毒薬試飲会 027

17.ストリキニーネ 赤

060

 変化を求めるのに、それを恐れ。
 結局何も変わっていない。
 ……それでも。

 それでも、俺は変わらない日常を選ぶ。
 俺は――。

 「毒薬試飲会」

 17.ストリキニーネ【RED-side】

 第二階層の寂れた教会。これは昔狂った科学者達が実験を繰り返し、人が暮らすことが出来なくなった地域。禁術のおかげで隔離は出来たものの、人が中に脚を踏み入れれば即死はせずとも確実に死ぬことが出来る。
 廃墟と化した街はそのまま残され、禁術で空気さえ遮断された空間は、風さえ吹かない。空気は腐ったように濁り、土埃が舞うことさえない街は、実験の痛々しい跡だけを残して、建物を爆心地から円形に均等に破壊されている。
 教会が寂れつつも姿を残しているのは爆心地から遠かっただけの話だ。その教会の周りは集落があったはずだが、そちらの建物は建物の土台や跡だけを残し、ほぼ姿がない。使われた建築材料の差だろう。
 その教会は亀裂や皹が入っているものの、建物としての姿を残している。破れたステンドグラスや傾いた十字架が教会の名残と言えよう。
 金属製の観音開きの扉を潜れば、朽ちた木に変わり果てた長いすの群れが左右対称にバージンロードのような赤茶色の絨毯を挟んで向かい合う。絨毯の毛は所々抜け落ち、シミも目立つ。おそらく権威を誇っていた次代は真っ赤な美しい絨毯だったろうが、その姿には年月を感じさせられる。
 絨毯をたどると数段の階段があり、無残に倒れたキリスト像が床に倒れ伏した状態で迎えてくれる。おそらく立派な壇上があって、人々の信仰を与えた神父がいれば完璧なつくりになっていたはずだ。
 正面のマリアを模したステンドグラスでさえ、色褪せ、一部掛けているからありがたみがない。その壇上にまるで聖母のように跪く女の姿がある。
「よく頑張ったって、誉めてあげるところか? それとも愚かと笑う場面か?」
 俯く女の口元には珍しく笑み。真っ赤なルージュが魅惑的な艶を持って形をつくる。聖母にしては燕尾服の局部を切り取ったかのような挑戦的な格好で、なぜか頭に白いウサギの耳が生えていた。
 ――当然、聖母でも、教会関係者でもない。青灰の髪が女の表情を半分は隠していたが、確かに彼女は満足そうだった。
 女の膝には少年の頭がある。その少年の頭を撫でながら女は膝枕を崩そうとはしない。長い間そうしているようだが、苦痛はないらしい。
 膝枕をされている少年は反応しない。呼吸もなく、脈もない。死んでいるかのような、というか確実に死んでいる少年。口元にはべっとり血がつき、血を吐いていたとわかる跡。青白くなった顔色には紫色の模様が踊り狂い、全身の刺青へと繋がっている。その刺青を辿ると二の腕から肘に掛けて刺青が集合してもはや模様としての認識が出来なくなっている。つまり、肘から先が真紫色に染め上げられているという、人間としてはなんとも気味の悪い腕だった。
 少年の固く閉じられた瞼はぴくりとも動かない。女はそんな少年を満足そうにずっと撫で続けている。そんな空間を終わらせるようにふっと二人の上に影が差す。確実に目の前に誰か立っているという位置と形の影。それに釣られて女はふっと顔を上げた。
「王様」
 目の前に立っていたのは青年だった。『白』――そう形容するに相応しい全身真っ白な青年だ。髪や目は白く、黒目であるはずの場所でさえ白い。格好も白を基調とした出で立ちで、覗く肌もうっすら白い。
 その青年に向かって女は微笑み返す。青年も挨拶のように女――白ウサギに微笑みかけた。そしてすぐさま膝元の少年に視線を移し、ため息を一つ。
「まったくこの子は……怪我か病でなければ素直に帰ることすらできないのか」
 呆れた調子で呟いて、王と呼ばれた青年は大事そうに少年――チェシャ猫を抱き上げた。力なき体はそのままぐったりとしたまま、王の腕の中で弛緩し続けている。腕の位置を微妙にずらし、首が肩に乗るように王はチェシャ猫の姿勢を整えてやった。死んでいても死後硬直はしていないらしい。
「いけませんよ、王自らお出でになられては……」
 そんな様子の二人を眺め、ウサギは呆れた様子で言う。
「ウサギ。私のネコを心配してはいけないか?」
 チェシャ猫を見つめながら、王は平然と微笑みながら言う。そしてウサギの方を向いて、真面目な調子で言った。
「コレを連れ帰るからには扉は閉じる。いいな?」
「仕方ありませんね」
「後はお前に任せるよ」
 明らかにわかっていた、という調子で言うウサギに王は肩を竦め、頼むという動作をした。しかし、その直後視線が鋭くなる。まるで仇が見えているような様子でウサギの背後をにらみ、言う。急に悪寒が襲うように、青年から殺気が溢れ出す。青年が怒っている証だ。
「……で? 誰なんだ? 私のネコをこんな目に合わせたのは?」
 ウサギはそんな嫉妬丸出しの青年の様子を軽く流して、答えた。
「ご安心ください。貴方が出ることなく片は着きます」
 それを聞いて王は殺気を仕舞う。それだけ彼女の事を信頼しているのだろう。たとえ怒り狂うような場面でも、彼女が諌めればおとなしく従うような間柄なのかもしれない。
 青年はそうして怒りを上手に消すとウサギから視線を外し、脚をウサギとは違う方向に向けた。それを見てウサギも立ち上がる。三人の姿はその直後消えていた。
 ――もう、こんな場所に用はない、と体現するかのように。

 ――第一階層。
 快楽の土地とは思えぬほどに、青い空と、緑の大地が広がっている、まるで古代の童話に出て来た古の景色が広がる場所。浅く刈った芝に、整えられた樹木と草花。広大な庭園の先にたたずむ、城。
 城の出入り口には甲冑姿の兵士が姿勢正しく槍を構えていざという時の為に警備を続けている。快楽の土地とは思えない、かけ離れた光景に下の階層から来たものなら夢でも見ていると思うか、別世界に来たと疑わないだろう。
 未だに息を吹き返さないチェシャ猫を抱えた青年は白ウサギを連れて、城の一角に降り立った。広々とした城の内部には、多くの者がそれぞれの仕事をしているが、誰にも会うことはなく、目的の場所にたどり着く。
「では、私はここで」
「え? 君ももう行くのかい? ゆっくりしていけばいい。せっかく三人そろったんだ」
「いえ。王様はネコのお世話がお忙しいでしょう?」
 くすくすと白ウサギは笑って、大事そうに未だ抱える少年を指差した。
「んー。まぁそうだけれど」
「王様? 私はいつでも貴方のおそばに居ります。だから、反抗期のネコをしっかりしつけてやって下さいな。死ぬのが今回初めてではないそうですよ? 二回ほど死んだとイモムシが」
 王と呼ばれた青年は肩をすくめた。事実、腕の中の少年は息をしておらず、鼓動もない。身体も冷たくなっている。
「わかった。じゃ、くれぐれも仕返しはしっかり頼むよ」
「はい。よしなに」
 ウサギはそう言うとそのまま広い部屋を退出した。王はウサギが去った後、笑ってチェシャ猫の身体を抱えたまま、ある場所に歩いて行く。
 広すぎるこの部屋は、何でもそろっているらしく、部屋の隅に浴室が付いている。その浴室にはすでに温かい湯がバスタブに張られており、ほこほこと湯気を立てていた。
 二人がその場所に足を踏み入れると、どういうつくりなのか、壁が出来て、その壁から生えたシャワーヘッドからあたたかなお湯が雨のように降り注ぐ。そしてまた、どこから出来たか、床の一部にできた排水溝に流れていくのだ。
 靴を脱ぎ捨てた王は、一角だけがタイル張りになっているその場所に王はチェシャ猫を優しく横たえる。ぐったりしたままぴくりとも動かないチェシャ猫を上から覗き込んだ。
「まったく、他人のにおいを残して帰るとは」
 王はそのままチェシャ猫の襟元を彩る黒いリボンを引き抜いた。リボンを離し、床に捨てた瞬間そのリボンは流れるお湯に溶けてそのままインクの様に黒い液体となって流れ消え去る。腰に付いていたカバンを外すと、それは浴室になっていない場所へと投げ捨てる。少したってぼすんという音が響いた。右足の銃も同様に投げる。
「他に消して怒られるものはあったかなぁ?」
 一度チェシャ猫の身体を眺めると、ああ、と手を打った。
「時計はウサギと同期させてるんだっけ?」
 左腕の赤いシンプルな腕時計を外し、投げ捨てると今度こそ満足して王は頷いた。
 ブーツに手をかけ、くるぶし辺りにある留め金を外し、靴を脱がせてぽいっとシャワーの真下の辺りに投げ捨てる。ブーツは熱湯を掛けられた氷のようにすぐさま形を失って流れていく。黒いショートパンツに吊られている赤い片足だけの留め具を外し、紫と黒のボーダー柄のレッグウォーマーをするりと脚から抜く。
「うわぁ。毎回よくやるね」
 形は綺麗だが、両足ともグロテスクな紫色に染まった、人とは思えない脚が現れる。万人が見て吐き気をもよおすような色だった。おそらくほとんどの人間がその姿を目にいれた瞬間、嫌悪感に顔を背け、その後で視界から追い出してなおその強烈すぎる印象を忘れられずに憎みそうな紫の肌色。人間の身体を表す色とは到底思えない。
「こりゃ、身体もだね」
 王は口元を笑みに変えて、右手をチェシャ猫の上に置く。そのまま、身体を撫でるように動かすと、チェシャ猫の服がまるで砂の造形の様に一瞬で形を失う。そのまま、液体となって身体の上を滑り落ちていく。
 あまりに簡単なほどに全裸になったチェシャ猫の身体を王がまじまじと観察する。それは観察と言うよりかは視姦しているようなまとわりつく視線だ。
 顔のフェイスペイントは普段なら目の下から顎までを描くが、それは首まで伸び、肩で両腕の紫色と結びついて一種の模様と化している。首元で草の蔦のようにゆるく円を描いたりしながら胸まで伸びた紫色の何かは一部腰まであった。両足の紫色も脚を全て紫色に染め上げた上で、腰の辺りから胸同様の模様を描いている。
 今のチェシャ猫は両腕と両足、一部の胸と腰が紫色に染まっている。彼本来の肌の色を残している部分は臍から上で胃がある辺りから下だけだ。そこも唐草模様を緩くしたような草の蔦のような紫色の何かが這いまわっている。
「今回は特にひどい」
 チェシャ猫を抱き起すと、おもむろにその薄い唇に王の唇を寄せる。下唇を吸い、惰性で開いた唇の中に己の舌をねじ込む。舌で口をこじ開けて、収縮している舌を温めるように舐める。唾液が分泌されていない死体では、己の唾液を絡ませても濡れた音一つ立てない。
「はぁ」
 王が吐息を零して、己の唾液をチェシャ猫に送り込み続ける。後頭部をささえ、向きを絶えず変えてチェシャ猫の口腔内を舐めつくすかのように、歯列を順に舐め、舌を食らうかのように吸い、ようやくチェシャ猫の口腔内が王の唾液で満たされる。
 しかし、唾液を飲み干すことも出来ない死体は、重力に従って、だらりと口の端から唾液を零す。それを見て王はやっと唇を離した。己しか息が上がらない。死体のチェシャ猫はそのまま口腔内に残っていた血が溶けだした汚れた唾液を垂れ流す。
「血の味。ネコの血の味だね」
 微笑んで己の唾液を垂らす口の端に再び口づけて、そのまま首筋を舐めてたどっていく。万人が嫌悪するであろう紫色の模様を描く場所も構わず舐めると、ゆるりとその模様が舐められた直後に動いた。服同様に溶けだすかのように、滲むように動く。
 片手で頭を支え、そのままもう片方の手をチェシャ猫の下半身に這わせていく。その腕の動きに合わせるように紫色に染まった肌が、肌色のインクを滲ませるように紫色を溶かしていく。
 王はそのまま彼が息をしていれば反応するであろう場所を舐め、可愛がる。しかし、死んでいる今のチェシャ猫は反応しない。
「ったく、ちっとも消えない」
 王はそう言ってため息をつくと、チェシャ猫の脚を片方己の肩に担ぎあげる。そして本人の意識がないのをいい事に、無遠慮に秘部を覗き込んだ。指をまとめて何本か丹念に舐めると、そのまま秘部に指を突っ込む。
 初めて濡れた音が行動に帰って来た。グチ、という粘着質な音を立てて、白い液体がこぼれ出る。他人の残滓を掻き出すことに集中しながら、口から洩れる愚痴は仕方ないと言った様子。
「帰ってきて恋人に他人の後始末をさせるってどういうつもりなんだか」
 そう言いながら行為は止めない。
「あー、むしゃくしゃしてきた。口の中に突っ込んでやって、目覚めたら最悪のお味を試してやろうか」
 口淫をむりやりさせようとか考えているらしい。あらかた掻き出すと、シャワーを握り、周囲を綺麗にし、わずかなお湯で内部まで洗ってやる。己の指にも白い粘っこい液体が絡まなくなったのを満足そうに見て、頷く。そうして、もう一度チェシャ猫に口づけた。
「早く起きなよ、ネコ」
 くすり、と笑い、そのまま反応の無い死体に向かって己の怒張を付きつけ、一気に貫く。
 今まで掻き出しながらほぐしていたこともあって、内部はすんなり王自身を迎え入れた。しかし、死体なだけあって締め付けなどはない。冷たい肉が己をゆるく包む感覚だけがある。だけど、その温度差が興奮を呼んで、反応しない身体に性的興奮を覚えてしまう。
 馬鹿な位好き勝手身体を揺さぶって、動かない身体を己の好きなように無理やり動かして己の快感を得る事だけを目的にする。肉と肉がぶつかり合う音が立つが、激しい吐息が漏れる口は己のみ。甘い声は一切なく、己を天へ昇らせるその反応もない。それでも王は腰を動かし、チェシャ猫に俺の欲をぶつける。
 はっはっと己の息だけが切れ、己の汗が冷たい身体の上で弾けた。特有の震えと快感を得て、一瞬王の動きがとまる。
「はぁー」
 一瞬の痙攣の後に、長く吐き出される息。己の精液をチェシャ猫に注ぎ込む。今までの行為を無駄にするような行いだが、一瞬の快楽は得られた。己を突き刺したまま、弛緩したままの身体を眺める。
 紫色と肌の色が混じったままだ。チェシャ猫の腕を取り、そのまま人差し指に軽く口づける。そして、口づけたままチェシャ猫を支配する紫色をにらんだ。
「退け(のけ)」
 低く、王が呟く。それだけで、ざぁっと口づけた人差し指から紫色が恐れをなしたように、引いていった。その速度は驚くほどで瞬時にチェシャ猫の身体の上から紫色が失せていく。王が唇を離した頃には、見慣れた肌の色をした少年の未発達だが、それゆえに色を放つ肢体が横たわっていた。
「うん」
 満足そうに微笑み、再び今度は己が汚した身体を清め、王はやっとチェシャ猫の身体を抱きかかえると、バスタブの中に浸した。
 冷たい死体をお湯で温めるように、チェシャ猫をバスタブに横たえて満足げに、突然現れたシャンプー等を手にとって、チェシャ猫の髪を洗っていく。それはそれはたのしそうに。
 洗髪から身体を洗うなどと言った一連の行動が終わると、どこからかとりだした爪切りで、長く伸びた爪を切り、整える。
 それは己をペットを美しくする事で自己満足を得る飼い主の様。それが終わると髪を梳き、長さを整え、完璧な状態に己の手で仕立てあげていく。
「うん、キレイ」
 満足そうに何度も頷くと、バスタブからチェシャ猫の身を抱き上げた。長い間浸かっていたその身は、生きていると錯覚するほどに温まっていた。そのまま浴室となっている一角から脚を踏みだすと、自動的にバスタオルが出てくる。当然のようにそれを使ってチェシャ猫を丁寧に拭き、ドライヤーなどもかけて櫛で梳く。
 もともと造形が整っている少年だけあって、ちゃんと身なりを整えてやれば美しい色艶を取り戻す。後は血の気が差せば完壁なのだが、王が相手にしているのは死体である。願っても無理な話だ。
 湯上りのチェシャ猫の身体を抱きかかえ、別の一角に向かうと大きな天蓋つきベッドが現れる。全裸のままのチェシャ猫を横たえ、掛け布団をしっかり肩まで掛けてやる。自身はその隣に座り込み、満足そうにしばらく飽きもせずにチェシャ猫を眺めると、額と額をくっつけあった。
 軽く口づけをおとし、そして最後に囁く。
「おかえり、ネコ」
 次の瞬間、すーっという『寝息』が聞こえて来た。いつの間にか胸も上下している。チェシャ猫が息を吹き返したのだ!
「うん」
 最後に満面の笑みを浮かべると王はベッドから離れた。みるみるうちに血が通い、健康そうな肌の色が戻ってくる。
 それを確認した王はやっとチェシャ猫の傍から離れた。

「んっ」
 まどろみから目覚めて、チェシャ猫は目をあける。眩しい。そう感じた。そして全身から狂うような、独特のあの感覚が消えている。それに気付いてチェシャ猫は周囲に視線を走らせた。
 自分が意識を失う前までは、第二階層のあの場所にいた。うす暗く、人が近寄らないような埃とカビ臭い場所で、青い地獄と魔眼の射手に強姦された。その後で無理をして黄色い虐殺者と無色の透明の両名を白ウサギと共に第一階層まで送ろうとしたところまでは覚えている。その後の記憶がない。
 ハーンとアランは無事に第一階層に行ったのだろうか? 白ウサギが共にいたのならば、失敗するようなことはないはずだが。
 思考から抜け出して改めて部屋を見る。白い天井、日の差す白いカーテンの揺れる部屋。見慣れた光景だ。どこの成金趣味だ、と言わんばかりの天蓋つきキングサイズのベッドに寝かされていることでまず間違いない。
 ――戻って来たのだ。いや、帰ってきてしまった、という方が正しいか。その証拠に翳した手は本来の健康的な色をしている。少し前まで紫色だったとは思えないほどに。
「チッ!」
「舌打ちはないだろ? 楽にしてやったのに」
 思わず出た舌打ちに応える声があった。聞きなれている、恋焦がれたような懐かしい声色。ああ、本当に帰って来た。
「意識がねーのにヤるからだよ」
 背後に青年が座ったのが、ベッドが沈んだ事でも、声が近づいたことでもわかる。振り向かなくてもどんな顔をしているかわかる。きっと微笑んでいる。だから、普通に、普通に接する。いつものように。身を起して、軽口を叩く。
「あんた、俺の死体でも相手に出来るだろ?」
「ああ、勃つね」
 即答かよ。ムカっとしてチェシャ猫は青年を睨む。それにしても、本当に久しぶりに帰って来た。自分が住む事を許された場所に、自分に与えられた部屋に。だが、全裸でベッドに入っているし、妙に身体がだるく、あつく、覚えのある感じが残っている。そこから叩きだされる事は一つ。
 こいつ、俺の意識がない間に俺を抱いたな。正確に言うと意識がないだけではなくて、実際死んでいたので死体を普通に相手にしていたことになるのだが、チェシャ猫の感覚からすると死んだというよりは意識を失っていた、というのが正しい。
「チ! 嫌味通じねーな」
 そう、そんな事を恥じたり、悪いなぁなんて思っていたら最初からしません。
「一応、元を正せば、お前が悪いんだよ?」
 青年がそう言って笑う。チェシャ猫の身を勝手にしたことの正当性を誇るように、悪びれもなく答える青年。青年は絶えず、チェシャ猫の身を案じていた。辛くなったらすぐに帰れと何度も言われた。チェシャ猫は青年の目を見返した。
「だって、俺は――!」
 しかし、その微笑みで返す言葉が封じられてしまう。お前の理由など、関係ないと言われた気がした。
「王様」
 チェシャ猫は真面目な顔をして言う。
「俺の望みは、あんたの望みだ」
 青年が、微笑みをやめて、無表情でチェシャ猫を見る。
「それを叶える!」
 だから、チェシャ猫も己の行動を反省していないと、言外ににじませる。お前が俺を縛る事は、お前が居る限り不可能なのだと。
「――」
 青年が眉間にしわを寄せて、いらついた顔を隠そうと苦笑する。
 ――ここは第一階層。お城の一室。チェシャ猫の為に目の前の青年、すなわち王が与えた部屋。
 チェシャ猫は彼を王様と呼ぶ。王様は飼い猫であるチェシャ猫を『私の猫』との意味を込めて、「ネコ」と呼ぶ。チェシャ猫を好き勝手する権利を有する、チェシャ猫の唯一の存在――主。チェシャ猫のご主人さまだ。
 それは、人と人の関係ではなく、まさしく人と猫のような愛玩動物に対する関係と等しい。対等に見えてきっぱり線引きをしている。
 王はチェシャ猫をペットのように、傍に置きたがる。だが、チェシャ猫は自由な猫の精神に則ったわけではないが、王のそばに侍る事は好まない。どうしても、というときでなければ第一階層には帰らない。それを叱られたり、怒られたりした事はないが、不満に思っている事は知っている。
「私の願いはお前の願いか……」
 王が呟く。王も反論できずに、言葉を探している。そして人差し指でチェシャ猫の顎を掬い、チェシャ猫の目を覗き込んだ。何かを思いついた目をされて、チェシャ猫が不安げにその目を見返す。それが余計楽しそうに王は嗤う。
「なら、私の現在(イマ)の望みを叶えて貰おうか」
 王がそう言って顔をチェシャ猫の方に近づけた。チェシャ猫はすぐさまに何をしようとしているかを理解し、それに応えるかのように目を細め、されるにまかせようとする。が、視線が絡み合った瞬間に、ばかばかしさに互いに笑い声をあげた。
 ひとしきり笑った後で、チェシャ猫が王を見上げた。くいくい、と人差し指で王に来い、とジェスチャーを送る。
「イイぜ? 来いよ」
 誘惑するかのように、チェシャ猫が微笑む。王も微笑んで今度こそ、チェシャ猫に覆いかぶさる。

 ――重なるは、唇。求め合うのは―躰。繋がるのは、触れあうのは……何?