水心子正秀

すいしんしまさひで

概要

刀工・水心子正秀(初代)(『日本刀大百科事典』)

(※出典が直接確認しづらいものがあったので基本は『日本刀大百科事典』の記述に従いつつ他の資料から話の出所を確認できそうな資料名を添えていく。しかしあちこち細かい情報の出典が抜け落ちているので詳しく知りたい方は自分で資料を突き合わせて話を整理してほしい。場合によってはよくまとまっている特定の書籍一冊を参照したほうが良い場合もある)

水心子正秀は出羽国置賜郡置賜郷元中山(山形県南陽市元中山)諏訪の原の俗称“田中”において、寛延3年(1750)、鈴木某の次男として出生。幼名を三治郎と呼ばれた。
父を早く失ったので、母は兄・太兵衛と三治郎を連れ、本家の鈴木権次郎方に身を寄せた。
少年期になると、置賜郷赤湯新田(南陽市北町)の野鍛冶・外山某に入門したが、農具より刀造りにあこがれ、さらに置賜郡長井郷下長井村小出の吉沢三次郎について、鍛刀の法を学んだ。
そして刀銘を「鈴木三郎宅英」と切った。

この頃の話は水心子正秀本人が知人の高山彦九郎とやりとりした書簡から判明しているという。
下記の本である程度触れられているがもっと詳しい話を知りたい場合は『高山彦九郎全集』などを読んだ方がいいと思われる。

『日本刀襍記』(データ送信)
著者:川口陟 発行年:1943年(昭和18) 発行年:照文閣
目次:水心子正秀の手紙
ページ数:143~149 コマ数:74~77

仙台城下に行って、国包に学んだという異説もある。

(この国包に学んだという異説の出典は水心子正秀と門人である甲田正利との問答を記した『刀剣発徴』らしいが、『刀剣発微』が収録されている本や論文を全然見かけないので直接読むのは難しそうである。『羽皐刀剣録』の年譜でもこの説に触れているので刀剣の研究者の間では有名な資料のようだ)

その後、山形城下に帰り、名を英国と改めた。

明和八年(1771)、22歳の時いよいよ刀工として立つ決心をした。(『刀剣武用論』)

藩士の紹介で、武州川越城下の宮川吉英に入門した。
吉英は下原派の武蔵太郎安国の門人で、大村加卜の伝であった。それもさほど学ぶべきところはなかった。

長く滞在することもなく、山形に引き揚げた。その手腕がようやく認められ、安永3年(1774)、山形城主・秋元永朝に召し抱えられた。名も儀八郎正秀と改め、やがて水心子という号も用い始めた。
天明(1781)以後は、江戸へのぼり、日本橋浜町(中央区浜町)の秋元家中屋敷に定住した。

そして備前伝については石堂是一、相州伝については鎌倉の綱広に教えを乞うた。
さらに駿州島田に義助の子孫を訪ね、相州正宗相伝の系図や鍛法の秘書を譲り受けた。
そのほか備前の助平・吉平・一文字・国宗などの伝書も入手したという。

『水心子正秀全集 (刀剣叢書 ; 第1編) 』
著者:川口陟 編 発行年:1926年(大正15) 出版者:南人社
目次:刀劍實用論(武用論) 二卷
ページ数:128、129 コマ数:73

しかし、卸し鉄の法は見るところがなかった。偶然のことから、弟子の高橋正賀より教えられたともいう。
正秀がある大名から南蛮鉄を提供され、作刀を始めたが、割れて飛び散り、うまく行かなかった。正秀が留守中に、正賀が飛び散った南蛮鉄の破片を拾い集め、それで小ガタナを作ったところ、見事に出来た。正秀が帰ってきて驚き、訳を聞くと、南蛮鉄を卸して作った、と答えた。こうして正秀は正賀から卸し鉄の法を習得した、という伝説がある。

(この話自体は結構刀剣書で説明されている気がするが肝心の出典とされる書名がよくわからないのであえて割愛させてもらう)

新々刀の祖

正秀は卸し鉄の法を用いた、復古刀を唱導して、全国から無慮百名以上の門弟を集めた。
そして刀工史上に“新々刀”という一紀元を劃する大御所となった。

『剣工秘伝志』
『刀剣弁疑』
『刀剣実用論』
『刀剣武用論』
『鍛錬玉函』

などの著述によって、鍛刀術に与えた恩恵は大きい。

『水心子正秀全集 (刀剣叢書 ; 第1編) 』
著者:川口陟 編 発行年:1926年(大正15) 出版者:南人社

水心子正秀の墓に関するエピソード

水心子正秀は文政二年(1819)、古希を迎えると、天秀と改名、なお鍛錬に情熱を燃やしていたが、文政八年(1825)9月27日、享年76をもって、実りある生涯を閉じた。

本所御舟蔵前町(江東区新大橋二丁目)、西光寺に葬られ、門弟三十数人の連名で、壮大な墓が営まれたが、その後、火災によって焼壊した。
正秀の嫡孫・正次が焼け残った台石の上に、棹石を再建した。
それには「初世水心子天秀之墓 三世水心子正次之墓」と併記してある。

『刀剣雑話』
著者: 室津鯨太郎(川口陟) 発行年:1925年(大正14) 出版者:南人社
目次:八 正秀の墓地
ページ数:229~233 コマ数:138~140

万延元年(1860)年閏3月11日没の正次は余命いくばくもないと考え棹石再建のさい早めに自身の名を書き添えたと福永酔剣先生は推測している。

正次再建の墓も、大正十二年の関東大震災で焼壊し、かつ無縁になったので、壮大な台石も廃棄された。
それを悲しんで昭和16年、山浦真雄清磨建碑会の手によって、三たび建碑された。
それも戦後の墓地整理で、他の場所に移建されている。なお、正次再建の棹石が、犬塚宗秀研師の宅に保管されていたので、昭和40年、それを基にして新宿区須賀町、宗福寺に四たび建碑された。

『水心子正秀とその一門 復刻版』(紙本)
著者:黒江二郎 発行年:2021年(令和3) 出版者:雄山閣

ちなみに私がこうしていつも基本事項を参照している『日本刀大百科事典』の著者である福永酔剣先生はそもそも昭和16年に水心子と清磨の建碑を主導した人物の一人なのでこの『日本刀大百科事典』の記述は当事者・関係者の直接的な説明である。

作風(『日本刀大百科事典』)

初期作は、荒沸えのついた無地肌の地鉄に、荒沸えのついた乱れ刃を焼く。
中期作になると、肌のある、小沸えづきの地鉄に、直刃や五(ぐ)の目乱れをやく。
濤瀾乱れは、津田助広に迫るものがある。
しかし復古刀を提唱し始めると、刃文が地味になり、匂いの締まった直刃や小五の目を焼くようになる。

銘には「正日出」「天日出」とも切り、また銘の下に、「日天」を図案化した刻印を打つ。
精巧な彫物もあるが、それは本庄義胤の彫りである。

上記が大体『日本刀大百科事典』の解説で綺麗に整理されたものだが刀剣素人以下の初心者である我々向けに付け加えると、「津田助広」は江戸時代延宝頃の摂津国の刀工で、波のような刃文、「濤瀾刃」の創始者として有名な人物。

水心子正秀はこの新刀の名工・津田助広の「濤瀾刃」を目指してその模作にも優れていたが、そのうち復古刀のために方針を転換して自ら得意の「濤瀾刃」を打つのをやめ、備前伝に転換した。
「本庄義胤」は水心子の弟子の一人でもあり、父子二代の彫金師であるらしい。

作風や弟子との交流関係など詳しくは、直接水心子研究の書籍を読んだ方がいいと思われる。

水心子正秀の所有者として有名な人物は勝海舟?

勝海舟が実戦で使わなかった佩刀が水心子正秀であったという話は概説書やWEBサイト等に書かれているのだが今のところ私の方で文献資料を確認できていないので今後の課題。

歴史上の人物、特に幕末志士の佩刀事情などはその人物に関する研究所に一行二行説明されているだけということも多いのでこの件に関しては引き続き調査中とする。

偽物師疑惑

『刀剣雑話』
著者:室津鯨太郎(川口陟) 発行年:1925年(大正14) 出版者:南人社
目次:六 合名會社川部刀劍製作所
ページ数:213 コマ数:130

“「水心子は偽物師である」とは其何れの地方へ行っても、刀剣を愛好する古老が必ず一度は口にする言葉である、けれども私は其時毎に然らば何ぞ証拠ありたと反問するに、必ず証拠はない、之私の信ぜざる「口伝」である、得一上人の文伝なきものは信ずべからずであるから私は信じない、けれども何れの地方にでも古老は必ずいふ、して見れば「火なき所に煙は上らず」といふ事もあるから私は其実証を得たいと思ふ、水心子が先人の偽物を作ったといふ事は、今日の法律から言へば正しく罪人であるから証拠がなくてはならぬ、然し悲しい故ここに一つ立派な証拠が上って来た、即ち松平頼平子爵の「剣録」に下の如く記載してある。
水心子正秀津田助広の贋物を作る”

このように大正時代の古老が「水心子は偽物師である」と言っていたことが川口陟氏の著書から確認できる。
しかし他の研究者がそのような指摘をしていることはあまりなく、更に明治期の刀工が生活に困窮して他者の刀に偽銘を切るようになったという時代背景など、様々な事情が考えられる。

上の『刀剣雑話』のエピソードはどちらかというと水心子の腕前が鎌田魚妙の目利を欺いた痛快さの自慢であって、贋作を生業にした偽物師のニュアンスとは少し話が違うようである。

この件については他の本でどのように言われているか引き続き調査中。

調査所感

『刀剣雑話』に年表が載っているのでそれを簡易にまとめなおそうかなと思いましたが普通に大変すぎて挫折しました!(バァアアアアン)

川口陟先生は水心子の墓についての情報を集めたり水心子の子孫を探したり弟子の大慶直胤の子孫を見つけて大慶と水心子がやりとりした書簡を入手したりと水心子研究に非常に貢献された方です。

年表が見たい人は直接『刀剣雑話』等の研究書を読んだ方がいいですね。銘文を丁寧に読むことでこの年にこの土地にいたんだなーとかわかるようになります。川口陟先生はその年の大きな出来事や著名人の生没まで載せてくれてます。清磨が生まれたのが水心子64歳の頃とかも普通に載ってます。

勝海舟の刀とか偽物師疑惑とか微妙に気になる話があるけど調査が甘くて出典や進展を確認できなかったので水心子に関しては調査を地味にこれからも継続していきたいです。

刀工由来ということで面白エピソードの大概は普通に水心子研究の本の中にあれこれあるので、特にその手の本を直接読んだ方が参考になる刀です。

参考文献

『刀剣談』
著者:高瀬真卿 発行年:1910年(明治43) 出版者:日報社
目次:第十一門 新刀の名作 水心子の教育、水心子の首証文
ページ数:281~285 コマ数:165~167

『剣話録.上』
著者:剣話会 編(別役成義) 発行年:1912年(明治45) 出版者:昭文堂
目次:十一 新刀業物(上) ページ数:101 コマ数:60
目次:十二 新刀業物(下) ページ数:109 コマ数:64

『剣話録.下』
著者:剣話会 編(今村長賀) 発行年:1912年(明治45) 出版者:昭文堂
目次:四 北陸物新刀 ページ数:25 コマ数:18
目次:五 東山道の刀匠 ページ数:39 コマ数:25
目次:七 備前物 ページ数:47 コマ数:29
目次:二十六 竹屋寿竹著(察刀規矩) ページ数:254~257 コマ数:137、138

『刀剣一夕話』
著者:羽皐隠史 発行年:1915年(大正4) 出版者:嵩山房
目次:一 水心子正秀の功績
ページ数:117~126 コマ数:65~70

『刀剣雑話』
著者: 室津鯨太郎(川口陟) 発行年:1925年(大正14) 出版者:南人社
目次:八 正秀の墓地
ページ数:229~233 コマ数:138~140

『水心子正秀全集 (刀剣叢書 ; 第1編) 』
著者:川口陟 編 発行年:1926年(大正15) 出版者:南人社
目次:刀劍實用論(武用論) 二卷
ページ数:128、129 コマ数:73

『大日本刀剣史 下巻』(データ送信)
著者:原田道寛 発行年:1941年(昭和16) 出版者:春秋社
目次:水心子の發明と江戶の諸名工
ページ数:725~734 コマ数:373~378

『日本刀襍記』(データ送信)
著者:川口陟 発行年:1943年(昭和18) 発行年:照文閣
目次:水心子正秀の手紙
ページ数:143~149 コマ数:74~77

『原色日本の美術.21』(データ送信)
著者:尾崎元春、佐藤寒山 発行年:1970年(昭和45) 出版者:小学館
目次:一、日本刀概説
ページ数:238、239 コマ数:244、245

『新・日本名刀100選』(紙本)
著者:佐藤寒山 発行年:1990年(平成2) 出版社:秋田書店
(中身はほぼ『日本名刀100選』 著者:佐藤寒山 発行年:1971年(昭和46) 出版社:秋田書店)
目次:96 川部儀八郎正日出 ページ数:246

『日本刀大百科事典』(紙本)
著者:福永酔剣 発行年:1993年(平成5年) 出版者:雄山閣
目次:まさひで【正秀】
ページ数:5巻P85~87

『水心子正秀とその一門 復刻版』(紙本)
著者:黒江二郎 発行年:2021年(令和3) 出版者:雄山閣

概説書

『剣技・剣術三 名刀伝』(紙本)
著者:牧秀彦 発行年:2002年(平成14) 出版者:新紀元社
目次:第五章 幕末の志士 水心子正秀 勝海舟
ページ数:285

『物語で読む日本の刀剣150』(紙本)
著者:かゆみ歴史編集部(イースト新書) 発行年:2015年(平成27) 出版者:イースト・プレス
目次:第6章 脇差 水心子正秀
ページ数:150

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