、死んだ人魚の少女は還って来ない。
「ああ……!」
荒れ狂う海水の中で人魚が唇を噛みしめ両手で顔を覆う。
その周囲を、再び黒い靄が包む。
「おい、あれ!」
「“揺蕩う闇”……!」
「ボウが全部吸っちゃったんじゃなかったの!?」
「いや流石にそれは無理だって」
背徳神の魂の欠片はかつて創造の魔術師・辰砂の手によって無数に砕かれ今も地上に息づいている。
あらゆる形であらゆるものに宿り、背徳神の憎しみと狂気を伝えてくる。
「このままだと、あの人魚が魔獣になっちまうんじゃないのか?」
「そうだね」
セイはボウの方を見た。魔導士を名乗る少年の雰囲気が、先程までと大きく違うと感じるのは、彼の中に取り込まれた人魚の魔力だろうか。
「……止める方法はないのか?」
「一つだけある」
セイの問いに頷くと、ボウはいつも身に着けていた眼帯を外す。
「ボウ、目が……!」
その下から現れた色彩に、タマオたちは驚愕し言葉を失った。
遭難して海岸に流れ着いたボウを拾った日、彼は最初から片目に布を巻いていた。
怪我をしているなら手当てをしないといけないと布を外させたその時に、彼らはボウの左目が右目と同じ、なんの変哲もない青い瞳であったことを確認している。
だが今、眼帯の下から現れたボウの瞳は、紅玉のような深紅に染まっていた。
妖しい程に美しいその色が、彼を人ならざるものへと見せている。
「タマオに頼みがあるんだ」
「な、なに?」
改まって名を呼ばれ、タマオはらしくもなく動揺した。そして次の言葉に更なる動揺が重なる。
「君の身体を貸してほしい」
――後にトミテは語る。
多分ここが海中でなければ、その言葉で反射的にボウを殴っていただろうと。
なお、別にボウは疚しい意味で体を貸せと言った訳ではないことはすぐにわかった。
「僕たちの言葉はきっとあの人魚には届かない。でも、あの子の言葉なら……!」
◆◆◆◆◆
光る泡球に映し出された光景を拒絶し、ただ顔を覆って全てから目を逸らそうとした彼女の耳に聞きなれた声が響く。
『お姉様……』
はっと手を外し視線を上げると、海中を漂う人間の少女の姿に亡くした妹の姿が重なって見える。
「――!」
彼女は妹の名を呼んだ。
少女の肉体を使い、妹はほんのりと微笑む。困ったような笑顔が、今ではこんなにも懐かしい。
あの子が人間と時々会っているのは知っていた。所詮寿命も何も違う種族なのだから情を移しすぎないようにとは言ったけれど、まさかこんな結末を迎えるなんて思いもよらなかった。
それが人間たちにとっても同じことだと、不思議な気配の魔導士が術によって伝えてきた。
目の前の少年を責めても仕方がない。わかっている。しかし、そんな簡単に心の整理はつかない。
妹を地上で探し回っている時からたびたび語り掛けてきた黒い靄に怒りや憎しみの感情を任せて狂ってしまいたい。そう思っていた。
『ごめんなさい、最期まで心配かけて』
「まったくだわ……」
暗い海水に交じり見えない涙が後から後から溢れてくる。喉を詰まらせる彼女に、妹の魂は言う。
『どうか、セイを責めないで。』
隣にいる少年の困惑顔に目を遣りながら願う。
「……」
妹を食らった少年に対する憎しみは確かにある。
だが、海岸近くの入江でたまに聞くことのあった竪琴の音は、天上の音楽のように美しかった。
『体はなくしてしまったけれど、私の魂は、セイと一緒にどこまでも行くから』
一度離れた手を少年と繋ぎ直し、肉体の枷を離れた魂は無邪気に笑う。
『ずっと外の世界を見て見たかったの。でもいつかはきっと、私の故郷であるこの海に還るわ。長い長い旅に出て、少し、帰るのが遅くなるだけ。どうかわかって』
「あなたって子は……!」
これが人間の魔導士の見せるただの幻影である可能性はもちろん考えた。
けれど、この期に及んでこんな頓狂な頼みをするのは間違いなくあの子しかいない。
「そんなことを言われたら、もう怒れないじゃない……!」
人間たちは卑怯だと彼女は思った。
死者は何もできない。死者には何もできない。遺された者たちにできるのは復讐か狂うことぐらいだというのに、それすらも許さない。
セイが友人の名を呼ぶ。
喪われた人魚の少女はタマオの腕を通じて海の中でセイを抱きしめた。
生きている間はこんな風に近く触れ合うことはなかった。
種族の違いはそのまま世界の違いだった。お互いの肉体に流れる血の熱さを感じることもないまま、突然全ては失われた。
「……ごめん」
海水に滲む涙を振り落とそうとするかのように、セイがきつく目を瞑る。
「ごめん、俺は……!」
『もう、いつまでも泣かないでよ。――連れて行って、セイ。あなたと同じ景色を、私も見てみたい』
彼女は笑う。恐怖も苦痛も悲しみも、何もかもを呑み込んで。望まぬこととはいえ自分が置いて行ってしまった者たちのために、綺麗な想いだけを伝えていく。
「うん……!」
セイが泣きながら頷いたのが、魔導の終わりを告げる合図だったようだ。
最後の会話を見守っていたボウが静かに赤と青の瞳を閉じる。
黒い靄を追い出すように、海中を白い光が包んだ。
◆◆◆◆◆
――人魚を妹の魂に説得してもらった三日後。
ボウたちは再び晨星郷の評議会が置かれている城に向かうための道を歩いていた。
先日の四人に加え、今度はセイも一緒だ。
街を襲った怪異について、評議会に報告しボウの処遇と共に対処を考えてもらうためだ。
セイの表情は沈みがちだが、これまでのような追い詰められた光はない。
どんな結果になったとしても、受け入れるという覚悟があった。
足取りの重さに反して道のりは短く、五人はすぐにタタラを始めとした評議会の面々に引き合わされる。
晨星郷の巫女たるヨウコウも、今回は最初から同席してボウの報告を待っている。
他の四人より一歩前に出たボウは、落ち着いた語り口で今回の出来事のあらましを説明し始めた。
「三か月ほど前に、海で大きな嵐があったことをご存じでしょうか」
「ああ。この街にも多少の被害が出た」
「今回晨星郷を襲った怪異は、その時に亡くなった人魚に関係するものです」
え?
セイの事情を含め全て真実を説明すると思っていたタマオたちは、ボウの言葉に意表を衝かれる形となった。困惑を表に出さないよう、四人は必死で耐える。
ボウはしれっと、如何にも誠実に話をしていますと言う顔で嘘八百を並べ続ける。
「人魚の遺体が流れ着いたのが、このセイの家がある街の北東部です。その後、亡くなった人魚の身内が家族を探しに来たために、怪異と呼ばれる様々な異変が起こり始めました」
議会の面々はボウの滔々とした語り口に注目しており、幸か不幸か目を白黒させている四人には気づかない。
「身内を探す人魚は“揺蕩う闇”に付け込まれ、どうも魔獣へと変化する寸前だったようです。我々は魔獣に狙われていたセイからその話を聞き、人魚の説得に成功しました」
「それでは、もう街に怪異が起こることはないのだね?」
「それはどうでしょう」
おい。
タマオたちは今すぐボウを問い詰めたかったが、理性を総動員して我慢する。
せっかく良い流れになりそうだったところに水を差され、議会員たちがざわつく。タタラは腕の一振りでそれを宥めると、ボウに話の続きを促した。
「原因となった人魚はもう去ったのだろう。何故まだ怪異が起きると?」
「人々の心が乱れているからです。“揺蕩う闇”は“黒い星”と呼ばれる背徳神の魂の欠片。人々が心を乱せば、その隙間に付け入ってくる」
「では、真の意味で街を元に戻すにはどうすればいい?」
それがボウに本来与えられた役目だろうと、タタラが無感情に追及する。
ボウの方も動揺一つ見せず、淡々と意見を口にした。
「僕は、街を挙げての慰霊祭を執り行うことを提案します」
「慰霊祭……」
「はい。亡くなった人魚をはじめとする、海で死んだ者たちの魂を慰めるための祭りです。怨霊から魔獣へ変化しそうな魂を鎮め、鎮魂の儀式を執り行ったというけじめをつけることで、人々の心に平安を取り戻したいと思います」
「それは良い考えですね」
タタラより先に、巫女が反応する。
「ヨウコウ様」
「良いではありませんか。どうでしょう、皆さん。ボウ殿の言う通り、現在晨星郷に必要なのは、魂鎮めの儀式による『区切り』だと私は思います。“揺蕩う闇”の影響が多少残っても、それは残滓に過ぎずゆっくりと消えていく。そう説明すればいい」
不安や恐れと言った感情に頭の中だけで区切りをつけるのは難しい。
だが、慰霊祭という形を用意することで、この一件はもう終わったのだと皆に印象づけることができる。
「――良いだろう」
ヨウコウの説明も聞き、タタラはついに頷く。
「慰霊祭を執り行い、怪異の鎮静を狙う。その後、大きな問題が起きなければ、ボウを無事に晨星郷の住人として認める」
◆◆◆◆◆
「とりあえず怪異の件もボウの処遇も一段落しそうね。良かった……!」
帰り道、タマオは大きく胸を撫でおろす。
「本当に……良いのか?」
黄昏の光を浴びながら、セイはまだ不安そうな顔をしていた。
「君たちの詳細な事情を話してもいいことなんてないだろう? もう誰もどうにもできない過ぎ去った問題について話しても、無用な混乱を招くだけだ。これから君にできることもないんだし」
「それはそうなんだけどさ……」
セイが死んでも友人の人魚は還らない。取り戻せない。家族のもとに返してやることはできない。
「人はいつか必ず死ぬよ。それを止める術がない以上、僕たちは、どうにかしてその死に向かい合わなければいけない」
セイといくつも年齢の変わらぬ少年にも関わらず、今のボウは遥かな時を生きた老人のような表情をしていた。
「君も彼女の死に向かい合うんだ、セイ。それが残された君の責任だろう」
「……そうだな」
四人は途中の道でセイと別れ、タマオの薬草園に戻る。
その道すがら、イナミはボウに尋ねた。
「さっきの話、本当はセイのためなんだろう? ……事情を話せば、セイが責められる。最悪の場合、議会はセイを人魚族に差し出して街の平穏を買うかもしれない」
「ええ!?」
そんなことをまったく考えていなかったというタマオが声を上げる。
ボウは静かに微笑んで、イナミの発言を半分肯定、半分否定した。
「確かにその可能性は考えた。でもセイはもう不老不死という罰を受けているし、それがある以上彼を殺して差し出すのは無理。……そういう混乱が長引くのを避けたかったのは、結局平和に生きたい僕の都合」
「……そうだな。それでいいだろう」
人魚の一件は片が付いた。慰霊祭によって街の人々の気持ちも落ち着くことだろう。
これ以上セイにしてやれることがないのは、彼らも同じだった。
――評議会は手際よく準備を進め、三日後にはボウの提案通り慰霊祭が行われることとなった。
突貫であることと慰霊祭という性質からあまり派手な騒ぎにはならないが、住民たちは思い思いの絵を描いた灯籠を持ち寄って海へと集まる。
「これだけの数をよくこんな短時間に用意できたわね」
「テンセンおじさんに感謝しないと」
ボウとタマオに色々と助けられた雑貨屋の店主は、同業者と協力して慰霊祭に必要な諸々の準備を協力してくれた。
タマオの手にも、木枠に彼女が素朴な花の絵を描いた紙を貼り、中に蝋燭を入れた灯籠が握られている。
「じゃ、僕は行って来るよ」
「ええ」
街の広場に造られた壇上で、ヨウコウが慰霊祭の意義について穏やかに人々に語り掛ける。
怪異の鎮静を望む人々は厳粛な面持ちでそれを聞いていた。
「では、これから鎮魂の灯籠に火入れを行います。――ボウ殿、お願いしますね」
巫女に名を呼ばれて壇上に上がった魔導士の少年の姿に、ボウを知る者も知らぬ者もざわざわと声を上げた。
ボウは壇上で人々に向かって一礼すると、片手に握った魔導の小杖をそっと振る。
「わぁ……!」
次の瞬間、晨星郷に静かに青い雪が降り始めた。
否、それは雪ではなく、青い炎。
「なんだこれは……!?」
「綺麗……!」
「触っても熱くないぞ!」
ふわりふわりと、雪か、あるいは蛍の光のように、光が空から降ってくる。
そして広場に集った人々の持つ灯籠の中に宿ると、ぼわりと燃える青い炎へと変化する。
宵闇の街に次々と青い灯が灯され、世界を照らしていく。
「さぁ、皆さま。灯籠を海へ流しに行きましょう」
ヨウコウの言葉に、見慣れぬ魔導に浮足立っていた人々も我に帰ると、ゆっくりと海に向かって歩き出す。
海岸へ辿り着くと、順番に自分が持ってきた灯籠を流し始めた。
無数の青い光がゆらゆらと波に運ばれていく。
「……なぁ、あれ」
ボウたちもしばらく流れていく灯籠を見守っていると、トミテが遠くの海面を見ながら声を上げた。
「あの光は……何だ?」
「きっと人魚の一族だよ。向こうも僕らと同じようなことをしているんだろう」
「そっか……」
例え種族が違っても、死者に対する弔いの念は同じ。
遠く、けれどこの岸から見えるほどには近く住まう、晨星郷の隣人たる人魚たちが慰霊を行っている。
風に乗って優しい旋律が響き始めた。
「……竪琴だな」
「セイが弾いてるんだわ」
とある人魚の少女が愛した旋律を、灯籠の光と共に海へと流す。それは弔いの音。声にできない懺悔。
海上を流れていく青い光の美しさに見惚れながら、その竪琴の音が天に届くように彼らは祈った。
◆◆◆◆◆
まだ夜も明けきらぬ空の下、一人の少年が旅支度を整え墓標もない墓に参っていた。
「本当に行くの?」
「うん」
慰霊祭が終わり、セイは晨星郷を出ることをボウたちに伝えていた。
あまり大ごとにはしたくないという本人の希望を汲んで、ボウとタマオの二人だけが、ひっそりと見送りに訪れる。
その場所は海を見晴らせる小さな丘の上。季節の花がとりどりに咲く――人魚の墓。
友人のことがあってから両親とほとんど話していないセイが、それでも一度だけ言葉を交わして聞いたという、彼女の亡骸を埋めた場所だった。
決して見つけられてはいけないその死体を、こんな美しい景色の下にセイの両親が埋めた理由を推測はしても、誰も口にできない。
両親は他者の命と引き換えに息子の命を繋ぎ止めた。
その代償として、永遠に息子を失う。
セイはもう晨星郷には二度と戻らない。
「俺がすぐ見える場所にいたら、あの人の心をまた乱しちゃうよ。だから……」
両親が生きている間も、人より寿命の長い人魚が生きている間も。
セイはこの街に近づかないことを自らに課した。
そういう形で、二度と取り戻せないものに決着をつけたのだ。
家族も友人も人間である自分も全てを失い、この先永い永い時を独りで生きていくことを――。
「でも、あなたの両親は――」
「タマオ」
言いかけたタマオをボウが止めた。
セイだってわかっていないはずがないのだ。それでももう彼は決めてしまった。
楽器店を営む両親からかつて送られた竪琴だけを手に、少年は生まれ育った街を旅立つ。
踵を返して背中を向けながら、ひらひらと手を振って何でもないことのように頼んだ。
「俺はいなくなるけど、うちの両親とはまぁ同じ街の住民として仲良くしてよ」
「そうするよ」
「……ありがとうな、色々と」
徐々に遠ざかる背をボウとタマオはやるせない表情で見送る。
晨星郷に一人の少年がやってきた年、一人の少年は去った。
「寂しくなるわね」
「……僕らにできるのは、彼の道行に幸あらんことを祈るくらいだ」
そうして、しばらくぼんやりとその場に佇んでいた二人は、セイと入れ替わるように丘の上にやってきた壮年の男に驚く。
「セイはもう行ったのかね」
「タタラ様。どうしてここに?」
「楽器店の夫婦から事情を聞いたものでね。見送りには間に合わなかったようだな」
「あー……」
セイの方はボウがあれこれ手を回したが、その両親までは気に掛ける余裕がなかった。だが罪の意識に苛まれ続けていた彼らは、タタラに懺悔していたらしい。
「まぁ、その、……セイ程の竪琴の腕前なら、凄腕の吟遊詩人としてそのうち噂の一つも聞きますよ」
「そうだな。たまには他の街で集めた罪のない噂の一つ二つ、楽器屋の主人夫妻に教えるのもいいだろう。……ところで」
いくつかの皺が刻まれつつもまだまだ精悍な印象を失わないタタラの目が、ボウを捉える。
「噂と言えば、こんな話が隣町の港から入ってきた。どうも二か月ほど前に航海中で色々と事件があった船の船員の証言らしい」
「二か月前?」
「……」
ちょうどボウが来た頃だわと反応するタマオの横で、ボウはいつも通りのつまらない顔を貫いている。
「ああ。大嵐で乗客に犠牲が出てもめたところで、残りの航海の無事を願って、乗船していた魔導士の少年を一人、生贄として海に投げ込んだという噂だが」
「そ、それって……」
タマオは思わず並んで立つボウを見上げる。
「その後、少年はどうなったんだろうな?」
「さぁ……普通なら死んでるところでしょうが、もしその少年が凄腕の魔導士ならなんとか命を繋ぐために生命機能を落として無事に陸地に辿り着き、そこで親切な人々に拾われて今はそれなりに平和に暮らしているいるかもしれませんね」
「そうだな」
「ボ、ボウ……」
ボウがタマオたちに拾われた際に記憶を失っていたのは、生命維持のために自ら身体機能の大部分を封じて一時的に仮死状態になった名残だった。
黒い星を呑み込んで色々と思い出してからは、自分はよくよく「海に投げ込まれる」状況に縁があるようだとボウは溜息を吐いた。
「……人には色々な事情があるものだ。しかし、辛い目に遭った者たちなら、その後は平穏に生きてほしいものだ」
「……ええ」
「――そうですね」
セイのことか、ボウのことか。タタラの言葉に二人は軽く驚きながらも頷く。
日が完全に昇ろうとしている。
海辺の平和な街の一日は、今日も穏やかに始まりを告げようとしていた。
◆◆◆◆◆
竪琴を片手に、セイは銀髪をなびかせてそっと背後を振り返る。
病弱な頃は永遠に出ることはできないと思っていた街が今は少し遠い。
健康な足は前に動かし続けるだけで呆気ない程簡単に、彼と故郷の距離を引き離す。
体の動きに、自らの感情がまだまだついていかない。
青と金の黎明に包まれた晨星郷は、二度と訪れることのできない桃源郷だ。
悲しい思い出が詰まった場所でも、再訪できないというだけでそこはあまりに狂おしい楽園へと変わる。
街を出なければという思いがあった。だが何処に行けばいいという具体的な目的地がある訳ではなかった。
ただただ、虚無と寂寞だけが彼と共に在る。
――かと思えた、が。
『寂しいの?』
突然の言葉にぎょっとして振り返ると、傍らにはいつの間にか黒い靄。
黒い三つ編みの少年の姿を模して語り掛けてくる、それは――。
『寂しいなら、僕と一緒においで』
――彷徨える星はいつか居所を見つけ、闇は、いつでも我らのすぐ傍に揺蕩う。
「揺蕩う闇、彷徨う星」 了