毒薬試飲会 003

3.弗化水素 上

005

 ビルのすき間。そこから見える空はない。建物が上に見えるだけ。これがこの場所での常識的な光景。
「俺を訪ねても、無駄だぜ?」
 ビルの壁に背を預ける少年は足音がした方を向いて言った。
「君を探すのに苦労したよ。階層を降りただけで、目も髪も格好も変っているとは思わなかったからね、チェシャ猫」
 少年はいつものように人を小ばかにしたような笑みを向けた。
「俺はチェシャ猫だからな」
「そうだった」
 青年も笑みを返した。
「わかっているんだろう?」
「何をォ?」
「私が君に会いに来た理由を」
 空を仰ぎ、青年の方を見ずに言い放った。
「無駄だァ」
「何が?」
 チェシャ猫は青年に笑って言った。
「教えない」
「理由を問うても?」
「アイツの方が先に俺に頼んだからさァ」
「私に情報を渡さないように、と?」
「まァ、そんなモン」
 にっとチェシャ猫は笑う。
「なるほど、道理で情報が届かぬわけだ。チェシャ猫に掴まれたらオワリ、というわけだ」
 チェシャ猫は何も言わずにニヤニヤ笑った。思わずイラっとくる笑い方にも青年は動じない。
「伝言は伝えてくれるか? 定期的に私の情報を渡しに会っているのだろう?」
「内容によるなァ」
 促されて青年は頷いた。
「『諦めない。私は、お前を諦めない』」
「いいでしょー。伝える。可哀相な男に免じて、タダで」
「有難い」
「あっ! ついでに哀れな男に、別の情報を流してあげてもいい。買うかァ?」
「もちろんだとも」
 青年が爽やかに笑う。
「お前はここまで降りてくる男じゃないよ。お前は上で踏ん反り返ってればいいんだ。ただしィ、『禁じられた遊び』から目を離すなよォ? もうすぐ、うん、すぐだな。お前が気に入るペアが黒星なしで第三階層に台頭してくる。見逃すな」
「わかった」
「俺もそれと同時に階層を登る。見つけやすくなるだろう。その時は、流せる情報も増えるしな」
 去ろうとした青年にもう一声、チェシャ猫が言う。
「ノワール」
「何だ?」
「アイツがどうしてお前から逃げたか、わからないのか? 何故、今も逃げ続けると思う?」
「……それは、」
 青年が悩む。
「前半の答えが分からなきゃ、お前の元には返ってこないだろう。後半の答えが分かれば、お前の元に返らざるを得なくなる。再び、会うまでに考えておけよ」
「わかった。必ず」
 青年は頷いた。
「まいどォー」
 ひらひらと手を振ってチェシャ猫は消えた。

 「毒薬試飲会」

 3・弗化水素・上

「さァ、今宵も盛り上がってまいりましたァ~!! 続いての対戦カードはァ?? ツィンナンバー・79、支配者(ドーミネーター)・フェイ&奴隷(スレイヴァント)・アランVSツインナンバー・88、ドーミネーター・ヘンリー&ドーミネーター・トフィでぇ~す!! 楽しみですねぇ、一体今日はどのようなゲームを見せてくれるのでしょう??」
 向き合う空中に浮かんだ椅子に座った男と女。男は赤い髪をして男の奴隷は男の方が黒い髪、女は青い髪、女の奴隷の方が白い髪、と対照的なペアだった。
「なぁな、お前、どっちに賭ける??」
「オレは疎いからよくわからねぇな」
「だめだなァ、睦月(ムツキ)。賭けるからおもしれーんだろ? やっぱし、オレはアランに賭けるなぁ。友達だもんなぁ。でも、予備で敵のほうにも1口賭けるかなぁ? んー、どうすっかなぁ……」
「お前の言い分聞いてると、本当に友達なのかって疑うよ、僕は」
「えー、何でだよぉ、啓介ェ(ケイスケ)」
「托人(タクト)、お前は友人の勝利を信じていない!! オレはアランに10口賭けたっ!!」
「スゲー! それが本当の、友情かぁ! よっしっ! オレもアランにじゅー……」
「やめておけ」
「奈々也(ナナヤ)も馬鹿だ」
 睦月と啓介が互いにため息をついた。
 こんな観客をかまわず、ゲームは進む。一回目のベットタイムが終わり、奴隷が解放される。
「ゲーム・スタートォオ!!」
 奴隷が中央で激しくぶつかり合う。そして聞こえてくる声。
『汝、殺戮の使徒。我が想いを聞き取りて、血を求めしは強欲の鉄。そなたの名は、大剣!』
「おォっと~、アランが初っ端から、禁術を用いましたァ! 召喚したのは大剣です!! その召喚の速さに少し驚いてェ、ヘンリー、トフィに武器を持たせます。しかぁし、その動きを阻止する気配はフェイにはありません!! 余裕です!!」
『蒼穹の燕、光の如しに進みゆくは我が殺意!汲み取りしは黒曜の煌き。そなたの名は、弓矢!』
「ここでぇ、ヘンリーは弓矢を召喚! 使うのは、トフィではありませぇん!! ドーミネーターです!! ドーミネーター・ヘンリーが矢を番えます。その矢が狙うのはぁ……アランではありませんっ!! フェイです。ドーミネーター同士の一騎打ちですっ!! フェイこれには、どう出る!!?」
『アラン』
 フェイが静かに呼ぶ。
『わかってます! フェイさん。大地より立ち上がりし、鉄壁の壁。何の侵入も叶わぬ防御の要。そなたの名は、盾!!』
「な、なんとぉ! フェイ自分では防ぎません!! 今回、フェイは動かないようです!! これは一体どういう意味なのかァ??」
 放たれた矢がアランの形成した盾に跳ね返る。
『なんですってぇ? じゃ、こっちも本気出しちゃうんだから! トフィ!!』
『わかってるわ、姉さま!!』
『幾人の奴隷が築き上げた天守閣。見下ろすは王たる器、それを壊すは王より偉大な壊滅の圧力。そなたの名は、大砲!!』
 アランから距離をとったトフィの前に大きな大砲が築きあげられようとしていた。
『させるかっ!!』
 アランが低くつぶやき、加速する。
『させるわけ、ないんだからっ!! イゲス、テラス、アヴァス、ラヴァス!!』
 ヘンリーが唱えると同時にアランの足が瞬間的に凍っていく。
『うあぁぁっ!!』
 痛みにうめくアランの目の前で、大砲が完全に姿を現した。
『そんな薄っぺらの盾じゃ、ふせげないんだからっ!』
 ヘンリーが笑って言い、トフィが続ける。
『二人まとめて、死んじゃぇっ!!』
「最大級のピンチです! アランは動けません! どうする、フェイ!!?」
『アラン?』
 静かに、しかし今度はアランの方を向いてフェイが言った。
『すいません~。一回使わせてください』
 それを聞いた刹那、フェイがヘンリーを見返した。
『我が盾は、見えるものにあらず、触れるものにあらず、守るものにあらず、隠すものなり。我はそなたに絶対の信頼を。そなたは我が期待に応えてくれよう、そなたと我らは共にある!! ……汝らは支配を解き放て、そこにいるべき価値はない!! 汝らは、自由!!』
 フェイが言った瞬間に、アランの足の氷が解け、アランが自由になる。フェイの盾がゆっくりと消えうせ、アランが砲弾の軌道から逃げ去った瞬間に、熱を持った砲弾がまっすぐフェイに向かって飛んでいく。
 次の瞬間、誰もがフェイの負けというか、消滅を予見した。しかし飛んでいった砲弾はフェイをすり抜け、背後の壁と衝突し、派手に爆発した。
 一瞬、会場のすべてがそこを見、フェイの姿を探した。しばらくして、砲弾が上げる煙の影からフェイの悠然と佇む姿が確認できた。
『アラン』
 フェイが静かに声を掛けた。アランは頷いて、呆然としている大砲の火口を切り裂いた。火が入らねば撃てない昔の型であったために彼女らの武器は使えない物と化した。そのまま大剣を振り上げ、トフィに迫るアラン。トフィはわれに返って、アランから距離をとる。
「フェイ、あの瞬間に禁術を二つ使っていました!! さすが、早いフェイです! あの瞬間にはフェイはアランが作った盾を加工した術と、アランの足元の氷を瞬時に溶かした術、二つを用いています!! フェイのはじめの術は加工術! 干渉術とでも言うべきものでしょうかァ!? これで盾を使ってフェイは自分の存在確立をかなり低くしたのです!! よってェ、フェイは砲弾に当たらなかったんです!!」
『こんなんで終りじゃないんだからっ!』
『どうかな?』
 ヘンリーの言葉に冷静にフェイが言い返した。ヘンリーは手に残った弓をフェイに向かって構える。
『見えないだけでアランの盾は生きている。君の攻撃は俺には届かないよ』
 その言葉の裏を取るかのようにフェイの身体を矢は通り抜けた。舌打ちの音がして、ヘンリーは下にいるアランに向かって矢を番える。
「おぉっとォ、ここでドーミネーター・ヘンリーがスレイヴァントを攻撃します! それを同じドーミネーターのフェイはどう対応するのか!!?」
『アラン、どうする?』
『大丈夫ッス!』
 アランはフェイを見ずにいい、果敢にトフィに向かっていく。
『いいの? 彼女、まだ武器を持っていないみたいだけど?』
 フェイは静かにヘンリーに告げた。ヘンリーは大剣を振り上げるアランから逃げることしか出来ないパートナーを見る。
『う、うるさいな!!』
『敵の言葉に、耳を傾けないで、姉さま』
『わかってるんだから、トフィは集中して』
『はい、姉さま』
『夜空を皮肉に笑う月の如くに美しい形。空を滑空するは隼の如し。そなたの名は、短剣!』
「ここでフェイに言われた通り、ヘンリー、トフィにナイフを持たせました。ナイフの数は数本、どうやら投げナイフのようです!! 大剣にナイフで立ち向かうのでしょうか!? それには少し心許無い気がしますが、どう攻撃するのでしょうか!!?」
 ナイフを握った瞬間、別人のような身のこなしでトフィは舞い上がる。踊るように、軽々とアランの大剣をよけ、そのままフェイを軌道にとらえた! その次の瞬間に、フェイ目掛けてトフィのナイフが放たれる。
『フェイさん!?』
 しかしその攻撃も、フェイの干渉した盾の前には無意味だった。
『んも~っ!! 禁術じゃなきゃ、ダメってことね!』
 ヘンリーはフェイを睨みつけて、トフィに合図した。トフィは一つ頷いて、標的をアランに変更する。反撃の始まったトフィのナイフは速く、鋭い。アランは身軽ではない大剣。避けるのはアランの番になった。
「トフィ、今度は反撃に移ります! アラン、防戦です。ここでヘンリーに禁力が感じられます。本気で狙われました、どうする、フェイ!」
『アラン、どうするの?』
 精一杯のアランにフェイは何でもないように尋ねる。
『ま、待って下さいッス、今、考えているん、で!!』
『早くしてくれないと、俺死んじゃうんだけどなー』
 余裕のフェイにアランは必死に考える。フェイを殺さずになおかつ、勝てる方法を!!
『レヴェン・レヴァン。イクルディィ、クルンディィ、サトマ、ムハ、ムハ、ムホ、レヴィ……』
「きましたぁあ~!! ヘンリー、ラストスペルです!! どうなってしまうのか? 初の黒星になってしまうのか、フェイ!?」
『思いつきましたっ!』
 アランが叫んで、トフィに向かっていく。警戒と攻撃からトフィが同時にナイフを三本、アラン目掛けて放つ! そのナイフの軌道を見極め、アランは思いっきり大剣を振る!!
 ガキィィンとナイフと大剣が金属音を出し、ナイフがあらぬ方向へと飛んでいく。ナイフの飛ぶ先を見ずに、アランは進んだ。そしてナイフを投げ終わった直後で次のナイフを構えていないトフィに剣を振り上げる。はっと目を見開いてトフィがナイフを投げずに構えた。
『ガハッ!!』
 直後、鮮血が舞う。一瞬、会場が無音になった。
「やりました、アラン! 同時に、ヘンリーとトフィを殺しましたぁぁ!!」
 ヘンリーの最後の瞬間で上がった悲鳴の現場を会場の全てが見損ねた。
「ヘンリー、首をナイフに貫かれましたっ!! 一体いつの間に?? しかし、向かい合う椅子にフェイは動いていません。君臨しています!! フェイ、何かをしたのかぁ!!?」
 フェイの勝利を確信しつつも、納得できない観客にスクリーンが登場し、決定的瞬間のリプレイが流れ出す。
「な、なんと、ヘンリーはトフィのナイフによって首を貫かれています! アランが大剣で弾き返したナイフの軌道と力をフェイが操っていたようです! アラン、自身のけがを恐れず、ナイフの使い手、トフィに玉砕覚悟で挑みましたア! しかし、気力も限界でしょうか? アラン、倒れましたぁぁ~!!」
 トフィはアランの大剣に体を縦一直線に切り裂かれ、絶命し、アランも心臓に一本のナイフを深々と刺され、今、倒れた。スレイヴァントは同時に死んだ。対するドーミネーターはフェイがそんなアランを何も言わずに見下ろした。
『ま、負けないんだから……』
 自身の手で治癒をなんとか施したヘンリーがフェイを見る。
『ま、及第点かな……』
 フェイが呟いて、初めてヘンリーを見つめる。
「お互いのスレイヴァントが死んだ今、ドーミネーターの直接対決です!! どちらが勝利を掴むのでしょうかァ? 禁術の形成が速いフェイが有利か?」
 会場がめったに見ない、ドーミネーターの一騎打ちを見たくて歓声を上げる。
『首の皮、一枚繋がっただけで俺に勝てると思ったら大間違いなんだよ』
 フェイはそう言って一言。
 ――放った。
『弾けろ』
 刹那、繋がったヘンリーの首が爆弾を仕掛けていたかのように内側から弾けた。血が噴出し、ヘンリーは苦痛の声も上げる暇すらなく、首の骨をさらした。
 白い骨に絡まる赤い血液と白い筋、桃色の筋繊維。所々残っている、青黒いのは静脈だろうか。水風船を割った時のように、ヘンリーの首から血は弾け飛んで消え、白い襟元が一瞬で赤黒く染まり、蛇口を閉めそこなったように時々、血が弱々しく脈打つと同時に残った首から垂れている。一部の骨では支えられなくなった首が重力によって時間と共に傾いて、どすんと音を立てて、床に落下し、その衝撃で頭蓋が割れ、脳漿が飛び散った。
「な、なんということでしょうか! 一瞬、一瞬です!! フェイ、鮮やかにヘンリーを下しましたァ! 今宵、勝利の女神は、フェイに口づけ、ヘンリーを拒みましたァァ!!」
 会場がどっと湧く。その歓声が消えないまま会場で全てが靄のように消えうせた。

「お疲れェ」
 フェイの元にシェロウのメンバーが寿ぎを言いに集まった。
「アランはぁ?」
「まだ寝てる。ゲームで死ぬのは初めてだから、ダメージ大きいんだろ」
「ふ~ん。なぁな、今日、お前らしくない戦いだったな」
 托人がフェイに問う。
「そろそろアランに禁術を教えてやってもいい頃だから、教えてて」
「で、実戦で試したのか?」
 フェイの言葉を睦月が続ける。そんなとこ、とフェイが頷いた。
「俺がアランを助けるのは三回。ギリギリ三回」
「それで及第点……。禁術の稽古じゃ、厳しいんじゃね? まるでアランがドーミネーターになりたがってるみたいな、そんな感じだったぜ?」
 奈々也が片方の眉を上げて言う。
「禁術はただ使うんじゃだめなんだよ。ドーミネーター並の広い視野と予測が必要になる」
「ふ~ん」
 托人が納得出来ないように頷きつつ、表情を変えてフェイに言った。
「コレ、俺達の今度のコンサートチケット。アランと二人できてくれよ」
「わかった。ありがとう」
「あのさァ、オレわかったかもー」
 托人の言葉をフェイが聞き返す。
「何が?」
「お前、いつもアランにゲームを任せるのは、自分がやると残酷に殺しちゃうからなんだな」
「なっ!?」
 フェイの隻眼が見開かれ、碧の目が宙を彷徨う。
「あのヘンリーとかいう女、いつゲーム復帰できるんだ?」
 托人の後を引き継ぐかのように睦月が問うた。
「……知らない」
 フェイは下を向いたまま答えた。
「このゲームは人は死なない。でもダメージはその身にちゃんと受ける。受けたダメージに比例してその人間は生活に支障が出る。フェイ、お前は禁術が得意なだけじゃない。……お前、この階層の人間じゃないな?」
 睦月がフェイに言った。
「関係ない」
 フェイが逸らす視線を追って、しかし托人が続けた。
「今度のコンサート、この階層での最後になる。お前が前々から言ってた助言に従うことにしたんだ。俺達は階層を一つ登る。俺ら、お前たちが追ってくるのを待ってるよ」
 行こうぜ、と言ってシェロウはフェイの元から去っていく。
「……お、れは」
 フェイはコンサートチケットを握りしめた。

 目を開けるのが億劫だった。
「よォ」
「……」
 眩しかった。
「……フェ、イさん……?」
「ぶっぶ~。ハズレ」
 ぼんやりと紫色のシルエットが見えて、だんだん輪郭がはっきりし、相手がチェシャ猫だと理解した。
「どーよ。調子は?」
「ん、うーん、体が重い。まだ寝ていたい」
 アランはチェシャ猫と話すのも大儀そうに言った。
「だろぉな。初めてお前、死んだんだから」
「え? 死んだ? 俺が??」
 慌てて飛び起きて、キーンと頭痛が襲う。呻いてまたベッドに倒れこんだ。
「馬鹿、ゲームでだよ」
「……そうだっけ?」
「そー。お前は今回ゲームで初めて死んだ。胸にナイフをぶすり! ま、ギリで心臓には達してなかったらしいぜ。悪運つえぇなー」
「あー、そうだったかも……」
 ぼんやりと白い髪の女に胸を刺されたのを思い出した。しかし女に刺されても大剣を振り下ろした鈍い感触があるから、あの女は殺したとは思うのだが……。
「ゲームは? 勝ったのか?」
「おいおいぃ、お前のツインだろぉ? 信じてねぇのか? フェイを」
「信じてるさ。でも聞いておきたいじゃないか」
「圧勝」
「そっか」
 ほっとして自然に笑みがこぼれ、ここにいない相方に会いたくなった。
「でも、トドメさしたのはお前じゃないぜ?」
「え」
 相手の支配者を殺したのは自分が弾き返したナイフではなかったのか?
「あ、あぁ。確かにフェイさんに軌道修正は頼んだから、そういう意味じゃフェイさんがトドメをさした事に……」
「違うね。あの女はお前の考えた攻撃じゃ、自分で治せたからな。本当に殺したのは、フェイだ」
「……そ、そうなのか?」
 チャシャ猫の手の中で小型の映像デバイスが現れる。10センチ四方の映像媒体が青く光る。コマンドを受け取って稼動する液晶画面にアランは身を乗り出して見つめた。映像はちょうど、アランが死んだところから。フェイがアランを見下ろし、女の支配者が治癒術を自らに施して、フェイに向かって叫ぶ。
 ――『弾けろ』
 フェイの静かな一声。瞬間に噴き上る女の血液と肉片。女の哀れな末路。
「……そ、そんな」
 にやりと笑ったチェシャ猫が手のひらを握り、映像デバイスを消し去って、
「フェイが殺しただろう?」
と言った。その言葉に頷く事も、返事をすることもできなかった。ただ、呆然と今の映像が頭の中でリフレインする。フェイが殺した。その事実は認める。
自分より強いし禁術も使いこなすフェイの事だ。自分より安易にこなせるだろう。しかし、あの殺し方は……。力の差があり過ぎて手加減できなかった殺し方だった。
「どうしてフェイがあんなに強いか教えてやろうか?」
「そ、それは……」
 続きを言えない。
 ――何時だって、アランはフェイのことをぜんぜん知らない。

 フェイと始めて遭ったあの日から、ずっと……。

 赤い髪の毛を生やした男がビルの窓枠に寄り掛かったまま、何時間も動かない。行き倒れなんてよくある話。もうしばらくして、動かなかったら身体をあさりに行こう。
 たいしたものは期待できないけど。体が丸々あるから、死体売買にでも出そうかな。そう思ったのは一時間前の話。もうしばらく間を置いてもよかったんだけど、あんまりおくと夜になっちまって、誰かに獲物を取られるなって思ったから。
 服とか切り裂くために使うナイフを一本もって、男に近づく。こっちが来たことにも気付かないで、男はしきりに片目を押さえたまま、死んでいた。死んでるんだから来たことに気付かないのは当たり前だ。
 近くで見ると、意外と綺麗な赤い髪だった。赤い髪ってだいたいブリーチカラーだったり、髪いじり過ぎて変色したりするやつばっかでパサパサの乾燥ぎみの汚い髪質なんだけど。以外。こいつ、相当金持ちかも。
 だって髪の手入れが出来るんだよ? この階層で髪を念入りに手入れしてるのは娼婦くらいさ。細い腕が目立った。服が汚れている。もしかしたら顔が美形なら(俯いていて分からないんだけど)男の娼婦みたいな立場の奴がポカやらかして逃げてきたのかもな。
 そんなことを考えながら、立ちながら死んだ男を蹴飛ばして、寝転がらせ、死体に馬乗りになって、ナイフで服を切り裂こうをした瞬間、ナイフが吹っ飛んだ。
 次に肩にむちゃくちゃ痛い衝撃。その衝撃だけで俺は死体、もとい、男の上から転がり落ちた。
 男は死んでいなかった。油断していたとはいえ、なんていう速さだ。攻撃に気付かなかった。男は立ち上がって砂埃を払い、俺を見た。
「俺にたかる位だから、自分が襲われても、文句ないよね」
 なんだよ、油断させておいて、逆にカモるタイプかよ。じゃ、分かりやすく道端ですっ転んでろっての。まぎらわしいな。不自然に死んでたらこっちだって近づかないんだよ。
 男が赤い髪をかき上げた瞬間、少し驚いた。
 ――美形だったから。でも蹴られた時の痛みが蘇って簡単に男に抱かれるようなヤツじゃないなぁとも思った。
「すいません。死人と思ってたんで、間違いでしたか」
 一応、弁解しかないと。だって生きてたワケだし。勝手に間違ったのは一応、オレだし。
「そう、ならいいよ」
 へぇっ!? 拍子抜けする位、あっさり男は言って俺の前から回れ右をした。こんなヤツもいるんだぁ、とぼぅっと考えていたら、その男、急に身を折って、自然に倒れた。今度こそ死んだと思って近づいたらやっぱり生きていた。病気持ちか。じゃ、ほっとけば近々死ぬかな?
「どっか痛いんすか?」
「……」
「さっき間違えちゃった詫びのつもりなんで、俺ん家で休みます?」
「……うん」
 男は直に頷いた。ちょっとは疑えよなー。俺は死体目的だけど、もし、奴隷目的とかだったらどーすんの?
 でも男はそんなこと考えていないらしい。苦しそうに浅い呼吸を繰り返し、焦点の合っていない碧の目が俺の顔の上を彷徨った。俺は男を肩に担ぎ上げ、家まで引きずって俺のベッドに放り投げた。
 ――それが俺、アランと男、フェイさんの出会いだった。