毒薬試飲会 014

9.アンフェタミン 中

030

 願わくば、もう一度。
 貴方と恋人未満、友人以上、かけがえのない、その時間を
 過ごしたいと思っていいですか。

 「毒薬試飲会」

 9.アンフェタミン・中

 ワインレッドのシックな赤色を着こなす入矢に丁寧に丁寧にマニキュアを塗っていく。
 最初は脚から。一本一本、ベースコートを塗って乾かし、最高級の真っ赤なマニキュアを塗って丁寧に乾燥させる。
 独特のシンナー臭。光を反射する光沢を持った赤い爪。それにトップコートを重ねて、完璧な輝きを持つ真っ赤な足の爪の出来上がり。
 本当は赤い靴も用意した。でも白い肌に真赤な爪が生える、裸足の方が何倍も素敵だ。
 それに古代の童話みたいに赤い靴を履いた少女は不幸な目にしか合っていない。死ぬまで踊り続けて足を切り落とすとか、誘拐されたとか。まぁ、この足の持ち主は少年だが。
 そして鼻歌を歌いながら指の爪にも丁寧に赤色を塗っていく。白い手に毒々しい赤色は、最高に映える。化粧もしようかと思ったが、これからすることを思い、落ちたらしょうがないなと思い直して口紅だけにとどめる。
 色は勿論赤。口紅の赤はいろいろあって、ただの赤と思っても比較すればその違いがわかる。入矢はジャッポーネアヴェニューに居たのだから、きっとこの種類の紅も使ったことがあるだろう。
 薄く小さい白い皿の上に絵の具を乾燥させたかのような赤い塊がある。わざわざジャッポーネから直輸入した最高の赤だ。今まで封を切ることはなかったが、気絶して死んだような人形めいた入矢にはなぜか使ってやりたくなった。女の子がお人形遊びを楽しむ理由がわかる。
 最高級の紅花から抽出したという赤は光沢によって緑めいて光る。しかしその色はまさしく赤なのだ。隠れた緑色の光沢を持つ深い、赤の紅をすっと唇に塗っていく。すぐに血の気の失せていた唇が健康的で美しく艶を持った赤色になった。
 満足げに眺めて紙を一瞬軽く当てた。完璧だ。化粧は少ない。唇とわずかな朱色のアイシャドーだけ。それでも十分美しい。最高級の人形だ。
「レッド・ジャンキーさま」
「お、準備できたか?」
「はい」
「じゃぁ、ちょっくら階層下ってくるわ」
 入矢を抱きあげてそのまま歩きだす赤狂いの後ろを部下が必至についてくる。
「わずわらしいでしょう? 私がその荷物お運びします」
「いや、入矢は俺が運ぶ」
 驚いたその顔といったら、でもよく考えたら今まで買った男娼、娼婦は一晩抱いたら飽きていた。一晩抱いたらしばらく放っておいて、思い出したら抱くみたいなことをしていた。だから驚いたのかもしれない。
 入矢は面白い。客という概念をわかっているか? と聞きたくなるくらいわがままだ。そして最高に美人でもあった。いや、入矢程度の美形ならこの快楽の土地にはあふれている。美人というファクターが強みになるほどの顔ではない。
 強いて言うならば、人を惹きつける美形なのだ。いままでこの男は何人の人間を堕落させてきたのだろうか。天然の淫魔だ。笑いが止まらない。いつ自分はこの少年に飽きるだろうか。

 ざわめきが聞こえて、意識が浮上する。そのとたんに目が痛んで、一気に覚醒した。体が揺られている。うっすら目を開ければ視界が狭い。そして思い出した。
 眼は抉られた。だから片目しか見えないんだ。おそるおそる手で触れてみる。眼帯の感触がして、一応治癒術式が施されていることを知った。そのとたんに状況を確認しようと見える目を巡らせた。どこかの雑踏を誰かに抱えられて移動しているのはわかるが……。
「お、起きたか、入矢」
 頭の上から聞こえたのは目を抉り、喰った男だった。
「今度は何をするつもりだ?」
 冷やかに問う。もう、この男は殺し決定。問題はいつ殺すかだ。しかし溢れ出す感情と殺気を抑えることなく、入矢は再びレッドジャンキーと相対する。というか視線を合わせる。
「やっぱりな、お前おもしろいよ」
「はぁ?」
 心の底から怒りを滲ませて問い返すとからからと楽しげな笑い声が降ってきた。
「最高だよ、入矢。お前、俺にこれ以上痛いことして欲しいの? もっと従順になった方が利口じゃない?」
「ふざけんのも大概にしろよ、おれはお前の人形じゃねーんだよ」
「でもおれのものだろ?」
 入矢は思い切り睨みあげ、冷ややかに言い放った。
「お前のものなんかになろうと一瞬でも思ったあの時のおれが馬鹿だった」
「言うね。よく逃げる気になんねーな。俺、ここまでセックス中にひどいことしたの入矢が初めてだぜ? 切りつけるとかそれくらいで失神して従順になったヤツばっかなのに入矢ってば根性あんのな」
「殺してやんないとな、俺の気が済まないからな。それに賭けに勝った気でいるみたいだけど、俺まだまだ逃げる気はないぜ? 残念だったな」
「お! 言うね~。それは今からお前に俺がしようとしていることを理解してからの方がいいぜ?」
 入矢はそういえばなぜ抱えられているのかと改めて景色を理解するために眺め、そして愕然とした。瞬きをし、肌でこの場所の空気を感じ取って、レッドジャンキーに向かい、怒鳴り上げる。
「何で、階層を下りたんだ!!」
「お、なんかまずいことでもあんのか? やー、よかったよかった。これでいじめがいも増すってもんだぜ」
 ニタっと唇の端だけを釣り上げて、レッドジャンキーは第三階層のそこそこ広い広場のような場所の中央に入矢を抱いたまま立ち続ける。入矢はこの場所はまずい、と感じた。
 もし彼が住処を変えていなければ、この場所は一番近い広場になる。なぜ、ここで? 何をしようと言うんだろうか、この男は。
 そもそも、いや、この男がアランとの関係まで深く掘り下げることはないはずだ。
「何をする気だ!」
 そして格好を思い出す。今自分はなぜかわからないがひざ丈の赤いワンピースを着せられている。そして、下着は着せられていない。もしや、この男。
「公開セックスしてやろうと思ってさ」
「ふざけるな!!」
 羞恥に怒鳴ったのではない、もしかしたらという可能性が入矢の顔を青ざめさせる。もし、アランに会ってしまったら……!
「放せ!」
 入矢は怒鳴って暴れ始める。ゆったりと広場の噴水に腰掛け、入矢の腰を固定するとレッドジャンキーがにやにやと笑う。入矢はカッとして手を振り上げた。その手は受け止められ、逆に手首を固定させられる。チッと舌打ちした入矢はレッドジャンキーを睨みつけた。
「逃げるのかよ、入矢」
「これとそれとでは話が違う!」
「いいじゃねーか。誰もが入矢を見て興奮すんぜ? お前はきれいだし、エロい。自信をもっていいぜ」
「そんなことを心配してるんじゃない!」
「あのなぁ、入矢。俺はお前が賭けに負けてくれないと困るんだよ。だからお前が逃げてしまいたくなるようなことを喜々として行う。入矢は根性あるから身体を傷つけても無意味ってわかった。お前の白い肌に傷をつけるのは最高に面白いし、満足感が得られるが、目的を達せられないんだったら仕方ねーしな」
「俺はそういう意味で賭けを持ちかけたんじゃないぞ、俺は!」
「制限を付けてねーんだ、こういうやり方もアリだろ?」
 入矢は絶句する。この男、どこまで!!
「もう、いい。殺す!」
 入矢はもともと殺すために身請けした訳だし、と一瞬の感情の乱れから理性や思考を捨て、半ば自棄になりつつ、宣言した。こんな変態にこれ以上付き合うなんてバカのすることさ。
「オイオイ、キレちゃった?」
 入矢の殺気を受け止めてうれしそうに笑うと、レッドジャンキーも微妙に殺気を放ち始めた。
「いいぜ? 弱ったヤツをむりやり犯すのも俺好みだ。でもちょっとは抵抗しろよ?」
 レッドジャンキーはそう言ってほほ笑む。だが入矢はそのほほえみの向こうに見慣れた黒髪の少年を見つけて目を見開いた。その隣には、入矢のもう一人懺悔しなければならない相手とハートの女王を認める。
 どうしよう。自分は二人にかける言葉が決まっていない。詫びも、これからどうするかも決めてない。逃げて逃げて、ただそれだけだ。でもそんなことは許されない。自分の身勝手な事情で二人の人間の人生を変えた罪を償う手段を入矢は知らないのだ。
 そして思考は混乱のピークに達し、入矢は何も考えることなく逃げることを再び選択する。
「そんなに公開セックスがしたいなら、もっといい舞台を用意してよ。ここじゃなくてさ」

 アランは自分の目を疑って、駈け出してしまい、思わず無意識に野次馬をかき分けて、人々が注目している人物を眺めてしまった。
 久々の再会に言葉が出ない。見ない間に髪が伸びていた。美しい光沢をもった真紅の髪が腰のあたりまで無造作に広がっている。長いのにストレートなその髪はフェイさんの行動を阻むことはないようだ。相変わらずに白い肌。だが、ワインレッドの女性が着るようなワンピースを着、裸足の足の赤いペディキュアが目立ってる。
 フェイさんは知らない男と一緒だった。その男と口論をしている場面が野次馬の対象になってしまったようだ。そしてふっと考える。
 あの男は誰だ? ノワールではない。知り合いのようだった。その男に腕をつかまれて、男をにらみ返している。二人の間には殺気が溢れ、この集まった野次馬どもは二人の殺し合いを期待しているのだろう。
「……も、アリだろ?」
 かすかに男の声が聞こえてきた。フェイさんの信じられないといった表情のあと、フェイさんの声。
「もう、いい。殺す」
 殺伐とした声だったが久々に聞けた声でもあった。男はフェイさんの挑発に乗ったようだ。そんな男を挟んでフェイさんは初めて俺に気づいたみたいだった。
 眼がしっかりと俺を見て、そして唇がかすかに震えた後、すっと視線は外されて。フェイさんは男に耳打ちした。

 嫌がっていたと思ったのに、掌を返されたようで当惑する。入矢は真剣にそう言って誘惑していた。赤狂いは嫌がっていたはずなのにどうしたことだろうと考える。入矢の様子をよくよく思い出して、そうして納得してにやっと笑った。
「そうか、知り合いがいるんだな?」
 入矢は思わずヒュっと息を呑んだ。そして即座に思考する。肯定しようものなら嫌がることをしたいのだからこの場所でやることは決定。しかし否定しても結果は同じ気がしてならない。
 この男は入矢をいじめ抜くことに快楽を覚えている。入矢はそんなつもりで賭けに出たのではなかった。入矢にしてみれば自分が暗殺しにきたことのカモフラージュとちょっとした遊びのつもりがとんだ裏目に出た。
「違う」
「いいや、そうだね。眼はそう言ってるよ? 入矢」
「お前が俺の何を知ってるっていうんだ? わかったようなフリをするな」
「ふふっ。それもそうだな。俺たちはまだ出会って三日も経ってない。でもな、入矢。俺は優しいからビッグステージの前のリハーサルといこうぜ? それでお前の本心がわかる」
「お前! 俺の言ったことを覚えているか?」
「何? お前は俺の興奮するようなことを次から次へと言うからな。どれのことだ?」
 入矢はレッドジャンキーからじりっと後退して、そして言い放った。
「抱かれるのが仕事でも……」
「相手は選びたいってか? 逃げるのか? 俺から」
「逃げやしない。でも、抵抗はする。抵抗されるのがお好みなんだろ? 死ななきゃいーけどな!!」
 入矢はそう言って足を突然跳ね上げた。その高速の蹴りに視界がついてこれた人間はおそらく少数。レッドジャンキーは蹴りをモロに受けて浅い噴水の中に頭から突っ込んだ。
 入矢はそのまま自らも噴水の中に突っ込んで拳を振り上げた。野次馬の中から歓声がわく。突然始まった戦闘行為に賭けをしようというものですら出てきた。
「入矢じゃねーか。女かと思った」
 ハーンはそう言ってアランの気を逆なでる。わかっていたことだ。アランが間違えるはずはない。入矢が振り上げたこぶしがさく裂し、派手に水しぶきが上がった。入矢のワインレッドのワンピースが一瞬で濡れて、黒ずんだ赤色に変わっていく。
 入矢の動きが水しぶきが止むと同時に止まり、どうした? と観衆がざわめきだした時、入矢の細うでをしっかりとつかんだまま殴られた男が起き上がる。その顔にダメージは見られない。ニィっと笑った男は入矢に囁く。
「図星だな?」
 入矢はカッとしてもう片方の腕を振り上げた。易々と止められた腕を無理やりひねり上げ、男は片腕でまとめ上げる。無理な拘束に入矢の顔がゆがむ。しかしその表情も一瞬ですぐさま男を睨みあげた。
 男は満足そうに笑うと空いたもう片方の腕で入矢の頭を固定し、むりやり深い口づけを落とす。入矢は抵抗しようとするが抑え込まれた頭がそれを許してはくれない。
 貪られる薄い唇を見てアランは絶句する。そしてその様子をハーンが見ていた。
「んっ、ふ!」
 ぴちゃ、ぴちゃと入矢の口腔を犯す音が聞こえてきた。突然始まった行為に観衆のざわめきが一気に増す。
 そのざわめきの中、アランは入矢だけを見ていた。
 視界が入矢以外、反転したかのように見える。入矢の苦しむ顔、無理やり犯されようとしている入矢だけが。
 ざわざわと体内の血が沸騰するような感覚。
 そしてそのアランを見ていたハーンは、なにかヤバい感じだけを知覚していた。何かしら、アランに変化が起こっている。それはとても好ましいものではない。嫉妬や憎しみの果てに行き着いた、特出した何かに行き着いていってしまった人間が醸し出すモノ。
 ――こいつ、ヤバい。
 ハーンの第六感が告げていた。アランにこれ以上入矢を見せていてはいけないと。なにかわからないが根拠もなにもなく、アランがおかしいということが、そしてその果ての結果が望ましくないことだけが理解できた。
「ってぇ!」
 男が突然、入矢から顔を反らす。腕の拘束はそれでもゆるまない、入矢は顔を背け、口から大量に血を吐きだす男を睥睨し、口から赤い塊を吐き出した。それは男の舌の先だった。
「てめぇ! 入矢ぁあああ!!」
 キスの最中に男の下を噛みちぎるとは、恐ろしい。それが美形が当然のように勝ち誇ってやるのだから、恐ろしさは増す。入矢に文句を言いつつも、男は口から血を流し続ける。
 男の真っ赤な口腔を眺め見て、入矢は言った。
「あんたの好きな赤じゃないか、見れてうれしいだろ?」
「入矢、てめぇ覚悟しろよ、俺を怒らすなんて不幸なヤツだぁ!」
 拘束を解くことなく、男は入矢の腕を捻り上げ、そのまま無理に締め上げる。
「っく」
 入矢の顔が歪み、何をされるか理解したようで対処しようともがき始める。しかし抵抗もあっけなく、重い音と共に再び入矢の腕の関節が外れる音が響いた。
 入矢は今度は悲鳴を上げず、関節が外れたことで緩んだ拘束をいっきに抜け出す。距離を取って、入矢は無理やり外された関節を戻した。その瞬間に痛みに入矢は歯を食いしばる。
「なんだ、この前のは演技か? 関節嵌め直すたぁな!」
「さすがにもう片方もやられたら困るからね!」
 ぶらりと垂らしていた腕を軽く動かす。いくら嵌め直したとはいえ、無理なはずし方とはめ方をしたがゆえにその腕はかなり痛むようだ。手を振ってその痛みを感じ、動かせると認識すると入矢はそのまま男の前から姿を消すかのように素早く攻撃に転じた。
 一撃目は見えなかったようで、男の腹に穴があいている。一瞬遅れて血が流れ始めた。
 男はその赤色を恍惚とした表情で眺めていたが、すぐに全神経を集中させて入矢の動きを補足する。
 二撃目は受け止められた。すぐさま離れようとした入矢の腕をしっかり握りしめ、跳ね上がった蹴りをよけず、男はそのまま入矢の腕を離さずに、腕を回した。
 入矢の身体はその動きにつられ、大きくバランスを崩す。渾身の力で振り回された腕によって入矢の身体が浮かんだ次の瞬間に、入矢は激しく地面に打ち付けられた。
「っ!!」
 声も出なかった。一瞬で決まった大胆かつ乱暴なその動きに観衆も絶句する。男は入矢をそのまま投げ飛ばしたのではない。そのまま入矢をまるで物のように振り下ろしたのだった。それにより、入矢の関節は再び完全に外れ、孤を描いた腕の動きと共に入矢の頭は激しく地面に打ち付けられ、脳を揺さぶられた入矢はそのまま動かない。
 完全に決まったその動きに入矢は気を失い、ぐったりとしている。男はその入矢に向って頬を容赦なく叩いた。
「おぃ、もう終わりか、入矢! もっと抵抗して愉しませろよ!!」
 脳震盪による気絶のため、入矢は眠ったように起き上がらない。
「起きろよ! 入矢!!」
 ガッ、ガッ、ガッ、ガッ、ガッ!!!
 男はこともあろうか、入矢を起こすために、入矢の頭をまるでボールかなにかのようにわしづかみにし、噴水の縁にぶつける。
 重い音に動けない入矢。いつしか楽しげな卑下た男の哄笑が響きわたる。入矢の額は何度か打ち付けられただけでぱっくり割れ、真っ赤な血が入矢の顔中を流れ出す。
 入矢は当然目覚めない。いや、起きることすら不可能なショックを脳に受けている。しばらくして起きないことがわかったか、男は入矢を眺め、真っ赤な血を顔中に塗りたくったかのように流す入矢の傷口を舐め上げた。
 ひどい傷だった。楽しそうにうれしそうに男は入矢の血を舐める。
「やっぱり、赤は最高だぁああ!」
 気を失っている入矢のスカートをたくしあげ、馴らすことすらせずに入矢の後口に男は自らを突き立てた。そして入矢を揺さぶり続ける。
 入矢は抵抗を一切失って、剥き出しの肩が地面と擦れて、擦り傷を容易に作り、新たな血を流していく。頭の出血は止まらず、男は入矢を抱いているのか、顔面真っ赤な人間を抱いているのか判別がつかなくなっていた。
「むごいな」
 ハーンがぽつりと呟いた。しかし、次の瞬間、男が血を噴き上げた。何事かと皆が驚愕する中、真っ赤な顔から爛々と輝く緑色の目が男を睨みあげている。
 入矢の利き腕は外すことなく男の首の頸動脈を切断した。噴水のごとく飛び跳ねる赤色を男はゆっくりと見、一瞬興奮するようにゆったりとほほ笑んだ。
 男はそのまま首筋をなでて禁術を発動し、血を止めると組み敷いた入矢を眺める。頸動脈を切った腕は力なく地面に投げ出され、瞳は閉じられて、再び動くことはなかった。入矢の最後の一撃だったのだろう。
「あぁあああ!! やっぱイイよ、お前はよぉお」
 男はそう言って咆哮するかのように叫ぶと入矢の頭を再び地面に打ち付ける。
「お、い、目、さ、ま、せ、よっ!!!」
 一言づつ頭を打ちつけながら叫び、入矢の後頭部から血が流れ出す。入矢はもう気力も何もかも失い、目を覚まさない。
 観衆が決着をつけた男に向かってヒューと口笛を吹いた。賭け金を回収するものも出始める。
 そう、これは快楽の土地の日常風景。他人の不幸は蜜の味。誰だってそうだ。だが今のアランにとってはそうじゃない。すべての視界が真っ赤に染まる。血が沸騰したかのように全身が熱いのに、心の奥底は冷え切っている。のどがひどく渇いていた。
「……んだ」
「アラン?」
「なに、笑ってんだよ」
 低い声が発せられるがざわめきにかき消され、その声が届いたのはハーンとハートの女王しかいなかった。
「何笑ってんだ! てめーら!!」
 アランが力の限り怒鳴る。そしてその瞬間、ソレは起きた。

「小僧、てめぇが入矢の知り合いか。……何しやがった?」
 入矢を抱いたままの男が低く問う。それもそのはずだ。いままで多くの人間が入矢とレッドジャンキーのやり取りを娯楽として眺めていたのに、この場所に今立ってるのは三人だけ。
 アラン、ハーン、ハートの女王、そしてアランにとっては知らない男。
 入矢は地に倒れ伏したまま、男に抱かれ続けている。それ以外のものが全て赤に染まっていた。
「やめろ」
「ああ? いくら赤好きの俺でもちょとひくぜ、この状況」
 ハーンは信じられない光景を見ている。今まで笑い合い、入矢を娯楽として見ていた人間が、すべて血の塊と化している。
 肉片さえも残らない、大量の血だけを撒き散らしたかのような光景。すべての体細胞が血に返還されたのではないかというほどの圧倒的な量の赤色。
 そう、広場は先ほどまでにぎわい、多くの人が呼吸し、生きていた空間は血に染まった空虚なものへと変質した。
 何が起こったか誰も把握していない。それはハートの女王の爆弾よりもなお悪く、人を塊という単位でさえ生存を許さなかった圧倒的な力。
 人はアランが起こした何かによって一瞬でその体組織を失い、血液だけをその場に残して全員死んだ、というか消滅したのだ。
 ハーンは青ざめてアランの顔を見ている。
「もうやめろ。死んでしまう」
 誰が? 全員がそう思った。人なんて生きていない。
 アランは男に近づいて、そのまま入矢を男の下から引きずり出した。ぐったりした入矢を抱え、ハーンの方を向き直る。
 ハーンは心臓が凍るってこういうのだと後で思い至った。心が恐怖に埋め尽くされる。
 アランがこちらに向かって歩いてくる。ただそれだけなのに、恐ろしかった。今まで見てきたアランは何だったのか。
「治してくれ」
 差し出された入矢の身体を思わず受け取ってしまったのはアランがあまりにも恐怖に思えたからだ。
「「お前、何者だ?」」
 アランと男が同時に問う。男は唇の端をむりやり釣り上げて笑う。
「レッド・ジャンキーだ。てめぇは? 入矢の何だ?」
「こっちが聞きたい。フェイさんにあんなことしてただで済むと思ってんのか?」
「フェイ、だぁ? 小僧、てめー勘違いしてんだろーが、あれは俺が身請けした正真正銘の俺のものだ」
「お前のものなら、あんなことしていいと思ってんのか?」
「ああ」
 そう苦笑いを浮かべた男はアランに絶対零度の視線を向けられて黙る。目の前にいる少年はいたって普通の人間だ。いや、だったはずだ。
 この場所に来たとき、危ない気配を微塵も感じなかったから。なのに、この少年は何だ。
 まるで童話の悪魔みたいだ。人間らしい表情という表情が抜け落ち、純粋な殺意が自分にすべて尖らせた刃のように突き刺さる。
「お前、殺すよ?」
 小首をかしげてアランは恐ろしいまでの無表情で、そう言った。