天狗
第四話 四練
緑が濃く匂う山の中。何人たりとも足を踏み入れること叶わぬ山がある。
それは山神が住まう山。その山は深い深い緑が作り出す常闇と命の息吹が感じられる。
木々は高くそびえ根元には光は届かない。しかしその木の上には日の光がさんさんと降り注ぎ生き物たちの楽園と化していた。
生い茂る新緑の季節。もう、この山にも命を最も活発化させる夏がやってきた。鳥は鳴き、子が育つ。
しかし季節に関係のない生き物もこの山には住んでいた。それは天狗。
天狗とは山神の配下たるアヤカシの一種だ。天狗は山神に従い、山を守ることで生存を許されたもの。
浄化の力を持ち、高い霊力で山を丸ごと自身の結界の中に隠し、山自身を異境の地にして守るのだ。
ここらの山には道主(どうしゅ)と呼ばれ天狗たちの長たる山神が治める広大な山脈があった。その山に道主に命じられて結界を張る役目を担う各山の最強の天狗が八匹存在する。
その天狗を八天狗と呼び、道主から預けられた山の主として宮となる。
宮となった天狗は配下を持ち、集団で生活する。
こうして出来上がった天狗の集団の四番目。四宮(しのみや)の宮は現在若い。五十年前に宮の世代交代をした四紋(しもん)の号を持つ天狗が治めている。
天狗は人間よりは長生きするが他のアヤカシからすれば短命かそこそこの寿命で三百から五百年しか生きない。
四紋は現在百五十歳。ようやく人生の半分を生きた。宮としての生活は五十年。短い。
よって配下にいさめられる事がしょっちゅうで若い四紋には少しばかり不満だった。天狗でいう百歳台は遊び盛りだ。霊力も伸び盛り。しかし四紋は宮だから遊べないし、霊力が伸びても道主が管理しているからわからない。
実につまらない生活だった。というのも宮はその山の象徴のような役割もあって、配下の年老いた天狗は四紋を叱ってばかりだった。
四紋の方が偉いのに立場はまるで逆転している。というのも四紋があまりにも子供っぽい性格で天狗の宮として頼りないのと、四紋の外見が天狗らしくないのがもっぱらの原因だった。
四紋は天狗にしては本当に変だった。眼は赤黒く、髪は茶色くて明るい。本来天狗は髪は黒が多く、他の色があってもそれは黒に近い暗色になる。瞳は逆に原色が多く、四紋にはどちらも当てはまらなかった。普通の天狗なら変わってるのぅ、で済むのだが宮となるとそうもいかない。
天狗らしくないのはその山には天狗らしくない天狗の集まりとほかの山に思われてしまうからだ。それを気にして配下は四紋に宮らしく住処に篭り結界を張り続けろと云う。
冗談じゃない。遊びたい盛りの天狗だ。四紋はもともと霊力が高く生まれ、四宮に属した。そこで楽しく仲間と遊んで暮らし山を慈しんできた。それでよかった。別に宮になりたいわけではない。
が、普通に遊んでいたら気づけば四宮一の力を持つ天狗になっていた。
「宮さま、どちらへお行きになられます」
「どこだってええやんか」
「いけません。宮さま、先に宮にならはった三虫(みつむし)さまは毎日住処にてがんばっておられますねんで。あんな小さな天狗にできてなぜ宮さまにできひんのですかいな」
「三由(みよし)の後釜やもん、気ぃ張ってんのと違うか」
「普通の宮は三虫さまのようにお過ごしにならはります」
四紋はため息をついて山吹色の狩衣を翻した。
「お前の小言には付き合うてられん」
「小言やありまへん。宮さま」
配下が叫ぶのを放置して四紋は空間転移を行って逃げた。四紋だってわかっている。宮とはどうあるべきか、どのような存在(もの)か。四紋はこの性格が幸いしてほかの山の宮とも仲がよかった。ここで他の宮について改めて考えてみた。
一宮(いちのみや)の宮は昔からの天狗で最年長だ。髪も白く、威厳のある顔つきをしていた。やることもどっしりしていて誰もが一宮の宮、一支(かずし)に文句など言わない。
というか言えない。紫色の狩衣を着た年上の天狗には四紋でさえ従いたくなる。
二宮(にのみや)の宮、二刃(ふたば)は白天狗を治める白天狗の主だ。優しくて柔らかでついつい甘えてしまう。
四紋より当然年上だが敬語を使うのを忘れさせてしまう。しかし白い狩衣を着たかの天狗はとても丁寧で四紋にも敬語を使っていた。もちろん文句を言う配下は皆無。
次の三宮(さんのみや)の宮は先に代替わりをした。もともとはぼけっとした三由という天狗が宮だったが穢れを払うため浄化をして命を落とし、今は三虫という小さな天狗が宮だった。
三由が配下に言い聞かせたのか従順な三宮の天狗は新しい若草色の小さな狩衣を纏う小さな幼い宮に何も言わない。ま、あれだけ頑張っていたら文句のつけようがない。
五宮(いつみや)の宮、五生(いつき)は配下に文句を言わせない。言ったらその配下が危険だ。その藍色の狩衣の袖におもいきりはたかれること間違いない。
よって参考にはできない。
六宮(むつみや)の宮六仁(むつひと)は若々しいが堅い天狗で冗談の通じないやつだ。配下もそんな感じで波長が合うのか逆らうものはいない。
誰もが六仁の青い狩衣に心酔している感じがある。そんな風に自身の宮を変えるのは無理。というかつまらないにほどがある。
紅の狩衣を纏うのは七宮(ななみや)の宮、七矢(ななや)だ。彼は天狗にしては珍しい烏天狗をまとめる。配下は少ないが団結している気がある。
烏は集団で行動するからか、溢れんばかりの絶大な力に圧倒されるのか、それとも女子(おなご)のような美しさか何かわからないが文句を言う配下はいないのは確かだ。
最後に八宮(はちみや)の宮、八嶋だ。橙色の狩衣を着、はっきりした性格は配下が文句を言うようなら口で言い返してしまう。四紋は口が達者じゃないからむずかしいかもしれない。
そんなことを考えていたら自分はどうやっても配下を従わせることなど不可能に思えてきた。自身の配下には年長者が多い。自分より長生きしてきた相手の言い分は大体正しいのが常だった。
「ん」
四紋はその身に異変を感じ取った。自身が張っている最大の山全体を包む結界に何かが入った。悪しきモノではない。
「西宮か」
四紋は身を翻し、その場所に向かって飛翔を始めた。
しばらく飛んでその場所に着くと配下の天狗が侵入者に向かって何か怒鳴っている。
「何ぞありしか」
「宮さま。ええ。人間です」
四紋は配下の天狗が見ている先を見た。
「子供か」
「はい。こちらが何をゆうても答えへんのです」
「人の言葉を話しとらんのと違うか」
そこには髪を肩口で切りそろえ、上等な模様の入った着物を着た小さな人間の子供が一人いた。何もわかっていない様子できょとんと四紋と配下の天狗を見ている。
「視えてるな」
「はい。そのようなんですが、人間の言葉で語っても、反応がなくて……」
「おい、餓鬼。迷ったんか」
四紋が子供と目を合わせて直接聞く。しかし子供は何も答えない。しかし子供の様子を見て四紋は子供が答えない理由を理解した。
「あぁ、見ぃ。この餓鬼、喉が潰れとる」
四紋がそういった瞬間に子供は目を見開いた。ソレを見て変に思う四紋。自分が口を効けないことくらいわかっているのだろうに。
「おんし、直接この餓鬼の波動を捕まえられるか」
「いえ……。狸くらいなら何ぞないんですが人間はちょっと……」
「ほうか。おい、餓鬼、おれの言うことが分かるな」
子供は頷いた。四紋はこの子供の気を正確に読み取ることができた。だから子供の声が聞こえる。
「なんでここに居るのかは知らんが、ここはおれら天狗の住処や。死にとうなかったらはよ、去ね。あ、人間には方向感覚が薄いんやったな。自分じゃ帰れんか。都はちと餓鬼には遠いな」
『帰れない』
配下の天狗には聞こえなかったようだが、四紋には耳を通さず直接理解できた。
「道が分からんならしゃぁない。おれが送ったるわ。感謝しぃや」
『違う。私は帰ってはいけないのだ』
「あぁ。どないね、ソレ。そもそもおまえ、何でここにおるん」
『捨てられたのだ』
「はぁ。何で。見たとこ、おまえは貴族やろ、人間で言う。着てるもんが違うさかいな。餓鬼捨てにくるんはもっと貧相な身なりの輩やもんな」
『私は飢えに耐えかねて捨てられた子供とは違う。私は……』
「何ね」
『話すことができない。だから異形の者として家に招いた坊主に捨てられたのだ』
「ぼうずぅー。あぁ、禿げか。かまへんやんか。あんなん、禿げよるだけの人間やんか。ほんまもんの坊主は天狗の住処に人間捨てへんさかいな。おまえの言いよる坊主は禿げで十分やろ」
『は、禿げ……。お偉い方なんだ。父上は私を坊主に託した。身を清めてもらうと言って。しかしあの坊主は私を山に捨てた。私はその山を幼いころから紅葉狩りで知っていたからなんとか京にたどり着けた』
「じゃぁ、今度もそうしぃや」
『ならぬ。私の生還を母上は喜んでくれた。しかし話せないとわかると気味悪がり、また坊主を招いた。坊主は私に悪しきモノが住み着き私を喰らい尽くした化け物と言い、山に捨てるしかないといって聞かせた。私は違うと言いたかったが叶わず、捨てられたのだ』
子供の目には絶望が映っている。もう一回自力で帰ったとてもう一度同じことをされるだけだと理解しているのだろう。
よく考えればただの子供に天狗の結界を越えられるわけがない。そして自分たち天狗が視える事もよく考えればおかしかった。四紋はそこでようやく答えに思い至った。
――あぁ、この餓鬼はもうすぐ死ぬ、と。
「せばな、おんしはどうすんね」
『どう……とは』
「帰れん、だけじゃどないもできひん。おんしはここにいとうてもおれら天狗はそれを許さん。おんしは人間にしては小さく無力じゃ。おれは優しい天狗やさかい、おんしをどこぞには送ったれる」
「宮さま、そこまですることなしに、殺してしまえばいいではありませんか」
配下の天狗が四紋に言った。
「こやつは迷い込んだだけのこと。殺す必要はない。人間というだけで敵意を持ったらあかん。人間かて動物の一やろが。相容れんからゆうて殺すんは天狗のすることと違う」
四紋が言い切ると配下は反省したようだった。
「……はい」
『私の望みを聞いてくれるなら、頼もう。私をここに置いてくれ』
「……ここに。四宮にか。」
『四宮、というのか。この山は』
「人間には人間の名前があろう。ここはアヤカシの中では天狗が治める土地。道主さまの土地じゃ」
子供は悩んでいる様子だった。
『人間と同じでここにも権力争いが存在するのか』
「権力ぅ。何ね、ソレ」
『治めるということはそのものの権力を現すのだろう。その、あなた達、天狗の偉さを』
「おれらは偉いから山を護るのとは違う。俺らが山を自分の土地にしとるんはそれがおれらの本分だからや。偉いからって山を勝手にはできん」
『……本分。どういうことなんだ』
四紋は配下の天狗を下がらせ、本格的に人間の子供と話す事にした。配下は不満そうにしながらもしぶしぶ下がっていく。
「天狗はな、山の物やさかい、山を護ることしか考えん。それ以外のことはない」
『山の……モノってどういうことなんだ』
「せやな、人間と違うて一個としては生活してないん。山のためだけに生きよる」
『え。よくはわからない』
「分かり合うことなんぞできひん。おんしは人間。境の向こうのもの。おれは天狗。境のこちらに住むものや。おれかておんしのことなんぞ理解できひん。せやからわからんものはなるたけ排除するんやろ。おれたちも、おんしらも」
確かにそうだった。そうでなければ、何故坊主は自分を山に捨てたのだろうか。声が出ないということを理解できないから適当な理由をつけて捨ててしまった。何か悪しき物が憑いているならそれを祓うなりしてくれればよかったのだ。なのに……。
自分にとってまったく未知の存在がこんなにも自分を理解してくれているのに、自分たちの方は理解しようともしてはくれなかった。
『そうだな。その理由で私は捨てられた……のだから』
「ええやんか。捨てられたゆうことは自由になったってことやろう」
天狗という生き物は本当に自分たちとは違うことを考える存在だなと思った。
『……そういう考え方も、できるな』
「せやろ。おれからすれば人間ゆうのはようわからんな、せやからおもろいな」
『面白い』
四紋は頷いた。深く考えた後で、子どもは頷いた。そして手を差し出して言った。
『私は、小太郎。天狗には姓を言っても関係ないだろう。貴方は、天狗と呼べばいいのか』
「おれは四紋。みなは宮さまと呼ぶな。ところでその手はなんね」
『知らないのか。よろしく、という挨拶だ』
「ほー」
四紋はよく分からないながらも小太郎と握手を交わした。
日々は過ぎた。四紋は配下に悟られぬように術の中に小太郎を隠し、暇さえあれば会いに言った。宮から出たことがなかった四紋にとって小太郎は面白いイキモノだった。
人間の馬鹿らしい習慣や面白い話。自分たちが人間の間でどう語られているか、小太郎は話してくれた。
いつしか季節は夏になり、夏宮の四宮は活気付く。見たこともない山の自然に触れて、小太郎は日々を楽しげに生きた。
会ったばかりの頃、小太郎の弱々しかった生気は満ち溢れるようになり、どんどん元気になっていった。そんな小太郎と遊ぶのが四紋には楽しみになっていた。
しかし、元気になり、天狗ではない小太郎を置くことによって、山に翳りが見え始めたのも四紋にはわかっていた。
四紋にはそれでも行く当てのない小太郎を捨てることはできずにいた。そして配下に悟られないように隠すのも無理があると分かり始めていた。
それが宮のすることではないことも。
『どうしたの、四紋。最近何か悩んでいるの』
「関係ないことや。心配しなや」
明るく笑い飛ばして、今日は何をして遊ぶかと問う。その時四紋は結界に入り込んだ存在を察知して小太郎に何も言わせず、言わず、術の中に小太郎を隠しこむ。
そして自身は入り込んだ存在に会うべく、飛翔した。天空から落ちてくるのは紅の影。異質の存在を感知して配下の天狗が紅の姿を取り囲む。
「七矢。どないした」
四紋は配下を制して尋ねた。紅の狩衣姿に顔には鳥の嘴のついた仮面。風切羽が滞空で唸る。
「久しいの、四紋。道主さまの命で参った。理由はわかりょうるか」
七矢がそういって術で隠してあるはずの小太郎の居場所をちらりと見る。見えるはずはない。でも、七矢なら見えるかもしれない。なにせ、四紋と七矢は同等の力と位を持つ天狗だ。
「何て、おっしゃってるね、道主さまは」
「情が移ったから四紋には殺せまい、と」
配下が動揺したのが分かった。何を言っているか分かっていない配下もいる。もちろん四紋には何を言っているのか、わかった。わかったから動揺を隠せない。
「あいつは、もうすぐ死ぬんね。あいつのぶんくらいなら、おれが穢れを払えるんや、せやから、七矢……」
「そうは見えん。おんしが隠しよる人間はおんしの気を吸い、山の生気を吸って元気になりよる。わからんわけないな? 今はまだ山が耐えてくれている。道主さまも今ならまだ、お許しくださる」
七矢は言った。四紋は言い返すことができない。どうしよう、どうしようと頭が真っ白になった。
「ええな」
七矢はそう言って下に手を翳す。まるで膜が破れたかのように、すぅっと小太郎の姿が現れた。ざわめく配下たち。突然のことに上をただ見上げる小太郎。
『どうしたのだ、四紋』
「待って、七矢」
四紋の願いを聞き流して、七矢は小太郎に向かって降下する。
「お待ちを!! 七矢さま。ここは四宮!! 四宮、宮上は四紋さまにあられます!! 四紋さまの許しなくば、ここであなた様が動かれる権利はあらしまへん!!」
配下の天狗が言い切る。四紋は驚きの表情を浮かべた。
絶対に、殺すと思っていた。反対されていると知っていた。自分は全然宮らしくなんてない。逆に山に危険な人間を匿う始末。なぜ、助けてくれるのだ。なぜ、庇ってくれるのだ。こんな、自分を。こんな宮を。
「逆らうのか。お前如き天狗が、私に」
七矢の圧力が増す。配下は呻いた。しかし引き下がらない。
「何をなさっておいでです、宮さま。はやくその子供を連れてお逃げくだされ」
「しかし、重伍……」
「宮さま、わいらは宮さまが好きやから、従って居るのです」
その言葉に頷く配下が七矢に向かって構えた。
「愚かな。力量の差もわからぬほど、餓鬼でもあるまい」
七矢が低く呟いた。
「ええのか、四紋。おんしは配下さえ、巻き込んでまで、その者と共にありたいのか。……そうなら、おんしは宮にあらず、天狗にあらずじゃ」
七矢が静かに怒っているのを感じた。わかる、七矢は山のために最も大事な存在を殺したのだ。しかし四紋はそこまでできない。四紋の方が七矢より長く生きている。天狗がどういうものかも知っていた。それでも、四紋には小太郎を殺せない。
この子供は、死にたくないといっている。感じるのだった。親に捨てられ、人界に帰ることも叶わず、それでも笑っていられる小太郎が、四紋には殺せなかった。
しかし、逃げるところなんて限られている。自身の宮は七矢ならすぐに追って来れるだろう。他の山には行けない。どうすれば、考えるより先に四紋は小太郎を抱えて飛翔を始めていた。
『どこに行くのだ。あの赤い者は何者だ』
小太郎の問いにも答える暇はない。七矢は烏天狗。飛ぶことに一番秀でた天狗の種類だった。気を抜けばすぐさま、追いつかれる。
そして七矢のほうが四紋よりも力が強い。小太郎を守っては七矢に敵わないことを分かっていた。
「……四紋」
七矢は呟いた。四紋が本気で山を汚したくないことくらい分かっている。
「離れよ」
七矢は四紋の配下の天狗に言い放った。
「追いかけるつもりはない。四紋にも時間が必要じゃろう。十日じゃ。それだけは待とう。その後に四紋が殺せぬなら私が殺す。異存あるまいな」
「は」
四紋の配下は項垂れるようにして重く、呟いた。
四宮を出てしまえば結界の維持は倍の霊力が必要となるし、視認できない程度に離れれば結界を張ることはできない。四紋は苦悩した。小太郎を死なせることはできない。でも山を汚すこともまた、できないのだった。
そんな四紋を察してか、小太郎が話しかける。
『何があったのだ』
「別に、何もない」
『嘘を申すな。四紋の顔を見ればわかる。あの赤い、面を被ったのは何者なのだ』
「おれの、仲間やさかい心配はあらへん」
『誠か。でもあの者が来てから四紋は山を離れたではないか。一体、どういうことなんだ』
その問いには答えられない。小太郎を殺そうとして来た七矢から逃げているのだとは。そんなことを言えば、小太郎はどうなってしまうのか……。四紋にはわからなかった。
「おれは天狗としてやってはならんことをした。せやから逃げな、あかんね。わかるな」
『何をしたのだ』
「それはお前に言うてもわからへん」
小太郎は下を向いて震えたいた。
「どないした。寒いんか。人間は飛ばんもんな」
『……わたしの、せいだな』
「え」
上を向いた小太郎の目には光る水滴の粒がいくつも滑り落ちていた。小太郎は泣いていた。
『私のせいなのだろう。四紋は初めに言った。人間はここでは暮らせないと、でも私はここに居たかった。四紋はそれを許してくれた。だから四紋が罪に問われているのだろう、違うかっ』
「……」
四紋は答えない。腕の中で小さな人間の子供は泣いていた。泣く、という概念が天狗にはない。それでも四紋はひどくおろおろしてしまう。どうしたら小太郎はまた、笑ってくれるのだろうか。
『四紋、それでも私は帰りたくない』
「うん」
小太郎は四紋の胸に顔をうずめたままで、言った。
『私は、死にたくない』
「うん」
四紋は頷いた。そして決心する。四紋は小太郎を抱えたまま山、いや宮と別の方向に向かって飛んだ。四紋は宮を離れる決心をした。
しかし、四紋の決心とは裏腹に山を離れるごとに小太郎は咳を激しく繰り返すようになった。元気そうに笑っても、体が死へ確実に向かっているのがわかる。
小太郎はもともと病に冒されていた。それが体を確実に死へと近づけていた。しかし、宮の清浄な空気と、生命力を浴びて、小太郎の病は進行をとどめた。
だが、宮から出れば、小太郎は病に耐えられない。死の影が、小太郎を覆っている。四紋はまた決断に迫られた。小太郎を生かすなら、宮に帰って七矢と戦わねばならない。今度は宮に帰るか否かを決めねばならなかった。
苦しそうに浅い呼吸を繰り返す小太郎。そんな辛そうな笑顔は見ていられなかった。
宮に帰って四紋が愕然としてしまった。自身の山がこんなに穢れてしまったのは初めてだ。結界の意味を改めて教えられた気がした。宮がいないと結界が張られていないとこんなに山は穢れてしまうのだ。
配下の天狗たちはがんばってくれているだろう。しかし抑えられない穢れに耐えられずに半数ほどの天狗が臥せっているのは見なくてもわかった。自分が山を任された宮であるのに、自分から宮を汚してしまった。
山はいま、小太郎と同じくらいの苦痛に喘いでいる。山もまた、生きているのに。
「四紋」
ぐったりした小太郎を一瞥して、七矢が降り立つ。四紋は言った。
「これがおれの招いたことか」
「そうじゃな」
冷たく、七矢が言った。
「殺させん。七矢が殺したらおれ、七矢を許されへん」
「四紋」
振り返った四紋の瞳には強い意志が、七矢が小太郎を殺すなら、戦う覚悟はできているという顔だった。今度は七矢が困る番だった。
「一日じゃ」
「なに」
「七矢、あと一日だけ、猶予をくれんか」
「なんとする」
四紋は小太郎が深い眠りに入っているのを確認してから七矢に顔を向けずに言った。
「始めてわかった。宮がどんなものかを。そしておれのすべきこと。おれ、山も小太郎も七矢も道主さまもおんなじに大事なん。比べられん。でもな、今、決めた」
「何を」
「おれが招いたことやさかい、おれが責任もたな。宮を辞めるんはそれからでも遅くなかろ」
その問いに答えず、四紋はこれだけを言って七矢の前から姿を消した。
「……ほうか」
七矢はそう言って、四紋を見送った。
『四紋、ここは』
「おれの山や。四宮や。安心し。少し楽やろ」
『うん』
「小太郎のことは、おれが護ったる、安心しや」
『うん』
しばしの沈黙。そして、四紋が言った。
「小太郎は、この山で何が好きや」
『……前に、四紋はこの山は夏宮と言ったな。夏が一番活発な山だと。夏の暮れに、見られると言う、蛍が見たいな』
「蛍か。人間はほんにようわからんとこに情を持つな」
天狗にすれば蛍は虫の一種で、光るのは繁殖行動の一種としか思ったことはない。しかし人間はそれに美しさを感じるのだと言う。
「季節は、夏の暮れ。ちょうど、今じゃ。見せたるわ」
『うん』
四紋はそう言って、小太郎を腕(かいな)に抱くと、蛍が群れる場所を目指した。遠くからでも、蛍の光が上空からは見えた。
小太郎に、あれが蛍と教え、地に降り立った。間近で初めて見る蛍に小太郎は興奮し、頬を染めていた。四紋の力により、存在が人間とは別のものになりつつある小太郎に蛍は光を当てるだけだった。
一匹の蛍をそうっと両手で包み、手の中で力強く、明るく輝く蛍を小太郎はうれしげに見ていた。
背後から小太郎に近づき、四紋はその小さな体をそっと抱きしめた。
「小太郎、もしも、許せんと思うたら相手の名は覚えとかな、あかんで」
『なぜだ』
「死んだら、記憶が飛ぶ。相手を許されん気持ちはあるんに、相手がわからんようになる」
『そうなのか』
蛍に夢中の小太郎は四紋の話をあまり聞いていないようだった。
「覚えとき。おれの名は……蛍火(けいか)」
『蛍の火……』
「そうや。覚えておくんやで」
『蛍火。覚えたぞ』
「そう、忘れんでな、おれを……」
抱きしめた四紋の腕の中で小太郎の足ががくりと折れる。力を失い、崩れる小太郎を抱きしめて、
「ちゃんと呪えるように……」
小太郎は、眠るように、静かに息を引き取った。死んだ小太郎の手の中から、蛍が一匹、舞い上がる。
光を灯して、それは短い夏の夢。
四紋は軽く息を吹きかけると、塵のように、小太郎の体は、四紋の腕から消えて、蛍の光とまぎれて、消えていった。
四紋のまわりに暗闇が舞い降りる。その暗闇は冷たく、静かだ。その中を淡く、灯る蛍の光。
「おれは覚えとくさかい。お前のこと、忘れんさかい、小太郎」
七矢は何も言わずに、四宮の浄化を手伝って、七宮に帰っていった。
その後、配下に伝えて、四紋は道主さまに会いに行った。自分のした責任を負いに。
「道主さま、四紋、参りました」
「今回のことは、七矢から聞いておる」
静かに、暗闇の中で、深く低い声が響いた。四紋は道主さまを知覚できない。唯一声のみが聞こえる。
きっとこの深い闇は一つの空間で、その空間の外に道主さまは居り、四紋をすべての方向から見ているのだと、思う。
「おれは宮としてしてはならんことをしました。このことは十分、理解しております。なんなりと、おれに罰を……」
「宮を外るるか」
「はい」
「いけんな。それは断じて許さん」
「しかし、おれは……」
深くから、道主さまは言った。
「おんしはこれからも四宮の宮じゃ。おんしより強く、賢い天狗が現れるまでな。それがおんしへの、罰じゃ」
四紋は深くうなだれた。責任を負うために宮をやめても、自分は荷が軽くなるだけだ。迷惑をかけた配下には何もせず、ただのうのうと生きることなど許されない。
「承知いたしました。しかし、一つ、お願いが」
「何か」
「四紋は小太郎と共に消えたのです。四宮には新たな、山を想う天狗が起ちます。その、天狗に新たな、宮としての、名を授かりたく思うのです」
あの光の中に実際四紋は入れなかった。でも、これが四紋の選んだ、決断。
「蛍火」
「はい」
道主さまに本当の名を呼ばれたのは、四紋の号を授かったときのみ、一度。
「おんしは、今回のことで、三つの決断を迫られた。それはおんしの試練と言えよう。おんしにはこれからも試練が訪れよう、それを超えてゆけるように、おんしは今より……」
四紋は待った。
「四練(しれん)と名乗れ」
「ありがとう存じます」
――四紋は自らの身勝手さから小太郎を殺し、山を汚し、自ら命を絶った。今、生まれいずるのは、宮としての責任と自覚と覚悟を備えた、新たな天狗。新たな宮。
――四練。
第四話 「四練」終.