天狗 11

天狗

最終話 七矢

 深い森の奥には、天狗の住処があると言う。深く、日の光が入りにくい、空気に神の吐息が混じるようなそんな場所には、必ず天狗が住んでいると、言われている。

 天狗――それは、山の護り主達。風と戯れ、狗の顔を持ち、鳥の如く大きな翼を持ち、鼻が高く山伏のような格好をしているという。
 山で異音がさも当然のように起これば、それは天狗の仕業と言われた。山で突如食べ物が失われ、おかしな目に遭ったら、それは天狗が側にいたのだという。
 突風は天狗の起こした風、子供が攫われればそれは天狗にされてしまった神隠しの一種。
 様々な伝説を残す天狗。彼らは妖怪と分類されるにも関わらず、神として奉られたりしている。種類も多く、その名を残す者もいる。

 しかし、ここの天狗は一味違うかもしれない。大いなる翼を持って、山に潜んだその者は天狗と名乗った。
 だが、彼らは決してその存在を他に漏らさない。そもそも彼らの住処に山本来の生き物とは別の他の生き物が入ってくることはない。
 彼らは特殊な結界なるものを立ち上げ、山に他の生き物の侵入を拒むからだ。そこは一種の異郷。彼らが居る山はある山神によって治められていた。その山神は道主(どうしゅ)と呼ばれていた。
 この道主が治める山々を八つに区切り、八つの山とした。この山を宮(みや)と呼び道主はその山の一つ一つを力ある天狗に任せた。この任された天狗をまた宮(みや)と呼んだ。
 宮は天狗の集団を管理し、山を隠匿する結界を立ち上げ、代々山を護って来た。清浄な気で山を包み、決して穢れた者が入ってこれないように。
 一宮(いちのみや)、最初に道主に分け与えられた天狗の宮。冬宮とも呼ばれ静寂で冬の様に枯れた山であった。
 二宮(にのみや)、二番目に与えられた宮。この宮は天狗の中でも人間の生まれ変わりである白天狗が集った宮である。故に人に近く、人を恐れない。
 三宮(さんのみや)、別名春宮。春が美しい宮で人の住処に近く、絶えず人の脅威にさらされている。
 四宮(しのみや)、別名夏宮。夏が活発な元気な山。
 五宮(いつみや)、尼天狗と呼ばれる天狗の雌を統括する女だけの宮。
 六宮(むつみや)、木の葉天狗(こっぱってんぐ)をまとめる狗の性を残した異種天狗の集まり。
 七宮、烏天狗という鳥の強さと攻撃に特化された夜の眷族である異種天狗の集まり。
 そして、最後が八宮、別名秋宮。締め付けられるほど哀しくも美しい秋が特徴の山。この山も人に近く、人の脅威に曝されていた。
 今まで何代もの宮が移り変わり、その命を散らし、その命を山に還してきた。人の脅威に曝されて穢れに耐えきれず山が弱った宮も多くある。
 大きな変換点は、やはり一宮。一宮で永きに渡って宮を務めた老齢な天狗――一支(かずし)が突如命を消し、宮の代替わりが行われず、一宮は滅んだ。
 正確に言うと滅んではいない。山は変わらずあった。しかし、その山はもう山神が宿る山ではない。道主が宿る事はなく、神を失くした山はいずれ力を失うだろう。
 ――残り、七つ。

 山の森は深い。それは様々な意味で深くなる。木々が成長し、生い茂れば地上に光が届きにくくなり、自然と景色は暗くなる。そして空気が木々の呼吸を通してのみ、変わりゆき自然と森の空気は澄んでいく。
 普通の地とは違い、気温が少し低く、気圧が低く、冷たくそれでいて荘厳とした気を纏う山は久しく人の侵入を拒んできた。天狗が宿る山はそれと一味違う。人だけではなく、獣も木々も何もかも全てが山神許しなくば生きる事はかなわない。
 全ての穢れを許されない清浄すぎる山。痛いほどに澄んだ山は、天狗に寄る絶対的な結界によって外界と隔絶される。しかし、山神の恩恵もありそこに住まう命は他の山とは比べ物にならないほどに命を綻ばせ、繁栄する。豊かで清浄な山。
「宮さま」
 命が咲き誇る山の一角、少しひらけた土地には、日の光が似合わない漆黒とぬばたまの影。
「なんじゃ」
 応える姿は色鮮やか。紅の衣という烏天狗とはかけ離れた格好をしている。
 ――七宮の上・七矢(ななや)さま。この七宮という道主によって与えられた山を守護する烏天狗の群れを支配する天狗である。
 もう何百年も頂点に君臨し続け、幾年もの四季の移り変わりを護って来た天狗だが、その姿はまだまだ若い。彼の外見を通り越す配下の方が多い。あまりの力の強さゆえに身体が歳を重ねることをやめてしまったのだ。
「珍しいお客様が……」
 振り返った七矢の顔に、配下が付けているような面はない。
「誰ぞ」
「二宮様が……お見えです」
「ほうか」
 足を外に向け、配下の方を振り返ったその顔には、烏を模した面が、配下と同じように付けられている。
「いずこに居られる」
「ご案内しようと思うたのですが、秋の野にてお待ちしていますと、だけ」
 面の下で七矢の眉が動く。だが、その表情の変化を感じ取れた者は幸い面のおかげでいなかった。
「宮さま。共は……」
 翼を広げた七矢に向かって焦る配下の声が聞こえる。
「要らぬ」
 強い拒絶を残して七矢が飛び立つ。配下はそれを見上げ、ただ見送るしかなかった。そう、もう覚えていないかもしれない。七矢が唯一愛した天狗と初めて出会ったその場所こそが、秋の野であったと――。

 秋の野は七宮では珍しく木々が生えていない、一面草原の場所だ。秋の野というだけあって、そこに生えている草は少し枯れ気味である。色がくすんだ緑や黄色をしており、寂しげな風景である。
 背の高い草ゆえに、空から飛んでは見つからない。しかし、今回は相手が宮だ。己の感覚を広げれば、宮程の強大な力の主の居場所などすぐに知れる。
 七矢は秋の野に唯一立つ天狗の元に降り立った。
「お久しぶりですね。急な来訪をお許しいただけますか」
「二刃様。ようこそ七宮へ。して、何故このような場所に……。事前にご連絡いただければ、それなりのおもてなしを……」
 七矢の前に立つ天狗はこちらも天狗にしては真っ白い衣、普通の天狗とは違う。それもそのはずで宮となった天狗の主達は配下の天狗達とは格好が異なる。狩衣の色が色鮮やかになるのだ。八色の色がそれぞれの宮の色となっている。七宮は紅、二宮は白。
「いえいえ、結構です。こちらが急にお邪魔したのですから。それに用が済めばすぐに帰ります故」
「ほうですか……」
 少し残念そうに七矢は肩を竦めた。二刃はそれを見てくすり、と笑う。
「思えば宮も私と貴方だけになってしまいましたね」
 七矢が宮になった時、八天狗だった天狗は目の前の二刃しかいない。他の天狗は皆代替わりを果たした。
 それだけでなく、宮そのもの……つまり山そのものが失せた。山はその場所にまだ確かにある。しかし道主の山ではない。初めてそれを経験した際は愕然としたのを覚えている。衝撃だった。
「はい。まずは一宮……」
 ある時を境に突然消えた一宮。老齢の一支という雄の天狗が治める山は静かでいて厳粛な雰囲気をもつ簡素な山だった。しかし、一宮は新宮に宮を継承する事無く、命を失い、同時に天狗の絶対結界も失われただの山と化した。もう、山の神がいない山へ。
「そして三宮が……」
 一宮を皮切りにという表現が正しく思えるほど、以前からその立地を危ぶんでいた三宮も消滅の道をたどる。若草色の狩衣をまとった少女が三宮と呼ばれた山を護っていたのはもうずっと昔のことだ。
 人と隣り合わせの場所を護っていた雌の雛のような姿の天狗は、日々人の侵入を拒んでいたが、力及ばず徐々にその支配を失っていき、山の面積を少なくしていった。
 まるで紅葉や花の開花のように、山の麓からじんわりと円形に力を失い、そして頂上近くなってその力を手放した。
「次に八宮が……」
 七矢が宮となってしばらくして代替わりした当時の宮を八嶋と言った。若い雌の天狗が頂点に居り、年月を無事に過ごして新宮に代替わりしたのが記憶に新しい。若い雄の天狗が宮を継いだが、何度目かの人の戦場が近かった。ゆえに穢れに耐えられず、若い雄の宮は突如命を散らし、八宮は急速に消え失せた。
 あの場所は人の手も随分入り、山と言う様相では今はなくなっている。
「そして四宮(しのみや)」
 隣り合わせの山が人の手によって堕ち、周囲に清浄な山が消えたことで人の住処に露出した形となった四宮が続いて消えた。今も山の多くの部分が当時の名残を残し、力強い命を咲かせるが、そこはもう以前の様な夏の活気がない。
 当時の宮であった四練(しれん)は、宮が消えてしまった山の天狗を引き取り、己の領分以上の山を百余年守り続けた。それが祟ってしまったのだろう。
 最後は配下も納得し、宮の位を道主に返上し、山を最後まで生かす形で消えたという。
「……消えた六宮(むつみや)」
 次に失せたのは六宮。巨木に支えられ、巨木を護った木の葉天狗の集団だった六番目の山。次々と宮が消えた事によって巨木が人の目に止まってしまい、必死で巨木を護ろうと、天狗全員が山と溶け合うことで巨木もろとも山を護る形で失せた宮。
 六宮は力及ぶ限り人が立ち入ることは出来ない。しかし、山を護る天狗が山に溶け込んで消えたことで、結界はなく、人や穢れ以外の生き物は自由な繁殖を始めた。
 巨木である老木は自然と言う様々な危険や淘汰に立ち向かわなければならない。雷一つ落ちただけで、ただでは済まない。そして木々を失せさせるのはそれだけではない。蔦や菌、他の動物など様々な危険がある。温床の様にぬくぬくと育って守ってもらった状況が今はない。守る天狗がいないのだから。
 故に巨木が滅んだ時、六宮も同時に滅ぶ。六宮が滅ぶ時、巨木も滅ぶ。まさに巨木と運命を共にした山。
「……逃げた五宮(いつみや)」
 頻繁に配下の天狗を人間の里に下ろし、交わっていた風習がある変わった宮だったが、宮が次々と消える現実を見て、決心したのかそれとも機会をうかがっていたのか。人里に散らばる稲荷を通じて一匹、また一匹と人と交じらわせ、長い時を掛けて配下全員を山から遠ざけた、五生(いつき)と呼ばれた妖艶な宮は、己の生涯と責任を全うする事無く、溜息を一つ着く間もなく消えた。
 五生が最後まで山に居り、宮として居座ったのは知っているが、五生がその後配下と同様に人と交わったのか、それとも山で命を散らしたのかは誰も知らない。
 しかし、結果的に五宮は天狗が全員逃げ出すという形で幕を下ろした。
「そして残るは私達だけ」
 もはや苦笑しかない。お互い周囲の宮が消えて、それすら慣れてよくここまで長い間天狗を続けたものだ。七宮は立地的にも深い山でなかなか人が立ち入れない。それが幸いしたのもあって、未だ絶対の結界を気付いている。
 逆に二宮は人里と寺と言う関わりを持つ事で、人里とうまく溶け合って永らえた。
「でもね、七矢さま。私ももうお別れを……この人生に幕を下ろす、お暇する時がきたようなのです」
 微笑んで告げられたその言葉に愕然として七矢は息を止めた。思えば二刃は自分と違ってかなり年老いている。宮を務めてもう数百年、天狗としての寿命が来たのだろう。
「……ほう、ですか……」
 さすがに七矢にも堪えた。まさか自分が最後になるとは……。あれだけ宮を嫌がり、憎んでさえいるこの地位に己が一番長く馴染むとは。
「……新宮は」
 短く問う。ここで四練なら泣きそうになりながら在位を強請っただろう。六仁ならぶっきらぼうにも別れの言葉を告げたかもしれない。五生なら、苦笑しながら労いの言葉を。八嶋なら……。
 今はもういない自分を時には支えてくれた宮たち。彼らのように言葉を掛けることすら出来ない。
「もちろん、居ります。私以上にのほほんとしていますから、七矢さまのお気をわずらわせないとよいのですが」
「そないなこと、ありますまい」
 七矢は俯く。自分はいつでも置いて行かれる側で、手を伸ばしても届くことはなくて。
 ――でも、それがふさわしい罰なのだろう。鶯を求めた己の、宮と言う罰。
「七矢さまは、徐々にですが変わられましたな。いいえ、時がこれだけ経っておるのですから、変わるのが当たり前でしょう。仮面をしていてもあなたの感情が伝わってきます」
七矢ははっとして二刃を見た。
「此度、ここに参ったのは、新宮に継承する前にどうしてもあなたにお伝えすることがあります。私の命が続く限りでしか守れない秘密を、携えております」
「……秘密、ですかや」
 はい、とにっこり笑う二刃はいたずらっ子のように七矢に頷いた。
「実は……数百年前、七宮を抜けた鶯殿を預かっていたのは我が宮なのです」
「え」
 七矢は驚いて、二刃を見る。そんなことをすれば、道主さまになんと言われたか。
「事情があったのです。その事情をあなたが見る覚悟があるならば、二宮北宮(ほくぐう)、卯の花という場所に、独りでお越しになるとよい。鶯殿が遺したものが見られます」
 二刃はそう言って軽く七矢の額に触れた。その時に二宮の指定された場所の光景が見える。場所を教えてくれたのだ。七矢は当惑して二刃を見る。
「ああ、そうだ。事前の連絡は不要です。私が宮であるうちはあなたが望むなら何度でも足をお運び頂いて構いません。誰もあなたが来たからと言って咎めもしなければ、挨拶にも来ないでしょう。私もそのつもりです。だから、勝手に来て、帰って下さって構いませんからね」
 二刃は笑って言うと、翼を羽ばたかせた。来た時とは別にあっさり空に飛び上がり、二宮の方角へ飛び去った。後には訳のわからない七矢だけが残される。

 七矢は七宮を配下に任せて、二宮に向けて飛翔を始めた。わざわざ二刃が宮を降りる決意を言い、退位の前に鶯が暮らしたという場所に来てみろという。
 道主、天狗達に挑み、そして七矢自身が討ち取った天狗・鶯。七矢が唯一心の底から欲し、信じ、愛し、そして、殺した天狗。
 紅の影が飛ぶ間に思うのはその事ばかりだ。愛していたのに、なぜ殺したのか。愛していたのになぜ追放したのか。もっといい術があったのではないか。そう考えたことは何度もあり、しかし、別の選択を出来るだろうかとも思う。
「この辺りのはず」
 もう二宮の領分に入っている。しかし、二刃が言いつけたのか、そういう風習の宮なのか誰も出て来はしない。七矢ほどの者が入れば、異変を感じそうなものだが。
 七矢はそのまま二刃が教えてくれた場所を目指す。すると、そこには結界が張られているのがわかった。全ての侵入を拒むような結界。七矢は穢れに染まった鶯が滞在した場所を二刃が封じているのかと考えた。それなら自分に穢れを払えと言ってくれるのは二刃なりの優しさだろう。
 七矢は結界を壊さないよう、かといって結界に己の力を送り込み、するりと強固な結界の中に入り込んだ。
「……穢れてはおらぬようだ」
 深い森の中には清浄な空気に満ちている。川のせせらぎの音が聞こえた。二宮の森は七宮と違って暗くはない。他の宮がそうなのかもしれない。木々がみずみずしい印象を受けた。
 七矢は一人なのを思い出し、仮面を取った。彼女の残滓に会うならば、彼女の前だけでそうしたように仮面を外し、素顔を晒しておくのがいい気がしたのだ。想い出の中だけでもそうすれば彼女が笑う気がしたから。ふっと微笑んで、七矢は一人、想い出を持ちながら森を散策する。
 すると、せせらぎの音が近づくと同時に、天狗の気配を感じた。
「……」
 七矢の目が見開かれる。視界に入ったものの姿を認めて。
「……もしかして」
 雛独特の高い声。鶯色の髪は短く項で結ばれた量も少ない。大きな明るい黄色い瞳。黒い衣に、小さな漆黒の翼。
「てて様かや」
 七矢はどう見ても天狗、それも烏天狗の雛としか思えない小さな姿を認めた。己と同じ色の瞳、鶯と同じ髪色。その答えは一つしかない。
 ――いいの、証が残せれば。
 鶯と交わした言葉がよみがえる。そして二刃の言葉も。
 ――事情があったのです。
 鶯は七矢との間に子を成したのだ。そして二刃に協力してもらい、それを今まで隠し育てた。それが、目の前にいる雛。正真正銘の二人の証。
「……そなた、名は」
 七矢は歩み寄って、雛の前に膝をついた。優しく雛の頬を撫でる。
「ない。かか様はてて様に頂けと言った。だから訊く。てて様かや」
 七矢は無言で雛を抱きしめた。目頭が熱い。雛は最初驚いたようだが、ぎこちなく、七矢の背に手をまわした。
 より一層愛しさが募って、七矢はしばらく雛の頭を優しく撫でた。
「――そなたの名を、七矢としよう」
 七矢は優しく、やわらかく、雛に向けて己の名を告げた。

 雛の記憶に残る風景はこの山と、そしてかか様と過ごした日々だ。かか様は自分と同じ髪色をしていて、時に優しく、時に厳しく、己が一人で生きていくために必要な事、天狗と言う種族として必要な技を教えてくれた。
 母子二匹の日々は他の天狗の侵入を阻み、永遠に雛は母親との日々を過ごすのだと思っていた。夜、母は雛の目を覗き込み、微笑む。
「お前の目は父と同じで綺麗だ」
 何度もそう言われ、そう言われた時に、未だ在ったこともない父の話を聞いた。父は母と同じ時に生まれた天狗で、互いに仲もよく互いに認め合う仲だったと。お互いに愛し合い、そしてお前が生まれたのだと告げる母の顔はとても幸せそうだった。
 雛は二匹で育ったから、子には両親がいて当たり前だと言う生き物概念も、天狗は子を成さないという概念もなかったし、母もそれを教えなかった。
 ただ、母はお前には父がいること、二人が愛し合って己が生まれたことを聞いた。
「てて様はいずこにおるの、かか様」
 在る日、雛は母親に尋ねた。すると母親は寂しそうな顔をして言う。
「てて様はお前を見捨てたわけではない。てて様はどうしても離れられない場所にいるの。かか様がてて様と離れなければなくなったのは、かか様が罪を犯したから」
「罪……」
 母は詳しくは教えてくれなかったが、天狗は母子だけのような生活ではなく、本来群れて生活している。
 群れならば、それなりに規律が生まれ、母は侵してはならないことをした。故に、母は父と別れ、故郷を離れたのだと語った。
「てて様はかか様を愛していたのに、一緒にきてはくれなかったのかや」
 純粋にそう感じた。ここにまだ見ぬ父がいたら時折見せる寂しそうな顔を母は見せないのにと思いながら。生きているなら会いに来てくれてもいいのに。
「てて様はかか様のために泣いてくれたの。だからいいのよ」
 かか様が言う。天狗は本来泣かないもの。だから涙を流してくれた父を今でも想うのだと言う。
「てて様の全てが愛おしかった。お前と同じ位かか様はてて様を愛しているの」
 いつもそう言って父を想っていた。どれだけ父が綺麗だったか、どれだけ父が強かったか、どれだけ父が優しかったか。そんなのろけのような話でも訊いていて嬉しく、雛は父の姿をいつも思い描いていた。
 他の天狗に会ったことがない雛は比較のしようがなかったが、いつも父の姿をいつか現れたりしないか待っていた。
 在る日。
「お前はもう十分一人前に成長した。だからこれからは一人で生きておゆき」
 母がそう告げた。何を言われているか理解できずにいたが、言葉がじんわり胸に染みる頃には叫んでいた。
 母が用事と言って数日いないだけでも寂しいのに、そんなことはできないと。
「いいえ。今度はてて様がお前の傍に来てくれる。だから安心おし」
「てて様が。せやったらかか様もおればええじゃない。かか様とてて様で過ごせば……」
「ううん。かか様はどうしてもしなければならないことがある。だけど、お前が心配で今までできなかった。お前はもう一人で生きていける。だから、お願い。かか様の望みを果たさせて」
 目の前に座りこんで、雛と目線を合わせ、真剣に言う姿に雛は涙が滲んだ。これが泣くということなのだ。父は母との別れで流した涙なのだ。父も母が別れる時に、去って行ってほしくなかったのだ。寂しく、悲しかったのだ。
「お前が次に会う者がお前のてて様。てて様に会って、そして……てて様に名を貰いなさい。お前だけの、お前を呼ぶ度に、お前の魂が自由に在れるように。名を頂きなさい」
「なまえ」
「そう。お前を表す言葉だ。お前の魂を縛る、お前だけの言葉」
 母はそう言って雛を抱きしめた。背中を優しく撫でられる。
「どうしてかか様がくれないの」
「僕がお前を生んだ。身体を、産み落とした。だから、てて様にお前の心を生んでもらいなさい」
 身を離して母が微笑む。その微笑みがとても儚く、美しかった。
「これを、あげる」
 母はそう言って片方の耳についていた黒い耳環を外し、雛の方耳に付けた。
「てて様に昔、かか様が貰ったかか様の宝物」
 ふっと笑って立ち上がった母に倣おうとした雛は耳から力が吸いとられ、意識を失った。
 ――それから目覚めて、かか様を感じなかった。かか様は自分の前からいなくなってしまった。その哀しみが押し寄せようとする時に、雛の前に何かが来た。あまりにも大きい存在をした何か。
「てて様……かもしれん」
 母は言った。次に会うのが父だと。なら、この存在は父だろう。そうっと木々の間からのぞき見る。森には目立つ赤い色。歩くたびに森の空気が震え、その存在を歓迎しているように見えた。
 すると、相手がふっと自分を見た。見開かれた瞳。自分と同じ色合いをしていた。だから、直感的にわかったのかもしれない。
「もしかして」
 言葉は先に飛び出ていた。
 ――お前のてて様は綺麗なんよ。
 かか様はそれは幸せそうに何度も雛にそう言った。綺麗な夜の月を映したような明るい黄色の目。黒に近い紺色の髪。紅の衣。白い顔(かんばせ)。
「てて様かや」
 相手は当惑した様子もなかった。ただ、驚き、その後全てを納得した様子で雛に近寄った。
 そして母がしてくれたように、膝を折って、正面から雛の瞳と己の瞳を合わせる。眼差しがとてもやさしい。母が愛したという父。その父が、あれだけ待ちわびて、想像した父が目の前にいる。
 雛が想像したより儚く、美しく、そして優しげで。やわらかな月光のような、天狗。背にある翼はとても大きく、時折緑や紫に光って艶のある漆黒の羽だった。
「……そなた、名は」
 父は優しく雛の頬を撫で、そう問いかけてくれた。だから応える。この目の前の者が父と、己のどこかが納得してしまっているから。
「ない。かか様はてて様に頂けと言った。だから訊く。てて様かや」
 父は無言で雛を抱きしめた。母がよくそうしてくれたように。温かく、全てを包み込む父の腕の中は、なぜか母と同じ匂いがした。無意識に父に抱きつく。よく母にそうしたように。
 すると、父は優しく雛の頭を何度も撫でくれた。父と雛はしばらく抱き合い、父はふいに雛を離し、また目を覗き込んで、やわらかく言った。
「――そなたの名を、七矢としよう」
 この瞬間から雛は七矢となった。その日、父はずっと七矢の側にいた。七矢を膝の上に抱き上げて、特に会話をすることもなく、一緒にいた。
 日が陰って来た頃、父は言った。
「明日、また会いに来る。待っていてくれるか」
「かか様は」
 初めて母の存在を父に尋ねた。父がやっと会いに来たのだ。母も喜ぶだろう。しかし、父は静かに首を振った。
「かか様がお前に会うことはもう、ない。だから今度は私がそなたと共に在ろう」
 絶望的な一言を父は言い、そして七矢に一緒にいる約束をしてくれた。その通りに、翌日日が昇ってしばらくしてから父は再び七矢の前に姿を現した。
 父は母と違って話すことはあまりなかったが、ずっと七矢を抱いているか、七矢の手を握っていてくれた。そして口以上に雄弁に語る目でずっと七矢を優しく見守ってくれた。
 そんな日がしばらく続き、父は七矢に母のことを教えてくれるか、と問いかけた。だから、七矢はうれしくなって母との想い出を身振り手振りを使って話す。思い出すと母と会えない寂しさが募ったが、優しく見守る父を見ていると、寂しさは薄れていって、もっと教えてあげよう。と意気込んで山の中で父をあちらこちらへと連れまわした。
 しかし嫌な顔一つせず、疲れた様子もなく、父はにこにことそんな七矢を幸せそうに見守り、一緒にいてくれた。母が教えてくれたこと、母と一緒にしたこと、母の想い出は覚えている限り、父に教えてあげた。
 そうするうちにぽつり、ぽつりと父も母と同様に、母の想い出話をしてくれた。母は父が優しく、美しく、恥ずかしがり屋だと言っていた。父は母の事を明るくて、元気で気高いと言った。
 母が父のことを遠く離れても信じ、最後まで愛し続けたように、父も母の事を信じ、愛しているのだとわかって七矢はうれしかった。
「七矢」
 父に穏やかに名前を呼ばれるのは、母と一緒に寝たときと同じ位うれしく、安心した。母が父を優しいと言う理由はこの声と気性と雰囲気に在ると感じた。母が愛したその性質を確かに七矢も好きだと思ったのだ。
「七矢は、この山を出たことはないのか」
 父はそう七矢に問いかける。七矢は母にそれを禁じられていたと言った。すると父はしばらく考え込み、もう一つ七矢に問いかけた。
「では、七矢は飛んだことはないのかや」
「うん。地からあの木の枝位までならある」
「ふむ。それは飛ぶとは言わんな。跳ぶのは翼がのうてもできる」
 父はそう言って七矢を抱き上げた。
「烏天狗ならば飛べねばなるまい。空駆けは楽しいぞ。かか様は大好きやった」
「やってみたい」
 母が好きだと言う、飛ぶ行為を、その前に背に在る翼をはばたかせてみたいと純粋に思ったのだ。すると父はにっこり笑いながら頷いて、七矢を胸に抱き寄せた。七矢は父に背を向けたまま抱かれる。
「では、飛ぼう」
 父の立派な翼が開く。音を立てて羽ばたかれた翼が風を起こした。二三回羽ばたいたあと、ふわりと父の身体が浮く。
「えぇ」
 身体が浮いた事、それを翼がもたらせている事。それに七矢は驚いた。
「驚くのははやい。これから飛翔を始めるさかいな」
 父がそう言ったと思った瞬間、ぐぅーんと加速する。抱かれた父の腕にしがみついた。父の羽ばたきの音が少なくなったと思ったら、いつの間にか風を切っていた。
「七矢、目をあけてみ。見て御覧」
 父にそう言われ、恐る恐る目をあけると、そこには小さい天の様な木々がはるか下に見える。
「あれがそなたが居った森や。ここは二宮。かか様は二宮の宮さまとどう取り交わしたかは知らんが、そこでずっとそなたを護り、育てた」
 見知った小川や木々がはるか下に見える。
「ここは山神・道主さまが治める山。山は八つに分かれておる。それぞれの山一つを『宮』と呼ぶ。ここは二宮。道主さまが二番目に分けた山じゃ。山は天狗によって護られておる。天狗が我ら。天狗の種類によって分けられた天狗たちは集団で山を、悪しきものから護ることを定められておる」
「それは、道主さまにそう命じられておるということかや」
「否。生まれたその時からそれ以外の事を知らぬということになろう。天狗たちは皆一番に山を護る事を使命として生きておるのじゃ。私も、かか様もそうやった。あそこ、遠くに薄く色づいた壁のようなものがあるやろう」
 父の示す先に、確かに薄い灰色の何かが、山全体をうっすらと覆っている。
「あれが結界。天狗達が張る、山を隠匿し、絶対守護をするための囲い。天狗達は宮の指示の元、絶えず結界を張り、山を異境とする。さっき山を宮と呼ぶと言うたな。天狗たちは集団で護るとも言った。集団で群れる天狗を指揮する長、各宮に一匹居るその天狗のこともまた、『宮』と呼ぶ。一つの宮に一匹の宮がおる。道主さまが天狗らに与えた宮は全部で八つ。今残る山は二つじゃ。今、この眼下に広がる二宮」
 父はそう言って二宮の上空を飛びまわった。おかげで七矢にも二宮の全体像がわかってきた。
「八つあったんに、なぜ今は二つしかないねや」
「ほやな。なぜ失われたかは私も知らぬ。じゃから、七矢。一緒にこれから見て回ろう、私と」
 父はそう言った。その時は父がどうしてそう言ったのかわからなかった。ただ、今までいた場所以外の山を、場所を見せてくれるということが嬉しくてたまらなかったのだ。
 その後、父は根気よく七矢に飛び方を教えた。使わなかったせいで、小さいままだった翼は、飛翔の練習のおかげで、ぐんぐん羽が成長し、翼と呼んで良い代物となった。己の身体より大きい漆黒の翼が七矢には誇らしく、その成長と比例し、飛距離や早さも瞬く間に伸びて言った。
 父と並んで空を飛ぶことが出来て嬉しかった。きっといつか父と同じような立派な翼を持てるのだと思うと今から楽しみでしかたなかった。父は二宮の上空を七矢が疲れる事無く飛べるようになって、そして父と同じ速度で連続して飛翔が可能になって初めて、全てを見る旅に出ようと言ってくれた。喜んで七矢は父の後を追ったものだ。

「まずは、挨拶をせねばならぬな」
 父はそう言って、二宮の中心へと向かった。父の話では母を匿い、己を育ててくれる場所を提供してくれた宮こそが、この二宮の宮さまなのだそうだ。知らない間に己の山で好き勝手しても文句一つ言わず、逆に七矢を育てる環境を提供してくれたのだから、感謝すべきだろう。
 二宮に降りる前に父は烏天狗独特の仮面を付ける。烏天狗の仮面は正式のもの。他人の前で付けるのは礼儀と父親から習ったことを思い出し、七矢も己の仮面を付ける。二宮の薄い壁、結界を通り抜け時間をおかずに天狗が数匹二匹を囲んだ。
「七宮様、どのようなご用件か……」
「二宮様にご挨拶に伺った次第。お目通りを願いたい」
「承知いたしました」
 初めて会った両親以外の天狗に七矢は驚いた。実際に両親の持つ翼より小さい。それに彼らの翼はそこまで美しくなかった。烏天狗が飛翔に優れた天狗の種類というのが実感できた。
 父は勝手知った様子で、とある場所まで降り立つ。すると天狗が何匹かいたが、父の姿を見て黙って頭を下げる。
「ようこそ、二宮へ」
 建物の奥から白い、と言えるような天狗が出て来た。初老の雄の天狗だが、格好が他の天狗と違って白い。
「お暇のご挨拶に参りました、二宮の宮さま。おかげでここまでおおきゅうなりました。七矢、ご挨拶を。そなたを育ててくれた場所を提供して下さった、私やかか様、そしてそなたの恩人にあたるお方だ」
 軽く背を押され、前に押し出される。七矢は目の前の天狗を見上げた。
「あ、あの……」
 何を言ったら、と父を見上げるが父は何も言ってくれない。
「大きくなりましたね。初めまして。この二宮の宮を務めます、二刃と申します」
「七矢です。あ、あの、いろいろありがとうございました」
 ぺこり、とお礼をすると、正解と言わんばかりに父が頭を撫でてくれた。
「……お決めになられたのですね」
「はい。長らくご迷惑をお掛けしました」
「いえ」
 父と二刃は何かを七矢の知らない事を話しているようだ。
「では、きっとあなたとお会いするのはこれで最後になりましょう」
「本当に、ありがとう存じます」
 父が静かに頭を下げる。挨拶と言うよりかは、別れの挨拶をしているように思えたが、母としか別れた事がない七矢は父と二刃が何をしようとしているのか、何を想っているのか、わからなかった。
「では」
 最後の言葉は短く、それだけ言うと七矢の手を引いて父は飛翔を始める。七矢は二刃を振り返った。にこにこと微笑む一つの天狗たちの長を見た最後となった。後に知れたが、二刃はこの直後、宮を代替わりした。
「見たかや。あれが群れる天狗というものじゃ」
 飛びながら父が言う。七矢は何を父が言おうとしているか分からず、ただ視線を向けるにとどめた。
「天狗の中でも人間が生まれ変わった者、白天狗という種類が、二刃さまであり、二宮の天狗達じゃ。彼らは浄化の力に優れるが、飛ぶ翼は小さい。博識で、知識や見聞を広めることに生涯を費やす者もおる。人間の住まう場所に近く、人間に慣れておる。ゆえに、生き残った宮なのじゃ」
「ほうなの。てて様のような天狗の仲間でありながら違う種なのかや」
「ほうや。正確にいえば、私も天狗の仲間じゃ。私らは烏天狗と申す。鳥が天狗に変わった存在で、夜を司り優れた翼を持つのが特徴じゃ」
 翼が美しく、力強いのは烏天狗だからだという。
「覚えておきや。二宮の様を。これが天狗が守護する山じゃ。天狗が異境として秘匿し続けた山の有様、山神が宿る山と言うものがどうものか。山神が居る山と居らぬ山、生きとし生けるもの、木々の様、山の持つ気質。それらの違いを見よう。では、次は山神が居らぬ山へ行こう。目指すは西、かつて一宮があった場所じゃ」
 父の翼が一回羽ばたく。そして身体ごと方向を西へ向けた。一宮といえば、ここらの山を治めている山神・道主さまが一番目に分け与えた山のこと。かつてあった……とは。それは飛んで行くうちになんとなくわかってきた。
「あっちの方向にあるのかや」
 七矢が指差した場所に父が頷きを返す。
「そう、かつて一宮のあった場所。今から行くはかつて偉大な天狗が居り、異境として護られておった山じゃ。しかし、今はない」
「なぜなくなったのかや」
 そう会話を続けるうちに一宮があったという場所の上空へたどり着いた。降りてみよう、と父が言う。
 二匹で滑空し、地上が近づいても、二宮のように警戒してくる生き物はいなかった。結界もない。ぽかぽかと日差しが降り注ぐ山は温かで穏やかで命が息づいているのはわかるが、何かが違う。二宮とは違う。
「一宮は道主さまが生んだ純粋なる天狗が集まった宮。今の様な温かな山ではなく、厳粛な雰囲気を持った、そう冬山の様な厳しさを湛えた山だった。生き物が暮らすには、少し厳しすぎたやもしれぬ。それでも山神が宿る山には力があり、天狗が守護した山は今ここにはない確かな未来―別の言い方をすれば変わらぬ日々が在ったのじゃ。山の生き物にとってどちらがよかったかは分からぬが、な」
 七矢は一宮があった場所を歩く。七矢の存在に気付くこともなく跳ねる兎。さえずる小鳥。虫を追う虫。その虫を食らおうとする鼠などの小動物。温かな、しかし確かな命の循環を感じる山。父は寂しそうな様子でそれを見ていた。七矢にとっては二宮の清浄な気を持つ山と確かに違うということは肌で感じて分かるが、良さはわからなかった。どちらがいいかはわからない。
「一宮の宮さまはどんな方だったの」
「ほうやなぁ……厳しい方やったと、思う。しかし今となってはわからんな」
 父が遠くを見る。七矢として、宮として他の宮と交流を持った時にはすでに一支は老齢な天狗だった。優しく、しかし厳しい天狗だった。天狗の鏡の様な在りようだった。だのに、突然消え、残された天狗たちの姿は無残だった。山を支える事も、一宮を離れることも出来ず、おそらく天寿を全うできた天狗はいなかっただろう。
 確かにいつ息を引き取ってもおかしくない年齢とは言え、新宮の継承をせず、亡くなったのかは謎のまま。そして宮が天狗が守護をしなくても山は生きるが、徹底的に山を変えるという事実と、天狗の永遠とも思える営みとて、宮が消えるだけで簡単に消えさるという事実だけを残した。
 確かに山にとっては枯れた木々や冬のような生き様は苦しかっただろう。だが、山神が、天狗が消えて一宮であった山は力を確かに失った。易々と蹂躙を許し、いずれ山は時の流れに逆らえず、山そのものが失われる時も来るだろう。

「では、次は天狗は居らぬが、天狗の力が未だなお根付く山へ行こう」
 しばらくかつて一宮であった場所で過ごした二匹だったが、父がそう言ったので移動する事になった。
「どこに」
 七矢は父が次はどんな場所を見せてくれるのかと楽しみに尋ねた。
「巨木と運命を共にした山――六宮へ」
 上空を飛び、移動をするうちに、遠目からでもわかるほどに巨大な樹が見えて来た。巨木とはおそらくあれのことだろう。そしてうっすらと青緑色の結界が見える。確かに天狗の異境が成り立っている山の様だ。しかし、一宮と同様に侵入を果たしても、何も咎める事はない。だというのに、なぜかこの山にいると侵入者のような気分になり排除されているような、拒まれている気がする。
「お久しゅうございますれば、六宮の。七宮にございますれば、しばしの滞在をお許し願いたい」
 父が声を張り上げた。すると刺々しいまでの気がおさまっていく。
「先程の一宮との違いがわかろうや。この山に天狗の姿は確かに無い。しかし、天狗は根付いて居る」
「この山の天狗は、六宮はどうなったの」
 父は黙って巨木の根元まで七矢を誘った。手を幹に静かに当てる。そして目を閉じた。七矢は父が何も云わないので父の様を真似、同じ動作をする。
“なんね、おんし。そこの餓鬼は何やねん”
 目を閉じて驚いた。鮮やかな青い衣。緑髪の鋭い目つきの天狗がそこにはいたからだ。驚いて目を開くと、その姿は消え、そして声も存在も感知できなくなる。何度か瞬きをして、再びゆっくり目を閉じる。すると目の前に天狗が立っているのだった。それだけではない。姿は見えずとも何匹もの天狗の存在を感じた。
“よくない癖ですよ。雛が怯えてしまうでしょう”
 穏やかな声と共にもう一匹の天狗が姿を現した。中性的な外見で、やわらかい印象の天狗。
“お久しゅうございますね。七宮さま”
「こちら、六宮の宮を務めて居られる――六仁様、並びに側近の蓬様だ。挨拶を、七矢」
「は、初めまして。七矢と申します」
 じろりと六仁に見られると、緊張して声が少し上がった。六仁はふん、と鼻を鳴らすだけだったが、蓬が微笑む。
“初めまして。ようこそ、六宮へ”
“まぁ、わしらはここに居るだけの者。山を汚さぬならば、好きなだけおったらええわ”
 六仁がぶっきらぼうに応え、すっと姿が消える。父と蓬が目を合わせてくすっと笑った。
「そう言えば四葉殿は、いずこにおりますや」
“最近はよう寝るようになりましてな。お会いできれば喜びましたものを”
「いえ、無理は申しませぬ。こちらとて急でしたから」
“そう言って頂けると助かります”
 蓬も微笑んで姿が消える。父は目礼を返し、手を幹から離した。
「てて様、今のは一体……」
「わかったじゃろう。六宮の天狗はこの巨木を通して山と溶け合って居る。だから巨木を通せば挨拶できるっちゅうわけやな」
「なして……溶け合うようなことに……。なぜ二宮のようにこの地には居らぬ」
「山と溶け合ってまで護りたいものが居った、そういうこっちゃろう」
 二宮を見て、天狗のいない一宮を見た。天狗がいない山は確かにぽっかりどこかに何かを忘れてしまったような物悲しいような、寂しいような何かがある。だからこの六宮に訪れて、それがなかったから安心した。
 なのに、この山には気配は満ちているし、守護の力があるのに天狗の姿がない。巨木を通さないと触れ合うことさえできない天狗たち。それでもたった二匹としか出会っていなくてもわかってしまう。
 この運命を誰も後悔しておらず、むしろ進んでそうなったであろう過去が。父の一言が全ての様な気がした。
 ――護りたいもののために、己の全て懸けて、全てを失くしてしまっても構わないその覚悟。
「天狗とは、そういうものなのじゃて。己の命すら全てが霞むほどに山を護る事があるのじゃよ」
 寂しそうな、遠くを見つめて父が言った。しばらく六宮で過ごす日々の中、七矢はなぜそこまでして山を護ろうとしたのか。父がどうしてその想いを理解できるのか、自分も理解しようと努めた。しかし、いくら考えても七矢にはなんとなくわからなかった。

 六宮に暇を告げて、次に二匹が向かった先はかつての三宮が在った場所。
「三宮の別名は春宮。天狗と三宮さまがおった時は、それは春の美しい山じゃった」
 降り立った山は木々が深く生えていない、日差しの暖かな場所だった。咲き誇る花や芽吹く草木達。山だが色鮮やかな山であることは間違いないように思われた。
「これはその名残」
 父はそう言って辺りを撫でる。優しい日差しが降り注ぎ、同じ天狗が消えた山でも一宮が在った場所とは違う。一宮は自由になった命が好き勝手芽吹いて出来た山といった感触があった。
 しかしこの山は天狗の名残がある。二宮、六宮で感じた山を深く護っているその気配の名残がある。それを山が感じていて、慈しむように遺そうとしているようなそんな感じがある。
「てて様……山も生きておるのやな」
「そうじゃな。天狗は山を護る言うても、実のところは逆。山に生かされておる」
「この山は三宮が好きやったんな」
「そうやろうな。三宮は穏やかで、その宮の天狗達もそういう天狗やった。天狗が山に溶け込み、共に支え合って生きて来た。そういう宮やった。ゆえに天狗が力を失い、消え去る事になっても山はその想いを抱いておる」
「それって、天狗とか関係なく……素敵なことやな」
 父はそう言われ、はっとした後に、七矢に向かって美しく微笑んだ。
「ほやな」
 その時七矢はふと思った。父は自分に全てを見せる為に、天狗としての有様を教えようと各地を案内してくれている。だけど、もしかしたら父も一緒に旅をする事で何かを見つけようとしているのかもしれない、と。

 天狗がいなくなった山を二つ、天狗がいる宮を二つ見た。次に父が案内してくれた宮も天狗が消えた宮だったが、身体を何かがざわりと撫でるような、吐き気がするような嫌な感じのする場所だった。
 天狗の気配も名残もそれどころか生き物の気配さえないような。死肉を貪るような気配だけがする。
「てて様……」
 あまりの嫌悪と感じた事のない不安に思わず父の真紅の裾を握った。父は安心させるようにその腕の中に七矢を抱いた。すると父から出る清浄な気に包まれてやっとまともな思考が持てた。
「覚えておきや。これが『穢れ』。天狗が忌むもので、山を殺す『気』じゃ」
 確かに長く触れていれば生きる気力を失わせるような気だった。
「天狗の役目は山にこういう悪しきものを入れない事。そしてそれを祓い、清浄な気を満たすこと。己の気で穢れを打ち消し、山にとって良い環境を護ることじゃ」
 父に触れているだけで安心できるのは、父が気を打ち消しているからだ。
「これを『祓う』という。そなたに教えていなかったことじゃ。天狗ならこれが出来ねばならぬ。七矢、そなたはこの地で穢れを取り除く練習をしや」
「……相わかった。しかし、てて様。この穢れとはどうやって生まれるのや」
 今まで七矢が生きて来た環境にこのようなものはなかった。物理的に命の危険があるわけではない。しかし、本能が告げる忌むべきもの。全ての生き物の生きる力を奪うもの。
「生き物の営みを理由なしに奪う、その恨みがこのような形となって残る場合が多い。多くは人が生み出せしものよ」
父はそう言って厳しい顔した。
「……人」
「ほや。人とは我ら天狗と姿が似る。そして私が生きていた時だけでもすさまじい速度で繁殖し、数を増やした種族でもある。人は我らを感知出来ぬ。それは我らが人から逃れ、深く山に潜り、異境としていたせいもある。しかし人は己の数を増やすことに専念し、我らと違い、手に余るものを望む。ゆえに争い、無駄に命を散らす。それにより土地が痩せてゆき、神が消え、穢れだけが残る。この地もそう」
「……人によって滅んだ山」
 父は頷くと悲しそうな顔をした。馳せる想いは過去の栄華だろうか。
「ここは八宮。かつて心優しい天狗の住んだ山。人に荒らされて消えた山じゃ」
 七矢は目を見開いた。
「ここが、天狗の居った宮、とな」
「ほうや。荒らす人でさえをも弔おうとするような心優しい宮が代々この山を護っておった。しかし常に増える人の気配と穢れに耐えられなくなり、山は一気に穢された。この場所は人の手によって人の戦場になった」
「そんな……」
 七矢が絶句する。人とはそういう生き物なのだろうか。多くを望み、そして全てを失くすのか。
「天狗が消えた宮と居る宮。なぜそういう運命があると思う。かつて道主さまが天狗たちに分け与えた山は八つ。そのうち天狗がそのまま異境を維持している宮はたった二つじゃ。なぜ残りの六つは天狗が消えたと思う。直接の原因は異なれど、ほぼ人のせいと言ってよい。八宮は人の手によって滅んだ。人の考えは分からぬが、この場所が人にとって争うに丁度良い場所であったのであろう。歴代の八宮は何度も何度も穢れを祓っておった。しかし、年が変わり、時を重ねる度に人は戦を重ね、土地を枯らした」
「ほうして、八宮は滅んだ」
「ほうや」
「じゃあ、三宮は、一宮は……人のせいで」
「三宮は人の数と気配に耐えられず、丁度不幸も重なってな、滅んだ。一宮はわからぬが」
 七矢は今の八宮、かつて天狗が護った山をここまでされて怒りを覚えた。木々は荒らされ、草さえも枯れている。
 生き物は生き延びる力のある者だけがひっそりと隠れ暮らし、日は差すのに熱がこもらず、風が吹き抜けるだけの、山ではなくただの木々が生えている空き地のようになってしまった山。変わり果てた山。天狗として許しがたい暴挙だ。
 七矢は怒りを孕みながら八宮の穢れを祓う日々をしばらく続けた。己と父が過ごす場所位は清浄な気で包まれる位には祓えた。
 どの生き物も己の領分を勝手に奪われ、蹂躙されれば怒る。なぜ人はそれくらいの事をわかろうとしないのか。天狗がいようがいなかろうが、そこには山本来の多くの生き物たちの生きる場所が生活が在った。なのに、それさえも消し去ってしまったのだから。
「ほうやって怒るのはそなたが天狗じゃからかな」
 父はそう言って微笑んだ。
「では、次は人を見に行こうか」
「え、本気かや」
「そうとも。人がなぜここまで山を荒らしても何も思わないか、確かめに行こうかの」
父がなぜそう言うのか七矢にはわからなかった。しかし、人だけが悪いという、そういう問題ではないということを実感させようとしていたのだろうと、後に七矢は知る事ができたのだった。

 父からしばらく人に化ける術を教わり、父が少年、七矢が幼子に化ける事が出来るようになった時、八宮を歩いて下り、戦場を抜けて人里へと降り立った。
 人里に下りて感じたことは、うるさいということ。生きる意志が強い。誰もそんなことは言わないが、全身全霊、その気が叫んでいるような印象を受ける。精一杯生きて、己がこうありたいというのが強い種族だというのがわかった。
 彼らには悪気と言うものはない。山をあれだけ荒らし、穢す。それは罪とは思っていない。それよりもそういう行為がそういう結果になるということさえ気付くことができない種族なのだ。そして後に気付いた時にはもう遅いのだろう。
 坂道を転がる石のように終わりまで転がらなければ止まる事ができない種族なのだろう。
 ――人は人なりに、その生を精一杯生き抜いているだけなのだ。
 人の世に紛れて人として父と生きて次第にそう感じる事が出来た。それに人の世には興味を惹くものが多くあることも事実だった。人とはなぜここまで様々なものを生み出すことに長けているのだろうか。子供に混じった時は子供が行う遊びでさえ多種多様だった。
 食べ物も、着るものでさえも全てが数多く、それを様々な楽しみ方ができる種族であった。
「人って複雑だね」
「そうやな」
 父も人の身に化けるとただの少年のように見える。誰も自分達を親子とは思わないだろう。兄弟と思っていたはずだ。
 人の世に紛れて生活することは楽しかった。しかし自分の中で何か重い物が募っていくのも事実。それが見境ない、他の生き物を感じ取れない人だけの欲が生み出す穢れが己に溜まっていく感触だと気付いた。
 人の世は確かに興味を引くものが多く、そして居て楽しい。でも天狗である己の身には長くいるとそれはまるで毒だ。父は絶えずその穢れを祓っていたようだから大丈夫なようだが。
「人の世は楽しかろう」
「うん」
「せやけど、天狗の我らには居るべき場所ではなかろう。それもわかるかや」
「うん」
 父がなぜ穢れを祓うよう言ってくれなかったのか。楽しむ七矢をそのままにしていたか。
 人の世を深く教える為だったのだ。天狗の住処を、山を殺す真似ができる人を。
「では、行こうか」
 七矢が十分に人の世を知ったと見て父が言う。
「え、次はどこへ」
「ついてきや」
 父はそう言うと街外れに脚を向けた。人に化けた姿を解かず、翼も現さないということはまだ山には帰らないということだろうか。七矢は不思議に思いながらも父の後を追った。
 父が辿り着いたのは、朱が目に眩しいほどの鳥居の群れ。先に見えるは小さな祠。両側に居座るのは狐の石像――。
「……稲荷」
「ほや」
 父が数々の鳥居をくぐり、祠の前に立った。その瞬間に羽ばたきの音が聞こえ、真紅の狩衣が翻る。父が天狗に戻った瞬間だった。荘厳なまでに、神々しい姿を見せつける。一瞬で稲荷の敷地が祓われ、清浄な気で満たされる。
「お久しゅうございますな。姿を現して頂けますかや」
 無機質な目を向けるだけの狐の石像と祠に祀られている狐たち。赤い目が七矢と父を見ているようで見ていないような、思わず父の裾を握る。
「お久しゅうございますな」
 そう返事が聞こえた、そう感じた時、そこはもう人の町の隅にある稲荷ではなかった。異境に連れ込まれたのだと感覚が告げる。その時七矢は警戒で己の身を天狗に戻していた。
「五生さまはどうなさいましたのや」
「宮さまは山に残られたのです。五生さまが宮を手放してからの二代目の宮です。五生様の後、夜花様が継ぎ、その後私が現在の五宮の宮を務めております。雪羅(せつら)と申します」
「……ほうですか」
七矢は目の前に立つ、恐ろしいほどに美しい女性に対しても淡々と受け答える。
「七矢。こちら雪羅さま。……人の世に溶け込んだ宮――今の五宮の宮さまじゃ」
「……宮」
 唖然として七矢が言う。まさか、人の世に、山を離れて天狗が生活しているとは思わなかった。着ている服も人のものと変わらない。かすかに天狗の気を感じるが、それも今や変質している気がする。目の前のものは本当に天狗の仲間なのか。
「なして……人の世に。なして山を離れていられるのです」
 自然と目の前の女性に訊いてしまう。人に消された山を見た。天狗が離れた山を見た。そして山と溶け合った山を見、天狗と共に在る山を見た。だからこそ、人の世に溶け込んだ天狗たちは違和感がぬぐえない。
「五宮はもともと尼天狗の集う宮でした。雌の天狗のみが集う宮です。尼天狗は稲荷に通じるものがあります。ゆえに人の世にある稲荷と溶け合う事で、山を離れ人の世に在る事が出来ました。我らの今の姿は確かに『天狗』とは言えません。もう、私たちは『稲荷』です。それも山を知らぬわけではないし、山を思わぬこともないのです」
「尼天狗に会ったことがないからわからんのですが、そう簡単に山を離れることができるのですかや」
 七矢はそう言って雪羅を見る。雪羅はあくまで静かに七矢を見つめ返す。
「尼天狗は人の女が、いえ、あらゆる生き物の中でも『女』の部分が強い生き物が天狗になったもの。『稲荷』の問題は別にして、『女』の本能が残っているものです。『女』の本能、わかりますかや」
 七矢は首を横に振った。
「『子』を望むことです。そのために『男と交わる』ことです」
 七矢は少し驚いて、雪羅を見返す。とてもそういう風には見えないのに。
「五宮はそういう本能を持った天狗が集まった宮でした。歴代の宮は配下のその本能をあらゆる方法で逸らせてきたのです。なぜかわかりますか。本能に従うということは他の宮の天狗を誑かし、山の守護を第一とする天狗の社会を崩壊させる危険があったからです」
 父を思わず見つめる。父は逸らす事なく七矢を見つめ返す。それでこの女性が言う言葉が真実と知る。
「天狗であった時代も度々五宮の天狗は人里に降りて人の間に子を設けています。五生さまが決断されたことは真の意味で五宮の天狗を救ったとも言えるのです。五宮の天狗は誰しもあの時の五生さまの決断に異を唱えません。五宮の天狗が人里と交わり、結果的に稲荷になったこと、山を捨てたことがわれらにとっては最善だったのです」
 七矢は言っている意味がわかっていつつも納得できずに呆然としていた。
「天狗が、山を捨てても大丈夫って……」
「尼天狗とはそういうものだったのです。人から天狗になったものはただでさえ前の記憶、強烈な想いを抱えて天狗になります。強い思いはそのものの根幹となるのです」
「でも、人は八宮や三宮を滅ぼしたんや。それと一緒になる道を選ぶって」
「天狗は滅び行く種族です。いくら強大な結界で囲っても、力が失せればそれは意味のないものです。子を成さぬ私たちが、未来を強く望む私たちが滅び行くその道を選ぶはずもありません。人は確かに八宮、三宮、天狗の住まう山を滅ぼしたでしょう。しかし人のせいだけではありません。天狗もまた、山を支える山神でさえ、力を失いつつあるのです。山を守る力があれば、滅ぶことはなかったでしょう。人の穢れを祓い、突っぱねるだけの力がないから、消えたのですよ」
 天狗ではなく、稲荷になったという五宮。彼女が語る天狗の有様はまるで他人を語るが如く冷めていて、そして客観的だ。
 それはある意味、正しい。天狗に将来はないと切り捨てることも種を残すという意味では正しい。――そう、子を望み、子孫を残す事に強い本能を持つ尼天狗ならではの。
「確かに、宮がいくつか消えたからこそ、山神の力が殺がれ、自由に慣れたのも本当です。そう言う意味では他の消えた宮には申し訳ないと思わないでもないです」
 雪羅が語る事は、天狗の根幹を、七矢が思い描く天狗像をそれこそ木っ端微塵に砕く発言だった。様々な天狗の有様を見、そして天狗であった父と母を見て七矢が思い描いていた天狗の生き方。
 山を慈しみ、護り、山と共に生きるその姿が七矢にとっての天狗。しかしそれを枷の様に感じていた天狗もいる。それが目の前の天狗であったものであり、五宮という天狗達。
「それが五宮の本意であり、今の私たちです」
「……そんな」
 天狗が山を離れるのも信じられないのに。
「それで幸せになれたのですかや。貴女は」
 黙って七矢と雪羅のやり取りを見つめていた父が雪羅に問うた。
「そうです」
 無表情で応える雪羅。それを憐れみさえ込めた目線で父が言う。
「否。口先では何と言おうと天狗が山を離れて大丈夫とは言えますまい。本心を隠すのは雌ならではの巧さですな。だから貴女は、いいえ、今の五宮には『藍』を背負うことが出来ぬのですよ」
 断罪するかのように言う父の表情は雪羅と同じように感情が乗っていないが、そう言われた方は感情を初めて露わにした。
「貴方には、貴方にはわかりますまい」
 白い手が父の細い首を掴んだ。七矢が息を飲むが、父は眉ひとつ動かさず、静かに、冷たく雪羅を見つめ返す。
「愛することを禁じられる苦しさを。前世の苦しみを。生き物の本能を」
 叫ぶ雪羅を一つ瞬きをして、見つめ返し、無言で翼を一回羽ばたかせた。その瞬間風が唸り、小さい悲鳴を上げて雪羅が祠に叩きつけられる。七矢が驚いて父を見上げた。こんな乱暴な事をするとは思わなかったからだ。
「永き天狗の生に、在り様に苦しんでいるのは貴女達五宮だけではありませぬ。滅びいった宮もそれぞれに苦しみがあったのです。貴女が宮となれないのは、貴方に覚悟がないからです。私が知る五宮の宮はそれは美しく妖艶でした。そして藍を纏うことができる偉大な方でもありました」
「……っ」
 雪羅が苦しげな呼吸を吐き出して、父を睨む。
「逃げるだけでは何も解決しない。五生さまが宮を人里に移したのには理由があります。その理由を私が量ることはできませぬ。だからといって今の在り様が正しいとは思えませぬ。五生さまが想っていたことはきっと貴女に受け継がれてはいないでしょう。五宮ではない私が偉そうに言える立場でもありませぬ。しかし……残念です」
 父はそう言って七矢の手をそっと取った。父は何のためにこの場所に来たのだろうか。かつての五宮に思いを馳せて、それを七矢に見せようとしたのだろうか。それとも父が会いたかったのだろうか、かつての五宮に。
「五宮は滅んだのですな」
 父はそう言うと雪羅を振り返る事無く、羽ばたきを始めた。手を引かれた七矢も飛翔を始めるべく羽ばたくが、七矢だけは雪羅を振り返る。そこには憤りを秘めた顔があった。
 相容れないという意味を込めても、父はこの人と決別したのだろうな、となんとなく感じた。
「……滅んだのは私達だけではない」
 苦し紛れのその言葉にさえ父は振り返らない。紅の背中が見せるのは何だろうか。
「……そういう意味ではありませぬ。では、とんだお騒がせを。失礼致します」
 父は厳しそうな顔をしているのが、仮面を通しても七矢にはわかった。親子は何も云うことはなく、上空に飛び上がって、もう人里を見ることはなかった。
 父は人里から帰ると、深い森の中に七矢を連れて来た。生き物の気配はするが、静かな山だった。父は疲れただろう七矢を気遣って、この場所に連れて来たという。しばらく休もうと。七矢はそれに従い、しばらく天狗というものについて考えた。
 自分は烏天狗という種なのだという。夜に特化した、最速の翼を持つ、鳥の生まれ変わりである天狗。そして父も母もその烏天狗だ。
 他の烏天狗には在ったことがないが、父と母の生き方を見ればわかる。山を大事に思っていて、心のどこかに必ず山がある。両親とも山とは切っても切り離せないようだった。
 そして滅びた宮と、天狗が居る宮を見た。山を思う気持ちはどの宮でも感じた。それは両親が思う気持ちと同じように思えた。しかし人に滅ぼされた山を見、人を見て、山を捨てた天狗に会った。
 ――天狗とは、なんなのだろう。どう在ることが正しいのだろうか。
 父に訊いてみたい気がした。答えてくれるような気もしたし、答えてくれない気もした。だから訊くことができなかった。父は多くを語らない。だが、多くを想っていることはわかる。
「お前はなんだ」
 思考に陥っていた七矢に背後から声がした。父しかいないと思っていたので、七矢は驚いた。振り返ると七矢の格好とよく似た、しかし違う生き物の気配がした。黒っぽい着物に、山伏と呼ばれる格好に似ている。顔は狗に似て、猛禽の漆黒の翼を持つ何か。
「そっちこそなんね」
「ここは我ら天狗の領地。変なアヤカシ如きが何の用や」
 向こうが威圧的に言った。
「な、なんね。こっちも天狗や」
 そう言った瞬間、向こうの存在が不思議そうな顔をした後、噴きだした。
「そんな天狗見たことない。お前物まねの類のアヤカシか」
「え。え」
 七矢が言い返せない間に向こうが勝手に納得した。そして頷く。
「なら脅威でもなんでもない。我らが目ざわりに思わぬうちに消えるがよいわ」
 勝手にそう言っていつのまにかよくわからないものは消えた。しかし七矢の心に衝撃が残る。
 ――天狗、とな。
 父に問いたい気持ちがわき上がる。混乱した気持ちを父を通して落ちつけようと、七矢は父の姿を探し求めた。しかし何かしているのか、父の姿はない。山の中で目立つ赤い色をしているはずの父が。
 深呼吸をして、目を閉じ、父の気配を探る。微かな残滓を手繰って山の中をゆく。すると、多くの気配に出会った。
「あれは、さっきの……」
 先程の天狗と名乗ったものが集団で群れている。生活しているようだ。あいつらの領地と言っていたからには、自分一人では太刀打ちできなかろうと本能的に感じた七矢は己の気配を極限まで消す。そして知らないうちにその天狗と名乗った種族を、寝食忘れて観察している己がいた。そうして悟ってしまった。
 ――彼らこそが、天狗なのだと。
「てて様は彼らを見せたかったんや」
 父が休めと言って連れて来た場所こそが天狗の住処であたこと。そして父はそれを見せた。消えて七矢の前に姿を現さないのがその証拠。
 天狗とはどういうものか、どういう在り様が望ましいかを悩む七矢に、天狗を見せつける。
 その事実を知って、愕然とした。今度は父が何をしたいのかわからなくなったのだ。今度こそ、父に問い正すつもりで父の残滓を探し、父の姿を求めて、逃げるように七矢は天狗の住処から飛び立った。
「てて様」
 父は天狗の住処から遠く離れた山にいた。七矢を天狗の住処と知って置いてきたのだ。
「七矢」
 父は相変わらず穏やかな顔をして、優しそうに七矢を見つめる。
「なして、置いていったのかや。あれは何ね。天狗って名乗った……けども」
「七矢。ここが最後、かつての四宮(しのみや)があった場所」
 問い詰める七矢の言葉を無視し、父が遠くを見つめて言った。
「四宮最後の宮は四練と云う。滅んだ三宮、八宮までをも護ろうとし、叶わず散った宮じゃ。優しく心持よい天狗じゃった。この山にはその四練が遺した優しさと生き様が残っておる。三宮と違うて、この山には四練が遺した配下の天狗がいまだ居る。力及ばず山を護る結界を立ち上げることは叶わぬが、宮は居らずとも宮が成り立っておる」
 感じてみろという目線に応え、七矢は山を、景色を見渡した。すると確かに自分達と似たような気を持つ生き物が山に均等に感じられる。己の起点とする場所を定め、結界によく似た構造の術を張り巡らせているようだ。
「私は彼らにあいさつに行く。そなたは彼らの助けとなるよう、ここを異界にする結界を張ってみや」
 父はそう七矢に命じるように言った。七矢は当惑しつつも頷く。二宮で一回見た、均等に力を与えた全てのアヤカシから山の存在を隠し、人里で経験したような悪しきものの侵入を許さない結界。思い描いて、己の力を把握し、均等に配分し、そして立ち上げる。
「わぁ」
 立ち上がった瞬間に腰が抜けて倒れてしまったが、目視する限り二宮に張られていたようなものと同じ程度のものが出来ているように見える。確認の意味をこめて父を見上げる。
 父は確認するように見ていたが、しばらくして頷いた。直した方が良い所を感想と共に述べ、七矢がそれを聞いて直す。父は一つ頷いて、それを維持しているようにと七矢に告げ、飛び立った。
「しまった」
 七矢は父が飛び立った後で、先程の天狗と名乗った存在について訊くのを忘れたことに気付いた。七矢は父に話題を逸らされていることに今更気付いた。
 それにしても父は確かに母と違って様々な事を七矢に教え、見せてくれている。それはありがたい。母と過ごした山に籠ったきりなら七矢はきっとあのままただ生きるだけだっただろう。
 父が様々な世界を、他の生き物を、他の山を知る事が出来た。七矢の生きる世界が広がって深く考えることも増えた。それは時には考えたくない事もあったし、知れたからこその喜びもあった。だからこそ父には感謝している。
 それにしても父は七矢の知らない世界をよく知っている。それに知り合いも多い。確かに七矢より長く生きているのだがら、当たり前と言えばそうなのだが。天狗というものはそうなのだろうか。それとも天狗とは……。天狗とは何なのか、天狗とはどうあるべきなのか。
 父と出会って山を出てから七矢の胸にあることはこの一つだけ。父は正解を与えてはくれないし、過去の母も正解を導くような教えはくれなかった。
 きっと七矢だけ、七矢自身が辿り着かなければならない答えなのだろう。
 父は帰ってきては、七矢にいくつかの術等を教え、確認し七矢を一人にする。出会った時のように七矢の側に常にいるわけではない。七矢もだんだん父の意図がわかってきた。
 きっと父は七矢に一人の時間を持たせる事で何かを決断してほしいのだと。
「てて様」
「なんや」
「その……天狗って何か、わかってきたような気がする」
 父はその、出会ったころと変わらない美しい微笑みで、七矢に頷いた。
「ほうか」
 答えを七矢に訊かない。七矢が話したくなるまで父は問わない。だから、きっと七矢の考えていることは正しいのだ。父は七矢が出す答えを待っている。
「初めは二宮、次が一宮、六宮、三宮、八宮、五宮、そして四宮。……ここらの山には八つの天狗の宮がある、そうゆうたね、てて様」
「応」
 父は優しい顔のまま、そう言った。そして、きっと父は天狗にしては、山に在る存在にしては目立つ紅を着ている――その理由。きっと……。
「七宮は」
 父は七矢がそろそろ言いだすことをきっと分かっていた。
「行くか、最後の宮。我ら烏天狗の集う宮へ」
「うん。連れてって」
「……ほうか。では、これを覚えておきや」
 父は初めて出会った時のように七矢に目線を合わせる為に座り、そし七矢の肩に優しく手を置いた。
「七宮に連れたら最後、私はそなたの側には居れぬ。父とはお別れじゃ」
「え」
 それでもいいのか、と父は言わなかった。そういうものだといつものように淡々と告げる。
「それは、どない……」
 七矢が不安げな目をして父を見上げる。父は微笑んで、首を振った。
「言い方が悪かった。お別れとは違うかの……。こう言う言い方は良くないが私が七宮に帰るということはそういうことなのじゃ。七矢の傍には、七矢だけに、七矢と共には居れぬ」
「一緒には居れぬの。ずっと……」
「そうじゃ。七矢の父として七矢だけの傍には居れぬのじゃ」
 寂しそうな目で父が語る。なぜ、と問い質しても父が悲しげに微笑むだけで何も云わなかった。
「……それが私に課せられた役目」
 どういう役目と問うても父は答えなかった。
「では、行こう」
 父は最後に七矢を抱きしめて立ち上がる。きっと父が答えない答えが、今から向かう場所にあるのだろう。幸せな父との日々を捨ててまでそれを求め、天狗とは何かを知る必要が今更あるのだろうか。
「七矢。来やれ、我が宮へ」
 手を差しだされる。その手を握り返すべきか、七矢の胸には未だ悩みが残る。母との日々は幸せだったが、突然の終焉を迎えた。父との日々は楽しかった。しかしいつまでも続くことはないともどこかでわかっていた。
 だが、だからといって自分の手で終わらせるのには……。その逡巡でさえ包み込むように父が微笑む。その美しい笑みに魅かれるように手を伸ばす。その手を父が握った。
「それで、見、知りや。我らが眷族・烏天狗の有様を」
「……うん」
 自分で言いだした事なのに、すでにもう後悔が七矢を捕まえる。七矢が言い出すのを父は待っていたようだから。
「そして決めや。全てを見、全てを知り、全てにそなたなりの答えが出たら、そうしたら私の前に来や」
 それが、七矢に遺した言葉。七矢は頷くしかなかった。
 父の力強い羽ばたきに引きずられるように、七矢はまだ見ぬ七宮へと飛び立ったのだった。

 それは今まで見て来たどの宮より山深く、ひっそりとし、そして厳粛な雰囲気の漂う山であることが遠目でもわかった。そして山が結界と呼ばれる天狗達の張る術で見事に仕切られ、異境と化している。
 七矢も父と一緒でなければ気付けぬほどに強固でありながら隠匿に特化されたものだった。他の宮が滅んだ理由はその立地にもあっただろうが、きっと七宮ほどの結界を張る事が出来なかったのも一因かもしれない。
 七宮の上空をしばらく飛びまわり、様子を一瞥すると、父は山の中央の上空で翼を閉じ、まるでゆっくり落ちるかのように七宮へと降り立った。
 二匹が七宮に入った瞬間、二宮のように黒い影が二匹を囲んだ。と思うと二宮のように警戒の声ではなく、挨拶の声がした。
「宮さま」
 父は答えず、地上を目指す。降りる間にも漆黒の影が増えていく。七矢は驚いた。格好は一様にぬばたまの黒。夜闇を切り取ったように―漆黒。そして表情を消す鳥をかたどった仮面。大きい翼。
 七矢と同じ格好をした天狗達――烏天狗が父と七矢をとり囲む。そして、ゆっくりと父は七宮の地に降り立った。
「宮さま」
「宮さま、おかえりなさいませ」
 父は居り立って静かに周囲を見渡した。父の視線に応えるように周囲の漆黒の影がうごめく。その数はそう多くない。しかし木々のどこかにひっそりと気配を感じ、この七宮のどこにでもいそうな気配でもある。
「七矢、仮面を」
 父が静かに言った。七矢は慌てて己の仮面を装着する。
「留守中、大義であった。皆の者」
 父が言い放つ。周囲の影がそれに応えて、跪いた。深い暗い山の中でひどく目立つ紅色―。
「宮さま……その雛は」
 黒い影がそう言って敵意の混じった視線で七矢を見、七矢はそれに驚き、少し恐怖を覚えた。烏天狗は今までみたどの存在よりも、表情が、存在が薄い。影のように。闇の様に。気付かぬうちに潜んでいる。
「応。我らが仲間じゃ。他の場所に産み落とされた故、迎えに行っただけのことよ」
 そう父が言うと、敵意が去り、急に視線が穏やかなものになる。
「夜鳩は居るか」
「は。ここに、宮さま」
 答える声がどこにあった、と思った瞬間、目の前に黒い影がある。七矢は少し驚いた。
「七矢と云う。他の山で育ったが故に、天狗のいろはを知らぬ。そなたが全てを教えてやれ」
「御意」
「では、散」
 父が声を掛けた瞬間、黒い影がさっと飛び去る。あれだけ闇を集めたようだったのに、今の瞬間にはもういない。七矢はその速さに目を白黒させているうちに、父が背を向けた。
 七矢は思わず父に向けて手を伸ばすが、今度は父が振り返らない。優しく眼差しを向けてくれた父のその紅の背が今は振り返る事はない。父はそのまま七矢を見ることもなく、どこかに飛び立った。
「てて様」
 叫んで呼んでも父は戻ってこなかった。
「七矢、云うたな。吾は夜鳩じゃ。よろしゅう」
 七矢の目の前には一匹の黒い天狗しかいなかった。青い髪には白髪が混じり、歳をとっていることがわかる。泣きそうな七矢に向かってその天狗は仮面を外して、わざわざ笑顔をみせてくれた。
 七矢はそれから夜鳩と共に過ごす事になった。七矢が最初に夜鳩に注意されたことは、父のことは宮さまと呼ぶように、ということだった。父は分けられた山を管理する天狗達の主――宮だったのだ。
 七宮は烏天狗が治める山。数は多くないものの、強大な力を持つ者が多い烏天狗は完全に山を異境にしていた。うっすら昼でも暗く、そして夜にその真価を発揮する。
 七矢は七宮に来て空駆けの楽しさを知り、上下関係を知り、天狗の暮らし方を学んだ。
 父はこの山を治める宮で一番強大で偉大な天狗。故に格好が一匹だけ色鮮やかなのだ。そして髪が短く、永きに渡って宮を務めているにも関わらず、その力故に若い。その強さ、偉大さから恐れ多いと側近の天狗以外は側に寄る事すらためらう。
 七矢にとって父は父でしかなかったからそんなことは全く思わなかったが、他の天狗にすれば父は宮である以上、神格化されているようだった。
 それを異常とは思わないのが天狗の暮らし方であり、在り方でもあった。これはこれで在りだと思わせる。それは七矢が数年七宮で過ごして感じたことだった。
「宮さまは空駆けもあまりしぃひんのですね」
 七矢は父の住まう場所を眺めながらぽつりと言った。数年七宮で過ごして、七矢が父の姿を見る事は滅多になかったからだ。烏天狗は皆空を飛ぶことが好きだ。父は他の烏天狗に比べても立派で美しい羽を持っていたのに、飛ぶことは滅多にない。己の住処から出てこないのだろうか。
「これは吾がもう亡くなった側近の方から聞いたことやけどな、宮さまは独りで過ごすことが多いそうや」
「……独り」
「せや。宮さまには鶯っちゅう同期のそら仲のいい天狗がおったんやて。しかし、なんの運命か、その天狗と宮の座を争うことになってしもうた。宮さまが宮に指名されたそうなんやけど、宮になってから宮さまは鶯をこの七宮から追放しはった。当時の天狗達は宮さまと鶯の仲を知っとったさかい、宮さまの行動が信じられず、宮さまは宮でありながら相当辛い目に合ってたらしい」
 今でこそ配下から忠実なほどに敬愛を抱かれている父だが、当時はつまはじきにされていたようだ。それを聞いて七矢は心の中で憤る。この閉鎖的な生活の場でそんなことをされたら。
 それだけ鶯という天狗は好かれていたのか。それとも父と仲が良かったのか。
「宮さまはそれについて何も仰らなかったそうだ。そうして時が過ぎ、今の様な様相に代わっても、宮さまは側近を選びはしても共を連れて行動することはなかった。宮さまは必要時以外常に独りでおられることを心掛けておられるようだ。でも独りで空を駆けたり、宮の中を見まわったりはしておられる。皆が気付かぬだけよ」
 夜鳩は本来、父の側近を務めている。側近の彼を七矢のために寄こしたことも父の愛情の一つだろうと七矢は最近になってようやく感じられるようになった。
 七宮に来たばかりの頃は父に見捨てられたのだろうと、泣いてばかりいた。しかし夜鳩はそんな七矢に嫌気を差すことも無く、根気強く共にいてくれたのだ。
 次第にこの老天狗に心を開くようになり、七矢の生活は良いものになった。七宮の天狗は誰も信じていないし、知らないが、七矢の父は宮さまだ。父はおそらく七宮に戻れば七矢に気を回すことが出来ないと知っていた。だから別れを切り出すような事を言ったのだろう。
 父親としての面と七宮の宮としての面。双方を知る七矢でも父という内面はうかがい知ることができない。
 父は母との想い出を語ってはいたが、宮としての己を七矢に語ったことはなかった。というか、薄々七矢が気付いてはいても父は己を宮だと言ったこともなかった。
「だから冷たいと思われがちじゃが、吾は知っておるのよ。宮さまはほんにお優しい方じゃ」
 夜鳩はそう言って、己の妻の話をしてくれた。元人間の妻は白天狗として夜鳩と共にいたが、先に死んだ。穢れを生む存在である人を愛した夜鳩とその人間の女を天狗道に落とすという厳罰を課したという。
 しかし、裏を返せば、その罰を乗り越えれば愛した人は白天狗として生まれ変われる。一緒に添い遂げることができる身になる。そうして夜鳩は妻と共に在る事が出来たという。
「一見、冷たいようじゃけれど、深くその者の事を考えて下さっておる」
 だからか、他の宮が在った頃、他の宮たちはよく七矢を訪ねてきていた。
「七矢。宮さまはお優しいよ」
「うん。知りゆう」
 誇らしく想いながら、なぜ父が独りでいるのかを今度は考えた。夜鳩は宮さまの次に高齢の天狗で昔の話をたくさん知っていた。そして、烏天狗の役目の話になった際、過去に起きた襲撃の事を語ってくれた。宮の座を追われた鶯という天狗が宮を求めて、父と激突した時の話を。
「その時宮さまはいつものお姿ではなく、烏天狗の本来の姿で戦われ、鶯を下した。鶯も敵ながら幸せそうに散った。宮さまは鶯色の髪を散らしながら死にゆく鶯を見つめておった」
「……宮さまにとっては大切な方やったんな」
 しんみり呟くと夜鳩がはっとして言った。
「そういえば、そちの髪色は鶯とよう似ておるなぁ」
「……え」
 烏天狗の髪の色はほぼ黒色といっていい。七矢が特殊なのであって、少しの個性と言えるような黒に他の色が混じった色をしている。父でさえ濃紺に近い色だ。
「鶯色の髪の天狗を、夜鳩さまは鶯のほかに見た事ありますかや」
「ないな。他の天狗でもない。六宮は緑っぽい髪の天狗が仰山おったが……ここまで見事な鶯色にお目にかかったことはないなぁ……」
 夜鳩は記憶をたどって、そして七矢が目を見開いている様子を見て、同じ答えに思い至った。
「まさか、いや、そないな」
 夜鳩が七矢の肩を掴んで否定する。
「七宮や他の宮で鶯を討伐したのは、もう数百年も前のことぞ。そなたの母であったとて、そなたはまだ雛じゃろうが。月日が合わぬよ」
「でも、て……いや、宮さまはてて様なんじゃ。わしのてて様なんじゃ。宮さまが他の誰との間に雛を設ける」
 宮になった時から独りでいたという父。共を連れぬその孤高の姿。己の容姿。父が唯一心を許した相手。父は、漆黒の髪と明るい黄色い目を本来持っている。母は見事な鶯色髪に赤い目。己の姿は鶯色の髪に、明るい黄色い目。父は七宮を統べる烏天狗の長。母は、過去こう言わなかったか。罪を犯して追放されたと。鶯は父が宮になった時に追放された。そして母は七矢の前から姿を消し、戻ってはこなかった。
 ――母は鶯。父によって裏切られ、父によって殺された相手なのだ。
「し、しかし……。七矢、いいか。決してこのことを他の天狗に言ってはならぬ。これは憶測に過ぎぬのじゃから。そなたが宮さまの雛である確証もなければ、母が鶯である可能性はもっと低い」
「でも、てて様は父として共に居てくれたのじゃ」
「はぐれ雛を突き放すようなお方ではない。父と呼んでも構わぬと思うたのかもしれぬ」
 では何故すぐに七宮に連れてこなかった。なぜ共に居てくれた。なぜ母との想い出話しをし、父として愛してくれたのだ。抱きしめ、慈しんで、その多くを語る目で七矢を見つめてくれたのだ。
「そないな、そないなこと……」
 感情的に叫ぼうとして、はっと夜鳩の目を見て察してしまった。夜鳩は七矢を想って押し留めてくれている。父が宮であることも、その父が己の母を殺したことも七矢にとってはつらい。
 なにせ、天狗間で子を儲けることは禁忌なのだから。できないと思われているその常識を覆したことになるのだから。
 天狗が生まれるのは修験道、天狗道を通ったものだけ。天狗同士で子は成せない。
「誰にも言うてはならぬ」
「はい」
 知れ渡れば、七矢は居場所を失う。父もまた、罪を問われてしまう。
 ――もし、己が生まれたことで、母は追放されたのだとしたら。もし、己が生まれたことで父が取った決断が、不幸な過去をもたらしたのだとしたら。……自分は罪の証だ。
 父の目に入るだけで父を傷つけるだけの存在だ。でも母を殺した父を許せない思いもある。母はあんなに父を愛していたのだから。
 もし、本当に愛してくれていたならば、二匹で手を取り合って逃げてくれればよかったのに。そうして天狗の社会も何も関係のない場所で七矢を産み落としてくれたなら。親子で静かに暮らせたなら、七矢にとってそれは最大の幸福になっただろうに。
「なぜ、なぜ……」
 苦鳴が響く。夜鳩は何も云わずに側にだけいてくれた。

 あれから、また数年の月日が経過した。七矢は十分に七宮に慣れた。父と話す機会は全く訪れないまま、ただ日々を過ごした。未だに父の考える事が分からない。でも日々を共に過ごしてわかっていたことはある。
 母は父を深く愛していて、七矢のことも愛してくれた。しかし、七宮に戦いを挑んで死んだ。
 父も深く母を愛していて、七矢のこともまた、愛していた。しかし、母を殺し、七矢に今はもう姿も見せない。
「そろそろのぅ、吾も宮さまの元へ戻ろうかと思うのだが」
 夜鳩がそう告げた。七矢ははっとして老齢の天狗を見る。夜鳩は元々宮さまの側近の天狗。七矢が七宮に慣れるまで、七宮で天狗としての過ごし方を知るまでということだった。
 七矢はもう七宮で生きて行ける。ならば、夜鳩は宮さまの側近に戻ることが妥当だろう。
「そう……ですか」
「そないに、寂しゅう顔をするでない。吾は七矢に会いに来るさかい」
「あ、あの」
 前から考えていたことを、夜鳩に告げよう。彼なら怒る事はないだろうから。
「わしを宮さまの側近に加えていただけないでしょうや」
「……そなたを、かや」
「はい」
「しかし、それを決めるのは吾ではない……」
「そう、ですよな」
 しゅんとして七矢は言う。わからないから、宮としての父を傍で見たかったのだ。そうしたら、答えが出る気がして。――天狗とはどうあるべきか、父の答えを知れる気がした。
「いや。そなたの力は十分に育っておる。ついて来や。反対されたら戻ればよかろう」
「ありがとう存じます」
 七矢は夜鳩に頭を下げた。朗らかに笑って、頭を撫でてくれた。夜鳩にとっても七矢の事を息子の様に想っていてくれるのだろう。七矢は夜鳩の背を追って宮さまの住処へ翼を広げた。
「宮さま。夜鳩ただ今戻りまして候」
「……大義であったな。して、後ろに何かが付いてきよるが」
 久々に見た父は相変わらずで、しかし言動は冷たかった。七矢はぐっと拳に力を込め、下を向く。
「七矢を教育し、気付いたことがありますれば」
「なんね」
「こやつはあまりにも力が大きゅうございます。側近に上げるだけの才能もありますれば、吾の次代として宮さまの側に置いたら如何でしょうや、と思うた次第」
 父は軽く鼻を鳴らした。そして七矢を一瞥し、一言。
「好きにしや」
「有難う存じます」
「有難うございますれば」
 夜鳩が頭を下げたのと同時に七矢も頭を下げる。しかしそれ以上の言葉が父から掛けられることはなかった。それを寂しく想いながら、自分に優しかった父としての父は嘘か真か、とさえ考えてしまった。
「もう、下がりゃ。独りにしてたもれ」
「は」
 紅の背が語ることは何もない。表情さえ伺うことは出来ない。でも、七宮に戻って変わってしまったのだけは事実だ。宮という仮面をかぶったように。
「宮さま」
 思わず口から言葉が出た。久々に父に掛けた声だった。
「何ね」
「宮さまはなぜに仮面をつけてはいらっしゃらぬのです」
 鮮やかな色の衣をまとうのは宮だから。しかし、他の山に行った時、仮面をつけていた。ならなぜ烏天狗の集うこの七宮で彼だけが仮面をつけない。
「……宮だからよ」
 父の返答はそっけなかった。しかしその流麗な顔が少し、ほんの少しだけ歪んだ。伏せられた瞳から感情を読み取ることができない。父は七矢の前ではまっすぐに正面から見つめていた。宮として天狗の前に立つ宮としての父は、遠くを見ていたり、目を伏せていたりすることが多い。その瞳に誰も映さないように。
「ほうですか」
 だから、それが答えな気がした。――全ての。だからもう、月日をあまり必要とはしなかった。宮として過ごす父を見て、独りを好むというのが事実であることは再確認出来た。
 そして宮として在る父の姿を遠目に見るだけで、なんとなく父が天狗をどう考えているのか、父が宮としてどうあろうとしているのか、わかるようだった。
 決して独りになりたいのではないのだ。独りでいることを己に課しているのだということがわかる。だから、独りの空間を邪魔されても邪険にしたりはしない。冷たい、ぶっきらぼうな口の悪さでも父がわざとそうしているのであろうことはなんとなくわかった。
 母が語る想い出の父と七矢と共に過ごした父は重なる。しかし宮として君臨する父の姿は明らかに違う。父はどちらかの姿を偽っているのだ。そして、禁忌を侵してまで、己と云う子供を儲けるほど父は母を愛していたのなら。母も父を愛していたのなら。母の語る父が嘘なわけがない。
 父は宮を演じている。そして、自由に羽を伸ばせないことが天狗として父を縛る。
 ――そして決めや。全てを見、全てを知り、全てにそなたなりの答えが出たら、そうしたら私の前に来や。
 父は別れる前に、七宮に来る前に七矢にこう言った。天狗がどう在るべきか、父が何を秘めているか。最終的な答えを出すためにはまだ足りない。でも、父に対する七矢なりの答えは、出たのだ。
「てて様」
 だから、結界を張って、気付いているであろう父と二人きりの空間を作った。そして、宮さまとは呼ばない。七矢と父だけの、かつての日々のような。
「なした」
 背を向けたままの父が問う。そういえば父だけは宮さまと呼べとは言わなかった。禁忌の子でありながら、父であることを否定すらしなかった。いつも七矢に対しては誠実で在り続けた。
「答えが出たんや。せやから来た」
 配下と宮の関係ではない。今は父と子を求めて。父は振り返る。
 月光を浴びた父は出会った時と変わらず美しかった。七矢は側に寄る。父は慈愛の眼差しで七矢をやはり正面から見つめてくれた。
「ほうか」
「てて様。わしのかか様の名は鶯で間違いないかや」
「せや」
「じゃ、てて様の名は」
「……黒雛」
 この時初めて両親の名前を知った。皆が呼ぶ、宮さまではない答え。おそらく母が愛を込めて呼んだ名。
「てて様がかか様を殺した」
「そうじゃ」
「なぜ」
 穏やかに父は短く答えを返す。その目には寂しさが滲んでいる。
「なぜじゃろうなぁ」
「てて様とかか様は数百年前に別れたのよな。なぜわしはその分歳を取っておらぬのじゃろう」
 父は七矢に向かって手を伸ばす。そして母の形見と言える黒い耳環に触れた。
「かか様、鶯は優れた天狗やった。力は私と同等。鶯はそなたのために一つの術をあの山に施して去った。自分が去ったら山ごと時を止める封印の術を。それが解けるのは私だけ。そう術を込めた、これに」
 全ての謎が解けた。母は父に会わせる為に、山ごと仕掛けを施した。七矢にとって母が去って数日も経たないうちに父が現れたのは、そういうことだったのだ。
「鶯はそなたを形作った。その役目が終えたと知り、私を取り戻そうと七宮へ敵として舞い戻った。私は宮。山に害を成す存在を討つのが役目。鶯を殺したのは私だ。そなたから何もかもを奪ったのは、私」
 父が語る。すでに過去でも父の中では過去ではないのだろう。隠そうとした表情から苦しさが染み出ている。
「ずっと考えておった」
 七矢は静かに父の言葉を待つ。
「私はそなたに何を遺すべきか」
 父は苦笑する。その笑みは自嘲気味で。見ているだけで寂しくなった。
「私はつまらぬものじゃ。しかしこの手では支えきれぬものを持つに至った。これは私の逃げかもしれない。私の解放を願う、ただの逃げ。そう考えれば、そなたに残してやれるものなど、何一つとして……ない」
 紅の袖からのぞく白い手は何かを捧げ持とうとして、途中で崩壊する。
「そなたに遺していいものなど、何もない」
「いらないよ。父親としてじゃない、宮としてでもない。わしはてて様がくれたかけがえのないものをすでに持っているよ。かか様だって、形のあるものをわしに遺してくれたわけじゃない」
 崩れた手を包み込むように両手で握って七矢は告げる。父は少し驚いた顔をしたが、すぐに破顔した。
「ほうか。強い子に育ったの」
「ふふ。そないなこと、ないよ」
 父は微笑む。透明な笑み。消えてしまいそうな儚い笑み。綺麗で触れられない笑み。手に入れたのは母だけ。
「鶯の強さを引き継いだ子に育ったものじゃ。私のつまらぬ所がそなたに引き継がれておらねばよいのじゃが」
 隣にかか様がいたら、自分のどこが父と似ていると言うだろうか。父の優しさと言ってくれたらいい。
「私はいつでも私の尊き者の前では弱いままじゃ。でも、鶯はそれでも笑って許してくれるじゃろう。きっと微笑んで私を受け入れてくれるじゃろう」
「わしだってそうだよ。かか様だけじゃない、てて様の全てを好きだよ」
「ほうか」
 父は別れた時のように、七矢を抱きしめてくれた。視界が真紅に染まる。父のにおいを久々に嗅いだ。安心できる優しい気、優しくて美しくて。儚くて寂しげで。そんな父が大好きだ。
「この耳飾りはもともと鶯のものだったのじゃ」
「え」
 父の耳には赤い耳環がはまっている。
「お互い交換したのじゃよ。黒い髪に黒い耳環では目立たぬと言ってな」
くすくすと懐かしがりながら父が片方を外し、そっと七矢の開いている方の耳に付けた。
「受け取ってくれるかや」
「うん、うん。ありがとう」
 母のものを貰った時同様、つけた瞬間に力を奪い取られる気がした。力封じの耳環だったのだ。
「なぁ、七矢」
「なぁに、てて様」
「私がずっと願ってきたことがあるんや。叶えるには、七矢が不幸になるかもしれぬ。七矢からかか様を奪った私が、今度は七矢の未来を奪うかもしれない。だから、決断は七矢に任せる。全てをそなたの思うようにしや。そなたの思うことが、そなたの意志が全てを決める。そなたにはそれだけの力が在るじゃろう。ゆえに、私のこれから起こす行動をどうか、笑って受け流してくりゃるかえ」
 何を言われるのか、己の未来を不幸にするとまで言われても、その儚い笑みに見つめられたら頷くしかなくて。きっと母もこうやって父に頼まれたら苦笑して頷いただろう。そういうところが愛しいと。
「ええよ」
 そういえば、母も己を独りにするとわかっていたのに、父を求めて死んでしまった。子の幸せを願い、愛しているのは一緒だが、子供を不幸にする両親だ。似たもの夫婦らしい。
「ありがとう、七矢。では最期じゃ。行こうかの」
「え」
 呆然とする七矢の前で父がその立派で美しい漆黒の翼を広げた。
「どこに」
「我らが主、漆黒の間。すなわち道主さまの元へ」

 現すならそれは、ぬばたまの闇。均しく永遠の闇。父の赤い姿でさえ失せる、全てを塗りつくし、全てを消す黒。
「道主さま、七矢、参りました」
「え」
 仮面を付けた父はその場で跪く。七矢もそれに倣うが、父の言葉に驚いた。それは、自分の名では。
「久しいの、七矢」
 どこからともなく声がした。と思うと父を抱き寄せる黒い影が在る。黒い中で一際黒い、 何か。
「して、何用じゃ。そこの雛はなんじゃ」
 父は抱かれたまま、静かに言う。
「私と鶯との間の雛です。ここまで大きゅうなりました」
「なんと、そなた」
 影が驚いている風がある。父はあくまで冷静だ。己の罪を告白したというのに。
「私も老いました。そして道主さま、あなたも老いた。いえ、神であるあなたが老いることはありますまい。相次ぐ宮の消失が、あなたの力を弱めておいでです」
「だから、何ぞ」
 びりびりと来るような気が押し寄せる。しかし、ばっと父が裾を払ったことで、七矢にその気が来ることはなくなった。父が道主と呼んだからには、おそらくここらの山一帯を支配する山神の元に七矢を連れて来たのだ。
「それはある意味であなたも老いたと言えましょうや」
 道主は父が今まさに裏切りを宣言しているように思えたのだろう。威圧感をもって、七矢の前に立ちふさがる。そして、七矢の胸に影で出来たその腕を突き刺した。
「っ」
 吐息を漏らしたのは、父ではなく七矢だった。胸を貫かれても尚、父は穏やかな目をしていた。
「道主さま」
 優しく呼びかける。たじろいだのは神と呼ばれた存在。
「私にも黎明がやってきたのです。ですから幕引きをお願したく参った次第」
「っ。……そなた、どこまで知っておる」
 道主の心を理解した天狗は皆死んだ。それは初代の全てを始めた宮たち。最後の一支が、道主の願いを叶えて死んだ。それ以降、どれほど近くにいても、道主を理解した天狗達はいない。そういう風に刷り込んだのだから。
 なのに、この天狗は。最もひどい仕打ちをした。最も恨んでいるであろう天狗が、時を越えたとでもいうのか。最も優しく透明な笑みを浮かべて、初代の宮と同じ事を言う。
 ――七宮の罪を許すのは、黎明。夜を支配する烏天狗の時間を終わらせ、休息を導く光――。
 初代の七宮にとっての黎明が初代の八宮だったように。
「そなたの黎明が、そやつじゃと」
「はい。七矢と云いますね」
 父が七矢の背を押して暗い何かの前に示す。
「そなたの罪を許し、そなたの暗闇を終わらせると……。それで済む思うてか。そなたの罰が終わると。罪の証を目の前にして、よくもいけしゃぁしゃあと」
「……罪」
 七矢には何の事かわからないが、天狗同士で子を儲けることが罪ならば、父が犯した罪は、母を愛し、母を孕ませたことだろうか。自分の存在が罪ということか。では、罰とは。
「いいえ、終わりですね。宮とは力持つ天狗が成るのが常。よくご覧なされよ、七矢を」
「何」
 父は七矢を見て微笑んだ。
「宮でもないのに、あなたと会える。そして、私と鶯の合いの子ですえ。子が親を越えるのは当然ですわ」
 道主が息を飲む。七矢とて驚いて目を見開いて父を見つめ返した。父はこう言ったのだ。
 七矢は、自分より力を持つ天狗だから、七宮を七矢に譲ると言ったのだ。
「そないなことない。てて様はわしより強かやろ」
「私は老いるばかり。そなたの生は始まったばかりじゃ。私が無駄に生を伸ばしてきたのは、すべてそなたに会うためだったのじゃろう。そなたに会えて、そなたに触れあえて仕合せすぎての……」
「ならぬ。ならぬぞ」
 闇が叫んだ。胸に沈んだ闇の手を父がゆっくり外し、そして七矢に向き直る。父は闇に見向きもせずに七矢を抱きしめる。七矢も闇を忘れて父に縋った。
「いやじゃ、てて様もわしを置いていってしまわれるのかや。やっと、やっと一緒に過ごせるのに」
「不幸にするかもしれぬっていうたじゃろう」
 くすくすと笑う。そんなこと言われたら、そんな表情で言われたら、怒る事も悲しむこともできない。ずるい。
「七矢」
 道主が怒鳴る。七矢は甘い表情を消し去って真面目に闇を見据えた。
「道主さま。もう終いにすべきです」
「そなた罰をか、ずいぶん勝手なことよの」
「いいえ。違います。……道主さま。もう考えぬのはお止めになられよ」
「何」
「あなただけの箱庭。そこに住まう我等は確かにあなたのものなのかもしれませぬ。しかし、ただ死にゆき、あなたに有様を見せるだけの存在でも、日々感じ、日々想うことはありますね。生を残す以前として、個として存在れば、それは失せないものなのです。ここで偽りの世界を演じても何も変わらぬのですよ。全ては同じ」
「だから、何ね。それで構わぬのじゃ。それこそが我の望み」
「さいですか。せばな、変化を望まずとも、あなたがいくら時を数えず歳を取らずとも、そんなことは出来ぬのです。誰もあなたと共には生きられぬ。だからなんですか。なぜ変わることを受け入れ、変わるその大切さから目を逸らすのです。なぜ己には持ち得ぬものを受け入れることが出来ぬのですか」
「そなたに、何がわかると言うのじゃ」
「わかりませぬ。わからぬからこそ、求め合う事もできるのですよ。道主さま、私だけはきっと永遠に近い時を貴方と共に過ごせます。この力故に永遠に山を封じて共に居ることはできましょう。だからこそ、私はそれを望まない」
 七矢には道主さまの顔が見えない。でも、今愕然と絶望していることだけはわかる。刷り込みも、生まれも道主が行った、完全な道主が求めた天狗が、道主のこれまでを否定する。
「あなただけが天狗を見て来たのではありませぬ。私達宮も、この身であなたと共にいた。そして私は己に絶望もしたし、生くることに飽くるほどに永きを生きた。全てを遡るほどに、私もあなたと共に居ったのです。私があなたに受けた罰も、私の罪も、昔を知れば理解できます。でも、理解出来る事と納得できることは違います。あなたがあなたの想うままに、あなたの世界を作りあげたからと云って、それを私達に強要することは断じて許せない。私は鶯の行為を愚かとも想いませぬ。共感さえできますね。しかし、あなたの深淵より深き孤独を知れば、あなただけを責め立てることもできませぬ」
 父が伝えようとしていることを七矢も理解しようと父と闇を交互に見つめる。
「何が言いたいのじゃ、七矢」
「罪、罰、そういう次元ではないのですよ、道主さま。それを論じるには、長い時間が経ちすぎたのです」
「鶯を殺させたわしを許すとな。だからそなたへの罰を取りやめよとでも」
 自嘲したような口調で闇が告げた。父は首を振る。
「言いましたやろ。それは私たちでは論じられぬと。当事者過ぎて物事を客観的に見れませぬ」
 そして七矢を暗闇の矢面に立たせる。え、と七矢が当惑した。
「だから、決断はすべてこの子に託したいのです」
 父がそう言って七矢を抱きしめる。その端から父の姿がゆっくり、ゆっくりと塵と変じていく。
「てて様」
 焦って七矢は父を抱きしめた。
「私は新宮を継承しませぬ。しかしあなたと散ることもしませぬ。全ての決断はこの子に。全ての未来をこの子の決断に委ねます。そうすることで、道主さま。全ての発端となった事象から当時の天狗が先延ばしにした決断を、全ての答えへの答えが、きっと出せます」
「……七矢。そなた……」
 最後まで父の笑みは美しかった。
「私は一支さまのように、全てをあなたに捧げることもできなければ、初代の七夜さまのように全てを犠牲にすることもできませぬ故。最後にやっと私自身の答えを出せたのです。何も譲りはしませぬ。死くらいは己の自由とします。この死でさえ、あなたには譲りませぬ。あなたを連れて黄泉へ旅立てば鶯を怒らせます」
 父はただ微笑むだけ。己の子に未来を預ける事で、始まりの事象でさえ、解決させようとしている。
 ここまで笑みが透き通っているのは、過去だけを見つめる事を止めたから。過去を乗り越えて、未来を、ようやく先を想うことができたから。
 七矢は、七矢と云う己の子供を未来と向き合うことができるようになったから。
「そなたは過去を振り返ることを止めたのかや」
 道主が問う。思えば寂しさから始まって、己の想う世界を作り、それが過ちだと気付いた。それでも過ちを正す勇気は道主にはなかった。誤ったまま、そのまま自然に消えゆくことだけを望んでいた。
 道主を支え、共にいる事を選び、共感した初代の宮たちは過ちこそを正しいと思うように先を示した。始まりを知らぬ後の天狗達は、それが正しいと信じて、忠実にその使命を果たした。
「いいえ、振り返ったからこその、未来です。道主さま。間違いが、過去が過ちとは私は決して想いませぬ。始まりの天狗とあなたが創ったこの世界。閉ざされた暮らしを間違いだとは申しませぬ。しかし、正しいとも言えぬと思うのです。……そう、問題は、正しい間違いという事ではありませぬ。私たち『天狗』がこの先どうあるべきか、その先を決めるのがあなただけという事こそが違うと思いますね」
 父はそう言って七矢の手を取り、もう片方を闇へと伸ばした。
「あなたはたしかに神でしょう。あなたには確かに悠久の時を過ごす定めでしょう。だから己の生を我ら天狗と共に過ごしたい、それは構わぬのです。だが、我らと相容れようとはしない。だから、あなたは寂しい。あなたは独りきりなのです。線引きを己でして、あなたは限られたものとしか触れあわず、ただ眺めるだけ。それでは、あまりにも変わりないではありませぬか」
「しかし、わしはそれで九威と十和を殺してしもうた。共に、近くに居すぎたゆえに」
 七矢は首を振った。永い時をこの神を己の身に封じて生きて来た。それでもこの神はわかっていない。なぜ天狗と天狗の間に生まれ、刷り込みを受けなかった天狗が離れたいと言ったのかを。
「違います。彼らがあなたに相容れなかったのは……」
 父が必死に伝えようとする。七矢は事実を、過去を知らないが、父が天狗達の支配者である神さえも救おうとしていることは伝わって来た。それに己の命を懸け、そして七矢の決断を必要としていることも。
「理解し合うことを怠ったからです。あなたも、そして彼らも。そしてあなたを大切に思うあまり、あなたに流された始まりの天狗達も」
 きっぱりと父が告げる。暗闇が、七矢にもその表情がわかるようになってきた。うっすらと人影だったようなものが、目の前にいるのが小さな女性のような印象を覚えていることが。
「あなたと私達天狗が違うことはあなたが一番わかっていることでしょうや。だからこそ、その違いこそを認め合い、愛しいと思わなければ」
 差しだされた手を暗闇の人影が握る。そして父に抱きついた。
「だからこその七矢です。私が判断するには、私はあなたと共に在り過ぎた。そしてあなたが判断するにも、あなたは悠久の時を過ごし、過去の傷が深すぎる。七矢なら何も知らない。全てを知っても、正しい判断ができましょうや」
「もし、また手を払われたらどないする。わしは激昂して、そやつをくびり殺すやもしれぬぞ」
「させますまい」
 暗闇が一瞬光るほど、父から強烈な気が放たれる。それは一瞬で暗闇を弾いた。それは死してなお、七矢を神をも上回る絶対の守護を父が施したということだ。
「七矢が全てを知って、そして貴方を受け入れることができなくても、それは七矢の判断。七矢の決断を尊重しなければなりませぬ。これは天狗と天狗の間に生まれ、あなたの刷り込みをされていない天狗である七矢だからこそ、その結果が大事なのですよ。その結果がどうであれ、道主さま、あなたは受け入れなければなりまぬ」
 もう一回道主は拒絶されるかもしれない。でも、今度こそその恐怖と向き合わなければならないと。七矢は道主の親にでもなったかのように、道を、未来を示す。手を取り合う事が出来なくても。それが七矢が望んだ未来の生き方なら、山神として、一―生き物として『天狗』を認めなければならない。
「まさか、過去に一番深く囚われよるそなたに、このような事をされようとは思わなんだ」
 道主がそう言う。父は苦笑した。
「天狗と云う我らに一つだけ残念な点があるとすれば、子を成す事を禁じたことですね。道主さま、ご存じありませんでしたやろう。子を想う気持ちは最強ですわ。子の為に動く親ほど強い者はおりませぬ。たとえ、夜を従えた烏天狗が束になろうと、神であるあなたを前にしようと、子を想う親は無敵ですわ」
「ほうか、それは知らなんだ」
「ほうでしょう。私独りなら、ここまで想いませぬ。七矢がいたからこそですよって」
 父はそう言って、暗闇に背を向け、七矢の目線に己を合わせ、そして七矢を真っすぐ覗き込んだ。
「すまなんだな。七矢。そなたの了承なしに、全てを決めてしもうて。親と云いながら私は最後まで自分勝手やった。だからこそ、そなたのこれからに全ての害がないよう、私の全てをそなたに預けてゆくからの。気が向いたら受け取りや」
 七矢は無言で頷いた。言いたいことはたくさんある。疑問も、感情も溢れんばかりだというのに、何も言葉が出てくることはなかった。最後は父の様に口より雄弁に語る目に全てを預けるしかなかった。その眼差しで、父が全てを納得したように、頷く。最後に父はきつく、七矢を抱きしめた。
「ありがとう、七矢。愛している。これからのそなたの生に幸多からんことを」
 父がそう言った刹那、父の身体が光と化して消えた。最後まで美しく、父が目の前から夢のように散る。あまりの眩しさに目蓋の裏に映るその姿には、父と母が並ぶ姿が見えた。
 二人で微笑み、幸せそうに手を取り合って歩み去る姿が。やっと父と母が会えたのだと思うと、そして二人は自分を置いて去って行ってしまうのだと、もう二度と会えないのだと思うと、哀しくて哀しくて。いつしか涙が一筋垂れていた。
「受け取りや。七矢がそなたに望んだ事よ」
 闇から声がして、溢れんばかりの事象が、七矢の頭の中で再生される。天狗の始まり。生まれた天狗達と目の前の山神との暮らし。そして生まれた天狗と天狗の間の子。悲劇。始まった宮という天狗達の群れ。そしてその宮の終焉までの流れ。父と母の間にあった事実。父と母の争いと母の死。父が母を失ってから過ごした日々。宮として永い時間を独りで過ごすことを決めた父。
 すべての過去に起こったことが七矢に流れ込む。父が望んだ事。天狗と天狗の間に生まれた新しい風を、吹かせることができる七矢に求めた決断。
 ――天狗としてどうあるべきか。
 七矢がずっと疑問に感じ、七矢がどう答えを出すか決めかねたこと、その答えが全ての答え。
 過去を知った。多くを語らぬ父がどう生きて来たか、宮と云うもの、天狗と云うもの、道主さまを。どう感じ、どう想って日々生きて来たか。母が父を想い、下した決断とその結果。初代の宮が遺した天狗の在り方。そして原因は別にありながら滅びゆこうとしている天狗という種族と、その暮らし。消え去った宮と、残る宮。本来の天狗たち。それを踏まえての、己が決める未来――。
 七矢は目を開いた。

「宮さま」
 紅の影は今は小さい。数十匹の烏天狗を配下に従え、七番目の山を護る天狗達。七矢の事を皆が宮さまと呼ぶ。
「今日はどうしようか」
「せやなぁ」
 背後を振り返る。肩に止まっているのは黒い烏。烏天狗と烏という組み合わせも面白い。七矢の問いに応えたのはその烏だった。
「人里にでも行ってみるかや」
「夜鳩が許してくれたらやな」
 七矢は笑って古参の天狗の元へと飛んだ。きっと人里に行くとなれば叱られるだろうが、夜鳩に心配されつつ怒られるのが七矢は嫌いではない。
 七矢は父からこの七宮と宮という位をそのまま引き継いだ。しかし、宮だからといって、己の身に道主さまを封じるということはしなかった。
 宮とは、山を八つにわけた山神そのものを己の髪の毛を寄り代とし、己の存在をこの世に縛り付ける名前で同時に山神の存在をも縛ることで己に封じる役目を負っていた。だからこそ、宮には宮だけの号が必要であり、髪の毛を切る必要があった。
 七矢は号を、名をあらためず、髪も切らなかった。道主を己の身に封じず、共に一緒に過ごす身体を作りあげた。
 神の寄り代を、父が消えた光から、父の亡骸の残滓から作り出したのだ。父が永い時を掛けて力をためたその身体を一瞬で塵にしたおかげだった。あの場には父が亡き後も巨大な力が渦巻いていた。それを形と成し、道主の身体としたのだった。
 己を分けたが故に、闇の姿しか取れなくなった道主のための、命を、仮初でも宿す事のできる身体。
 山は護る。七宮はこれまで通り異境とする。結界で護り、山を第一考えることは変わらない。だが、天狗の有様を決めることはしない。有様が己で決める。それを、七矢は道主にも課した。
 ただ、滅びゆくためだけではなく、今度は共に生きる為に日々を苦しみ、悩みそして小さな喜びを見つけて行こうと。神だからと云って隔てることなく、同じ目線で、時には衝突して、時には一緒に笑いあって。
 天狗としてどう在るべきか、ではない。
 自分がどう在るべきか、そして天狗とは何かをいつでも見つめること。――寂しい神様の為だけではなくて。厳密に天狗ではないからといって誰に恥じることが在る。己が己をちゃんと見つめ、自覚し、理解し、そして納得できていたなら、堂々と言えばいい。――己の正体を。
 これが、七矢の決断。七矢の決めた未来。それを今度は道主も一緒に。傍で、共に。

 ここは深い山。生き物が息づき、そして闇がすぐ近くに潜む。
 それでも時代と共に、隔絶された異境も少しずつ変化の兆し。ひらけた山が待ち受ける未来が、吉か凶か。誰もわからない。でも、その決断を過ちとは思いたくない。その決断が例え間違いだったとしても、胸を張って未来を受け入れたい。そのために、確固一つの命を自覚し、己の存在を確立する事。それを他者と共有し合い、理解し合うこと。そして共に生きる。
 ――紅は流す血の色ではない。決して罪科を問うものではない。命を自覚するための、赤――。
 そこは深い闇であり、誰しもその許可なくば、入り込めぬ場所である。此処はいずこなるか、それはこの地に入れるモノしか答えることは叶わない。この地は先に示したように常闇である。奥にずっと続くようだが確かめた者は誰一人として、おらぬ。

 ――今や、確かめる必要がなくなったゆえに。
 闇は闇で在りながらも共に在れる光を見つけた。闇と共に生きる定めを負う者も、己を照らす光を見つけ、闇を照らすことができるようになったのだから。

 『天狗』 終.