毒薬試飲会 017

10.ダイオキシン 下

037

 大嫌い、大嫌い、大嫌い、大嫌い、大嫌い、
 大嫌い!

 何度口に乗せてみたって、所詮
 たった一回の、好きには敵わない。

 「毒薬試飲会」

 10.ダイオキシン・下

 ぴちゃん、ぽちゃん。
 続く音はゆっくりでも確実なその音にアランは覚醒を促される。
 水の音? ゆっくりと目を開いて、その場所がコンクリートに囲まれた四角い部屋の中と知る。どこにも水源がないのに、なぜ水の音が響いているんだろう。
 上体を起こすと、知らない場所だった。両手を後ろ手に固定されている以外は特に不自由はなかった。ゆっくり、ゆっくりと覚醒してきて、状況を思い出す。
 確かノワールと戦ったような……それにしても、ここはどこなんだ?
 アランは一緒にいたはずのハーンの姿がないことを不思議に思いながら、立ち上がり、あたりを歩き回る。こんな部屋、アランはいままで来たこともなかった。ただ一面のコンクリートだけなんて、何のための部屋なんだろうか。
 とりあえず、気になった水の音がするほうへ足を向ける。水の音はこの部屋の明かりが届かない、別の部屋から漏れているようだ。細い隙間でつながれた二つの部屋。もうひとつの部屋は暗いが、ここと同じつくりになっているのだろうか。
 アランはそのままわずか片腕が途中までしか入らないような細い隙間に目を凝らす。何も見えない。もっとよく見ようとして、そのまま壁に体を押し付ける。すると音もなく、壁が動き、アランはバランスを崩した。
「うわぁ!」
 なんだ、この仕掛け扉は! 壁が一部切り抜かれ、回転扉になっているのだと、ようやくわかった。扉が半分開いたままなので、光がより多く、もうひとつの部屋に注ぎ込まれる。
 光が届くまでに変わったものはない。ここもアランがいた場所と同じつくりのようだ。そう思って引き返そうとしたが、暗闇の中から水の音は響いている。水の音を確認するくらいならかまわないだろう。光はないが、目は慣れている。
 アランはそう思って音のほうに近寄った。一歩、歩む毎に音は当然大きくなる。そして、何か大きなオブジェのようなものがあって、そこから、水が垂れているのだとアランは知った。
 柱? 棒? そんなものがおそらく高い天井まで伸びているようなオブジェ。暗いから全貌はわからないが。水の音が響くのは、この柱のようなものがよく水をはじくからだろう。
 水の量はさほど多くないように感じる。手探りで水が跳ね返っている場所を探す。手はしばらく柱のような冷たい感触のものをなでていたが、ようやく音がやんだ、と同時に自分の手の上に水を感じた。
「お! ここか……何が垂れてるんだ?」
音 がよく響く原因のもうひとつは、かなり高い位置から水が落ちている様子だからだ。アランは隣の光がここまで照らされていないかと後退してみたが、やはり何も見えない。
「ったく、ここどこだよ?」
 独り言に答えてくれる存在などないが、アランも言わずにはいれない。一人のときは誰しも自分自身に語りかけるものだ。また、光の部屋に戻ろうとしたとき、アランは視界に入ったものを思わず見入った。
「え?」
 それは、水だった。さきほど肌で受けた水だ。その水はただの水ではなかった。赤い。そう、それは誰かの血だ!! アランは急いで先ほどのオブジェに戻った。この柱の上に誰かいる!!
「誰か、いるのか!!」
 誰かの血が垂れていたんだ! アランは柱を叩いた。声の限り呼びかける。でも返事はない。アランが何度目かの呼びかけをした時、この部屋の明かりが灯った。
「!」
「ようこそ、わが屋敷へ。アラン・パラケルスス」
 背後にはいつの間にかノワールが来ていた。アランの頭に自分が気絶する前までの情景が思い出される。
「お前!」
「ああ、やめたほうがいい。君の力は中途半端に制限されている。このままでは危ないよ。今、専門家を呼んであげよう。君の力は私と同じだからね」
「お前、フェイさんをどうした!!?」
 アランは怒りを湛えた瞳をノワールに向けた。ノワールはその問いの答えを指先で示した。
「そこにいるじゃないか」
 アランは指先が示す先にありえないものを見た。オブジェだと思っていたものはとんでもなく悪趣味なものだった。
「お前、フェイさんになんてことを!!」
 大きな柱と思っていたものは、大きな白い巨大な十字架だった。その十字架に磔にされたフェイさんの手首は茨のような鋭い棘状のものがたくさん付いている紐で固定され、手首からゆっくりとだが鮮血が滴っている。
 そう、アランが目を覚ました音はフェイさんの血が垂れる音だったのだ。そして柱より細い棒で体のあちこちを貫かれている。だがそこから出血はない。フェイさんは気絶しているようで、真っ赤な長い髪を垂らしたまま、十字架に磔にされながら、苦行に耐えている。
「彼はなかなか強情でね、私の言うことを聞かない。だから、お仕置きしている最中なのさ」
「フェイさんはお前の奴隷だろ? なんでこんなひどいことすんだよ!?」
「奴隷だからしているんだよ。それにこれくらいでは入矢はへこたれない。身体に対する拷問は翹揺亭でかなり躾けられているから。ちょっとのことでは苦痛には感じないだろう。知っているかい? 彼らは薬物にまで耐性があるんだ」
 ノワールはそう言って笑う。アランにはなんでこんなことを平気でできるのか、男が理解できなかった。
「フェイさん!」
 アランは入矢に刺さっている棒を抜こうと棒を引き始めたが、ビクともしないのだ。動かないというよりかはアランには触れられないと言った方が正しいだろう。
「どうなってんだ? これ」
「無駄だよ。さて、話を戻すが、入矢は身体制御に長けている。だから、本当に苛めたいなら精神攻撃に限る。だから私は君を使おうと思ってね。君に拒否権はないと思ったほうがいい。君がどう行動しようがどれにせよ、入矢を傷つけるからね」
「! てめぇ、何がしたいんだよ!?」
「うん。そう。まずルールを説明しないとね。この装置は実は半分以上禁術でできている。入矢の出血部分である手首と足首しか物理的な攻撃は加えていない。それ以外のものは入矢に神経痛を与えるだけのもので、実際体には物理的に攻撃は加わっていない。つまり、さっき君が抜こうとしてた棒は禁術による入矢にただ傷みを与えるためだけの装置。君は触れることすらできなかっただろう?」
 ノワールはそう言って微笑む。アランはこの男が何をしたいのかさっぱりわからなかった。
「この装置から入矢を助けることができるのは君だけ。私はもう解除できない」
「何? どうすんだよ?」
「簡単だ。君が入矢を抱けば、解除できる」
 アランは何を言われたか、理解できなかった。
「え」
 アランの表情が止まったまま動かなくなった。衝撃に頭の中身が空白になってしまう。
「私は言ったね? 君に一度だけチャンスをあげようと。この機会を逃すともう、君は入矢に会えない。いや、私が会わせない。だから存分に納得するまで話し合い、抱くといい」
「お前、何言ってるんだよ??」
 アランは怒鳴った。確かにフェイさんが好きだ。それは性的な意味でも好きと言える。だけど、求めているのは今じゃないし、同意の上だ。こんな状況を望んでなんかいなかった。しかも強要されて強姦しろ、なんて。
「どうする? 意識がないままで抱くなら、このままにするし、話がしたいなら、無理やり起こすが?」
「ちょっと、待て! お前、本当にフェイさんのこと……愛してるのか?」
「ああ。愛しているよ。とても、とてもね。愛しすぎて、他人の目に触れさせたくはないし、入矢の目には私しか映らなければいいと思うほどに。私はこれでも我慢しているほうなんだ。私以外を見ないで欲しいんだが、なかなかそうもいかない。だから閉じ込めてしまうことにしたんだ。入矢の全てを支配して、私のものだけにするんだ。そのためなら私は入矢に嫌われてもかまわないし、入矢がどれだけ傷ついても構わない」
 アランは絶句した。その言葉を吐く人間の表情はこんなにもゆがんでいるものなのかと。
「なぁ、あんた本当にそれでいいのかよ? 愛されないのに、閉じ込めて、監禁して、拘束してそれでいいのかよ? フェイさん少なくともあんたのこと、好きなんだろ?」
「入矢は私のことなど、好きではないさ。君も見たんだろう? イモムシから私たちの過去を」
 確かに最初は二人の想いは通じていなかった。だが、今もそうとは思えない。
「じゃあ、なんでフェイさんはお前と血約を結んだんだよ?」
 そういった瞬間、ノワールはアランから視線を逸らせた。
「そんなもの……」
 ノワールはそう言って入矢を見上げた後に、言葉を濁した。アランはその真意を確かめようとしたが、それは頭上から響いてきた声によって遮られた。
「アランを巻き込むつもりか、お前は?」
 見上げると、真紅の髪の間から、ゆっくりと禍々しいほどに光る緑色の光がゆっくりと開かれていくところだった。片方の目しか光を灯さない隻眼の青年は、冷たいほどの目をしてノワールを睨みつける。その間に愛はない。
「フェイさん」
「お前が認めないからだよ?」
「認めるわけない、そんなことするくらいなら、俺は……!」
 叫ぶ入矢の両腕から血が迸る。その痛みに美しい顔が歪んだ。
「入矢。お前はアランを巻き込むなと言いたげだが、それこそ無理だし、元はといえばお前が巻き込んだんだろう? この何もなく、平和に妹と暮らしていた少年の日常を引き裂き、道を誤らせたのはお前じゃないか。そんなお前がどんな顔をして巻き込むななどと私に命令する?」
「それは! ……自覚してる。俺はアランを巻き込んだ。だからこそ、今度こそ巻き込むことのないように!」
「所詮、無理だ。彼が君への想いを断ち切れない限り、君を追ってくる。だからこそ断ち切れるよう、お膳立てしてるんじゃないか? それにどうせ君のことだ。……拒めないんだろう? この顔を持つ相手には。だから、私に易々と抱かれて、喘ぐんだろうが!」
「違う! 俺は!!」
「違わない! 君は彼にだって、求められれば股を開く売女のようなものだ」
 ひどく傷ついた顔をしたフェイさんの瞳が再び伏せられる。身体が小刻みに震えているように思える。泣いているんだろうか? あまりにもノワールはフェイさんに対して言い様が、扱いがひどすぎる。愛していると言いながら、逆にフェイさんを追い詰めて、追い落とし、絶望へと導く。
 アランにはその思考が理解できなかった。愛しているなら大事にしたいし、自分が愛しているからこそ、相手にも愛されたいものじゃないだろうか。だからこそ人は愛されるように努力して、自分を磨くものじゃないだろうか。
「……あんた、おかしいよ。どうしてそんなことばっか言えるんだよ? あんた、まるでフェイさんを憎んでるみたいだ。そんなの愛してるって言えないよ」
 ノワールは柔らかく、あきらめたかのような微笑をアランに向けて言った。
「そういう愛し方も……あるのさ」
「愛してるなんて、笑わせるな! お前は俺を愛してるわけじゃないだろ? お前は俺を支配下に置かなきゃいけないだけだ! そうだろう?」
 フェイさんは泣いていなかった。激しくこちらも憎んでいるようだ。
「なら、証明して見せろと何度も言っている。私の愛が偽りかどうか! 君は私を拒めない。君は“私”という存在が感じられる相手に対しては、拒むことができないんだ!」
 ノワールは勝ち誇ったように笑い、そして二人に背を向けた。
「……君は“私”への愛ゆえに私を拒めない」
 ノワールはそう言い残して、この大きな部屋を立ち去った。重く扉が閉まる音がして、アランは入矢と向かい合う。
 入矢はノワールに向けていた目線とは打って変わって穏やかな目つきでアランを見た。
「アラン」
「フェイさん」
 互いに名を呼び合うのも久方ぶりだ。それはとても心地よい挨拶のようなもの。
「すまないな、こちらの事情に巻き込んでしまった」
「いえ。いいんです。ここは……?」
「ああ、ノワールの屋敷だ。地下3階ってとこだろう」
 さすが一緒に暮らしていただけある。こんな何もない場所でどこら辺か位わかるとは。
「あの、フェイさんをその装置から助けたいんですけど、そのためには俺がフェイさんを抱きたいって思わなきゃ解除できないらしくて……。でも、俺はフェイさんとは合意の上でやりたいっていうか! その……」
「あいつが考えそうなことだな。悪趣味な。無理しなくていいから、アラン」
 こう穏やかに会話する間もフェイさんの手首からは血が流れ続ける。アランは心配そうにそれを見上げた。
「心配するな。大丈夫だ。それよりお前は何かされていないか?」
「はい。俺も大丈夫っす」
「よかった。そういえば、その……ハーンは? 知ってるか?」
 アランはそこでふっと思い出した。一緒にいたはずのペアがいないことに。
「いや、俺が起きたときはいませんでした」
「面倒なことするな。さすがだ。手が込んでる」
 入矢は何かを考え込むようなそぶりを見せた後、アランに言った。
「アラン、お前こんなところにいたらもっと巻き込まれる。だからあいつが余裕かましている今のうちに逃げろ」
「え? でもフェイさん」
「俺は大丈夫だ。この程度の禁術、解体は5日もあれば十分できる。お前はこのまま屋敷を抜けてハーンと一緒に第三階層に帰れ」
「フェイさん!」
「これは俺の問題だ。お前が、お前とハーンが巻き込まれなきゃならない理由なんてないんだ」
 自分を気遣ってくれる。フェイさんは別れてから何も変わっていない。やさしいままだ。
 そのやさしさに甘えたままではいけない。自分はフェイさんに許可を得ることなく、彼の過去を見て、知り、そして憎んで絶望した。その事実だってちゃんとアランにはある。
 唐突な別れ。その原因は全て目の前の美しい男が引き起こしたものだ。
 そしてノワールとの関係も自分にはわかっていない。弟っていうのはどういうことなのか? 少なくともアランに家族と呼べた存在はエーシャナ、妹だけだったはず。そして何より、フェイ、いや入矢自身の気持ちと何を考えているかを聞かなければ、アランは前にも進めず、彼から離れることもできない。
 アランは入矢を愛している。それはノワールとは違う愛し方で、ノワールとは同じ呼び方をしても異なる想いだ。でもそれと同時に裏切られたその真意を聞かなければ、とも感じた。
 果たして入矢はアランをどう思っているのか? 利用しただけなのか、否か。アランは聞かねばならない。自分の気持ちに整理をつけるためにも。
「フェイさん、聞きたいことがあります。いいですか?」
 まっすぐ入矢を見上げてアランはずっと別れてから心に仕舞っていた疑問を口にしようと決意する。
「何でも訊け。もともと第三階層についたら言おうと思っていたことだ」
 何を聞かれるか、わかっているのかもしれない。フェイさんという人物と入矢の違い。その両者が揃ってこそ、答えられる疑問の答え。
「どうして、第四階層にいた俺に会いに来たんですか?」
 入矢はその答えを口にする前に一回深呼吸した。入矢の血が一滴、垂れた。そしてこう言う。
「俺はお前を殺すつもりで第四階層に降りた」
 アランが目を見開いた。

 イモムシは長くなるからと言い、簡単なお茶の用意をした。絨毯が敷き詰められて、ふかふかの床に座し、グリフォンは胡坐を掻いて、ニセ海がめは床に寝そべった。それぞれ聞く体制になったとわかったとき、イモムシはお茶を一口飲み干した。
「昔、ずっと昔、惑乱の色彩と黒白の両面と呼ばれた二人の女傑がいたわ。その二人がペアを組んだの。それは至極当然な流れでね、なぜかというと彼女たちは姉妹の契りを交わすほど、仲がよかったからなの。
 惑乱の色彩と黒白の両面はいつしか最強の地位を手に入れて瞬く間に第一階層へと到達したわ。そして第一階層を制覇したの。つまりランク1のゲームをクリアしたというわけね。その偉業はこの快楽の土地中を駆け回って、彼女らの異名が轟いた。第一階層を制覇し終わって、彼女らはやることがなくなり、敵がいなくなった。だから二人は別れたの。
 でもね、本当は第一階層の本当の姿が見えたとき、快楽の土地の姿を見て、彼女たちは違う考えを持った。惑乱の色彩はこのまま、この土地の流れに従い、そのまま身をゆだねて生きていくことにした。でもね、黒白の両面は違ったの。どうして、自由なこの土地に暗黙のうちに認められているルールに従わなくてはいけないのかって。彼女は自由を求め、自由に、自らが求めるままに行動することしたの」
「待ってー、この快楽の土地にある暗黙の了解って何よ?」
「ああ。あなたたちは第一階層から出てくることが少ないからわからないのね。それは階層ごとに仕切られ、実力があるものしか上の階層に登れないことよ」
 イモムシはそう言った。これは無理に上れば死を意味する、暗黙のルールを指している。
 黒白の両面はそれに逆らった。なぜ名前さえも縛られたくないこの土地が、縛られているのか? なぜそれに従う義務を負っているのか。こんな不条理と矛盾を誰が受け入れようか。
「そして彼女は力と地位と金を集めた。彼女は強くなったわ。私たちと同等の力を持つほどにね。そして彼女はこの土地のシステムに牙を向ける日を待っていた。その最中にね、彼は一人の少年に恋をしたの。最初は彼女が道具として扱おうとしか考えていなかった少年よ。彼女は本当に少年に恋をして、それで彼女自身の能力を最大限に使って、どうやっても彼が死なないように、彼が望むように全ての環境を整えた。目的を忘れ、彼女は少年と過ごせれば良いとさえ感じた。自分の能力を隠して、彼女の幸福の日々は続いた」
「でもそれで終わりじゃなかったんでしょ?」
「そうね。彼女にとって最初のイレギュラーが起こった。彼女の人形が一体、盗まれて、売りに出され、裕福な商人に買われたことが一つ目の間違い。彼は名前を与えられ、彼女にとって不本意な目覚めを促された」
 イモムシはそう言って、視線を背けた。
「それが、“ノワール・ステンファニエル”。後に漆黒の黎明と呼ばれるまでに強くなった支配者。彼女が愛した少年に何かが起こったときに、代わりの器として用意していた少年のドールであり、少年のクローンとも呼べる肉体の器。
 彼女は最高の人形を創るために自らが製作する人形には制限を設けていた。一人の人間に対して作れる人形の数は2体。それは彼女の名を示す、黒と白のような表裏のようなもの。その人物の黒面と白面を作り出す、そうすることで姿かたちだけでなく思考回路さえ模倣できる最上級の人形が生み出せる。
 そう、ノワール・ステンファニエルは少年の黒面として生み出されたドール。だからこその“ノワール”だった。彼女は最初ノワールの破棄を考えた。でも少年と彼女の暮らしの場所が第四階層という場所だからこそ、大丈夫。肉体の消失が生じるような事態がくることはないと踏んだ。
 それにブラン、白面の人形は残っている。彼女はそう考えて放っておいた。そして彼女は時の歩みを遅くした少年との生活を続けたの。彼女は悠久の時を少年に内緒のまま、幸せに過ごした。そしてノワールは“ノワール・ステンファニエル”として着実に一人の人間として歩み始めた。彼だけの人生を。それは彼が少年とは確実に違うものになっていく過程だった。
 そうしているうちにノワール・ステンファニエルは入矢と出会ってしまった。そして血約を結んでしまうの。血約を結ばれたら、少年の器として使えない。彼女は想定外の事実に驚いた。もし少年に何かあって、肉体の器を変えたら、その血約が少年に引き継がれてしまう可能性があるからよ。血約は互いの肉体で結ぶもの。それは血を媒介とした深く強いもの。
 血約を結ばれたら人形として使えるか彼女にはわからなかった。彼女が悩んでいる間に二人は第二階層に上っていくわ。そうして想定外のことがまた起こったの」
「今度は何が起こったの?」
 ニセ海がめの言葉にイモムシが悲しげな顔を見せた。

「それって、どういうことっすか?」
 信じられなかった。ノワールと兄弟と言われたからには、ノワールの弟を見たかったとか、そういうノワールがらみの理由なら予想してた。だが、あまりにも違う答えに驚く。
 そして悲しく思う。その衝撃が強すぎて頭を巨大なハンマーで殴られたかのようだ。
「俺は、ノワールと共に暮らして、一緒にゲームに出て、ノワールのことを深く知っていった。ある日、ノワールが何かに悩んでいることに気づいた。そのときは血約もそんなに強くなかったから、ノワールが何を考えているかなんてわからなかった。だから俺なりに考えた。いろいろ観察して、悩んで、そしてまた別のある日に、俺は気づいた。ノワールの中になにかが“いる”と」
 フェイさんの口から語られる言葉。その言葉がどうしたらさっきの言葉にすなわち俺の殺害に繋がるのかわからない。俺は衝撃を受け止め切れないまま、フェイさんの言葉を耳半分に聴いていた。
「それが何かわからなくて、戸惑った。ノワールに聞くことすらできずにいた。それはノワールを観察しているような雰囲気を持っていて、俺はなんでそんなものがノワールの中にいるのかわからなかった。ノワールはその存在に気づいてるんだろうかと考えた。そして多分、ノワールの悩んでいることの原因こそが、この存在ではないかと思い始めた」
「何かがいるってどういうことですか?」
「ノワールを通して誰か、別の何かが俺を見ているんだ。ノワールを通して別の何かが、俺を観察しているんだ。そんな感じがしていた。
 それは気のせいにするにはあまりにも強烈過ぎて、俺は気味が悪かった。俺は時々ノワールがその存在に操られているんではないかと疑いを抱いてしまう。そんな自分がいやで、そんなノワールを信じられない俺が許せなくて、俺は逆にその対象を観察した。
 そして、その存在が禁力を使っていることがわかったから、俺はその禁術を研究した。ノワールに内緒で。ノワールの不安を取り除こうと必死になった。それで俺は、その存在に対して、禁術解体を行った。そうして初めてリアルにその存在を感じた。
 その瞬間、おれには違う情景が見えていた。多分、ノワールを通して観察を行っていた何かが見つめていたものが禁術解体によって俺にも見えたんだと思う。そのとき、俺が見たのが……お前だ。アラン」
 アランは今度こそ息が止まった。あまりの驚きに何を言えばいいのかさえわからなかった。やけに自分の鼓動が大きく聞こえた。