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Episode.1
01: 橘 快人の呟き
――俺にとって、兄貴は光だった。
母の、そうだ。母さんの話をしよう。俺が13歳、いやもうすぐ14歳のときに俺は母さんを亡くした。事故だった。母さんは最後まで俺と会話をすることもなく、しかし微笑みながら静かに病院で息を引き取った。
俺は悲しんだし、途方に暮れた。なにせ、俺には母さんしか家族がいなかったからだ。父は俺が小さいときに離婚して消えた。写真はあるが印象はほとんどない。
これからどうするのか、俺はお医者さんが連れてきた市役所だから児童施設だかの大人に連れられて初めて母さんの親戚というものに会った。
母さんは一人立ちするときにほぼ絶縁状態になったと言っていたのでいたことすら、初耳だった。葬式だけは母さんの兄だという叔父が勝手に喪主となり形だけのものがあげられた。
まぁ俺は子供だったし、知識もないから任せる他なかったがせめて母さんの好きな曲くらい流してやりたかった。
そして俺の引き取り先は揉めに揉めた。母さんは貧乏ではないが裕福でもない家に生まれた。幼い頃に習い始めたヴァイオリンだけが特技で好きな事。
バブル時に始めたヴァイオリンも景気悪化と共に辞めるよう言われたが断固として続けたそうだ。音大に進みたいと望み、それに伴い留学を希望したが当然受け入れられるはずなく、家族係がこじれたらしい。
母さんは家出に近い形で独力で留学し、駆け出しのヴァイオリニストになった。その頃出会ったのが俺の親父。だが如何せんこの親父最低な男で浮気野だった。実際母さんも浮気の上で相手の奥さんを離婚させて結婚したと笑いながら言っていた。
だから母さんは浮気されて離婚を切り出されてもむしろ当然と思っていたそうだ。逆に略奪した元妻だった女性と友人になったと嬉しげに言っていた。俺からすればそんな最低な男を愛する辺り趣味を疑う。
そんなこんなで親父は何人もの女性をはらませた挙げ句に浮気して離婚を繰り返しているらしい。そんなで、母さんは身寄りもなく宛てもなかったが俺と共に離婚後、日本に帰り小さな楽団のヴァイオリニストとして生計を立てていた。ささやかだが音楽に溢れ幸せだった。
母がいなくなって俺の地獄は始まった。親戚中をたらいまわしにされた挙げ句、最も俺を忌まわしく思っていた(と思う)叔父一家に引き取られる事になったのだ。
叔父は母の形見であるヴァイオリン以外(それだけは譲らなかった)全て取り上げた。部屋はクソ生意気な3つ下の瑞希と一緒になり、あの王様ぶりは真面目に殺してやりたかった。
最初はイイコを演じたが父親の血のせいで青い目を持つ俺は徹底的にいじめられ、嫌われた。飯抜きなど日常茶飯事だったし、見えないところの暴力も精神的に嫌な嫌みや母さんの悪口も日々エスカレートの一方だ。
その上田舎の学校らしく1つ上の夕夏が仕切る学校で俺の居場所はあるはずもなく、本当に生きるのが苦痛だった。学校も日常も逃げ場も安堵する暇さえない。それは、言葉にするにはありふれていて、あっけないけれど、絶望するような苦しさだ。
だから、逃げた。夜中にこっそり抜け出して夜の公園で亡き母に習ったヴァイオリンを弾く時だけ、生きている気がした。
母さんに教わった歌、楽団の人に習った曲。街に流れている音楽。なんでもいい。俺を癒してくれたなら。そしていつか、この音を聞いて夢で見た天使が迎えに来てくれるのを淡く想像だけ、していながら。
『約束だ。困ったら迎えに行く』
そう、夢の中で何度も繰り返される光景。淡い輪郭に縁取られた誰かと優しい微笑み。ああ、きっと俺の最後を迎えに来る、天使だと。
02: 香月 京の呟き
――彼は僕にとって光だった。
僕の父親は外国に住んでいる。生まれてから会った事は数回しかない。しかし大富豪らしく、暮らしに困る事はなかった。
母はお嬢様な生活を送る人で子育てに興味はなかったらしく、やはり母に育てられたという記憶もない。僕を育てたのはハウスキーパーの田中さんと執事みたいな松本さんだろう。
家族の愛情なんか知らなくても、僕は屈折することもなく、ただイイコに過ごしたと我ながら思う。
しかし、大変日常に飽いていたのは事実だ。両親がいないのをいいことに裏社会に手を出すなんて典型的な真似をした時期もあった。でも馬鹿ばかりですぐに飽きてしまった。いや、僕が飽き性なんじゃない。世間に刺激が少ないんだと思う。
そんな時だった。快人と出会ったのは。
夜の町をうろつく僕は駅周辺とは違う静かな川沿いを歩いていた。誰も出歩かない深夜2時。一人で夜を感じるのが好きだった。
そんな時、かすかに音が聞こえてきた。
……これは、弦楽器? 独特の哀愁漂う音。高さからヴァイオリンだろうか。僕は足を忍ばせ、音に近づいた。
そこには微かな街頭に照らされた少年がヴァイオリンを奏でていたのだ。しかもケースを背負っていることから客がいるわけじゃない。心に響く悲しげなアリア。
「誰だ?」
微かな僕の音にさえ気付くらしい。僕は光の元へと脚を踏みだした。
「誰だ、お前」
「怪しいものではないけど、信じてはくれない……よね」
「俺に何か用か?」
「用? 用なんてない。音につられただけだよ。ねぇ、続きを弾いて?」
「な、なんで!」
少年は驚きと羞恥に微かにほほを染めている。
「え? 誰かに聞かせないように、ひっそりと練習中?」
「ちげーよ!」
「じゃぁ、いいじゃない。弾いてよ」
「お前、なんなの? 子供がこんな夜中にうろついてていいのかよ?」
「君も子供じゃない?」
「いいんだよ、俺は」
「なんで君はいいのさ?」
「俺はこのまま死んでもいいんだ」
「そう。なら僕も構わない」
「自殺志願者?」
「違うよ。僕強いから、殺されたりする心配なんかないわけ」
「大層な自信家だな」
ふっと笑うとアリアではなく、違う曲を奏で始めた。明るい曲調なのに、どこか哀しい。それは、きっと彼が心に秘めているものが、さみしいから。
――僕は彼に惹かれた、とても。……とても。
03: リンの呟き
――弟は俺にとって救いだった。
こんな不毛なことを続けて、何年経っただろうか。
「今度は、他人の残り香を落としてからきなよ」
「だったら、呼ぶな」
「僕が呼んだんだ。来ないわけない、君が」
自信たっぷりにベッドの中から男が笑った。ふん、と言ってシャツを素早く着込む。
「そうだ。言い忘れてた。次に会うのはかなり先になるぞ」
「どうして?出張かい?」
ベッドから出てきた身体が引き締まっていることにイラっとしながら言う。
「ああ。そうだな、出張にしては長くなるが」
「いつ帰ってくるの?」
俺はお前の恋人か。馬鹿らしい。
「さぁな。決めてない」
「は?」
「人を迎えに行く。行き先は日本。ということで、明日から俺は日本支部に移籍だな。俺がいない間達者でやれよ」
「許さない」
ぐいっと背後から抱きつかれたかと思えば、ダン、と床にたたきつけられた。一瞬呼吸が止まり、胸が詰まる。
「そんなくだらない指令を出したのは、あの男?」
「んなわけねぇだろ。俺が頼んだんだ」
「契約を忘れたとは、言わせないよ」
「忘れてねぇ。だからおとなしくしてただろうが。イルマ」
最後に名前を呼ぶ事を忘れない。
「君が、頼んだってことは、よっぽど大事なのかい?」
「ああ、大事だ」
しれっとわらってやった。
「誰?」
イルマを上からどかせて、立ち上がって車のキーを取る。
「俺を信じて待てるか?」
「君を? 信じるものか。僕が信じているのは、僕の悪意だけだ」
「だろうな」
最後まで笑ってしまう。どこの詩人だ。
「弟を、迎えに行くのさ」
そう言って扉を閉める。嘘と思うか? イルマ。
勝手に情報を漁って、真偽を見極め、悩めばいい。そうやって、たまには馬鹿な男を演じて見せろ。
「じゃ、ちょっと長い旅行になるんですけどね。行ってきます」
「はいよ。リーンはちゃんと家賃も払ってくれるし、約束も守ってくれるからね。留守中ちゃんとしておくよ。安心おし」
「ええ。頼みましたよ」
緩やかに笑って下り坂を下りていく。途中で見知った顔に会う。
「カノン!」
「やぁ、リーン。まだいたみたいでよかったよ」
「どうしたんです?」
「出発前にあいさつをしようと思ってね。久々の休暇だ、ゆっくりしてくるといい」
「ええ。我が侭をありがとうございました」
誰もいない昼下がりの午後に穏やかな笑顔を持つ男に自然に口づけを受ける。
「街中ですし、昼過ぎですよ」
「ああ、知ってる。でも愛してるんだ。少なくとも1年は会えないんだろう? 補充には程遠い」
「ちょくちょく帰りますから」
「じゃないと俺が会いに行っちゃうからね」
「わかっています」
「愛してるよ」
「俺もです」
もう一度口づけを交わして微笑みあう。この人は俺の上司で、俺の恋人。でも知っている。彼は俺を愛してなんかいない。信じてもいない。
俺も愛していない。好きだ。この人は好きだけれど、愛してない。お互いに己の真実に気付いて、それでも知らないふりをしているんだ。
同性同士の恋愛なんて面倒なだけなのにな。
「日本では、空は青いのだろうか」
「当たり前じゃないですか。宇宙じゃあるまいし」
「ははは。そうだね。弟さんか。会えるのを楽しみにしてるよ」
「はい」
そう言って別れる。ああ、これでやっと面倒なしがらみからしばらくは解放されるだろう。カノンは好きだし、愛しているけど、疲れてもいるんだ。
幼い頃に約束をした。小さな、小さなお友達と。
「お互いにピンチの時は助けに行こう。互いを迎えに行こう」
だから、迎えに行くよ。君が困っているならば。そうして久々に君のヴァイオリンを聞きたい。そしたら俺の下手なピアノもたまにはうまく聞こえたりするだろうか。
Episode.2
01: 京の反抗
夜に密かで小さな演奏会のリピーターとなった京は、ごくごく自然に快人と友人になった。
快人は公立中学校に通っていて、家族は最低。不幸を絵にかいたような人生だ。最低な従兄弟と親戚に囲まれて息が詰まっていたそうだ。
うっ屈した気持ちを腫らすためだけに睡眠時間を削ってヴァイオリンを。
「だけど、雨はだめだ。楽器が痛むからな」
「なら、僕の家で弾けばいい」
「は?」
こうして僕と快人の付き合いが始まった。大切な友人で、密かな恋心に近い淡い想いを隠して。それにしても快人の瞳は不思議だ。1/2がイタリアの血だというハーフの彼の眼は青い。見ていて不思議だ。
「御帰りなさいませ、京さま。奥様がお見えですよ」
「へ? 突然だね」
帰ったら母が来ていたらしい。なんて面倒な。
「夜遊びもほどほどになさいね」
開口一番がそれですか。
「今日はどうなさったんです?」
「貴方のお父様から伝言。高校はイタリアの学校に通わせて、お兄様の仕事に慣れてもらうって。学校ももう決定しているそうよ」
「は?」
「だから、貴方、今年が日本にいる最後になるわ」
「そんな、勝手ですよ」
「勝手って私に言われても困るわ。それに貴方もあの人の性格知ってるでしょ? 子供なんて自分の道具の一つとしか考えてないんだから。抵抗するだけ無駄でしょ?」
今は中学校2年の最後が近い2月。そんなことはどうでもいい。僕がやっとしった恋心なのに、快人ともう別れなくてはいけないなんて。しかもイタリア? 会いに行くとか言うレベルじゃないし!
「まぁ、自分で文句でも言ってみたらどう?」
そう言って母はさっさと立ち上がる。
「奥様、もうお帰りで? 遅いですし、今宵は泊られては?」
「結構よ。外に運転手を待たせているから」
母はもう、僕を見向きもしない。母親とは到底思えない。
「じゃ、達者で過ごしなさい」
バタン、と思い玄関を閉める音が響き渡る。
ちょ、待てよ! イイコなんて演じるのも今日が最後ね!!
あらゆる手段と己の頭脳を駆使して、彼は己の運命に立ち向かうことを決めた。
02: 快人の出会い
いつものように、京の家で小さくささやかな演奏披露の帰り道。
この時だけはすっきりした気持ちになれる。もうすぐ進級だ。進路の事を今日も担任から言われてげんなりする。この暮らしは勉強位しかする事がないから、どこでも行けると言われても住環境が過酷なら無意味だ。
近場の公立高校にいければまだいい方で、払う学費はないとか言われたりすると予想している自分がいる。でも叔母は世間体を気にするから高校位は行けるだろうか。
そんな事をぼんやり考えていたら足音が聞こえてきた。
いつも人がいないからこの時間に出歩いているのに、誰だろう。近所の誰かならバレたら面倒だし、京に会えなくなる。
足音から逃げるように俺は走りだした。するとまるで追いかけるように足音も走る。俺はちょっと恐怖に陥った。
誰が追ってくる? 送ると言ってくれた京の申し出を受ければよかった。ペースを上げてみても足音は近づいてくる。
「快人」
え。驚き、思わず振り返ってしまった。
「やっぱり、快人だ」
色素の薄い淡い金の髪、俺と同じ色の目。
「え」
それは夢に見た天使だ。俺を迎えにきてくれると夢見ていた天使だった。
だが、ふっと現実に返るとその天使はスカル柄の黒いTシャツに街灯の光を照らし返すシルバーチェーンを腰に幾重も巻いた男。……天使がそんな格好ってありか? いや、ない。
「あー、覚えてないかぁ」
男は残念そうに笑う。見てるこっちが寂しくなるような笑みに胸が締め付けられるようだ。
「遅くなって悪かった。迎えにきたんだが…」
忘れられている事実をどう説明したものか、と悩んでいる様子が手に取るようにわかる。
「迎え?」
まさかあの人たちにバレたのか?
「ピンチになったら助けに行くって、約束したんだけどな…」
その言葉はニュアンスは違えど、何度も夢で天使と交わした約束。俺は目を見開いた。そして一気に記憶が紐解かれていく。
「リン?!」
「そう!」
ぱぁっと明るい笑顔を向けた男は己を指差し、リンと言った。
「リン! リン。リン」
名前を呼んで抱きついた。知らずに泣き出していた。ずっと溜め込んだものが一気にリンの胸ではじけた。そんな俺にリンは優しく頭を撫でてくれた。
「遅くなったな。ほんとごめん」
「リン」
「まだ、続けてるのか? ヴァイオリン」
背にあるケースに気づいたリンは俺が落ち着いた頃に訊く。
「先生はいないけど」
「聴かせてくれるか?」
「勿論」
時間も場所も気にならない。俺の独壇場だ。A線で音を確かめ、素早い調弦のあと、闇夜を切り裂く哀しげな音。それは曲によって表情と感情を自在に変える。
奇しくもそこは、初めて京と会った場所だった。
03: リンの決心
「調査結果を確認した。本当なのか?」
俺は驚いた。先進国日本。敗戦国であったにも関わらず、高度経済成長をし、金持ちの豊かな国。平和だと聞いていたのに。まさか、母親を失った快人がこんな境遇にあったとは、己の行動の遅さが呪われる。
「特に、体重だ。この歳の日本人男子に比べて10キロ以上軽いって……」
「どうやら身体的な虐待の疑いがありますね。調査によれば、あの家庭は調査対象に定期的な食事を他の児童と区別して与えていないようです。まともに与えているのは朝食と学校給食でしょうか」
「なんてことだ!」
「あと、身体的な虐待も確認済みです。酒に酔った父親、義兄弟による暴行です。また、母親やこれは別の義兄弟から受ける精神的迫害は顕著に被害を与えています」
俺は拳が震えた。
「公的機関に訴えても十分に勝てます。保護すべきです。…あなたの身内となる方なら、すぐにでも」
「手続きは?」
「滞りなく。すべて手配済みです。万が一を考え、公的機関にも内々に協力を仰ぎ、賛同を得ました。直ぐにでも動けるようにしてあります」
「すごいな! こんな俺の私的な事なのに。ありがとう」
「お褒めに預かり光栄です。ちなみに養育費に関して要求される予測金額はご覧頂けましたか?」
「ああ。これ位なら貯金でなんとかなる。貯めておくものだな」
「あなたが優秀だからですよ」
俺は調査書をすべて封筒に戻した。
「本当にありがとう。日本にきたばかりの俺にこんなによくしてくれて、すごい感謝してる。これからよろしく。夏目くん」
握手が交わされ、目の前の男が微笑んだ。
「所長からあなたのことを直々に頼まれましたし、以前お世話になってからあなたの部下になれたらと本気で異動を考えた位ですから」
「そうか」
夏目は日本での俺の秘書として派遣された。俺は半休みとしての来日なのに俺のわがままも快くきいてくれ、予想以上の結果を出してくれた。
「今夜、会いに行く」
「わかりました。では今後の予定はプランAを予定します」
迎えに行こう。今すぐにでも、君を。
Episode.3
01: きっかけ
明日、学校終わるの校門で待ってるから。
そう言い残してリンは俺と別れた。明日は金曜日。学校が休みになり、苦痛の土日が始まるはずだった。だがその一言で明日が楽しみになってしまう。
今まで忘れていたのが不思議な位リンとの思い出が次々と思い出される。
翌日、学校を終えて、夕夏によって俺をいじめる取り巻きに構いもせず、鞄一つ持って校門へ急いだ。夕夏が怒らせた顔をして俺を呼び止めたが、無視! 夕夏は取り巻きと共に俺を追いかけてきた。暇人め。部活でも行け。しかし校門辺りがざわざわしているのを見て仕切りたがりな夕夏はそちらにとんでいった。俺はもしや、と期待する。
「快人」
相手が先に声をかけ、校門から出た瞬間に走り寄ってくれる。
「待ったか?」
「いや、待つのは面白かった。日本の学校初めてだからな!」
そんな会話を見て夕夏が目を見開いている。俺の知り合いを自分が知らないはずはない、そんな顔をしていた。おとりまきが誰? と聞いているが、答えられない。
「で、今日は何を?」
俺はリンから何をするかさえ、聞いていなかった。舞い上がっていたからだ。
「街を案内して貰おうと思って」
「なんで」
「だって俺もここに住むから」
今度は俺が目を見開いた。会えただけでも幸せだったのに、住む?
「さ、行こう。夜には家に返さないと誘拐犯になっちまうからな」
それを聞いた瞬間にしょげたが、無理やり笑った。
「えっと、夕夏さん、だっけ?」
外人に微笑まれ、夕夏が緊張している。
「一応、ご両親に連絡はしたんだけど、今日僕と食事するから、この子の夕飯はいいですって伝えてくれるかい?」
「はっはい!」
飛び上がった夕夏に笑いがこぼれた。
「日本は補導は何時?」
「10時だよ」
「じゃ9時に帰ります。さ、行こう、快人」
リンはそう言って俺の手を取って歩きだした。
「俺、出歩いてないからそんなに知らないよ!」
「じゃ一緒に探そう!」
まるで子供みたいだ。いつしかリンと走り出していた。
「全く、外人はこんな時間に何を考えておる」
「この時間でなければご主人がおらず、対応をして下さらなかったのはそちらです。こちらはちゃんとご連絡を随時させて頂きました」 リンの隣に座っているのは弁護士らしい。リンは出かけている間に真剣に俺に聞いた。
一緒に暮らさないか? 家族になってほしい、と。
そのために日本にきたのだそうだ。了承しないはずない。夢見ているみたいだが、こうして俺をめぐる取引(リンはそう言った)が叔父との間で開戦した寸法である。リンは俺をめぐるやり取りを見ていて欲しいと言った。自分の状況を把握し、未来を会話から推測し、要求すべき所はしろ。でなければ、リンは叔父だけでなく俺も納得したと思うと言った。子供だからといってすべて任せるのは間違い、それは権利の放棄だと夕飯を食べながら言ったのだ。俺は母さんが死んだ時も主張すべきだったのだろうか。
「文書でもお伝えしましたが、単刀直入に言わせて頂きます。快人くんの親権について、こちらのリーン・タカヤナギ・サンパデュエ氏に譲渡をして頂きたいのです」
「そやつは本当にコレの異母兄弟なのか?」
「勿論です。快人くんの母つまりあなたの妹さんはイタリアの地で父親であるアレン・サンパデュエ氏との間に快人くんを産みました。リーンさんもイタリアと日本のハーフであるミユ・タカヤナギさんとアレン・サンパデュエ氏との子供です。DNA判定もイタリアの戸籍にもちゃんと証明されています。こちらがその書類です」
手際よいがそんな早急に話って進むのだろうか。
「しかし、厳しい家計をやりくりし、ここまで育てたのはわしらだぞ」
「そこまで経済的に厳しいのでしたら、このお話はそちらにとってもよいはずですが?」
弁護士さんが嫌味に笑う。弁護士さんは今日中にカタをつけるとはりきっていた、そう言えば。弁護士さんはリンと知り合いでリンの異母兄弟にあたる俺にこんな事をする叔父夫婦を許せないんだそうだ。
「でも随分若いじゃない? ちゃんと育てられるの?」
今度は叔母さんが言う。こいつは世間体と育てたという優しい(と思いこんでいる)叔母像に酔っているだけだ。目がやっかい払いできるとほくそ笑んでいる。
「リーンさんは24歳。イタリアでは大学生の身ですが、国際的な組織に勤めておられる社会人です」
「大学生? 大学院生ではないの?」
24歳というのにひっかったんだろう。
「いえ、イタリアが大学を25歳以上で卒業するのが普通なんです。日本と違うカリキュラムですから、どちらかといえば25歳で卒業出来る方が優秀なんですよ。年収もこの歳にしては日本円で400万と、経済的に十分だと」
叔母さんが目を見開く。そして弁護士さんの隣に座っていた人、保護うんたら観察者とか言う名前だったかもしれない、子供の味方と言った人が口を開いた。
「私共の通知書はお読み頂けましたか?」
叔父がカッと頬を怒りで真っ赤に染めた。
「こやつの嘘に騙されたんだろう!」
俺は当惑する。何の話だ?
「いえ、前から疑いがあると御近所からお話がありました。今はまだ注意です、注意の時点で改めて下されば……」
「今まで育ててやったのは私だ! その恩義も忘れたか!」
「恩義があろうとなかろうと虐待は認められません」
虐待。その言葉に驚いた。俺、虐待されてたのか!
「奥さん、考えてみて下さい。伸び盛りの健康的な男の子が平均的な男児より、15キロも体重が軽いんですよ? 食事が不十分なんじゃないですか?」
叔母さんが真っ青になる。夕飯をほぼ毎日与えていないのを彼女が一番知っている。
「私共は疑いがあるならば強制的に保護する事も考えています。これは双方にとってよい話なのではありませんか?」
叔父が黙った。
「今まで育ててやった! どこの馬の骨ともしらぬ、男の子だ! ……そうだ、金は? 今までこやつに支払わされた金はどうする?」
すると黙っていたリンが静かに言った。
「幾らです?」
「なに?」
「子供を手放したくないわけじゃない。どうして育てなければならなかったのに今さら引き取り手が現れる? ……あなたのご不満やお怒りは尤もでしょうね。でも、母親を失い、身寄りを失った子供にそんな事は関係ない。あなたにはわからないでしょうね? 明日の糧を得るため犯罪を犯し、孤独に苦しむ気持ちが。でも快人は違った」
リンが力強く言う。
「あなたがたに文句一つ言わなかったんじゃないですか? 例え殴られ蹴られ、言葉の暴力すら受けて満足に食事すら与えられなくても、泣き言一つ言わなかったんじゃないですか?」
俺は驚いてリンを見る。リンは静かに言った。
「腹立たしいでしょうね? ろくに知らない子供を押し付けられて。だから、もういいじゃないですか? 自由になられても」
怪訝そうな顔をする叔父と叔母。
「快人だけではなく、あなた方も」
リンはそう言ってにっこり微笑んだ。
それから空気が変わったように順調に進み、3日後、俺はリンと一緒に暮らす事になった。リンは俺の今までの教育費を支払い、これから正確に血縁関係を結んでリンに俺の親権が移り、並びに保護観察者となる。書類関係は弁護士さんとかと何度かやりとりするらしい。これから家族になるのだ。
そして驚いたのが、俺はもともとハーフだから現時点でイタリア国籍も持っている。1年後リンの仕事の都合もあるから、イタリアで暮らす事になるらしい。学校は次の年から俺の望む学校に通う。転校するかもしれないとも告げた。俺は嬉しいし、個の家族やこの場所と離れられてうれしい。だけど、リンは最後にこう言った。
「今まで快人の命を繋いでくれてありがとうございました」、と。
3日間叔父も叔母も嘘のように優しかった。それが別れを惜しんでくれているのか、やっかいばらいできるとせいせいしていたのか俺にはわからなかった。だけど固い二人を柔らかくさせたリンがすごいと俺は思った。
Episode.4
01: 新しいともだち
イタリアに来て、数か月が経った。リンと一日中一緒にいれる日はまだ両手で数えるほどしかないが、兄弟一緒に過ごせる日が来るなんて思ってなかった。
リンは身分は大学生とは言っていたが、リンの友人との共同の会社で働いていると言っていた。日本で言うベンチャー企業らしくリンはバイト三昧とでもいおうか、帰りも遅ければ不規則な生活をしているようだ。
おかげでリンの食事などは快人が用意するのが自然になってしまった。というか、リンは保護者なんだか自分が彼の生活を支えているんだかわからない生活になった。
「快人、これ、お前の通帳」
「は?」
「いいか。俺は忙しいからお前の面倒見れない。学生とは言え、いろいろ金は要り用だと思うんだな。でだ、毎月1日にお前の生活費+αを入金するから、一か月ちゃんと計画立ててやりくりしろよ」
というまぁ大学生の独り暮らしのような生活を送れと言われた。快人は、今までの生活が生活第一で無欲なため、リンの一か月分の生活費は着実にたまっている。
地元の学校にも慣れた。日本を発つ前にリンが半年イタリア語期間とかいうのを設けたせいで母国語とはいかずとも生活に不自由はない。リンは一カ月街の色々に連れまわし環境の差を学ばせてくれたおかげで、今では快人も立派なイタリア人が出来ているというわけだ。
順応性が高いわけではないが、こういう自分でよかったと思う。それにリンは必要なものとして携帯やパソコンを買い与え、情報には苦労ないようにしてくれた。日本にいた頃は持てなかったパソコンや携帯に感動したし、お金と自分の気持ちに余裕ができたのでおしゃれにも気を使えるようになった。
リンともうちょっと一緒にいたいとは思うが、これからずっと一緒なのだからと思うとこれ以上ない生活に思える。
だが、一つだけ気がかりがある。京と連絡がとれなくなってしまったのだ。イタリアに発つ前に自分の環境が変わったと、そう言いたかったのだが、京がいた家は空き家になってしまっていた。
自分に劇的な変化があったと同時に京の方にも変化が生じたらしい。夜の、あの場所で何晩か待っていたのだが、イタリアに発つ前に会うことはできなかった。
「じゃ、またな、快人」
友人の声が快人を現実に引き戻した。
「うん。明日、楽しみにしてる」
「おうよ」
ニカっと笑う。彼は快人と同じ学校の同じクラスにいたイタリアに来ての初めての友達だ。名前はウィル。イギリスからきた自分と同じ転校生で、さばさばした性格の同い年の友人である。
実は自分のパソコンが持てるようになったというので嬉しい理由はこのウィルのせいでもある。ウィルと自分はネットゲームで同じパーティをくんでいるいわゆるネトゲ仲間だった。
ウィルは家の事情であまり学校に来ないが、自然に人の和になじむ、人気者でもあった。快人がクラスに溶け込めたのはウィルのおかげでもある。
明日はウィルが家に泊って一緒に攻略困難なダンジョンをクリアするのだ! ネトゲだから泊らなくてもいつものようにできるのだが、そこは一緒に一晩中遊ぼうということになったのだ。リンには一応メールで許可とったし、大丈夫。国が違えど、こんな幸せでオッケーなのかと思ってしまうくらいだ。
「ただいまっと」
アパートの鍵を開け、中に入るとトマトのにおいが漂った。
「おう、おかえり」
「リン!」
あまり広くないこのアパートは3部屋しかない。そのうち狭いリビングと同程度の寝室の部屋だけ。リンはもともと住んでいたアパートで、広い家を探してもよかったんだが、一緒に暮すんだから互いの気配がわかるくらい、一緒にいて安心できる空間がいいだろと笑ってくれたのを忘れない。
リンが帰ってくるといつもそうだが、もともと狭いリビングの半分以上を占めるピアノの上からテーブル、ソファに至ってすべてリンの持ち込みの書類でいっぱいになっている。
リンは寝室を持っているのだが快人の寝室よりせまい。欧米人の感覚のつかめないところだが、実は、物置用の部屋だという事だ。ベッドとクロゼットしかない位で、ほぼリンが帰ってくるとリビングが彼の部屋と化している。ほっておくとソファで寝たままっていうのがよくある。リンは自分より手のかかる子供みたいだ。
「今日は?」
「うん、いるよ。明日にはまたいないんだけど、その友達だっけ? ちゃんともてなせよ」
「ああ! ……あ、なんで、晩飯おれ作るのに」
「丁度腹減ったのさ。今日は特製パスタだぞー」
そう言って湯気の立つパスタを皿に盛り付けた。おいしそうな赤い色が食指をそそる。適当にテーブルの上の書類を床に落とし、さぁ、食うぞという。
「あーあ。大事な書類じゃないの?」
簡単に集め、そっと渡す。すると目につく文字が見慣れたものであった事に気づいた。
「あれ? これ、日本語だな。仕事日本に関係するのか?」
リンは自分と過ごした1年、日本支部に仮移籍という形で仕事を続けていたそうだ。
「んー、まぁな」
「『高天原に関する現状報告』?」
「おいおい、一応見んなよ」
リンが笑って社内機密だぞ? と言いながらも、止めずに快人を席に誘う。
「悪いな。でも高天原って日本神話だろ? 今まで聞かなかったけどリンって国際的な組織で働いてるって……何の仕事してんだ?」
「よく知ってんな」
リンは感心するように言い、瞬きをした。図書室で本はよく読み、その中に日本の神話を軽くかじったものもあったのだ。
「そうだなぁ……。俺の仕事かぁ。説明してもいいんだけど、どうすっか」
リンはそう言ってにやっと笑う。
「もう、家族だし、正直なトコ言ってもいいか」
リンはパスタをすする手を止め、快人に向かい合った。快人も手を止めてリンに向き直る。
「ちょっと言いにくいんだが結構ヤバい仕事だ」
「え? ベンチャー企業って……言ってなかった?」
「それ、嘘」
にっこり笑って言うものだから快人は言葉が詰まってしまった。しかも、学生ベンチャー企業がそんなに国際的に支部を持てる位事業展開しているわけないだろ、とさえ言った。
「そうだなぁ、人並みに恨みを買って人並みに強欲なお仕事」
リンはそう言って笑う。でもごまかされたくなかった。この場所を考えたら、もしかして!
「マフィア?!!」
それを聞いた瞬間、リンはぷ、と笑いだし、一人で大爆笑した。
「なに、お前それ……映画か何かの見過ぎだろ?」
リンは笑いながら、快人を撫でまわし、とりあえず飯を食おうと二人で夕飯を再開する。夕飯がてら笑いながらリンは話してくれた。
リンの話は研究者のようで、遺跡の発掘者のようでもある仕事なのだと。商売敵が多く、スパイもどき、情報の強奪様々な事をやって全てがやっと一歩進む、そんな仕事なんだという。
本業の研究より、今は商売敵から情報を奪うのがメインになりつつあるらしい。だから危険で強欲らしい。内心思った。どんな仕事だ、それ。産業スパイか?
「まぁ、お前が俺の弟ってばれたらお前もちょっとヤバい事に脚をつっこむことになるかもしれない位にヤバいお仕事をしていますね。ごめんな、本当はイタリアにつれてきたら巻き込まれるかもって思ったんだけどよ、俺が、一緒にいて欲しかったのさ」
「リン……」
快人は言葉が詰まった。一緒にいたのは一年もなくて、一緒に遊んだのは数えるほどしかなくて、一緒に過ごしたのは10年以上も前なのにリンがこんなに俺を望んでくれた、それがうれしい。
「だから、もし、あぶねーことに巻き込まれたら……そんなことないようにしてるけど」
リンは目線を合わせ、言い切った。
「俺を頼って」
「うん」
リンと一緒にいるのは楽しい。リンと一緒にいると嬉しい。リンと一緒にいると幸せだ。快人はそう思わずにはいられなかった。
「空(そら)」
呼ばれている。だけど応えることはない。俺はもっとあそこにいたい。
「空! 聞こえているのだろう! 返事をせんか」
「うるせー、黒緋(くろあけ)。どうせ藤黄(とうき)のくだらないことなんだろうが!」
「言ってくれるね? くだらない事? 俺にとってはそうだが、お前にとってはそうじゃないんじゃないのかい?」
鋭い舌打ちをして少年が振り返る。白い肌に少年の緑色の髪の毛は映える。青は空を切り取ったような美しい色。空と少年が呼ばれるのはこのためかもしれない。
逆に少年を呼んでいたのは蘇芳色の髪に濃い灰色の目をした壮年の男性だった。その背後にくすんだ金髪に輝く緑の目を持つ青年が呆れた顔をして立っていた。
「……うるせー」
空と呼ばれた少年、まだ歳は10代半ばといったところ、彼は再び夜空を見上げる。
「手を煩わせるな。明日は友達の所に止まるんだろう? お前が友達を失くす危険を冒すなら勝手にするといい」
藤黄、と呼ばれた青年はくるりと身をひるがえした。
「空」
黒緋と呼ばれた壮年の男性は少年の頭をなでる。
「そら。せっかくお前と距離を取らない友達なんだろう? 大事にせんか」
「うん」
少年は頷いて室内に戻った。少年の身体を考えればこれから行う行為が忌避されるものであるべきだ、と黒緋も理解している。しかし、自分たちを狙う輩が多いのも事実。空も理解しているだろう。
黒緋は眼下に広がる景色を見下ろした。深い森が広がるこの場所に目立つ、真っ赤な高台を立派にしたような天守。うごめく様々な気配。黒緋は最上階から一つ下の階に降り立つ。最上階はこの組織『高天原(たかまがはら)』の長である藤黄とその唯一の親族・空、そして藤黄が長になった時、一番に家来となった黒緋、この三名しか登場を許されていない。
「南の方角で、またです」
「ふむ。無粋な。どこだ?」
「おそらく『蛇』と思われます」
「やっかいだな。誰が来ている?」
「『赤属』がきていますね」
「それはよかった。まだ話が通じる。赤の長は来ている様子か?」
「いえ」
黒緋はそうか、と言うと、配下に命じる。
「丁重に御帰り願え。藤黄はしばらく出てこない」
「承知」
配下の気配がなくなったのをいいことに、黒緋はため息をついた。
「放っておいてくれればいいものを」
黒緋のため息は夜闇に消えた。しばらく最上階には近づかない方がいい。この時間をじゃますると、唯一無二、絶対の主である藤黄は激しく機嫌が悪くなるから。
「空」
藤黄が呼ぶ。空は部屋に入ってから扉の前で足を止めてしまった。もう何度も行っていて、慣れているはずだが、空にはまともに藤黄を見ることができない。
「きなよ、おれを煩わせる気かい?」
「ば、そんなことねーよ!」
顔が赤くなっているような気がする、藤黄に気付かれなければいいが。いや、こいつのことだから気づいていそう。
「ほら、おいで」
「おっ、おお!」
おずおずと、恥ずかしさから遠慮しつつ空は藤黄の膝の上に跨った。膝を立てたままの姿で固まってしまい、藤黄の上に尻を下ろしたりしない。すると自然に藤黄が空の腰を支えたので、空はいつものように藤黄の肩に手を乗せて藤黄の顔を見つめてしまった。
「顔が赤いぞ。もう何度もしているのに、お前は相変わらず慣れないね」
「う、うるせー! だ、だいたい、てめーが慣れていすぎなんだろ!!」
「嫉妬かい? 恋人でもないのに、狭量ったらないね、空」
「ちげーよ! そんなこと言ってねーだろ! ほら、さっさとしろよ!」
「ったく、本来ならお前がお願いする立場なんだけどね」
上を見上げた藤黄が苦笑する。固まったまま動かない空の腰へ腕を伸ばし、下から触れるだけの口付けを繰り返す。それは促すように、慣れさせるように、緊張をほぐすように。
薄く開いた空の唇を、そのタイミングを逃すことなく藤黄は舌をねじ込んだ。腰を抱き寄せてそして空の舌を逃さない。絡めて吸って甘く噛んでやればおのずと空の腰が落ちてくる。恥ずかしさからではない、真っ赤な顔、空の陥落の合図が身をもって知らされる。熱の上がった表情に、途切れる吐息。薄く涙が彼の目を覆い、その目がゆるりと降参したかのように閉じられる。
そうして藤黄は腰を手繰り寄せ、逆に空の躰に覆いかぶさる。腰を抱えて、後頭部を固定して自分の気ままに空の口をむさぼり、己の唾液を流し込む。
「ん、ふ……あ」
口を開けて空が苦しげに喘ぐ。キスの合間に空の喉がゆっくり上下し、与える唾液が飲み込まれていく。それを確認した後に、今度は藤黄が空の唾液を奪う。口腔内を舌で嘗め尽くし、全てと言う全てを奪い去っていく。
うめく空の声が色を増していく。その間にすばやく空の着衣を乱し、印(いん)を確認する。大丈夫、発光している。効果は持続した。藤黄はそれを確認して、一旦、空を開放してやる。
互いに嘗め尽くした後なので普通の口付けのように唾液が垂れるなんてことはない。
「そういえば、明日は泊まるんだったか?」
「……っ、はぁ、ん。うん」
呼吸を整えながら空が頷いた空に藤黄はふむと言った。
「そろそろ一月か。泊まると言うし、念には念を。空、飲め」
「ひ!」
空の真っ赤な顔が引きつった。その顔に少々いらっとして、わざとらしくため息をついた。
「はやくしろ」
「わ、わかったよ」
空は頷いて、藤黄の衣服に手を伸ばした。下半身を漁り、藤黄自身を取り出すと唇を寄せてぴちゃ、と舐め始めた。先端を舐めていたが、次第に全体へと範囲を移していき、裏筋を舐めあげる。
「っく、ふ」
淡く、藤黄が息を漏らす。空は目線で確認した。下手なことをすると藤黄の機嫌を損ねてしまう。
「うん、前よりは上達したんじゃない?」
「む、んふ」
空が抗議したそうな声を上げたが、そのまますっぽりと咥え、頭を動かす。それを藤黄はやさしく撫でた。濡れた音が響き、藤黄が空を撫でる手に力が入る。
「空、出すぞ」
「ん!」
頷いたかのような声を出し、空が身構える気配と同時に空の口に藤黄が放つ。
「ん、んんん!!」
苦しげな声を漏らして、空の喉が上下する。眉根を寄せ、苦しげなその表情に藤黄が満足げに笑った。最初は苦しげだったが、漏らすことなく飲み干し、最後には残さず残滓さえ飲み干すかのように喉の奥を使って搾り取るように飲みきる。
「ふはっ」
「まぁ、もうちょっと舌と喉を使えばましかな」
「うるせー」
空は睨むが涙目のために藤黄にはまったく脅威に感じない。
「さ、次はお前だ。出しな」
「……おう」
全裸に剥いた体はあらゆるところが様々な色に発光した文字が流れている。もう空の身体の上を流れる文字で空の身体が光っているようだ。
空の身体を藤黄の指がすべり、空の大事な部分を咥えて、いとも簡単に空を高めていく。空が吐き出した瞬簡に、空を中心に球体の光が出現し、空の躰を覆っていく。
藤黄はすばやく空の出したものを飲み込み、術式に入る。藤黄の舌が空の身体を這い、その度に新たな文字が浮かび上がる。藤黄の指もせわしなく空の身体に何かを記し、空が苦しげに呻く。
すでにそこには、情事の空気はない。真剣な藤黄の姿と何かに耐える様子の空だけがいる。
「終わったぞ」
藤黄がそう言った瞬間に光が消えうせる。
「おお」
藤黄はそのまま空の着衣を直し、動けない空を抱き上げると空の寝台に運んで横たえた。
「じゃ、おやすみ」
「うん」
すぅっと寝息が聞こえ始め、藤黄もその場で倒れるように眠りに付いた。しばらくして気配を察知した黒緋が藤黄を抱え、藤黄を彼の部屋の寝具へ横たえる。こうして高天原の夜は更けていった。
翌日、快人は学校を終え、ウィルを連れて家に帰って来た。二人の手にはすでにゲームの攻略本が握られている。
「ここが俺ん家」
アパートの前でそう紹介するとはぁ、とため息をついたウィルがしばらく黙って家を観察するように見ていた。
「どうかした?」
「いや、なんでもねー。あんまり友達の家って行かないから新鮮で」
「そっか! 俺も友達を家に招くの初めてなんだ」
照れて快人は笑うとウィルを家に招きいれた。
「倒すぜ! メノギアスロード!」
「ゲットするぜ、女神の涙!」
ダンジョンのラスボスとそのダンジョンでゲットできるレアアイテムの名前を叫び、玄関をくぐる。朝、ソファで寝ていたリンを起こさず、静かに学校に行った時、リンの書類がいたるところに散らばっていたが今はそれが嘘のように空虚なリビングが広がっていた。
「わー、ピアノだ! 快人弾けんの??」
ウィルが思わずゲームの事を言わず、ピアノに釘づけになった。
「いや、リンが弾けるんだ」
「リンってーと、兄貴?」
「うん」
久方ぶりにリンのピアノを聞かせてもらったが腕は落ちていなかった。ただ、手にけがをしたと言っていたのは本当でプロを目指すのは無理になったようだ。素人が聞けば十分通じるが、指使いに支障が出ているのは快人にもわかっただけに残念だ。
「すげーな。聞いてみてーや」
「上手いよ。今度頼んでみる」
快人は自分が弾けるような気持ちになり、ちょっとうれしかった。自慢の兄だ。
「ピアノは無理だけど、ヴァイオリンなら」
「え?」
快人はそう言って自分の部屋からヴァイオリンを持ち出した。
「弾けるのか!?」
「うん。せっかく招待したんだし、一曲」
他人の前で奏でるのは京以来だった。ちょっと緊張する。調弦を素早く済ませて、深く息を吸い込む。イタリアに来てから管理人さんに言ってあるのか、自由に弾いてよくなった。そのせいか気がつくと手に取っている有様で楽譜を買い求めに行くほど。
腕は上がった。昨日もリンに聞いてもらったほどだ。すっと弓を引くと流れる音。この澄んだどこまでも響いていきそうな弦楽器ならではの音を快人は愛していた。
母さんはそれは上手かった。母さんの腕にはまだ遠く及ばないし、上手いとも思っていないが身近な人に喜んでもらえたら。そう思うようになったきっかけは京だと思う。だからこそ、彼に会って感謝を伝えたい。あの頃はそんな余裕が自分にはなくて、ただ発散するかのように奏でていただけだから。楽器にも申し訳ない弾き方だったと思う。
だから今度からは心を込めて、そう、今ならウィルのためだけにこの曲を。この音を。この思いを。
「っ!」
ウィルの身体が光る。ウィルは内心焦った。
(なんでだ? 昨日藤黄に封印は完璧にしてもらったはず!?)
幸いヴァイオリンに集中している快人は気づいていないようだ。自分の髪が伸びて緑色の己の色が視界の端をちらつく。なんで、封印が解けているんだ?
この家は最初から変だった。厳重に守りの気配が満ちていて、快人にだまされているのかと思ったが、快人から嫌な気配は感じないし、快人の心根は嘘などついていない。今だって楽器を弾いてくれているだけなのに、どうして“空”に戻っている!?
「っ!!」
己の姿がどんどん本来の姿に戻っていた。それを防ぐために藤黄に封印の術を書き込んでもらっているにも関わらず。ウィル、否、空は快人をまじまじと見た。ただ楽器を奏でているだけだ。それは空の為を思って。真剣に弾いているだけなのに、何故、こんなにも心がざわつくんだ!?
空は快人の方に手を伸ばした。瞬間、激しい静電気のようなバチっという音が響き渡り、ヴァイオリンを奏でる快人を守る半透明の盾のようなものが生じた。その音と衝撃で快人の目が開かれ、ヴァイオリンの弓を操っていた手が一瞬止まる。
――赤属の防御印!? ……蛇か!!
空の目が見開かれると同時に快人の目も見開かれた。
――え!? ウィルが、違う人に見え……る?
思わず手を止めると、空は自分の姿がウィルに戻っている事に気付いた。封印が解けたわけではない。快人に一瞬浮かんだ防護の印も、気配さえない。
「ごめん。失敗した。また今度練習して聴かせるよ」
「いや、俺こそ急に言ってわるかったよ!」
笑って答える。ヴァイオリンを片付け始めた快人に見られないよう、己の身体を確認する。昨日施してもらったわかりの封印の印が、半分以上破れている。しかし快人にこの特殊なものに関連付ける気配がないのだ。
「さ、やろうぜ!」
「おお!」
動揺をなんとか隠し、空はウィルとしてパソコンを立ち上げる。快人も動揺を悟られないように必死で攻略本を読んでいるフリをしていた。
どうして、ヴァイオリンの弓がはじかれたんだろう。自分のミスなどでは到底ないそのありえない中断方法の原因がわからない。今までヴァイオリンを弾いてきてこんなことは初めてだ。誰かに弓を弾き飛ばされたような……。
それに、ちらりとウィルを見る。ウィルは黒ぶちのめがねを掛け、淡い金髪にそばかすの散らばった少年だ。しかし、ヴァイオリンを弾いている最中、白い肌の美しい緑色の長い髪をした美少年に見えた。青色の瞳と目があって驚いたのだ。
しかしヴァイオリンの弓が弾かれて演奏をやめざるをえなかったとき、そこにいるのは変わらずにウィルだったのだ。
「いつも、ここの中ボスに戸惑ってさー」
「あー、わかる」
空虚な会話。頭に入ってこないゲーム。結局二人なら攻略できるはずだったゲームは攻略できなかった。せっかく友達を初めて連れてきたのに、ろくに楽しむこともできずにウィルを帰すことになってしまった。
「また、やろうな!」
ウィルはそう言って笑ってくれたが、快人は申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
「そうだ、ちょっと快人、目を閉じてみ」
「ん?」
おとなしく従うと、ウィルの手が額と胸に触れた。
「何?」
「ごみついてた」
ウィルはそう言うとふっと息でごみを払い、笑顔で去っていった。玄関先まで見送って快人はため息をついた。せっかく初めての友達だったのに、せっかくのお泊りだったのに、つまらなかったなぁ。
快人はウィルが帰った後にもう一回ヴァイオリンを取り出した。今度は調弦も真剣にじっくり行った。そして弓を構える。いつもどおり澄んだ音が出て、ウィルに演奏したものと同じ曲を弾く。ひとつ、ひとつ確認しながら奏でる。そして例のあの場面になった。
が、何も起こらない。やはり緊張でミスっただけだったのか。今度はウィルに満足した演奏を聞いてもらわなくては! 快人はそれからヴァイオリンに没頭していった。
いつの間にか夕方になって電気が必要になった頃、玄関の鍵が開く音がした。
「ただいまー」
しかしリンの声も聞こえないほどにヴァイオリンに集中していた快人はリンが一人の人を連なって帰っていたことすら気付かなかった。
「……! なんだと!?」
リンが目を見開いて、快人の足元にかばんを落とした音でようやく快人はリンに気付いた。
「あ、ごめん。お帰り」
「……馬鹿な……そんな」
リンが呆然と呟くので、快人は瞬きを繰り返した。すっかり暗くなっている。
「リン」
初めて異なった声で快人は知らない人間がいることに気付いた。
「リン、とりあえず電気つけていいかな?これじゃ自己紹介もできやしない」
見知らぬ人はそう言ってぱちっとスイッチを入れた。あまりの驚きに茫然自失しているリンとその背後で笑っている知らない人。
「リン」
その人がリンを呼んだ。リンはようやく、あ、ああ。と頷いて振り返った。
「始めまして、快人くん。俺、リンの友人で同じ会社に勤めているカノン。よろしく」
握手を求められたのではぁ、と生返事をして握手し返す。優しげな微笑を浮かべるその人の説明を求めるべくリンを見る。リンはようやく我に返ったらしく、快人に言った。
「お前が友達を連れたっていうから、少しずつ俺の知り合いも紹介しとこうと思ってな……一番親しい人を連れてきたんだ。俺の上司にもあたるんだけど、年は近くてな」
「近所のお兄さんみたいに思ってくれたらうれしいな! リンから君の自慢はいっつも聞いていたんだ。会えてうれしいよ。目元がリンそっくりだね!」
容姿が違うこともあって兄弟とはあまり見られないが、そう言われるとうれしい。
「快人くんは食事は済んだかい? もしまだなら一緒にどうかな?」
「あ、はい! 行きます!」
「じゃ、用意して来い」
リンが言ったので、俺はヴァイオリンを片付け、部屋に必要なものをとりに戻る。
「リン」
「あの力、えらい大物を引っ掛けたね」
カノンはそう言って意地悪そうに微笑んだ。リンが快人の記した快人を守り、自分達に関係ないようにした防護の印が破られている。しかも相手は気配さえ残して。
「最上級の防御印を記してきたんだろう? それに家を守る結界に傷はない。気配も皆無。こんな芸当できるのは……おそらく」
「『高天原』だ」
青い顔をしたまま、リンが呟いた。カノンは快人が消えていった方向を眺めた。快人の額に残されていたのは新しい防御印。リンが書き記した胸のものにも上書きされたような跡。明らかに快人に接触されている。
「君がいくら言ってももう聞けないね。不安な要素がここまで浮き彫りにされているなんて思わなかった。君の判断ミスだろう。快人くんは『ノルン』に入学させる。いいね」
「……それは!」
リンが言い募ろうとしたとき、快人が出てきた。責めていた顔をがらりと笑顔に変えてカノンがリンと快人を促す。リンの友達を快人は初めて見た。そのうれしさから快人はいつも以上にはしゃいでしまった。
「藤黄!」
天守閣に登った空が藤黄を呼ぶ。
「なんだ、騒がしいね」
奥から寝ていたであろう藤黄が姿を現した。
「どうなってんだよ!!」
「はぁ? なんのことだい?」
目を擦り、空を見た瞬間、藤黄の目が見開かれ、表情が変わった。背後についてきていた黒緋も驚いている。
「お前……それ、どうしたんだい?」
ぼろぼろに擦り切れた封印は確かに昨日藤黄が施したものだ。
「知るかよ! 急に、こうなったんだ!」
「ちょっと、詳しく話せ」
空は快人との出来事を語って聞かせた。
「まさか、お前をだましていたんじゃないだろうね? その快人ってやつは?」
「いや、違うと思うんだ。そんな感じはしなかった」
「じゃ、お前の力に引きずられたってことは?」
黒緋が問う。今まで空の力に引きずられ、体調を崩した人間がいた例があったのだ。
「それなら会ったときからわかっていることだろ?」
「……特殊な環境。おそらくその快人ってのが楽器を弾くときだけ、『感応者』として目覚めるなら……話が繋がるな。そうじゃないかい?」
「そうかも、しれないけど。……でも聞いたことないぜ」
藤黄は少し悩んで言う。
「その快人ってのはお前の見立てもあるし、普通の人間だろう。だけど楽器を持つと『感応者』に変わる。そのことを知っている人間がいて、その快人を利用しようとしているのかもしれない。気配は?」
「たぶん、赤属の『蛇』だ」
「なんということだ!」
黒緋が唸った。
「危険だね。空、もうウィルは捨てた方がいい」
「でも、せっかくの……友達なのに……」
「馬鹿かい? その快人ってのを利用している人間が単純に快人を保護するためだけに防御印を結んでいるならいいが、罠を張るためだけに放し飼いしていたなら、お前は確実にそいつに接触するぞ」
藤黄は空が近づくことで快人に危険がある可能性を提示する。そのことは空とてよくわかっていた。
「じゃ、あと一回。せめてお別れだけでも……」
ふん、と藤黄がため息をついた。
「仕方ないね。とりあえず封印はしなおすとして、俺も黒緋もお前にしばらく付いていよう」
空は仕方ないと言いたげに頷いた。
Episode.5
01: 引火点
リンの上司でもあり、一番親しい友人と言う人は、とても優しくて穏やかな人だった。
日本にいた頃、家族として過ごしていた叔父一家に冷たくされていた快人は、世間もそれを知っていて関わり合いになってはいけないという感じだったので知り合いや友達はいなかった。
それがリンについてきた途端に誰も快人をそんな目で見ない。いかに前の居場所が閉鎖的で冷たかったかを思い知った気分だった。
「快人君も楽器を弾くんだったね?」
リンの友達、カノンはそう言った。
「はい、ヴァイオリンを」
「リンはピアノだね。快人君もうまいんだろうね?」
「いや……独学ですし……」
カノンは驚いた顔をして笑った。
「じゃ、ちゃんと学んでみないかい? リンもそこで学んだことがあるんだ」
「……音楽学校ってことですか?」
「君の力を伸ばす学校だ」
リンの指がそこでぴくりと動く。表情を隠すようにワイングラスを口にした。
「どうだろう? リンとももっと一緒にいられるよ。リンは講師もしているからね」
「リンが!? すげーな。教えてくれたっていいじゃないか、リン」
リンはワイングラスから口を離して、目線を泳がせながら頷くにとどめた。
「君なら入学試験なしに入学で構わないよ。だって、リンの弟だもの」
カノンは微笑んで僕が理事長だしね、と微笑む。突然の展開に快人はあわあわとカノンとリンを交互に見る。カノンはにこにこしているが、リンは複雑な顔をしている。
「で、でも……俺、やっとこっちの学校慣れて、友達も出来たし……」
いきなり転校を勧められて驚いている快人に安心させるようにカノンは微笑む。
「今とは言わないよ。大学進学の時にでも進路の一つとして考えてくれればいい」
「そ、そういう事なら……」
その後は穏やかに楽しく食事は進んだ。快人はカノンと親しくなったことがまた嬉しかった。リンの様子がおかしかったことには、快人は気付くことができなかった。
「どういうことです! ?カノン!!」
翌日のことだった。リンは朝一で快人の執務室に乗り込んだ。その姿を見ていたものはない。私的な事項なので、リンは姿を部下に見せないように朝の時間帯を選んだのだ。
「何が?」
「ノルンに入れるって……そう言ったその口で、貴方は今じゃなくていいと快人に言う!」
リンはそう言って、カノンをにらんだ。
「何を考えているつもりです!?」
「この前さぁ……君抜きで幹部で会議したんだぁ……」
椅子をくるっと回してカノンはリンに背を向ける。
「時間ぴったり、って毎回いかないのはなんでだろうね」
窓際に立っているのはまだ若い男だ。ブラインドの隙間から眼下に広がる町並みを眺めている。涼やかな目が日常を楽しむかのように笑っていた。
男の後ろには普通の会議室の光景があり、男の隣の壁にはスクリーンやホワイトボードがある。一企業の小さめの会議室と遜色ないだろう。集まっている人間が全員スーツを着ているからか、よけいにそう見える。首からはIDカードもかかっているのだ。
「それはお前が悪いだろう? ノヴァはまだ学生だ」
派手なオレンジ色の髪の毛を細かく編みこんだような髪型の男がからかう調子で、なおかつ呆れて言った。
「あ、そっか」
振り返ったカノンは苦笑いを浮かべる。そんな時に走るかのような足音の直後にノックがなされ、息を弾ませた少年が入ってきた。学生服を着こんだ少年だ。
「すいません、遅れました」
「ごめん、授業中だったんだよね?」
窓際から移動し、席に座る。遅れたことをまったく気にしないようで、男は笑って応対した。少年も自分の席がわかっているように当然の如く空席に身を沈ませた。
「でも、知らせを受けたのは昨日だろう? 考えればまともな行動、取れそうなもんだけどねぇ?」
二十代後半くらいの年齢であろう青年が微笑みつつ言う。
「お前には関係ない」
むっとして少年は嫌味を言う別の男に言い返した。
「まぁまぁ、喧嘩はよくないわよぉ?」
にこにこして微笑む女。
「喧嘩なんてとんでもない。こんなガキとする喧嘩なんかありませんよ」
「なら、口を開くな。俺に話しかけるな。お前が視界に入るだけで不愉快だ」
「……同感です。今回の議題をお願いできませんか? 一刻も早く退出したくなりまして」
くすくすと男は笑う。
「じゃ、みんなの時間を取らせても悪いしね、話そうか」
一同の視線が集まるのを待ってから、カノンは口を再び開いた。
「前々から皆には言ってきたけど、後継者の選出を急いでもらいたい。各自、状況はどうなってるかな? 報告してくれる? じゃ、まずは……ビアンカから」
話を振られても、前から答えを用意していたかのような余裕ぶりで微笑む女は答えた。青色の目は大人の妖艶さを併せ持っている。
「選出は済みました。打診はまだなんで、教育もまだですけどね」
ふーん、と皆が反応する。
「それは一般人から?」
「いえ、ノルンから。序列4位の生徒です。名前はアクア・マイナ」
「ああ、あの例の秀才か! でもちゃんと誘えるのかい?」
「靡かせます。チラつかせてでも、私の後継はあの子しかいません」
自信満々に堂々と言うので、男は微笑んで言った。
「わかった。任せる。早々に選出の意を伝え、教育に入って」
「わかりました、カノン」
「次、キルシー」
するとニカっと笑って、若い男は頭をかいた。
「いやー。それがまだなんだなぁ」
ため息をつくカノンに向かってキルシーと呼ばれる男は言う。スーツよりラフな若者の格好の方がはるかに似合っているだろう。しかし黒いスーツが派手なオレンジの髪と何故か合っている。
「だぁいじょうぶだって! ノルンから見つくろうから」
「そんなんで大丈夫なの? 急いでよ。じゃ、次、ヒルシャー」
「私は大丈夫ですよ。もうご存じの通り教育に入っていますから」
「そうだったね。じゃ、ノヴァは?」
少しの間をおいて少年が言う。学生服に身を包む、この場にそぐわない少年は目をそらせて言った。
「……まだです」
「そう? 君には優秀な弟がいるんじゃなかった?」
微笑んであくまで聞いてみただけ、というように言うボスに、ノヴァと呼ばれる少年ははっとして顔を上げた。
「ニコはだめです!」
「どうして?」
「ニコは俺と年齢が近すぎます。選出しても無意味じゃないですか! 交替は10年毎なんでしょう? ニコを選んだ所で……問題は解決しない!」
「でも、君が死んだら……後がいない。『緑属』だけは後継の集団を持っていないからね。色付きはもうこんなに数を減らしてしまった。一属消えるだけでも困るんだよ? 言っていること、わかるよね?」
「そうねぇ。先代の『緑の長』も、急死だったものねぇ」
「それに、若くして幹部になった君だ。このままじゃ弟さんにも危険が及ぶなら身の守り方位、教えた方がいいんじゃないの?」
ビアンカとヒルシャーが続けて言った。
「お前には関係ないと言っている!」
「関係ならある。お前に脚を引っ張られては困るから」
微笑むにとどめた男は少年に言い聞かせるよう言った。
「弟さんも君の力になりたいようだったけど? それでも?」
「……ニコには向いてません」
「ヒルシャーの言う事も一理あるって、君なら分かっているだろう?」
「……」
すると、今まで黙っていた男が初めて口を開いた。
「そういういやらしいやり方は変わらないね、君はずっと」
カノンがふり返る。その顔には初めて笑みが消えていた。
「何が言いたいのかな? イルマ」
「相手が一つの道しか選べないように誘導する意地汚いやり方は君にぴったりだけど、見ていて不愉快だ」
「そう? そうでもないけどね」
火花が散るかのようだが穏やかに言い返す。
「そういう君は?」
初めてカノンの方に向き直ると、男は心底馬鹿にして笑う。
「そんなの考えているわけないじゃない」
「次代の育成は長の義務だよ?」
「君の組織の行く末なんて僕には関係ないよ。僕はあの子のために君に仕方なしに力を貸してやったにすぎないもの。『黒属』を存続させるなら君がどこからか見つくろってくれば?」
「あっはっは、イルマらしいなー」
キルシーが豪快に笑う。カノンはつられたように再び笑みを戻して言葉を続けた。
「って言うと思ったから、君のトコは僕が選出したよ」
「は?」
イルマが言い返す。
「君のご家族に適任が一人いたみたいだからね」
「ふざけるのも大概にしてくれる?」
「冗談だと思うなら、その時まで待てば?」
「一回死ねば?」
「お前こそ仮にもボスの前だ。口を慎んだら?」
「ボスらしい行動を取ってからにしてほしいものだね」
そう言ってイルマはあからさまなため息をついて口を閉じた。
「まぁまぁ!! 今はノヴァの話だろ? カノン!」
キルシーが落ち付かせるように言った。やれやれと苦笑を絶やせない。
「まぁ、急いでね。本当に間に合わないようなら弟さんを後継に出す事を命令するからね。君がいやだというならしょうがないんだけど、僕もせかされていてね。僕の立場も理解してくれるかな?」
「……は、い。……」
少年は気落ちしたかのように背もたれに身を沈めた。
「そういうボスは?」
「俺? 見つけてるよ? とっくに教育もしてる」
「そう言えば、一番後継の問題と言えばリンはどうしました?」
ヒルシャーが言う。微笑んでカノンが言った。
「彼なら心配いらない。今、後継を迎えに行ったからさ」
「迎え?」
「うん。日本に、弟さんをね」
「リンさん、弟いたんですか?」
カノンは微笑んだ。それは快晴を喜ぶように。
「らしいよ」
ふん、と鼻を鳴らしてイルマが退出する。それをきっかけに会議は自然に終了した。
「君の後継の話になった」
リンは眼を見開いた。
「俺は! そんなつもりで快人を連れてきたのではありません!!」
後ろを向きながらカノンが言う。
「ノヴァといい、君達兄弟はブラコン度が激しいよねぇ……?」
その瞬間にリンがびくりと震える。
「普通はねぇ、人間は自分の血族により多くの力を残したいと考えるものだよ?」
振り返ったカノンは笑っている。だがその顔が本気を言っているように見えた。
「ノヴァはまだ子供だし、ニコラ程度の人間はいるからね、そんなに突っ込まなかった。だけど、リン? 君はもう大人だし、君の弟は高天原の大物を捉えた」
「う!」
立ち上がったカノンは突然リンの首を掴んで、執務室の机の上に押し付けた。驚いて抵抗しようと身体を動かすが、甘い顔をしてカノンが微笑む。
「抵抗するの? この俺に」
「……っ!!」
その瞬間にリンの抵抗が一瞬の緊張の後に突然止む。カノンは微笑んだ。
「そう、いい子だ」
カノンは微笑んでリンの手を取り、口づけた。リンは眼を見開いて口づけに抵抗しようとしたが、口づけの最中にも哂って見つめるその瞳に意志を折られた。次第に眼を閉じて行くリンに満足したかのようにカノンも眼を閉じた。
「朝、ですよ……?」
口づけの最中に色っぽい吐息を吐きながらリンが呟く。
「そうだね、俺の部下が君の痴態を見ないようにせいぜい声を気を付けるんだね」
「っ!」
しまった、鍵を自分で賭けておくんだった。だが、もう後の祭りだ。カノンはリンに手を伸ばすが、服さえ乱されない。もういつ誰が来てもおかしくないからだ。
リンは慣れた様子で下半身の服を乱す。カノンはこういうときは優しくない。知っている。羞恥を厭って待ってなどいたら本当に彼の部下が来てしまう。だから、自分でやるしかない。大丈夫、もう慣れた。
「へぇ……自分で慣らしてくれるの?」
「はっい」
指を唾液で湿らせるだけではきついことはわかっているか時間は時間だし。指を突っ込む。無理やり入れたせいで慣れない場所が指を押し返すがそれを無理に押し進める。自然と眉根が寄る。それを満足げににこにこ笑ってみるカノン。
「痛そうだね? 手伝ってあげようか?」
「いえ……カノンの手を、煩わすわけ、には……」
「そう? まぁいいよ。おいで」
カノンは覆いかぶさっていた状態から執務机の前のソファに座って己の下腹部をくつろげた。リンは頷いてゆっくりとカノンの上に乗った。リンはまだ慣らし切ってもいない己の後孔にカノンを宛がい、埋めていく。
「ああぁ!!」
自然と力が入ってしまう。それを必死に息を整えて、痛みを堪えて、リンはカノンを己に埋めて行く。はやくこの行為が終わればいい。
「……遅い!」
「いあァあ!」
カノンがこらえきれなかったのか、リンの腰を掴んで下から一気に己を突きあげる。リンは目の前がスパークしたかのように、頭が真っ白の快感に襲われた。痛みすら気持ちよく感じる。
「あ、ああん」
早急に激しく揺さぶられて、何も考えられない。リンは快楽の中に溺れてしまえばいいとさえ感じる。というか何も考えられない。
知らない間にリン自身にコンドームを装着されていたことに気付かなかった。吐きだした後にカノンに微笑まれながら外されるものまた恥ずかしい。
リンは真っ赤な顔で後始末をしてくれるカノンにされるがままだ。カノンはけっこうキチクだが、後始末は何時も丁寧で事後は優しい。
「ありがとうございます」
「ううん。いいんだよ? リンが一日仕事できないと組織が半分機能しなくなっちゃうからね」
「そうですか」
息絶え絶えだが、終わった。リンは服を整えて情事などなかったかのように立ち上がった。いろんなところで身体が悲鳴を上げるが表情に出さないよう無視する。
「リン次第だ。快人くんをどう扱うかは」
リンはもう振り返らない。やはり連れてくるのでは……なかった。たとえ快人が苦しかろうと、あの日々の方が快人にとって安全ではあったのに。
「でも、ノルンに入れることは決定だ。みすみす高天原に取られるわけにはいかない。それとも何か対策を考えたかい?」
急に組織の長の顔に戻ってカノンが言う。だから、リンも私情をはさまずに部下として応えた。
「もし、高天原ならもう一度接触してくるでしょう。快人が釣ったのは高天原でも大物の様ですし、一人で来る可能性が高いと思います。なので、俺が一人で対応しようかと。俺は『感応者』ですから」
カノンは頷く。
「そうだな……そのときが捕獲の最大のチャンスだろう。だけど、いいかのかい? 高天原はもとはと言えば紫属の追っていたヤマだ。ヒルシャーへの報告は?」
「……高天原の確定ではないですから、未確定で済ませます。もし必要ならノヴァに応援を頼みます。力の相性がいいのがノヴァですし……ノルンへの快人入学を考えればノヴァが適任でしょう」
にやりと心の中で笑う。リンはいつもそうだ。自分には折れるし、弟を大事に考えていても、常に最悪の事態を想定している。だから、入学後に弟に憂いが少ないようにさせるにはどうするかさえ、考えていた。
「許可する。出動の規模はどうする?」
リンは即答した。自分の想いがどうであれ、組織の為にあらゆることを考えている、そんなリンがカノンの右腕と言わしめる所以である。
「相手はいつ来るかわかりませんし……事は極秘が望ましい。ノヴァなら遠距離支援できますしノヴァと俺だけにしましょうか……最悪ノヴァがいれば快人は守れます」
「わかった。ノヴァへの招請は君がしてくれ。では快人君の入学手続きは進めてしまうことでいいね?」
うまく言いくるめられた。リンは心の中で舌打ちする。自分のために快人を引っ張ってきて、そして巻き込んで。最悪の兄だ。
しかもそれを心から厭っているのではない。こうなっても仕方ないかな、と甘く考えていた自分が居る。それを自覚しているだけにリンは自分を殺してしまいたいくらいだった。
「……はい。仕方ないですね。ただ、長への件は保留ですよ。才能の有無さえわからないんですから」
「わかっているよ」
リンは最初からカノンのこと責めていたわけではないようだ。きっとリンも快人への守護印を破られた時に時間がないことに気づいていたのだろう。ただ、己の意志を示すためだけに来たのだ。快人だけは好きにさせないという。
そういうところがカノンがリンを愛している理由の一つだ。リンは抱かれた気配さえも見せずに、すきっと背筋を伸ばして退出する。カノンは最後まで微笑んでそれを見た。
イルマはむしゃくしゃしていた。この前のカノンの態度はすごいもう、何度殺しても飽き足らないくらいにまじめに殺してやりたかった。
追い討ちをかけたのは、リンが弟を迎えに行くという行為が、あの男の計画に利用されたことだ。カノンがいくら決めようが、勝手に自分の遠縁を連れてこようが、好きにすればいい。イルマ自身は何をする気もないからだ。
――コンコン。
少し遠慮したかのような静かなノック音。思わずイルマは壁にかかっている時計を確認してしまった。夜更けの2時過ぎ。人が尋ねてくるには少々おかしい時間だ。
「誰」
短くドアの向こう側に問う。――返事は、ない。
チッと舌打ちをしてしまう。誰だよ。というかイルマの性格上、こういう相手は無視する。しつこいようだったら、加えて報復した方が早そうだったらそうすれば言いだけの話だ。
――コン。
今度は一回きりのノック音。イルマははっとして扉を開けた。
「よぉ」
「やぁ」
にやっと互いに笑み。ドアの前に立っていたのは疲れた表情を隠しもしない素のリンだった。
「今から邪魔してもいいか?」
「どうせ眠れなかったんだ。中に入ったら?」
リンは礼を言うこともなく中にすっと入る。リンの後ろ足がドアの内側に入った瞬間にドアを施錠し、リンの手首を掴んだ。
リンは驚くそぶりも見せず引かれた腕ごとイルマの方に身体を預ける。リンの耳の後ろに鼻を近づけて臭いを吸い込む。一日も終わった今、かすかなリンの好むコロンの香りがした。
思わず耳の後ろからうなじにかけて嘗め尽くす。コロンの倒錯的な香りとかすかに汗の混じった甘い味。リンの身体を今、抱いている。されるがまま抱かれていたリンの腕がイルマの腕を掴む。タイミングを計ったように、目線が合い、唇が交わった。
「ん、ふっ……そう、がっつくなって」
くすくす笑いながらキスの合間にリンが囁いた。その声でさえ、熱を帯びている。
「何ヶ月待たされたと思ってんの?」
乱暴に腕を掴んですばやく寝室の扉を開け放ち、ベッドにリンを放り投げる。
「ひでー扱いだなぁ」
笑いながらリンがネクタイを首から抜いた。獣のようにイルマがその身体に覆いかぶさる。
「僕を待たせた君が悪いんじゃない?」
「へーへー。そうですね」
リンが笑いながらイルマの上着のボタンを外していく。イルマはその間にリンのスーツの上着を脱がせ、椅子の背にかけた。ベルトのバックルに手をかけて鮮やかに腰から拘束具のようなその黒い革を抜き去った。
「ふふ」
リンが笑う。
「何がおかしい?」
「おかしーんじゃねー。俺はお前の裸が結構好きだったんだなァって思っただけさ」
「そりゃどうも」
上半身が互いに裸になった頃、イルマの黒い瞳がリンの目を射抜く。しかしリンも視線を反らさない。にらみ合うライバルのように二人して見詰め合うこと数瞬、引力が働いているかのように口が二度目の邂逅を果たした。
「ん……」
リンの瞼が現実の幕を下ろすかのようにゆっくり閉じられる。いいよ、君にとっておきの非現実を見せてあげよう。さあ、互いに熱を貪るように与え、奪い合おう。
色の濃いシーツに散らばるリンの淡い金髪。さらっとしていて梳くと手から逃げる。だけど逃がさないよう握り締めて、リンの顎を好きに向けて深くまで舌を伸ばした。食らうかのように唇に歯を立てて熱い口を味わった。
唇を嘗め尽くして視線を上げる。それは誘惑するかのように見上げる青い目と出会った瞬間だった。リンの耳の横に腕を立てて、その姿態を視姦する。白人にしてはあまり白く感じない健康的な肌に見えるのはたぶん、日本人とのハーフだからだ。そばかすやシミがない肌に手を滑らす。
「惚れ直した?」
「まぁ、魅力的ではあるね」
胸の飾りに手を伸ばさずに、それを口に含む。くっと吐息を漏らすリンを笑い、久々の身体を甘い攻撃で陥落させることに集中した。ぴくりと痙攣したかのようの動く体がリンの反応をそのままダイレクトにイルマに伝えてくれる。
「触って欲しい?」
視線で問うと、すっかり上気した頬をさらしてリンが濡れた視線をよこす。
「触りたいんだろ?」
「ふん、まったくわがままなお相手だ」
いつもならネチネチいじめ倒してやるところだが、久々に出会った体がもうリンを欲して爆発してしまいそうだ。だから、素直にリン自身を口に含んだ。
「あぁ!」
うれしいのか刺激に耐えかねたのかどちらともとれる悲鳴を上げる。すばやくジェルを手にとってリンの後穴に指を突っ込んだ。鼻から抜けるような色っぽい息を吐き出してリンが反応する。しばらく探っていて、そうしてふと気づいた。
「なんか、緩い?」
「……そうか?」
「なに? 自慰の時に自分で慰めたりしたってことかい?」
「お前を思ってな……なんてな」
イルマはリンに笑いかけたが、理由はわかっていた。
「嘘は要らないよ。リン、あの男に抱かれたんだろ?」
リンの身体が一瞬強張る。ふーっと長く吐いた息がすでに答えを語っている。
「悪い」
「構わない。僕は愛人、あの男が本命。それが契約だ」
「お前をいつも俺は利用する」
リンは済まなさそうな顔をしない。事実を述べた。そこが気に入っているところでもある。それは本当に悪いと感じている証拠だから。相手の同情を誘うような真似だけはしない男だ。
「構わないと言ったはずだよ。君が自分から来るのはあの男を忘れたがっているときだから」
それが僕にはうれしいし、と続ける。
「俺は、今でもお前を愛している。それがずるく卑怯で、最低な答えと俺自身がわかっていても」
「大丈夫。僕も君を愛している。この愛が君を傷つけたとわかっていても」
イルマはリンの手の甲に口付けた。一瞬、リンの目が怯えを表す。しまったと心の中で舌打ちし、今までを塗り替えるように欲望の言葉を吐いた。
「さ、そんなことはどうでもいい。君を喰らわせてくれる?」
「喜んで」
二人の夜は始まったばかりだった。リンの恋人はカノン。そして愛人はイルマ。そう三人で『契約』した。それで三人とも納得している。リンと肉体関係を結び合うその関係に終止符が打たれることはないのだろう。
リンはそのときの気分で二人の男を漁る様に、どちらかの男に愛を囁き、肉体を結び、そうして少しずつ病んでいる。
そんな己を許せないのだ。許せなくてそんな自分が汚らわしく、憎らしいのにそれをやめることが出来ない。そんな自分を嫌悪しすぎて、リンはいつでも疲れている。その疲れを忘れたいが故にこうしてあたらしく罪を重ねるかの如く、相手に凭れ掛かる。その悪い無限のループにはまり込んでいる。リンもイルマも、そしておそらくあの男も。
あの男はどう考えているか知らないが、リンが日本に発ったことはいいことだったと思う。何もかも忘れ、自分のことを知らない相手と共に過ごしたことが。
だから離れることが耐え難くて、弟を連れてきてしまったのだろう。それが新しく自分の首を絞める可能性に気づいていながら。だから、考えさせなければいい。それが一晩でも一瞬でも構わない。リンをただ、快楽に落とし込んで、獣のようにそれだけを追い求めさせてやれば少なくともその間だけはそう考えずに済むだろう。
――その行為自体が罪なのだと誰もがわかっていながら。
そして夜は更けていく。
「で、話ってなんだよ? ウィル」
快人は学校帰りにウィルに呼び出されていた。その様子がいつもとはちょっと違ったので、快人自身も何か変だなぁとは思ったのだ。
補習があったゆえに遅くなったのだが、ウィルは待ち合わせた公園で待っていてくれたようだ。もう黄昏時で、遊んでいた子供達もとっくに帰っていった時刻だ。
「あの、さ……」
ウィルは言い出しにくそうに口を開けたり閉じたりしていた。その視線は左右を彷徨っている。快人は余計に疑問に思った。
「おー、快人!」
「リン!」
振り返って驚いた。仕事帰りのリンが道路の向こう側で手を振っていた。
「誰?」
「兄貴。前話しただろ?」
「ああ、ピアノの得意な……?」
「学校帰りか? 丁度いいな ?どっかメシ食いに行くか? ……っと友達?」
初めて気付いたかのようにリンは気さくに笑ってウィルに握手を求めた。
「初めまして、快人の兄です。リンっていうんだ。よろしくな。いつも快人と遊んでくれてありがとな!」
「お前の兄ちゃん美形だな!」
ウィルは驚いて笑う。へへっと快人は照れて笑った。
「初めまして……俺は」
ウィルがそう言ってリンの手を握った瞬間、バチっと激しい音と共に互いの手を弾いたのだ。両者とも驚いて目を見開いた次の瞬間、二人の顔つきが変わる。
「お前が、快人に手を出したのか!!」
「蛇だな!」
両者が同時に叫ぶ。次の瞬間、にらみ合った二人に快人が驚く。
「え、え?! どうしたの? ちょ、リン! ウィル!!?」
「快人!」
リンが快人の腕を引っ張って背後に庇う。ウィルは目を怒らせて両手を合わせた後に、慮手を重ね合わせたまま回転させていく。すると怒りに染まるウィルの目が澄んだ青色に変じていく。と同時に徐々に姿が変わっていくではないか!
「ウ、ウィル……?」
ウィルと思っていた人はすっかり別人になっていた。人間とは思えない緑色の長髪。澄んだ意志の強さを表す青い目。そして不思議な格好。ヴァイオリンを弾いていた時に一度見た、あの少年だった。
「答えろ。お前が快人の保護印を破ったのか?」
詰問口調でリンが睨む。
「あの家が特殊ということにも快人に保護がかかっていたのも知ってる。不可抗力で解けたから俺がかけ直した。……お前も答えろ。快人は利用するためにつれて来たのか?」
「そんなわけあるか! 俺の大事な弟だぞ!!」
リンが怒鳴る。ウィルはその様子を鼻で笑った。
「どうだかな。お前ら蛇は手口が汚いからな!快人は普通の人間だった。お前たちが手を出していいような人物じゃない。兄ってのも本当かどうか? お前らは記憶操作に長けるからな!!」
リンが快人の手を握ったまま言う。
「快人を連れ去るつもりか? させると思うか?!」
次の瞬間、リンが素早く空中に何か図形を描いた。衝撃波みたいのが飛び出す、特撮ものお手上げの場面だった。快人はただただ驚くしかない。
するとウィルだった少年は腕を伸ばし、空中から何かを掴むようにして手首をひねる。するとその手に吸いつくように1mほどの棒が握られていた。それを回転させてリンの衝撃波みたいなのを防いでいる。
「はぁあ?!! ちょ、ちょっと!」
リンに腕を引かれたまま公園内を走り抜ける。リンが肩を怒らせて、ウィルだった少年と争う気配だけが満ちている。
リンは左腕に快人を抱えて右腕で空中に文字か何かをなぞるように書きつづける行為を続ける。
「どういうつもりだよ! リン!!」
「説明してる暇はない!」
リンがそんなに好戦的なのを快人は初めて見た。何も言えなくなるほどの真剣さだった。
「やはり、現れたか」
突如上空から声が響いたと思った瞬間、ウィルの隣に金髪の青年が現れた。
「藤黄」
「空、別れを済ませるだけじゃなかったかい?」
「事情が変わった」
リンはもう一人相手が増えたと知ると、右足を動かして地面に何かの模様を素早く描いた。そしてもう一歩下がる。
「ははぁん……」
金髪の青年がウィルの隣に並び、リンをしげしげと眺め笑った。
「蛇か……。空、お前蛇に好かれるな」
「蛇ね……。高天原は当たったか……。で、大物お二人さんがか弱い蛇一匹を食い殺してくれるってわけですか?」
リンはじりじりと後退する。さすがに二対一は分が悪いようだ。
「さっきから見ていたが、その戦い方……赤い蛇だろう?」
金髪の青年がふわりと微笑んだ。
「赤い蛇は珍しい。俺としては、そこのガキよりはお前が欲しいな」
ふっと気付いたら距離を詰めていた青年はリンの顎をすくいあげる。
「そううまくいくかな?」
リンが笑った瞬間に、二人の間を裂くように緑の光が通り抜ける。青年ははっとして距離を取る。そして辺りを見渡した。すると、金髪の青年が現れたのと同じように唐突に人影がその場にうずくまっており、再生された動画のようにその人物がゆっくり立ち上がった。
「……かなりの大物だね」
振り返った人物は白いフードを目の下までかぶっていて、人相が伺えない。だが声の調子から若い男であることはわかった。
「高天原で間違いない。俺らを蛇と呼んだ」
リンが固い声で言う。人物はそのままリンの傍まで歩み寄り、快人の手を取った。
「頼むぞ、ノヴァ」
「ええ。気を抜けないですね……金髪の男、たぶん……」
「わかってる」
リンが言う。前を向いたその顔の厳しさは快人が見たことがないものだった。そしてリンの隣に現れた白いフードをかぶった誰かが快人に素早く触れ、何かをしたと思った瞬間、快人の周りに緑色の薄い光の壁が出来た。
それを見て金髪の青年は口笛を鳴らす。称賛を贈っているようだ。
「頭巾はいいのかい? 赤い蛇」
金髪の男が笑って言う。リンも笑うだけの余裕で答えた。
「今更必要ないだろう……そっちは、高天原の天だと思っていいか? 珍しいな、外界に出てくるとは」
「ご明察だ。さすが赤い蛇は優秀なだけある。……見たところ、そっちの彼は緑の蛇じゃないか? そちらこそ表舞台に出るのは珍しいな」
「絶対に快人は渡さないための布陣だ。俺の弟位自分で守って見せる」
リンはそう言って口元には笑みを浮かべつつ、視線は鋭く言った。
「空」
金髪の男がウィルに言う。
「お前の分が悪いようだが?」
ウィルだった少年が叫ぶ。緑色の光越しに必死さが伝わって来た。
「快人! 俺と来いよ! 蛇は油断ならない! 絶対信じちゃだめなんだ!!」
「どうして? なんでリンと闘うんだよ! なんか、知り合いなのか? そもそもお前、ウィルなのか??」
快人も叫び返す。
「……兄弟なのに何も知らないのか! やっぱり蛇は信用できない!!」
「お前に俺達の在り方に口を出されたくない。こちらからすればお前こそ信用できない相手だと言うことを忘れるな」
リンが冷静に言い切った。
「木賊(とくさ)が!! お前らが木賊を殺したんだぞ!! そんな奴らに友達を預けられるか!」
「お互い様だ。文句を言う相手を間違うな。お前たちの大事なものを俺たちが殺そうが、お前達が俺達の仲間を殺したのも事実なのだから」
フードをかぶった誰かが冷静に言い放つ。
「許さないぞ! 木賊だけじゃなくて……快人まで!」
ふっとフードをかぶった人が鼻で笑う。
「人間でもないくせに、人間ぶって友達だと? 何様だ、お前。お前たちの様な化け物の巣窟に人間が入り込んで無事だという証明こそしてから、スカウトに来るんだな」
「ノヴァ! もういい」
リンがそう言う。金髪の青年とリンが一瞬視線を交わし合う。
「空、引くぞ。相手が赤い蛇でよかったな。こちらとて、もともとその少年と別れるためにいたのだから。目的は達した」
「藤黄!!」
淡々と言った青年にウィルが叫ぶ。
「馬鹿め。いくら敵対する相手とて、人間を保護出来るわけがないだろう、俺たちが。相手の家族なら任せてお前が去るべきだ。今ここで蛇を2人相手にする方が得策じゃない」
「こんなやつら、俺とお前がいれば!」
引きさがらないウィルに青年は首を振った。
「相手は蛇の長だぞ。……確証はないがな」
ぐっとウィルが黙りこむ。リンは静かに言い放つ。
「こちらも大物と天を相手にするのは本意ではない。引いてくれるなら追わない」
「いいの? リン。相手、高天原だよ」
リンは敵意がなくなったことを示すかのように腕を下げた。相手の金髪の男も頷いてウィルを下がらせる。
「空、もう会うことはない。お前の初めての友だ。別れを言って来い」
不満げだったウィルはしぶしぶ棒を消し、快人に視線を向けた。
「快人!」
「な、どういうことなんだ?! お前はウィルなのか??」
慌てて訊く快人の言葉に答えず、ウィルは一方的に言った。
「お前がこれから俺達の敵になるなら、容赦はしない。だけど、今まで友達でいてくれてありがとう。じゃーな」
青年がウィルを覗き込む。わずかに頷いたのが見えた。
「おい!! ウィル!! ウィル!!」
叫ぶ快人の目を一回だけ見て、ウィルだった少年と、青年はまるで夢のようにその場から消えてしまった。
Epilogue 快人の手紙
久しぶりだな。手紙を出すのも。この前貰った手紙から3ヶ月も空けてしまった。悪いな、忙しさを理由にするつもりはないんだけどさ、つい。
手紙っていいよな。メールと違って文字を簡単に消したり、追加したり出来ないから真剣にお前と向き合える気がする。
さて、冒頭から話がずれたな。こっちはようやく春だ。暖かい日も増えてきた。お前は元気か? この季節だとニューヨークはまだ氷点下かな? 世界をあちこち飛び回っているお前だ。国によって気候が違うだろう? 身体を壊してたりしないか? ま、俺も人のこと言えないくらい各地に飛び回っているけれど。
手紙を見て驚いたよ。メールでとりあえずお祝いはしたけど、改めて言わせてくれ。女の子が無事生まれてよかったな。おめでとう。あの時は名前をまだ決めてないって言っていたけれど、名前はもう決めただろ? 今度の手紙で教えてくれよ。俺もお前の子に会いたいからさ。機会を作って会いに行くよ。
こんな事言うといけないと思うけれど……俺、本当にお前のこと好きだったよ。お前も俺のこと愛してくれたよな。お前と別れてしまったけれど、お前が綺麗な奥さん見つけて、子供も出来て本当にうれしい。家族みたいにうれしく思っている。幸せになるべきなんだ。お前も、もちろん俺もだ。俺だってお前に負けないくらいのかわいい奥さん貰う予定なんだぜ。
俺、お前と過ごした日々は楽しかったし、うれしかったし、幸せだった。お前を愛していたかと聞かれたら、俺はお前のこと愛していたよ。でも、あの時は別れて正解だったと思ってる。今も、何度でも俺はこの選択を後悔しない。お前は俺のこと気に掛けて悔やんでくれたみたいだけれど、むしろお前は関係ないからな。本当に幸せになってくれることが俺の幸せでもあること、忘れないでくれよ。だから、お互いに幸せになろうぜ? な。毎回手紙に「すまなかった」とか「あのときの気持ちは本当だった」とか書くなよ。奥さんに読まれたら浮気してると思われるぞ? 俺、そのせいでお前の新婚家庭を壊すなんて真似、嫌だからな。まったく、過去にゲイだった男を差別無に好きになってくれる器の広い奥さん、あの人だけだぞ。大切にしろよ。
さて、筆を取ったのは、いつもこの話題で申し訳ないが、リンのことだ。とりあえず経過は順調だ。普通に歩いたり短い距離なら走ったりもできるようになった。まだ人の多い場所に出したりはできないけれど、歩行に問題はないさそうだ。これも、空と藤黄のおかげだ。ピアノももう不自由なく弾けるみたいだ。毎日ピアノが響いているよ。この前はキルシーが来てくれたんだ。約束した通り、楽器を一つ学んできてリンと弾いてくれたよ。でも、楽器何だったと思う? リコーダーだぜ? 日本に言ってわざわざ買って子供に教えてもらったんだってさ。簡単だと思ったんだと。キルシーらしいよな。奥さんのビアンカはフルートを携えてちょくちょく来てくれる。きっかけはリンだったみたいだけど、今では趣味にフルートを吹いていると言っていた。
そうそう俺は赤い蛇の長の座をリンから引き継いだけど、イヴやノヴァ、ニコラたちと一緒に前の組織の権威を利用して、組織の解体を進めてる。京も京の立場で陰ながら協力してくれてるだろ? ありがとな。組織の目的ってさ、ちょっと考えれば無理だって、馬鹿だってわかることだよな。お偉いさんの考えることってわかんねー。だから、高天原もそっとしておけばいいと思うんだ。藤黄も空もちょっとずつ協力してくれて、それで俺達の代で終わらせようと思っているんだ。これ、俺らの現状ね。
で、そんな忙しい毎日にリンの笑顔は結構癒し。ピアノ弾くリンは本当に楽しそう。リンと一緒に楽器を弾くとみんな楽しんで帰るぜ? 俺もヴァイオリンを弾くし、そういう風に音楽を好きになってくれるのはうれしい。リンも楽しそうだ。ただ、残念なことにノヴァとニコラは楽器を学ぶことはあってもリンに会うことはないって。病気に障ると申し訳ないって言われた。気にしすぎだよな。最初はさ、確かにひどい状態だったから。俺にもあんな態度で、誰にも寄り付かなくて。だけどさ、ヴァイオリン弾いたら、反応してくれたんだ。それがうれしくてさ、そしたら指を動かし始めたからピアノを置いてみたら弾いてくれて、俺超嬉しくて、嬉しくて。身の回りの世話してくれる長谷川さんは鼻歌うまいことに気づいて。だからあの時見舞い客に制限を設けた。ストレスにならないように “何でもいいから一つ楽器を弾けるようにしてリンに会いに来て欲しい。でなければリンには会わせない”っていう制限。会いに来てくれた人はなんかしら楽器を持ってきてくれた。やっぱりリンは音楽ならにこにこ笑う。それでピアノ弾く。今はそれでいいと思う。だから、お前も会いに来ていいんだぜ? リンの為にチェロを習ってくれたんだろ? 俺のヴァイオリンと合わせやすいようにって。俺、嬉しかったぜ。…この前な、あの男が、イルマが来たんだ。サックスを携えて。ジャズだったけど、リン楽しげに聴いてて、即興で合わせてもいた。だから、もういいんだよ。お前もリンに会いに来てくれよ。……ま、相変わらずあいつらは、こないけれどな。でも、いいんだ。何の楽器を携えてくれるのか楽しみに待ってもいいし、ずっと来なくてもいいからさ。俺は。楽器を携えてリンが笑ってそれを聴いてくれれば、俺は過去の関係は水に流すって決めたんだ。少なくとも今のリンは許していると、そう思うから。
だから、きっと。きっとだぜ。リンに会いに来てくれよ。トリオ組もうぜ。
じゃ、また。元気でな。互いにもっと暇になって会えるといいな。
20XX年3月
橘 快人
香月 京 様
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